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鷹目遊里史板
389
:
夕凪
:2008/03/09(日) 22:10:55
東の吉原、西の柴屋町 (大津駅)
宿場町、商業の町で栄えると、夜の町花街もにぎわうことになる。
今も健在の柴屋町だ。
柴屋町は俗称、正しくは馬場町(現在は長○三丁目)といった。
いつごろ花街になったかはわからないが、大津城ができ、宿場町になり、
旅籠が並んだころからではないだろうか。
大津には柴屋町のほか、四の宮(京○三丁目)、真野(長○一丁目)、稲荷新地(松○二丁目)と
傾城遊女の町があったが、当時から柴屋町は別格だった。
西鶴は『日本永代蔵』の中で「昼間から三味線のバチの音が聞こえて・・・・・」と書き、
『好色一代男』では、色男世之介がやぼったい格好をしていたため
「格式高い柴屋町で遊ぶ身分ではない」と軽く見くびられるくだりがある。
一時は、お江戸の吉原と肩を並べるほどだった。
『色道大鏡』という粋書によると、延宝4年(1676)の揚代は、天神(または格子)と呼ばれる
ハイクラスな遊女で銀26匁。塩3俵が21匁だった時代、
今流に換算するとウン万円は軽いというところか。
また文化15年(1818)に揚屋仲間・茶屋仲間から出された定書では、
「傾城揚代 金2朱(1朱金16枚で小判1両)局女郎 銭464文」とある。
当時、1両で米が1石7、8斗。塩が1升で32文だったのだから、
柴屋町での遊びは、かなり高くついたといえる。
柴屋町にも花街情話が残っている。「小稲・半兵衛情死」だ。
柴屋町遊廓に富永屋という置屋があり、小稲という遊女がいた。
その小稲に坂本村(大津市坂本)の呉服屋の手代、半兵衛がぞっこんほれ込んで、
商用で大津に来ると通いつめていた。
柴屋町の遊び代は高く、手代の給金では後が続かない、
小稲会いたさに、借金に借金を重ね、ついには店の金まで手をつけた。
進退きわまって、小稲に窮状を訴えたが、10両盗めば打ち首になる世の中、
「私のような物に入れ揚げたばっかりに」と、小稲・半兵衛は心中して果てた ――― 。
柴屋町の名の起こりは、古くから薪売りが多く住んでいたからとか、
花街の女にたきつくす慕情を、火を焚く柴にたとえてとかいわれている。
まだ格子が残る古い家並みをみると、慕情のロマンを採りたくなる。
1981年の鉄道旅行案内より
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