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鷹目遊里史板
1
:
鷹目
:2006/03/12(日) 14:04:22
一流への道
≫活魚料理店の水槽を撮らずして一流とは言えないでしょう。
道は険しいな・・・。
>bananaさん
情報ありがとうございます。そちらも次回候補に入れておきます。会場選定が一番悩みます(笑)。
796
:
彷徨人
:2013/06/09(日) 20:35:04
田丸と二見浦
膳所裏さんの報告(2011年)を頼りに,まず気になっていた田丸に行ってきました。山一
と思われる建物と銀花(後で述べる地図には,「遊廓錦花」となっていました。)は健在でした。とてもかつて賑わっていたであろうという面影は全くなかったです。銀花は大きな建物ですが,西の端に蔵があったのがすこし不思議でした。
私も図書館へ行ってきましたが,膳所裏さんがご覧になったであろうという全四巻の町史
はなく,新しく上下巻となっていました。そこには,膳所裏さんが言われるよりももう少し詳しく書かれていました。昭和初期の勝田町の賑わっている写真も掲載されていました。「夜の街は青年の心を揺さぶり,廓通いや入り浸りする若者,恋のもつれに傷害を起こす場
にもなって,近隣町村からは風紀の上から警戒された。……」などと現在としては結構具体的に書かれていました。そして,最後には当時(大正末から昭和初期)の勝田町の町並みの地図まで載っていました。
さて,二見浦ですが,実は2年前,当時(戦後)の住所を頼りに一度歩いてみたのですが,収穫なしでしたので,今回改めて行ってみました。今回は,JR参宮線の二見浦から入りました。旅館街を歩いて,あるおみやげ屋さんのおばあさんに聞くと,海花楼も松前家も
あったということは確認できました。しかし,場所となるとはっきりしません。裏道でおじさんをつかまえて聞くも,場所については分かりません。あきらめなくちゃいけないかなと思いましたが,もう1軒旅館街のほぼ真ん中辺りのお土産やさんに入って聞きました。そして,やっと分かりました。
松前家はなんとそのお土産やさんの真ん前だったのです。現在は駐車場になっていました。さらに,その向こうの砂利がひかれてあるところにヌードスタジオがあり,さらに,あの真珠家さんが海花楼,そして,もう1軒ちどりという家もあった………などといろいろ教えていただきました。話をしていただいたご主人は,3代目だそうです。「いい時代に店やってましたわ。店(赤線)の女の子たちは,うちへお菓子をよく買いにきてくれて,私もようかわいがってもらいました。」と話してくれました。
話を聞くうちに,実は私自身小学6年生の修学旅行で泊まったのがこの二見浦の旅館街でしたので,当時の出来事が少しずつよみがえってきました。確かにヌードスタジオがあり,その辺りがお土産を買ってもいいという端になっていましたが,「ヌード」という文字に惹かれて私たち少年数人は境を越えてしまい,呼び込みのおじさんに叱られた覚えがあります。
何はともあれ,田丸も二見浦もいろいろ分かってすっきりしました。そんな中で二見浦の土産やのおじさんの言葉が頭に残っています。「旅行は遊ぶために行く。景色みたり,見学したり,そんなもんはおまけ。遊ぶことが目的だ。お伊勢さん参りだって,あんなのは二の次。女の人と遊ぶために行って,おまけに参っただけ。」
797
:
夕凪
:2013/06/15(土) 02:00:09
島原 松本楼の焼失
1935年4月に発行された観光案内の“島原”の項に
下記の記述がありましたのでご紹介させて頂きます。
● 島 原
我国に唯一しかないあの古典的な太夫の居る事で知られた古い廓であるが、
其二、三の青楼を除くと娼妓本位の三流廓である。
然し三百年來焼けた事のない廓建築の国宝角屋も昔のまゝに現存し、
さびれたが輪違屋もあり、
松本楼は惜しくも2月に焼失して太夫2人焼死の惨があった、
此等の廓は一現をせず、祗甲の別荘の感がある。
然し他の140軒の青楼何れも一現客をするので簡単に行ける。
上記にあるように、松本楼は1935年2月に焼失したようです。
ちなみにこの資料の著作者は田中緑紅さんです。
798
:
君人太夫
:2013/06/26(水) 19:23:04
Re:島原 松本楼の焼失
夕凪様ありがとうございます。やっと消失した年がわかり
胸の痞えがとれました。
今度、京都に行って昭和10年2月の記事を漁ってきます。
799
:
萩間
:2014/03/24(月) 06:49:13
GOLDEN WEEK
奈良の木辻遊郭跡にある静観荘に宿泊予定です。
もと遊郭の建物をそのまま旅館にしたそうです。
名古屋の中村遊郭にもその手の建物がありますね。大阪市近辺にもありませんかね。 どなたか知っている方いませんか。
800
:
鷹目
:2014/04/06(日) 20:55:27
旅館
>萩間さん
大阪市近辺で一部怪しいのはありますがほぼ転業旅館というのはないと思います。飲食店に転業が多いですね。
泊まれるところは、京都に多いですね。
801
:
君人太夫
:2014/05/03(土) 19:38:46
松本楼焼失確認
以前教えていただいた松本楼の火災ですが、京都日出新聞昭和10年2月9日にバッチリ載ってました。ありがとうございます。(京都府立図書館で確認したのですが、ここ「女性トイレにいるな」とか「無許可で写真を撮るな」とかの張紙が多くあり、いつ犯罪が起こってもおかしくない感じです♪)
802
:
萩間
:2014/06/22(日) 01:58:09
(無題)
鷹目さまはじめまして。 >
>>1413
についてですが、転業旅館じゃありませんが、河内長野の新地跡には少しですが、雰囲気は残ってますね。もと遊郭建築が老人ホームになっていたりその後ろに隠れるようにカフェ調の建物の廃墟が残っていたりしてますよ。 現役の旅館八重もかつてその手の女給さんたちがいたし。
一番の見所はやはりスナック古都の廃墟だと思います。
ちょっと高い所にあるため駐車場の場所がないため住宅地として買い手がつかないためそのままの状態がつづいていると聞きました。 あとどのくらい残っていてくれることか…
803
:
鷹目
:2014/06/22(日) 21:46:28
河内長野
>萩間さん
長野新地は数年前からそんなに変わっていない感じですね。私は近くは通っていたのですが、いつでもいけるからと未見です。以前散策した方の話からそんなに変っている感じは受けません。
都市部から離れているのが幸いしているのでしょうか?
