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鬼和尚の仏教購読会 別館

206鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/07(月) 00:20:14 ID:1d4drIFg0
>>203 惜しいことじゃ。
 首の辺りにこりがあったり曲がっていたりすると気が通りにくいのじゃ。
 それを直すためにハタ・ヨーガや気功法の動功があるのじゃ。
 集中にも役立つのじゃ。
 実践してみるとよいのじゃ。

207避難民のマジレスさん:2019/01/07(月) 19:55:53 ID:LC3de7YgO
>>205
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

ソーマは月の別名だ。
それはキノコでも、LSDのようなものでも、麻薬でもない。
それは月と霊的交流に入るための秘術だ。
ちょうど海が月の影響を受けるように、月からエネルギーを得ることができた
なら、あなたは驚くだろう―大いなる精髄ジュース、大いなる甘露が降り注い
でくる。
あなたはいかなる麻薬で酔っぱらうこともなく酔いしれることができる。
月はあなたの実存のまさに中核にまで影響を与えることができる。
それはあなたをひそやかで、穏やかにする。
それは月が女性的なエネルギーだからだ。
愛する女性を抱擁すると、たちまちあなたは深い静けさと穏やかさが湧き起こ
るのを感じる。
月からエネルギーが返ってくるときには、それとまったく同じことがより大き
な規模で起こる。
太陽が男性原理であるように、月は女性原理だ。
月は<陰>であり、太陽は<陽>だ。
月は母のようにあなたを慈しむ。
ヒマラヤの谷間にキノコを探しに出かけなくてもよい。
そのキノコはいつも天空にかかっている。それは月だ。
ただあなたはどうやって月からエネルギーをもどってこさせるか、その秘法を
習わなければならない。
月から、そして太陽からもエネルギーを得る秘密の技法が伝えられてきた。
太陽崇拝は、ある技法から生まれたものであり、巨大な太陽の神殿が建てられ
た。
コナラックの太陽の神殿は、まさに太陽への感謝を表すものだった。
それはたんなる礼拝ではなく、いかに<陽>のエネルギーを取り入れるかとい
う科学だった。
特に女性は太陽のエネルギーを取り入れるとよい。
隠され、眠っている<陽>のエネルギーが活性化するからだ。
男性は月のエネルギーを取り入れるとよい。
眠っている女性原理が活性化し、再び動きはじめるからだ。
女性は太陽を礼拝するといいし、男性は月を礼拝するといい。
だが、その礼拝はただの儀式であってはならない。
それはこのような技法でなければならない。
光を輪のように巡らせると、天と地、光と闇のエネルギーはことごとく結晶化
する。
「光と闇」は、男と女、軽さと重さ、恩寵と重力、生と死、運動と休息を象徴
している。
これらすべてが「光と闇」で表されている。
ひと言で言えば、エネルギーが輪のように巡れば、あなたはだんだんと自分が
男なのか女なのかわからないようになる。
外向性は<陽>の原理であり、内向性は<陰>の原理だ。
男には自然に外へ向かう傾向があり、女には自然に内に向かう傾向がある。
愛を交わしているときでさえ、男は目を開けたままでいる。
彼は見たい。男は覗のぞくのが好きだ。ポルノが現れるのはそのためだ。
ポルノに興味をもつ女性はいない。
女性はそれに意味があるとは思えない。
恋人と愛を交わしているときでさえ、女性は目を閉じている。
女は内向的であり、彼女のエネルギーは内側へ向かう。
だが、そのエネルギーは輪にならなければいけない。
輪にならないかぎり、人は男か女であり続ける。
だが、どちらも半分であり、同じ全体なるものの半身だ。
互いに相手に惹かれ、相手を必要とするのはそのためだ。
いつかエネルギーを輪のように巡らせることができるようになれば、あなたは
相手の男性や女性を必要としなくなる。
なぜなら、みずからの内なる男性とみずからの内なる女性が出会い、互いに溶
け合っているからだ。
あなたは全体になる。
そして全体ホールであることが神聖ホーリーであることだ。
全体であることが神聖であること―これがタオであり、そしてこれはタントラ
でもある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

208避難民のマジレスさん:2019/01/07(月) 19:55:54 ID:LC3de7YgO
>>205
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

ソーマは月の別名だ。
それはキノコでも、LSDのようなものでも、麻薬でもない。
それは月と霊的交流に入るための秘術だ。
ちょうど海が月の影響を受けるように、月からエネルギーを得ることができた
なら、あなたは驚くだろう―大いなる精髄ジュース、大いなる甘露が降り注い
でくる。
あなたはいかなる麻薬で酔っぱらうこともなく酔いしれることができる。
月はあなたの実存のまさに中核にまで影響を与えることができる。
それはあなたをひそやかで、穏やかにする。
それは月が女性的なエネルギーだからだ。
愛する女性を抱擁すると、たちまちあなたは深い静けさと穏やかさが湧き起こ
るのを感じる。
月からエネルギーが返ってくるときには、それとまったく同じことがより大き
な規模で起こる。
太陽が男性原理であるように、月は女性原理だ。
月は<陰>であり、太陽は<陽>だ。
月は母のようにあなたを慈しむ。
ヒマラヤの谷間にキノコを探しに出かけなくてもよい。
そのキノコはいつも天空にかかっている。それは月だ。
ただあなたはどうやって月からエネルギーをもどってこさせるか、その秘法を
習わなければならない。
月から、そして太陽からもエネルギーを得る秘密の技法が伝えられてきた。
太陽崇拝は、ある技法から生まれたものであり、巨大な太陽の神殿が建てられ
た。
コナラックの太陽の神殿は、まさに太陽への感謝を表すものだった。
それはたんなる礼拝ではなく、いかに<陽>のエネルギーを取り入れるかとい
う科学だった。
特に女性は太陽のエネルギーを取り入れるとよい。
隠され、眠っている<陽>のエネルギーが活性化するからだ。
男性は月のエネルギーを取り入れるとよい。
眠っている女性原理が活性化し、再び動きはじめるからだ。
女性は太陽を礼拝するといいし、男性は月を礼拝するといい。
だが、その礼拝はただの儀式であってはならない。
それはこのような技法でなければならない。
光を輪のように巡らせると、天と地、光と闇のエネルギーはことごとく結晶化
する。
「光と闇」は、男と女、軽さと重さ、恩寵と重力、生と死、運動と休息を象徴
している。
これらすべてが「光と闇」で表されている。
ひと言で言えば、エネルギーが輪のように巡れば、あなたはだんだんと自分が
男なのか女なのかわからないようになる。
外向性は<陽>の原理であり、内向性は<陰>の原理だ。
男には自然に外へ向かう傾向があり、女には自然に内に向かう傾向がある。
愛を交わしているときでさえ、男は目を開けたままでいる。
彼は見たい。男は覗のぞくのが好きだ。ポルノが現れるのはそのためだ。
ポルノに興味をもつ女性はいない。
女性はそれに意味があるとは思えない。
恋人と愛を交わしているときでさえ、女性は目を閉じている。
女は内向的であり、彼女のエネルギーは内側へ向かう。
だが、そのエネルギーは輪にならなければいけない。
輪にならないかぎり、人は男か女であり続ける。
だが、どちらも半分であり、同じ全体なるものの半身だ。
互いに相手に惹かれ、相手を必要とするのはそのためだ。
いつかエネルギーを輪のように巡らせることができるようになれば、あなたは
相手の男性や女性を必要としなくなる。
なぜなら、みずからの内なる男性とみずからの内なる女性が出会い、互いに溶
け合っているからだ。
あなたは全体になる。
そして全体ホールであることが神聖ホーリーであることだ。
全体であることが神聖であること―これがタオであり、そしてこれはタントラ
でもある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

209鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/07(月) 22:02:29 ID:1d4drIFg0
丹田に発生した気は陽の気であり、日の属性というのじゃ。
それが頭の天辺に達すると涼しい陰の気に変るというのじゃ。
インドのヨーガでも頭の天辺のブラフマランドラには月があるとイメージするのじゃ。
月の冷たい雫が垂れてきて冷たい気に変るというのじゃ。
その気を丹田にまで下げて収めることで小周天は完成するのじゃ。

210避難民のマジレスさん:2019/01/08(火) 02:05:22 ID:LC3de7YgO
>>209
>頭の天辺に達すると涼しい陰の気に変る>インドのヨーガでも頭の天辺のブラフマランドラには月があるとイメージする
>月の冷たい雫が垂れてきて冷たい気に変る
>その気を丹田にまで下げて収める
←そう言えば、身体を流れる気を観察していると、皮膚の表面や身体の内部で、温度の違いを感じたであります。
気自体の熱感が際立って感じられるのでありますが、冷たい部分も確かにあったであります。
当時その事を、2ちゃんの仙道スレに書いたら、名無しさんに、「陰の気」と教えてもらったのでありますが、
別の書き手に、全否定され、くまの書くことは全部嘘だと決めつけられ、粘着されてしまったのでありました。
気功修行の記録をそこに残していたのでありますが、
粘着くんへの対応が面倒になり、記録とともに、その修行自体も中断したのでありました。
(´・(ェ)・`)つ

211避難民のマジレスさん:2019/01/08(火) 02:20:20 ID:LC3de7YgO
>>208
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

光を輪のように巡らせると、天と地、光と闇のエネルギーはことごとく結晶化す
る。
カール・グスタフ・ユングが「個性化」「結晶化」と言っていたのはこのこと
だ。
ゲオルギー・グルジェフが「自己の誕生」あるいは「魂」と言っていたのはこ
のことだ。
あなたは通常は断片にすぎない。
あなたはたくさんの自己を持っている。
単一の"私"はなく、たくさんの"私"、小さな"私"をもっている。
しかもそれらがみな支配権を握ろうと、互いに闘い、競争し合っている。
人間は複数だということ―それが人間の惨めさだ。
自分がたくさんいたら、どうして安らぐことができるだろう?
ある部分が「これをやれ」と言い、別の部分が「いやだ」と言い、また別の部
分が「もっと他のことをやれ」と言う。
どれに従っても後悔することになる。
なぜなら、それに従いたくない他の部分が問題をつくりだすからだ。
「おまえは道を間違えている。別の選択をしていた方がはるかにましだった」
と他の部分がしきりに言い続ける。
「俺についてきたら、もうたどり着いていたのに。
見ろ、おまえが耳を貸さなかったせいだ」
だが、その部分に耳を傾けていたなら、また別の部分が反撃に出ていただろう。
人間はけっして満足しない。満足することなどありえない。それは人間が複数
だからだ。
ひとつになれば、満足はおのずと湧いてくる。
あなたが複数いるなら、不満足はやむをえない。
あなたが複数いるなら、葛藤の絶えない人生になる。
ひとつであれば、葛藤は消え失せる。
あなたは我が家に帰り着いている。
道家の人々が「結晶化」と呼んでいるのはこのことだ。
それを達成する技法は、あなたの<陰>と<陽>がもはや分離していないよう
に光を輪のように巡らせることだ。
光はまさに呼吸のごとく動かなければならない。
息は出ては入り、入っては出てゆく。
あなたは息を吐き、息を吸う。
息を吐いてばかりいる人を思い浮かべてみるがいい。
彼は生きてゆけなくなる。
彼の肉体は死んでしまう。
あるいは息を吸ってばかりいる人を思い浮かべてみるがいい。
彼もまた死んでしまう。
だが、これこそまさにあなたの魂に起こっていることだ。
あなたの魂は死んでいる。
光を吐き出すか、光を吸い込むか、あなたはその片方しかしていないからだ。
まだあなたは吐くことと吸うことが輪に、ひとつのプロセスにならねばならな
いことを学んでいない。
深く吐き出し、深く吸い込みなさい。
肉体の生命にとって呼吸が必要なように、魂には意識が必要だ。
だから意識を半分のままで放置してはならない。
輪を完結させなければならない。
女性はいかにして男でもあるかを学ばなければならない。
男性はいかにして女でもあるかを学ばなければならない。
そして男性と女性が等しいバランスを得ると男女のバランスが完全に取れると
き、それが結晶化、個性化であり、魂が生まれるときだ。
(p142)

この秘術を行ないはじめると…そして、確かにそれは秘術だ。
本当に信じられないほどの効果があるからだ。

この秘術を行ないはじめると、まるで生ける存在の 只なかに無があるように感
じられる。
私が「ブラック・ホール」という言葉で言おうとしたのはこのことだ。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

212避難民のマジレスさん:2019/01/08(火) 02:32:53 ID:LC3de7YgO
>>211
仙道・気功、あるいはクンダリニヨガ等の解説として、このように解説されているところは他にもきっとあり、くまも目にしたことはあるかもしれないでありますが、
はじめて心に響いたであります。
くまの実感としては、気を巡らす訓練は、数息観等の瞑想修行とは全く異質の身体修行の様に感じられ、ますます自我を強化するものの様に感じられたのであります。
それで、その訓練法を放棄するのにためらいはなかったのだと思うのであります。

鬼和尚の言われるように、惜しかったと、今は思うのでありますが、
これから、当時を思い起こして、再度取り組み完成させようとしても、この手のことは意識的に追い求めると起こらず、
身体に自然と火がつくのを待つしかないと思うのでありますが、ちょぴっとづつやってみるであります。
(´・(ェ)・`)つ

213鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/08(火) 23:31:43 ID:1d4drIFg0
>>210>>212 陰の気まで感じられていたのに惜しいことじゃ。
 自分の修行について話したり、書いたりしないほうがよいのじゃ。
 常に批判する者は居るからのう。
 それをドリームバスターと言ったりするのじゃ。
 夢を壊すものなのじゃ。
 修行法をも秘密にするのはそのような者に修行者が毒されないようになのじゃ。
 今度は秘密にやるのがよいのじゃ。

214避難民のマジレスさん:2019/01/09(水) 01:21:16 ID:LC3de7YgO
>>213
鬼和尚、ありがとうであります。
うむ。
今度は、こっそりやるであります。
けど、臍下丹田〜会陰の辺りで陽気が滞っていることを仙道スレに書いたら、名無しさんに、逆腹式呼吸で押し出す方法を教えてもらい、助かったりもしたのであります。
うむ。でも今度は、極秘でやるであります。
(´・(∀)・`)つ

215避難民のマジレスさん:2019/01/09(水) 02:11:17 ID:LC3de7YgO
>>211
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

この秘術を行ないはじめると、まるで生ける存在の 只なかに無があるように感
じられる。
…生ける存在に囲まれているかのように感じられるが、 あなたは非存在、無の
孤島―ブラック・ホールにすぎない。
樹々は生きている。
星々は生きている。
鳥たちは生きている。
大地は生きている。
太陽や月は生きている。
あらゆるものが生きている。
ところがあなたは……死せるブラック・ホールにすぎない。
生ける存在のこの広大な海原のなかで、あなただけが非存在だ。
これは修行をはじめたばかりのときに起こってくる状況だ。
やがて修行の成果が現れてくると、肉体の外に肉体があり、 あたかも無の只な
かに生ける存在があるかのように感じられる。
あらゆるものが一変してしまう。
あなたは生ける存在、ホワイト・ホールになる。
あなたはすっかり統合され、結晶化しているので、それと比べれば、太陽や月
や樹や鳥や動物はすべて非存在のように見える。
仏陀のような人を思い浮かべてみるといい。
彼には存在感がある。
彼と比べれば、全存在も青ざめているように感じられる。
彼には生命、永遠の生命、ありあまるほどの生命がある。
全存在は貧しく、彼は豊かだ。
彼は帝王であり、全存在は乞食のようにみすぼらしい。

やがて修行の成果が現れてくると、肉体の外に肉体があり……この光の輪があ
なたのなかで定まり、結晶化すると、あなたは肉体の中にある別の身体を感じ
るようになる。
この肉体は塵ちりでできているが、その身体は神で、聖なるものでできている。
この肉体には形があるが、その身体には形がない。
この肉体は粗雑だが、その身体は微細だ。
この肉体は死なねばならないが、その身体は死を知らない。
この肉体は時間の一部だが、その身体は永遠の一部だ。
この第二の身体が生まれると―それを生み出すためには、まず光を吸ったり吐
いたりする方法を身につけなければならない……ちょうど息を吸ったり吐いた
りするように、第二の身体、光の身体において光を吸ったり吐いたりする方法
を身につけたなら……。
この肉体は闇の肉体であり、この肉体は大地の一部、重力の一部だ。
それは重く、下方へと引っ張られる。
もうひとつの身体は上方へと引っ張られる。
それは恩寵の一部であり、軽いライト……文字通り光ライトのように軽い。
それは光を放ち、重さをもっていない。
あなたは飛ぶことができる。
禅の人々が「翼なくして飛翔する」と言うのはそのことだ。
そうなったら大空とその限りのなさがそっくり手に入るようになる。
(p144)

あたかも無の只なかに生ける存在があるかのように感じられる。
百日 のあいだ懸命に努力を続けると、ようやく火が発するようになる。
最初、光はほとんど空想されたもののように見えるだろう……最初は空想から
出発するしかない。
時が経ち、百日が過ぎると、百日のあいだ
懸命に努力を続けると……それはど
れだけ集中して働きかけるかにかかっている。
百日と決められているわけではない。
全身全霊をあげて取り組めば百日だが、気を抜けば百年、あるいは百回生まれ
変わらなければならないかもしれない。
それはいかに熱心に取り組むかにかかっている。
心血を注ぎ、全身を投げ入れ、打ち込み、すべてを賭ける用意ができているな
ら、百日間で「火」が生じてくるだろう。
最初のうちは空想であっていい。
空想は悪いものではない。
空想によって現実から目をそらしたり、空想が障壁とならないかぎり、それは
悪いものではない。
現実と協調しているかぎり、空想は悪いものではない。
それは大きな祝福となるだろう。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

216鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/09(水) 22:44:20 ID:1d4drIFg0
丹は集中して気を集めているとだんだん大きくなってくるのじゃ。
体の中で別の体を形成するのじゃ。
陽神というのじゃ。
それはやがて頭の天辺から体を抜け出すようになるのじゃ。
そのような現象はヨーガや仏典にもあるのじゃ。
脱身とか意生身というのじゃ。
実際は意識が拡大しているのじゃ。

217避難民のマジレスさん:2019/01/09(水) 23:51:57 ID:LC3de7YgO
>>215
15黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる3
 より抜粋

最初はそれは空想の産物のように感じられるだろう。
鏡を見ながら、あなたは「鏡に映った自分がこちらを見ているなんて、これは
すべて空想だ」と感じるだろう。
最初は紛れもない空想だが、間もなくそれは空想でなかったことに気付くだろ
う。
あなたは現実の扉の錠を開けようとしていただけだ。
それは現実に起こりはじめる。
最初のうちは大いなる愛を込めて樹に触れても―あなたは樹が応えてくれるは
ずがないと思っている―樹が少しでも応えてくれるのを感じても、あなたは空
想だと思うだろう。
そうではない。樹は応えている。
だが、本当にそうだと気付くには少々時間がかかるだろう。
あなたが愛にあふれていれば、樹は愛をもって応えてくれる―愛にはいつも愛
が返ってくる。
愛に愛が返ってこなければ、その愛は愛ではなかったのだと知りなさい。
それが真相だ。
別の何かが愛の仮面をかぶっていたということだ。
(p146)

そうしてはじめてそれは精神の火となる。
百日間にわたる懸命な努力ののちに、それは精神の火となる。

さらに百日行ずれば、光の中に真の光の極がおのずと現れてきて……はじめは
光は散漫だ。
わずかにそこにあるのが感じられるだけだ。
そこにあるかと思えば、またなくなってしまう。
それはひじょうに微かで、とても壊れやすい。
だが、徐々に光の中心がしっかり定まってくる。
それは「光の極」になる。

突如、真珠の種が生まれる。
そうなったら、「光の極」のそのまさに中心に、「真珠の種」が生まれる。

それはあたかも男女が交わって受胎が行なわれるようなものである。
まさにその通りのことが起こる。
内なる男と内なる女が抱擁し合っている。
それは一種の内なる性交だ。
それが真のタントラだ。
あなたの女性的な部分と男性的な部分が互いに愛を交わし、ひとつに結ばれて
いる。
そうなったら、彼らは別れる必要がない。
外側の女性と結ばれたままではいられない。
さもなければひどく醜いことになる。
外側の女性と結ばれたままではいられない。
さもなければ嫌悪をもよおすことになる。
外側の男性と結ばれたままではいられない。
それは つかのまのものでしかありえない―ほんの一瞬だけ、 あなたがたは合一
状態をかいま見ることができる。
だが、内なる結合は解く必要がない。
仏陀のような人は絶えることのない オルガズムの状態を生きている。
内なる女性と内なる男性が愛を交わし続けている。
ヒンドゥー教の寺院でシバリンガを見たことがあるに違いない。
あれは象徴シンボルだ。あのリンガの下には ヨーニ、女性の性器がある。
それは内なる男と女の出会いの 象徴だ。
フロイト派の学者が解釈するような、たんなる男根では ない。
それは象徴的なものであり、人の内なる極性を表している。
ひとたびこの出会いが起これば、あなたは新しく生まれ変わる 。

イエスがニコデモに「もう一度生まれ変わらないかぎり……」 と言うとき、彼
が伝えようとしているのはこのことだ。
私はキリスト教徒がなんと言うか知らないし、そんなことは 気にもかけないが
、彼が言おうとしているのはこのことだ。
「もう一度生まれ変わらないかぎり……」 これが彼の言おうとしている誕生だ。
そしてこれが ヒンドゥー教徒が「ドウィジャ」―二度生まれ― と呼んでいるも
のだ。
あなたは自分自身を誕生させた。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

218鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/10(木) 23:02:27 ID:1d4drIFg0
丹が陽神になるまでに長い年月がかかるのじゃ。
毎日座って気を集中していかねばならないのじゃ。
その期間を養胎というのじゃ。
妊娠した時と同じであると例えられるのじゃ。
体の中に新しい体が作られるのであるからのう。

219避難民のマジレスさん:2019/01/11(金) 00:09:06 ID:LC3de7YgO
>>217
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

外側の男が外側の女と出会えば子供が生まれ、赤ん坊 が産み落とされる。
内なる男が内なる女と出会うときにも 子供が生まれるが、あなたは親であると
同時に子供にもなる 。
あなたの内側に新しい生命いのち、覚者ブッダの生命、 <光明エンライトンメ
ント>の生命、不死の生命が芽生える。
このときには静かな状態で待たなければならない。
内側でこの受胎が感じられたら、内なる男性が内なる女性を貫き、女性が受胎
したのを感じたら、あとはもうただ待てばよいだけだ―女性が九ヶ月間、大い
なる喜び、大いなる祈り、大いなる希望を抱いて待つように。
しなければならないことは何もない。
まったく何もする必要はない。
為すべきことは終わっている。
男性の役割は行為にある。
光を巡らせることが男性の役割だ。
ひとたび受胎が起こり、内なる女性が妊娠したら、男性的な部分は働く必要が
ない。
それは休まなければならない。
あとはものごとが自然に成長してゆく。
瞑想が最初の部分であり、
あとは祈りだけが残されている。
「瞑想なくして祈りが何であるかを知ることはけっしてできない」と私が言う
のはそのためだ。
祈りは瞑想がとるもっとも高次な形態だ。
祈りはかぐわしい香りのようであり、瞑想は花のようだ。
人は瞑想を通ってゆかなければならない。
人々は私になぜかと尋ねる。
もしもその人の道が祈りの道だとすれば、このアシュラムでは、彼らにどうし
てこんなにたくさんの瞑想を勧めるのかと。
祈りはやって来る、あなたは祈りがやって来るための道を準備しなければなら
ない。
あなたはあらゆる種類の瞑想を体験しなければならない―それは浄化のプロセ
スだ。
満足させる必要があるのはあなたの男性的な部分であり、そうすれば女性的な
部分が後を引き継ぎ、あなたは妊娠するだろう。
そして妊娠するというのは祈りに満ちることだ。
なぜなら、もう何もすることがないからだ。
努力は終わり、今やあなたは無努力になっている。
道家の人が「無為の為」と呼んでいるのはこのことだ。
あなたは光を輪のように巡らせる実験を重ねてきた。
長いあいだ懸命に努力して成果をあげた。
あなたの内側で何かが結晶化している。
男と女はもう分離していない。
それらはひとつになっている―子供がそこにいる。
今や待つこと以外、何ひとつ必要とされない。
希望に満ちて待ち、信頼に満ちて待てばいい。
そしてこれこそが祈りだ。

根源的な変容の只なかにあっては、光の放射が決定的な働きをする。
受胎が起こったことをあなたはどうして気付くのか?
あなたは内なる輝きを見るようになる。
目を閉じるたびに、闇ではなく光の放射が見えてくる。
それを見るのはあなただけでなく、あなたを愛している人々―彼らもまたあな
たのまわりに霊光オーラを見るようになる。

根源的な変容の只なかにあっては、光の放射が決定的な働きをする。
女性が妊娠しているとどうしてわかるのだろう?
子供を宿している女性のまわりにある種の霊光オーラを見たことがないだろう
か?
彼女の目、彼女の顔、彼女の実存そのものから、ある光が放たれているのを見
たことがないだろうか?
あなたが内側に神を孕はらんでいるとき、それとまったく同じことが、もっと
高い次元で起こる。
あなたは光の放射を見る。
目を閉じるたびに、内側にはただ光が満ちあふれている。
光源のない光がどこからともなくやってくる。
それはひじょうに涼しい光、月光のようなものだが、このうえもない魔法のよ
うな魅力をおびている。
そしてあなたを愛している他の人たち、あなたとひじょうに親しい者たちもそ
れを感じはじめる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

220鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/11(金) 22:47:32 ID:1d4drIFg0
陽神が完成すると光が三度発生するというのじゃ。
養胎が終わったしるしなのじゃ。
それは陽神を体の外に出してもよいという合図なのじゃ。
陽神を体外に出すことを出神というのじゃ。

221避難民のマジレスさん:2019/01/12(土) 10:49:49 ID:LC3de7YgO
>>219
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

聖人の肖像のまわりに霊光が描かれるのはそのためだ。
それは誰の目にも見えるものではない。
あなたがキリストを見たとしても、彼の霊光オーラは見えなかっただろう。
だが、弟子たちには見えた。
彼を十字架にかけた者たちの目にその霊光が見えなかったことは確かだ。
彼らは見ることができなかった。
彼らは盲目であり 、閉じていた。
弟子たちには、仏陀のまわりに霊光が見えた。
この秘密は愛する者たちだけに明かされる。
これは ひじょうに近しい者たちだけに明かされる秘密であり 、相手かまわずど
この誰にも明かされるわけではない。
この秘密はごく親しい者たち、近くへ近くへ近くへと 近つ゛いてくる者たち、
心を開いた、 感じやすい者たちだけに明かされる。
(p150)
●空想でなく事実●1/1

根源的な変容の只なかにあっては、光の放射が決定的な働きをする。
それは物質界においては太陽であり、人間においては目である。
あなたのなかで内なる放射が輝きを増しはじめると、目は輝きを帯び、酔っぱ
らったようにみえる。
その目は踊っている―霊妙な光、まったく異なる質が現れる。
もはやその目はただものを見るだけでなく、分かち合ってもいる。
タオを分割することはできないが、それを分かち合うことはできる。
そしてタオの分かち合いは目を通してなされる。

サニヤスを授けるとき、私は、私の目を見るように求める。
私は奥深くで触れるために、あなたの目をのぞき込み、この目であなたの目を
深く掘り下げようとする。
なぜなら、あなたの両目の後ろには第三の目が隠されているからだ。
第三の目に触れられれば―あなたが開いていれば、それはまたたく間に起こり
、時間はかからない。
第三の目に触れられれば、弟子がやって来たのがわかるからだ。
感触がなければ、その人はいつの日にか弟子になるだろうと望みをかけるだけ
だ。
望みをかけて、私はサニヤスを与える。
だが、それはあくまでも望みだ。
かなえられるかもしれないし、かなえられないかもしれない―それは千とひと
つのことに左右される。
だが、弟子となるべき者に出会ったとき、その第三の目がただちに私に感応し
はじめたら、あなたはずっと探しに探し求めてきた場所にたどり着いていると
いうことだ。
そうなったら、もうどこにも行く必要はない。
もう師マスターも、教えもいっさいいらない。
あなたはわが家に帰り着いている。

このエネルギーは外界に向けられる(下に流れる)。
通常、目から放たれるエネルギーは外に向かって流れている。
〝外向〝と〝下降〝は同じ意味だ。

それゆえに黄金の華の道はひとえに逆流の技法にかかっている。
通常、エネルギーは外に向かい、下降している。
あなたはそれを逆転させ、内に向けなければならない―そして"内向"と"上昇"
は同じ意味だ。
ひとたびエネルギーがあなたにもどりはじめ、あなたがエネルギーの輪になれ
ば、驚くようなことが起こる―新しい次元が扉を開き、あなたは上昇しはじめ
る。
あなたの生はもはや水平なものではなくなる。
それは新しい道筋を取り、垂直になる。
神は垂直の道筋の上にある。
この世界で神に出会うことはない―神がこの世界にいないわけではないが、垂
直に動いていないかぎり、神にであうことはない。
盲人に光が見えないように、水平に動いている者には神が見えない。
たくさんの人が私のもとに来て、「神を見せてくだされば、私は信じます」と
言う。
だが、どうして神を見せることができるだろう?
私はあなたがたを水平な生き方から垂直な生き方へと転換させなければならな
い。
サニヤスとはまさにそのこと―垂直な在り方を指している。
ひとたび光が上昇しはじめたら、黄金の華が開く。
これらはシンボルだ。あなたの内側に花があるわけではない。
「華」とはたんに花開くこと、「黄金」とはたんにそのまばゆい光、その輝か
しい放射を表しているだけだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

222避難民のマジレスさん:2019/01/12(土) 12:50:19 ID:LC3de7YgO
>>221
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

光が巡るのはたんなる空想ではない。
覚えておきなさい。光が巡るのはたんなる空想ではない。
最初のうちは空想のように見えるが―あなたはたゆまず努力しなければならな
い―すぐにそれは実際に起こる。
それは事実だ。それはそもそものはじめから事実だった。
ただあなたがそれに一度も触れたことがなかったために、最初は空想のように
見えるだけだ。
(p153)
思考を集中させることで、人は飛翔することができる。
欲望を集中させることで、人は落ちる。
道家タオイストは下方へ、外へと向かうエネルギーを「欲望」と名つ゛けてい
る。
道家は内側に向かうエネルギーの象徴として「思考」という言葉を使っている

だから誤解しないように。
道家の言う「思考」は、いわゆる思考のことではない。
「思考」という言葉で彼らが言おうとしているのは、欲望を浄化した思考エネ
ルギーのことだ。
思考から欲望を浄化し、いっさいの欲望が消えてしまえば、外に向かう必要は
なくなる。
なぜなら、あなたが外に向かうのは、ひとえに何かを欲しがっているからだ。
家が欲しい、金が欲しい、力が欲しい、男が、女が、あれやこれやが欲しい。
そうなると、あなたは外に向かう。
欲望がなければ、思考は外に向かう必要がない。
それは内側に向きを変えはじめる―百八十度の転換が起こる。
欲望のない思考は内側に向かって動く。
欲望に満ちた思考は外側に向かって動く。
覚者ブッダたちが口をそろえて無欲さを強調するのはそのためだ。

学人がみずからの思考に少しも注意を払わず、欲望に かまけるならば、下方
へ向かう道に沈み込む。
弟子がみずからの思考に少しも注意を払わず、欲望にかまけるならば、彼は世
間に呑み込まれてしまう。

黙想と静けさによってのみ、真の直観が湧き起こってくる。
このために逆流の技法が必要となる。
思考から欲望の流れを落とさなければならない。
欲望の汚れを落とした思考は無思考になる。
欲望をもたない心は無心になる。
パタンジャリが「サマーディ」と呼び、禅の人々が「悟り」と呼び、道家の人
々が「結晶化」―外向と内向のバランス―と呼んでいるのはそれだ。
そうすればエネルギーが失われることはない。
鳥が朝になると空に飛んでゆき、日が暮れると巣にもどってくるように、それ
は世間に出てゆきもどってくる。
みずからのエネルギーをくり返しくり返し巣にもどってこさせなさい。
エネルギーを自分に帰らせずに、出てゆくままにしておいてはいけない。
そうすればあなたは貯水池になり、内側でとほうもなく力強くなる。
その力のなかではじめて直観が働きはじめる。

その力のなかで精神の火が生まれる。
その力のなかで真の光の極が現れる。
その力のなかでみるみる真珠の種子が育ってゆく。

それはあたかも男女が交わって受胎が行なわれるようなもの である。
このときには静かな状態で待たなければならない。
瞑想が完成すると、祈りがはじまる。
瞑想を祈りへと成長させること―タオの仕事はそれにつきる。
(p154)

(´・(ェ)・`)
(おわり)

223鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/12(土) 21:42:11 ID:1d4drIFg0
丹が完成して発生する光は金色であるというのじゃ。
それが華のように放射されるのじゃ。
そうであるから黄金の華という題名があるのじゃ。
それはサマーディに達した合図でも在るのじゃ。

224避難民のマジレスさん:2019/01/12(土) 22:42:19 ID:LC3de7YgO
>>222
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第五話 解放の機縁1
 より抜粋

呂祖師は言った。

解放の機縁は目のなかにある……人間の身体の華の種子は 上方のからっぽの空
間に集中されねばならない。
不死はこのなかにあり、また世間の超克もこのなかにある。

光は肉体のなかだけにあるのではなく、 肉体の外だけにあるのでもない。
山河大地は太陽と月に照らされるが、それはすべてこの光である。
それゆえに光はたんに肉体のなかにだけあるのではない。
理解と明晰さ、知覚と光明、そして(精神の)すべての働きは この光に他なら
ない。
それゆえに光はたんに肉体の外にだけ あるのではない。
天地の光の華は数限りない空間を満たしている。
だが、個々の身体の光の華も天にみなぎり、地を覆っている。
それゆえに、光が巡ると、たちまちにして天地山河いっさいのものがそれと同
時に循環する。

人間の身体の華の種子を上方の両目のあいだに集中させること、 それが人間の
身体の大いなる鍵である。
弟子たちよ注意せよ!
瞑想を一日怠れば、この光は流出してゆき、どこへ消えてゆく のか誰にもわか
らない。
もし一刻でも瞑想するなら、一万の劫こうも一千の生涯も取り除くことができ
る。
あらゆる技法は 静けさのなかに帰す。
この不可思議な力は計り知れない。

だが、実修をはじめるにあたり、人は浅いものから深いものへ、 粗雑なものか
ら微細なものへと進んでゆかなければならない。
すべては間断なく持続するかどうかにかかっている。
実修は始めから終わりまで一貫していなければならない。
この間に、冷暖をおのずから知るのである。
だが、目指すべきは空の広大さと海の深遠さに到ることであり、 そうすればあ
らゆる技法をいともたやすく身につけることができる。
そこではじめてそれを体得したと言える。

いにしえの寓話によると、世界を創造していた神のもとに四人の天使が近つ゛
いてきて、こう質問した。
「どのようなやり方で創造なさっているのですか?」
と最初の天使が尋ねた。
二番目の天使は
「なぜそんなことをなさっているのですか?」
と尋ねた。三番目の天使は
「仕事が終わったら、私にいただけますでしょうか?」
と尋ねた。
四番目の天使は「お手伝いいたしましょうか?」
と言った。
最初の問いは科学者のものだ。
二番目の問いは哲学者のものであり、
三番目の問いは政治家のもの、
四番目の問いは宗教的な人物のものだ。
科学的な探求は、万物を偏りのない目で観察する。
科学者は客観的でなければならない。
客観的であるために科学者は身を引いたままでいる。
科学者は参加することができない。
身を乗り出すと、ただちに巻き込まれてしまうからだ。
それゆえに科学者は生命や<存在>の表層を知ることしかできない。
内奥の中核は科学には明かされずに残る。
科学的な手法そのものが妨げになる。
哲学者は憶測するだけであり、けっして実験をしない。
哲学者は「なぜか?」と際限なく問い続ける。
しかもその問いにどんな答えが与えられても、再び「なぜか?」と問うことが
できる。
哲学を通してはいかなる結論に到る見込みもない。
哲学は結論を下せないままでいる。
それは不毛な行為であり、どこにも行き着くことがない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

225避難民のマジレスさん:2019/01/13(日) 09:42:48 ID:LC3de7YgO
>>224
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第五話 解放の機縁
 より抜粋

政治家はひたすら世界を手に入れ、それをわがものにしたがる。
政治家ほど危険なものはない。
なぜなら、彼は最も暴力的だからだ。
政治家が生に示す関心は、生そのものに向けられているのではなく、みずから
が握る権力に向けられている。
彼は権力に飢え、権力に狂っている。
彼は狂人であり、破壊的だ。
生きているものを所有したとたん、あなたはそれを殺してしまう。
なぜなら、何かが財産になったとたん、それは生命を失ってしまうからだ。
樹を所有すれば、その樹はもはや生きてはいない。
女や男を所有すれば、あなたは相手を殺してしまっている。
何かを所有すれば、その結果は死でしかない。
というのも、所有できるのは死だけだからだ。
生は自由だ。
生は基本的に自由であり続ける。
生を所有することはできない。
生を銀行に預けることはできない。
生を線で囲い込むことはできない。
「これは私のものだ」などとは言えない。
そんなことを言うのは敬意を欠いている。
そんなことを言うのは自己中心的だ。
そんなことを言うのは狂っている。
生こそが私たちを所有している。
どうして私たちが生を所有しえるだろう?
私たちはもっともっと生の手中に落ちていかなければならない。
構図ゲシュタルトがそっくり変わらなければならない。
所有欲を抱くことから、人は全体に身をゆだねられるようにならなければいけ
ない。
(p158)
政治家が生の真実を知るということはけっしてない。
宗教的な人は参加する。
彼は生とともに踊る。
彼は<存在>とともに歌う。
彼は生に手を貸す。
彼は<存在>に明け渡しており、身を引いていないし、超然としてはいない。
彼は実際にはどんな質問もしない。
彼は知識を追い求めていない。
彼の努力はすべて、<存在>といかにひとつになりきるかに向けられている。
それゆえに東洋には究極の体験を表すのに 「サマーディsamadhi」という言葉が
ある。
それは二つの言葉からきている。まず sam ― sam は一緒になることを意味す
る。
同じ sam という語根 が英語にも入って、sympathy(共感)symphony(交響曲)
という言葉のなかに見られる。少し変化して synthesis(統合)synchronicity
(共時性) という言葉のなかにもある。
sam は一緒になることを意味する。
adhi は主、神を意味する。
「サマーディ」とは 神との合一、神とひとつになることを意味する。
そして宗教を表す英語の religion という言葉の 意味はまさにそれだ。
それは<存在>とひとつに なること、分断されることなく、分離したままでい
ずに ひとつになることを意味している。この合一状態のなか ではじめて、人は
知り、気つ゛き、体験し、在るようになる。
宗教は大いなる実験でもある―実のところ、最大 の実験だ―が、違いがある。
科学は客観的な事物を 対象に実験するが、宗教は主体そのものに働きかける。
宗教の関心は「私は誰か?」ということにつきる。
人は最初からはじめなければならない。
自分自身を知らないかぎり、私は他の ことを何ひとつ知ることができない。
奥深くで無知のままであったなら、 私の知識はすべてがらくたにすぎない。
それは無知に基つ゛いている。
それは無知に根ざしている。
まず私の内側に光が生まれなければならない。
そうなれば、その光は広がってゆくことができる。
そうすれば、その光は<存在>のまさに果てまで到達することができる―<存在>
に果てがあるとしたらの話だが。
だが、まずそれは私の内側で生まれなければならない。
最初の炎は私の主体から発しなければならない。
私の中心が光で満たされて、そこではじめて空疎な知識にすぎなかったことが
すべて真に体験される。
自分自身を知らず、知 る 者 がそこにいないのに、どうして他のものを知るこ
とができるだろう?
あなた自身が深い闇のなかにいるなら、あなたが外につくりだした光はすべて
まやかしであり、幻想だ。
(p159)
(´・(ェ)・`)
(つづく)

