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鷹目遊里史板
453
:
黄線
:2009/02/15(日) 15:52:23
「福原遊廓沿革誌」 2
3.〜花代と線香代の謂はれ〜
一説には、花代の謂われは平家の落人である女官達が一門の菩提を弔うために必要な線香料と花料に苦しみ最後のものを提供したことが起こりである。
4.〜新設福原遊廓の地域〜
佐野は専崎らから遊廓開基に要する資金を得る。そして現在の神戸駅構内の土地に五軒一棟の長屋を二棟建築しこれを出願連署の十名に貸すことが決まる。開所後に必要とされる町年寄りはいやがる専崎が祭り上げられた。遊廓には会所とそこに詰める者が必要との要求があったため、専崎は専崎方に寄宿していた藤田泰蔵が遊郭事務について明るいので会所の役員にする。藤田泰蔵が表に立つこととなった理由である。
5.〜福原新遊女屋町の開業〜
福原遊廓の開業日は明治元年五月一日説と十二月説(「神戸開港三十年史」)がある。著者は五月説。理由は明治元年九月十日に発行された「もしほ草」第二十三編に福原遊廓の繁盛について既に書かれているため。それによると、夜鷹や醜婦のみがおよそ百名。揚代金は一夜日本人が一分、西洋人が二分。西洋人は水夫、火焚など。ほかに黒人、中国人。日本人は日雇人足などで賑わう。
6.〜開業当時の廓内の情景〜
開業当時の店の構えは間口三間、奥行き七間。三畳敷きの部屋に中敷きを入れる割床式。花代はよく売れるのが一夜三分、下等が二分、西洋人は一ドル。
明治二年三月頃に大店、中店が二十軒完成。大門は宇治川に面して建てられる。遊女数は二百八十名。藤田泰蔵は吉原の廓内事情に明るく、会所を廓内取り締まりの事務所とし、車馬の通行を禁じ、夜警、消防人足に警らさせるなど、吉原遊廓を参考にした。遊女一人の運上(税)は月に一分二朱。また前述の二十軒とは別に南京茶屋という中国人専門の引手茶屋のような役割の店があった。検番もあり芸妓がおよそ三十名。芸妓の運用は厳格で売春は厳禁。花代は一貫文。
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