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鷹目遊里史板

171今里X:2007/02/07(水) 21:30:48
夢よもう一度
『ひらかた散歩』という本に昭和三十三年以降の櫻新地のようすが書かれたがあったので、関連部分を抜粋して下記に転載します。
もともとは枚方新聞に連載していたものをまとめて出版したそうで、他の記事も簡潔で読みやすく枚方周辺の紹介をされてるので、図書館や古書であればおすすめです。
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廓の町「桜新地」より

 明治の文明開化も、四民平等、女性解放にはいたらず、それらの娼家を風紀上よろしくないと、淀川大橋詰の一画に移されたのは明治も末の四十二年三月のこと。そのころ、竹川堤といわれた淀川の堤防には美しいサクラ並木があったので「桜新地」と名付けられた。

 そしてこの付近は、上流の橋本や中書島遊廓などとともに淀川べりの歓楽街として栄えた。とくに枚方は、芸妓もかかえ格式も高く、枚方菊人形が開園された当初は、アトラクションの菊おどりに彼女たちが競演し、観光枚方の情緒をたかめる役割もはたしていたらしい。

 こうして、赤線はなやかな昭和の盛んなときには置屋四十数軒、接客婦百数十人を数える不夜城のにぎわいをみせていた枚方遊廓も、ついにその長い伝統の灯を消し、接客婦たちを解放させられることになった。昭和三十三年四月に実施された「売春防止法」のためである。しかし、管理売春(単独売春)の取締まりだけに重点を置いたザル法---注目された下宿街への転向も、業者の死活問題などにからみいつしかもとの芸妓街へと復活。

 いま健全な歓楽街へ桜町と名を改めた通りをゆくと、スタンド、料亭といった新しい看板のミセもみられるが、どの家も構えはむかしのままの紅柄(べにがら)格子。なかには夢よもう一度と思わせるようなミセまである。だが、客があるのかないのか、ひっそりと閉ざされたその出格子のうちは暗く、はなやいだ脂粉のざわめきならぬ一種の妖気すら漂よっていると感じさせられるのだ。

昭和42年2月

『ひらかた散歩』枚方新聞社 昭和54年


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