昨今酷いのは、京阪沿線の京都遊里跡でしょうか?中書島はじめ有名どころの建物が取り壊されたり、売りに出されたりしていますね。
それは関西だけの話ではなく、関東もだんだん跡の建物が消えていく傾向にあります。寂しいかぎりです。
804
:
夕凪
:2014/11/20(木) 00:34:03
渡辺 寛
『全国女性街ガイド』の著者である渡辺寛(1913年生)氏は、ご存知の通り、
その著作『詫びる』(1935年5月)が第1回芥川賞予選の候補作になると言うプロレタリア作家としての
顔を持っています。
(参考)ttp://homepage1.nifty.com/naokiaward/akutagawa/pkogun/pkogun1WH.htm
そこで、渡辺寛氏には他に作品がないのか、先のHPにある、渡辺寛氏が同人であったと言う
“ 日本浪曼派 ” をキーワードして調べてみたところ、
新田満夫編 『 日本浪曼派とはなにか 』(1972年、雄松堂書店)に
渡辺寛氏に関する記述がありましたので御紹介させて頂きます。
●渡辺寛氏は同書の中で既に物故者として扱われている。 ※詳細不明
即ち、渡辺寛氏は1913年生まれであり、死亡は1972年以前と言う事にな
りますので、氏は60歳より前にお亡くなりになった事になります。
●同誌に掲載されている雑誌『日本浪曼派』の目次によると、
渡辺寛氏の著作が下記の通り掲載されていました。
1.1935年6月号 第04号 郷臭 (小説)
2.1935年8月号 第06号 退潮期の一挿話 (小説)
3.1936年4月号 第13号 大島紀行 (小説)
4.1936年9月号 第16号 水晶 (小説)
5.1937年3月号 第21号 弁慶橋 (小説)
●プロレタリア文学と日本浪曼派の関係については相容れないようなメイージがあるのですが、
同資料に緑川貢氏による下記の記述がありました。
尚、ここで一筆しておきたいことは、少なくとも郡山弘史、渡辺寛、緑川貢の3人は、
情勢におされて後退はしながらも、終始左翼の立場を捨てなかったことだ。
はたして渡辺寛氏は、その後どのような経歴を経て、『全国女性街ガイド』を執筆するようになったのでしょうか?
805
:
夕凪
:2015/01/07(水) 01:40:35
泊まれない旅館の謎?
以前『 原色寫眞版 京都島原太夫道中 島原 金?樓 』と言う袋に入った
6枚の絵葉書を購入しました。でも絵葉書の宛名・通信面のデザインが違っていたり。
角屋の紋章の入った行燈の前で写っているいる太夫の写真があったりと、
到底袋と中身が一致しているとは思えないものでした。
そこで考えました「これを金清楼がカフェとして生まれ変わった
“ 泊まれない旅館 きんせ旅館 ”に持って行き、
店の方に見てもらえば何か分かるのではないか?」と・・・・
早速きんせ旅館の方に見てもらったのですが、
残念ながら何も分かりませんでした。
そして言われたのです。「うちは以前“金清”で“金清楼”と
言う名前ではなかったですよ。」と ???????
インターネットで検索したら、きんせ旅館は昔金清楼と言っていたと
大勢の方が書き込まれています。果たしてその真実や如何に!?
806
:
夕凪
:2015/01/11(日) 01:22:01
『全国女性街ガイド』 の広告
●好評発売中『全国女性街ガイド』
20年以上二千人以上の体験記録です
渡辺寛著・全篇実地調査による空前の便利さ | 130円 送16円
| 芸者 女給 | 娼婦 街娼 | やとな パンマ | ヨルバイト 変り種 まで
此1冊で全国の女の相場と生態が判る
1956年1月16日 読売新聞 朝刊(一面下段)より
807
:
鷹目
:2015/01/12(月) 19:12:35
RE:泊まれない旅館の謎?
1 廓内の見世、お茶屋料亭だからという理由で外部のものが勝手に「楼」をつけた呼んでいた?
2 見世の尊称として「楼」をつけて呼ばれていた?
3 気まぐれ?
さて・・・。
808
:
夕凪
:2015/01/27(火) 00:41:18
(仮)渡辺寛著作リスト
●現時点で確認できた渡辺寛氏の著作リストを作成してみました。
原点(=『全国女性街ガイド』)に戻って季節風書店の出版した
『100万人のよる』を当たったら予想以上に寄稿していました。
大宅壮一文庫等で季節風書店関係の雑誌を閲覧できると
もっと出てくるのではないでしょうか。
※出版順で記載しました。
№タイトル掲載誌発行年備考
---------------------------------------------------------------------------
01.詫びる(小説)文学評論1935.05.01新人推薦号
02.郷臭 (小説)日本浪曼派1935.06.XX
03.退潮期の一挿話 (小説)日本浪曼派1935.08.XX
04.大島紀行 (小説)日本浪曼派1936.04.XX
05.水晶 (小説)日本浪曼派1936.09.XX
06.弁慶橋 (小説)日本浪曼派1937.03.XX
---------------------------------------------------------------------------
07.赤線区域の経済白書東京案内1954.01.30
08.赤線漫談東京案内1954.05.01
09.赤線凉談東京案内1954.07.01新東京通信編集長 渡辺寛
10.あのまち・このはな花街めぐり東京・ヨコハマなんでもわかる 1955年版1955.04.20
11.よるの女性街・全国案内版旅行の手帖 №20 美女・民謡めぐり特集1955.05.20
12.『全国女性街ガイド』1955.08.20
13.よるの女性街・全国案内版 旅行の手帖 №23 美女・民謡めぐり特集1955.08.20
14.女体風土記 東北地方の巻 面白倶楽部 1956.03 光文社
15.千人の職業女性に接した私の結論100万人のよる1956.04.01
16.旅の女 京の桜週刊サンケイ読物1956.04.08
17.旅の女 野宴 週刊サンケイ読物 1956.04.22
18.『鄙びた湯・古い湯治場』1956.06.01??新東京通信編集局長 渡辺寛
19.女が名物の秋の温泉旅行ガイド 熱海・伊香保・湯村・伊豆長岡・白浜・城崎・粟野岳・定義温泉100万人のよる1956.10.01
20.『温泉・女・風土記』1956.11.15
21.東西温泉千夜一夜100万人のよる1957.01.01大鰐・道後温泉
22.『酒と女』1957.01.25 ※著者氏名なし
23.東西温泉千夜一夜100万人のよる1957.02.01沼尻・玉造温泉
24.東西温泉千夜一夜 塩原と下呂の巻100万人のよる1957.04.01
25.東西温泉千夜一夜 肘折と和倉の巻100万人のよる1957.05.01
26.私は知りたい100万人のよる1957.06.01随筆家
---------------------------------------------------------------------------
27.女のいる全国避暑地ガイド100万人のよる1963.08.01新東京通信社 渡辺寛&旅行家 中山勇治 共同編集
●やはり「№15 千人の職業女性に接した私の結論」(100万人のよる、1956.04.01)が気になります!?
