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鷹目遊里史板
456
:
黄線
:2009/02/18(水) 02:59:19
「福原遊廓沿革誌」3
7.〜兵庫津の花街略史〜
兵庫津の事情であるが、柳原は江戸末期に四箇所の岡場所が移転して出来た。岡場所のうち三箇所は船頭や漁師などの身分の低い男たちを相手にする下等な引店である。彼らは女のことを毛饅頭と異名していた。一番人気は眞光寺前にある笹屋の八重菊で流行歌もあったほど。
娼妓買ふなら眞光寺前で、音に聞こえた八重菊買やれ、この妓匂いも色もある
残りの一箇所は「割」または「両掛」と称する藝娼妓兼帯の女を置く磯野町であった。磯野町の両掛宿(娼家)は今でいう中流以上の男を相手に大変繁盛していた。
しかし、文久三年(1863)“遊廓まがひの花街取潰し”の御布令によって、これらの引き店と両掛宿に柳原への移転と宿屋の開業が命じられる。渋々と従った引店の亭主や両掛宿の親方は、女たちを飯盛りという名目でそのまま宿に置いて表面は宿屋として渡世することとなった。八重菊も飯盛り女として働くことになり小菊と名を変えて一番人気を誇った。
8.〜宿屋渡世を命令された譯〜
岡場所に移転が命じられた理由は宿屋の不足。攘夷派の長州藩を征伐する軍勢の宿舎に宛てるためであったらしい。このため長州征伐が終わると止宿する軍勢もなくなって柳原は低迷する。
9.〜柳原の花街と新川遊廓の由来〜
やがて柳原では飯盛り女が芸者と遊女に別れるようになる。宿屋も芸者が主の宿、遊女が主の宿という風に色分けされて花街らしき形になった。遊女屋の方は再び以前の渡世に戻ったわけだが、取り締まりを恐れて宿屋の看板だけは降ろさずに営業をおこなった。
お茶屋軒宿屋は表の格子に貼った半紙に「盛」または「藝」と書いて飯盛り女が芸者になった店の目印にした。さらに明治初年には「藝」の文字の横に三味線のばちを形どった印を並べ書いて目印にした。同時に大勢の遊女と芸者を一つ部屋で抱える置屋とお茶屋に別れて専業化する。
西南戦争(1877)景気によって福原も柳原も繁盛する。しかし福原の大繁盛を見て自省した柳原花街はいずれ遊女と芸者との区別も出来なくなるような時節が到来すれば柳原滅亡の時であるからと、置屋とお茶屋が相談の上、芸者と遊女を厳然と区別して芸者は柳原に残らせ遊女は新川へ移すこととなった。これが新川遊廓の出来た理由。
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