226避難民のマジレスさん:2019/01/13(日) 09:46:07 ID:LC3de7YgO
>>225
>生こそが私たちを所有している。
どうして私たちが生を所有しえるだろう?
私たちはもっともっと生の手中に落ちていかなければならない。
構図ゲシュタルトがそっくり変わらなければならない。

(´・(ェ)・`)つ
うむ。
なるへそ。生、生命も意識と同じでありますね。 てか、生命と意識を分別しなくてよいのでありますね。

227鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/13(日) 21:22:46 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、全て一つなのじゃ。
空間にも意識が息づいているのがわかるじゃろう。

黄金の光とは感覚や心で感じるものではないというのじゃ。
無意識によって感じるものというのじゃ。
全てがその光であり、自分の中の光とも同じものと感じるのじゃ。
ここで肉体に気を巡らせる行は精神の行ともなるのじゃ。
肉体の命と精神の性を同時に行じる性命双修となるのじゃ。

228避難民のマジレスさん:2019/01/13(日) 22:18:33 ID:LC3de7YgO
>>225
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

宗教的な探索クエストは、ありうるなかで 最も深遠な探索だ。
この探索に関して理解 しておかなければならないことが二、三ある。
まず第一に、宗教は地を這うものであっては ならない―それは踊るものでなけ
ればならない 、踊りを忘れたら宗教は死んでしまう。
世間に欠けているのはまさにそれだ― 踊りを忘れたがゆえに、宗教は死んでい
る。
宗教は身を伏せて地を這いまわっており、 飛び方を忘れてしまっている。
宗教は教義ドグマと化してしまった。
教義は死であり、屍しかばねだ。
流れ、躍動し、飛び続けるためには、宗教は体験 として―理論としてではなく
、神学としてではなく― 瞑想として存在しなければならない。
神についての哲学ではなく、 個的な神の体験として存在しなければならない

そして、よくわきまえておきなさい― 神 に つ い て 知ることは 神 を 知る
ことではない。
神にまつわる知識をいくら蓄え続けても、けっして 神を知ることはない。
間接的に知ることは、 その中核そのものを貫かずに堂々巡りを続けることだ。
宗教は地を這うものであってはならないのに、そうなってしまっている。
キリスト教、ヒンドゥー教、イスラム教― それらはみな地を這いまわっている。
それらはみな護教的な立場をとっている。
それらはみな世界に科学が発達することを恐れている。
彼らは科学と闘ってきた。
彼らは科学の発達を妨げるためにできることはすべて試みてきたが、失敗した。
今や彼らは科学の裏付けを得ようと必死になり、やれることなら何でもやろう
としている。
だが、彼ら は自分たちが二義的なものになってしまったことを熟知している。
彼らは科学の裏付けなくしては存在しえない。
彼らは科学的な論証を支えとせずには存在しえない。
これは卑屈な振る舞いだ。
宗教はもはやみずからの基盤の上にみずからの足で立ってはいない。
それは科学 の裏付けを必要としている。
それは借り物の存在、借り物の生命として生き長らえている。
その時代は終わった。
なぜこのような事態が起こったのだろう?
宗教がひとたび教義ドグマと化し、もはや体験で なくなってしまうと、それは
ひとりでに死に絶える。
そして死体は自分の足で立てず、支えを必要とする。
教会や寺院はすべて支えを借り、みずからの足で立っていない。
仏陀のような人がいるとき、 彼はみずからの足で立っている。
キリストのような人がいるとき、 彼はみずからの足で立っている。
そのときには宗教は踊り、歌を歌っている。
そのときには宗教は息つ゛き、花を咲かせ、 千とひとつの花が開き、かぐわし
い香りが解き放たれる。
私はここで宗教を再び踊らせようとしている。
いかなる裏付けをも求める必要はない。
なぜなら、 宗教そのものがこのうえもなく真正な体験だからだ。
裏付けを求めて科学に目をやるのは宗教ではない!
宗教が踊りだし、息吹に満ちるようになれば、 科学がその裏付けを必要とする
ようになるだろう。
なぜなら、科学そのものが基盤を失いつつあるからだ。
科学は日毎にますます醜悪なものになりつつある。
科学は日毎にますます生を否定するものになりつつある。
科学は日毎にますます政治的なものになりつつある。
科学が発見したものはすべて政治家たちの手に落ちている。
科学が発見したものはすべて死に奉仕し、もはや生に 奉仕するものではない。
科学者の努力の九十パーセントは戦争に捧げられている。
科学は面子メンツを失いつつある。
宗教が踊りはじめないかぎり、 もはや科学にすら未来は残されていない。
科学はみずからを支えるために宗教から放たれるエネルギーを必要としている。
宗教が息吹を取りもどすことができれば、科学は宗教の一部、 影になり、そこ
ではじめて政治家とその狂気から自由になる ことができる。
さもなければ、それは不可能だろう。
人間は地球上の生命を絶滅させてしまう地点に どんどん近つ゛きつつある。
人間を救い、人類を救う ことができるのは、宗教的なエネルギーの解放だけだ。
(p161)
(´・(ェ)・`)
(つづく)

229鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/14(月) 22:28:15 ID:1d4drIFg0
ここで丹の完成から心の修行に入っていくのじゃ。
そもそも全ての気を巡らせる行から丹の完成まで全ては心を修めることのためにあったのじゃ。
丹を作り精神が深く集中したサマーディに入り、心から性を見る修行になるのじゃ。
本性を見る見性が可能になるのじゃ。
それが性命双修の道なのじゃ。

230避難民のマジレスさん:2019/01/15(火) 03:50:14 ID:LC3de7YgO
>>228
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

私たちがここでやっているのはごく小さな実験に 見えるかもしれない。
だが、そこに潜む力は無限だ。
人類の未来はひとえにこの一事にかかっている。
宗教が再び人間を導くことができるかどうか、 宗教が再び人間に根源的な影響
を与えることができるかどうか、 宗教が再び人類の夢となることができるかど
うかに。
そして、それはひじょうにむずかしい夢であることを―不可能に近い夢である
ことを覚えておきなさい。
神とともにあるという夢、神のなかにあるという夢 は、実現しえない夢のよう
なものであって当然だ。
人間は勇気を失ってしまった。
今や人間の夢はちっぽけなものに、 ごく世俗的なものになってしまっている。
もはや人間が超越的なものを夢見ることはない。
そして、いいかね、超越的なものを夢見ることを止めてしまったら、人は無意
味な生を生きることになる。
意味というものは超越的なものに触れてはじめて生まれてくるものだ。
意味というのは人が大いなる全体の一部、 自分よりも高次なものの一部、自分
よりも 大きなものの一部となってはじめて生まれるものだ。
人が自分自身を超えようとするとき、そこに宗教が生まれる 。
そして私が「宗教のダンス」と呼んでいるものはそれだ ―自分自身を超越しよ
うとすること。
それができる動物は 他にいない。
他の動物にはそれはできない。
人間だけが 自分自身を超越する潜在能力と、その可能性を有している。
そして自分自身を超越した者が何人かいる。
彼岸に到達した者が何人かいる。
あなたがたに語っているとき、 私は彼岸から語りかけている。
それゆえ、私は それを借り物の知識から語っているのではない。
私は自分自身の体験から語っている。
私は不可能なことが可能になりうることを知っている。
私のなかで実現したのだから、それはあなたのなかでも 実現しうる。
ひとたびあなたの内なる実存が光で満たされれば 、ひとたびあなたの内側に闇
がないことを知れば、 あなたは宗教的になる。
不可能な夢を見なさい。
最初はほとんど馬鹿げているように見える かも知れない。
確かにそう見える。
だが、その夢が充分に強ければ、 あなたの現実リアリティは変容を遂げる。

聞いた話だが…… 丘の中腹に三本の樹が生えていた。
樹々はそよ風に 揺られ、自分たちがなりたいものを夢に見ていた。
「いつか切り倒されて、ゆりかごになりたいなあ」と最初の樹 が言った。
「いつか切り倒されて、海を渡る大きな船になり、 宝物や宝石を運びたいなあ
」と二番目の樹が言った。
すると三番目 の樹が言った。
「丘の上に立って、人々に天国を指し示したいなあ」
ある日のこと、樵きこりたちがやって来て、最初の樹を切り倒し 、
「これで馬小屋をつくろう」と言った。
樹は 「僕は馬小屋なんかになりたくない。ゆりかごになりたいんだ」 と言って
泣き叫んだが、樵たちは馬小屋にしてしまった。
やがてイエスが生まれ、他に場所がなかったので、彼らは 赤ん坊をその馬小屋
にそっと寝かせた。
すると樹は言った。
「おやおや、僕が夢に見ていたものよりずっとすばらしいじゃないか」
樵たちは二番目の樹を見て「この樹で漁船をつくろう」と言った。
樹は「いやだ!漁船なんかになりたくない。僕は宝物や宝石を運ぶ 大きな船に
なりたいんだ」と言ったが、樵たちは漁船をつくり、それを島の湖に浮かべた。
するとシモン・ペテロという名の漁師がその船 を買い、イエスがその船に乗っ
て人々に説教した。
すると樹は言った。
「おやおや、僕が夢に見ていたものよりずっとすばらしいじゃないか」
樵たちは三番目の樹を見て、
「これで十字架をつくろう」と言った。
樹は「十字架なんかになりたくない。人がその上で死ぬなんて耐え られない。
僕は丘の上に立って人々に天国を指し示したいんだ」と 言った。
だが樵たちはその樹で十字架をつくり、やがてイエスが 磔はりつけにされた。
そして、いつの時代にも人々は 十字架に目を向けてきたが、それは神を指し示
している。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

231鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/15(火) 22:43:19 ID:1d4drIFg0
中国では儒教、道教、仏教の三教を同一の父子を目指すものとみるのじゃ。
この書にも仏教の教えが多く入っているのじゃ。
光を見るのも、丹を作るのもサマーディに入るためのものとするのじゃ。
道教によくある不老不死の仙人をめざすものではなく、悟りを目指すための書なのじゃ。

232避難民のマジレスさん:2019/01/15(火) 23:38:22 ID:LC3de7YgO
>>230
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

樹でさえ、夢を見、それを実現できるとしたら、人間は言うに及ばない。
人間はこの世で最もすばらしい潜在能力 をもっている。
欠けているものがあるとしたら、それは自分自身を超えたいという大きな夢が
欠けているということだ。
あなたは世俗的なもので満足してしまっている。
あなたは身を伏せて、大地を這いずりまわり はじめている。
あなたは上を見あげていない。
遥か彼方から呼びかけてくるものがある!
遥か彼方から挑みかけてくるものがある。
彼方からの挑戦を受け入れる者のみが人間だ。
そうでない者たちは「人間」と呼ばれていても 、人間の姿はしていても、真の
人間ではない。
人間でありなさい!
未知なるもの、彼方なるものの挑戦を受け入れなさい 。
それをあなたの実存の大いなる夢にするがいい。
(p164)
今見えているあなたは種子にすぎない。
種子は土中に落ち、死ななければならない。
そして樹となり、花を咲かせなければならない。
種子を割っても、そこには花は見つからない。
科学が大切 なことをそっくり見逃しているのはそこだ―科学は種子を 割り続け
てゆく。
科学は言う。
「この種子からみごとな花 が咲くだって?だったら種子を割って、分析して見
てみよう」
そして、彼らは種子を割って分析する。彼らは種子を分析する方法を手にして
いるが、花は見つからない。
そこで彼ら は花などないと言う。
彼らはそのようにして神は存在しない 、彼方なるものは存在しない、生命は偶
然の産物にすぎず、 天命などというものはない、という結論に到った。
一休禅師の有名な道歌がある。
桜木をくだきて見れば花もなし
花をば春の空ぞ持ち来る
春が来るのを待ちなさい。見たければ、春が来るのを待ちなさい。
あなたはそこで人ではなく、 ひとりの仏陀を見いだすだろう。
人ではなくひとりのイエスを見いだすだろう。
人ではなくひとりのクリシュナを見いだすだろう。
そのときあなたが見いだすのは 花であり、種子はもうどこにもない。
種子は消え失せた。
種子の役割は終わった。
それはこのうえもなく価値のあるものを守っていた。
それは青写真を運んでいた。
もうそれは必要ではない。
土が見つかり、春がやって来て、 そして種子には死ぬ勇気があった。
人間の自我エゴは種子に他ならない。
それは あくまでも自分を守ろうとする。
人々は私に尋ねる。
「自我エゴが神に対してこれほどの障壁となる なら、そもそも自我はどうして
存在するのですか?」
それはあなたを守るために存在している。
ちょうど 固い殻が種子の潜在力を守るために存在しているように。
その潜在力はひじょうに柔らかい。
まわりに固い殻が なければ壊されてしまうかもしれない。
固い殻は敵ではない。
固い殻が敵になるのは、春が来て、土壌が用意されて いるのに、種子が死ぬこ
とを拒むときだけだ。
固い殻が 「さあ、春を敵にまわしても、おまえを守り続けるぞ。 この土から君
を守ってやるぞ」と言えば、問題が生じてくる。
問題が生じるのはそこだ。
自我エゴそのものが問題 なのではない。
子供には自我がいる。
さもなければ 子供はまったく無防備のままにさらされる。
子供はこの 闘争の世界をどう生き延びてゆけばいいのかわからない。
子供はたび重なる危険から身を守る術を知らない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

233鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/16(水) 22:23:24 ID:1d4drIFg0
種子とは仏性とかアートマンともいえるじゃろう。
それらも観念に過ぎないものじゃ。
自我の持つ観念であるがそれがあるために目覚めることもできるものじゃ。
自我があることでそれらの観念を保持して実践し、目覚めることもできるのじゃ。
肉体の種子と精神の種子を合致させて華も開くのじゃ。

234避難民のマジレスさん:2019/01/17(木) 05:58:35 ID:LC3de7YgO
>>232
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

子供はひじょうに柔らかく、もろい。
覚者ブッダになる前に死んでしまうだろう。
自我が彼を助ける。
自我は一種の鎧よろいであり 、心マインドもそうだ―それは子供を守っている。
それはあなたの敵ではない。
それが敵になる のは次のような時だけだ。
その瞬間がやってきて 、あなたには瞑想に入ってゆく用意ができているのに、
師マスターを見つけだし、技法を見つけだし 、用意ができているのに、心マイ
ンドは言う。
「いやだ、俺は死ねない。俺がおまえに注いできた祝福のすべてを思い起こせ
。俺がおまえに与えてきた 恩恵をすべて思い起こせ。俺がおまえにしてやった
ことをすべて思い起こすんだ!感謝してしかるべきだ 。俺を滅ぼそうとするん
じゃない」
そうなったら問題が生じる。
そうなったら、守りであったものが破壊的になる。
そうなったら、あなたは自分自身の心と闘わなければ ならない。
自分自身の自我と闘わなければならない。
自分自身の鎧と闘わなければならない。
もはや鎧は必要ではないからだ。
あなたは 内なる潜在力を解き放たなければならない ―春がやって来ている。
だから、春がやって来て、はじめてそれが問題になる。
さもなければ、それは問題にはならず、助けになる 。
が、助けとなるものも障害になりかねない。
時が到れば、それは去らなければならない。
不可能な夢、自分自身を超えてゆく夢、 にゃはんニルヴァーナの夢、解脱モ
クシャ の夢、神の王国の夢を見るがいい― 夢見ることで、はじめてあなたはそ
れに向かって働きかけ、進みはじめる。
その夢を抱くことで、はじめてあなたの足に踊りの気配リズムが感じられるよ
うになる。
夢がなければ、あなたは鈍感になってしまう。
人々がだらだらと生きているのはそのためだ。
どうして踊ることができるだろう?何のために?
毎日ただ会社に行って仕事をし、家に帰って妻と口論したり、子供の不平に耳
を傾けるためにかね?
次の日に はまた同じことがはじまり、それが年がら年中続いてゆく。
踊りたい気分にさせるものがあるだろうか?
実のところ 、人が生き続けているのは、自殺してしまわないのは奇蹟だ。
彼は何のために生きているのだろう?
彼を待ちうけているものは何もない。
彼が見あげることのできるものは何もない。
夜空に星はなく、漆黒の闇が広がっている。
人が生き続けているのは、なんとか生き ながらえているのは奇蹟だ。
自殺する人々のほうが、道理にかなっているように見える。
生き続けている人々は、まるで道理をわきまえていないように見える。
惨めで、うんざりし、足 を引きずりながら、それでも生き続けている。
だが、そこには何かがある。
そこにはひとつのことが示されている。
それは、あなたの内奥の実存はどこかに 可能性があることを知っているとい
うことだ。
いつその潜在力、可能性に目を開くかもしれない。
いつその夢があなたをわしつ゛かみにするかもしれない。
そうなったら意味が生まれ、踊りが起こる。
「宗教は芸術アートだ」とウイリアム・ブレイクは言った―「宗教は芸術であ
って、金ではない」と。
この言明にはひじょうに深遠な意味が含まれている。
そしてこんなことを言えるのは、ウイリアム・ブレイクのような人だけだ。
彼は神秘家の詩人だ。
芸術アートとは何か?
「芸術とは、何かを為す道だ」 と彼は言う。
絵画、詩、踊り、彫刻、音楽、陶芸、織物。
「芸術とは、何かを為す道だ」 彼は自分自身を創造することについては何も言っ
ていない。
だが、宗教とはまさにそれだ。
それは絵画ではない。
それは詩ではない。
それは彫刻ではない。
それは音楽ではない。
だが、同一線上にある何か、彼方の何か ― 自分自身を創造することだ。
宗教もまた何かを為す道だ― 生きること、愛すること、見ること、在ること

芸術アートとは"創作すること"に他ならない。
それは神の創造を助けることだ。
私が「お手伝いいたしましょうか?」と尋ねた天使を「宗教的な人物」と呼ぶ
のはそのためだ。
創造主を知りたければ、あなたもいくらかは自分の力で創造しなければならな
い。
(´・(ェ)・`)つ

235鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/17(木) 22:33:25 ID:1d4drIFg0
物理的な面から見れば人はただ生まれては死んでいくだけのものにすぎないのじゃ。
そこには何も残らないじゃろう。
しかし、気や光があるものならばそれを操る者に不死と真善美の世界が開かれるのじゃ。
自らの身体に光を巡らし、黄金の華を咲かせて身体の可能性を広げることができるのじゃ。
それこそ真の芸術といえるのじゃ。

236避難民のマジレスさん:2019/01/17(木) 23:27:24 ID:LC3de7YgO
>>235
芸術は真理の表現だと、くまは思うであります。
(´・(ェ)・`)つ

237避難民のマジレスさん:2019/01/18(金) 05:50:29 ID:LC3de7YgO
>>234
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

詩は宗教そのものではないかもしれないが、 正しい方向を指し示している。
真に創造的な境地にあるなら、 詩人にも宗教のことが少しはわかる― 遥か彼
方から音楽が聴こえてくる。
というのも、創造的な境地にあるとき、 人は自分自身でなくなるからだ。
彼は参加している―ごくわずかではあるが、 彼は神のもとに参じている。
神聖の一滴が彼のなかに入ってくる。
優れた詩人たちが
「詩を書くとき、創造しているのは私たちではない。私たちは 乗っ取られる。
ある未知のエネルギーが入ってきて、それが私たちのなかで歌い、踊る。私た
ちはそれが何であるのか知らない」
と言うのはそのためだ。
我を忘れて絵を描くとき、画家は絵を描くことに完全に没頭していて、彼の自
我エゴは消えてしまう。
ほんの一瞬にすぎないかもしれないが、この無我の瞬間に、神が彼を通して描
いている。
あなたが神のもとに参じれば、神もあなたのもとに参じてくる。
芸術は無意識な姿をした宗教だ。
宗教は意識された芸術だ。
芸術は夢のなかで宗教的であるようなものだが、それは正しい方向を指し示し
ている。
芸術家は宗教的な人にもっとも近い。
だが、そのようには理解されていない。
あなたがたは詩人を宗教的だと見なしたり、画家を宗教的だと見なしたりしな
い。
むしろ逆に、誰かが断食して、肉体を痛めつけ、その実存を 醜いものにしたら
、そういう人こそ宗教的だと見なすようになる。
彼はただ自分自身に暴力を振るっているだけだ。
彼はただ 自滅的で、神経症を病んでいるだけなのに、宗教的だと見なされる。
神経症を病んでいる者が大聖マハトマになる。
彼らは聖者として敬われ、崇められる。
彼らは少しも 宗教的ではない。
いわゆる聖者と人殺しのあいだに大差はない。
人殺しは他人を殺し、いわゆる聖者は自分を殺す。
だが、どちらも同じことをやっている。
どちらも暴力的であり、どちらも破壊的だ。
そして破壊的になるときは必ず、人は神からもっとも遠く離れている。
なぜなら、神は創造性だからだ。
私にとっては、倫理を説く者ではなく、美を愛する者こそが宗教性のもっとも
近くに立っている。
レーニンは「倫理学が未来の美学になる」と言ったと 伝えられている。
だが私は言う―それは違う、まったく 逆であり、美学こそが未来の倫理学にな
るだろう。
美が未来の真理になる。
なぜなら、美は創造することができるからだ。
美を愛し、美を生き、美を創造する美しい人は、努力せずとも道徳的だ。
彼の道徳は培われたものではない。
彼を道徳的にさせているのは美的感覚に他ならない。
彼が殺せないのは、生命を奪うこと が美しいことだとは思えないからだ。
彼は美を基準にして判断する。
そして私は「宗教は芸術アートだ」 というウィリアム・ブレイクに同意する

芸術アートとはものをつくることに他ならない。
創作には必ずある種の信頼が必要となる。
人がそこにないものを見て、見ることも 触ることも、聞くこともできなかっ
たものに時間と空間のなかでの形を与える。
絵であれ、詩であれ、庭園であれ、つくりだされた作品は五感ではっきりとら
えることができる。
だが、芸術と生み出された作品を混同してはならない。
これは心にとめておくべきすばらしい区別だ。
それはあなたが宗教を理解する上でこのうえもない助けになるだろう。
芸術は一枚の絵でもなければ、一体の彫刻でもない。
画商が売り買いするものは芸術作品ではあっても、 芸術そのものではない。
芸術作品は一種の財産だ。
芸術と芸術作品が同じものではないように、宗教が 生み出す教義ドグマ、教説
、『聖書』『コーラン』 『ギータ』、教会、寺院、大聖堂などといった事物 や
作品と宗教そのものを混同してはならない。
それらはあくまで芸術作品だ。
それを「宗教的な芸術作品」と呼んでもいいが、宗教とそれらを混同してはな
らない。
教会はあくまで教会だ。それは美しいかも しれないが、それそのものが宗教で
はない。
それは副産物であり、紡ぎだされたものだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

238鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/18(金) 22:52:52 ID:1d4drIFg0
>>236 人は美しいものと合一することを望むのじゃ。
醜い神仏と一つになりたいと思う者は珍しいじゃろう。
美の中にのみ自我を明け渡し、死ぬことが出来るのじゃ。
それが教会や神仏が麗々しく飾られる理由なのじゃ。

239避難民のマジレスさん:2019/01/19(土) 00:20:54 ID:LC3de7YgO
>>238
うむ。
くまも、そう思うであります。
くま、もうそれしかないと思うであります。
くま、最近、悟ったつもりで生きる作戦を実践中である。
なかなかたいへんなのであるが、普通に過去未来に生きるより、よっぽど楽なのである。
(´・(ェ)・`)つ

240避難民のマジレスさん:2019/01/19(土) 08:07:06 ID:LC3de7YgO
>>237
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

『コーラン』は紡ぎだされた芸術品としては美しい詩だ。
モハメッドのこころハートに何かが起こった―それは宗教だったが、目に見え
ぬものとしてあり続ける。
何かが彼の魂のなかでかき立てられたので、 彼は歌い出し、狂ったように表現
をはじめた。
彼がはじめて山の上で独りっきりになり、神の臨在を感じはじめたとき、確か
に彼が思った通りのことが起こっていた。
彼は驚愕し、恐怖に 駆られるあまり、自分は気が狂ってしまったか、 詩人にな
ってしまったか、そのどちらかだと考えた。
彼は家に駆けもどった。
彼は熱に浮かされ、がたがた 震えていた。
突然、高熱に襲われたのだと考えた妻は 「どうなさったのですか?」と尋ねた

すると彼は言った。
「気が狂ったか、詩人になってしまったか、そのどちら かだ。
何かとてつもないことが起こっている。
それが何 なのか、それがどこからやって来るのか、私にはわからない。
私の身にはあり余るものが……私は自分の目が 信じられない。
自分のこころが、自分が感じていることが信じられない。
それがあまりに美しく、すばらしく、 広大だから、しかととらえることができな
い」
それは宗教だった。
数日続いた熱も下がり、モハメッドはその 新しい状態に、法悦に、サマーディ
に落ち着いた。
そして何かが流れ出るようにして、美しい『コーラン』 が生まれた。
だが『コーラン』は副産物だ。
『ギータ』もそうだし、『法華経ダンマパダ』もそうだ。
つねに覚えておきなさい。
聖典のなかに宗教はないし、ありえない。
聖典はどれも宗教の副産物―時の浜辺に 残された影、足跡だ。
だが、足跡は足跡にすぎない。
仏陀が浜辺を歩けば、言うまでもなく足跡 が残る。
だが、この足跡は仏陀自身ではない 。
この足跡は仏陀のものであるがゆえに美しい。
足跡に頭を垂れるがいい!
だが、それが副産物にすぎないことを忘れては ならない。
そして、足跡を崇めてばかりいないで、 あなたがひとりの覚者ブッダにならな
ければいけない。
芸術作品は一種の財産だ。
それを売り買いできるのは そのためだ。
が、芸術そのものを売り買いすることは できない。
パブロ・ピカソに芸術を売ってくれと頼んでも、それは不可能だ。
あなたにはどんな大金でも払う用意があるかもしれないが、彼は売ることがで
きない。
絵なら売れるが、彼の芸術を売ることはできない。
ものではないから売りようがない。
それはつねに不可視のままにとどまる。
目に見えるのはその結果だけだ。
神は目に見えないものであり、神は世界のなかにあってはじめて目に見えるよ
うになる。
あ な た は目に見えず、ただ肉体だけを目にすることができる。
ブレイクが「宗教は金ではない」と言うのはそのためだ。
彼は正しい。
彼は宗教は財産ではないと言っている。
宗教は財産のような ものではなく、宗教は愛に似ている―それは 買うことも売
ることもできないし、銀行に預けることもできない。
それを所有することはできない。
むしろ逆に、あなたのほうがその手のなかに落ちてゆく。
芸術作品は所有することができる。
それは財産だ。
それは死んでいる。
『コーラン』や『ギータ』や『聖書』 を学ぶことはできるが、宗教を学ぶこと
はできない。
あなたはそれを生きなければならない― それを学ぶすべはない。
あなたは 神の手のなかに落ちてゆかねばならない。
あなたは神に身をゆだねなければならない。
あなたはみずからの実存を開かなければならない。
あなたは退かなければならない。
神が入ってきて、あなたのすみずみまで占めることが できるよう、あなたはか
らっぽにならなければならない 。
まさにそうして身をまかせることで、あなたは 人類を超越する。
あなたはもはや人ではなく、ひとり の神、ひとりのキリスト、ひとりの仏陀だ。
(p171)
(´・(ェ)・`)
(つづく)

241鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/19(土) 22:54:58 ID:1d4drIFg0
>>239 どんどんやるとよいのじゃ。
 美の中に全てを明け渡すのじゃ。

時々人は光を巡らせなくとも、クンダリニーをあげようとしなくとも自然にサマーディにはいることがあるのじゃ。
長く座り続けていたとか、背骨か尾てい骨に衝撃を受けたとかの原因によるものじゃ。
その時人は脳が活性化してさまざまな芸術を自らつくりだすというのじゃ。
光を巡らすのもクンダリニーをあげるのもその模倣といえるのじゃ。

242避難民のマジレスさん:2019/01/20(日) 13:28:50 ID:LC3de7YgO
>>240
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

これらの経文は人が青写真としてたずさえ、 種子の形で宿しているこの覚者ブ
ッダの本質を、 あなたが解き放つよう助ける秘法を教えている ―その本質が開
花し、大樹となって葉を繁らせ 、たくさんの花をつけるよう助ける秘法を。

さあ、経文だ―
呂祖師は言った。
解放の機縁は目のなかにある……

私があなたがたに語ってきたこの潜在能力、このブッダの本質、このキリスト
意識、クリシュナ意識、あるいはなんと呼んでもいいが、それは第三の目のな
かにある。
二つの肉眼のちょうど真ん中に、からっぽの空間がある。
そして、そのからっぽの空間は、神としてのあなたが潜んでいる種子だ。
その第三の目が働きはじめないかぎり、あなたの潜在能力は解き放たれない。
それゆえに―呂祖師は言った。
解放の機縁は目のなかにある……解放とはにゃはんニルヴァーナ、解脱モクシ
ャ、救済、自由を意味する。
解放とは光明を得ることだ。
第三の目が働きはじめることができたら……それは眠っていて、機能していな
い。
あなたのエネルギーはそこまで到達していない。
その仕組みは完璧だが、そこまでエネルギーが届いていない。
あなたのエネルギーは下降して性欲、欲望、怒りに、世俗的なことがらに流れ
込んでいる―あなたのエネルギーは下方へ、外側へと流れている。
あなたには第三の目の中枢にまで届くだけのエネルギーがない。
あり余るほどのエネルギーをもたないかぎり、それは第三の目には到達しない。
あなたはエネルギーの貯水池にならなければならない。
貯水池になり、エネルギーが浪費されなければ、日毎にその水量は増してゆく。
やがてそれは第三の目に到達する。
そしてエネルギーが第三の目に触れたとたん、間髪をいれず、ただちにそれは
機能しはじめる。
そうなったら、あなたは生のヴィジョンを、そのあるがままの姿を見る。
第三の目を通してはじめて、あなたは神、実在、あるがままのものを知ること
ができる。
肉目を通して、あなたはこの世界を知る。
そして目が二つあるために、世界は分割され、二元的なものになっている。
あなたの両目が世界を分割させている。
世界そのものはひとつ だが、あなたの見方が世界を二つに分けてしまう。
それはプリズムを通過する光線に似ている。
光線 はひとつだが、プリズムを通過するやいなや七つ に分かれてしまう。
それは分光して七色になる。
虹はそのようにしてつくられる。
太陽光線が雲のなかの水滴を通り抜けてゆく。
この浮かぶ水滴が プリズムの役割を果たす。
その水滴を通った 太陽光線は、ただちに七色に分かれる。
あなたのエネルギーが両目を通して動くと、 世界全体が二分されてしまう。
そうなると、 あなたは昼と夜を対立物として、生と死を 対立物として、愛と憎
しみを対立物として、 物質と意識を対立物として見てしまう。
両目はあらゆるものを二元的にし、極性をもたせる。
そして、この両目のせいで、あなたは <存在>がひとつであることを見ることが
できない。
二つの目がひとつにならないかぎり、あなたが 不可視のもの、宇宙的なものを
知ることはけっしてない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

243避難民のマジレスさん:2019/01/20(日) 15:48:19 ID:LC3de7YgO
>>242
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁
 より抜粋

この書物、『黄金の華の秘密』は言う。
外に向かう エネルギーは二元的になるが、その流れを逆転させると、再びひと
つになる―二元性を失い、不二になる。
エネルギーが両目からもどってくると、それは 本来の源へと落ちてゆきはじめ
る。
虹の七色を混ぜ合わせてひとつにすると、それは白色になり、ひとつの色にな
る。
その技法は同じだ。
外に流れるエネルギーが両目を通り 抜けると、全存在は二つに分かれる。
逆転したエネルギーが両目を通過してひとつ の目、眉間みけんの中央にある第
三の目に流れ 込むと、突然すべてがひとつになる。
これが サマーディだ。
あなたは神とひとつになっている。
解放の機縁は目のなかにある……人間の身体の華の種子は 上方のからっぽの空
間に集中されねばならない。
今現在、その空間はからっぽだ。
だが、ひとたびエネルギーが内側に向かいはじめたら、それは光で満たされる

不死はこのなかにあり、また世間の超克もこのなかにある。
あなたがみずからの実存のある一点に到達したとき……イエスは「両目がひと
つになるとき、あなたは神の王国に入っている」と言っている。
あなたは不死なるものを知る。
今やあなたは生と死は対立し合うものではなく、鳥の二つの翼であることを知
っているからだ。
死は生を破壊するのではなく、生が新たによみがえるのを助けている。
死は敵ではなく友人だ。
死はたんに生が古くなった衣装を変えるのを手伝う。
その衣装は使い古され、ぼろぼろになり、もう着ることができなくなってしま
っている。
死はあなたが家を替えるのを手伝うだけであり、あなたを終わらせるわけではな
い。
死はたんに新たな始まり、新鮮なエネルギーをあなたに貸し与えるだけだ。
そうなったら光と闇は二つではない。
そうなったら対立物は消え失せ、互いに補い合うものになる。
そうなったら全存在が男性エネルギーと女性エネルギーのあいだで交わされる
踊りになる。
それは深い歓びオルガズムに満ちた踊りになる。
両者はひとつになり、出会い、互いのなかに溶け合っている。
葛藤は消え失せる。そして、いかなる葛藤もなく全存在を見るとき、そこには
必ず大いなる歓びが生まれてくる。
そこに死というものはない。
人は死を外側からしか見ない。あなたは他の誰かが死んでゆく姿は目にしても
、自分自身が死んでゆくのを見たことはない。
誰も自分自身が死ぬのを見た者はいない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

244鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/20(日) 22:48:29 ID:1d4drIFg0
仙道の技法はエネルギーの方法ともいえるのじゃ。
光とか気と呼ばれるエネルギーを体に巡回させることで深い集中を可能にするのじゃ。
初めから気を感じることを学ぶから確実に作用するのじゃ。 
身体と精神の両方からの修練がより近道であるというのじゃ。

245避難民のマジレスさん:2019/01/20(日) 23:08:54 ID:LC3de7YgO
>>243
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

ソクラテスは毒を盛られたとき、胸をときめかせていた。
弟子たちが涙を流して悲しんでいると、彼は言った。
「悲しんではいけない。まもなく私は逝ってしまう。そうしたら心ゆくまで悲
しむがいい。今は、私に起こっているこの大いなる実験を見るがいい。私は死
というものにひじょうに興味をそそられている―私はほんとうに死ぬのかどう
か。この機会を逃してはならない。私のまわりに坐って見守りなさい」
師マスターはみずからの生を通して教えるだけでなく、みずからの死を通して
も教える。
師はあらゆる機会を使う―
弟子に教えるためにはみずからの死さえも使う。
彼が大きな声を出し、ひどく腹を立てながら
「涙を流したり、悲しむのはやめて、近くに来るのだ!この機会を逃してはな
らない!」
と言ったので、弟子たちは目を向けた。
するとソクラテスは言った。
「待ちなさい、毒がまわってきつつある。さあ、私の内側で何が起こっている
か話してあげよう。そうすれば、おまえたちも目に見えないものに気つ゛くこ
とができるだろう」
さらに彼は続けた。
「膝から下は死んでしまった。だが、私自身は少しも変わらず、前と同じよう
に何も損なわれていない」
さらに彼は続けた。
「脚全体が死んでしまった。腰から下は何も感じない」
彼は弟子に足に触って、つねってみるように言ったが、何も感じることができ
なかった。彼は言った。
「感覚がないのは、私の身体の半分が死んでしまったということだ。だが、私
は今まで通りまったく損なわれていない。内なる感覚は、半死半生といった感
じではない。私は今まで通り生きている!身体の半分が死んでしまったが、私
の実存は影響を受けていない」
やがてゆっくりと手が死にはじめ、呼吸が止まりはじめると、彼は最後の言葉
を語った。彼は言った。
「だんだん舌がまわらなくなってきたので、もうしゃべれない。だが、最後に
言っておきたいことがある。身体のほとんど九割が死んでしまったが、私は十
全に生きている。これから察するに、おそらく身体が死んでしまっても、 私は
生きているだろう。 身体の九割が死んでしまっても、私は 今まで通り何も損な
われていないからだ。 だから最後の1割が死んでしまっても……。 おまえたち
は私の内側で何が起こっているのか見ることができないが、私は見ることができ
る」
ソクラテスは、ギリシャの他の哲学者のような 凡庸な哲学者ではない。
彼の弟子のプラトンや アリストテレスでさえ……アリストテレスは、 実のとこ
ろ、弟子ではなく敵だ。
彼はソクラテス をまったく理解していない。
彼が提唱したものは 完全にソクラテスに反している。
ソクラテスは神秘家だ。
彼の哲学は探求の方法にすぎない―それは実に鋭い探求だ。
彼は死でさえもはずさない。
彼は死のなかを探ってゆく。
最後の瞬間まで、彼はみずからの探求の方法に忠実だった。
(p176)
死は外側からしか見ることができない。
あなたは他の人々が死んでゆくのを目にする。
だが、生きているというのは別のことだ。
生は内側から見ることができる。
生きて いれば苦痛や快楽を覚え、愛したり、 恐怖を抱いたりすることがある。
生きていれば創造することができる―ないものを考え出し、それに形を与える
ことができる。
創造的な人がもっぱら生の高次の姿を知ってゆくのはそのためだ。
なぜなら、創造するとき、人はみずからのエネルギーを最大限に発揮するから
だ。
創造するとき、人は神の一部になっている。
どうして人がそれを為しうるのかは神秘だ。
どうして人が存在しうるのかは神秘だ。
結果にはすべて原因があるにちがいない。
私たちが「因果の法則」と呼んでいるのは まさにそれだ―私たちはそう教えら
れてきた。
だが、私を今ここにあらしめている原因を私は見つけることができない。
私は奇蹟に運ばれているのを自覚している。
私の理性は私によくつくしてくれるが、私という存在ビーイングの神秘の前で
は色を失う。
理性そのものがこの神秘の道具なのだ。
理性が神秘を知りえないのはそのためだ。
あなたは内側を見なければならない。
生が何であるかを見るには、まず内側からそれを感じ取らなければならない。
そして生を感じ取るための最良の方法は創造的になることだ。
そうすれば最大限の力が発揮されるからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

246鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/21(月) 23:00:58 ID:1d4drIFg0
死の最後の瞬間まで自己を追求するチャンスはあるものじゃ。
死なない意識に到達できれば不死なのじゃ。
マハリシもそれができたのじゃ。
死の最後の瞬間まで諦めてはいかんのじゃ。

247避難民のマジレスさん:2019/01/22(火) 00:23:48 ID:LC3de7YgO
>>245
19黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁3
 より抜粋
通常、人々は最小限の生き方をしている。
人々がやり続けていることはみな最小限の力で行なうことができる。
それはただの習慣、身についた日々の決まりきった仕事にすぎないからだ。
それらの仕事は意識から、身体の自動的に機能し続けるロボットの部分に伝達
されている。
言うなれば、車の運転の仕方を覚えてしまったようなものだ。
習いはじめは危ないので、あなたはひじょうに敏感で、すき がない。
何が起こるかわからないから、目が離せない。
色々 なものに気を配り続けなければならない。
ハンドル、道路、 クラッチ、ギア、アクセル、ブレーキなど、気を配らねば な
らないもの、目を離せないものがたくさんある。
そして 行き交う車の流れ、傍らを通り過ぎてゆく人々、傍らを通り過ぎてゆく
車、だが、運転を覚えてしまうと、その知識は身体のロボットの部分に伝達さ
れてしまう。
そうなったら気を配る必要はない。
友達と話したり、歌を 歌ったり、タバコを吸ったり、ラジオを聴いたりしてもい
い。
身体が運転を続けてゆく。
まれな時を除けば、目を見張っている必要はない。
事故が起こりそうになると、あなたは一瞬のあいだ目覚める。
あまりに大きな危険が身に迫り、頭が真っ白になってしまうので、ロボットの
部分が対処できないからだ。
そんな ことは一度も起こったことがない、まったく新しいことだ。
普通の生活は機械的で型にはまったものになり、人は最小限の力で生きるよう
になる。
最大限に燃えあがることはけっしてない。
創造性を発揮することで人は燃えあがる。
これが私のサニヤシンに対するメッセージのひとつだ ―創造的でありなさい。
創造的であることが礼拝になるからだ。
創造的であることが祈りであり、創造的であることが瞑想だ。
創造的であることは神の近くにあることだ。
カーバ(メッカにあるイスラム教の聖殿)へ行く必要はない。
神はカーバと同じようにここにもいるからだ。
ヒマラヤに行く必要はない。
神はどこでも等しく手を差し延べているからだ。
だが、その手を取ることができるのは最大限に 生きている者たち、生命の炎が
くすんでいない者たち 、すべてのエネルギーをそれに注いでいる者たちだけだ。
そしてそれは創造性を通してはじめて起こる。
だから私のサニヤシンの定義は、感受性を失い、死んだように坐っている古い
タイプの聖者の定義とは異なっている。
サニヤシンの定義は創造的であることだ。
踊ったり、歌ったり、音楽や絵や彫刻を創作したり、あるいは何でもやりたい
ことをやりなさい。
最も深い喜びとなるものを見つけだし、それをやりなさい!
そして行為とは目に見えないものを見えるものにするということだ。
行為とは夢をこの世にもたらすということだ。
夢を実現させなさい。
潜在能力を発揮させなさい。
それにまさる喜びはない。
未知なるものを知りうる世界へともたらすことができたとき、創作し、創造し
、夢を現実にすることができたとき、神に手を貸したとき、そのときはじめて
真の至福が得られる。
何らかのやり方で、自分なりのやり方で世界をもう少し美しくしたとき、 世界
の喜びを増したとき、そのときあなたはサニヤシンだ。
この道に、あなたの内なる生に気つ゛くことは、自分が不死であることを知る
助けになる。
ひとたび潜在能力を完全に発揮している自分の姿を知ったなら、 内なる松明た
いまつが両側からめらめらと燃えているときの自分の姿を知ったなら、 死など
存在しないことがわかるだろう。
力が最大限に発揮されると、 第三の目が働きはじめる― 最大限に発揮された
ときはじめて。
だから、だらだらとした生き方をしてはいけない。
生が重荷でもあるかのような、果たさねばならない義務であるかのような生き
方をしてはいけない。
生を踊りにしなさい。生を祝祭にしなさい。
(p179)
不死はこのなかにあり、また世間の超克もこのなかにある。
生の炎が第三の目に到達するのをそのままにしておけたら、死など存在しない
ことがわかる。
そしてふと気つ゛くと、もはやあなたは世間に執着していない。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

248鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/22(火) 22:05:16 ID:1d4drIFg0
止観の法を伝える仏教でさえ観察の法は廃れてしまっているのじゃ。
四諦も因縁も知識や理論だと思われているのじゃ。
それらは感性を磨いて観察するための方法なのじゃ。
記憶だけして居ればよいというものではないのじゃ。
常に感性を磨いて観察力を増進して観察しなければいかんのじゃ。
それには芸術を産む創造性が必要なのじゃ。
芸術は自然を観察して模倣するのが王道であるからのう。

249避難民のマジレスさん:2019/01/22(火) 22:49:09 ID:LC3de7YgO
>>247
19黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁3
 より抜粋

さあ、この違いを覚えておかなければならない。
古いサニヤス、昔のいわゆる宗教的な生き方は、人々に世間との関係を絶つよ
うにと教えてきた。
私は関係を絶つことは教えない。
私はあなたの生命エネルギーを最大限に発揮するよう教えている。
ひとたびみずからの実存のなかにある真実のものを見れば、世間はもはや意味
を失ってしまう。
高次のものが生まれれば、低次のものは意義を失う。
それを棄て去る必要はない。
それはすでに落ちている。
どこにも逃げ出す必要はない。
あなたは世間で生きることができる。
だが、あなたは世間を超越している。
そして、覚えておきなさい。
逃避するのと、超越するのはまったく違うことだ。
真のサニヤシンは、世間との関係を絶つのではなく、それを超越しなければな
らない。

光は肉体のなかだけにあるのではなく、 肉体の外だけにあるのでもない。
ひとたび内なる光を見たら、あなたは光は内側だけにあるのではなく、外側に
もあることに気つ゛くようになる。
光は、あ な た のなかだけに封じられているものではない。
いいかね、暗闇は個的なものだが、光はあまねく存在している。
死は個的なものだが、生はあまねく存在している。
惨めさは個的なものだが、至福はあまねく存在している。
惨めさがあるためには、あ な た が存在していなければならない―孤立したあ
なたが存在していなければならない。
そして至福が訪れるためには、あなたは全体の一部になり、全体と調和しなけ
ればならない。

光は肉体のなかだけにあるのではなく、肉体の外 だけにあるのでもない。
山河大地は太陽と月に照らされるが、それはすべてこの光である。
ひとたび内側に光を見たら、光が至るところに―月のなかに、太陽のなかに―
あることに気つ゛くだろう……。
光はすべて同じだ―内なる光であろうが、外側の光であろうが変わりはない。

それゆえに光はたんに肉体のなかにだけあるのではない。
理解と明晰さ、知覚と光明、そして(精神の)すべての働きは この光に他なら
ない。
あなたが月に見る光と、内側にある第三の目に見る光は同じものだ。
それが同じ光であることに気つ゛けば、内界と外界の違いはもはやなくなって
しまう。
内は外であり、外は内だ。
それゆえに、禅師は
「輪廻サンサーラこそがにゃはんニルヴァーナ」―世間が、この世間そのもの
が悟りだ、と言う。
この身体がそのまま覚者ブッダであり、この世がそのまま楽園である、と。
仏陀が光明を得たとき、「不思議な、信じがたいようなことだが、私が光明を
得たとたんに、全世界がともに光明を得た」と言ったのはそのためだ。
何世紀にもわたり、仏教の瞑想者たちはそれに瞑想してきた。
「仏陀は何を言おうとしているのだろう?
仏陀は何が言いたかったのだろう?
『私が光明を得たとたん、全世界が光明を得た』
とは?どうしてそんなことがありえるだろう?
まだ光明を得ていない人は無数にいるのだから。
仏陀は何を伝えようとしたのだろう?」
瞑想者自身、
「少なくともこの私は光明を得てはいないのだから、全存在が光明を得ている
はずがないではないか」
と考える。
仏陀にとっては全存在が光明を得ている。
彼は、内と外を分けているのが自我エゴ―自我という薄いカーテン―にすぎな
いことに気つ゛いたからだ。
そのカーテンが落ちてしまえば、内なるものもなく、外なるものもない。
それゆえに、仏陀は「私は光明を得た」と言うことができない。
彼は「生きとし生けるすべてのものが光明を得た」と言う。
あらゆる樹々、あらゆる川、あらゆる山々、あらゆる人々、あらゆる動物たち
、あらゆる星々―いっさいのものが光明を得た。
もはや彼には分離した自己認識アイデンティティーがないからだ。
彼は、あなたは光明を得ていると言おうとしているのではない。
彼はたんにこう言っているだけだ。
「『この私が光明を得た』とは言えない。
ただ『私は束縛されていた』と言うことしかできない。
ただ『私は無知だった』と言うことしかできない。
ただ『私は苦しんでいた』と言うことしかできない。
だが、今やその私がいないのだ」
(´・(ェ)・`)
(つづく)

250避難民のマジレスさん:2019/01/22(火) 22:51:44 ID:LC3de7YgO
マハラジは天才物理学者の様に語り、OSHOは天才詩人のように語ってるように思えるでありす。
(´・(ェ)・`)つ

251避難民のマジレスさん:2019/01/23(水) 18:35:51 ID:LC3de7YgO
>>249
19黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁3
 より抜粋

<存在>は至福に満ちている。
<存在>は光に満ちている。
そして内なる光と外なる光は同じものだ―内なるものもなければ、外なるもの
もない。
光が第三の目―ひとつの目、唯一の目に入り込めば、あらゆる区別が消える。
区別という区別がみな消え失せる。
虹は再び白一色の光線になる。

つい先日、こういう質問があった。
「和尚、あなた自身は白を着ておられるのに、どうして 私たちにはオレンジ色
の衣服を着ろとおっしゃるのですか?」
それはただの象徴であり、あなたがたは複数の色が消えて、何の区別もない白
い光線だけが残る地点に到達しなければならないということを示しているにす
ぎない。
(p182)
理解と明晰さ、知覚と光明、そして(精神の)すべての働きは この光に他なら
ない。
それゆえに光はたんに肉体の外にだけ あるのではない。
光は外界にだけあるのではないし、内界にだけあるのでもない。
光は至るところにある―内側にもあれば、外側にもある。
それは同じ光―草木や花の上で輝き、蓮の花の上で踊っているのと同じ光だ。
そして、いいかね、師は「知識」ではなく「理解」だと言っている。
師は「答え」ではなく「明晰さ」だと言っている。
人がひじょうに明晰になると、問いは消えてしまう。
何かの答えを得るというのではない。
あまりに明晰なので、もはやそこに混乱がなくなるというだけのことだ。
答えがあるのではなく、問いそのものがなくなるということだ。
それが「知識」ではなく「理解」と呼ばれるのはそのためだ。
つい先日、アニルッダも尋ねていた。
「私たちの知識とあなたの知識の違いはどこにあるのですか?違いがあるよう
に思えるのですが」と。
違いは知識にあるのではない。
彼は私のほうがよりたくさんのことを知っていると考えていたにちがいない。
実情はまったくその逆だ。
私はあなたがたほどものを知らない。
実のところ、あなたがたは知っているが、私には知識がない。
私はたんに明晰なだけだ―それは明晰さ、理解力であって、知識ではない。
私より、ものをよく知っている者はここにも大勢いる。
そしてそれが彼らのつまつ゛きになっている。
彼らはその知識を落とさなければならない。
私は何も知らない。
明晰さがあるだけだ。
あなたが私に質問をしても、私はそれに対する答えをもっているわけではない

明晰さの焦点をその問いに合わせ、理解しようとするだけだ。
そしてその明晰さから生まれてくる感応が何であれ、私はそれをあなたに与え
る。
それは知識ではなく、見抜く力にすぎない。
知識は人々を盲目にする。
彼らの目は知識で一杯になりすぎて、観ることができない。
あなたが質問をする前から、彼らは既成の答えをもっている。
彼らはいつでも答える用意がある。
彼らはあなたの質問など聞いていない。
彼らは質問者に耳を傾けていない。
彼らは質問者の実存になど耳を傾けない。
彼らは質問者のなかをのぞき込み、相手が何を言おうとしているのかを見よう
とはしない。
彼らは既成の答えをもっている。
彼らは鸚鵡オウム返しに答えを返し、そして論拠となるものや経典を用いてそ
の答えの正しさを証明しなければならない。
そしてあらゆる種類の裏付けを差し出さなければならない。
私はただ一種の理解力、洞察力、見抜く力をもっているにすぎない。

それゆえに、呂祖師は言う―
理解と明晰さ、知覚と光明……と。
それは知識でない。
それは雲ひとつない内なる大空だ。
(p183)
(´・(ェ)・`)
(つづく)

252鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/23(水) 23:44:26 ID:1d4drIFg0
>>250 そうじゃ、オショーは詩人のように人の感情に働きかけるのじゃ。
 そうであるから人を熱狂させるブッダなのじゃ。
 そのようにして人を悟りの道に誘導するのじゃ。
 偉大な如来なのじゃ。

253避難民のマジレスさん:2019/01/24(木) 19:23:46 ID:LC3de7YgO
>>251
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

天地の光の華は数限りない空間を満たしている。
だが、個々の身体の光の華も天にみなぎり、地を覆っている。
それは光の華、この森羅万象のすべてだ。
これは神秘家の体験だ。
森羅万象をつくりあげているのは光以外の何ものでもない。
それはすべて光だ。
光は森羅万象を構成する基本的な要素だ。
そして現代物理学はそれに同意する。
かれらはそれを「電気」と呼んでいる。
光は彼らにとってはあまりに詩的すぎる。
彼らはそれを大地に引き降ろさなければならない。
それは電気になる。
だが、彼らが語っているのはまったく同じものだ。
物質は現代物理学から姿を消した。
物質はもはや存在しない。
物質のもっとも深い中核にあるのは、電気、電子、電気を帯びて舞っている粒
子、質量をもたない踊るエネルギーの粒子に他ならない。
これは何世紀にもわたり、神秘家たちが例外なく体験してきたことだ。
その神秘家の生まれた国がインドであろうが、中国であろうが、チベットであ
ろうが違いはない。
これはすべての神秘家が共有するもっとも基本的な体験だった。
森羅万象をつくりあげているのは光以外の何ものでもない。

『黄金の華の秘密』は言う―この光、この光の華、この光の花弁が内と外のあ
らゆる空間を満たしている、と。

それゆえに、光が巡ると、たちまちにして天地山河 いっさいのものがそれと同
時に循環する。
仏陀が言っていたのと同じことが違う言葉で語られている。
自分の内側で光が巡っているのを見るやいなや、あたり一面に光が輝きだすの
を見ることができるようになる。
まわる星々、山や川―すべては光の流れ、光のエネルギーのとほうもない踊り
に他ならない。
(p184)
人間の身体の華の種子を上方の両目のあいだに集中させること、 それが人間の
身体の大いなる鍵である。
弟子たちよ注意せよ!
瞑想を一日怠れば、この光は流出してゆき、どこへ消えてゆくのか誰にもわか
らない。
もし一刻でも瞑想するなら、一万の劫こうも一千の生涯も取り除くことができ
る。
あらゆる技法は 静けさのなかに帰す。
この不可思議な力は計り知れない。
呂祖師は言う―二十四時間の内、たった十五分でいい、と。
十五分間静かに坐り、第三の目に集中することができたら、あなたの未来全体
を変えるにはそれで足りる。
再び肉体に生まれ変わってくる必要はなくなる。
再びこの世に投げ返される必要はなくなる。
あなたは学ぶべきものを学び終えた。
肉体や肉体の限界をもたずに活動するにふさわしい存在になった。
あなたの魂は、いっさいの束縛やしがらみを離れて自由になる。
そうなったら、死も誕生も存在しなくなる。
あなたはこの限りなき<存在>における永遠の華になる。
たった十五分で?そう、たった 十五分で奇蹟を起こすことができる。
だが、人々にはたった十五分ですら 沈黙し、静かにしている用意がない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

254鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/24(木) 22:14:46 ID:1d4drIFg0
光とは気とかプラーナとかエーテルと呼ばれるものと同じなのじゃ。
それは人の中にもあり、全ての宇宙も満たしているのじゃ。
全ては同じ本質を持ち、同じ意識の現われなのじゃ。
光を眉間に集中してサマーディに入ればそれが如実に感じられるじゃろう。
そのために今までの技法はあったのじゃ。

255避難民のマジレスさん:2019/01/25(金) 02:37:06 ID:LC3de7YgO
>>253
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

聞いた話だが…… イグナチウス・ロヨラは、彼に敵意を抱いている男が法王
に選ばれたという知らせを受けた。
ロヨラが生涯をささげてきたイエズス会の解散を、この新しい教会の首長に命
じられたらどうするかと尋ねられたとき、彼は答えた。
「十五分の祈りさえあれば、何も変わりはしない」
この答えにはこのうえもなく深い意義がある。
彼に敵意を抱いている法王が権力の座につけば、 ロヨラの仕事全体がつぶされ
てしまう恐れが高かった。
彼は小さな神秘家の共同体をつくっていた。
その働きは秘教的なものだった。
キリスト教は、つねに秘教的な働きに反対し続け、つねに神秘家を恐れてきた

なぜなら、神秘家たちは危険だからだ。 彼らはこの世に真理をもたらす。
そしてひとたび彼らがこの世に真理をもたらしたら、人々はもはや儀式、無力
な儀式には興味をもたなくなる。
そうなったら、誰が教会のことを気にかけるだろう?
それゆえにキリスト教は、教会から誰も離れられないように、神に通じる別の
扉が誰の手にも入らないように、誰もが聖職者 のもとへ行かざるをえないよう
に、あらゆる神秘家たちの集団 を執拗に破壊し続けてきた。
たとえ神を探求したいという願望が生まれても、どこにも選択の余地は残され
ていない。
この馬鹿げた観念のせいで、キリスト教は世界中の宗教を破壊してきた。
というのも、世の中にはさまざまな人々がいて、それぞれ自分に合ったタイプ
の集団を必要とし、自分に合ったタイプの手法を必要としているからだ。
そして、本当に誠実な探求者たちは秘教グループを見つけださざるをえない。
彼らは形式的な宗教の一部になることができない―物足りないからだ。
それは なまぬるく、きわめて表面的だ。
西洋では、教会のせいで真の宗教は地下にもぐらなければならなかった。
人々は真実の姿を隠すために様々な偽装をこらさねばならない。
錬金術というのはその偽装のひとつだった。
本当にやろうとしていたのは別のことだった。
錬金術師は、卑金属を黄金に変える仕事をしているのだという印象をまわりに
かもしだそうと努めた。
それなら許されるからだ。教会は大いに満足していた。
卑金属を黄金に変えようとしているのなら、まったく問題 はない。
やりたければそれをやればいい。
成功すれば、教会の黄金が増えるだけのことだ。
恐れることは何もない。
だが、それは偽装にすぎなかった。
それは真の錬金術ではなかった。
それは見せかけにすぎなかった。
カーテンの裏で行なわれる真の作業ワークはまったく別のものだった。
それは低次の実存を高次の実存に変容させることだった。
それこそまさに性欲、すなわち卑金属をいかにして霊性、すなわち黄金へと変
容させるかという "黄金の華"の秘法に他ならなかった。
だが、不必要な手間をかけねばならなかった。
彼らは黄金 を扱う仕事をしているのだと世間が納得するように見せかける工夫
をしなければならなかった。
そして、誰もが黄金に興味を もっている。
教会は、神ではなく黄金に強い興味を寄せている。
ロヨラは言った。
「十五分の祈りさえあれば 、何も心配することはない。 十五分もあれば私は
瞑想に深く 入ってゆける。
それだけでいい。
そこにいるかぎり、何も問題はない、 まったく何の問題もないからだ」

呂祖師は言う十五分間だけで……一万の劫こうも一千の生涯も取り除くことが
できる。
あらゆる技法は静けさのなかに帰す。
それを覚えておきなさい。どんな技法を選んでも、ゴールは同じだ―静けさ、
内なる完全な沈黙、無思考、いかなる中身もない純粋な意識。

この不可思議な力は計り知れない。
その深さは計り知れない。
思考が消え、あなたが完全に沈黙すると、その静寂は底知れぬ深淵となり、測
ることができない。
太平洋の深さは測ることができる―八千メートルの深さがある。
だが、あなたの内なる太平洋の深さは測ることができない―それは底知れない

どこまでも掘り進み、どこまで深く潜っていっても、その深さを測ることはで
きない。
その底にはけっして達しない。
測ることができるのは思考だけであり、無念無想の状態を測ることはできない

それゆえに、無念無想の状態は神の別名だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

256鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/25(金) 22:43:31 ID:1d4drIFg0
通常の道教の経典では陽神をつくり出神する方向に進むのであるがこの書は違うのじゃ。
丹を作った後に眉間に集中して定に入るのじゃ。
そして光が自らの中にも全てにもあることを見出すのじゃ。
悟りに向かう書なのじゃ。

257避難民のマジレスさん:2019/01/25(金) 23:53:05 ID:LC3de7YgO
>>256
鬼和尚、いつもありがとうであります。
超勉強になるであります。
(´・(ェ)・`)つ

258避難民のマジレスさん:2019/01/26(土) 00:05:53 ID:LC3de7YgO
>>255
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁
 より抜粋

だが、いいかね。思考のない状態は一種の眠りであってはならない。
なぜなら、それはごくありふれたものだからだ。
それは毎日起こっている。
深い眠りのなかで、夢が消えたとき、あなたはその深淵のなかへと落ちてゆく

ぐっすり眠ると若返ったように、さわやかになるのはそのためだ。
朝になると再び活力がみなぎり、あなたは新しく生まれ変わっている。
だが、それは無意識に起こることだ。
パタンジャリは、深い眠りとサマーディはひじょうによく似ているが、ひとつ
だけ違いがあると言っている。
眠っている時には人は無意識だが、サマーディの状態では意識している。
だが、あなたは同じ空間―内側にある、同じ測ることのできない不可思議な空
間におもむいている。
そこには思考もなく、欲望 もなく、想念の波動もなく、まったく静かだ。
あらゆる技法はそこに到る。
ヨーガ、タントラ、タオ、ハシディズム、スーフィズム ―あらゆる技法は異な
る角度からそこにたどり着く。
それら はさまざまなタイプの人々のために編み出されたものだ。
(p188)
だが、実修をはじめるにあたり、人は浅いものから深いものへ、粗雑なものか
ら微細なものへと進んでゆかなければならない。
最初は大いなる努力が必要とされる。
人は浅いものから深いものへと進んでゆくしかない。
浅いものとは何だろう?
浅いものとは絶え間のない思考のプロセスだ。
深いものとは何だろう?
思考のない状態のことだ。
粗雑なものとは何だろう?
心の中身はみな粗雑だ。
微細なものとは何だろう?
中身のない状態は微細だ。
人は進みつつ゛けなければならない。
最初のうちは大いなる努力が必要とされる。
最初のうちは行法ワークに完全に身を投じ
なければならない。
そうしてはじめて瞑想は無努力になり、至福の瞬間が生まれてくる。
まず瞑想は男性的エネルギーでなければならない。
それが尽きてはじめて女性的エネルギーになることができる。
私がまず最初に激しい動きをともなう技法を強調するのはそのためだ。
全力をふりしぼり、最大限の努力をするがいい。
しりごみせずに、もてるすべてを賭けるのだ。
そうすれば、やがていつか努力せずにくつろぐことができるようになる。
目を閉じるだけで第三の目に到達することができるようになる。
だが、実修をはじめるにあたり、人は浅いものから深いものへ、 粗雑なものか
ら微細なものへと進んでゆかなければならない。
すべては間断なく持続するかどうかにかかっている。
それを規則正しく行ないなさい。

実修は始めから終わりまで一貫していなければならない。
この間に、冷暖をおのずから知るのである。
だが、目指すべきは 空の広大さと海の深遠さに到ることであり、そうすればあ
らゆる技法をいともたやすく身につけることができる。
そこではじめてそれを体得したと言える。
努力が不要になり、いっさいの努力が落ちたとき、あなたはそれを真に体得し
ている。
技法が不要になり、いっさいの技法が落ちたとき、あなたはそれを真に体得し
ている。
瞑想がもはやすることではなくなり、みずからの境地になったとき、あなたは
それを真に体得している。
あなたはそのなかに生き、歩くときも、坐るときも、そのなかにある―「坐る
ことも禅であり、歩くことも禅だ」
食べるときも、眠るときも、あなたは瞑想の内にあり、それになりきっている

いずれはそのときが来る。
だが最初は全身全霊で取り組まなければならない。
いいかね、水が百度の熱で蒸発するように―九九度や九九・九度ではなく百度
で蒸発するように、あなたがもてるすべての力を振り絞って百度に達したとき
には、ただちに卑金属が黄金に変わる。
性エネルギーは、ただちに霊的世界にまで到達する。
流出していたエネルギーはただちに百八十度の転換を遂げ、二つの目はひとつ
になる。
そうなったら内界と外界はくまなく光明で満たされる。
イエスは言った。
「木を切りなさい、そうすれば私がみつかるだろう。石を打ちなさい、そうす
ればそこに私がいる」
これは究極の境地だ。
木を切ると神を見いだし、石を打つと神を見いだす。
あなたは神として、神のなか、神の上を歩いている。
あなたは神を呼吸し、神を食べ、神を飲んでいる。
なぜなら、すべてが神だからだ。
この究極の体験こそ、呂祖師の言う開放だ。
そしてそれは第三の目のなかにある。
(p190)
(´・(ェ)・`)

259鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/26(土) 22:44:04 ID:1d4drIFg0
>>257 そうじゃ、どんどん学ぶと善いのじゃ。

オショーがこの書を解説するのも悟りにまで通じる実践の書であったからなのじゃ。
通常のただ単に集中だけをする修行であるとサマーディにまでたどり着くのに才能と時間が必要なのじゃ。
このように気とか光を身体に巡らせて使えばより短期間で才能の無い者にもサマーディに辿りつけるのじゃ。
それが性命双修の貴重なところなのじゃ。

260避難民のマジレスさん:2019/01/27(日) 10:22:03 ID:LC3de7YgO
>>258
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える
 より抜粋

呂祖師は言った。
観想なくしては何事も成しとげられない。
覚知することにより人は目標に到る。
内観によって反転させなければならないのは自意識をもったこころである。
万物を形つ゛くる精神が顕現してくる前の状態へとそれを導かなければならない

昨今の人々はたった一時間か二時間坐って瞑目し、ひたすら己の自我を見つめ
、それを内観と呼んでいる。
そのようなやり方でどうして何かを得ることができるだろう?
人は鼻の頭を見るべきである。
だがこれは、みずからの思念を 鼻の頭に固定させるという意味ではない。
またこれは、目で鼻の頭を見つめながら思念を「中心の黄色」に集中させると
いう意味でもない。
視線が向かうところに、こころも向かうものである。
どうしてそれを同時に上方と下方に向けることができるだろう?
こういったことはみな、月を指す指を月そのものと取り違えるようなものであ
る。
では、これは実際には何を意味するのか?
「鼻の頭」という表現はよく考えて選ばれたものだ。
鼻は視線の目安とならなければならない。
鼻に視線を向けていない場合 には、目を大きく開けて遠くを見ているため鼻が
見えないか、 あるいは目を閉じ過ぎていて鼻が見えない。
目を大きく開け過ぎると、視線を外に向けるという誤りを犯し、気が散りやす
くなる。
目を閉じすぎると、視線を内に向けるという誤りを犯し、夢を見るような空想
の状態に沈みこんでしまう。
ただ瞼まぶたを適度に半分ほど閉じると、ちょうどよい具合に 鼻の頭が見え
るようになる。
そのために鼻を目安にするのである。
大切なのは、瞼を適度に閉じて、意識を集中させて光を流れ込ませようとする
のではなく、光が自然に流れ込むようにすることである。
鼻の頭を見ることは、ひとえに内なる集中をはじめる際に役立つのであり、そ
うすることで視線が正しい方向に向かい目安が定まれば、後はそのまま放置す
ればよい。
これは大工が下げ振りをつるすにあたり、いったんそれをつるし終えると、絶
えずその糸を見ることにこだわらないようなものである。
両目で鼻の頭を見ながら、背筋を伸ばして楽な姿勢で坐り、こころを諸条件の
只なかにある中心にたもつ。
それは必ずしも頭の中心を指しているわけではない。
大切なのは、ただみずからの思念を両目の中間に定めることである。
そうすればすべては整う。
光ははなはだ動きやすい。
両目の中間に思念を定めると、光は自然に流れ込んでくる。
注意をことさら中心の宮殿に向ける必要はない。
大切なことはこの数語に要約されている。
「諸条件の只なかにある中心」というのは、ひじょうに 微妙な表現である。
中心は至るところにあり、いっさいのものが そのなかに含まれている。
それはあらゆる創造のプロセスが 解き放たれる点と結びついている。
一点を見つめ観想することが不可欠である。
この技法はすみやかに光明を得ることを保障する。
世俗の想念が浮かびあがってきたなら、そのままじっと坐りつつ゛けてはいけ
ない。
その想念はどこにあるのか、どこではじまり、どこへ消えてゆくのかを調べな
ければならない。
内省をどこまで押し進めても何も得られない。
この想念がどこから生まれてきたかを見ることでよしとし、その先を究めよう
としてはならない。
こころを探し求めても、とらえることはできない(意識によって意識の背後に
達することはできない)からだ。
人はみなこころを落ち着かせようとする。
これが正しい観想である。
これと矛盾するのは誤った観想であり、何も得るところがない。
雑念が果てしなくつつ゛いてゆくときには、立ち止まり、観想をはじめなけれ
ばならない。
観想したら、再び見つめる。
これがすみやかに光明を得るための二重の技法、つまり光を巡らせることであ
る。
巡らせるとは見つめることであり、光とは観想のことである。
観想せずに見つめるのは光のない循環であり、見つめずに観想するのは循環の
ない光である。
これに注意しなければならない!
(´・(ェ)・`)
(つづく)

261避難民のマジレスさん:2019/01/27(日) 10:31:01 ID:LC3de7YgO
>>260
「中心の黄色」とは、何でありますか?
(´・(ェ)・`)つ

262鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/28(月) 00:28:43 ID:1d4drIFg0
>>261 眉間のことなのじゃ。
 黄庭とか中宮とかいろいろにいうのじゃ。
 要するに鼻の頭に視線を向ければ自然に気が眉間に集まるというのじゃ。
 無理に集中する必要は無いというのじゃ。

263避難民のマジレスさん:2019/01/28(月) 07:34:25 ID:LC3de7YgO
>>262
鬼和尚、ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ

264避難民のマジレスさん:2019/01/28(月) 07:51:21 ID:LC3de7YgO
>>260
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

盲人が友達の家を訪ねた。
彼が帰宅する頃には暗くなっていたので、友人たちは提灯ちょうちんを手渡し
た。
「ありがとう。でも、いらないよ。明るくても暗くても、私にとっては変わり
ないからね」
「まあ、とにかくもっていけよ。そうすれば人がぶつかってこないだろう」
彼が家を出ると、すぐに誰かがぶつかってきて、怒鳴った。
「どうして前をちゃんと見ていないんだ」
「君こそ、この提灯が見えないのか?」
「あいにくだがね」
と相手は言った。
「蝋燭ろうそくが消えてしまってるぜ」
瞑想というものを知らない人々が手にする聖典は、盲人が手にする提灯のよう
なものであり、まったく役に立たない。
そして盲人には提灯の明かりがついているか消えているかどうかもわからない

彼はたんにいらぬ重荷を持ち歩いているだけだ。
実のところ、何の役にも立たないどころか、むしろ邪魔になりかねない。
提灯をもたずに歩いていたら、盲人はもっと注意深く用心していただろう。
提灯をもった ばかりに、目があるつもりになって歩き、注意力がすっかり散漫
になっていたにちがいない。
人類全体に起こっていることはまさにそれだ。
人々は『聖書』『コーラン』『ギータ』をもち歩いている。
それらの聖典はこのうえもなく美しい光を放つランプだ。
が、あなたの目は見えない。
『ギータ』は五千年も前のものであり、光はとうの昔に消え ている。
クリシュナの死とともに、光は消えた。
『聖書』や 『コーラン』、その他の世界中のあらゆる聖典の場合も同じだ。
師マスターが死ぬと、光も消える。
だが人々は聖典を手放そうとはしない ― 聖典を信じ込み、偉大な師のメッセ
ージを伝えているのだから、自分たちの生はいつまでも光に満たされてゆくと
期待している。
そのメッセージ はただの言葉にすぎない。それは不用な重荷だ。
世にある聖典がすべて消えてしまったら、人間はもっと用心深くなり、もっと
気を引き締めて、自力で光の源を 探しはじめるかもしれない。
頼れるものが何もないので、 自分の足で立つことを学ばなければならない。
あるとき龍潭りゅうたんのもとを徳山がとくざんが訪ね、夜ふけまで教えを請
いつつ゛けた。
とうとう龍潭は言った。
「夜もふけてきた。そろそろもどりなさい」
徳山はいとまを 告げると、襖ふすまを開けて出ていった。
外があまりに暗かった ので、徳山は引き返してきて言った。
「外は真っ暗です」
そこで龍潭は提灯ちょうちんに火をともし、それを徳山に差し出した。
徳山がそれを受け取ろうとしたまさにそのとき、龍潭は不意にそれを吹き消し
た。
この瞬間、徳山は忽然と目覚め、礼拝した。
龍潭は言った。
「どのような真理を得たのか?」
徳山は言った。
「今日より後、祖師たちの言葉をけっして疑うことはありません」
翌日、龍潭は弟子たちの前に姿を現して言った。
「この会衆のなかに、剣でできた樹のような牙をもち、口を 血だらけにして、
棒で殴られても振り向こうとしない男がいる。
やがてこの男は人里離れた山の上に、私の道を打ち立てるだろう」
徳山は、僧堂の前で経典の注釈書を取り出し、火をかざしながら言った。
「際限なくものごとを分析しつつ゛けてゆくことは、虚空に一本の髪の毛を置
くようなものであり、俗世の力は広大な谷間に一滴の水を投げ入れるようなも
のだ」
目がなければ、光ですら役に立たない。
あなたが手にしている提灯は無用の長物 であり、まったく何の役にも立たな
い。
だが、目があれば、蝋燭ろうそくを吹き消すことですら悟りの体験になりうる。
問題なのは目だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

265鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/28(月) 22:28:35 ID:1d4drIFg0
>>263 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。

視線を鼻の頭に向けていれば光が入ってくるというのじゃ。
雑念がわいたらそれがどこから起こるのか探すのじゃ。
それがわかって雑念が止んだらまた鼻の頭を見つめるのじゃ。
そのようにして日々続けていくというのじゃ。

266避難民のマジレスさん:2019/01/28(月) 22:51:03 ID:LC3de7YgO
>>265
くまは、目を閉じてやるのが好みであります。
なれたやり方で良いでありますよね。
(´・(ェ)・`)つ

267避難民のマジレスさん:2019/01/28(月) 23:02:53 ID:LC3de7YgO
>>264
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

龍潭のもとを徳山が訪ねた。
龍潭は師であり、徳山は弟子だ。
外が真っ暗なのを見て、弟子は師に言った「真っ暗です」 師は蝋燭に火をとも
すと、それを弟子に差し出した。
弟子が受け取ろうとしたそのとき、師は火を吹き消した。
突然、闇がもどってきた。
闇は一段と深さを増した。
不意に蝋燭を吹き消されたことが、予期せぬ一撃になったにちがいない。
しばらくのあいだ、弟子は二つの思考のはざまに落ちていったにちがいない。
しばらくのあいだ、思考が消え失せ、観想が起こった。
しばらくのあいだ、完全な沈黙があった。
その沈黙のなかで彼は大切なことをつかむことができた。
翌日、彼はもっていた経典をすべて燃やしてしまった。
もはやそれらは必要ではなかった。
彼はみずからの体験を通して真理を知ったからだ。
ごくわずかの体験でも、山のような知識よりも価値がある。
太陽や月やすべての星々よりも、たった二つの小さな目のほうが価値がある。
大切なのは、宗教とは体験であるということだ。
それは推測ではない。
絶え間ない分析ではない。
それは洞察だ。
(p196)
さて、経文だ。
これらの経文にはここのうえもない価値がある。
なぜなら、それは最も簡潔な表現で手法を授けて いるからだ。
あなたが複雑なものにしようとしないかぎり、この手法は実に単純だ。
こころマインドはいつも単純なものごとを複雑なものに変えてしまう。
それに気をつきなさい。
なぜなら、心は単純なものとは共存できないからだ。
それは必要とされない。
もしものごとがごく単純で あれば、心の出る幕はない。
ものごとが複雑であってはじめて心が必要になってくる。
そうなったら、あなたは心に頼らざるをえなくなる。
心が謎を解く道を見いだしてくれるからだ。
だが、謎がなければ、心はまったく無用だ。
あなたは心を捨てることができる。
だから、心はものごとを複雑にしてしまう。
これらの経文は実に単純であることを覚えておきなさい。
真理はつねに単純だ、まったく単純だ。

呂祖師は言った。
観想なくしては何事も成しとげられない。
観想とは何か?無思考の瞬間だ。
「観想contemplation」という言葉には、ディヤーナの正しい意味が含まれていない。
英語には「ディヤーナ」という言葉に当たる適切な訳語がない。
使えそうな言葉が三つある。
ひとつは「集中concentration」
だが、この言葉はひどくかけ離れている。
集中とは努力、緊張を意味している。
それは強いられた状態であって、無碍むげ自在に流れている状態ではない。
ところが、ディヤーナとは無碍自在に流れている状態だ。
そこには緊張がない。
だから「集中」という言葉は訳語としてはふさわしくない。
次は「観想contemplation」という言葉だが、観想には思考の含みがある。
誰かが観想していると言えば、何かについて考えているということになる。
三番目の言葉は「瞑想meditation」だが、これもやはり 考えること、何かにつ
いて瞑想することを意味する。
この三つの言葉にはどれもディヤーナの意味が含まれていない。
ディヤーナとは無思考の状態、沈黙の状態、意識的でありながら中身がない状
態を意味する。
鏡がそこにあるが、何も映し出していない、まったく 何も映し出していない。
ちょうどその鏡のように、意識がそこにあるが、何もそれをふさいでいない。
その何も占められていない醒めた意識がディヤーナだ。
道家の人々は「ディヤーナ」の訳語として「観想」を使っている。
いずれにせよ何らかの言葉を使わざるをえないからだ。
だから、その意味を覚えておきなさい ― それは辞書に記された意味ではない。
辞書を調べると、まったく違った観想の概念 ― 『黄金の華の秘密』が「誤っ
た観想」と呼んでいるものが載っている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

268鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/29(火) 21:44:12 ID:1d4drIFg0
>>266 そうじゃ、自分のやり易い方法で善いのじゃ。
 経典は参考にする程度で善いのじゃ。

ディヤーナとは意志によって集中しないでも続く心の鎮まった状態なのじゃ。
初心者のうちは集中しなくては心は鎮まらないのじゃ。
慣れてくればいつもの座り方をするだけで心は鎮まるのじゃ。
それがディヤーナなのじゃ。
禅の語源なのじゃ。

269避難民のマジレスさん:2019/01/29(火) 22:10:26 ID:LC3de7YgO
>>267
21黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

「誤った観想」とは、何かについて考えることだ。
それは神 かもしれない ― キリスト教徒が「観想(黙想)」という言葉 で言お
うとしているのはそれだ ― 神について考えること、聖なるもの、超越的なも
のについて考えること。
だが も の は も の であり、神聖なものであろうが、世俗的なものであろう
が違いはない。
思考は思考であり、セックスについて考えようと 、サマーディについて考えよ
うと違いはない。
無思考の状態、間合い…… それはいつも起こっているのだが、あなたは注意
深く醒めていない。
醒めていたら何も問題はない。
ひとつの思考がやって来る。
続いて別の思考がやって来る。
この二つの思考のはざまにはいつも小さなギャップすきまがある。
そのすきまが聖なるものへの扉だ。
そのすきまが観想だ。
そのすきまを深くのぞき込めば、それはどんどん大きくなってゆく。
心マインドは交通の激しい道路のようだ。
車が次から次へと通り過ぎてゆく。
車に目 を奪われるあまり、二台の車のあいだに必ずあるすきまが見えない。
すきまがなければ車は衝突してしまう。
衝突しないのは、車と車のあいだにすきまがあるからだ。
あなたの思考は衝突しない。
互いにぶつかったり、相手を轢きつぶしたりはしない。
互いに重なり合うことすらない。
どの思考にも境目がある。
どの思考 も区切ることができる。
だが、思考の進行があまりに すばやく速いので、本当にそれを待ち受け、見つ
けようとしないかぎり、あなたはすきまを見ることができない。
観想とは見ている風景の焦点をそっくり変えることだ。
ふだん私たちは思考を見ている。
思考が次から次へと現れる。
風景の焦点を変えると、すきまが次から次へと現れる。
あなたはもはや思考ではなく すきまを重視している。
例えば、あなたがたはここに坐っている。
私があなたがたを見る方法は二つある。
ひとりひとりを順番に見てゆくやり方と―人に目をやれば、私は人数を数える
ことができる ―人のことは忘れ、人と人のあいだにあるすきまを勘定し、すき
まがいくつあるかを数えるやり方だ。
そうすればものの見え方がひっくり返る。
すきまを数えたら驚くようなことが起こる。
すきまを見つめ、すきまを数えているために、人の輪郭がぼやけ、はっきり見
えなくなってゆく。
いつか道端に立って、通り過ぎてゆく すきまを数えてみるといい。
あなたは驚くだろう― 車の色は目に入らない、車の型は目に入らない、車の運
転手や乗客は目に入らない。
目に飛び込んでくるのはすきまだ ― ひとつのすきまが過ぎ去ると、次のすき
まがやって来る。
あなたはすきまを数えつつ゛ける。
風景の焦点は変化している。
観想とは見ている風景の焦点を変えることだ。
ひとつの思考から別の思考へと飛び移るのではなく、ひとつのすきまから次の
すきまへと飛び移ってゆく。
徐々に徐々に、すきまへの気つ゛きが増してゆく。
それは生の最大の秘密のひとつだ。
なぜなら、そのすきまを通して、あなたはみずからの実存へ、みずからの中心
へ と落ちてゆくからだ。

観想なくしては何事も成しとげられない。
覚知することにより人は目標に到る。
覚知すること、ただ覚知すること……それはインドでは「ダルシャン」と呼ば
れている。
見ることにより、人はどこにも出かけることなく目標に到る。
どこにも出かける必要はない。
ただ見ればいい。
ひとたび間隙かんげきを、すきまをのぞきはじめたら、あなたは自分が誰であ
るのかを見ることができるようになる。
そしてあなたは目的地だ。
あなたは出発点であり目的地、始まりであり終わり、アルファでありオメガだ。
渇望していたすべてのものがすでにあなたのなかにある。
欲しがっていたすべてのものがすでにあなたのなかにある。
欲しがっていたすべてのものをあなたはもっている。
乞食でいる必要はない。
すきまを見ることを選べば帝王になり、思考を見つつ゛けていたら乞食のまま
でいるしかない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

270避難民のマジレスさん:2019/01/30(水) 08:35:46 ID:LC3de7YgO
>>269
マハラジ
>もしあなたが注意深く見守れば、あなたの日常の意識は、つねに隙間が現れ
 るひらめきのようなものでしかないと知るだろう。
 その隙間のなかには何があるのだろうか?
 ほかでもない、あなたの永遠なる真の実在だ。

OSHOがマハラジの言葉を詳しく解説してくれてるようであります。
(´・(ェ)・`)つ

271鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/30(水) 22:40:14 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、全ての目覚めた者は同じ事を説いているのじゃ。
自らの心を観ることが常に説かれるのじゃ。
この書に書かれていることもまたその方法の一つなのじゃ。
全ての教えは自らの心を観ることに尽きるのじゃ。

272避難民のマジレスさん:2019/01/30(水) 23:51:00 ID:LC3de7YgO
>>269
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

覚知することにより人は目標に到る。
自分自身から一歩たりとも踏み出してはならない。
神はすでにあなたのなかにいるからだ。
神は既成の事実だからだ。
それはあなたの内奥にある中核だ。
神は天上に、空のどこかにいるわけではない。
神はあなたの内側に、もはや思考によってかき乱されないところにいる。
沈黙がみなぎり、何ひとつ映し出していない、中身のない意識があるところに

そのとき、あなたは自分自身の味をはじめて体験し、みずからの実存のかぐわ
しい香りに包まれる。
黄金の華が開く。
(p200)
内観によって反転させなければならないのは自意識 をもったこころである。
万物を形つ゛くる精神 が顕現してくる前の状態へとそれを導かなければならな
い。
思考は顕れたものであり、無思考は顕れていないものだ。
自分が見ている風景が思考だけで成り立っているとしたら、エゴ自我以上のも
のは何もわからないだろう。
自我は「自意識をもったこころ」と呼ばれている。
あなたは思考のかたまり以外の何ものでもない。
その思考のかたまりのせいで、あなたは「私はある」という自意識をもつよう
になる。
近代西洋哲学の父であるデカルトは「我思うゆえに我在り」と言う。
彼は瞑想者ではないから、まったく別のことを言おうとしているのだが、その
言明そのものは美しい ―
まったく異なる文脈のなかに置くなら美しい。
私はそれに別の意味を与える。
そう、私は私が考えるときにのみ存在する。
思考が消えれば、私も消え失せる。
「我思うゆえに我在り」 ― この私の感覚、この「自意識をもったこころ」と
は連続する思考に他ならない。
それは本当は実体がなく、偽物であり、幻覚だ。
手に松明たいまつをもってぐるぐるまわしてゆくと、現実にはない火の輪が見
える。
だが、松明の動きがすばやいために、まぼろしの火の輪が生み出されている。
それは火の輪の幻覚を生じさせる。
それはそこにはない。
思考の動きがあまりに速いので、私という観念がつくりだされる。

呂祖は言う ― 人は「自意識をもったこころ」から"自意識をもたないこころ"
へと移らなければならない、と。
人は自我から無我の状態へと移らなければならない。
人は自己から無自己へと移らなければならない。
自己は顕現している部分であり、ちっぽけで、ひじょうに小さく、粗雑だ。
無我は顕現していない部分であり、果てしがなく、永遠だ。
自己はつかのまの現象であり、いつか生まれて、いつか死ななければならない

無我 ― 仏陀は「アナッター」、無自己と呼んでいる ― は永遠の一部であり
、生まれることもなく、死ぬこともない。
それはいつまでもとどまる。

六尺の身体の内に、天地が未だ現れる前にあった形を求め、努力しなければな
らない。
そしてあなたの六尺の身体のなかでは、その本質が、天地がつくられる前から
あったその本質が、今もなお息つ゛き、鼓動している。

禅の人々はそれを「本来の面目」と呼んでいる ―天も地も、何ひとつ生まれず
、いっさいのものが姿を現さず、沈黙だけがそこにあり、物音ひとつ立たなか
ったとき……形がなく、すべて無相であり、あらゆるものが種子の状態であっ
たときにそこにあったもの。
その本来の静寂があなたの内側にある。
ヒンドゥー教徒はそれを「アナハトナッド」と呼ぶ。
仏教徒たちは「隻手せきしゅの音声おんじょう」
という特有の表現をする。
それはあなたの内側にある。
それはあなたの真の姿だ。
それを味わえば、あなたは不死になる。
それを味わえば、あなたは黄金になる。
そうなったら塵ちりは変容して神々しいものになる。
錬金術はみな、卑金属を黄金に変容させることを目指している。
(´・(ェ)・`)
(つづき)

273避難民のマジレスさん:2019/01/30(水) 23:54:39 ID:LC3de7YgO
>>272
「隻手の音声」についての、OSHOの解釈は、本来の意味なのかもしれぬと思うくまであります。
(´・(ェ)・`)つ

274避難民のマジレスさん:2019/01/31(木) 12:09:15 ID:LC3de7YgO
>>272
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

昨今の人々はたった一時間か二時間坐って瞑目し、ひたすら己の自我を見つめ
、それを内観と呼んでいる。
そのようなやり方でどうして何かを得ることができるだろう?
坐って瞑想しながら、自分の自我エゴを見つめてばかりいるといったことにも
なりかねない。
人々が「観想」と呼んでいるものはそれだ。
彼らは自分たちの思考を見つめているが、見ている風景の焦点を変えてはいな
い。
彼らにそれしか起こらないのは、ふだんは実にたくさんのことに心を奪われて
いるので、思考を見つめることができないからだ。
瞑想のために特別に坐ると、しばしのあいだ世間を忘れ、思考がふだんよりも
鮮明になり、思考に対してより敏感になる。
これは哲学者の心境だ。哲学者はそのようにして考え、推測し、哲学を組み立
ててきた。
これは真の観想ではない。
そしてこのようなやり方では、自我を超え、死を超え、時間を超えてゆくこと
などできるはずがない。
だが、人間の目的はまさに超越にある。
くり返そう。
瞑想をしたければ、見ている風景の焦点を変えなければならない。
目を閉じて自我を見つめているだけでは役に立たない。
イギリスの偉大な哲学者、デービッド・ヒュームは書いている。
「偉大な教師マスターたちがそろって口にする
『汝自身を知れ、瞑想をせよ』という金言や助言を何度も何度も聞いたり読ん
だりしたので、私も瞑想をやってみた。だが、内側には思考、記憶、空想、夢
しかなかった。他には何も見つからなかった」
彼がそう言うのももっともだ。
彼は瞑想が何であるかを知らないからだ。
彼は哲学者、世界でもっとも才能ある哲学者のひとりだ。
その論理は実に鋭く、首尾一貫している。
が、彼は瞑想者ではなく、たんなる哲学者にすぎない。
その言葉通り、彼はやってみたにちがいない。
彼は内側をさまよっているたくさんの思考に出くわしたにちがいない。
そこで彼は言う。
「自己もなく、静寂もなく、神も存在していない。こんなことをしても虚しい
だけだ」
彼は取り逃がした。
まず見ている風景の焦点を変えねばならないということに気つ゛いていなかっ
たからだ。
思考を見つめる必要はなない。
すきまを求め、すきまをのぞき込まなければならない。
すきまを探し、そのすきまのなかに飛び込まなければならない。
すきまに飛び込んでいたなら、彼は思考が消え、夢が消え、記憶が消えてゆく
のを見ただろう。
あらゆるものが置き去りにされ、しだいにそれは遥か遠くに聞こえる物音にな
ってゆく。
そしてある瞬間がやって来る……それが すっかり消え失せると、あなたは超
越している。
あなたは向こう岸に到達している。
人は鼻の頭を見るべきである。

さあ、ここは経文のなかでも実践に役立つ箇所だ
― とても単純だが、正しく理解するように。
なぜなら、心マインドは単純なものごとですら曲解したがるからだ。
心とは曲解しようとするからくりだ。

人は鼻の頭を見るべきである。
なぜか、それが助けになるからだ。
そうすればあなたの意識は第三の目の延長線上にくるからだ。
両目が鼻の頭に向けられていると、たくさんのことが起こる。
基本的なことは、第三の目は鼻先と一直線上に ― 五、六センチ上だが同じ直
線上に ― 位置しているということだ。
ひとたび第三の目の延長線上にのれば、その第三の目の魅力、その第三の目の
吸引力、磁力があまりに大きいので、あなたは知らないうちに引きつけられて
しまう。
その線の上にのりさえすれば、第三の目の魅力、引力が作用しはじめる。
ひとたびその線の真上に来れば、努力をする必要はいっさいなくなる。
ふと気つ゛くと、世界の見え方が変わっている。
両目は二元的な世界や思考をつくりだし、両目のあいだにあるひとつの目はす
きまをつくりだすからだ。
これは見ている風景の焦点を変える単純な技法だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

275鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/31(木) 23:25:35 ID:1d4drIFg0
>>273 そうじゃ、公案も本来は修行者の心を鎮めさせるために編み出されたものじゃ。
 面白いクイズではないのじゃ。

呂祖も自我を観ることを否定してはいないのじゃ。
ただ思考が雑念として沸き起こる状態では見ることができないというのじゃ。
そのために鼻頭を観ることで眉間に気を集める法を教えるのじゃ。
止観の止を教えているのじゃ。

276避難民のマジレスさん:2019/02/01(金) 15:39:21 ID:LC3de7YgO
>>274
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

人は鼻の頭を見るべきである。
だがこれは、みずからの 思念を鼻の頭に固定させるという意味ではない。
心マインドはそのように曲解しかねない。
心は「よし、じゃあ鼻の頭を見つめればいいんだ。鼻先のことを考えて、それ
に集中すればいいんだ」と言いだしかねない。
鼻の頭に集中し過ぎたら、肝心な点を取り逃がしてしまう。
鼻の頭に視線を下ろしつつも、第三の目によって引き寄せられるように、ゆっ
たりくつろいでいなければならないからだ。
鼻の頭に集中し過ぎて、そこに根をはやし、焦点を合わせ、固定してしまった
ら、第三の目はあなたを引き寄せることができない。
第三の目はこれまで一度も働いたことがないからだ。
その吸引力は、最初はそれほど大きなものではありえない。
それは徐々に徐々に大きくなってゆく。
ひとたび第三の目が機能しはじめ、それによって周囲につもったほこりが消え
、仕組みが順調に働いてゆくようになれば、鼻先に意識を向けるだけで、あな
たは引き寄せられるようになる。
だが、はじめはそうはゆかない。
あなたは肩がこらず、圧迫もなく緊張もない、軽々とした状態でいなければな
らない。
あなたはただ一種の手放し状態のなかでそこにいなければならない。

またこれは、目で鼻の頭を見つめながら思念を 「中心の黄色」に集中させると
いう意味でもない。
だから、鼻の頭に意識を集中させないこと ― さもないと心マインドは第二の策
略トリックを弄しかねない……
師は心が引き起こしうるあらゆる事態、あらゆるゲームに注意を向けさせよう
としているだけだ。
心はまず言う。
「よし、では師は『鼻の頭に集中せよ』と言ってるんだ」
師は「鼻の頭に集中せよ」などとは言っていない。師は「見なさい。軽やかに
、力まずに見なさい」と言っているだけだ。
あるいは心はこう言うかもしれない。
「そうか、鼻の頭をとりあえず見て、意識を第三の目に集中させればいいんだ
な」心はつねに集中する側にまわる。
心は集中を餌とし、集中を食べて生きているからだ。
学校や大学で、瞑想ではなく集中が教えられるのはそのためだ。
学校はすべて心をつくりだす工場だからだ。
それは心を製造している。

視線が向かうところに、こころも向かうものである。
どうしてそれを同時に上方と下方に向けることができるだろう?
そうなったら、心マインドはこう言うだろう。
「いいかい、そんなことはできっこない。不合理な要求さ。どうして二つの方
向を、鼻の頭と第三の目を同時に見るなんてことができるだろう?そんなこと
は不可能だ、やれるはずがない。馬鹿を言っちゃいけない」
さあ、何かをつじつまが合わないと言って非難するのが、心の第三のゲーム
だ ― 心はまずまやかしの観念をつくりだしておいてから、それを壊そうとす
る。
そして壊すことに大きな喜びを覚える ― ひじょうに自虐的、加虐的な喜びだ

心は言う。
「いいかい、師はこんなことを言っているんだぜ。馬鹿げているよ!まず鼻の
頭を見て、それからさらに第三の目を見ろだって― どうして上と下を同時に見
るなんてことができるだろう?そんなことはできっこない」

こういったことはみな、月を指す指を月そのものと取り違える ようなもので
ある。
では、これは実際には何を意味するのか?
「鼻の頭」という表現はよく考えて選ば
れたものだ。
鼻は視線の目安とならなければならない。
それだけのことだ ― それは目安にすぎない。
それを目安にすることで、あなたは第三の目の磁場、エネルギー場に入り、第
三の目の磁力のすぐそばにいることになる。
第三の目はそのような形でしか機能しえない。
あなたはその磁力に身をさらし、磁場のなかにたたずんでいるだけでいい。
そうすればその力があなたを引き込んでくれる。
入ってゆく必要はないし、入ってゆこうと努力を する必要もない。
それはひとりでに起こるからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく`)

277鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/01(金) 21:48:03 ID:1d4drIFg0
眉間に集中する方法はなかなか難しいものじゃ。
あまりに集中すると眼が疲れて痛くなり、頭痛までしてくるのじゃ。
ヨーガでは視線は一メートルぐらいの地面に固定して意識だけ集中するというのじゃ。
この書では逆に視線を鼻の頭に固定して意識は向けないようにするのじゃ。
いろいろ試してみると善いのじゃ。

278避難民のマジレスさん:2019/02/02(土) 00:08:31 ID:LC3de7YgO
>>276
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

鼻に視線を向けていない場合には、目を大きく開けて遠くを 見ているため鼻が
見えないか、あるいは目を閉じ過ぎていて 鼻が見えない。
目を大きく開けすぎると、視線を外に向ける という誤りを犯し、気が散りやす
くなる。
鼻の頭を軽く見ることで別の効果が現れる ―
そうすれば目を大きく開いたままではいられない。
目を大きく見開くと、世界のすみずみが視野に入ってくる。
そして気を散らさせるものが無数にある。
美しい女性が通りかかると、あなたはそれについてゆく ― 少なくとも心のな
かで。
あるいは誰かが喧嘩をしていると、関係などないのに、「どうしたのだろう?」
と考えはじめる。
あるいは誰かが泣いていると、好奇心に駆られる。
千とひとつのものごとが絶えずあなたのまわりで起こりつつ゛けている。
目を大きく開いたら、あなたは男性エネルギー、<陽>になる。
目を完全に閉じてしまうと、あなたは物思いにふけり、夢を見はじめる。
あなたは女性的エネルギー、<陰>になる。
両方を避けるために、何気なく鼻の頭を見る― 単純な方策だが、その成果には
目を見張るものがある。
これは道家の人々だけでなく、仏教徒たちも知っている、ヒンドゥー教徒たち
も知っている。
いつの時代にも瞑想者たちは、目を半眼にすることで二つの罠を巧妙に避ける
ことができるという事実にゆきあたった。
外界にかき乱されるか、内なる夢の世界にかき乱されるか、二つの落とし穴が
ある。
内界と外界の境界の真上にとどまっていればいい。
まさにその場所だ。
内界と外界の境界の上にあるというのは、その瞬間、あなたは男性的でも女性
的でもないということだ。
あなたの視界は二元性から解放されている。
あなたの視点は内なる分割を超えている。
内なる分割を超えてはじめて、あなたは第三の目が放つ磁力の圏内に入る。
目を閉じ過ぎると、視線を内に向けるという誤りを犯し、夢を見るような空想
の状態に沈みこんでしまう。
ただ瞼まぶたを 適度に半分ほど閉じると、ちょうどよい具合に鼻の頭が見える
ようになる。
そのために鼻を目安とするのである。
大切なのは、瞼を適度に閉じて、意識を集中させて光を流れ込ませようとする
のではなく、光が自然に流れ込むようにすることである。
これを覚えておくことはとても重要だ。
光は引き入れるものではない、力ずくで引き込むものではない。
窓が開いていれば、光はひとりでに入ってくる。
扉が開いていれば、光はあふれるように差し込んでくる。
光はもち込まなくてもいい。
光は押しいれなくてもいい。
光は引き込まなくてもいい。
光をどうして引き込むことができるだろう? 
光をどうして押し入れることができるだろう?
心を開き、光に対して感じやすくなっているだけでいい。
鼻の頭を見ているときに起こっているのはまさにそれだ。
集中せずに、ただ見ていると……重くならず、力まず、ただ見ていると、突然
、第三の目の窓が開き、光が流れ込んでくる。
いつも外に流れ出していた光が流れ込みはじめ、輪が完結する。
そしてこの輪は人間を完成させる。
この輪は人間を完全に落ち着かせ、くつろがせる。
この輪は人間を円満で神聖なものにする。
人間はもはや分かたれていない。
そうでないかぎり、人はみな多かれ少なかれ精神分裂症にかかっている。
光の輪をつくりだせた人間だけが ―光の循環は精神分裂症を超えている ― 本
当に健やかであり、神経症を少しも患っていない。
さもなければ人はみな似たりよったりだ。
神経症を病んでいる者とそうでない者の違いは程度の差にすぎない。
実際、患者と精神分析医は別の人種ではなく、同類だ。
ひとりの神経症患者がもうひとりの神経症患者を助けようとしている。
そして、ときには手を貸している方が相手よりも重いい神経症にかかっている
といったことがある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

279避難民のマジレスさん:2019/02/02(土) 11:35:33 ID:LC3de7YgO
>>278
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

世にある職業のなかで精神分析医が神経を病む率が最も高い。
世にある職業のなかで精神分析医の自殺率が最も高い。
なぜだろう?
ある意味で、それは当然のことであり、つじつまがあう。
神経症やありとあらゆる狂気を扱ってばかりいるのだから、自分自身も癒えて
いない彼らが影響を受けてしまうのは当然だ。
彼らはこれらの神経症を体内で養っている。
患者が語るすべてのたわごとに耳を傾けていると、精神分析医は無意識のうち
にそれを取り込んでしまう。
患者はありとあらゆるたわごとを精神分析医にぶちまけてゆく。
実際、そのために患者は金を払っている。
徐々に徐々に、精神分析医のなかに大量の神経症がため込まれ、やがてそれが
爆発することになる。
そうなっても無理はない。
もし精神分析医を任命する権限が私に与えられたなら、光を巡らせるこのプロ
セスを精神分析医に求められる基本的な条件、根本条件とするだろう。
みずからの光を巡らせることができるまで、他人を治療する資格はない。
内側で光を巡らせることができるなら、その人はいかなる神経症にもけっして
影響されることがない。
彼は乱されることなく、耳を傾け、手を貸すことができる。
光を巡らせることで、彼はみずからを清め、浄化している。
彼は聖なる人になる。
導師グルと精神分析医の違いはそこにある。
導師だけが真の精神分析医になることができる。
導師だけが真のセラピストになることができる。
みずからの全体性に到った者だけが道の上で苦闘し、暗闇でつまつ゛いている
者たちに本当に手を貸すことができる。
さもなければ、盲人が別の盲人の手引きをしているだけだ ― ふたりはそろっ
てどこかの井戸に落ちることになる。
この『黄金の華の秘密』という書物は、将来、精神分析医になりたい者たちに
とって、最も根本的な実践の手引きとなるにちがいない。
あなたは驚くだろう ― この書物をはじめて西洋の言語に翻訳したのはヴィル
ヘルムだが、彼自身もまた優れた心理学者だった。
彼がこの書物に興味をもつようになったのはそのためだ。
だが、翻訳を終えた後、彼は狂ってしまった。
彼はひどくかき乱されてしまった。
彼が受けた精神分析の訓練とこの書物の内容が 彼のなかで大きな矛盾を引き起
こし、解きがたい 謎を引き起こし、彼は今まで以上に分裂してしまった。
この書物を翻訳することで、彼は一種の狂気へと追い立て られていった。
それまで受けてきた訓練、知識がことごとくかき 乱されてしまったために、彼
は方向感覚をすっかり失ってしまった。
それを覚えておきなさい。
秘法はそれほどむずかしくない。それが むずかしいのはそこだ ― あまりに
単純なので、ただ心マインドが複雑にしてしまわないよう、勝手にひねりを加
えてしまわないよう、見張りつつ゛けることだけが求められる。
そのために鼻を目安とするのである。
大切なのは 、瞼を適度に閉じて、意識を集中させて光を流れ込ませようとする
のではなく、光が自然に流れ込むようにすることである。
意識を集中させて光を取り入れる必要はない。
光は自然に入ってくる。
そして自然に入ってくるなら、その光は美しい。
光を内側にとり入れようとしはじめたら失敗するだろう。
努力すれば必ず失敗する。
そして失敗すればするほど、あなたはさらに懸命に努力する。
やればやるほど、あなたの失敗はいっそう確実なものになってゆく。
光をとり入れようとしないこと。
光が自然に入ってくる正しい状況に身を置けばいいだけだ。
例えば、夜、月が出ているときに、窓辺に近つ゛き、窓のそばに立てば、月は
自然に甘露を降り注ぎはじめるだろう。
あなたは何もしなくていい。
月の光が降り注いでいる場所に立てばいいだけのことだ。
みずからを正しい<場>に置くだけで、ものごとは起こりはじめる ―このうえ
もなく価値のあることが。

鼻の頭を見ることは、ひとえに内なる集中をはじめる際に役立つのであり、そ
うすることで視線が正しい方向に向かい 目安が定まれば、後はそのまま放置す
ればよい。
これは大工が下げ振りをつるすにあたり、いったんそれをつるし終えると、絶
えずその糸を見ることにこだわらないような ものである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

280鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/02(土) 23:14:27 ID:1d4drIFg0
瞑想が難しくなるのは何もしないことが難しいからなのじゃ。
何かがうまくいっていると人は何かを必ずしたくなるのじゃ。
それによって静けさや沈黙が破れてしまうのじゃ。
初心者のうちにはうまくいっいていた瞑想が上達するとうまくいかなくなるのもそのためなのじゃ。
再び何もしないことができるには長い時間が必要になるのじゃ。
流れてくるエネルギーや微妙な静けさや沈黙をそのままにしておくことが瞑想の秘訣なのじゃ。

281避難民のマジレスさん:2019/02/03(日) 00:03:26 ID:LC3de7YgO
>>279
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

両目で鼻の頭を見ながら……いいかね、両目が鼻の先端でその二元性を失うよ
うに、あなたは両方の目で鼻の先端を見なければならない。
そうすればその鼻先で、両目から流れ出している光がひとつになる。
光は一点に集まる。
二つの目が出会うところ……まさにそこに窓が開く。
そうなったらすべてがうまくゆく。
そうなったらそのまま放置すればいい。
そうなったらただ楽しめばいい。
ただ祝い、ただ喜び、楽しめばいい。
そうなったらすることは何もない。
(p211)

両目で鼻の頭を見ながら、背筋を伸ばして楽な姿勢で座り……背筋を伸ばして
坐ることは役に立つ。
背筋を伸ばしていると、性の中枢センターから来るエネルギーをも第三の目で
使うことができるようになる。
単純な方策であり、そこには何も複雑なものはない……両目が鼻の頭で出会う
と、あなたは第三の目にはいってゆくことができる。
性エネルギーもまた第三の目に入ってゆかせるがいい。
そうすれば効果は二倍になる。効果は絶大になる。
なぜなら、性の中枢にはあなたが携えているすべてのエネルギーがあるからだ

背骨をまっすぐに立てると、性の中枢をも第三の目で使うことができるように
なる。
第三の目は二つの次元から攻めるほうがいい。
第三の目は二つの角度から貫こうとするほうがいい。
背筋を伸ばして楽な姿勢で座り……師はことを単純明快にしている。
背筋を伸ばすのはいいが、それを心地の悪いものにしてはいけない。
そうでなければ、再びその心地の悪さに気をとられてしまう。
ヨーガの体位の意味はそこにある。
サンスクリット語の「アーサナ」とは心地のよい姿勢を意味している。
心地のよいことが何よりも肝心だ。
心地よくなければ、心は不快さに気をとられてしまう。
それは心地よいものでなければならない。
東洋人がよくするように床の上に坐ることができなければ ― 彼らは何世紀に
もわたり坐りつつ゛けてきた ― 西洋の探求者が床の上に坐ることができなけ
れば、坐ることに無理があり、心地が悪く、痛みに満ちたものになるなら、椅
子に坐って背筋を伸ばす方がよい。
だが、椅子の背は直角でなければならない。
古代エジプトの王や王妃の絵や彫像を見たことがきっとあるだろう。
彼らの椅子の背は直角になっている。
そのようにして坐るといい。それもヨーガの姿勢のひとつだ。
古代のエジプト人たちはその秘密を知っていた。
とにかく二つのポイントがある。
背骨をまっすぐに伸ばすことと、楽な姿勢を取ることだ。
どちらかが無理な場合には……ときにはそういうこともある。どちらかができ
ない場合がある。
背骨をまっすぐ伸ばすと、心地が悪くなり、楽な姿勢を取ると、背骨が曲がってし
まう。
そんな場合には楽な方を選びなさい。
最善では ないにせよ、心地よさを選ぶ方がいい。
そして背骨 や背筋を伸ばすことなど忘れてしまいなさい。
という のも、心が散漫になってしまうと、何も起こらないからだ。
両方をかなえることができるなら、それに越したことはない。
(p213)
楽な姿勢で座り……背筋を伸ばし楽な姿勢で坐り…… こころを諸条件の只なか
にある中心に保つ。
そして世間から逃げださないこと。
世間のなかで、その諸条件の只なかで生きなさい。
車の騒音が聞こえてくる。
飛行機が飛び去ってゆく。
汽車が行ったり来たりしている。
ありとあらゆるものごとがそこにある……世間が。
だが、世間の只 な か で静かに座りなさい。
なぜなら、ヒマラヤの洞窟へ逃げだすことにはつねに危険がつきまとうからだ

危ないのはヒマラヤの静寂がしみ込みやすいため、自分は沈黙を達成したと勘
違いしかねないからだ。
大気の涼しさがしみ込みやすいため、平常心を達成したと勘違いしかねないか
らだ。
それは借り物だ。
人でにぎわう街にもどってくれば、それはみなたちどころに消えてしまう。
そしてヒマラヤでのあの年月は無駄だったことが、完全に無駄だったことがわ
かる。
あなたは自分をだましていただけだ。
世間の只なかで、中心感覚を獲得するほうがいい。
なぜなら、それはあなたから取り去ることができないからだ。
だからどこにいようと、あなたはこれらの諸条件の只なかで中心にとどまらな
ければならない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

282避難民のマジレスさん:2019/02/03(日) 09:05:58 ID:LC3de7YgO
>>281
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

それは必ずしも頭の中心を指しているわけではない。
中心感覚とは、頭の中心にとどまるということではない。

大切なのは、ただみずからの思念を両目の中間に定めることである。
そして、いいかね、意識の集中ではなく、ただ油断なく目を見張りつつ゛けて
いること、軽やかに注意を払うということだ。
鼻の頭を見ながら、第三の目に軽く注意を払いなさい。
実のところ、鼻の頭を見たとたん、あなたは第三の目に敏感になる。
なぜなら、それは鼻のもう一方の極だからだ。
ひとつの極、外側の極は鼻の頭であり、それは末端だ。
もうひとつの末端は第三の目とつながっている。
鼻の頭に意識を向けるやいなや、もう一方の端もただちに意識に昇ってくる。
だが、ただ気つ゛いていること、努力せずに気つ゛いていること。

大切なのは、ただみずからの思念を両目の中間に定めることである。
そうすればすべては整う。
すばらしい言明だ ― そうすればすべては整う。
あなたはわが家にたどり着きはじめている。
あなたは変革の入り口に立っている。

光は、はなはだ動きやすい。
光はつねに動いている。
光とは運度に他ならない。
この世で光ほど速く動くものはない。
光の速さは一秒間に十八万六千マイルだ。
光より速いスピードで動くものはない。
光は純粋な速さだ。
それは速さの別の名前だ。
光はけっして眠り込まない。
光はつねに躍動し、つねに動き、つねに流れている。
光は、はなはだ動きやすい。
両目の中間に思念を定めると、光は自然に流れ込んでくる。
心配しなくてもいい。
窓を開けて、ただ待てばいい。
光は動いてやまない現象だから、窓が開いていれば、流れ込んでくる。
実のところ、光は何生にもわたって窓を叩きつつ゛けてきたのだが、窓は閉ざ
されたままだった。
そして光は窓をこじ開けることができない。
それは朝がきて太陽が昇っているのに、深く眠りこけているのに似ている。
光線は窓に達し、窓を叩いている。
だが、そのノックの音は聞こえない。
光は音を立てないからだ。
光はそこで待っている。
目を覚まして、窓を開けたとたんに、光が流れ込んでくる。
そして光とともに生命が入ってくる。
光とともに喜びが入ってくる。

両目の中間に思念を定めると、光は自然に流れ込んでくる。
「自然に」という言葉に心をとめなさい。
あなたは行為の主体ではない。
あなたは一種の手放し状態にある。
あなたは光に明け渡している。

注意をことさら中心の宮殿に向ける必要はない。
大切なことはこの数語に要約されている。
あなたの実存をすっかり変容させてしまう秘法、神の王国の秘法、にゃはんニ
ルヴァーナの秘法……。
「諸条件の只なかにある中心」というのは、ひじょうに 微妙な表現である。
中心は至るところにあり、いっさいのものがそのなかに含まれている。
それはあらゆる創造のプロセスが解き放たれる点と結びついている。
あなたが第三の目の地点に到り、そこに中心を据えると、光があふれるように
押し寄せてくる。
そのときあなたは、あらゆる創造がそこから湧き起こる地点に到達している。
あなたは形なきもの、顕れていないものに到達している。
それを「神」と呼んでもいい。
これこそ万物が湧き起こる地点、その空間だ。
これこそ森羅万象の種子そのものだ。
それはあらゆる力をもち、至るところに遍満している永遠なるものだ。
もはや死を知ることはない。
もはやあなたはいかなる肉体との同一化、老若・美醜も知ることはない。
もはやあなたはいかなる種類の病も知ることはない ― 肉体が病まないという
のではないが、病はもはやあなたには起こらない。
なぜなら、あなたはもう同一化してはいないからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

283鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/03(日) 22:01:53 ID:1d4drIFg0
瞑想の真の秘訣がここでもまた強調されるのじゃ。
瞑想中に何か起ころうとそのままにしておくのじゃ。
集中以外の全ての意思をも放棄して座り続けるのじゃ。
そこにこそ至高の境地が花開くのじゃ。
全ての意識が体を超えて広がっているのが感じられるのじゃ。

284避難民のマジレスさん:2019/02/03(日) 22:39:12 ID:LC3de7YgO
>>282
23黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

ラマナ・マハリシは癌で死んだ。
肉体は ひどく苦しんでいたが、彼は微笑んでいた。
医者たちは当惑し、目を疑った。
それは信じがたいことだった。
肉体がこれほどひどい苦痛にさいなまれているのに、彼はすばらしい歓喜に浸
っている。
どうしてそんなことがありえるのだろう?
彼らが何度も「どうしてこんなことがありえるのでしょう?」 と尋ねるたびに
、彼はこうくり返した。
「不思議なことは何もない。私は肉体ではないからだ。だから肉体に何が起こ
っていようと、君たちが私の肉体を見ているのと変わりない。私も自分の肉体
を見ている。 君たちは少しも痛みを感じないだろう?私もそうだ。君たちは目
撃者であり、私も目撃者だ。 肉体は対象、私たちのあいだにある対象物にすぎ
ない。君たちは肉体が苦しんでいるのを外側から見ている。私は肉体が苦しん
でいるのを内側から見ている。君たちが動揺せずに見ていられるなら、どうし
て私にできないことがあるだろう?」
実のところ、医者たちは動揺していた。
彼らは深い同情を感じていた。
彼らは悲しかった。
彼らは無力感を感じていた。
彼らはこの人を救いたいと思っていた ― かつてこの世に生きた最も美しい人
々のひとりを。
だが、それはできなかった。
彼らは泣いていた。
だが、ラマナはまったく動揺していなかった。
人間のなかには超越の地点がある。
姿を顕しているいっさいのものから突如 断絶し、姿を顕していないものと結
びつく地点が。
姿を顕していないものと結びつくことが 自由になること、あらゆる惨めさか
ら自由になること、あらゆる限界、あらゆる束縛から自由になることだ。
一点を見つめ観想することが不可欠である。
これは避けることのできないものだ ―これは欠かせない。
至福の状態に到達したければ、この一点を見つめること、観想、瞑想、あるい
はディヤーナのこのプロセスを通り抜けなければならない。
(p217)
この技法はすみやかに光明を得ることを保障する。
世俗の想念が浮かびあがってきたなら、そのままじっと坐りつつ゛けてはいけ
ない。
さて、ひじょうに重要な、師の第二の助言だ。

世俗の想念が浮かびあがってきたなら、そのままじっと坐りつつ゛けてはいけ
ない。
その想念はどこにあるのか、どこではじまり、どこへ消えてゆくのかを調べな
ければならない。
最初からそれがうまくゆくことはないだろう。
鼻の頭を見ていると、思考がやって来る。
思考は何生にもわたってやって来ているのだから、そうやすやすとあなたを独
りにしてはくれない。
思考はあなたの一部となり、ほとんど組み込まれてしまっている。
あなたはプログラムされたに等しい生を送っている。
自分が何をやりつつ゛けているか観察してみたことがあるだろうか?
なかったら、明日の朝、あることをやってみるといい。
朝、目を覚ましたら、すぐに自分がしていることを観察してみるといい
― どのようにベッドから起きるか、どのように身体を動かすか、どんな思念
が頭をよぎるか……ただ、見守ってみるといい。
一週間も観察すれば、きっと驚くことだろう。
あなたは毎朝まったく同じことをくり返している。
同じ仕草、同じ表情、ほとんど同じ思考。
何から何まですっかりプログラムされてしまっている。
そしてあなたはこれを一生のあいだやってきた
―もしかすると何生ものあいだやってきたのかもしれない。
腹が立ったら、観察してみるといい
―それはいつも同じプロセスを踏んでいる。
あなたは同じ空間を通り抜けてゆく。
幸せなとき、観察してみるといい。
恋に落ちるとき、観察してみるといい。
失恋するとき、観察してみるといい。
それはほとんど同じプロセスだ。
あなたは同じ愚行を何度も何度もくり返し、同じたわごとを何度も何度も口走
っている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

