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鷹目遊里史板

742膳所裏:2011/09/02(金) 14:42:24
その2
まずは串茶屋の歴史から・・・北陸街道沿いの一寒村に過ぎなかった串茶屋に人が集まる様になったのは小松城主、前田利常が那谷寺の復興工事を命じたからで、その促進の為職人達の慰安所として串茶屋に「郭」の営業を許可したのが寛永17年(1640)頃といいます。

ただ、1678年刊「色道大鏡」中の日本遊郭惣目の25遊所で敦賀六軒町、三国松下、今庄新町が載るのに串茶屋が省かれているのは、北前船が寄港し物流の通り道だった敦賀、三国そして近畿と北陸を結ぶ今庄と違い、外様の加賀に向かう宿場町では地元の客が殆どで全国区の知名度は得られなかったのでしょう。

しかし文化文政には、お隣の大聖寺藩の若侍の利用も盛んで、水茶屋時代からの木屋、府中屋を始め中屋、駒屋、山屋を御三家とし、松屋、高瀬、新屋(あたらしや)、大新、小新等20数件が軒を並べ、昼夜弦歌の絶えない街道一の色里となり、遊女の数も100を超えました。


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