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鷹目遊里史板

451黄線:2009/02/13(金) 00:32:36
「福原遊廓沿革誌」1
「福原遊廓沿革誌」九十五頁・非売品
著者:須田菊二
発行:昭和六年
発行所:福原貸座敷業組合事務所

 夕凪様に頂いた沿革誌をまとめます。須田菊二は松島遊廓沿革誌の著者です。貴重な資料を残した著者に敬意を表します。沿革誌には福原遊廓の由来、廓内の様子、柳原花街・新川遊廓の由来、福原芸者、遊女解放令による痛手、密淫売の取り締まり事情等、明治の新開地ならではの特異な事情が26章にわたって書かれています。なお非売品なので非公開的な書物であった可能性があること。著者の没年が不明であるために著作権への配慮も必要と考えました。このために沿革誌をまとめる上で省略できる人名や地名、創造的な表現については割愛させていただきました。

1.〜神戸開港と遊女町の新設〜
 船着き場として栄える兵庫津とは対照的に神戸村(今の神戸市中央部)は、明治元年(1868年)になっても小さな一漁村であった。しかし開港地となる神戸村の将来性が期待されており演劇場や遊廓建設が計画される。遊廓設置の出願者総代は藤田泰蔵(後に姫路市の梅ヶ枝遊廓を開設)。しかし実際に遊廓設置をもくろんだのは藤田ではない。

2.〜おちゃらと日本人〜
 開港前の神戸は惣嫁(夜鷹)又はおちゃらと呼ばれる娼婦の売春が盛んであった。おちゃらは沖の船や町家で売春をおこない、置屋に抱えられている者と抱えらずに自前で稼ぐ者にわかれていた。どちらも一夜が一分。
 慶応三年(1867年)。開港を目当てにする外国人が居留地落成前の神戸に上陸。神戸村で貸家を借りるなど雑居式に住み着く。従者の外国人による傍若無人な行動が神戸村で問題となりだす。
 伊藤博文が寄食する元町四丁目の料理店・専崎彌五平方には外国人より日本人女性の斡旋が依頼される。当時、西洋心を相手に商売しようとする者は皆無であったが専崎に出入りする佐野という顔役がおちゃらを七人抱えていたため、専崎が佐野に交渉をおこなう。結果、玉代は三分に相当する一ドル、座敷料はその二割五分と決まり、佐野は抱えるおちゃらが異人相手を恐れるので年期を半分の一年半にするという約束で商売を始める。
 明治元年になり佐野は隣に住む遠藤金蔵(伊藤の友人)に、伊藤が県令になってから博打もできないが何か良いことはないかと相談する。これが福原遊廓開設の相談。佐野は十名の賛成連署の者を集め明治元年二月二十七日に福原遊廓開設を出願。
 福原の名は福原遷都の故事に因んで選ばれる。

 *異人、外国人、西洋人などと呼び名がかわりますが、神戸が多民族都市だった為ではないかと思いますのでそのママとさせて頂きました。


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