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鷹目遊里史板
111
:
今里X
:2006/11/27(月) 18:56:49
小樽遊里史 幕末〜明治
●遊里のはじまり
『小樽海路にお神威なくば 連れて行きたい奥地まで』
小樽の町は松前藩政時代にオタルナイ河口(小樽市東端)の漁港を現在の小樽市住吉町辺りに移転させ漁港を開いたことに始まるそうで、移転後もオタルナイの地名はそのまま引き継ぎました。
漁港移転では出稼ぎの和人の漁師たちとともにおそらくアイヌ人も移住してきたようです。
当時は海路しかない上に、江差から小樽に船で渡る途中に海上の難所でアイヌが崇める神威(カモイ)岬があり、和人の女は通るのを戒められていました。
安政2年、幕府の役人が妻を伴い神威岬を越え小樽に無事到着、このできごとで迷信は払拭されることになり、和人の女の渡航が解禁となると旅籠などに飯盛りが現れ、飯盛りとともに『浜千鳥』などと呼ばれる賎娼もあらわれました。
安政4年、無宿者や博徒たちが悪事の魂胆をめぐらすことから後の金曇町となるコンタン小路という通りができましたが、アイヌも移住していましたので、古くはアイヌ人集落のコタンだったのではないかと思います。
役人も取締りをしましたがなかなか改善できず、コンタン小路を無くすことはできませんでした。
本土から渡ってきた無宿渡世の者が根を下ろし小樽最初の侠客となり、この頃から飯盛りや浜千鳥をコンタン町に束ねて管理された売春街いわゆる遊廓をつくりあげていったのではないかと思います。
安政6年にはコンタン町という遊所として存在していました。
コンタン町は金曇(コンドン)町と改められましたが住人達はコンタンと呼びつづけ、金曇町と書いてコンタンチョウと呼ぶようになります。
●金曇町遊廓
明治2年、オタルナイを小樽に。
明治4年、開拓使は金曇町の遊女屋や料理屋を遊廓と指定、資金援助をしたり見番制度を整えようとします。
明治6年2月「娼妓解放令」布告で遊女屋が貸座敷となり、金曇町および新地町が貸座敷の免許を受けます。
しかし、この時点での実際の営業地域は特に金曇町に集娼されていた訳ではなかったようです。
明治10年5月「札幌小樽貸座敷並ニ芸娼妓営業規則」により貸座敷を金曇町と新地町に限定し集娼。
当時は廓内に17〜8軒、芸妓、娼妓、二枚鑑札で遊廓花街の区別はなく、廓外の料理屋・旅籠では貸座敷いわゆる遊廓の営業ができなくなってしまいました。
明治10年11月再び料理屋の貸座敷営業を3年に限り許可し、入船町辺りを中心に再び散娼状態に…
見番の始まりは、この頃、明治10年もしくは明治11年の浮田見番からだそうですが、まだ芸娼妓を管理する見番としての機能は備えていませんでした。
●住ノ江町遊廓
散娼状態にもどったため、民家や商家と貸座敷が軒を連ねることとなり、住民の陳情等で遊廓を移転することになったようですが、明治14年大火で金曇町新地町遊廓を含め焼失。
焼失戸数は560戸とも580戸とも伝わっています。
『かわい金曇町何して焼けた 寝てて金取った其の罰で 三十三軒ばらっと焼けた』
明治14年5月芝居町から出火、明治14年5月21日金曇町から出火、明治14年4月8日廓内から出火、などの諸説あり、新暦旧暦としても食い違うのでもう少し調査の必要あります。
また、焼失した妓楼数を23軒と俗謡を紹介している文献もあり、後に新遊廓移転時の業者数26名に含まれた入船町の2〜3の支店を引くと近い数字になるので、1名1軒という計算では23軒焼けたというのも可能性のある数字です。
明治16年、新たに切り開いた土地を住ノ江町と名付け新遊廓指定地とし、金曇町と新地町以外の貸座敷もすべてここに移転させることとなり、入船町の2〜3の支店も含めて26名の貸座敷業者が移転完了。
当時の妓楼は、南部屋、丸立(おそらく丸辰のこと)、大友楼、小林楼などがあったそうです。
明治17年、曲北、柳川、丸辰、早川などの貸座敷が共同で本格的な見番である住ノ江見番を発足するがすぐに解散、その中の1人が個人経営ではじめた曙見番が長続きし、これを小樽の見番の元祖とするようです。
この年あたりから芸妓は廓内に居住しないこととなり、緩やかに遊廓と花街が分かれていったのではないかと思います。
住ノ江町遊廓はかなり繁昌したようで営業者数も増加していきました。