809
:
鷹目
:2015/07/16(木) 15:07:01
再訪-堺
久々に堺の龍神栄橋を歩いた。
初見は2003年。
そのときはまだ4.5軒味のある建物が残いた。
それから数年後、六芒星窓の建物が取り壊されたときき、跡地の確認に訪れた。
そこからの荒廃ぶりがすさまじい。
通りにあった商人旅館もマンションに変わり、建物再利用のラーメン屋もすでになし。
(ラーメン屋はファサード大改装されているだけかも、昔の写真で確認しなければ)
昔、見落としていたであろう微妙な建物が里の端に一軒あるだけ。
もう昔の面影がまったく残っていない。
かつての名残を探すなら、神明神社の玉垣と川べりに設けられたと鳥瞰図の写しに載っている名前のみ・・・。
810
:
萩間
:2015/07/17(金) 14:44:28
龍神新地ですか…。
かつて、明治維新の頃堺事件の舞台になった所だったと思いますが、案外龍神新地や栄新地と関係があったのかも…。
龍神新地も栄新地も元々新地の名残が僅かだったのになぁ。
811
:
彷徨人
:2015/10/01(木) 20:56:33
洞川温泉
5連休に1泊2日で奥吉野の洞川温泉に行ってきました。あるHPで「門前に遊廓あり」
という内容があり,それがずっとひっかかっていたからです。ここは女人禁制の大峯山にの
ぼった男たちが,山を下りた後,「精進落とし」と称してこの旅館街で遊んだ,ということです。実際,旅館の主人などの話によると,その通りだったようで,そういう色町的な雰囲気は赤線後もだいぶ長く残っていたようです。20〜30年ぐらい前かな,と話されましたが,はっきりはしませんでした。その後,海外からの女の人たち(フィリピン人など)がスナックなどにいた,という時代もあったようです。もちろん,今は健全な温泉街になっていますが,そのような話を聞けただけでもよかったと思います。もし,もっと詳しいお話をご
存知の方は教えてくださるとありがたいです。
812
:
夕凪
:2015/10/02(金) 10:46:31
従是女人結界
彷徨人さんお久しぶりです。
手許にあった『奈良・大峰山「女人禁制」の解禁をめぐって』(2002年)と言う
冊子に下記の記述がありましたのでご紹介させて頂きます。
●資料5.「 大峰信仰を支えた『遊郭』」
大峰山と洞川の近代史は、大きな時代のうねりの中にあった、
それとともに、実は、男たちの大峰信仰には、もう一つの姿があった。
それは、龍泉寺の近くに7、8軒の「遊郭」があったことである。
「遊郭」の存在についても『ある聞き書き』で聞いたAさんやBさん、
さらにCさんの主張とは違う意味で、その歴史的事実を明らかにして
記録として残しておきたいと思う。
「遊郭」がにぎわっていた時代には、大峰山に登るのが目的ではなく、
大峰山にかこつけて洞川の「遊郭」で遊ぶのが目的であったという人も多くいたという。
彼らの中では「精進おとし」「筆おろし」「垢おとし」といった符牒で語られ、
堂々と行われていたのである。先の戦争までは、大峰山よりも、
洞川の「遊郭」のほうが知られていたのである。
また『 洞川全景 』(発行年不明)という刷り物には、
龍泉寺門前の川に架かっている橋を渡った、大峰山に向かう道沿いに
12軒の旅館が記されています。
その中には現在も営業されている旅館と、同じ屋号の店も見うけられます。
やはり料理旅館方式で、名目は“ 仲居 ”だったのではないでしょうか?
もちろん“ 女人禁制 ”は男性の修験者が女性性に惑わされること無く
修行するためのものであったのですが、そこはそれで“ 精進 ”した後には ・・・・
(参考)ttp://6402.teacup.com/takanome/bbs/979
813
:
彷徨人
:2015/10/02(金) 21:14:34
洞川温泉
夕凪さん,さっそくのご返信ありがとうございました。
温泉はまだ20年ぐらいしかたっていないそうです。
旅館街だけみると,やはりなかなかいい雰囲気なのです。
「縁側が開かれている」というのが,特徴のようですが,
提灯が道の上に並んでいたり,見方によっては,色町の
雰囲気のある建物がいくつかありました。
814
:
萩間
:2015/11/04(水) 16:02:43
一枚の古文書
お久しぶりです。
しばらく前ですが、ヤフオクで酌婦契約願い(警察への届け&雇人届け)の古文書を落札しました。
まあ昔に書かれた物で何が書いてあるか気にせずほっといたんですが、この前思い出して解読を試みたんですが、明治の四十年代のものだったんですけど名古屋出身の方でした。
その当時の社会背景の例によって今なら高校生くらいの方でした。お勤めになられた所が、いまの三重県??阿下喜 なのでそうでネットなどでそれらしきとこ探してみたのですがいまいちよくわかりませんでしたよ。
まあ三重と言えば伊勢神宮のお詣りなどの途中ですし遊廓などはっきりしたとこでなくてもちょっとした温泉や旅館なんかにも酌婦としてお勤めされていたのかもしれません。
鷹目さん三重なんかの遊廓や赤線などで先ほどの場所もしくはその近辺で明治期に栄えた遊廓や酌婦など置いていた旅館なんかお心当たりありませんか?
815
:
彷徨人
:2015/11/04(水) 23:13:26
阿下喜について
勝手に横入りしてすみません。阿下喜は,平成23年9月に訪れました。夕凪さんからいただいた資料では,赤線が1軒だけ載っていました。以下,当日の記録を簡単に書きます。
まず,図書館で郷土資料を探しました。手がかりは全くありませんでした。ただ,明治の
22年頃「料理クラブ」なるものができ,芸者をあげて飲んだり食ったりしていたという記述はありました。
本町,西町,栄町と歩きますが,面影は感じられません。そんな中,「新角屋」というまんじゅう屋へ入って話を聞きました。そのおばちゃんの話によると,明治から大正の時代には,歓楽街は西町の方にあった。その後,赤線の時代には「川原屋」という店が,まんじゅう屋のすぐ北隣にあったという。その「川原屋」があったという場所には,それほど古くはない八百屋をやっていたであろう家が建っていました。
もう1軒,本屋さんにも入って聞きました。ここのおばちゃんは,昭和14年生まれで,昭和30年頃は高校生だったと言う。川原屋について聞こうとしますが,「そんな名前だったかな?」と忘れているようです。でも,「飲み屋だったから……」と話すのを聞き,やはり,ここに元赤線の「川原屋」は確かにあったのだ,ということが分かりました。
ちなみにまんじゅう屋のおばちゃんと本屋のおばちゃんとは,知り合いであり,二人とも阿下喜にお嫁に来たということでした。以上です。
816
:
夕凪
:2015/11/05(木) 12:55:06
港楽園の阿下喜支部
さすが彷徨人さん、現地報告興味深く拝読させて頂きました。
ところで、あの資料で阿下喜は、
四日市の港楽園の“ 阿下喜支部 ”となっています。
でも阿下喜は、明治末より西桑名からの軽便鉄道が開通しており、
桑名との結びつきが強かったそうです。
そこで桑名の桑陽園の支部ではないかと考え、
資料を見直したのですが、やはり四日市の港楽園の
支部としか読めませんでした。
もちろん町としては四日市の方が、桑名より大きいのですが、
不思議な気がしました。
(参考)阿下喜はこんな町だそうです。
ttp://www.kyoshu-komichi.com/ageki.html
817
:
夕凪
:2015/11/05(木) 13:32:16
三重県の特殊カフェー (再掲)
01.水郷園(長島村) 02.桑陽園(桑名市) 03.朝明待合組合(富田町)
04.菰野東町待合組合(菰野町) 05.湯ノ山支部(湯ノ山) 06.神戸六郷園(十日市町)
07.江島組合(江島町) 08.亀山待合組合(亀山町) 09.藤枝待合組合(津市)
10.久居支部(久居町) 11.上野支部(上野市) 12.名張支部(名張町)
13.松坂貸席組合(松坂市) 14.山田支部(宇治山田市) 15.神社三業組合(宇治山田市)
16.田丸支部(田丸町) 17.尾鷲支部(尾鷲町) 18.紀伊長島組合(長島町)
19.鳥羽待合組合(鳥羽町) 20.二見浦待合組合(二見浦) 21.浜島待合組合(浜島町)