285避難民のマジレスさん:2019/02/04(月) 07:33:06 ID:LC3de7YgO
>>284
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

あなたは意識的な生を生きていない。
あなたの九十九パーセントはプログラムされている
― 他人にプログラムされているにせよ、社会にプログラムされているにせよ
、あなた自身の手でプログラムしているにせよ、プログラムされていることに変わりはない。
だから、はじめて坐って鼻の頭を見つめているときに、思考がこのように言う
ほど、ことは容易ではない。
「こいつのそばには近寄らないほうがいい。このかわいそうなやつを見てみろ
―瞑想なんかにすっかりはまり込んでいる!鼻の頭を見つめていやがる……今こ
いつのところへゆくのはやめておこう」
思考はあなたのことなどおかまいなしに、どんどん走りまわるだろう。
鼻の頭を見たぐらいで止まりはしない。
むしろ逆に、この男が思考の支配から逃れようとしているのを見物しようと、
それまで以上にもっとしつこくやって来るだろう。
静かに坐って瞑想をしていると、ふだんよりも、いつもよりももっと多くの思
考がやってきて、ほとんど爆発しそうな勢いになる。
何百万もの思考が押し寄せてくる。
思考はあなたにかなりの投資をしてきたのに、あなたはその支配から抜け出そ
うとしているからだ。
かれらはあなたをこっぴどい目に合わせようとする。
だから、思考が必ずやって来る。
これらの思考をどうしたらいいだろう?
ただそこにぽつんと坐っているわけにはゆかない。
あなたは何かをしなければならない。
闘っても役には立たない。
闘いはじめたら、鼻の頭を見たり、第三の目を意識したり、光を巡らせること
を忘れてしまうからだ。
あなたはすべてを忘れ、思考のジャングルに迷い込んでしまう。
思考を追いかけはじめたら、道に迷ってしまう。
思考の後を追えば、道に迷ってしまい、思考と闘っても、道に迷ってしまう。
では、どうすればいいのだろう? これがその秘法だ。
仏陀も同じ秘法を使っていた。
実際、秘法というのはほとんど同じものだ。
人間が ― 鍵穴が同じだからだ。
だとすれば 鍵も同じにならざるをえない。
これがその秘法だ。
仏陀はそれを「サマサティ」
― 正しい想起 ― と呼んでいた。
ただ想起すること
― 思考がやって来ても、敵意を抱かず、正当化をせず、非難をせずに、その
ありのままの姿を観る。
科学者が客観的になるように、ただ客観的になる。
それがどこにあるか、どこからやって来たか、どこへ去ってゆくかを観る。
それがやって来るのを観、とどまるのを観、去ってゆくのを 観る。
思考はひじょうに動きやすく、長くとどまってはいない。
あなたは 思考が湧き起こり、思考がそこにとどまり、思考が去ってゆくのをた
だ観守っていればいい。
闘ったりしないこと。
ただ静かに観察していればいい。
するとあなたは驚くだろう
― 観察がしっかりしたものになればなるほど、やって来る思考は減ってゆく。
観察が完璧になると、思考は消え失せてしまう。
後にはすきまが、間合いだけが残る。
だが、もうひとつのポイントを覚えておきなさい。
こころが再び策を弄しかねないからだ。
(p220)
内省をどこまで押し進めても何も得られない。
だが、内省をどこまでも押し進めようとしないこと。
フロイト派の精神分析はまさにそれを行なっている。
思考を自由に連想させてゆく。
ひとつの思考がやって来たら、次の思考が湧いてくるのを待つ。
それがどんどん鎖のようにつつ゛いてゆく……精神分析の諸派がやっているの
はまさにそれだ―あなたは過去にもどってゆき始める。
ひとつの思考が別の思考を呼び覚まし、それが延々と果てしなくつつ゛いてゆ
く。
それにはきりがない。
それに入り込んでしまったら、あなたはまったく何の益にもならない永遠の旅
に出ることになる。
心はそれをやりかねないから、気をつけなければならない。

内省をどこまで押し進めても何も得られない。
この想念がどこから生まれてきたかを見ることでよしとし、その先を究めよう
としてはならない。
こころを探し求めても、とらえることはできない (意識によって意識の背後に
達することはできない)からだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

286鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/04(月) 23:05:05 ID:1d4drIFg0
雑念を見守り、消えていくに任せるのは集中には欠かせない方法なのじゃ。
それに囚われてはいかんが、あまりに追求しすぎてもいかんのじゃ。
泡の如く生まれては消え去るさまを観ているだけでよいのじゃ。
そうすれば消えていくのじゃ。

287避難民のマジレスさん:2019/02/04(月) 23:35:19 ID:LC3de7YgO
>>286
淀みに浮かぶうたかたであります!
(´・(∀)・`)つ

288避難民のマジレスさん:2019/02/04(月) 23:47:10 ID:LC3de7YgO
>>285
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

意識によって意識を超えることはできない。
だから、いたずらに無益なことは試みないこと。
そうしないと次から次へと現れる思考に振りまわされて、自分がそこで何をし
ようとしていたのかすっかり忘れてしまう。
鼻の頭は消え、第三の目は忘れられ、光の循環は遥か彼方に遠ざかってしまう

だから思考をつなげないよう、ひとつの思考だけにする。
連想をはじめてはいけない。
ひとつの思考が現れてくる―それがどこにあり、どこから現れて、いつ消えて
ゆくのかを見守りなさい。
見守っていると、それは消えてしまう。
これを心にとめておきなさい。
仏教徒は思考が現れると、「思考、思考」と言って油断なく目を見張る。
それはちょうど家に泥棒が入ったら、「泥棒だ!泥棒だ!」
と叫んで、みんなの注意を呼び覚ますようなものだ。
ただ「思考、思考」と言うだけで、あなたは油断なく目を見張り、注意深くな
る。
泥棒が入った。さあ、泥棒が何をしているか見守るがいい。
あなたが気つ゛くと、思考はただちに止まる。
思考はあなたを見て、そして少し驚く。
あなたはこれまで一度もそんなことをしたことがなかったからだ。
思考はあまり歓迎されていないのを感じる。
「こいつはどうしてしまったんだろう?いつもよくもてなしてくれたのに、
『泥棒!泥棒!思考だ、思考だ』などと言っている。こいつはどうしちまったんだろう?」
思考は当惑し、何が起こっているのか理解することができない。
「こいつはおかしくなりはじめているのだろうか。鼻の頭を見ながら『思考、
思考』とくり返しているぞ」
気つ゛きそのものが思考の動きを一瞬止める。
思考はその場に釘つ゛けになる。
そして見守りつつ゛けなさい。
非難してはいけない。
放り出そうとしてはいけない。
闘ってはいけない。
非難しても正当化しても、思考と同一化することになるからだ。
ただそこにあって、油断なく目を見張り、思考を見つめなさい。
そうすれば思考は消えはじめる。
現れたときと同じように消えてゆく。
それは空想から生まれ、空想のなかに消えてゆく。
思考が消えれば、観想にもどればいい。
思考には根などないのだから、その元をたどる必要はない。
さもなければ大宇宙の源そのものまでたどらなければならなくなる。
精神分析にきりがないのはそのためだ。
それはけっして終わらない。
精神分析を完全に終えた者などこの世にひとりもいない。
精神分析を完全に終えることなどありえない。
一年、二年、三年、四年、五年、六年、七年と―精神分析に七年間通っている
人もいる。
あなたはどう思うかね?
彼らが止めるのは精神分析が終了したからだと思うかね?
いいや、彼らは精神分析にうんざりし、精神分析医は彼らにうんざりしてしま
ったからだ。
ものごとはいつか決着をつけなければならない。
終止符を打たなければならない。
いつまでつつ゛けられるだろう?
だが、精神分析が完了したことは一度もない―それはありえない。
それはむいてもむいてもなくならない玉葱たまねぎのようなものだ。
その皮をえんえんと剥むきつつ゛けることはできるが、どこまでいってもきり
がない。
だがそれは助けになる。
それは自分自身に、そして社会にもっと適応するのを助けてくれる。
それはあなたを変容させるのではなく、正常な異常者にするだけだ。
それはあなたが住んでいる神経症的な社会にあなたが適応するのを助けてくれ
る。
それはあなたを、変容を遂げた輝かしい存在にするのではなく、生がもたらす
ものは善悪を問わずことごとく受け入れ 、誰もがしているように身をひきずり
ながら歩いてゆくふつうの人間にしてくれる。
それは嘆きながら生を受け入れることを教えてくれる。
それは本当の受容ではない。
真の受容はつねに祝祭をもたらすからだ。(´・(ェ)・`)
(つづく)

289避難民のマジレスさん:2019/02/04(月) 23:49:12 ID:LC3de7YgO
>>288
OSHOはきっと、正常な異常者だったのでありましょう。
くまも、それを目指すであります。
(´・(ェ)・`)つ

290鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/05(火) 22:59:22 ID:1d4drIFg0
>>287 そうじゃ、兼好法師も修行していたのじゃろう。
 
>>289 目指すと善いのじゃ。

批判も正当化もせずに見守るのはなかなか難しい事じゃ。
分別の判断は瞬時に起こってしまうからのう。
それが起こったならば起こったとまたありのままに観るとよいのじゃ。
そうすれば自己同一化されずに消えていくのみなのじゃ。

291避難民のマジレスさん:2019/02/06(水) 03:10:06 ID:LC3de7YgO
>>290
鬼和尚、いつもありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ

292避難民のマジレスさん:2019/02/06(水) 06:48:17 ID:LC3de7YgO
>>288
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

ジークムント・フロイトは言った―人間は幸福にはなれない。
せいぜい楽になることができるだけだ。
生をもっと心地よいものにすることはできるが、ただそれだけのことであり、
幸福にはなれない。
それは不可能ではない―精神分析によっては不可能だが― なぜなら、幸福な人
々というのは存在してきたからだ。
私 たちは彼らを知っている。
仏陀や老子やクリシュナのような人たち、私たちはこういった舞い踊る人々を
知っている。
フロイトは幸福ではない。
それは本当だ。
彼は幸福になることはできない。
精神分析を落とし、瞑想的なプロセスに入ってゆかないかぎり、彼は幸福には
ならない。
彼が瞑想を学ぶにはさらにいくつかの生が必要になるだろう。
実のところ、彼は瞑想をひどく恐れていた。
ジークムント ・フロイトだけでなく、カール・グスタフ・ユングのような人で
さえ、恐れていた。
カール・グスタフ・ユングは、この 『黄金の華の秘密』という書物の解説を書
いている。
だが それは知的なものにすぎず、実存的な価値はない。
彼には瞑想の体験がまったくなかった―どうしてそれが実存的な価値をもちう
るだろう?
そして、彼はきわめてエゴの強い人間だった。
エゴの強い人間は瞑想に入ってゆくのがひじょうにむずかしい。
なぜなら、そのまさに戸口のところでエゴを落とさなければならないからだ。
ユングがインドを訪れたとき、まだラマナ・マハリシ は生きていた。
そして、多くの人がユングに勧めた。
「インドにおいでになったのだし、あなたは生の内なる神秘に大きな関心をも
っておられるのだから、ラマナのもとへ行かれるのがいいでしょう。あなたは
『黄金の華の秘密』の注釈を書いて おられますが、ここでは満開の"黄金の華"
が咲いています。 どうしてラマナのもとへ行かれないのですか?」
だが、ユングは一度も足を向けなかった。彼はインドを旅して多くの人々に出
会ったが、ラマナには一度も会いに行かなかった。
なぜだろう?
何を恐れていたのだろう?
この人物に出会うことを恐れ、この鏡と顔を合わせることを恐れていたのだ。
ユングの写真を見たことがあるだろうか?写真を見ただけでも、彼のエゴは歴
然としている。
フロイトはユングほどエゴが強そうには見えない。
おそらくユングは、みずからのエゴゆえに師である ジークムント・フロイトと
袂たもとを分かち、彼を裏切ったのだろう。
ちょっと彼の写真を見てみるといい。その目はとても抜け目なく、計算高い。
いつでも人に食ってかからんばかりだ。
とほうもなくエゴが強いが、ひじょうに頭がよく、聡明で、知性が発達してい
る。
いいかね、精神分析であれ分析心理学であれ他の流派であれ、分析と言うゲー
ムに興じるかぎりあなたは幸福にはなれない。
そのゲームのゆき着く果てはなまぬるい順応生活に他ならない。
それらはあなたが祝祭の炎と化すのを助けはしない。
祝祭は 彼らの手にあまる。
なぜだろう?
それは彼らが思考を分析しつつ゛けているからだ。
分析は必要ではない。
それゆえに『黄金の華の秘密』は言う―人はみなこころを落ち着かせようとす
る、これが正しい観想である。
私たちは実存全体に完全な安らぎをもたらしたい。
分析は助けにならない。
分析は混乱を、不安な状態を生み出すからだ。

これと矛盾するのは誤った観想であり……分析は「誤った観想」だ。

何も得るところがない。雑念が果てしなくつつ゛いてゆくときには、立ち止ま
り、観想をはじめなければならない。
だから、この二つを覚えておくといい。
これらは両翼だ。
ひとつは、間合いがあり、思考がやって来ていないときに観想するということ

そして思考がやって来たら、これら三つのことを見る―思考はどこにあるか、
どこからやって来たか、どこへ去ってゆくか。
しばらくすきまを見ることをやめて、思考を見つめ、思考を観察し、思考に別
れを告げる。
思考が去ったら、ただちに観想を再開する。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

293避難民のマジレスさん:2019/02/06(水) 07:06:10 ID:LC3de7YgO
>>289
正常も異常も、観念的、相対的なものであり、分別を越えたところを目指すのかなと、考えすぎたようであります。
思考の隙間、沈黙の世界をみつめなければいけないのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

294鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/06(水) 22:26:02 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、ただひたすらに座り続けるのじゃ。

 雑念が去ったならばもはや手をつけないでいることが正しい観想というのじゃ。
 努力しないことで努力の及ばない彼方にいくことができるのじゃ。
 それが真の瞑想なのじゃ。
 主体に関係なくただ起こるだけの瞑想がそこに華開くのじゃ。

295避難民のマジレスさん:2019/02/06(水) 23:31:46 ID:LC3de7YgO
>>292
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

もう一度、譬たとえを使って説明してみよう。
道路を走っている車と車のすきまを見ているとき、車がやって来たらどうする
だろう?
あなたは車にも目をやるが、車の細部のことは気にかけない。
型、車種、年式、色、運転手、乗客のことは気にかけない。
そういった分析にはかかずらわない。
あなたはただ車を目にとめるだけだ。
車がやって来て、あなたの前を通り、去ってゆく。
再び、あなたはすきまに注意を払うようになる。
あなたの関心はひたすらすきまに注がれている。
だが、車がやって来たら、しばらくのあいだ車にも注意を払わざるをえない。
やがて車は去ってゆき、あなたは再び安らぎ、観想、間合いのなかに落ちてゆ
く。
雑念が果てしなくつつ゛いてゆくときには、立ち止まり、観想をはじめなけれ
ばならない。
観想したら、再び見つめる。
だから、思考がやって来るたびに、それを見つめ、思考が去るたびに、観想す
る。

これがすみやかに光明を得るための二重の技法、つまり 光を巡らせることであ
る。
巡らせるとは見つめることであり、光とは観想のことである。
観想するたびに、光があふれんばかりに押し寄せてくる。
見つめるたびに、あなたは循環を生みだし、循環を起こさせている。
どちらも必要だ。

光とは観想のことである。
観想せずに見つめるのは光のない循環であり……まさにそれが起こっている。
ハタ・ヨーガにその不幸なあやまちが起こった。
彼らは一点を見つめ、集中するが、光を忘れてしまった。
彼らは客をすっかり忘れてしまった。
彼らはひたすら家の準備をしつつ゛ける。
家を準備することにかまけるあまり、彼らは何のために、誰のために家を準備
しているのか、その目的を忘れてしまった。
ハタ・ヨーガは絶えず肉体を準備し、肉体を浄化してゆく。
ヨーガの姿勢を取り、呼吸法を実践しながら、それをどこまでも果てしなく
つつ゛けてゆく。
ヨーガ行者は何のためにそれをやっているのかをすっかり忘れてしまっている

そして目の前にある光を認めようとしない。
光は人が完全に手放しになったときにはじめて入ってくることができる。

観想せずに見つめるのは光のない循環であり……これがいわゆるヨーガ行者に
起こるあやまちだ。
別の種類のあやまちが精神分析医、哲学者に起こる。

見つめずに観想するのは循環のない光である。
彼らは光について考えるが、それが押し寄せてくるのにそなえて準備したこと
がない。
彼らは光について 考 え る だけだ。
彼らは客について考える。
客について千とひとつのことを想像するが、家の準備ができていない。
どちらも取り逃がす。

これに注意しなければならない!
さもなければ、あなたもまた取り逃がすかもしれない。
準備して待ちなさい。
用意を整えるのだ。
鼻の頭を見つめ、第三の目に注意を向け、背骨をまっすぐに伸ばし、楽な姿勢
を取る―あなたがしなければならないのはそれだけだ。
それ以上のことは必要ない。ヨーガの姿勢を年がら年じゅうやりつつ゛ける必
要はない。
それは馬鹿げている。
いわゆるヨーガ行者がひどく愚かで知性を欠いているように見えるのはそのた
めだ。
彼らの肉体は頑丈であり、長生きするかもしれないが、それに何の意味がある

光がなければ、生は知性の欠けた暗いものになる。
長生きしようが、早死にしようが違いはない。
大切なのはたとえ一瞬でも光のなかに生きることだ。
それで充分だ。
その一瞬は永遠になる。
そして光について考えてばかりいる哲学者たちがいる―光とは何か?光をどう
定義すればいいか、どう定義するのが最良か―彼らは様々な理論、定理、壮大
な思想体系を続々とつくりだすが、光に対する準備ができていない。
光は扉の前でひたすら待ちつつ゛けているというのに。

これに注意しなければならない!
この二つの誤りを犯してはならない。
目を見張ったままでいることができれば、それはごく単純なプロセスであり、
大きな変容力をそなえている。
正しく理解する者は、ほんの一瞬のうちに、もうひとつの実在リアリティに入
ってゆくことができる。
神は遠くにあるのではない。
神はあなたの内側にある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

296鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/07(木) 22:37:42 ID:1d4drIFg0
ヨーガにも眉間に集中する法はあるのじゃ。
しかし、長く時間がかかるのじゃ。
気を巡らさないから効果も遅いのじゃ。
気を巡らせてから集中することで速やかに効果も訪れるのじゃ。

297避難民のマジレスさん:2019/02/08(金) 04:14:27 ID:LC3de7YgO
>>295
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸
 より抜粋

呂祖師は言った。
純一なこころハートで決然と実行しなければならない。
そうすれば成果は求めずとも、おのずからやって来る。
初心者がまず陥りやすい誤りは主に二つある。
それは昏沈こんちんと散乱だ。
それに対処するには、呼吸にあまり深く気をとられてはならない。
呼吸はこころハートから生じる。
こころから呼吸が生じるのである。
こころが動くと、ただちに気(呼吸エネルギー)が生まれる。
気とは元来、こころの活動が変容したものである。
我々の思念は実にすばやく動いて、またたく間に空想に走るが、ひとつの空想
には必ずひとつの息がともなっている。
内なる呼吸と外なる呼吸は、声とこだまのように 一体になっているからだ。
我々は毎日数知れぬほど息をし、それと等しい数の空想を抱いている。
こうして精神の明晰さは、樹が枯れ、灰が冷たくなるように衰えてゆく。

では頭のなかで空想してはならないのだろうか?
人は空想せずにはいられない。
呼吸をしてはならないのだろうか?
人は呼吸せずにはいられない。
最良の方法は、病から薬をつくりだすことだ。
こころハートと呼吸が互いに依存し合っているなら、光の循環を呼吸のリズム
と結び合わせなければならない。
このためには、とりわけ耳の光が必要である。
目の光があるように、耳の光がある。
目の光は外界にある太陽と月が合体したものである。
耳の光とは内なる太陽と月が合体して生まれる種子である。
したがって理解(耳)と明晰さ(目)はひとつのものであり、 同じ霊妙な光に
他ならない。

坐るときには、瞼まぶたを下げて、下げ振りをつるすように視線を定め、光を
下方に向ける。
しかし、下にうまく注意を向けられないときには、呼吸に耳を傾けるようにこ
ころハートを導く。
出入りする息の音が聞こえるようではいけない。
聞こえるのは乱れた息である。
息が乱れると、たちまち 呼吸は荒く、うわついたものになり、伸びやかに広が
ってゆかない。
こころをひじょうに軽やかで微細な状態にしなければならない。
枷かせを解かれれば解かれるほど、こころの働きは微かすかになり 、微かにな
ればなるほど、こころは静かになってゆく。
不意にこころは限りなく静かになって、動きを止める。
そうなったら真の呼吸が出現し、 こころの真の姿が意識されるに到ったので
ある。
こころハートが軽やかであれば、息も軽やかになる。
それはこころのあらゆる動きが気(呼吸エネルギー)に 影響を与えるからだ。
息が軽やかであれば、こころも軽やかになる。
それは気のあらゆる動きがこころに影響を与えるからだ。
こころを安定させるには気を養うことからはじめなければならない。
こころに直接働きかけることはできないからだ。
それゆえに手がかりとして調息法を用いる。
これが「気の力を集中して保持する方法」と呼ばれているものだ。

弟子たちよ、おまえたちは"動き"の本性を理解していないようだ。
動きは外界の事物によっても引き起こされる。
それは支配されるということに他ならない。
走るだけでこころが揺れ動くなら、身動きしないことによって それを鎮めるこ
とはできないだろうか?
こころと気が相互に影響し合うことを知った偉大な聖者たちは、後世の人々に
役立つよう、より簡易な方法を考案したのである。

「鶏が卵をかえすことができるのは、 そのこころハートがつねに耳を澄ませて
いるからだ」
これは不思議な力をもつ重要な言葉である。
鶏は熱の力によってその卵をかえす。
だが熱の力は殻を暖めるだけであり、中まで浸透することができない。
そこで鶏はこころを用いてこのエネルギーを内部に導き入れる。
鶏は耳を澄ますことによってこれを行う。
そのようにしてこころを一心に集中させる。
こころが浸透すれば、気も浸透し、ひなは熱の力を受けて、生命を得る。
それゆえに鶏は、卵から離れるときでさえ、つねに耳をそばだてて聴く態勢を
取っている。
このようにして精神の集中は途切れることがない。
精神の集中が途切れないために、熱の力は昼夜絶えることなく、精神はいきい
きと目覚める。
精神の目覚めは、こころハートが死ぬことによってはじめて達成される。
こころを死なせることができれば、原初の精神はいきいきと目覚める。
こころを死に到らしめるというのは、それを枯渇させ、しぼませてしまうこと
ではなく、こころが分断されずにひとつにまとまるという意味である。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

298鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/08(金) 22:51:46 ID:1d4drIFg0
呼吸を調えることを調息というのじゃ。
それは微かであればあるほどよいというのじゃ。
鼻先に羽毛を貼り付けて、それか息で動かないほどに静かにする法もあるというのじゃ。
息が静かになれば心も鎮まるのじゃ。

299避難民のマジレスさん:2019/02/08(金) 23:52:46 ID:LC3de7YgO
>>297
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

物語をひとつ……
いにしえの禅師、道悟どうごには崇信そうしんという弟子がいた。
道悟に帰依したばかりの崇信は、教師が生徒を教えるように、師が禅の手ほど
きをしてくれるものと思い込んでいた。
だが、道悟はこれといって何も特別なことは言わなかった。
どうやら師には何も変わったことを弟子に伝えるつもりがないようだった。
とうとう我慢できなくなった崇信は、少しも禅を教えてくださらないと言って
師を責めた。
「おまえがここに来てから、禅を教えなかった日はない」と道悟は言った。
「なんですって?」と崇信は言った。
「いつ教えてくださったというのです?」 「朝、おまえがお茶を運んでくれば」と道悟は言った。
「私はそれを飲む。食事を運んでくれば、私はそれを 食べる。おまえがおじぎ
をすれば、私もおじぎをする。
禅を学ぶのに、おまえは他に何を期待しているのかね」
タオは分かち合うことはできるが、分割することはできない。
タオは示すことはできるが、言葉で表現することはできない。
師はタオのなかに生きている。
弟子はその精神スピリットをくみ取らなければならない。
それは教えではないし、教えにはなりえない―教えというのはすべて皮相的な
ものだ。
それは教えよりも深いものでなければならない。
それはエネルギーの伝達でなければならない。
それはこころハートからこころハートへ、 魂から魂へ、肉体から肉体へと伝わ
ってゆくものでなければならない。
それを言葉にすることはできない。
そして弟子は、師の姿をとって顕れているエネルギーを見、観察し、感じ、愛
さなければならない。
やがて徐々に徐々に、師のそばに坐っているだけで、弟子はけっして説かれる
ことのない多くの奥義を学んでゆく。
最も深い奥義のひとつは、師のそばに坐っていると、弟子の呼吸が師の呼吸と
合いはじめるということだ。
距離を越えた響き合い シンクロニシティが起こる。
そうして距離を越えて響き合うことで、二人は出会う。
それは恋人どうしのあいだでも起こる。
深い恋に落ち、愛する人と一緒に肩を並べて坐っているとき、そこで観察する
なら、あなたは驚くだろう。
突然、まったく何の理由もなく、合わせようとしたわけでもないのに 二人の呼
吸が合ってくる。
恋人が息を吐くと、あなたも吐く。 恋人が息を吸うと、あなたも吸う。
突然、二人はつながり、輪になっている。
呼吸はこのうえもなく重要だ。
母親はそのようにして子供とつながっている。
ときに子供と母親が何千マイルも遠く離れているのに、子供に危険が迫ると、
母親の心臓は即座に影響を受けるということがある。
彼らの呼吸は深くつながっている ―彼らは同じような呼吸をしている。
そしてそうなるには明らかな理由がある。
母親の胎内にいる子供は九ヶ月のあいだ母親を通して呼吸していた。
子供は自力で呼吸していたのではない。
それは母親の呼吸だった。
子供は母親の呼吸に従っていただけだ。
母親は子供のために、彼に代わって呼吸をしていた。
九ヶ月のあいだ、二人は深いシンクロニシティのなかで生きていた。
子供が生まれた後でさえ、それはつつ゛いてゆく。
本当の愛があるなら、それは生涯にわたってつつ゛いてゆく。
今や科学でさえもそれを証明している。
アメリカや、ロシアや、他の国々でも、最近、鳥や動物を使った実験がひんぱ
んに行なわれている。
子供を遠くへ連れ去って殺し、同時に最先端の装置につないだ母親を観察する。
子供が殺されると―たとえ何千マイル離れていても―ただちに母親の呼吸が変
化する。
まさにその瞬間、間髪を入れず、母親の呼吸は乱れ、身体に震えが走る。
理由などないのに、はっきりした理由などないのに、母親はパニックに襲われ
、苦痛を感じる。
母親と子供のあいだには何の媒体も介在しない。
何か直感的なつながりがある―彼らを結びつけているものを目でとらえること
はできないが、どこかに見えない糸がある。
弟子は師が何を説いているかではなく、師 の 実 存 の あ り よ う を学ばな
ければならない。
道悟が言おうとしているのはそのことだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

300避難民のマジレスさん:2019/02/09(土) 10:53:46 ID:LC3de7YgO
>>299
25黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸1
 より抜粋

「おまえがここに来てから、禅を教えなかった日はない。 朝、おまえがお茶を
運んでくれば、私はそれを受け取る。 私がどのような仕草で受け取るか、観察
したことはないかね? 私が茶を受け取るとき、私と深い調和を感じたことはな
かっただろうか? おまえが食事を運んでくれば、私はそれを食べる。 おまえが
おじぎをすれば、私もそれに答える。禅を学ぶのに、他に何を期待しているの
かね?」
師は言っている。私の仕草を見守りなさい― 私がどのように歩き、どのように
坐り、どのように息をしているかを、どのようにあなたとともにただ坐ってい
るかを、どのようにあなたを見ているかを、どのように千とひとつの小さな仕
草で私がものごとに感応しているかを。
教義を待ってはいけない。
師の臨在より他に教義などない。
真の教えはまったく教えなどではない。
それは伝達だ―言葉を超え、経典を超えた伝達だ。
そして伝達は呼吸の調和を通して起こる。
私もまた言いたい。
私もまた教え、哲学、宗教として あなたに与えるものなど持っていない、と。
教えることなど何もない。
分かち合うものはたくさんあるが、 教えることは何ひとつない―あるいは、
ただ<無>を教えている!
だが、私が伝えたいその<無>を感じるためには、 私とリズムを合わせなけれ
ばならない。
些細なことが、ごく些細なことが妨げになる。
あなたは何が妨げになるのか 少しつ゛つ気つ゛いてゆかねばならない。
夜のダルシャンの席で、ときどき私は数人のサニヤシン を呼んで、エネルギー
を伝達するのを手伝ってもらっている。
私は何度もプラディーパを呼んだが、彼女を呼ぶと後で必ず気分 が悪くなる。
私は首をかしげた。
何が起こっているのだろう?
彼女は本当にすばらしい女性であり、私をとても愛してくれている。
彼女を呼んで手伝ってもらっているのはそのためだ。
だが、彼女 を呼ぶと必ずそれが起こる。
前回、気分があまりに悪かったので、 私はことの全体を調べてみなければなら
なかった。
そして私には 理由がわかった。
彼女は野菜以外のものを―肉や卵やその他のもの を食べているにちがいない。
それが彼女の呼吸を醜くしている。
それが彼女の内なる調和ハーモニーをそっくりかき乱している。
彼女が私に波長を合わせることができないのはそのためだ。
そして 、波長を合わせることができなければ、障害がつくりだされる。
彼女は私を愛しているが、その愛はいまだに無意識のものだ。
もう少し意識的になれば、彼女はそれに気つ゛くだろう。
私ととも にあるためには、内側にあるたくさんのものを変えなければ ならない
ことに気つ゛くだろう。
私とともにあるためには、私とともにもっと深く進んでゆくため には、こころ
ハートとこころハートの触れ合いをもつためには、 あなたはもち歩いている不
要な荷物を落としてしまわなければ ならない。
つまり肉を食べる必要はないということだ―肉食は 瞑想者にはふさわしくない。
肉を食べると、不要な障害をつくりだすことになる。
それは優しさをかき乱し、あなたのなかに一種の残忍さを 生じさせる。
あなたはそれに気つ゛いていないかもしれない。
なぜなら、あなたはまったく醒めていないからだ。
だが、 私のもとへ来れば、私はまさに鏡のように映し出す。
さあ、プラディーパはみずからの実存のなかに大へんな 吐き気をつくりだして
いるにちがいない。
おそらく彼女自身は 慣れてしまっているので、それに気つ゛かないのだろう。
だが、 私は何度も何度も吐き気を感じた。
というのも、あなたが エネルギーで私と関わるとき、それは一方通行ではない
からだ。
私のエネルギーがあなたのなかに入ってゆき、あなたの エネルギーが私のなか
に入ってくる。
それは一方通行では ありえない。
輪がつくりだされる。
循環が起こりはじめる。
これはひとつの例にすぎない。
そしてこれはプラディーパ だけの問題ではなく、みんなの問題だ。
もっともっと深く私と波長を合わせたいなら、 私に起こったタオを分かち合い
たいなら、あなたは もっと意識し、自分が何をしているか、何を食べているか
、何を読んでいるか、何を聴いているか、どこへ行こうとし、 誰とつき合って
いるかを油断なく見守っていなければならない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

301鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/10(日) 00:21:47 ID:1d4drIFg0
師のエネルギーによって弟子を導くことも出来るのじゃ。
肉を食べていれば体の調子が悪いというだけで悟りを得られないとか、汚染されているのではないのじゃ。
体の調子が悪ければ悪いエネルギーの影響を他にも及ぼしてしまうのじゃ。
根菜類とか緑黄色野菜の小食が健康にもよいのじゃ。

302避難民のマジレスさん:2019/02/10(日) 10:09:06 ID:LC3de7YgO
>>300
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

小さなことでも寄せ集まると、 大きな影響を及ぼすことになるからだ。
誰かに腹を立てたり、誰かと喧嘩したりしたあとで 私のもとへ来れば、当然、
あなたは私から遠く離れている。
イエスがこう言うのはそのためだ。
「寺院へ祈りを捧げに行って、誰かを傷つけたこと、誰か を侮辱したこと、誰
かに腹を立てたことを思い出したら、 あるいは誰かに腹を立てていることに気
がついたら、まず 行って許しを請いなさい。それをすましてから祈りを捧げに
くるがいい。そうでなければ、神と関わることはできない。 まず行って許しを
請いなさい。まずものごとを清算しなさい」
ミケランジェロがシスティナ礼拝堂で仕事をしていたときのことだ ……彼はイ
エスの絵を描いていた。
絵はほとんど完成していて、 あとは仕上げの筆を待つばかりだった。
だが、なかなか最後の一筆 を加えることができなかった。
イエスがイエスらしく描けていなか ったのだ。
イエスの顔に何かが足りなかった―その柔和さ、その 女性的な資質がそこには
欠けていた。
そこにはあの愛の質が欠けていた。
連日、懸命に努力しているうちに、ミケランジェロは、ある 友人と口論をした
ことを思い出した。
彼はまだそれを内側に 抱えていたのだ。
さらに彼は「祈りに行ったとき、友や兄弟 に良い感情を抱いていないことに気
つ゛いたら、まず行って 許しを請いなさい」というイエスの言葉を思い出した。
彼は礼拝堂から駆け出ると、その友人のところへ行って 許しを請い、ことの顛
末てんまつをすべて話した。
「何日も仕事をしていたんだが、イエスの顔がどうしてもうまく 描けなかった
んだ。何か怒りのようなものがそこには残っていた」 ―それは彼の内部にある
怒りだった。
怒りや悪感情を 抱いたまま絵を描こうとすれば、それはあなたの両手 で描かれ
るのだから、その絵にはあなたの内面が表れて くる。その絵には基本的にあな
たが映し出されてくる― 許しを請い、それが受け容れられたとき、 ミケランジ
ェロは気分を一新することができた。
わずか数分の仕事で、絵は完成した。
それは最も 美しいイエスの絵のひとつだ。
わずかに筆を加える だけで、絵はいきいきとし、イエスが浮かびあがってきた。
今やミケランジェロのこころは調和のなかにあったからだ。
(p237)
タオを分かち合うことはできる。
だが、あなたは それを分かち合う方法を学ばなければならない。
そして 多くのことがらにひじょうに注意深くならなければいけない。
それはある意味では単純だが、ひじょうに複雑でもある。
単純なのは、あなたが本当に開き、調和していたら 、それはほんの一瞬のうち
にも起こりうるからだ。
複雑なのは、あなた自身もまったく気つ゛いていないようなごく小さな習癖を
変えなければならないからだ。
あなたは生全体を変えねばならなくなる。
あなたがたに教えとして差し出すものなど何もない、と私が言うのはそのため
だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

303鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/10(日) 22:51:21 ID:1d4drIFg0
心は実に微妙で正直な反応をするものじゃ。
心にほんの僅かな恐れがあっても自我を明け渡すことは出来ないのじゃ。
自我を明け渡せるその瞬間がやってきても恐れが少しでもあれば何か口実を作って逃げてしまうのじゃ。
心の僅かな働きにもよく注意しなければならないのじゃ。

304避難民のマジレスさん:2019/02/11(月) 05:21:04 ID:LC3de7YgO
>>302
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

私はあなたがたを挑発 するエネルギーを分け与えることならできる。
私は哲学や神学の体系を与えているのではない。
私は私そのものを与えている。
それは挑戦だ。
私はここであなたがたを目覚めさせようと努力している。
あなたがたは開き、リズムを感じ、そして生の小さな ものごとを観察しなけれ
ばならない。
呼吸は最も重要 なものだ。
あなたはサットサングのなかにあるときの 息つ゛かいを、師のそばにあるとき
の息つ゛かいを、 愛のなかにあるときの息つ゛かいを学ばなければならない。
呼吸は感情とともに絶えず変化している。
腹を立てているときには、あなたの呼吸はリズムを失い、不規則になっている。
情欲に駆られているときには、あなたの呼吸はほとんど気違いじみたものにな
っている。
穏やかで、静かで、喜びに満ちているときには、あなたの呼吸は音楽的な質を
おびていて、ほとんど歌のようだ。
<存在>にくつろいでいると、欲望を抱かず、満足感を 味わっていると、突然、
呼吸は止まったように静かになる。
畏敬の念に打たれたり、驚異に息を呑んでいるときも、 呼吸はしばらくのあい
だ止まる。
それは生の最もすばらしい 瞬間だ。
ほとんど呼吸が止まりそうになる、そういった瞬間 にのみ、あなたは<存在>と
完全に同調しているからだ。
あなたは神のなかにあり、神はあなたのなかにある。
あなたは呼吸をもっと深く体験し、詳しく調べ 、観察し、見守り、分析しなけ
ればならない。
呼吸が感情とともにどう変化するかを見てみなさい。
例えば、恐怖に駆られているとき、呼吸に起こる変化を 観察するがいい。
そして、いつか恐怖に駆られたときと 同じパターンに呼吸を変えてみるがいい。
あなたは驚く だろう―呼吸を恐怖に駆られたときとまったく同じパターン に変
えると恐怖が湧いてくる。それも即座にだ。
誰かと深く愛し合っているときに、自分の呼吸を観察するがいい。
恋人の手を取り、抱きしめながら、自分の呼吸を観察しなさい。
そして、いつか樹の下に静かに坐り、自分が 再び同じような呼吸をしているの
を見守りなさい。
パターンをつくりだし、同じ光景ゲシュタルト を呼びもどすのだ。
まるで恋人を抱擁している かのように、同じ仕方で呼吸をするがいい。
すると、驚くようなことが起こる。
全存在があなたの恋人になる。
再び大いなる愛があなたのなかに湧いてくる。
それらは連動している。
それゆえにヨーガ、タントラ、タオ―人間意識とその拡大 に関するこの三つの
深遠な方法論システムと科学に おいて、呼吸は鍵なる現象のひとつになっている

