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鷹目遊里史板

458黄線:2009/03/11(水) 03:25:04
「福原遊廓沿革誌」4
10.〜私娼の跋扈に悩む當局〜
 開港直後の神戸は、娯楽施設の工事や港湾修築などの土木工事が多く、労働者も諸国から集まり一種の植民地であった。これは私娼の活躍には絶好の天地であったようである。
 十銭は湊川の堤防や堤防下の野天。立淫売は薄暗い路地で「モシモシ」。これに少々上等なおちゃら、惣嫁たちが三つ巴になりしのぎを削り街の風紀は著しく乱れる。さらに町娘や寡婦、既婚の女子が洗濯女と称して港内停泊の船内で売春を行ったり、曖昧家や貿易品売込商人に抱えられて隠れ売春を行うようになる。ついに兵庫県当局は、遊女は福原遊廓内に限ること。飯盛女は兵庫小廣町、神明町、逆瀬川町、東柳原町、西柳原町のみに限ると厳重な布達を発することとなる。

11.〜福原遊廓の移転事情と其の繁盛〜
 明治三年、神戸大阪間の鉄道敷設が決まり、同年六月神戸停車場の位置は福原遊廓の地域が最好適ということになる。しかし神戸駅の工事延期や代地である湊川側の土工が着手されていない事情もあり業者の移転が仲々進まなかった。しかし明治四年五月十八日に大津波が起こり福原の家屋が倒壊。これをきっかけに新福原への移転が急速に進むこととなる。
 新福原移転時の遊女数は約三百五十名。揚代金は上等二分、中等一分二朱、下等一分、最下等二朱の四等にわかれる。一夜貸し切りは二両を要したそう。遊女の身代金は一年間で二十両が相場。子店なら十両、稀に三十両の前借金の遊女が現れると神戸中の評判となった。
 移転の補償は大小妓楼一軒平均十五両。各楼の新築は借金により賄われる。このまま好況が続けば数年で回収できるものと思われたが、明治五年十月の遊女解放令により業者の目論見が崩れることとなる。

12.〜遊女解放令の發布顛末〜
 明治五年六月に横浜でマリアルーズ号事件が起こる。我国は奴隷を認めずという判決を下した手前、神奈川県当局は明治五年九月に藝娼妓解放令を発する。だが実際は自由営業者は許すとして業者に抜け道を残していた。ところが十月二日、近代化に向かい改革を進める中央政府によって人身売買の完全禁止。そのうえ同日、司法省が人権を持たない娼妓芸妓は牛馬と同じであるという理屈で前借金を棒引きにするよう布達する。業者に一切代償の無いこの解放令は当時世間でも驚かれ「牛馬のきりほどき」或いは「切りほどき」と称して取り沙汰された。

13.〜遊廓取潰しから再興へ〜
 兵庫県では遊女の前借金の棒引きはもちろんのこと国許に帰る旅費までも業者が負担するように命令が下る。藤田泰蔵と業者たちはあらゆる手段で嘆願陳情を試みたが十日間以内に遊女を解放することを命じられ、ついに県当局の前で遊女を引取人に手渡すこととなった。福原の業者は莫大な損害と心労による大打撃を受け明治六年の貸座敷渡世によって公許された時、再開業した妓楼は僅か二十軒であった。


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