22.渡鹿野待合組合(的矢村) 23.木ノ本支部(有井村) 24.引本待合組合(引本町)
25.阿下喜支部(阿下喜町) 26.港楽園(四日市市) 27.一身田支部(一身田町)
1950年の資料より
818
:
萩間
:2015/11/05(木) 16:30:31
(無題)
彷徨人さま 夕凪さま
詳細なデータありがとうございます。
前掲の古文書は二枚ありまして、一枚は酌婦の勤務許可の警察署への届け出 もう一枚は雇人の身元の証明かつ雇いれの確認書
に相当するものです。
雇人の確認書には 雇用主の住所氏名がありそこから見ますと、料理旅館とありやはり旅館経営にその当時携わっていた方のようです。
当然ながら料理組合には加入されていたと思います。
ただ個人情報の関係もありあまり詳しいことは申し上げあげれませんが、明治期から住所も変わっていないとすれば、ご先祖が料理旅館に携わっていたかたも今は業種も変わってご健在のようです。
あえて私なりに推測しますと、やはり名古屋あたりに斡旋業者のかたに三重県の料理組合に斡旋してもらい地元の警察署に届け出をだして四日市の組合を通じて阿下喜の料理旅館に斡旋してもらったみたいですね。
それにしても明治の四十年代といえば交通も不便でまだ高校生くらいのこが一人で酌婦として旅館勤めをするなんて…。
819
:
夕凪
:2016/09/02(金) 07:46:22
(仮)渡辺寛著作リスト(更新版)
●現時点で確認できた渡辺寛氏の著作リストを作成してみました。
※出版順で記載しました。
№タイトル掲載誌発行年備考
---------------------------------------------------------------------------
01.詫びる(小説)文学評論1935.05.01新人推薦号
02.郷臭 (小説)日本浪曼派1935.06.XX
03.退潮期の一挿話 (小説)日本浪曼派1935.08.XX
04.大島紀行 (小説)日本浪曼派1936.04.XX
05.水晶 (小説)日本浪曼派1936.09.XX
06.弁慶橋 (小説)日本浪曼派1937.03.XX
---------------------------------------------------------------------------
07.赤線区域の経済白書東京案内1954.01.30
08.赤線漫談東京案内1954.05.01
09.赤線凉談東京案内1954.07.01新東京通信編集長 渡辺寛
10.あのまち・このはな花街めぐり東京・ヨコハマなんでもわかる 1955年版1955.04.20
11.よるの女性街・全国案内版旅行の手帖 №20 美女・民謡めぐり特集1955.05.20
12.『全国女性街ガイド』1955.08.20
13.よるの女性街・全国案内版 旅行の手帖 №23 美女・民謡めぐり特集1955.08.20
14.女体風土記 東北地方の巻 面白倶楽部 1956.03 光文社
15.千人の職業女性に接した私の結論100万人のよる1956.04.01
16.旅の女 京の桜週刊サンケイ読物1956.04.08
17.★ 遊ぶ湯の里 芦原 百人百湯‐作家・画家の温泉だより‐旅行の手帖 1956.06.20 随筆家 渡辺寛
18.旅の女 野宴 週刊サンケイ読物 1956.04.22
19.『鄙びた湯・古い湯治場』1956.06.01??新東京通信編集局長 渡辺寛
20.女が名物の秋の温泉旅行ガイド 熱海・伊香保・湯村・伊豆長岡・白浜・城崎・粟野岳・定義温泉100万人のよる1956.10.01
21.『温泉・女・風土記』1956.11.15
22.東西温泉千夜一夜100万人のよる1957.01.01大鰐・道後温泉
23.『酒と女』1957.01.25 ※著者氏名なし
24.東西温泉千夜一夜100万人のよる1957.02.01沼尻・玉造温泉
25.東西温泉千夜一夜 塩原と下呂の巻100万人のよる1957.04.01
26.東西温泉千夜一夜 肘折と和倉の巻100万人のよる1957.05.01
27.私は知りたい100万人のよる1957.06.01随筆家
---------------------------------------------------------------------------
28.女のいる全国避暑地ガイド100万人のよる1963.08.01新東京通信社 渡辺寛&旅行家 中山勇治 共同編集
820
:
鷹目
:2016/12/30(金) 22:46:43
2016年総括
総括といっても主に和歌山方面の話です。
下津 料理屋、転業旅館有り。ただし旅館は旧屋号で建物建替え済み。
箕島 古い商店街沿い、裏道にあり。派手な意匠の店は少ない。
御坊 北新地 転業旅館、料理屋あり。
御坊 南新地 北新地ほど残っておらず、見所はしいて言えば旧置屋。
串本 一二軒程度。
勝浦 旧遊廓、当時物かなという建物が2軒ぐらい。
勝浦 新地、旧検番、旅館有り。広範囲にぽつりぽつり。
田辺 火事により、アーチとその周辺の店消失。奥に現役の料亭、旧料亭が片手ほど。
821
:
萩間
:2017/07/23(日) 10:08:20
河内長野新地の歴史
最近 河内長野新地についてわかったこと。
戦前 河内長野には
陸軍関連の施設 陸軍病院 陸軍幼年学校etc・・・
その関係で兵隊さんたちや接待用の施設の
需要があったみたいですね。
昭和8年に新地ができてから終戦まで
新地が衰退 復興を繰り返したとあるのは
今の信太山みたいな感じだったのでしょうか?
戦後進駐軍もいたという(八重別館のご主人談話)
話も聞きましたがどうなんでしょうか(関西まちBBS河内長野市part112)
822
:
夕凪
:2017/07/28(金) 11:04:26
長野新地 (河内長野市)
●昔、投稿したものですが御参考までに(1)
楠公遺跡に近く景勝の地であった為、観光料理屋が繁昌したのであるが、
戦後派料理屋、飲食店は政令のため寂れたこともあった。
業者は昔の夢を忘れられ得ず、
季節的の行楽客の多い時の収入によって
辛うじて経営を維持してきているようであるが
一方仲居は大阪、堺などで食い詰つめた三流どころが多く、
収入も少ないので自然に売春を行うようになっていった。
昭和31年初めから、料理屋営業のみに切替を警察の指導によって行われた、
泊り客は減少してきたので、同年11月より青線地帯のリストより除外されたが、
売春法の実施により大阪その他売春婦らが同新地に移行してくることも予想され、
監視は続けられていたようであった。
長野市内には料理店が25軒あって、そのうち「14軒」が点々とあるが、
このうち4軒では従来より売春は行われていないようであったので
売春は14軒中の10軒で、売春婦として働いていた者も約50人位であった。
売防法施行後、長野新地の業者は行楽客等を対象としてきた料理屋として
営業を継続して来たものであったが、
同地方は大阪市内を離れた閑静な地域である関係もあってか、
遊客を相手に売春は密かに行われていたようで、
所轄河内長野警察署では、
昭和31年にかっての売春(青線)地域から除外されている関係もあって、
同地域を売春のない明るい地域にせんと
極力業者並びに従業員を指導して来たようであった。
1961年発行の公機関の資料より(再掲)
823
:
夕凪
:2017/07/28(金) 11:06:41
カフエ指定街の誕生:長野新地
昔、投稿したものですが御参考までに(2)
●カフエを集めて長野新地
南河内郡長野町内のカフエおよび関係業を長野遊園地に集めて
新歓楽郷を建設せんとする全国でも珍しいカフエ指定街の工事は
予定よりも遅れていたがいよいよこのほど着手された。
場所は遊園地の渓流に臨む景勝、民家や商店街から隔たった理想的の別天地で
地均しも地割りもすみ、まづ最初の十四軒を新築中である。
町と歓楽街をつなぐ架橋二つの内一橋も竣工
こゝ一・二ヶ月中に新名物「長野新地」もいそいそと新装をこらしてデビューする。
現在長野町内に散在するカフエおよび料理店は約35軒、毎月ふえる一方だが
これからが順次「長野新地」に移ることによって町民のカフエ苦情も解消される。