この三つはそろって呼吸に働きかけてきた。
(p239)
仏陀の瞑想法のすべては、ある一定の 呼吸の質にかかっている。
彼は言う― 「ただ自分の呼吸を見守りなさい。呼吸を変えなくて もいい。少し
も変えることなく、ただ見守るのだ」と。
だが、不思議なことに、見守るやいなや、ただちに 呼吸は変わる、ひとりでに
変わらざるをえない。
仏陀は 「呼吸を変えてはいけない。ただ見守りなさい」と言う。
だが、見守るやいなや、ただちに呼吸は変わってしまう。
注意深さには独自のリズムがあるからだ。
仏陀が 「呼吸を変えなくてもいい。ただ見守りなさい」 と言うのはそのためだ。
注意深さそのものが独自 の呼吸を生み出す―変化はひとりでに起こる。
そして、次第に不思議 なことが起こってゆく― 注意深くなればなるほど、
さらに呼吸は減ってゆく。
呼吸 はより長く、より深くなってゆく。
例えば、一分間に十六回呼吸をしていたなら、 呼吸の数は六回、四回、三回と
減ってゆく。
あなたが注意深くなるにつれ、呼吸はより深く、 より長くなってゆき、呼吸の
回数がどんどん減ってゆく。
また逆に、呼吸の側から働きかけることもできる。
ゆったりと静かに深く長い呼吸をしてゆくと、突然、 あなたのなかに注意深さ
が生まれてくる。
あたかも ひとつひとつの感情が呼吸システムのなかに もう一方の極をもってい
るかのようだ。
感情は呼吸によって誘発することができる。
だが、一番いいのは、恋をしていたり、友人 のそばに坐っているときに観察す
ることだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

305避難民のマジレスさん:2019/02/11(月) 14:16:52 ID:LC3de7YgO
>>304
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

自分の呼吸を見守りなさい。
なぜなら、その 愛に満ちた呼吸のリズムが最も重要だからだ。
それはあなたの実存全体を変容させる。
愛のなかでは、分離した存在として身構えることの 馬鹿らしさ、虚偽を最も痛
切に感じ取ることができる。
だが、まさにこの分離、この不条理さによって、 人は他の方法では表現しえな
いことを表現すること ができる。
他者であるというまさにそのことによって 、人は互いがひとつであることを祝
えるようになる。
そこに愛の逆説パラドックスがある。
あなたがたは二人でありながら、 一体感を感じている。
ひとつでありながらも 、二人であることを知っている。
二人でありながら ひとつになった状態―そこに愛の逆説がある。
そしてそれは祈りの、瞑想の逆説でもなければならない。
究極的には、あるまれな価値ある瞬間において、人は 恋人、友人、母親、子供
に感じるような一体感 を<存在>に対して感じなければならない。
他者として分かたれているからこそ、人は 互いがひとつであることを祝うこと
ができる。
『ヴェーダ』は言う―タットヴァマシ、我はそれなり。
そこには分かたれているという明晰な自覚がありながら 、しかも深い合一感が
ある。
彼は大洋から分かたれて いながら、しかも大洋から分かたれていない。
自分が愛にあふれている瞬間 をもっともっと見守りなさい。
注意深く醒めていなさい。
呼吸がどのように変化するかを見るがいい。
身体がどのように打ち震えるかを見るがいい。
恋人を抱きしめて、実験してみるといい。
すると不思議なことが起こる。
いつか抱擁し、互いに溶け合いながら、 少なくとも一時間は一緒に坐ってみ
るといい。
すると驚くようなことが起こる― それは最もめくるめく体験のひとつになる
だろう。
一時間、何もせずに、ただ抱き合い、互いの なかに落ちてゆき、互いのなかに
溶けてゆくと 、やがて徐々に、呼吸がひとつになってゆく。
身体は二つだが、こころハートはひとつ であるかのように、息が合ってくる。
二人は一緒に呼吸している。
一緒に呼吸しているとき、 努力して合わせるのではなく、愛の感覚に圧倒さ
れて自然に息が合っているとき―それ は最も貴重な、最もすばらしい瞬間 であ
り、この世のものではなく、はるか 彼方からやって来たものだ。
そういった瞬間、あなたははじめて 瞑想的なエネルギーを一瞥いちべつする。
そういった瞬間、文法は意味を失い、 言葉は途絶える。
それを口にしようとしても、言葉にならず、そのまさに 言葉を失うことで、言
語を絶したものが示される。
そしてそれが、より深い次元レベルにおいて、 師との関係にならなければいけ
ない。
そのときはじめてタオは師から弟子 へ炎のように飛び移ることができる。
あなたは呼吸のわざアートを学ばなければならない。
(p241)
さて経文だ―
純一なこころハートで決然と実行しなければならない。
そうすれば成果は求めずとも、おのずからやって来る。
とてつもなく深い意味を秘めた言明だ。この言葉が鍵となる―

純一なこころハートで決然と実行しなければならない。
まず第一に、人は決然とした態度を取るようになってはじめて生まれる。
決意とともに、人間が誕生する。
優柔不断な生き方をしている者たちは、本当は人間ではない。
そして何百万もの人々が優柔不断な生き方をしている。
彼らは何についても決めることができない。
彼らは他人によりかかってばかりいる。
誰かが彼らの代わりに決めてやらなければならない。
権威者のまわりに人々が群がるのはそのためだ。
権威主義がこの世から消えない唯一の理由は、無数の人々が自分で決められな
いでいるからだ。
彼らは命令が下されるのを今か今かと待っている。
ひとたび命令が下されれば、彼らはそれに従う。
だが、これは隷属であり、彼らはそのようにしてみずからの魂が誕生するのを
阻んできた。
決意があなたの実存のなかに生まれてこなければならない。
決然とした態度とともに、まとまりが生まれてくるからだ。
いいかね、いくつか決断をするがいい。
決断することで、あなたは個になってゆく。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

306鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/11(月) 22:44:06 ID:1d4drIFg0
ヴェーダにはプラーナがアートマンと記されているのじゃ。
呼吸なのじゃ。
呼吸という空間と繋がる働きは意識が在り、アートマンそのものといえるのじゃ。
呼吸によって個我はなく、全てが繋がっていると物理的に証明されているのじゃ。
それこそアートマンと呼ぶべきなのじゃ。

307避難民のマジレスさん:2019/02/12(火) 00:01:12 ID:LC3de7YgO
>>306
うむ。
薄い大気の層に包まれた、一つの生命であり、意識でありますね。
超科学的なような気がするのであります。
(´・(∀)・`)つ

308避難民のマジレスさん:2019/02/12(火) 00:13:01 ID:LC3de7YgO
>>305
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

優柔不断さとは何か?
それはあなたが臆病であるということだ。
あなたのなかには矛盾し合う声がたくさんあり、どちらへ行ったらいいのかさ
えも決められない。
人々は小さなことにも優柔不断だ―どの映画を見にゆくかといったことさえ決
められない。
優柔不断さがほとんど彼らの生活様式になってしまっている。
これを買おうか、あれを買おうか?買物をしている人々を見てみるがいい。な
んと優柔不断なことか。
どこかの店に坐って人々が、客が出入りするのを見てみるがいい。
あなたは驚くだろう―人々はどうやって決めればよいのかわからない。
そして、どうやって決めればよいのかわからない人たちは、いつもぼんやりと
、もうろうとしていて、混乱している。
決意とともに、明晰さが生まれてくる。
そして決然とした態度がすみずみにまで及び、あなたの基盤と関わるようにな
ったなら、必ず人間が誕生する。
ところで、私のもとにもたくさんの人々がやって来てこう言う。
「サニヤスに跳びこもうかどうか迷っているのです」彼らは私に「跳びなさい」
と言ってほしい。
だが、そうなったら、彼らは要点をそっくり見逃してしまう。
「思い切ってサニヤシンになりなさい」と 私 が言ってしまったら、あなたは決
断するという機会を、大いなる機会を逃してしまう。
またしてもあなたは他人によりかかってしまうが、そんなやり方では魂は成長
しない。
そしてこれは深遠な決断であり、計り知れないほど大きな意義がある。
なぜなら、それはあなたの生活様式を根こそぎ変え、新しい世界観を与えるこ
とになるからだ。
あなたは新しい方向に向かって進んでゆく。
あなたはすっかり変わってしまう。
これほど甚大な影響を与える決断は他人の手を借りず、みずからの力で行なう
べきだ。
人はみずからを賭けるべきだ。
賭けることで、勇気を奮い起こすことで、はじめて人間が生まれる。
そして決断をするなら―いいかね、決断するなら、必ずそれを実行すること。
それができなければ、決断などしない方がいい。
なぜなら、そのほうがもっと危険だからだ―優柔不断であるよりももっと危険
だ。
決断しながら実行しなければ、あなたはまったく無気力な人間になってゆく。
それなら決断などしない方がましだったことになる。
決意しながら、いつまでたってもそれを実行しない者たちがいる。
彼らはみずからの実存に対する信頼や自信を徐々に失ってゆく。
何を決意しても実行などできないのだということがだんだんわかってくる。
彼らは分裂してしまう。
彼らは自分を当てにできなくなる。
決断しているその時ですら、自分はそれを実行しないだろうということがわか
っている。
なぜなら、自分が過去に何をやってきたか知っているからだ。
彼らは決断するたびにそれを裏切ってきた。
そうなったら、ごく小さな決断でさえ、ひじょうに破壊的なものになりかねな
い。
「今日からタバコを止めるぞ」といったごく小さな決断、ごくありふれた決断
、何でもないような決断でさえ…… タバコを吸う、吸わないは大したことではな
い。
それで世界が変わるわけではない。
二十年もすれば結核を患うかもしれないが、それは 治すことができる。
あるいは二、三年早く死んでしまう かもしれないが、それがどうしたというの
だね?
どちらにしても本当に生きたことなどなかったのに。
先日、私は漫画を見ていた。
男が女に、「君は死後の生を信じるかい?」と尋ねる。
すると女が言う。「何言ってるの、これがその『死後の生』よ!」
信じなくてもいい。これがその死後の生だ。あなた はまるで活気のない死人の
ような生き方をしている。
死んだとしてもこれ以上悪くなることはない。
何ひとつ 変わりはしないだろう。
まさにこれが「死後の生」だ!
だが、小さな決断、タバコを吸わないといった取るに足りない 決断でも、実行
しなければ危険なことになる。
あなたは自信を なくしてしまう。みずからの実存に対する信頼を失ってしまう。
自分が当てにならなくなる。
そんな決断はしない方がいい。
タバコを吸いつつ゛けなさい。
決断をするなら、 肚を決めることだ。
そうなったら何が起ころうと、 それをやり遂げるがいい。
そして、それをやり遂げることができるなら、 明晰さが内側に湧き起こり、雲
が消え、何かが 自分のなかで根つ゛き、中心を定めてゆくのがわかる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

309鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/12(火) 23:17:29 ID:1d4drIFg0
>>307 そうじゃ、いずれ全て感じられるじゃろう。

悟りへの最後の関門は恐れなのじゃ。
自分をなくす恐れがあれば逃避し続けて悟りにも進めないのじゃ。
それを乗り越えるのが勇気なのじゃ。
自分という全ての主体を捨てる勇気があれば恐れを乗り越えて悟りにも到達できるのじゃ。

310避難民のマジレスさん:2019/02/13(水) 05:59:45 ID:LC3de7YgO
>>308
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

決然とした態度を取ることは、とほうもなく 重要なことであり、意味がある。
純一なこころハートで決然と実行しなければならない。
呂祖が言おうとしているのはそのことだ。
いったん決意したなら、全身全霊を込めてそれを実行しなければならない。
後もどりしないことをはっきりさせておかなければならない。
サニヤシンたちに「橋を壊しなさい」とくり返して言うとき、私が言おうとし
ているのはそのことだ。
後もどりしないのだから、橋を残しておく必要などないではないか?
梯子を捨ててしまいなさい。
船を沈めてしまいなさい。
昔の岸辺に二度ともどることはないのだから。
船を安全な岸辺につないでおくことは、あなたがまだ揺れ動いているというこ
とを、まだ「いつかはもどらなければならないかもしれない」と考えているこ
とを示している。
数ヶ月前、アヌプが合衆国へ発った。
私は行こうとしている彼に言った。
「今度は、橋を完全に壊してくるがいい」彼は「はい、和尚」と言った。
彼は今もどってきて、私が「どうだった?橋はどうなったかね?」と尋ねると
「壊せませんでした」と言った。
それは何を意味しているのだろう?
彼はここに半身でいることしかできないということだ。
彼はもどるための扉を開けたままにしてきた。
彼は身の安全や保障をすべて確保してきている。
が、問題はこういうことだ―全一にここにいるのでないかぎり、彼は成長しな
いだろう。
そしてこれは悪循環だ―成長しなければ、数ヶ月もすればこう考えるだろう。
「橋を壊してこなくてよかった。和尚の言うことを聞いて橋を壊していたら、
たいへんなことになっていたぞ。こ
こでは何も起こっていない!向こうにすべてを残しておいてよかった。いつだ
って家に飛んで帰れるからな」
彼は一番賢く、良識的な行動を取ったと思うだろう。
だが、彼ははなから逃げもどるための橋を確保し、扉を開けたままにしておい
た。
中途半端で生ぬるく、優柔不断ではっきりしない、逃げ腰の姿勢でここにいた
にすぎない。
逃げ腰の姿勢でいては、私とともにいることにはならない。
純一なこころハートで決断しないかぎり、私とともにいることはできない。
そ の と き 成長が起こりうる。
そ の と き はじめて成長が起こりうる。
だから要点を見るがいい。あなたが私とともにここで全一にいれば、成長は起
こりうる。
そうなったら後もどりする必要はないし、橋もいらなくなる。
だが、私とともにここで全一でいなかったら、そのときには橋が必要になる。
そして「和尚に耳を貸さなくてよかった―自分はなんで賢いのだろう」と感じ
るだろう。
「見ろよ、ここでは何も起こっていない。だからもどるしかない。橋をすべて
壊していたら、どうなっていたことやら」論理的な精神マインドはそのように
働く。
それは自滅的な状況をつくりだす。
純一なこころハートで決然と実行しなければならない。
そうすれば成果は求めずとも、おのずからやって来る。
もっとも重要なのは、成果を求めている者はすでに分裂しているということだ
。そうなったら、あなたのこころハートは働いていない、すでに成果に目を奪
われている。
分裂していたら、成果をあげることはできない。
成果をあげられるのは、ことの成り行きや結果を気にせず、旅そのものをこの
うえもなく楽しみ、目的地のことなどかまわずにいられる分裂していないここ
ろだけだ。
ゴールのことなどまったく気にかけない者だけがたどり着く―彼らの精神マイ
ンドは少しも分裂しておらず、旅の一瞬一瞬が、旅の一歩一歩がゴールになる
からだ。
どこいいようと、自分がいるところがゴールになる。
成果のことなどまったく気にかけない霊的スピリチュアルな道の上にいる人々
が成果をあげる。
成果を気にかけていたら、成果をあげることはできない。
思考が未来のどこかにあって、あなたは現在で働いていないからだ。
そして、仕事が現在において全一に為されてはじめて、成果をあげることがで
きる。
この瞬間が次の瞬間を生んでゆく。
この瞬間が全一に生きられたなら、 次の瞬間は必ずより深い全一性を、 より高
い全一性の質をおびるようになる。
だが人々は分裂したままだ。
この問題は考察するに値する。
なぜなら、これはすべての人の問題だからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

311鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/13(水) 22:26:22 ID:1d4drIFg0
お釈迦様も苦行をやめて最後の瞑想に入る時に悟りを得なければもはやこの座を立たないと決意して座ったのじゃ。
強い決意が無ければどのような法も悟りの助けにはならないのじゃ。
悟りを得るための強い決意こそ最後の関門を破る唯一の力となるのじゃ。
主体である自分を捨てることは全てを捨てることであるから強い決意が必要なのじゃ。

312避難民のマジレスさん:2019/02/14(木) 06:42:51 ID:LC3de7YgO
>>310

黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

先日、アショカが手紙を書いてきた。
彼はここにいるが、 まだ部屋にサティヤ・サイババの写真を飾っているそうだ
―部屋に誰の写真を飾ってもかまわないが、それは たんなる部屋の問題ではな
い。
さあ彼は悩んでいる。
私は彼に言った。「サティヤ・サイババのところへ行きなさい。そして、どう
か向こうでは私の写真を部屋に飾らないでほしい。そうしないと、あなたはま
たもや取り逃がしてしまうからだ。 ここにいてもいいし、あちらにいてもいい
が、大切なのは 純一なこころハート、まとまりをもったこころだ。半身でいる
くらいなら、私とともにいるよりも サティヤ・サイババのもとにいるほうがいい」
だが、私には彼の問題がわかる。
彼は向こうでも私の写真を離さないだろう。
だから、彼がしくじるのは目に見えている。
人は選ばなければならない。
人は決断しなければならない。
人生の旅路を一歩進むごとに、人は岐路に立たされ、選ばなければならなくな
る。
すべての道をわがものとすることはできないし、すべての道を歩くことはでき
ないからだ。
私はものごとの善し悪しを云々しているのではない。
何であれ、あなたが全身全霊で選んだものが正しい 、と私は言っているのだ。
ときには全面的な明け渡しがあったがゆえ に、光明を得ていない師のもとです
ら 弟子が光明を得たことがある。
そして申し分のない師のもとにいながら 何ごとも起こらないということも往々にしてある。
師が完全であるか否かよりも、 弟子の全一性のほうが問われる。
間違った人物のもとにいても、あなたは変容を遂げうる。
その間違った人物でもあなたを変容させられるというのではない が、あなたに
全一な決断があれば、そのあますところのない 決断があなたを変容させる。
そのことのほうがはるかに重要だ。
それがなかったら、仏陀のような人とともにいることができても、 あなたが半
身にとどまり、分裂しているなら、何ごとも起こらない。
いかなる分裂も―未来と現在、目的地と旅、この道と あの道、この師とあの師
―分裂はどれもみな危険だ。
そうなったらあなたのエネルギーは無駄に費やされ、あなたは責任を他人に転
嫁するようになる。
たとえば、ここでアショカに何も起こらなかったら― こんなやり方では何ひと
つ起こるまい―当然、彼は 間違った場所にきてしまったと結論つ゛けるだろう。
彼は自分が分裂しているというポイントを見ようと しないだろう。
彼に、間違った場所にきてしまった、 「この場所は私には向いていない」と
いうことだけしか 見えない。
だが、自分が分裂しているかぎり、どこにいても 、同じことが何度も何度もく
り返し起こるだろう。
勇気を奮い起こしなさい。
私は頭マインド がずる賢く振る舞いたがるのを知っている。
頭は言う。
「両方とっておけばいいじゃないか。何が起こるかわからないぞ。 どちらも選
べるようにしておくんだ。こっちがうまくゆかなくても 、あっちがうまくゆく
かもしれない」
だが、生はそのようには動かない。
ケーキを食べながら取っておくことはできない。
それは不可能だ。
呂祖は言う―
成果は求めずとも
……なぜなら、それすらも分裂になるからだ。
分裂せずに、完全に今ここにあるがいい……

成果はおのずからやって来る。
そして、成果がおのずからやって来るとき、そこにはとほうもない美がかもし
だされる。
成果をたぐりよせなくても、それは花のように開く。
花を無理やり咲かせなくてもいい。
無理やり咲かせたなら、花は死んでしまう。
そういったやり方はよくない。それに早く咲かせすぎたら、その花には香りが
なくなってしまう。
香りを集め、香りをつくりだすために、花は正しい瞬間を待たなければならな
いからだ。
香りの準備が整ったときはじめて花はひとりでに開く
。今や<存在>と分かち合うものをそなえているからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

313避難民のマジレスさん:2019/02/14(木) 19:14:03 ID:LC3de7YgO
>>312
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

人は瞬間を楽しまなければならない。
瞬間に全一に入り込んで、他のすべてを忘れなければならない。
そうすれば、いつの日か、突然、成果が現れる。
いつの日か、見る見るうちに黄金の華が開き、あなたは別世界へと運ばれてい
る。
(p248)
初心者がまず陥りやすい誤りは主に二つある。
それは昏沈こんちんと散乱だ。
この二つの誤りを理解しなければならない。
ひとつは女性的な精神マインドが犯す誤りであり、もうひとつは男性的な精
神マインドが犯す誤りだ。
女性的な精神は、受動的であるために昏沈、怠惰な状態をつくりだすことがあ
る。
そして男性的な精神は、能動的になりすぎて散乱をつくりだすことがある。
これもあれもと手を出して、ところかまわずあらゆる方角へ突進したがる。
女性的な精神は受動的だ。
それは待ちたがる。
ものごとを起こるがままにしたい。
だが、もしそれが無気力な状態、怠惰な状態、一種の死のようなものになって
しまうなら、やはりそれも危険なものになりかねない。
いいかね、能動性にもよいものとよくないものがあるように、受動性にも好ま
しいものと好ましくないものがる。
好ましい受動性とは、注意深く、意識をとぎ澄ましながら待つということだ。
好ましくない受動性とは、眠りこけ、いびきをかきながら、待っているつもり
になることだ。
恋人がやってこようとしている……彼がいつドアを ノックするかもわからない。
さあ、あなたは二つのやり方で待つことができる。
ドアを開け、目を門にくぎつ゛けにし、耳を澄ますというのが積極的な待ち方
だ。
少しでも音がしたら―足音がしたり、ドアをノックする音が 聞こえたら、ある
いは枯れ葉が風にひらひら舞うだけでも、あなたは戸口に駆け寄る。誰かが道
を通りすぎただけでも、あなたは戸口に駆け寄る―彼が来たのかもしれない。
これが積極的な待ち方だ。それは美しいものだ。
だが、ドアに鍵をかけ、明かりを消して、「彼がやって来て、ノックをしたら
、迎えに出ればいいわ」と言っていびきをかきはじめるようなら、それは好ま
しくない方の受動性だ。
これは昏沈だ。
神を待つことそのものはいいけれど、あなたの受動性はいきいきとした生気に
あふれるものでなければならない。
さて、二番目は散乱だ。それは男性的な精神マインドの質だ。
男性の精神は絶えず周囲に気を散らしている。
女性的な精神 はひとりの夫で満足するのに、男性的な精神のほうはたくさんの
妻を抱え込むのはそのためだ。
彼は絶えず気を散らし、通りすがりのどんな女性にも目を奪われる。
彼は自分が結婚していることをすっかり忘れてしまう。
「君は僕の命 だ。僕は君のためだけに生きるよ。君は僕の喜びだ。僕の愛は永
遠だ」 とささやいた当の女性のことをすっかり忘れてしまう。
一瞬のうちに、彼はそういったすべてのたわごとを忘れてしまう。
彼の注意力はいともたやすく四散してしまう。
男性的な精神は活動的すぎる。
だが、好ましい活動はよいものだ。
好ましい活動とは集中した活動、一心不乱な活動を指している ―井戸を掘るた
め、ひたすら一カ所を掘り進めることをいう。
好ましくない活動とは、井戸を掘るため、次から次へと新しい 場所を掘り返し
、水脈を発見できずに土地を荒しまわることをいう。
男性的な精神にはそれが起こる。
彼はこの女、あの女と恋人を 次々に変えてゆくが、真実の愛に触れることはけ
っしてない。
それはたんに表面的な現象にとどまっている。
それはけっして親密なものにはならず、深みをおびることもない。
けっして心から身をゆだね合うことがなく、表面的なつき合い、 せいぜい肉体
と肉体の性的な触れ合いにとどまっている。
それは けっしてまごころハートに触れず、もちろん魂にも触れることがない。
なぜなら、まごころに触れ、魂に触れる ためには、時間がかかるからだ。
人は待ち、そして深く掘り下げなければならない。
これがよく犯しがちな二つの誤りだ。それに用心するがいい。
活動的になりすぎては いけないし、怠惰になりすぎてもいけない。
中間にとどまりなさい。穏やかに活動し、 いきいきとくつろぎなさい。
中間にとどまるがいい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

314鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/14(木) 22:41:14 ID:1d4drIFg0
昏沈とはほとんど意識を失っている状態なのじゃ。
何も覚えていないのじゃ。
しかし、実際には意識はあるものじゃ。
記憶が無いから意識も無いと思うのじゃ。
意識は常にあり、記憶が無いことすらわかるのじゃ。
肉体の意識と記憶があるからのう。
それに気付けば常に意識はあったとわかるのじゃ。
散乱は頭に気が上りすぎて起こるものじゃ。
特に気を頭に上げる法では起こりやすいのじゃ。
それも常に気を巡らす法を行っていればコントロールできるものじゃ。

315避難民のマジレスさん:2019/02/15(金) 04:40:21 ID:LC3de7YgO
>>314
忘我も昏沈でありますね。
意識的に忘我を作り出すことができれば、苦しみを一時的に忘れる助けにはなるでありますね。
そして、仮に相当に深刻だと思っている苦しでも、そのようにして忘れられる程度のものであると、忘我によって知ることができるでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

316避難民のマジレスさん:2019/02/15(金) 06:30:39 ID:LC3de7YgO
>>313
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

あなたの行為には待つという質が そなわらなければならないし、 あなたの待
機には活動の質が そなわらなければならない。
そうなれば、必ず成果があがる。
成果のことは考えなくてもいい― それはひとりでにやって来る。
そして、これらの誤りは正すことができる。
(p250)
それに対処するには、呼吸にあまり深く気をとられてはならない。
呂祖師は、あなたがたにもっとも重要な奥義のひとつを授けている。

それに対処するには、呼吸にあまり深く気をとられてはならない。
少しもあわてて呼吸せず、呼吸に無関心になり、超然として、遠くに離れてい
るかのように、とても静かに呼吸をすることを学ばなければならない。
呼吸に対して距離を保ち、超然としていることができたら、あなたは中道を達
成することができる。
その瞬間、あなたは男性的でもないし女性的でもない。
あなたはその両方であり、かついずれでもない。
あなたは超越している。そうなったら、この二つの誤りは消え失せている。

呼吸はこころハートから生じる。 こころから呼吸が生じるのである。
こころが動くと、ただちに気(呼吸エネルギー)が生まれる。
気とは元来、こころの活動が変容したものである。
気が散っているときには、見守りなさい。
呼吸も乱れているはずだ。
気が散らず、何にも意識をそらされることなく静かに坐っているときには、呼
吸は穏やかで、静かで、リズムをともなっている。
そこには微妙な音楽の質がある。
その質こそまさに中道だ。
というのも、あなたは何もしてはいないが、眠りこけているわけでもないから
だ。
あなたは活動的ではないし、不活発でもない。
あなたはバランスがとれている。
そういったバランスがとれた瞬間に、あなたは実在リアリティに、神に、天国
に近つ゛いている。

我々の思念は実にすばやく動いて、またたく間に空想に走るが、 ひとつの空想
には必ずひとつの息がともなっている。
内なる呼吸と外なる呼吸は、声とこだまのように一体になっている からだ。
我々は毎日数知れぬほど息をし、それと等しい数の空想を 抱いている。
こうして精神の明晰さは、樹が枯れ、灰が冷たくなる ように衰えてゆく。
いいかね、どの呼吸もただの呼吸ではない。
それは思考でもあり、感情でもあり、空想
でもある。だが、それは数日のあいだ呼吸
を観察してはじめてわかることだ。
愛を交わしているとき、呼吸を見守りなさい。
きっと驚くだろう―呼吸は混沌としている。
性的なエネルギーというのはひじょうに荒々しく、粗野なエネルギーだからだ。
性的な空想は荒々しく、 粗野で、動物的だ。
性欲にはこれといって特別なものはない ―動物にはみな性欲がある。
性欲に突き動かされると、人は どんな動物にも負けないような振る舞いをする。
私は動物であることは悪い ことだと言っているのではない。
ただ事実を指摘しているだけだ。
私は事実を述べているにすぎない。
だから性愛を感じるたびに、呼吸を見守りなさい。
それは完全にバランスを失っているはずだ。
だから、タントラでは、セックスの途中に 呼吸を穏やかでリズミカルに保つこ
とを学んではじめて愛を交わすことが許される。
そうなったら、まったく異なる質がセックスに現れる。
それは祈りに満ちたものになり、神聖なものになる。
部外者が見れば何の違いもない。 あなたが相手の男性や女性と愛を交わして
いる姿は、部外者の目には同じに映る。
だが、タントラに精通している者たち、 それを知っている者たちには大きな
違いがある。
これらの秘法が開発され、実験され、観察された 古代のタントラの道場において、
それは一連の 実験の中心課題のひとつになっていた。
呼吸をまったく乱さずに愛を交わす ことができたなら、それはもはやセック
スではなく神聖な行為になる。
そうなったら、あなたはみずからの 実存の大いなる深みへと運ばれ、そして
生の神秘への扉が開かれる。
呼吸はたんに呼吸であるにとどまらない。
呼吸は生命いのちだからだ。
呼吸のなかには生命に内在する すべてのものが含まれている。
では頭のなかで空想してはならないのだろうか?
人は空想せずにはいられない。
呼吸をしてはならないのだろうか?
人は呼吸せずにはいられない。
最良の方法は、病から薬をつくりだすことだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

317鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/15(金) 22:48:51 ID:1d4drIFg0
>>315 そうじゃ、サマーディに入れば気付きも起こりやすくなるものじゃ。
 そうであるからこの書でもそれを求めるのじゃ。

 サマーディに入れば呼吸は殆ど止まるのじゃ。
 呼吸の停止によって心も停止したと知れるのじゃ。
 呼吸と心は常に連動しているのじゃ。
 意識して呼吸しないと苦しくなったりするのじゃ。

318避難民のマジレスさん:2019/02/16(土) 09:18:19 ID:LC3de7YgO
>>316
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

これはタントラの方法論であるとともに、タオの方法論でもある―病から薬を
つくりだす……。
タオとタントラが並外れているのはここだ。
ヨーガは「セックスを避けなさい。セックスを迂回するのだ―それは危険なも
のだ」と言う。
だが、タオとタントラはいずれも「セックスを避けてはいけない。
そのエネルギーを変容させるのだ。
そうすれば、病そのものが薬に変わりうる」と言う。
科学者に尋ねてみるがいい。
彼らはそれとまったく同じことをやっている、とりわけ逆症療法アロパシーに
おいて。
病気そのものから抽出された成分が注射されて、それが薬になる。
逆症療法が近年になって発見したことは、タントラやタオによってはるか昔に
発見されていた。
神から与えられたものにはすべてとほうもない目的が隠されているにちがいな
い。
それを避けてはいけない。それを避けたら、貧しいままでいなければならない

それから逃げ出してはいけない。逃げ出したら、あなたのなかには生きなかっ
た部分が残ってしまう。
いわゆるヨーガ行者が絶えず性的妄想に苦しめられているのはそのためだ。
彼はぐっすり眠れない―それは不可能だ―昼間に彼が拒絶してきたことが、夜
になるといっせいに逆襲して来るからだ。
無意識のなかに抑圧してきたすべてのことが、眠りに就き、コントロールが
弱まると、再び浮上してきて夢になる。
ヨーガ行者、いわゆるヨーガ行者は、絶えず恐れている。
彼は女を見るのが怖い、女に触れるのが怖い。
彼はおどおどしている。いったいこれが「自由」と呼べるだろうか?
こんな恐れを抱いていては自由になれるはずがない。
タオとタントラはまったく異なる姿勢で迫ろうとする。
彼らは言う―神から授かったものはことごとく変容させるがいい、と。
それは生の素材だ。
そのなかにはすばらしい宝が隠されているにちがいない。
呼吸の仕組みシステムを変えることができれば、性エネルギーを変容させるこ
とができる。
呼吸の仕組みを変えることができれば、怒りを変容させることができる。
腹を立てたとき、どんな呼吸をしているか観察してみるがいい。
そして次に怒りを覚えたときには、これまで腹を立てるたびにしてきたような
呼吸をしないようにする。
すると不思議なことに、あなたはもう怒れなくなってしまう。
あるやり方で呼吸しなければ、怒りは続かず、消えてしまう。
怒りの代わりに、憐れみが湧いてくる。
同じように、セックスも消え、セックスの代りに、愛が湧いてくる。
愛はじつに人間的なものだ。
セックスは人間だけのものではなく、動物のものでもある。
だが、愛を知っている動物はいない。
セックスは動物的なものであり、
愛は人間的なものであり、祈りは神的なものだ。
セックスは愛に変容されねばならないし、愛は祈りに変容されねばならない。
セックスのなかでは呼吸は混沌としたものになる。
だからこそ私は、ある目的をもって混沌とした瞑想を選んだ―それは感情を発
散浄化させるためだ。
混沌とした瞑想、混沌とした呼吸は抑圧された怒り、セックス、欲望、嫉妬、
憎しみといったものをことごとく打ち、表面に浮かびあがらせる。
それは大いなる浄化のプロセスだ。
セックスのなかでは、呼吸は混沌としたものになる。
愛のなかでは、呼吸は音楽的になる。
祈りのなかでは、呼吸は止まってしまったように静かになる。

こころハートと呼吸が互いに依存し合っているなら、 光の循環を呼吸のリズム
と結び合わせなければならない。
息を吐くときには、両目から光が出てゆくようにする。
息を吸うときには、光が内側にもどってくるようにする。
呼吸と光の循環を結び合わせなさい。
このようにして呼吸に仕事を与えることで 、呼吸は他の余計な空想から解き放
たれる。
これもまた空想のひとつだ―あなたはあるもの を与えている。呂祖が「人は空
想せずにはいられない」 と言うのはそのためだ―少なくともはじめのうちはそ
うだ。
最高の頂に到ってはじめて空想を落とすことができる。
だが、私たちはそれを使うことができる、 それを踏み石にすることができる。
息が出てゆくときには、光も出てゆくように想像する がいい。
息を吸うときには、光も入ってくる、と。
それを単純な方法でやってみるといい。
息を吐くときには、内側にあった光がすべて放出 されてゆくと感じなさい。
そして息を吸うときには、 <存在>のすべての光が入ってくると感じなさい。
じきに想像は呼吸と結びついて、それと一体になる。
こうすれば空想を使ったことになる。
こうしてゆっくり と呼吸をもっと穏やかで静かなものにさせてゆけばよい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

319鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/16(土) 22:54:17 ID:1d4drIFg0
人体の内部で気を巡らせるのを小周天と呼ぶのじゃ。
自然の気を外から取り入れて体に巡らすのを大周天と呼ぶのじゃ。
それも気が同じであるからできるものじゃ。
気は人の中にあり、人は気の中に在るというのじゃ。

320避難民のマジレスさん:2019/02/17(日) 07:59:57 ID:LC3de7YgO
>>318
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

ヨーガの呼吸法、プラーナーヤーマでやるような 特定のリズムを実修する必要
はない。
人はそれぞれ 自分に合った方法を見いださねばならないからだ。
肉体が違い、心理構造マインドが違うのだから、 あなたがたの呼吸も同じもの
ではありえない。
あなたは徐々に自分に合った方法 を見つけてゆかなければならない。
ひとつ忘れてはならないことがある。
呼吸は穏やかで、静かで、音楽的なものに なってゆかなければいけない。
(p255)
このためには、とりわけ耳の光が必要である。
ここで呂祖はまた別の手ほどきをする。彼は言う―
光は目から入って、そこを出入りするように、耳からも入って、そこを出入り
する、と。
光が耳から出たり入ったりするのを見ることはできないから、これは不思議な
言明だ。
だが、現代の物理学者に尋ねてみるといい。彼らは、音とは電気、電気の作用
に他ならないと言う。音は電気だ。
呂祖が古代の言語で「光」と呼んでいるのはまさにそれだ。
音は耳から入り、耳から出てゆく。
目が肉体の男性的な部分であるように、耳は肉体の女性的な部分だ。
目が外向的であるように、耳は内向的だ。
それゆえに、世界には二種類の瞑想がある。
目のエネルギーに関わる瞑想と、耳のエネルギーに関わる瞑想だ。
耳のエネルギーに関わる瞑想は女性的な瞑想であり、受動的だ―あなたは何も
せずに、ただ耳を傾ける。
鳥の声、松林を通り抜ける風の音、あるいは音楽や、往来の騒音に耳を傾ける。
何もせずに、ただ耳を傾ける。
すると深い静けさが訪れて、大きな安らぎが降り注ぎ、あなたを包みはじめる。
それは目よりも、耳を通してやるほうがやさしい。
耳を通してやるほうがやさしいのは、耳が受動的で、攻撃的ではないからだ。
耳は<存在>に対して何もすることができない。
ものごとを起こるにまかせるだけだ。
耳は扉であり、ただ受け容れる。

目の光があるように、耳の光がある。
目の光は外界にある 太陽と月が合体したものである。
それは外向的だ。

耳の光とは内なる太陽と月が合体して生まれる種子である。
それは内向的だ。

ゆえに種子とは光が結晶化したものである。
いずれも同じ起源をもち、名前が異なっているだけだ。
光と音は名前が違うだけだ。
インドには物語がある―実話かもしれない。いずれ科学がその正しさを証明す
るときがくるだろう。
インドの物語によれば、ある種の旋律メロディには火を生みだす力があるとい
う。
音楽家の前に火のともっていない蝋燭ろうそくを置き、音楽家がある旋律、あ
るラーガを演奏すると、突然、蝋燭に火がつく。
さあ、そんなことはありえないようだし、ただの物語にすぎないように思える。
おそらく神話か、譬たとえ話にすぎないだろう。
だが、音が電気だとしたら、ある種のパターンを形成した波動は火をつくりだ
すことができる。
今や実験が行なわれている。
私が思うに、遅かれ早かれ、科学的にそれを再現することが可能になるだろう。
これはよく知られている事実だが、軍隊が橋を通過するとき、兵隊たちは必ず
リズムを崩すように命じられる。
彼らはふつうは左、右、左、右、左、右といった具合に、一定のリズムを取り
ながら歩いている。
軍隊があるリズムをとって通過してゆくと橋が壊れてしまうということがよく
起こった。
だから、橋を渡るとき、軍隊は右、左のリズムを崩さなければならない。
今ではこれが周知の事実となっている。
ある種の波動が橋にとっては危険なのだ。
カナダでは、植物と音楽との関わりを調べる実験が行なわれた。
ささやかな実験だが、計り知れないほどの意義がある。
同じ季節の花が、同じ時期に、同じ肥料で、二か所に植えられ、同じ庭師がそ
れらの面倒を見た―
それぞれの区画は何から何までまったく同じだった。が、一方の区画には、
ラヴィ・シャンカールのシタールのレコードが用意され、絶えずその音楽が流
されていた。
そしてもう一方の区画には、ポップ・ミュージックが流された。
それはひじょうに示唆に富んだ現象だった。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

321鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/17(日) 22:58:14 ID:1d4drIFg0
人は集中する時に目を使うものじゃ。
何かを注視する時の動作を心でも行うのじゃ。
それとは別に耳で聞く時のように集中する法も在るのじゃ。
それを返聴法と呼ぶのじゃ。
丹田に集中するならば丹田の音を聞くかのように集中するのじゃ。
ヨーガでも呼吸音とか心臓の音を聞くように集中する法があるのじゃ。

322避難民のマジレスさん:2019/02/17(日) 23:35:52 ID:LC3de7YgO
>>320
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸
 より抜粋

ポップ・ミュージックが流された区画の植物は、いっせいに音響装置をよける
ようになりはじめた。
まるで逃げだしたがっているかのように、聞くのがいやで、うんざりしている
かのように、植物たちはみな音響装置から身を遠ざけるようになりはじめた。
そして、その区画の花は小さく、成長するのに時間がかかった―他の区画の植
物のほぼ二倍の時間がかかった。
ラヴィ・シャンカールのシタールが流されている他の区画では、 植物たちは音
響装置に身を寄せはじめた。
植物は音響装置を抱き かかえるように、それを覆いつくした。
しかも二倍の速さで成長 し、花も大きく、予想されていたよりも早く花を咲か
せた。
植物でさえ、音響の違いを感じとる。
上空を飛んでゆく飛行機は人間を狂気に駆り立てる。
騒音は日毎にますますひどくなってゆく。
人間が 生き延びられるとしたら、それは奇蹟と言っていい。
いずれも同じ起源をもち、名前が異なっているだけだ。
実のところ、あらゆるものは同じだ。それらはみな「光」「火」「電気」と呼
ばれる素材からできている。
どんな名前で呼んでもいい。違うのは形だけだ。
したがって理解(耳)と明晰さ(目)はひとつのものであり、 同じ霊妙な光に
他ならない。
理解は耳を通して生まれる。明晰さは目を通して生まれる。
明晰さは男性的であり、理解は女性的だ。女性のほうが弟子になりやすい、と
私がいつも言うのはそのためだ。
 質問者 それでは、あなたはどこに住んでいるというのでしょうか?
 マハラジ
 存在と非存在を超えた、意識を超えた空のなかだ。
 その空はまた充満してもいるのだ。
 私を哀れんではいけない。
 それは、「私は私の仕事を終えた。もう何もするべきことはない」と言う人
 のようなものだ。
 質問者 あなたは真我の実現の確かな日時を伝えています。それはつまり、
     その日に何かが起こったということでしょうか? 何が起こったの
     でしょうか?
 マハラジ
 マインドが出来事をつくり出すことをやめたのだ。
 遙かなる昔からの絶え間ない探求が終焉したのだ。
 私は何も望まず、何も期待せず、何ひとつ私のものとして受け取らなかった。
 そこに闘おうとする「私」は残っていなかった。
 ただの「私は在る」さえも消え去ったのだ。
 もう一つ気づいたことは、すべての習慣的な確信を失ったということだ。
 以前、私は多くのことに確信をもっていた。
 今、私には何ひとつ確かなことはないのだ。
 だが、知らないことで何かを失ったようには感じない。
 なぜなら、私のすべての知識が偽りだったからだ。
 私が知らないということ自体、すべての知識は無知なるものだという事実の
 知識なのだ。
 「私は知らない」だけが私にできる唯一の表明だ。
 「私は生まれた」という考えを例にとってみなさい。
 あなたはそれを真実だと受け取っているかも知れない。
 そうではないのだ。
 あなたはけっして生まれなかったし、けっして死ぬこともないだろう。
 生まれて、そして死んでいくのは観念であり、あなたではないのだ。
 あなた自身を「私は生まれた」という想念と同一化することで、あなたは死
 をまぬがれない者となる。
 映画のなかではすべてが光であるように、意識が広大な世界となるのだ。
 よく見てみなさい。
 すべての名前と形は、意識の大海のはかない波にすぎず、ただ意識だけが存
 在するのだ。
 意識のかぎりない広がりのなかに、ひとつの光が現れる。
 小さな点は急速に動き、紙の上にペンで形を描くように思考、感情、概念、
 観念を描きだす。
 その描きだすインクが記憶だ。
 あなたはその小さな点であり、あなたの動きによって世界はつねに再創造さ
 れていくのだ。
 動くのをやめなさい。
 すると世界はなくなるだろう。
 内側を見なさい。
 すると身体のなかの広大な光の反映は、「私は在る」という感覚としての小
 さな光の点だと見いだすだろう。
 ただ光だけがあり、それ以外のすべては現れにすぎないのだ。
 質問者 あなたはその光を知っているのでしょうか? それを見たのでしょ
     うか?
 マハラジ
 マインドにとってそれは暗闇として現れる。
 それはその反映を通してだけ知ることができる。
 日の光以外はすべて日の光のなかで見られるのだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

323避難民のマジレスさん:2019/02/18(月) 21:03:47 ID:LC3de7YgO
>>322
γ⌒:"-ヽ〟
(∪(   )
∪∪∨-∨
最初から3分の1くらいのところ、
> 質問者 それでは、あなたはどこに住んでいるというのでしょうか?

