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鷹目遊里史板

122夕凪:2006/12/30(土) 23:35:03
遊廓と橋本
明治10年(1877)3月19日、淀川対岸(=右岸=山崎側)の
東海道線京都大阪間の鉄道開通により、京阪間の通運は大きな変化を遂げた。

それまで淀川通船を利用する八幡神宮参詣者によって盛況を呈していた
京街道沿いの宿場町である橋本は決定的な衰微に見舞われた。

元遊廓の復興は必要悪として、明治20年(1887)6月京都府知事の許可を受け、
木津警察署の監督のもとに、小字北○町、中○町、○金川に遊廓地域が設定された。

楼主たちは貸座敷・芸妓・娼妓・引手茶屋・紹介業の五業種関係者で五業組合を組織し、
事務所を中○町に娼妓検黴場を兼ねて設立した。
・明治30年(1897)許可されたのは貸座敷7軒、芸妓9名、娼妓9名であった。

その後八幡紡績会社をはじめ工場などの設立もあり近隣人口も増加し、
・明治30年(1897)6月には貸座敷13軒、芸妓10名、娼妓23名となった。

明治33年(1900)11月8日京都府から貸座敷取締規則が出され、
五業組合を橋本地域貸座敷組合と改称した。
・貸座敷21軒、芸妓16名、娼妓30名の規模であった。

明治43年(1910)4月京阪電車の開通(淀川左岸=橋本側)により
京都・大阪から1時間以内で来れるようになり、
男山八幡宮への参詣者の増加によって、橋本も次第に賑わいをみせるようになった。

そして第1次大戦による空前の好景気により
・大正12年(1923)時で貸座敷46軒、芸妓60名、娼妓127名を数えるに至った。
 同年7月時焼野に10万円の費用で歌舞練場兼芸娼慰安余興場を建設

しかし金融恐慌による全世界的な不況の中で(芸妓は激減し)娼妓の数だけが増え続け、
・昭和12年(1937) 貸座敷業者81名、芸妓3名、娼妓675名と数の上での全盛期を迎える。

 ※橋本は明治元年(1868)に戊辰戦争で大半が焼亡したそうです。

                       八幡市誌(1984年)より要約


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