1933年4月の大阪※日新聞より
824
:
夕凪
:2017/07/28(金) 11:11:51
長野温泉と長野新地
昔、投稿したものですが御参考までに(3)
●長野温泉の存在する場所は、天見川と滝畑川の合流点にあり、
山あいを貫流する石川の流れにそって、わずかの地にひらけた。
俗に『長野新地』といわれているところに湧出している。
温泉地には、歓楽的欲求を満たす施設は、欠くことのできない存在であるが、
長野新地にはこの点において多彩な条件をそなえており、
南海・近鉄両駅前には商店街・河畔には旅館、背後の東山一帯は長野遊園地として、
とくに夜桜時機のバルコニーは、独特の情調をかもし逍遥地に適している。
●長野新地の生まれたのはS8年都市計画法ににもとづくもので、
用途地域として『住宅・商業・興業・遊園』の四地区に分けられ(内務省)、
カフヱ歓楽街長野新地としてデビューした。
当時、店の数は30軒、女給・仲居さんの常備が150人、
花見時や松茸狩時の非常時体制300〜400人であった。
その後第二次世界大戦を経て終戦をむかえ、
長野温泉として脚光を浴びたのは
S38〜40年の『近鉄沿線温泉まつり行事』を大々的にやってからで、
当時は観光ブームもあって隆盛をきわめた。
1974年発行の郷土研究会の資料より抜粋
825
:
夕凪
:2017/07/28(金) 11:14:35
河内長野の季節仲居
昔、投稿したものですが御参考までに(4)
●ここには元赤線の長野新地があり、
川に沿って転業組の飲屋が20軒ばかりある。
“こつまなんきん”で知られたタコツボ女性が4・5人、
宵の口からキャアキャア嬌声を発している。
バーは『京美』『ますみ』『夕亀』『大陸』等があり、
飲屋では『想い出』『あづま』『一五夜』など。
どの店もイッパツ用のオンナが2・3人いて、マツタケ狩りに精を出している。
以前は店の2階へ誘っていたが、取締りがうるさいとかで
最近では店外デートの形をとっている。
ここで面白く遊ぼうと思ったら10時を過ぎて行くとよい。
河内長野はマツタケの産地としても有名で、マツタケ狩りのお客も多い、
そうしたお客を迎えるため、『八○』『山陽荘』といった料亭も3・4軒ある。
この種の料亭には季節仲居と呼ばれる女中さんがいる。
マツタケの季節には河内長野、牡丹のころは長谷寺というように、
季節によってあちこち渡り歩く女たちである。
こういう料亭に入り、スキヤキなどに舌づつみを打ちながら
季節仲居さんを口説いてごらん。
驚くほど簡単にOKする。
「今夜お泊りになって、仕事が終ってからお伺いするわ」
そう言って彼女は部屋を出て行く・・・・・・
1972年の成人雑誌より
※“河○長○の温泉街”で検索すると、チョットだけ雰囲気を味わえるかも・・・・・
※“こつまなんきん”は今東光原作の映画(1960年)のようです。
826
:
夕凪
:2017/07/28(金) 11:26:20
長野温泉郷の誕生:長野新地
昔、投稿したものですが御参考までに(5)
●河内長野に? 温泉郷 ?
??河内長野市の長野観光協会では同市長野町、
府立長野公園下の石川ほとりからわき出る鉱泉で、
付近一体の温泉開発を計画していたが、
このほど府温泉審議会の許可が内定したと通知があった。
近く湯量調査をしたうえ工事にかかり、
来春には「長野温泉」の看板を掲げて開業したいといっている。
この温泉の中心は黄金橋と落合橋の間の石川右岸にあり、
明治の末から大正にかけ、
同市古野町の極楽寺が境内へ引いて「極楽寺温泉」と名づけていたもの。
その後、利用されぬまま放って置かれたのを昨年、
地元観光協会が同から使用権を譲り受け、
府温泉審議会へ温泉許可を申請していた。(中略)
将来は旅館や大衆浴場の誘致もはかり、
同市三日市、天美と肩を並べる温泉郷として売り出したいという。
1961年3月の※日新聞より
827
:
夕凪
:2017/07/28(金) 11:27:38
料理旅館業についての御願い:長野新地
昔、投稿したものですが御参考までに(6)
●料理屋営業の継承願い(河内長野市長野町観光協会 → 大阪府公安委員会)
(前略)該氏は河内長野の名望家として之亦人格識見共に優れており
最近、旅館を譲受けられて現在旅館業を経営中であります。
両氏は今般何も料理旅館業の許可を受けたいと熱望して居ります。
かねてより同地区長野新地との悪名がありますが、
之は戦前に経営宣伝の方策として使用した一地名に過ぎず
一般に言う従来の遊郭地名と同一視され勝ちなものでは決してなく
その営業内容が証明されるのであります。
特に最近においては町名も公園通りと変更し
その経営方針も亦一新大いに見るべきものがあります。
(申請年月不明)
828
:
夕凪
:2017/12/10(日) 01:08:22
渡辺寛著作リスト(更新版)
●渡辺寛氏の著作リストを更新しました。
※出版順で記載しました。
№タイトル掲載誌発行年備考
---------------------------------------------------------------------------
01.詫びる(小説)文学評論1935.05.01新人推薦号
02.郷臭 (小説)日本浪曼派1935.06.XX
03.退潮期の一挿話 (小説)日本浪曼派1935.08.XX
04.大島紀行 (小説)日本浪曼派1936.04.XX
05.水晶 (小説)日本浪曼派1936.09.XX
06.弁慶橋 (小説)日本浪曼派1937.03.XX
---------------------------------------------------------------------------
07.赤線区域の経済白書東京案内1954.01.30
08.赤線漫談東京案内1954.05.01
09.赤線凉談東京案内1954.07.01新東京通信編集長 渡辺寛
10.あのまち・このはな花街めぐり東京・ヨコハマなんでもわかる 1955年版1955.04.20
11.よるの女性街・全国案内版旅行の手帖 №20 美女・民謡めぐり特集1955.05.20
12.『全国女性街ガイド』1955.08.20
13.よるの女性街・全国案内版 旅行の手帖 №23 美女・民謡めぐり特集1955.08.20
14★旅の女 わらぐつ 週刊サンケイ読物 1956.02.05
15.女体風土記 東北地方の巻 面白倶楽部 1956.03 光文社
16★旅の女 桃 週刊サンケイ読物 1956.03.25
17.千人の職業女性に接した私の結論100万人のよる1956.04.01
18.旅の女 京の桜 週刊サンケイ読物 1956.04.08
19★旅の女 山王祭 週刊サンケイ読物 1956.04.15
20.旅の女 野宴 週刊サンケイ読物 1956.04.22
21.『鄙びた湯・古い湯治場』 1956.06.01??新東京通信編集局長 渡辺寛
22.遊ぶ湯の里 芦原 百人百湯‐作家・画家の温泉だより‐旅行の手帖 1956.06.20 随筆家 渡辺寛
23.女が名物の秋の温泉旅行ガイド 熱海・伊香保・湯村・伊豆長岡・白浜・城崎・粟野岳・定義温泉100万人のよる1956.10.01
24.『温泉・女・風土記』1956.11.15
25.東西温泉千夜一夜100万人のよる1957.01.01大鰐・道後温泉
26.『酒と女』1957.01.25 ※著者氏名なし
27.東西温泉千夜一夜100万人のよる1957.02.01沼尻・玉造温泉
28.東西温泉千夜一夜 塩原と下呂の巻100万人のよる1957.04.01
29.東西温泉千夜一夜 肘折と和倉の巻100万人のよる1957.05.01
30.私は知りたい100万人のよる1957.06.01随筆家
---------------------------------------------------------------------------
31.女のいる全国避暑地ガイド100万人のよる1963.08.01新東京通信社 渡辺寛&旅行家 中山勇治 共同編集
829
:
夕凪
:2018/07/18(水) 23:32:46
【 京口新地 】 真実の “ 大正樓 ” は 何処に !? 【 阿部 定 】 ?
