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鷹目遊里史板

743膳所裏:2011/09/03(土) 18:09:38
その3
当初、遊女がブタコと陰口を叩かれたぐらい低級な遊郭だった串が江戸後期に北陸街道一の遊所と成り得たのは、徳川十一代将軍家斉が江戸文化の頂点を作りあげた頃、串ではその気運にのり木屋甚三郎という楼主が廓改革にのりだし、木屋を春雲楼と銘打ち、什器は輪島塗、九谷焼のみならず諸国の名器を集め、お職と言われた花魁には琴、三味線、笛、胡弓、舞踊の遊芸を習わせ、さらに茶の湯、生け花、和歌まで学ばせたので花魁の中には詩歌はもとより書画にまで達するものがおり、他の茶屋もこれを見習ったので廓は栄え、富田景州等の文人、墨客が集い、串茶屋はちょっとした文化サロンの様相を呈しました。

また、島原のなます言葉、吉原のありんす言葉の向こうを張り(!そう言えば向こうを張るも廓言葉からきたんでしょうか?)大聖寺の町人言葉を参考に、居ないーおんならん、行ったーいきなった、など“串のおんなる言葉”と言えそうな独自の言葉を編み出し遊女に使わせました。

串の都に対する思い入れはいじらしい程で、実際祇園祭りを勧請し八幡社に合祀し毎年7月15日には祇園祭りを催した事でも痛いほど伝わってきます。

吉原に太夫がいたのは遠い昔のことで、この頃の江戸の花魁は遊芸とは真逆の存在で、舞や演奏は廓芸者に任せきりでしたし、島原も既に享保年間(1800頃)には馬琴に“島原の廓、今は大いにおとろえへ、太夫の顔色万事祇園におとれり”とありますので、遊女に古式豊に遊芸をさせ、それを楽しむ等という文化は吉原では笑い話にすら成らなく、長崎の丸山や串のように中央から離れた一部の所の方に僅かに残ったのかもしれません。


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