住ノ江町とは別に、明治25年頃、廓外の妙見町に曖昧屋ができはじめ、明治27年に色内見番発足。
●松ヶ枝町遊廓
明治29年4月27日、住ノ江町遊廓の南楼から出火し遊廓とその付近がまたもや焼失。
同年、新遊廓指定地として入船町奥が指定されますが、当時は人家と離れた土地であり、貸座敷業者の移転反対運動により移転延期、一部は住ノ江町で営業を続けていたようです。
明治33年7月、入船町の奥地を造成し住ノ江町遊廓の業者が移転、小樽の町から遠くて淋しい場所だったので新遊廓に移転せず廃業する者もいたそうです。
今までの文献や資料であまり取り上げられていないですが、この明治33年7月の移転でかなり明確に遊廓と花街が、貸座敷と料理屋が分かれたのではないかと思います。
この新遊廓は小樽の町側から柳町・京町・仲ノ町・辨天町・羽衣町と5つの区画でできており、一辺が300メートル弱のやや変型した四角形で、大阪の飛田新地とほぼ同じ形・面積で、姿は大遊廓ですが実際に移転した時の軒数は30軒足らずではないかと思います。
松ヶ枝町の町名は大正4年の町名大改正で名付けられたもので、それより前の明治40年に北廓ができてからは北廓に対して南廓と呼ばれたのは確かですが、さらに以前の開業当初は単なる遊廓とでも呼ばれていたんでしょうか?
全国遊廓案内(昭和5年)に小樽南仲桝遊廓と書かれていることも合わせて謎が残ります。
実際に小樽の市街地から歩いてみましたが、築港から約2.5km、当時の町の中心の南小樽駅周辺から約2km、だらだらとした上り坂が続くので、遊びに行くのもかなり億劫な場所だったと思われ、住ノ江町とくらべると立地条件は圧倒的に不利です。
●花街の変遷
先にも書きましたが、明治25年あたりから妙見町方面に曖昧屋ができはじめ、明治27年に色内見番も発足します。
明治29年、住ノ江町遊廓が焼失した後から妙見町方面が発展し料理屋が多数できたそうです。
貸座敷営業の許可はされていないはずなので、芸妓中心の花街という建前で営業していたのでしょう。
しかし、料理屋とは別に曖昧屋の酌婦が娼妓の役割をしていたと思われます。
明治30年、丘陵地帯で民家も少なかった花園町を地主の依頼で入船町の見番業者が開発をはじめます。
明治31年、花園町の料理屋、見番などが竣工、その後も周辺の開発が進み一大歓楽街となっていきます。
同年には稲穂町にも見番ができ、明治33年に入船町の奥地に貸座敷が移転してからは、歓楽街は妙見町方面となり、その後、入船町・妙見町・稲穂町の中央に誕生した生まれながらの花街である花園町が小樽の歓楽街の中心となってゆき、この状況は100年以上経った現在まで続いています。
●梅ヶ枝町遊廓
明治30年代は、貸座敷が移転した後に料理屋が残った入船町花街、新たに発展した妙見町花街、それに続く稲穂町花街、その三ケ所の中心に産声をあげた花園町花街など、料理屋と曖昧屋の体勢で、ほぼ遊廓と変わらない状況が旧小樽の北に広がっていました。
明治13年に開通した鉄道ともに整備され拡大されつつある小樽港(旧手宮港)が手宮方面にあったので、市街地の発達していく方向は誰の目にも明らかだったからだと思います。
明治44年には石炭積出し用の世界最大級の高架桟橋が完成、全長約400m、海上部分約300m、高さ19mの偉容だったといいます。
小樽港の発展とともに船員工員や沖仲仕相手に飲食店において密売淫が行われ、それを防止するためか遊興税を当込んでか、手宮裡の原野を切り開き新遊廓が誘致されます。
明治40年3月28日遊廓指定地に許可され、明治41年に貸座敷業者16軒開業、先に存在する遊廓に対して北側にあるので北廓と呼ばれます。
大正4年、町名大改正が行われ花見町との案もあったそうですが、南廓が松ヶ枝町と名付けたのに呼応して梅ヶ枝町と名付けられます。
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幕末のコンタン町に始まった小樽の歓楽街は、明治の終わり頃、南廓北廓の2遊廓、花園町を中心として広がる花街、点在する曖昧屋や後家屋と呼ばれる私娼窟、という形で完成したのではないかと思われます。
大正〜現代は校正中、しばしの御猶予を…
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