大正楼 京口新地 篠山 etc. をキーワードにしてネット検索すると
必ず角店でその四角い角を切り取ったあの建物の画像が出てきます。
でも、どうして画像のあの店が“ 大正樓 ”であると特定したのか、
その理由を述べた書込みを見た事はありません。
自明のように“ 大正樓 ”として扱われています。
googleマップでも、あの建物の場所を“ 大正樓跡 ”としています。
私の知る限り“ 大正樓 ”の建物を推定しようとする試みは
木村聡さんが『 実話ナックルズ 』(2010年7月号)に書かれた
「幻ではなかった 阿部定がいた遊郭」と言う記事のみです。
(または木村聡さんの記事を拠り所とした書込みばかりです。)
その木村さんの記事も、「(木村さんの訪問時に残存した)
この3軒のうちどれかがそうだとしたら、答えを出すのは簡単だ。」
と、慎重に前提を置いて書かれておられ、
丸山友岐子さんと言う作家が自著執筆の為に
タクシーの運転手に京口新地へ案内してもらい、
元「大正楼」の御主人にインタビューをされ、
著書の中で、大正楼の造りについて
四角い家の一角を切って多角形にし、
どの道から来る客もキャッチしようという娼家の知恵。
飛田だけでなく、松島も、篠山も
角店は殆んど例外なく、四角の角を切って玄関にしていた。
と、簡単に描写されているのを、その根拠とされています。
※丸山友岐子著『 はじめての愛−阿部定さんの真実を追って・・・ 』
(かのう書房、1987年2月25日発行)
でも『 はじめての愛 』の中には
「百年を経た床板はみがき込まれて黒光りしていた。」とか
明らかに誤った記述(誇張or省略?)も見られます。
∵同書発行(1987年)時、京口新地(申請時は池上村貸座敷)は
明治41年(1908年)開業から79年しか経っていません。
はたして、真実の “ 大正樓 ” は 何処に !?
(以下、続く)
830
:
夕凪
:2018/07/20(金) 11:36:02
【 京口新地 】 真実の “ 大正樓 ” は 何処に !? 【 阿部 定 】 ?
徒然なるままにインターネットで遊んでいると、
たまに驚くような情報に出会います。
今回がまさにそれでした。なんと
“ 大正楼の宿屋兼特殊飲食店の営業許可証 ”に
巡り会ってしまったのです(赤い糸?)。
ttps://aucview.aucfan.com/yahoo/b158731794/
この許可証には 大正楼の住所が“ ▲77−4 ”と記載されています。
この住所をgoogleマップで検索すると、乃木ビンゴ!
京口新地の一角に赤い「ピン」が立ちました。
でも残念ながら、その場所は大正楼跡とされる地点ではありません。
大正楼跡とされる場所の対面(トイメン)の一画を指し示しました。
※大正楼跡とされる場所の住所は“ ▲79−26 ”でした。
篠山市役所にお聞きしたところ以下の事が分かりました。
?現在も篠山市には住居表示の制度がなく“ 地番 ”のみを使用している。
?1930年に旧篠山町が八上村等と合併し新篠山町となった時も、
旧住所以下の番地は、そのまま旧来の番地を引き継いだ。
以上の事より、現在、大正楼跡とされる場所にあるアノ建物は、
1946年大正楼に特殊飲食店としての営業許可が下りた
“ 大正楼 ”の建物では無い事になります。
(参考)
※京口新地の指定区域は“ ▲76〜▲79 ”です。
※ちなみに阿部定さんは1931年頃6か月間ほど大正楼にいたそうです。
はたして真実の“大正樓”は何処にあったのでしょうか?
また現在のアノ大正楼とされる建物は一体何なのでしょうか?
※正直、アノ大正楼とされる建物が何かについては分かりませんでした。
もっとも、ネット上では大正楼分店との情報があります。
中途半端な書き込みで不完全燃焼の思いをされた方もいらっしゃるかと
思いますが御容赦ください・・・・
831
:
夕凪
:2018/08/09(木) 03:01:09
【 京口新地 】 真実の “ 大正樓 ” は 何処に !? 【 阿部 定 】 ?
●備忘録ノ−ト(1)
1.『はじめての愛 あべ定さんの真実を追って…』の著者である
丸山友岐子さんにお聞きしたかった ・・・・
丸山友岐子(1934〜1995)
ttp://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/40246.html
2.なんで「港公民館」なの? 「京口(きょうぐち)」と「港(みなと)」
ttps://www.city.sasayama.hyogo.jp/timei/timei24n.html
3.旧細見楼と旧大正楼分店(FBより)
投稿者は『秋田県の遊廓跡を歩く』を執筆された方です。
現地で、裏手の川を挟んで向かいにお住まいの方からお聞きしたそうです。
(1)旧細見楼 ttps://www.facebook.com/photo.php?fbid=484323678309427&set=a.373223606086102.87016.100001953980021&type=3&theater
(2)旧大正楼分店 ttps://www.facebook.com/photo.php?fbid=484324858309309&set=a.373223606086102.87016.100001953980021&type=3&theater
832
:
夕凪
:2018/08/09(木) 03:45:10
【 京口新地 】 真実の “ 大正樓 ” は 何処に !? 【 阿部 定 】 ?
● 備忘録ノ−ト(2) 妓楼数の変遷
明治41年07月(1908年:開設時)1軒
?篠山楼(娼妓数 7名)
明治41年12月(1908年)12軒 娼妓数 79名
?吉野楼(14名)?小川楼(06名)?彦根楼(12名)?田中楼(08名)
?一力楼(08名)?常盤楼(05名)?金松楼(02名)?高森楼(02名)
?鬼楽楼(04名)?都 楼(07名)?藤田楼(05名)?戎 楼(06名)
昭和33年01月(1958年)10軒??※廃業:昭和33年03月30日(1958年)
? 旭 、?松月、?細見、?都一、?都二
?千草、?大正、?萬可、?昭和、?一楽
●赤線 八上新地 (篠山町)
明治40年(1907)、歩兵七十連隊の設置とともに形成された遊郭で、
翌41年許可されたもの。
昭和33年1月には、業者10人、売春婦14人、引き手13人がいたが、3月30日に至って閉鎖。
飲食店・・・2、住宅・・・2、自動車運転者・・・2、呉服商・・・1、農業・・・1、
公務員・・・1、郵便局員・・・1に転廃業した。
その後の動静は全く健全である。
兵庫県発行の1959年の資料より
●その他の京口新地に在った妓楼(年代不詳)
金瓶楼 ttps://edu.city.sasayama.hyogo.jp/c-library/syoukai/kyodo/5/120.html
美屋古楼(大正6年:1917年頃)ttps://edu.city.sasayama.hyogo.jp/c-library/syoukai/kyodo/5/122.html
833
:
夕凪
:2018/10/05(金) 01:10:32
【 京口新地 】 真実の “ 大正樓 ” は 何処に !? 【 阿部 定 】 ?
