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鷹目遊里史板

679膳所裏:2011/03/30(水) 14:50:40
生駒ぞめき
 生駒市誌によりますと、生駒新地の誕生は大正三年、大軌鉄道(現近鉄)が生駒鉄道を設けたことが発端で、花街の歴史も大正四年に大阪南地の巴席がここに置屋をおいたことから始まりました。

 この巴席の芸妓は「不破」や「呂之助」など、赤穂浪士にちなんで芸名をつけたそうです。

 当初は大阪出身の業者大阪党と生駒出身の料理屋側の生駒党で何事も対立していましたが、松川生駒分署長のもとで、置屋側と料理屋側が共同出資して「生駒芸妓株式会社」が生まれました。

 大正十年には旧新町演舞場の建物をそのままこの地に移転し、生駒座として新な生を受け、温習会もここで行われました。(現在は跡形もありません。)

 昭和に入ると、洋式の舞踏場の建設が大阪府で許可されなかったこともあり、牧山と云う人が洋館のスマートなダンスホール「生駒舞踏場」を作ると、最盛期にはダンサーも百人を数え、大阪の会社の重役連中が連日押しかけたそうです。

 戦後は生活環境の変化に加え、涼しい生駒もキャッチフレーズも冷房装置の普及でその意味を失いだんだん勢いを失いました。それでも昭和四十八年に芸妓はまだ百五十人もいたそうです。

 現在の生駒で私がお勧めするのが元旅館を改装され雑貨屋&カフェとして若きご主人が営むナイヤビンギさんです。

 2階の客室を利用した個室空間の窓際でコーヒーを啜りながら、浪花の恋の寅次郎の中で寅さんが松阪慶子扮する大阪芸者ふみと仲睦まじく歩いた宝山寺に続く参道を片肘ついて眺めれば、

     “生駒新地は気楽なところ
        三味や太鼓で日を暮らす”

 野口雨情が作詞した「生駒新地流し」で歌われたかつての賑わいに思いを馳せるのも、そう難しくは無いようです。


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