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鷹目遊里史板
747
:
夕凪
:2011/09/26(月) 01:03:48
「まわし」 にみる 植民地的合理性
上方にまずあった公娼を、元和元年(1615年)江戸で吉原として起こすと、
各藩の城下町にもこれをまねるものが増えてきた。
そして五街道の宿場には原則として飯盛りと呼ばれる下女兼用の公娼が許可された。
関八州とよばれた関東各地も、城下町と宿場にはこうして遊女が公認されたのである。
ことに参勤交替が行なわれ、物資流通がさかんになると、
遊女の需要が増し、一方農民の零細化と貧窮が進むとその供給を増した。
ついに私娼もこれに加わって、だるま、ざるそば、草もち、牛人坊などと
関東地方で呼ばれた。江戸にまねて、けころ、よたかと呼んだ場合もある。
この伝統があったので、明治後の公娼数(大正末年調べ)も東京は5,778人に対し、
神奈川2,638人、埼玉109人、千葉259人、茨城231人、栃木773人と多数を抱え、
関東の習慣である「まわし」制により遊女の接客数は関西の2.7倍に達した。
関西の売春風俗は一応古い伝統にもとづいて仮結婚式の形を一部に取り入れているのに、
関東は全く徹底した性の商品化が行なわれ、まわし制などを行なったのは注目に値する。
これは、江戸での植民地的合理性の表れの広がったものであるが、
この習慣は関東にひろくひろがって、
三河の国を境に、東西性風俗の区別とさえなった。
1969年発行の新書より
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