入手した画像データより
●池上村貸座敷区域図面
明治41年1月15日貸座敷営業免許地に指定、仝上7月開業
この図面に記されてる中で最も早く(明治41年10月28日:1911)に
開業したのは高盛楼と言う妓楼でした。
※篠山楼の名前はありませんでした。
また大正楼は、当初、田中楼として明治44年11月8日(1911年)に開業し、
大正2年3月30日(1913年)に営業者が変わり、
名称も、新元号に因んだのか“ 大正楼 ”となったようです。
更に大正4年9月26日(1915年)に営業者がY氏に変更されたとあります。
この大正楼の場所は、現在、大正楼とされる現存する妓楼の対面の一角
かって2戸1のような建物(の内、向かって右側)の
あった場所のように思われます。
また現在“ 大正楼(分店?) ”とされる場所には
建物はなにも書かれていませんでした。
現在、“ 大正楼 ”とされる、現存するあの建物は
一体何なのでしょうか?
834
:
鷹目
:2018/12/30(日) 18:05:07
2018年総括
長野県
松本花街
松本城近く松本館を中心に6軒前後。
事前に書籍に乗っていた松本芸妓組合の電話番号を検索したがヒットせず。
長野鶴賀新地跡
神社に新地跡碑、まだ存在せり。
おまけ-2017年総括
白浜新地
10軒程度雰囲気のある建物存在。
一応白浜新地と明記するが、統一組織がなく、検番が複数存在状態だったそう。
まだ5名ほど芸妓さん健在。
新宮大王地
10件ほど建物現存。
建替えも屋号同じ店もあり
三本杉、浮島ともに痕跡なし。
835
:
夕凪
:2019/04/08(月) 21:08:32
【 京口新地 】 真実の “ 大正樓 ” は 何処に !? 【 阿部 定 】 ?
YAHOO! ニュースの配信で“ 大正楼取り壊へ ”との記事を
目にした方も多いと思います。
そこで、何故、地元新聞はあの建物を“ 大正楼 ”として報道したのか?
まさか地元紙がネット情報を鵜呑みに?
何か根拠があるはずだと思い確認してみました。
やはり同紙はキチンと裏付けをとろうとしたようでした。
その方法とそれから分かった事をご報告させて頂きます。
1.地元の古老の方に取材を行い、3名から下記の証言を得た。
2.90歳位の方の証言:大正楼である ・・・・
????87歳の方の証言:大正楼の分店である。
????85歳の方の証言:大正楼の分店である。
3.上記から分店か否かは不明であったが、記事では「大正楼」と表現した。
4.本店が別にあるとしても、阿部定がどちらに居たのか、
????あるいは状況に応じて、本店・支店両方に出てたのかは不明
以上より、ネット上で大正楼とされる“ あの建物 ”は“ 大正楼分店 ”だったものとボクは考えます。
●(参考) 丹波新聞より
2019年03月04日:阿部定いた元遊郭、行政代執行開始 状況確認、本格的に取り壊しへ
ttps://tanba.jp/2019/03/%E9%98%BF%E9%83%A8%E5%AE%9A%E3%81%84%E3%81%9F%E5%85%83%E9%81%8A%E9%83%AD%E3%80%81%E8%A1%8C%E6%94%BF%E4%BB%A3%E5%9F%B7%E8%A1%8C%E9%96%8B%E5%A7%8B%E3%80%80%E7%8A%B6%E6%B3%81%E7%A2%BA%E8%AA%8D%E3%80%81/">
https://tanba.jp/2019/03/%E9%98%BF%E9%83%A8%E5%AE%9A%E3%81%84%E3%81%9F%E5%85%83%E9%81%8A%E9%83%AD%E3%80%81%E8%A1%8C%E6%94%BF%E4%BB%A3%E5%9F%B7%E8%A1%8C%E9%96%8B%E5%A7%8B%E3%80%80%E7%8A%B6%E6%B3%81%E7%A2%BA%E8%AA%8D%E3%80%81/
2019年02月26日:阿部定がいた元遊郭取り壊しへ 「大正楼」倒壊の危険性高く
ttps://tanba.jp/2019/02/%E9%98%BF%E9%83%A8%E5%AE%9A%E3%81%8C%E3%81%84%E3%81%9F%E5%85%83%E9%81%8A%E9%83%AD%E5%8F%96%E3%82%8A%E5%A3%8A%E3%81%97%E3%81%B8%E3%80%80%E3%80%8C%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%A5%BC%E3%80%8D%E5%80%92%E5%A3%8A/">
https://tanba.jp/2019/02/%E9%98%BF%E9%83%A8%E5%AE%9A%E3%81%8C%E3%81%84%E3%81%9F%E5%85%83%E9%81%8A%E9%83%AD%E5%8F%96%E3%82%8A%E5%A3%8A%E3%81%97%E3%81%B8%E3%80%80%E3%80%8C%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%A5%BC%E3%80%8D%E5%80%92%E5%A3%8A/
836
:
鷹目
:2019/07/02(火) 20:53:54
2019年前半
福原
神社の玉垣健在。
浜松鴨江
旅館も1社3軒のみ営業。
裏路地に古い家屋があるものの往年の面影なし。
一番奥の駐車場に石碑があるらしい。(ネット情報)
浜松花街
建て替え割烹料亭あり。
静岡花街
老舗料亭浮月楼が有名。
川辺
風俗店一軒あり。唯一の名残か。
三島遊廓
電柱のプレートに「新地支」
三島新開地
風俗店一軒あり。風俗店一軒あり。唯一の名残か。
三島本町
割烹料亭がちらほら。そんな中、一軒のピンサロ異彩を放つ。
御坊北新地
去年の台風の影響か、2軒ほど傷みが目立つ。
転業旅館料理屋も営業している風ではない。
御坊南新地
16年に訪れた時とさほど変わらず。
837
:
鷹目
:2019/12/28(土) 22:02:37
2019年後半
岩屋敏馬神社
閼伽井に料亭貸席であろうと思われる銘が入った石碑あり。
年号は明治39年。ただし敏馬花街・敏馬検との関係不明。
神戸花隈花街
町内の神社と地蔵尊の玉垣に昭和40年代に存在した料亭の屋号銘あり。
静岡二丁町
お稲荷さんに石碑「双街の碑」と解説あり。
838
:
夕凪
:2020/02/06(木) 20:14:34
渡辺寛著作リスト(更新版?)
●渡辺寛氏の著作リストを更新しました。
※出版順で記載しました。
№ タイトル 掲載誌 発行年 備考
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01.詫びる(小説) 文学評論 1935.05.01 新人推薦号
02★最近の新劇運動批判 脚本を中心に 文学評論 1935.07.01★
03.郷臭 (小説) 日本浪曼派 1935.06.XX
04.退潮期の一挿話 (小説) 日本浪曼派 1935.08.XX
05.大島紀行 (小説) 日本浪曼派 1936.04.XX
06.水晶 (小説) 日本浪曼派 1936.09.XX
07.弁慶橋 (小説) 日本浪曼派 1937.03.XX
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08.赤線区域の経済白書 東京案内 1954.01.30
09.赤線漫談 東京案内 1954.05.01
10.赤線凉談 東京案内 1954.07.01 新東京通信編集長 渡辺寛
11.あのまち・このはな花街めぐり 東京・ヨコハマなんでもわかる 1955年版 1955.04.20
12.よるの女性街・全国案内版 旅行の手帖 №20 美女・民謡めぐり特集 1955.05.20
13.『全国女性街ガイド』 1955.08.20
14.よるの女性街・全国案内版 旅行の手帖 №23 美女・民謡めぐり特集 1955.08.20
15.旅の女 わらぐつ 週刊サンケイ読物 1956.02.05
16.女体風土記 東北地方の巻 面白倶楽部 1956.03 光文社
17.旅の女 桃 週刊サンケイ読物 1956.03.25
18.千人の職業女性に接した私の結論 100万人のよる 1956.04.01
19.旅の女 京の桜 週刊サンケイ読物 1956.04.08
20.旅の女 山王祭 週刊サンケイ読物 1956.04.15
21.旅の女 野宴 週刊サンケイ読物 1956.04.22
22.『鄙びた湯・古い湯治場』 1956.06.01??新東京通信編集局長 渡辺寛
23.遊ぶ湯の里 芦原 百人百湯‐作家・画家の温泉だより‐旅行の手帖 1956.06.20 随筆家 渡辺寛
24.女が名物の秋の温泉旅行ガイド 熱海・伊香保・湯村・伊豆長岡・白浜・城崎・粟野岳・定義温泉 100万人のよる 1956.10.01
25.『温泉・女・風土記』 1956.11.15
26.東西温泉千夜一夜 100万人のよる 1957.01.01 大鰐・道後温泉
27.『酒と女』 1957.01.25 ※著者氏名なし
28.東西温泉千夜一夜 100万人のよる 1957.02.01 沼尻・玉造温泉
29.東西温泉千夜一夜 塩原と下呂の巻 100万人のよる 1957.04.01
30.東西温泉千夜一夜 肘折と和倉の巻 100万人のよる 1957.05.01
31.私は知りたい 100万人のよる 1957.06.01 随筆家
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32.女のいる全国避暑地ガイド 100万人のよる 1963.08.01 新東京通信社 渡辺寛&旅行家 中山勇治 共同編集
839
:
鷹目
:2020/07/01(水) 20:32:39
2020年前半
尾久花街
大店はハイツ、駐車場に。
おそらく料亭料理屋もしくは旅館であったと思われる建物が片手5件ほど。
それも若干改装、ペンキの塗り替えをしている。
八幡神社の玉垣に料亭の銘あり。ただし摩耗が激しい。
沼津花街
神社玉垣に沼津芸妓寮組合、割烹の銘あり。
840
:
新今里X
:2020/12/05(土) 23:49:56
土橋
ご無沙汰してます。
寝かせて一回忘れてたネタをば…(笑)
「中の川整備 豊坂町から北柳井町にかけての通称中の川筋には、終戦直後の混乱期に、バラック建ての飲食店が、道の中央よりやや南寄りを流れる幅約三メートルの小川をはさんで立ちならび、当時で五〇軒が不法占拠していた。川の汚染で不衛生となり、火災、児童への悪影響や交通妨害などが心配されていたが、昭和三九年三月、付近の町内会長が中心となって「中の川を守る会」が結成され、市に対策を要求していた。七月になっても、具体的な対策を打ち出さない市の対応に業を煮やした守る会のメンバーの一人が、「不法には、不法をもって戦う」と、不法建築の飲食店街から約五〇メートル東側の市道にバラック二軒を建てはじめるという事件も起こったが、市もこの実力行使にようやく動かされ、問題解決のために諮問委員会を設置することを決めた。一〇月、市議会議員一一名からなる専門委員(中の川北通り線道路上建物除却臨時専門委員)が設置され、四二軒の不法建築を立ち退かせる方法が検討され、昭和四一年三月一〇日、四二軒の不法占拠者に五ヵ月以内の移転命令を出した。移転先について、市は市有地を賃貸借契約を結んで提供し、住宅建設資金のあっせんをするなどして、一〇月一四日までに全戸が移転することになり、翌一五日には道路として復元された。昭和四九年六月には地下駐車場が完成し、川幅も狭くなって昔の面影が失われたが、新しい中の川通りとなった。」松山市史 第4巻 現代
戦後の一時期、今は広い車道になってる中の川通りの真ん中にある中の川に沿ってバラックの飲食店があるというのを知り、どこにあったのか確認しようと昭和30年代の住宅地図から探したところ、松山市駅の目と鼻の先、末広町交差点から裁判所前通りと交差するところまで50軒近く並んでたようです。
昭和40年の地図が最後で、その後は記載がないので、松山市史の通りに移転により撤去されたのが地図でも確認できます。
ついでに市内の各地や今治などの地図を見て楽しんでたところ、土橋の始まりが意外と遅いのが分かりました。
赤線青線時代どころか昭和42年にはじめて掲載され全店埋まってない状態で、翌年の昭和43年で全店掲載。
そこでやっと中の川筋のバラック飲食店の移転先が土橋だと気付いて、屋号を比較すると昭和43年の地図で3分の2ほどが中の川筋のバラック飲食店と同じでした。
その後は地図上では昭和50年頃までが全盛期のように見えました。
土橋の建物は赤線青線時代のものかと思ってたのに自分より年下でショック。
建物のおとなしいデザインは行政側としては住宅として使ってほしかったのではと憶測しています。
https://twitter.com/maido728/status/1335058814429777920
841
:
ガーゴイル
:2020/12/19(土) 13:21:26
どこのドイツ
ノーパン喫茶やノーパンしゃぶしゃぶのブームの話は本当は北極や南極の島の話である。
842
:
鷹目
:2020/12/27(日) 21:20:50
2020年後半
泉佐野花街(再訪)再訪
置屋と言われている建物は存在。
街灯についていた新地通りの看板は、現在は一つもない。
貝塚近木新地(再訪)
2018年から特に変わりなし。
深川は建物は健在だが扉を閉ざしたまま。
京都橋本(再訪)
13軒ほど残っているが、空き地や建て替え、外壁等の改装が目に付く。
旧歌舞練場は夏に取り壊され、石碑だけが残っていたが、こちらも9月後半に撤去される。
843
:
鷹目
:2021/12/30(木) 19:59:04
2021年総括
かんなみ街
21年11月1日付で市役所と警察により行政指導・警告が行われたため営業停止。
11月半ばごろから飲食を提供する店へと転業、改装を行っている店もある。
河内長野
新地の痕跡ほとんどなしだが、雰囲気のある建物ある。
普通の料理旅館は現役で一軒あり。
電柱の表示が「ユウエンチ」。
あと現地確認はしていないが、火事により松島新地料亭2軒焼失。
844
:
夕凪
:2022/01/05(水) 17:18:49
新天地の隣は写真館?
●やっぱし和歌山の「新天地」は映画館みたいですネ。
昭和初期、手平地区には紡績関連工場が多数立地していて、
そこで働く女工さんの休日の楽しみの一つが
「新天地」で映画を見る事だったみたいです。
※下記リンク P.28(8/10)参照
ttps://www.hannan-u.ac.jp/doctor/tourism/matsumura/mrrf4300000091ub-att/mrrf43000000bgwy.pdf
紡績工場は女性が多かったけど、染色工場は男性労働者が多かったとの事です、
と言う事は・・・・
●また和歌川を挟んでだ西側の芦原新地の辺りは皮革産業が盛んだったようです。
(参考)ttps://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/zoomify/mapview.php?m=002455475_o
845
:
鷹目
:2022/07/30(土) 18:52:44
おしらせ
teacup.掲示板サービス終了に伴い、ログごとしたらば掲示板に引っ越し予定です。
引っ越し後ものんびりやっていきます。
https://jbbs.shitaraba.net/study/13448/
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