から最後まで、マハラジのI AM THATの文章を挿入してしまいました。
ごめんなさい。

324鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/18(月) 22:15:40 ID:1d4drIFg0
マハラジも光について語るのじゃ。
シンクロニシティじゃな。

プラーナや光を通じて人は全てと繋がっているのじゃ。
音も光も一つのものであるから互いに影響し合うのじゃ。
それを感じれば孤独も不安も幻想であったと気付くのじゃ。
個我の幻想が去れば孤独や不安の幻想も存在できないからなのじゃ。

325避難民のマジレスさん:2019/02/18(月) 22:22:36 ID:LC3de7YgO
>>324
うむ。不思議とシンクロしてるでありますね。
(´・(∀)・`)つ

326避難民のマジレスさん:2019/02/18(月) 22:33:04 ID:LC3de7YgO
>>322
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

女性のほうが男性よりも簡単に明け渡し、簡単に理解する。
男は論理的な明晰さ、論理的な説得力を求める。
女は他のものを、心地よいリズムに富んだ説得力を求める。
女性は直感的に耳を傾ける。
女性はそれを言っている人の波動を感じる。
女性の関心は何が語られているかではなく、誰が語っているか、どのように語
っているか、それがどこから生まれてきたかのほうにあるようだ。
女性のほうが深くまで進み、そのまさに精神をつかむ。
男はいつまでも文字に気をとられる。
そして書物の形で誰もが新聞や経典を入手できるようになったために、大きな
変化が起こった。
もともと教えというものは師の口から直接聴くより他にすべがなかった。
それらは口語で伝えられたので、それを受け止める中枢は耳にあった。
今では書物が手に入る。
クリシュナがアルジュナに語り、アルジュナがそれを聴いていたとき、彼は耳
を働かせていた。
大いなる理解が起こり、彼は変容を遂げた。
だが、アルジュナは女性のように耳を使っていた。
今では、あなたは「ギータ」を読む。
読むというのは目を使うということだ。
そして目は理解のことなど気にかけない。
目は論理的な明晰さを求める。
目はまったく違う姿勢でことに当たる。
何世紀にもわたって、世界中のあらゆる宗教が「教えを文字に書き記してはな
らない」と主張してきた。
それには理由があった。
ひとたび書き記されると、質がそっくり変わってしまうからだ。
ひとたび書き記されると、目が重要になり、耳は軽視されるようになる。
私に耳を傾けるのと、私の言葉を読むのとではまったく違う。
本を読むときには、あなたは男性的な精神マインドを働かせている。
耳を傾けるときには、あなたは女性的な精神を働かせている。

坐るときには、瞼まぶたを下げて、下げ振りをつるすように 視線を定め、光を
下方に向ける。
しかし、下にうまく注意を 向けられないときには、呼吸に耳を傾けるようにこ
ころハート を導く。
出入りする息の音が聞こえるようではいけない。
聞こえるのは乱れた息である。
息が乱れると、たちまち呼吸は 荒く、うわついたものになり、伸びやかに広が
ってゆかない。
こころをひじょうに軽やかで微細な状態にしなければならない。
枷かせを解かれれば解かれるほど、こころの働きは微かすかになり、微かにな
ればなるほど、こころは静かになってゆく。
だから呼吸に耳を澄ませなさい。
音が聞こえるのは、息が荒いということだ。
乱れているのは、息が荒いということだ。
感じるだけで音がしなければ、呼吸は
穏やかで静かになっている。
それが<存在>と調和し、自分自身と調和し、実在と調和する正しい方法だ。
呼吸が静かになればなるほど、あなたはさらに深みへと入ってゆく。
ときどき呼吸が止まると……呼吸は実際に止まることがある!
それはここで多くのサニヤシンに起こっている。
彼らは私に知らせにやって来る。
なぜなら、彼らはひどくおびえてしまっているからだ。
呼吸が止まると、自分は死んでしまうという考えが脳裏をよぎる。
先日、サグナが質問をした。
彼は死んでゆくような気分になったという。
彼はおびえてしまった。
おびえてはいけない。呼吸が止まったら、そのままにして、それを楽しみなさ
い。
あなたは死んだりはしない。
そのまさに呼吸が止まることで、あなたは実在の真の姿を知るだろう。
永遠の生を知るだろう、死を知らないものを知るだろう。

不意にこころは限りなく静かになって、動きを止める。
そうなったら 真の呼吸が出現し、こころの真の姿が意識されるに到ったのであ
る。
そのままにしておくことができれば……。
だから私はサグナに言った。
「サグナ、馬鹿だね。君は取り逃がしてしまった!今度それが起こったら、取
り逃がさないように」
呼吸が止まれば、真の呼吸が出現し、真の生命が現れる。
呼吸に依存しない生命、永遠の生命、肉体の一部ではなく、肉体が崩れ、塵ち
りとなって消えた後にも残る生命が。
そしてその瞬間に、意識が達成される。
人はブッダになる。
ブッダとは完全に意識的になった、目覚めた人のことだ。

こころハートが軽やかであれば、息も軽やかになる。
それはこころの あらゆる働きが気(呼吸エネルギー)に影響を与えるからだ。
息が軽やかであれば、こころも軽やかになる。
それは気のあらゆる 動きがこころに影響を与えるからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

327避難民のマジレスさん:2019/02/19(火) 19:38:29 ID:LC3de7YgO
>>326
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

こころを安定させるには気を養うことからはじめなければならない。
こころに直接働きかける ことはできないからだ。
それゆえに手がかりとして調息法を用いる。
これが「気の力を集中して保持する方法」と呼ばれているものだ。
弟子たちよ、おまえたちは"動き"の本性を理解していないようだ。
動きは外界の事物によっても引き起こされる。
それは支配される ということに他ならない。
坐るだけでこころが揺れ動くなら、 身動きしないことによってそれを鎮めるこ
とはできないだろうか?
こころと気が相互に影響し合うことを知った偉大な聖者たちは、 後世の人々に
役立つよう、より簡易な方法を考案したのである。
あなたはそれを知っている。
走れば、息は激しく乱れ、どんどん速くなってゆく。
ヨーガの各種の体位はそのためにある―例えば完全な蓮華座。
背筋をまっすぐ伸ばして坐り、完全に沈黙して、大理石の彫像になってしまっ
たかのように、不動の姿勢を保つ。
それはランニングとはまったく逆の姿勢だ。
これは呼吸を静めるための外的な手段にすぎない。
走ることで呼吸を速めることができるなら、仏像とそっくりな姿勢で坐ること
で、それを鎮静させることもできるはずだ。
身動きせず、仏像のように坐っていれば、確かに呼吸はだんだんゆるやかにな
ってゆき……やがて止まる。
最初はほんの一瞬にすぎない。
心臓発作ハートアタックか何かに襲われたのではないかと恐れる必要はない。
それは神の到来ゴッド・アタックだ。

「鶏が卵をかえすことができるのは、そのこころハートがつねに 耳を澄ませて
いるからだ」これは不思議な力をもつ重要な言葉である。
鶏は熱の力によってその卵をかえす。
だが熱の力は殻を暖めるだけ であり、中まで浸透することができない。
そこで鶏は こころを用いてこのエネルギーを内部に導き入れる。
鶏は耳を澄ますことによってこれを行なう。
そのようにしてこころを一心に集中させる。
こころが浸透すれば、気も浸透し、ひなは熱の力を受けて、生命を得る。
それゆえに鶏は、卵から離れるときでさえ、つねに耳をそばだてて 聴く態勢を
取っている。
このようにして精神の集中は途切れることがない。
これは鶏だけでなく、すべての女性、すべての母親、人間の母親にすら当ては
まることだ。雷をともなう激しい嵐がやってきても、彼女には聞こえず、彼女
が眠りから覚めることはない。
だが、子供が泣きだしたり、身動きをはじめたりするとそれだけで、耳が絶え
ず子供に焦点を合わせていたかのように、彼女は即座に目を覚ます。
汽車が通りすぎても彼女は目を覚まさない。
飛行機が通りすぎても彼女は目を覚まさない。
だが、子供が少しでもそわそわしだすと、彼女はただちに耳をそばだてる。
彼女は全身耳となって子供に耳を傾けている。
彼女は耳を通して子供とこころハートとこころハートで結ばれている。
まるで子供の心臓ハートの鼓動そのものを聞くことができるかのように、彼女
は絶えず耳を澄ましている。
これはすべての瞑想者がみずからの鼓動を聞くことができるほど深く耳と結び
つく方法だ。
最初のうちは、呼吸を聞くことができるのは息がひどく乱れているからだ。
だが、あなたが聴いて、聴いて、聴きつつ゛けるならば、その聴こうとする努
力そのものが呼吸をさらに静かにさせてゆく。
そしてその傾聴が深まり、聴くこつがわかり、いかに醒めているかがわかると
、すべての音色、すべての音が消え、呼吸が止まる瞬間がくる。
それは歓喜、洞察、悟り、サマーディの大いなる瞬間だ。

精神の集中が途切れないために、熱の力は昼夜 絶えることなく、精神はいきい
きと目覚める。
精神の目覚めは、こころハートが死ぬことによって はじめて達成される。
瞑想中に突然、心臓が止まりそうに感じても、心臓発作だと勘違いしてはいけ
ないと私が言ったのはそのためだ。
呼吸が止まると、心臓が止まりそうな感じがする。
それは死ではない。あなたの真のこころハートが誕生しようとしているのだ。

こころを死なせることができれば、 原初の精神はいきいきと目覚める。
こころを死に到らしめるというのは、 それを枯渇させ、しぼませてしまうこ
とではなく、 こころが分断されずにひとつにまとまる という意味である。
これが黄金の華の秘密だ。
こころが死ぬことができれば、花が開く。
今あるあなたとして死になさい。
そうすれば再誕生することができる。
イエスは言う。
「再び生まれないかぎり、人が神の王国に入ることはない」
(´・(ェ)・`)
(おわり)

328鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/19(火) 23:02:48 ID:1d4drIFg0
>>325 そうじゃ、全ては繋がっているのじゃ。
 マハラジもオショーなのじゃ。

サマーディに入ると呼吸は止まるのじゃ。
日常でも強く集中しなくてはならない時には呼吸を止めるじゃろう。
それが無意識のうちに起こるのがサマーディなのじゃ。
それが始まると恐れてしまう者もいるじゃろう。
知識があれば恐れずに進むことも出来るのじゃ。

329避難民のマジレスさん:2019/02/20(水) 00:01:55 ID:LC3de7YgO
>>327
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服1
 より抜粋

呂祖師は言った。
昏沈こんちんと散乱という二つの誤りは、静かな行を 中断せずに毎日続けるこ
とによって克服しなければならない。
そうすれば確実に成果が現れるであろう。
静座して瞑想しなければ、しばしば散乱していてもそれに気つ゛かない。
散乱に意識を向けることにより、おのずと散乱を取り除くことができる。
昏沈に意識を向けるのと、昏沈に無意識であるのとでは実に大きな 違いがある。
昏沈に無意識であることが真の昏沈である。
意識されている昏沈は完全な昏沈ではない。
そこにはなおいくばくかの明晰さがあるからだ。
散乱は想念マインドをさまようままに放置することから起こり、 昏沈は想念が
まだ清らかでないことから起こる。
散乱は昏沈よりもずっと容易に直すことができる。
病気に例えてみれば、痛みやかゆみを感じている場合には それを治療する薬が
あるが、昏沈は感覚を失ってしまう病気に似ている。
散乱は鎮めることができるし、混乱は整えることができる。
だが昏沈や無気力な状態は重くて暗い。
散乱や混乱にはまだ一定の場所があるが、 昏沈や無気力な状態ではただ魄アニ
マのみが活動している。
散乱の場合にはまだ魂アニムスが存在しているが、 昏沈の場合にはまったき闇
が支配している。
瞑想中に眠気をもよおすならば、昏沈の影響を受けている。
昏沈の克服に役立つのは呼吸だけである。
鼻から出入りする息は真の呼吸ではないが、 真の呼吸の出入りはこれと結びつ
いて起こる。
それゆえに、坐るときにはつねにこころハートを静かに保ち、 気エネルギーを
集中させなければならない。
こころを静めるにはどうすればよいか?
呼吸によってである。
息の出入りをこころが意識していれば いいのであり、耳に聞こえてはならない。
耳に聞こえなければ、息は軽く、軽ければ、純粋である。
耳に聞こえるようなら、気息は荒く、荒ければ、濁っている。
濁っていれば、昏沈と無気力な状態が生じ、眠気に誘われる。
これは自明の理である。
呼吸するとき、こころハートをいかに正しく使うか を理解しなければならない。
それはこころをを用いない用い方である。
聴くことに微かすかに光を当てるだけでいい。
この句には秘められた意味がある。
光を当てるとはどういうことか?
それは目の光がもつ自然に照らしだす働きのことだ。
目は内側を見るだけで、外界を見るわけではない。
外を見ることなく明るさを感じていることが 内側を見るということであり、内
側を実際に見るということではない。
聴くとはどういうことか?
それは耳の光がもつ自然に聴く働きのことだ。
耳は内側を聴くだけで、外界の音を聴くわけではない。
外界の音を聴くことなく明るさを感じていることが 内側を聴くということであ
り、内側の音を実際に聴くということではない。
したがってこの場合、聴くというのは無音の状態を聴くだけであり、 見るとい
うのはそこに何の形もないのを見るだけである。
目が外界を見ず、耳が外界の音を聞かなければ、それらは おのずと閉じて内界
に沈んでゆきがちである。
内側を見、内側に耳を傾けるときにのみ、 感覚器官は外に向かうこともなく、
内に沈み込むこともない。
このようにして昏沈と無気力な状態を取り除くことができる。
これが、太陽と月がその精と光を結合させることである。
昏沈に襲われて眠気をもよおしたなら、 立ちあがって歩きまわるがいい。
頭がすっきりしてきたら、坐りなおす。
やがて修行の成果が現れてきて、 昏沈や眠りに陥ることはなくなるだろう。
ある暑い昼下がりのことだ。
一匹のフクロウが樹にとまっていると、白鳥が飛んできて一緒にとまった。
「ふうっ、暑いねえ、フクロウさん」
と白鳥は言った。
「太陽が照っているので、暑くて汗びっしょりだ」
「何だって?」とフクロウが言った。
「君は何を言っているんだい?太陽だって?暑いだって?闇が深まれば暑くな
るのさ。君の言う太陽とやらはいったい何のことだ?君は頭が変にでもなって
しまったのかい?君は私に何を言いたいんだ?太陽なんてものはありゃしない
。あったためしがない。その熱を発する光とやらはいったい何のことだ?そん
なものなど聞いたことがない。闇が深まれば暑くなるに決まってるじゃないか
。私を馬鹿にしようとしているのかい?私ひとりが言ってるんじゃないよ。私
たちのどの経典にもそう書いてあるんだ」
白鳥は唖然として、「この盲目の老いたフクロウにどうやって説明すればいい
のだろう?」と考え込んだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

330鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/20(水) 23:27:05 ID:1d4drIFg0
昏沈と散乱は陰陽のどちらかに偏りすぎたために起こるというのじゃ。
陽気に傾きすぎれば散乱し、陰気に傾きすぎれば昏沈するのじゃ。
それを防ぐには日々の精進とあまり凝視しすぎないことというのじゃ。
耳を僅かに傾けるような返聴法ならば陰陽どちらにも偏らずに実践できるというのじゃ。
それが陰陽合一の法というのじゃ。

331避難民のマジレスさん:2019/02/21(木) 07:03:29 ID:LC3de7YgO
>>329
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき)
 より抜粋

「いいかい、兄弟。俺はこの目で見ることができるんだ。今は真昼で、太陽が
照りつけているから、とても暑いんだ。なのに君は暗いと言う。どうすれば説
明できるんだろう?」
フクロウは言った。
「じゃあ、あの大木のととこへ行こうじゃないか。あそこにはフクロウがたく
さんいるし、偉い学者さんもいる。彼らに聞こうじゃないか―彼らは経典に精
通しているし、ものをよく知っている連中もいる。さあ、行こう!君が私を馬
鹿にしているのかどうか今にわかるさ」
彼らは飛んでいった。そこは盲目のフクロウでにぎわっていた。
「この白鳥がやって来て」とフクロウは言った。
「今は真昼で、 太陽が照りつけていて、至るところに光があるから暑いんだと
言うんだ。みんなはどう思う?」
「何を言っているんだ」
とフクロウたちは言った。
「俺たちの村では 、親父もその親父もそのまた親父も、誰ひとり太陽なんて見
た者 などいないし、記録にも残っていない。だから、太陽なんてものは ないん
だ。そんなものあるはずがない。あいつはおまえをかついで いるだけだ。あい
つに耳を貸してはいけない。あいつは狂っているか 、大ぼら吹きか、そのどち
らかだ。あいつは俺たちの宗教をつぶそう としているんだ。俺たちはいつも暗
闇のなかに住み、いつも暗闇を 崇拝してきた。闇は俺たちの生き方の土台その
ものだ。あいつは 俺たちの生き方を壊してしまう。あいつはそういうやつなん
だ。 お望みなら、多数決で決めてもいい」
あるフクロウが顔をあげて言った。
「どちらが真実なのだろう? 存在するのは闇だろうか?それとも光だろうか?」
「闇だ、闇だけが存在する」
とフクロウたちはいっせいに叫んだ。
「では、どうしてこんなに暑いのだろう?」
「闇が深いからだ」
と フクロウたちは叫んだ。
「熱は闇の作用なのだ」
「やつをここに置いておくわけにはゆかない」
とフクロウたちは 再び叫んだ。
「やつは我々の宗教、伝統、我々が大切にしてきた 過去そのものをだいなしに
してしまう。ただちにやつを追放しろ! あいつは目がつぶれているか、完全に
いかれている」
この小さな寓話には、たいへん価値のあるいくつかの真理が含まれている。
まず、真理は伝達することができない―真理を伝える方法はない 。
私の真理は私の真理だ。
それを語ることはできるが、語ること で真理が伝わるわけではない。
それに耳を傾けることは理解する ことではない。
あなたは自分自身の目を開かなければならない。
真の師マスターの役割は、「神は存在する」と語ることでは ない。
それはあなたが目を開き、魂の窓を開くのを助け、目 が見えるようになり、
「神」という言葉が意味するものを みずからの血と骨と髄に体現できるように
させることにある。
あなたの代わりにこの目で見ることはできない。
あなたの代わりにこの足で歩くことはできない。
あなたの代わりにこの翼で飛ぶことはできない。
あなたはみずからの生を生き、 みずからの死を死ななければならない。
これはつねに覚えておくべき 最も基本的なことがらのひとつだ。
さもなければ、人は借り物の知識 という重荷を背負うはめになる。
それは知識とはまったく無縁な贋にせのコインにすぎないが、知識に似ている
ので、あなたがたは だまされてしまう。
人類に起こっていることはそれだ。
人類は借り物の知識の呪いのもとで生きている。
人々は『聖書』『コーラン』『ギータ』を鸚鵡おうむのように唱えている ―盲
目の老いぼれフクロウが『コーラン』『ギータ』『聖書』を唱えている。
だが、それは彼ら自身が体験したものではない。
彼ら自身が体験しているのはまったく逆のことだ。
彼ら自身の体験は『ギータ』『聖書』『ヴェーダ』『法華経ダンマパダ』 の真
理をひたすら否定するものでしかない。
彼らの本音はこうだ―
「仏陀は狂っている」、
「イエスは人をだましている」、
「ソクラテスはひじょうに賢いかもしれないが、用心しなければならない。
彼に耳を傾けてはならない。彼は我々の宗教をつぶしてしまう」
(´・(ェ)・`)
(つづく)

332避難民のマジレスさん:2019/02/21(木) 20:17:26 ID:LC3de7YgO
>>331
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき)
 より抜粋

人間は盲目のまま宗教をつくりあげてきた。
しかもひとつではなく無数の宗教を。
盲目の目には<一なるもの>が見えないからだ。
盲目の目は多くのものを信じることしかできない。
それゆえにこれほど多くの宗教がある―この小さな地球に三百前後の宗教がある
― そしてそれぞれの宗教がこう主張している。
「私の真理が唯一の真理だ」、
「私の 神が唯一の神だ」、
「他の神はすべて偽物だ」、
「他の真理はすべてでっちあげだ」 、
「他の道はすべて荒野に行き着くだけだ―私の道だけが天国に通じている」
この三百の宗教は絶えず闘い合っている。
どの宗教も現実に気つ゛いて いない。
どの宗教も現実を真正面からのぞいていない。
彼らは信じている。
これらの宗教は宗教ではなく形骸化した伝統だ。
彼らは耳で聞き―いつの時代 にも耳で聞き―そして信じてきた。
信じることは安易であり、探索することには 危険がともなうからだ。
鸚鵡おうむのようにくり返すことは何の苦もない。
冒険に満ちた発見の旅にでかけるためには生命を賭けなければ ならない。
それは危険だ。
探索することは危険だ。
信じることは、 手軽で、慰めになる。
あなたはどこにも赴かなくてすむ。
それは 既製品としてあなたに与えられる。
だが、それには手垢がついている。
そして手垢にまみれた神とともに生きる人間は悲惨だ。
神は新しいものでしかありえないからだ。
体験はどこまでもあなた自身のものでなければならない。
他人の体験は真実の生の基盤となりえない。
仏陀は見たかもしれないが、仏教徒になることは助け にならない。
仏陀は仏教徒ではなかった―それは確かだ。
イエスは見て、直面し、了解したかもしれないが、キリスト 教徒になることは
まったく愚かしい。
キリストにならないかぎり 、けっして神を知ることはない。
真に宗教的な人は形骸化した伝統を避ける。
真に宗教的な人は手垢にまみれた神を避ける。
信仰を避け、自分を開いたままにして、 いつ真理が立ち現れても応じる姿勢
でいる。
もちろん彼は働きかける―働きかけるのは宗教的な人だけだ ―信者たちはけっ
して自分に働きかけたりしない。
信者たちは自分に働きかける必要がない。
真理を探索し、探求し、探し求める者は自分自身に懸命に働きかける。
なぜなら、落とさなければならないものがたくさんあるからだ。
落とさなければならない不純なものがたくさんあるし、 溶かさねばならない障
害物や障壁がたくさんあるからだ。
目を開けて、耳をふさいでいるものをはずし、 ハートの感受性を取りもどさな
ければならない。
人は存在とリズムを合わせなければならない。
<存在>と完全にリズムが合っていれば、 目が開いて、そこではじめて見る こ
とができるようになる。
その見ることが変容になる。
その見ることがあなたを根こそぎ変える。
その見ることが新しい洞察力、新しい生命、 新しいもののとらえ方になる。
あなたは もはや肉体に閉じ込められてはいない。
もはや想念に閉じ込められてはいない。
もはや何にも閉じ込められてはいない。
あなたは解き放たれていて、無限であり、永遠だ。
そしてあなたのなかを流れるこの永遠を感じる ことが、神を知ることだ。
永遠の過去と永遠の未来へと延び広がっている この無限を見ることが神を見る
ことだ。
あなたの実存のなかに宿る神性を感じる ことが、神を知ることだ。
これは手垢にまみれることがない。
キリスト教徒やヒンドゥー教徒やジャイナ教徒やイスラム教徒を見る と、そこ
には手垢にまみれた人々がいる。
あなたは街で履きふるされた 靴など買いたくない。
街で他人が使った古着など買いたくない。
だったらなぜ魂のために手垢のついた信仰を、使い古され、 ぼろぼろになって
いる、汚く醜い中古の靴や着物を買うのだろう。
そして自分の人生を美しく飾ったつもりになるなんて。
あなたは自分の魂を侮辱している。
あなたは自分自身の人間性をおとしめている。
キリスト教徒になったり、仏教徒になることは、 自分自身の人間性をおとしめ
ることだ。
探求は独りで行なうべきものだ。
探求はどこまでも個的なものでなければならない。
多数決によって真理を決めるわけにはゆかない。
真理はどこまでも個的であり、かつ私的なものだからだ。
それは客観的な現象ではない。
あなたは私の肉体を見ることができる。それは客観的な現象だ。
私の肉体が存在するかどうかを他人は簡単に判別することができる。
だが、私が光明を得ているか どうかを他人が判別することはできない ―まし
てや多数決で決めることなどできない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

333避難民のマジレスさん:2019/02/22(金) 07:11:13 ID:LC3de7YgO
>>332
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき)
 より抜粋

覚者ブッダが覚者ブッダなのは、彼が覚者 であることを人々が多数決で決めた
からではない。
彼が覚者なのは、誰のものでもない彼みずからの宣言によるものだ。
彼の他には誰も証人はいない。それはまったく私的なことだ。
あまりに内面的なことなので、誰もそこまで立ち入ることができない。
真理は多数決では決められない。
だが、人々はそのようにして決めている。
宗教が信者を増やすことに熱中するのはそのためだ。
信者の数が多ければ多いほど、真理を多く手にしていること になるからだ。
キリスト教徒のほうがジャイナ教徒よりも多くの真理を手に していると主張で
きるのは、彼らの背後に大群衆がひかえているからだ。
投票をすれば、キリスト教徒が勝って、ジャイナ教徒が負けるだろう。
だが、それは投票で決まる問題ではない。
千匹のフクロウが投票で 「世界には闇しかない。太陽は存在せず、光も存在し
たことがない」 と決めたとしても、嘘が嘘であることに変わりはない。
1羽の白鳥が「昼だ」と宣言すればそれで充分だ。
真理は民主的なやり方で決められるものではない。それは群集とは何の関係も
ない。
カトリックは産児制限に反対しているし、イスラム教徒も産児制限に反対して
いるが、そこには単純な理由、政治的な理由がある。
その理由というのは、もし産児制限 が認められたら、信者の数が減りはじめる
からだ。
そして彼らの力はひとえにそこに かかっている。
彼らはいつか世界にこう証明できるよう、信者の数を増やしたいのだ。
「見ろ、こんなにたくさんの人々が我々についているのだから、 真理は我々の
もとにあるにちがいない」
ジョージ・バーナード・ショウの有名な言葉を覚えているだろうか。
彼と論争していたある男が言った。
「でも、こんなにたくさんの人が私の言葉を 信じてるんですよ。これだけ大勢
の人たちが間違うはずがないじゃないですか」
するとバーナード・ショウはこう言い返した。
「こんなに大勢の人たちが信じているのだったら、間違っているに ちがいない。
これだけたくさんの人たちが正しいなんてことがありえるかね?」
これだけたくさんの人たちが正しいなんてことがありえるかね?
(p274)
群集は盲目だ。
群集は光明を得ていない。
真理はつねに少数派の手にある。
仏陀が現れるとき、彼は独りだ。
イエスがエルサレムを歩くとき、彼は独りだ。
ソクラテスが闘うとき、彼は独りだ。
確かに、少数の探求者たちがソクラテスのまわりに 集まってきて、ある学派が
生まれるが、その学派は少数派だ。
そしてソクラテスと行動をともにするには勇気がいる。ガッツがいる。
なぜなら、彼はあなたを慰めるためにいるわけではないからだ。
彼は慰めになるものを一掃してしまう。
あなたの 幻想をこなごなに打ち砕いてしまう。
なぜなら、それが あなたに真理をもたらす唯一の方法だからだ。
彼はあなたの目を無理やり開かせる。
彼はあなたを眠りにつかせるための子守唄など歌わない。
彼はあなたを目覚めさせるために屋根の上から大声で叫ぶ。
彼はあなたにショックを与え、あなたを叩く。
先日、プラディーパが私に会いにやって来た。
彼女は泣いていた ―私が深い衝撃を与えたのだから無理もない。
彼女は、ある日、 不意にハンマーで頭を殴られるなどとは夢にも思っていなか
った。
そして自分が私の吐き気の原因であったことにもこころハートを 痛めていた。
彼女は私にこころを寄せて、みんなと同じように私を 愛しているからだ。
こういったすべての理由で彼女は泣いていた。
だが、私はあなたがたに、とりわけプラディーパに言わなければ ならない。
私が強く打つときには感謝するべきだ、と。
なぜなら、 打つに値すると見ないかぎり、あなたを強く打つことはないからだ。
私は相手かまわず打ちはしない。
私が打つのは、誰かが 本当に成長していると見なしたときだけだ。
あなたが成長 すればするほど、より多くのことが求められるようになる。
私はみんなに肉食を落とせと言ったわけではない。
だが、私は プラディーパが深い衝撃を受けて肉食を落とすような言い方を した。
彼女の意識が成長しているので、今や肉食は障害になっている。
高く舞いあがっていない者たち― 彼らは好きなだけ重荷を担いでもいい。
だが、高く舞いあがりはじめた者たち― 彼らは不用な荷物をすべて落とさな
ければならない。
あなたのエネルギーの純度が高まれば高まるほど、 もっとそのことに注意深く
ならなければいけない。
なぜなら、貴重なものが失われてしまうかもしれないからだ。
その貴重なエネルギーをつくりだすのは実にたいへん だが、なくしてしまうの
はごく簡単だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

334鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/22(金) 23:00:15 ID:1d4drIFg0
真の宗教とは信じる者が自ら探求することを要求するのじゃ。
アートマンは知識ではなく実践し、探求すべきものとヴェーダにも記されているのじゃ。
お釈迦様も修行者に怠けている者は死んでいるのと同じであり、精進する者だけが生きているとまで言うのじゃ。
神も本の中の聖人による知識ではなく自ら探求して見出されるべきものなのじゃ。

335避難民のマジレスさん:2019/02/23(土) 00:38:33 ID:LC3de7YgO
>>333
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき)
 より抜粋

失うものが何もない者たち―彼らは悩まなくてもいい。
彼らはあらゆる種類の愚行をやりつつ゛けてゆけばいい。
彼らの全存在はそうした愚行とぴったり波長が合っている。
このことはひとりひとりが覚えておかなければならない。
あなたがたが成長してゆくにつれて、私はもっともっと 多くのことをあなたが
たに求めるようになるだろう。
美しい物語がある…… インドには偉大な画家、最も偉大な画家のひとりである
ナンダラル・ボースという天才がいた。
彼はもうひとりの天才、 アヴィニンドラナート・タゴールの弟子だった。
アヴィニンドラナート・タゴールは、ラヴィンドラナート・タゴール の叔父だ
った。
ある日の早朝、アヴィニンドラナートとラヴィンドラナート は一緒に坐り、お
茶を飲みながら、あれこれのことを語り合っていた。
そこへナンダラルがクリシュナの絵をもって来た。
ラヴィンドラナートは追想録のなかでこう書いている。
「これほど美しいクリシュナの絵は見たことがなかった―今にも 絵のなかから
飛び出してきそうなほどいきいきとしていた―今にも フルートから笛の音がこ
ぼれてきそうだった。私は茫然とした」
その絵を見たアヴィニンドラナートは、それを家の外に放り出し、 ナンダラル
に言った。
「こんなクリシュナの描き方があるものか。 ベンガルの下手な画家だってもっ
とうまく描く」
ラヴィンドラナートはひどいショックを受けた。
ラヴィンドラナートは 叔父の絵も知っていた。
叔父もまた生涯にわたりクリシュナを描いていた。
ラヴィンドラナートは、ナンダラルの絵と比べれば叔父の絵など足もと にも及
ばないと確信していた。
ナンダラルの絵のほうがはるかに優れていた。
だが、彼は黙っていた。師と弟子の あいだに口をはさむのはよくないことだ
った。
ナンダラルはアヴィニンドラナートの足に触れて 、出ていったまま、三年間、
姿を現さなかった。
ラヴィンドラナートは何度もアヴィニンドラナートに尋ねた。
「かわいそうに、あの男に何をしたんです? -彼の絵のほうが優れていたの
に!」
するとアヴィニンドラナートは泣きながら言った。
「おまえの言う通りだ。彼の絵のほうが優れている。私は あんなにすばらしい
作品を一度もつくりだすことができなかった」
ナンダラルがいなくなると、アヴィニンドラナートはその絵 を取りに行き、そ
れをいつも部屋に飾っていた。
「だったら、なぜ」とラヴィンドラナートは尋ねた。
「あなたはあんな無慈悲な振る舞いをしたのですか?」
アヴィニンドラナートは言った。
「私はまだあれ以上のものを 彼に期待しているからだ。彼が美しい絵を描くか
どうかが問題 ではない。これは始まりにすぎない。彼はもっと大きな力を 秘め
ている。私はもっとたくさんのことを彼に求めるつもりだ」
そしてナンダラルは三年間ベンガルの村々をさまよった。
師に 「村の画家だってもっとましなクリシュナの絵を描くぞ」と言われた から
だ。
彼は村の画家、ふつうの貧しい画家について習った。
三年間、 彼はベンガルをさまよい、あらゆる地方を訪ねた。
そして、 ある日のこと、彼は姿を現し、師の足に触れて言った。
「あなたのおっしゃった通りでした。 私はたくさんのことを学びました。 よ
く私の絵を投げ捨ててくださいました」
アヴィニンドラナートは彼を抱きしめて言った。
「待っていたよ。歳を取るにつれ、おまえは帰ってくるだろうか と不安になっ
ていた。私は幸せだ。おまえの絵はみごとだったが、 おまえにはもっと大きな
力が秘められている」
あなたのなかにもっと大きな力が秘められて いるのを見たら、私はすかさずあ
なたを打ちすえる。
あなたがたが私とともにここにいる、私があなたがたと ともにここにいる理由
はただそこにある。
あなたのなかで眠っているものがすべて上昇し はじめられるように、高く舞い
あがれるように、 私はあなたがたを根底からかき立てなければならない。
あなたは自分の潜在力に気つ゛いていないが、私は知って いる。
だから、私が要求をしたらいつも、感謝するがいい。
あなたはこれを聞いたら驚くだろう―禅院では、 師が誰かの頭を棒で叩くたび
に、叩かれた僧は 七度おじぎをして、師の足に触れ、感謝を表す。
そして弟子はその叩かれる瞬間を待っている。
師がわざわざ棒で頭を打ってくれるその 至福に満ちた瞬間が来ることを願う。
いいかね、ここは錬金術の学院アカデミーだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

336鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/23(土) 23:01:27 ID:1d4drIFg0
誰でも真の悟りに達する力はあるものじゃ。
自分自身でそれが出来ないと思えば出来ないのじゃ。
師匠の役目はその力に気付かせることもあるのじゃ。
全ての者に悟りに至る力は在るのじゃ。

337避難民のマジレスさん:2019/02/24(日) 00:39:53 ID:LC3de7YgO
>>335
30黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服2
 より抜粋

あなたがたはただもてなしを受けるためでは なく、変容を遂げるためにここに
いる。
そして変容は苦痛に満ちている。
なぜなら、古いものをたくさん落とさなければならないからだ。
その古いものは簡単に脱げる着物のようなものではない― それは皮膚と化して
いる。
皮膚をはがされたら痛い。
だが、あなたを正気に連れもどすにはそうするより他にない。
あなたの緩衝器を破壊するにはそうするより他にない。
あなたを覆い、拘束している鎧よろいを打ち壊すには そうするより他にない。
徐々に徐々に、あなた自身のエネルギーが起こりはじめ、 あなたの目が開き、
あなたの耳が聞こえるようになる。
そうなったら神は直接の体験になる。
つねに覚えておきなさい。 神の直接体験のみが真の体験となる。
それは多数派が決めるものではない。
それは伝統が決めるものではない。
それを決めるのは神と遭遇したみずからのエネルギーだけだ。
白鳥は狂っているとフクロウが考えても少しもおかしくない。
人々はいつもそのように考えてきた―仏陀も狂い、マホメット も狂い、ツァラ
ツストラも狂っている、と。
自分たちに見えない ものを、どうして信じることができるだろう?
フクロウが白鳥を追い出し、追放しても少しもおかしくない。
彼らは怖くなり、動揺してしまった。
この白鳥がこの樹の上で 暮らすことを認めたら、フクロウの伝統はつぶされて
しまう。
白鳥はフクロウの生き方を壊してしまう。
フクロウたちはいつも暗闇のなかで生きてきたので、いつも暗闇を信じている。
暗闇が彼らの神だ。
彼らの儀式はすべて暗闇から生まれたものだ。
フクロウの 聖職者たちは暗闇を讃え、学のあるフクロウたちは暗闇に関する大
論文を書く。
彼らの哲学には太陽や光や昼の出る幕がない。
そこにこの狂った白鳥が現れて 、異様な考えをフクロウの世界に密かにもち込み、
吹き込もうとする。
フクロウ社会の構造全体が崩れてしまう。
イエスが十字架にかけられたのはそのためだ。
人々が私にひどく反発しているのはそのためだ。
私はあなたがたに新しい光景ゲシュタルト、新しいパターン、 新しい生き方、
実在への新しい参入の仕方を授けようとしている。
当然、古い生活様式に大量のもとでをかけてきた者たちは腹を立てる。
狂ったように腹を立てるだろう。
彼らは自分たちの世界から私を追放したい ―彼らはまさにそれをやろうとして
いる。
それはまったく自然で、単純なことだ。
ひとたびそれを理解したら、あなたは笑いはじめるだろう。
人はどのようにして、またなぜ神の存在を信じつつ゛けているのだろう?
人はどのようにして、またなぜ魂の存在を信じつつ゛けることができるのだろ
う?
フクロウたちと同じ理由からだ……「俺たちの村では、親父もその親父 もその
また親父も、だれひとり太陽を見たことがない。だから太陽なんて ものはない
んだ。あいつはおまえをかついでいるだけだ。あいつに耳を 貸してはいけない
。あいつは俺たちの宗教をつぶそうとしているんだ」
あなたは父親から「神は存在する。神はキリスト教を伝えた」 とか「神はヒン
ドゥー教を伝えた」と聞かされたことがあるだろう。
父親もまたその父親から聞かされ、それが延々とつつ゛いてきた。
うわさ話、ゴシップだ。父親も知らなければ、あなたも知らない。
勇気を奮い起こし、借り物の知識はすべて落としてしまいなさい。
サニヤシンに最初から求められるのはこれだ―そしてこれは 真理を科学的に探
索してゆくに当たり、最初に求められることでもある。
先入観をすべて落とすこと。
先験的アプリオリな概念をすべて落とすこと。
あたかもそれ以前には伝統などなかったかのように、 経典などなかったかのよ
うに、まるでアダムやイヴのように、 最初から、最初の第一歩から、ABCからは
じめること。
D・H・ローレンスはこう言っている―私は彼にまったく同意する―
「世界中の経典がすべてなくなってしまったら、人間は宗教的になるかもしれ
ない」
あらゆる伝統が完全に消え去れば、そのときはじめて希望が生まれる。
そうでないかぎり、誰が探索したいと思うだろう?
苦労せずとも 伝統があてがってくれるし、何の代価も払う必要がないのだから
、 気にすることはない。
他の人々が知っているのだから、ただ信じればいい。
だが、知ることと信じることは正反対のことだ。
信じることは暗闇のなかで生きつつ゛けることであり、 知ることは変容するこ
と、変身すること、永遠に輝く もうひとつのヴィジョンへと移行することだ。
これらの経文を信じる必要はない。
それらは実地に試してみなければならない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

338避難民のマジレスさん:2019/02/24(日) 10:29:38 ID:LC3de7YgO
>>337
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服2
 より抜粋

これらの経文はたんに手掛かりであり、あなた の実存のなかで実証してゆくべ
きものだ。
やってみないかぎり、あなたは要点を見逃しつつ゛けるだろう。
あなたはみずからの肉体を深遠な霊性の 研究室と見なすようにならなければ
いけない。
そしてみずからの生を、実在を究明する 大いなる冒険として見なければなら
ない。
そしてあなたは意識をとぎ澄まし、注意を払い、 内と外で何が起こっているか
見なければならない。
これらの経文は鍵だ。
みずからの実存に本当に働きかけようとしたなら、驚くだろう。
あなたはみずからの実存にすばらしい宝、無尽蔵の宝を秘めて いる帝王であり
ながら、乞食のように振る舞っている。
昏沈こんちんと散乱という二つの誤りは、静かな行を中断せずに 毎日続けるこ
とによって克服しなければならない。
そうすれば 確実に成果が現れるであろう。
成果は副産物だ。
成果のことは考えなくてもいい。
それについて考えると、それを得られなくなる―それが条件だ。
成果のことを考えてはならない。
成果のことを考えはじめたら、あなたは分裂してしまうからだ。
そうなったら修行は中途半端なものになり、実質のある精神マインドは未来に
飛んでゆく―「どうやって成果をあげよう」と。
あなたはすでに成功した自分の姿を、ブッダになった自分の姿を夢見はじめて
いる―どれほどの美が、どれほどの恵みが、どれほどの祝福があなたのものに
なるかを。
精神が貪欲どんよくさの、野心の、自我エゴのゲームを演じはじめている。
けっして成果のことを考えてはならない。
成果はおのずと生まれる副産物だ。
本当に誠実に自分自身に働きかけていたら、影があなたにつきそうように、成
果はおのずとついてくる。
成果をあげることを目的にしてはならない。
呂祖が「成否のことは思い煩わず、静かに黙々と働きかけなさい」と言うのは
そのためだ。
そして、いいかね、成果のことばかり考えているということは、失敗の恐れも
念頭から離れないということだ。
それらはともに連れそっている。
それらはひとつの包みに入っている。
成功と失敗は切り離すことができない。
成果のことが頭にあるかぎり、どこか奥深いところに恐怖もある。
あなたがそれをなし遂げられるかどうか誰にもわからない。
あなたは失敗するかもしれない。
成果を思い浮かべると未来に連れ去られ、貪欲さというゲーム、自我の投影、
野望が湧き起こる。
そして恐怖もまたあなたに動揺を与え、身震いさせる―あなたは失敗するかも
しれない。しくじる恐れがあるために、あなたはたじろぐ。
このたじろぎ、この欲望、この野心を抱えながら、静かに働きかけることなど
できない。
その実践は混乱したものになる。
ここで働きかけていながら、目は向こうを見ている。
この道を歩きながら、目はどこか空の彼方を見つめている。
星の研究をしていたギリシャの占星術師のことを聞いたことがある。
ある満天の星空の夜に、彼は井戸に落ちた。
星を見ながら歩きまわっていたからだ―星に夢中になるあまり、彼は自分がど
こにいるのか忘れてしまい、どんどん井戸に近つ゛いていって、とうとう落ち
てしまった。
近所に住んでいた老女が物音を聞いて駆けつけた。
彼女は井戸をのぞき込み、縄をもってくると、偉大な占星術師を引きあげた。
占星術師は大いに感謝した。
彼は老女に言った。
「ご存じではないでしょうが、私は国王から特別に任命された王宮の占星術師
です。料金は安くありません―大金もちだけが未来を占うだけの料金を払える
のです。でも、あなたは私の命の恩人です。明日どうぞ私のもとにおいでくだ
さい。あなたの手相を読み、出世図を調べ、星占いをしてあげましょう。そう
すれば、あなたの未来が何から何まではっきりとわかりますよ」
老女は笑いだして、こう言った。
「そんなことはすべて忘れちまいな。おまえさんは目の前にある井戸さえ見え
ないくせに、私の未来を占おうって言うのかい?まっぴらごめんだね!」
あまり先を見過ぎてはいけない。
さもないと、目前の一歩を踏みそこなうことになる。
呂祖は、成果はおのずからやって来ると言う。
成果のことは放っておきなさい。
この<存在>は実に気前がよい。
報われないものなど何ひとつない。
これがインドのカルマの哲学のすべてだ―
何事にも善い報いか悪い報いが必ず
ついてくる。
間違ったことをすれば、悪い報いが影のようについてくる。
正しいことをすれば、必ず善い報いがやって来る。
報いの善し悪しを気にかける必要はない。
少しも考える必要はない。
あなたの意識の一片すらそれにかかずらう必要はない。
それらはやって来る―ひとりでにやって来る。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

339鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/24(日) 22:22:00 ID:1d4drIFg0
何事かを為そうとする意識的な努力が悟りを遠ざけるのじゃ。
何もしないことが出来れば悟りは自ずからやってくるものじゃ。
それができなければただひたすらに目前のものに集中するか観察し続けるのじゃ。
自分がしているという意識さえ無くなれば悟りもやってくるのじゃ。

340避難民のマジレスさん:2019/02/24(日) 23:03:43 ID:LC3de7YgO
>>338
30黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服2
 より抜粋

あなたは道を歩きながら、影がついてきているかどうかを確かめるために何度
も何度も振り返るだろうか?
何度も何度も振り返り、影がついてきているかどうか確かめている人がいたら
、あなたは彼は狂っていると思うだろう。
影はついてくる。必ずついてくる。だから、あなたの働きかけが正しい方向を
向き、全身全霊で、正しい努力をもって行なわれていれば、成果はひとりでに
やって来る。
さて、どのように働きかけるのか?まず第一に……昏沈こんちんと散乱という
二つの誤りは、静かな行を中断せずに 毎日続けることによって克服しなければ
ならない。
昏沈とは怠惰、無気力な状態を言う。
それはあなたの女性的な部分ゆえに引き起こされる。
女性的な部分が怠惰で、不活発なのは、それが受動的だからだ。
そして、もうひとつは散乱だ。
それはあなたの男性的な部分ゆえに引き起こされる。
男性的な部分はいつも落ち着きがなく、活動的だ。
それは千とひとつのことを同時にやりたがる。
カミュの小説に出てくる人物は言う。
「俺は世界中の女をすべて手に入れ たい。ひとりでも、数人でも、大勢でも満
足できない。俺は世界中の女が みな欲しいんだ。」
これは極端な男性的態度だ。
女性はひとりの相手で 満足する。
男は大勢でも満足しない。
女性にとっては満足する ことは自然だが、男性にとっては満足しないことが自然
だ。
いずれの部分にも好ましい面と好ましくない面の両極がある。
女性がみずからの受動性に好ましくない形を取るのを黙認したら、 無気力な状
態が引き起こされる。
女性がこの世に多くのものを 創造してこなかったのは、ごくわずかのものしか
創造してこなかった のはそのためだ―優れた女流の画家や詩人や科学者はいない

それは必ずしも男性が許してこなかったせいばかりではない。
たとえ 自由が与えられ―自由は現に与えられている―女性が解放されたとして
も、この不活発な状態は女性の実存の一部だ。
彼女は行為にはほとんど 関心がない。
彼女は行為よりも在ることに関心を寄せている。
そして、この関心は大いなる祝福にもなりうるし、災いともなりうる。
それは状況しだいだ。
もしこの落ち着きが瞑想的なものになれば、もし この落ち着きが本当に<存在>
に対する満足、<存在>との調和になったら、 それは祝福になる。
だが、通常は九分九厘、無気力な状態になってしまう。
私たちはみずからの祝福をどう使えばいいのかわからない。
すると祝福は苦くなり、災いに変わってしまう。
そして男性的な精神マインドは落ち着きがない。
ここにも祝福の可能性がある 。
男性はきわめて創造的になりうる。
だが、実情はそうではなかった。
創造的 であるどころか、破壊的になってしまった。
祝福が呪いに変わってしまった。
その落ち着きのなさゆえに、男性は大きな不安に襲われ、不安で一杯になり、
緊張しきっている。
彼の精神はすみずみまで絶えず煮えたぎっている。
彼は いつも狂気の淵に立っている。
なんとか自分自身をつなぎとめているが、彼の 奥底には爆発寸前の群衆がいる

ちょっとした口実があれば、男は発狂しかねない。
この落ち着きのなさゆえに、男は美しさを、優美さをなくして しまった。
女性は優雅で美しい。
女性を観察するといい。
彼女 の歩き方、坐り方には気品がある。
彼女の実存には微妙な静寂、 落ち着きがある。
彼女の波動のなかにそれを感じることができる。
女性が住んでいない家はどこもかしこもめちゃくちゃだ。
その家に住んでいるのが独り者なのかどうかはすぐわかる。
何もかもがひっくり返り、めちゃくちゃになっている。
その家に女性の気配があるかどうかすぐわかる。
すべてが調和して いて、しかるべき場所に納まっているからだ。
その家には、ある優雅さ 、ある種の繊細な気配、とても微妙な愛や文化の気配
、音楽的な趣がある 。
男が独りで暮らしている家には神経症の匂いが漂っている。
正しく使われているなら、そのどちらも美しいものになる。
そうなったら 、女性的な部分は優雅さをもたらし、男性的な部分は創造性をも
たらす 。
そして優雅さと創造性が出会うとき、人は全体になっている。
だが、それはめったに起こらない―仏陀や、ミーラや、テレサや、 イエスや、
マグダレーナのような人のなかでしか、ごくまれにしか 起こらない。
ふつうはそれと正反対のことが起こる。
つまり悪い面が 出会うのだ。
男の落ち着きのなさや神経症と女の無気力な状態―この 二つが出会う。
そうなったら最も醜い現象を目にすることになる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

341鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/25(月) 23:01:35 ID:1d4drIFg0
アニマといいアニムスというのはインドのグナと同じなのじゃ。
活発で活動的なラジャスと不活性で暗いタマスなのじゃ。
それらを克服してサットヴァを優勢にするのと同じというのじゃ。
サットヴァの下で調整されたラジャスとタマスが完全な調和をもたらすというのじゃ。

342避難民のマジレスさん:2019/02/25(月) 23:22:08 ID:LC3de7YgO
>>341
アニマ、アニムスもインドの言葉かと思ってたであります。
ググったら、ラテン語であり、ユングの用語でまあったなでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

343避難民のマジレスさん:2019/02/25(月) 23:39:06 ID:LC3de7YgO
>>340
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき) 
 より抜粋

さて、ここでもう一度思い出してほしい。
男と女について 話しているとき、私は生物学の用語を使っているのではない。
どの男の内側にも男性だけでなく内なる女性がいる。
その女の内側にも女性だけでなく内なる男性がいる。
男はたんなる男ではなく、女はたんなる女ではない。
彼らは両方だ。
男女ともに両性だ。
彼らは両方の性をそなえている。
ある人が男なのは、おそらく一方が優勢だからだろう。
男性の部分が優位に立って―つまりアニムスが意識に昇り、 アニマが無意識の
奥深くに潜んでいると、あなたは男になる。
あるいは、あなたが女であるというのは、アニマが意識に昇り、 女性的な部分
が優位に立って、男性的な部分、アニムスが無意識の なかに潜んでいるという
ことだ。
だが、両性がつねにともにある。
陰陽の極なくして電気が存在しえないように、両極なくして生物は 存在しえ
ない。
「男と女」「陰と陽」「明と暗」「シヴァとシャクティ」 ―あなたは好きな名
前で呼べばいい。
この二つの誤りを克服しなければならない。
静かな行を中断せずに毎日続けることが必要になる。

そうすれば確実に成果が現れるであろう。
この静かな行とは何か?
これが静かな行だ―
(p285)

静坐して瞑想しなければ、しばしば散乱していてもそれに気つ゛かない。
あなたはそれを観察したことがあるにちがいない。
たくさんの人々が私に報告している。
私のまわりでは何千人もの人々が瞑想しているからだ。
これは瞑想者が等しく認める体験だが、瞑想をはじめると、人は突然奇妙な現
象に気つ゛くようになる。
瞑想をすると、これまで一度もなかったほど心マインドが落ち着かなくなって
くる。
最初のうちはこれがひどく奇妙に思える。
瞑想すれば心が静かになるものと期待しているからだ。
ところが、起こっているのはまったく逆のことだ。
心はますます落ち着きを失ってゆく。
日常の生活をしているときよりも多くの思考がやってくる。
店や会社や工場で働いているときには、さほど思考は邪魔にならない。
ところが 、お寺やモスクや教会に坐って数分でも瞑想すると、突然、思考が群
れをなしてやって 来て、まわりを取り囲み、あちこちに引きずりまわしはじめ
る。
頭がおかしくなりそう になり、わけがわからなくなる。
瞑想者は穏やかで静かになるものと思っていたからだ。
ところがまったく逆のことが起こっている。
どうしてこんなことになるのだろう?
その理由はこうだ。
あなたがたはいつもこれらの思考と行動をともにしてきた。
店や工場や会社で働いているときでさえ、これらの思考はつねにそこにあった
のだ。
だが、仕事に夢中になるあまり、気つ゛かなかっただけのことだ。
目新しいのは 思考の群れではない―思考はあなたがどこに坐っていようが気に
かけない。
教会なのか、寺院なのか、瞑想ホールなのか、思考は気にかけない。
ようするに、坐って瞑想しているときには外界の事物に気を取られていない の
で、心がいつも内側で騒ぎ立てているすべてのものにはっきりと気つ゛く よう
になるというだけのことだ。
瞑想のせいでいつもより多くの思考がやって 来るわけではない。
瞑想によってあなたはそこにあるものに、いつもそこにあった ものに気つ゛く
ようになる。あなたが前よりももっと気つ゛くようになるだけだ。
静坐して瞑想しなければ、しばしば散乱していてもそれに気つ゛かない。
散乱に意識を向けることにより、おのずと散乱を取り除くことができる。
外界の雑務から身を引き、完全に身を引き、全力をあげて内界を観察するため
に、少なくとも毎日一、二時間、坐って瞑想することが強調されるのはそのた
めだ。
最初のうちはパンドラの箱を開けたように見えるだろう。
最初のうちは精神病院に踏み込んだように見えるだろう。
あなたは逃げだして、再び雑務に没頭したくなる。
この誘惑を避けなさい。
この誘惑はなんとしても避けなければならない。
さもなければ、けっして瞑想をすることはできない。
この内なる混乱から目をそらすために数々のトリックが見いだされてきた。
超越瞑想は瞑想のテクニックではなく、内なる現実に直面するのを避けるため
のテクニックだ。
マントラが与えられ、それをくり返すように告げられる。
それは役に立つ―瞑想の助けになるのではなく、気を紛らわしておく助けにな
る。
(´・(ェ)・`)
(つづく`)

344鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/26(火) 22:57:42 ID:1d4drIFg0
>>342 そうじゃ、心理学の用語なのじゃ。
 それもまた観念であるがのう。

始めて瞑想して自分の心を観るのは勇気が要るものじゃ。
今まで避けてきた自分の心の苦しみや痛みと向き合うのであるからのう。
その苦を超えなければ心は見えないのじゃ。
強い意志が必要なのじゃ。

345避難民のマジレスさん:2019/02/26(火) 23:24:37 ID:LC3de7YgO
>>344
くまは、止の行には勇気を必要としなかったでありますが、観にはちょびっと必要な気がするであります。
(´・(ェ)・`)つ

346避難民のマジレスさん:2019/02/27(水) 01:58:24 ID:LC3de7YgO
>>343
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづく) 
 より抜粋

あなたは「ラム、ラム、ラム……」あるいは「コカ・コーラ、コカ・コーラ、
コカ・コーラ……」とくり返しつつ゛けてゆく―どんな言葉でもいい。
自分の名前でもいい。どんなに馬鹿げた音でもいい。あなたはくり返しつつ゛
けてゆく。
それをくり返すことで、あなたの心は一杯になる。
そうして忙しくすることで、あなたは内なる混乱を回避している。
これでは何の違いもない。
あなたは会社でわき目もふらず働いていた。
あなたは夢中になって映画を見ていた。
あなたは夢中になってラジオを聴いていた。
あなたは夢中になって新聞を読んでいた。
今やあなたはマントラに夢中になっている。
これは瞑想でもなければ超越でもない。
真の瞑想とはこれだ―内なる精神病院から目をそらさないようにして、そのな
かに入り、顔をそむけずに遭遇し、注意深く観察してゆくこと。
なぜなら、注意深い観察によってはじめてそれを克服することができるからだ

それがどんどん大きくなってしまったのは、それから目をそむけてきたからだ

あなたは避けられるだけ避けてきた!もうマントラの助けを借りる必要はない

助けはいっさいいらない。
ただ静かに坐りなさい。
禅は最も純粋な瞑想だ。
何もせず、ただ静かに坐る。
何もせず、ただ静かに坐ることほどむずかしい瞑想はない。
人々は私に尋ねる。
「何か依るべになるものをください。何かマントラをくだされば助かるのです
が。何もせず、ただ静かに坐っているのはたいへんです。こんなにむずかしい
ことはありません」
あなたにはありとあらゆることが起こってくる。
身体はあなたを狂気に駆り立てはじめる。
頭がかゆくなったり、突然、蟻が身体を這っているような感じがする。
が、いくら見ても蟻などいない。
身体がトリックを仕掛けているだけだ。
身体が助け舟を出して、あなたを忙しくさせようとしている。
身体は姿勢を変えたがるし、足はしびれてくる。
身体はいろいろなものをもちだしてきて、あなたの心を一杯にしようとする。
心を一杯にさせることはすべて避けなさい。
しばらくのあいだ心をふさぐのをやめて、内側で起こっていることをもらさず
に見るがいい。
するとあなたは驚くだろう、本当に驚くだろう。やがて、ただひたすら見つつ゛
けているだけで、思考が消えてゆく。
「何もせず静かに坐っていると、春が来て、草はひとりでに生える」
これが瞑想の純粋な姿だ。
これこそが「超越瞑想」だ。
だが、マハリシ・マヘーシュ・ヨギが商標にしてしまったために、誰もそれを
「超越瞑想」と呼ぶことはできない。
TMは今や登録商標トレードマークになっている!
こんなやりかたで商売をした者などひとりもいない。
自分の瞑想を超越瞑想と名つ゛けたら、法廷に訴えられる恐れがある。
それは商標登録がしてある。
その馬鹿さかげんをそっくり見るがいい。
瞑想は街で売られる日用品のようになってしまった。
こういうことが何度もくり返されてきた。
アメリカに行ったいわゆるインドのグルたち―彼らは誰ひとり変えることがで
きなかったが、アメリカはみごとにグルたちを変えた―グルたちはみな ビジネ
スマンになった。
彼らはみなアメリカ流のやり方を身につけはじめた。
彼らの手ではけっして誰も変わらない。
変わるはずがない。
人を変えることができたなら、彼らはどこにも行かなかっただろう― 変わりた
いと思う者たちがグルたちのもとへやって来ただろう。
グルたちはどこにも出かける必要がなかっただろう。
喉が渇いていれば、人は水を探しはじめる。
井戸が渇いた人のもとへ出かける必要はない― 井戸はどこにも出かけない―渇
いた者が井戸にやって来る。
給水車を見かけたら、用心するがいい!
(p288)
散乱に意識を向けることにより、おのずと散乱を取り除くことができる。
とほうもなく深い意味を秘めた言明だ。
散乱を取り除く唯一の方法は、それに気つ゛き、それを見守り、それに静かに
意識を向け、心マインドがあなたにしていることを―絶えずあなたの気をそら
していることを見ることだ。
ただそれを見守りなさい。
あなたは何度も忘れるだろう。なぜなら、心は狡猾で、ひじょうにずる賢く、
かけひきがうまいからだ。心は政治家の策略をすべて知りつくしている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

347鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/28(木) 00:43:57 ID:1d4drIFg0
>>345 そうじゃ、勇気が必要じゃ。
 勇気を奮い起こして心を観るのじゃ。
 
禅もまたアメリカでビジネスになってしまったのじゃ。
誰もが気晴らしのクイズや儀式で悟ったつもりになっておる。
最近の流行は南伝の瞑想からとりいれたマインドフルネスと名づけられたものじゃ。
グーグルは社員にそれをやらせて何億ドルも稼いだというのじゃ。
愚かなことじゃ。

348避難民のマジレスさん:2019/02/28(木) 06:33:22 ID:LC3de7YgO
>>346
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき) 
 より抜粋

心は本質的に政治家だ。
心はあなたにあらゆる魔法をかけようとするだろう。
あなたが抑圧してきたすべてのものを心マインドはもち出してくる。
あなたがセックスを抑圧していたら、瞑想をはじめたとたん、アブサラたちが
天国から舞い降りてくるのが見える。
心は言う。
「見ろ!おまえは何をやってるんだ、時間の無駄じゃないか。インドラ神から
美しい女が送られてきたのに、何をやってるんだ」
セックスを抑圧していたら、心はあなたをとらえる餌としてセックスを使う。
野心を抑圧していたら、心は大統領や首相になったあなたの姿を空想しはじめ
、あなたはその罠に落ちはじめてゆく。
今まで食事を拒み、断食をしてきていたら、心はいかにも美味しそうな贅沢な
料理をつくりだす。
その食べ物の香り、匂い……あなたの心は一杯になってしまう。
私がサニヤシンたちに「抑圧してはいけない。そんなことをすれば、けっして
瞑想することはできない」としきりに言うのはそのためだ。
抑圧すれば、瞑想中に自分が抑圧してきたものと遭遇しなければならなくなる

そして、何であれ抑圧したものは強力に、すさまじく強力になる。
それはあなたの無意識に根をおろしている。
インドの昔話に登場する賢者たちのことだが―彼らは年老いていた。
森に住んで断食をしていたので、彼らは老いぼれ、すっかり生気を失い、やせ
衰えて骨と皮ばかりになっていた。
そこへある日突然、インドラ神に仕える最も美しい踊り子ウルワシが現れ、彼
らのまわりで踊った。
この骸骨のような連中はウルワシの目にどう映ったのだろう?
彼女はどうしてこんな骸骨のような連中に興味をもつのだろう?
何のために?
物語では、彼らを誘惑するためにインドラ神がウルワシを送ったことになって
いる。
まったく馬鹿馬鹿しい話だ。
インドラ神など存在しないし、誘惑者の役割を演じる者もいない。
悪魔も魔王もいない。
悪魔とはあなたの抑圧された心に他ならない。
こういった連中は性欲を抑圧しつつ゛けてきた。
抑圧があまりに大きいので、瞑想中にリラックスすると、抑圧されていたもの
がすべて浮上しはじめる。
それは美しい姿をしている。
だから私は「抑圧してはいけない」と言う。
このアシュラムで行なわれている精神療法セラピーはどれも、社会があなたに
強いた抑圧を吐き出すのを助けるためにある。
ひとたびこの抑圧されたものが吐き出され、あなたの身体組織から投げ出され
たら、ひとたびこれらの毒素があなたの身体組織から取り出されたら、瞑想は
ひじょうに簡単でやさしいものになる。
ちょうど羽がゆっくりと地面に落ちてゆくように、枯れ葉が樹からゆっくりゆ
っくりと落ちてゆくように……瞑想はごく単純な現象になる。
そうであって当然だ。
それは内側から自然に湧き起こってくるものだからだ。
あなたはみずからの本性に向かって進んでゆく。
本性に向かう動きは易しいものであり、本性から遠ざかる動きは困難なものに
なるが、それは当然のことだ。
瞑想はむずかしくない。だが、あなたの心マインドと実存のあいだには、散乱
を引き起こす千とひとつの抑圧がある。
呂祖は正しい。
これらの散乱をただ見守りなさい。
油断なく目を見張るのだ。
精神が散漫になり、瞑想を忘れてしまっても、心配することはない。
散漫になっていたことに気がつけば、ただちにもどって、精神を静め、精神を
穏やかにし、再び静かに呼吸をじはじめればいい。
気が散漫になってしまったと悔やむ必要はない。
それもまた散乱のひとつに他ならないからだ。
私が「心マインドは狡猾だ」と言うのはそのためだ。
心はまず散乱を引き起こしておいて、あなたがそれに気つ゛くやいなやこうさ
さやく。
何をやってるんだ?おまえは瞑想をしながらヴリンダーヴァン(和尚コミュー
ンのレストランの名前)へ行き、食事をしたりして……何をやってるんだ?
のろまなやつだ―。
そうなると、あなたは罪悪感を覚えはじめる。
それはよくない。
罪悪感を覚えることも散乱のひとつだ。
今度は罪悪感があなたを苦しめる―
あなたは別の形の散乱に苦しむ。
散乱が次の散乱を引き起こす。
罪悪感を覚えてはいけない。
怒りを覚えてはいけない。
心が散漫になっているその現場を押さえたなら、ただちに不平を言わずもどれ
ばいい。
それは自然だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

349鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/28(木) 22:56:02 ID:1d4drIFg0
修行中に見る幻影は本人の隠蔽していた欲から起こるものじゃ。
全ては心の中から起こるのじゃ。
それをみないようにしていればいつまでも執着は残るのじゃ。
ただ観察する事でそれは消えていくのじゃ。

350避難民のマジレスさん:2019/03/01(金) 05:51:33 ID:LC3de7YgO
>>348
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき) 
 より抜粋

あなたは何百万もの生にわたって抑圧 してきたのだから。
心が散漫になるのも無理はない。
それを当然のことと受け止めて、引き返し、再び中心に もどってくるがいい。
何度も何度ももどってくるがいい。
そうすれば、徐々に徐々に、中心に とどまっている時間が長くなってゆき 、
散乱が起こる回数が減ってゆく。
そしてある日、ふと気つ゛くと 、あなたは中心にいて、 散乱は影を潜めてい
る。
これが成果だ。
なぜこれを「成果」と呼ぶのだろう?
そこで人は 自分が神であることを、神以外のものではなかったことを、 眠りに
落ちて乞食になった夢を見ていたことを知るからだ。
昏沈に意識を向けるのと、昏沈に無意識であるのとでは実に大きな違いがある。
昏沈に無意識であることが真の昏沈である。
意識されている昏沈は完全な昏沈ではない。
そこにはなおいくばくかの明晰さがあるからだ。
怠けるなら、意識的に怠けなさい。
自分が怠け者であることに気つ゛いていなさい。
自分の怠惰さを見守るのだ。
散乱を見守ったように、自分の怠惰さを見守りなさい。
少なくとも見守ることは怠惰ではない。
見守ることは無気力ではない。
だから怠惰でない何かがそこにはある。
注意力のなさに注意を向けるときには、あなたの内にある 何 も の かが依然
注意を注いでいるので、完全に注意力を失っているわけではない。
その気が抜けたり、散乱していない小さな一点にすべての望みがかかっている。
その小さな一点は種子に似ている。
それは小さく見えるが、時間をかけて辛抱強く待てば、豊かに葉を繁らせる大
樹になる。
そして、いつか黄金の華が開くだろう。

散乱は想念マインドをさまようままに放置することから起こり、 昏沈は想念が
まだ清らかでないことから起こる。
散乱は昏沈よりもずっと容易に直すことができる。
病気に例えてみれば、痛みやかゆみを感じている場合には それを治療する薬が
あるが、昏沈は感覚を失ってしまう病気に似ている。
散乱のほうが取り組みやすい。
なぜなら、散乱は外に向かうものだからだ。
昏沈のほうが内に向かうので取り組むことがむずかしい。
散乱は男性的であり、昏沈は女性的だ。
散乱は活動的であることによって絶えがたいほどの緊張を生じさせるので、容
易に自覚することができる。
だが、昏沈はなかなか自覚できない。まず人は散乱に気つ゛かなければならな
い。
散乱がすべて消えてしまうと、人は昏沈に気つ゛くようになる。
そうなったら、内側を見るためにすべてのエネルギーを使うことができる。
すると岩のようにあなたを押さえつけている、不活発で、非創造的な昏沈がそ
こにあるのが見えてくる。
そうなったらそれを見守ればいい。
そしていいかね。見守ることが唯一の鍵だ。
観察することが瞑想だ―瞑想とはそれにつきる。
それは醒めていることを表す別の言葉だ。
そして不思議なことに、あなたが何かに気つ゛くと、完全に気つ゛くと、それ
は消えてゆく。
それはあなたが無自覚なときにしか存在できない。
無自覚さが散乱と昏沈の餌になる。
あなたが気つ゛いていれば、もはや餌がもらえなくなり、それらは飢えはじめ
る。
やがてそれらはひとりでに消えてしまう。
散乱は鎮めることができるし、混乱は整えることができる。
だが昏沈や無気力な状態は重くて暗い。
散乱や混乱にはまだ一定の場所があるが、昏沈や無気力な状態では ただ魄アニ
マのみが活動している。
散乱の場合にはまだ魂アニムスが 存在しているが、昏沈の場合にはまったき闇
が支配している。
瞑想中に眠気をもよおすならば、昏沈の影響を受けている。
昏沈の克服に役立つのは呼吸だけである。
鼻から出入りする息は 真の呼吸ではないが、真の呼吸の出入りはこれと結びつ
いて起こる。
瞑想中に強い睡魔に襲われたら、呼吸を見守りはじめなさい。
そうすれば眠気は消える。
ヴィパッサナをやっている多くの仏教徒が不眠症に悩まされるようになるのは
そのためだ。
私はヴィパッサナをやっているために、不眠症になっている人たちに大勢出会
った。
しかも彼らはそれに気つ゛いていない。
呼吸を見守っていると、眠りが妨げられるのだ。
だから、私はサニヤシンたちにこう言っている―けっして一日に二、三時間以
上ヴィパッサナをやってはいけない、と。
しかもその数時間は日の出から日没までのあいだにかぎられる。
日が暮れたらけっしてやってはいけない。
夜中にヴィパッサナをすると、眠りがかき乱される。
そして眠りがかき乱されると、身体中のメカニズムがかき乱される。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

351鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/01(金) 22:56:40 ID:1d4drIFg0
散乱と昏沈も自覚していればそれは障害ではないとオショーは言うのじゃ。
それに気付いていれば取り除かれるのじゃ。
瞑想とは観察し、気付いていることなのじゃ。
それができれば全ての障害は乗り越えられるのじゃ。

352避難民のマジレスさん:2019/03/01(金) 23:49:56 ID:LC3de7YgO
>>350
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき) 
 より抜粋

あるセイロンの僧侶が私のもとに連れてこられた。
三年間、彼は眠れない状態が続いていた。
真面目な僧侶だった……それが彼の問題だった。
ヴィパッサナのすばらしさを信じるあまり、彼は朝から晩まで一日中それをや
っていた。
寝床に入って、なかなか寝つけないときにも、ヴィパッサナをやっていた。
寝床でヴィパッサナをやれば、眠れなくなってしまう。
呼吸に繊細な注意を払っている人に眠りは訪れてこない。
試してみるといい―不眠症になりたければ、試してみるといい。
睡魔を払うには呼吸を見守るのが一番だ。
なぜなら、呼吸は生であり、眠りは死だからだ。
それらは互いに対立し合っている。
子供はまず呼吸をすることによって生きることをはじめる。
人生で最初に行なわれる行為は呼吸であり、最後に行なわれる行為は息を吐き
出して、二度と呼吸をしないことだ。
最初の行為は息を吸うことであり、最後の行為は息を吐くことだ。
息をしていなければ、死んでいるとみなされる。
これを覚えておきなさい。
眠るためには呼吸の ことをすっかり忘れてしまわなければならない。
眠りは小さな死、ささやかな死であり、美しい死だ。
眠りは休息とくつろぎを与え、人は翌朝になると溌剌として 若返り、元気にな
って死体置場からもどってくる。
瞑想中に睡魔に襲われたら、呼吸を見守りなさい。
そして、夜はけっして呼吸を見守る瞑想をしてはならない。
(p294)
経文に述べられている次に重要なことがらは、 私たちがくり返している呼吸は
本当の呼吸ではない ということだ。
それは本当の呼吸の乗り物にすぎない。
本当の呼吸とは何か?
インドではそれを「プラーナ」と呼んでいる。
いわゆる呼吸は馬にすぎず、騎手は目に見えない。
呼吸はたんなる馬 であり、プラーナ、精気、あるいはヘンリ・ベルグソンが
「生命力」 と呼んでいたものがその乗り手だ。
それは目には見えない。
息を吸うとき、あなたは空気を吸っているだけではない。
あなたは生命を吸っている。
空気がなければ、生命は消えてしまう。
生命は空気を通して存在している― それは空気の目に見えない部分だ。
呼吸は花のようであり、生命は花を包む香りに似ている。
息をするときには、二重のプロセスが進行している。
ヨーガがプラーナーヤーマに大きな関心を寄せるのは そのためだ。
プラーナーヤーマとは呼吸の拡張を意味する。
呼吸が深くなればなるほど、あなたはもっと深くから生きるようになる。
呼吸が正しいものになればなるほど、あなたは長生きすることができる。
ヨーガはその秘密に大きな関心を寄せるようになった。
不老長寿の霊薬エリクサは呼吸の仕組みのなかにある。
人は長寿を保つことができる。
ヨーガ行者は最も長生きをする。
私は不老長寿をめざせと言っているのではない。
長くても愚かな人生を送る人もあるからだ。
寿命の長さが問題なのではない。
大切なのは強烈さ、深さだ。
私は長生きすることには関心がない。
それでどうなるというのかね?
愚かであるなら、早死にするほうがましだ。
あるときチンギス・ハーンが偉大な賢者に尋ねた。
「あなたの ご意見をお聞きしたいのだが、人は長生きすべきだろうか?長生き
するために何かをすべきだろうか?寿命は天が決めるものなのだろうか?」
賢者は言った。
「閣下、それは人によりけりです。例えば、あ な た が長生きされるのでした
ら、大いに困ったことになりますが、 あなたが早死にされるのなら、それは大
いなる祝福です。 あなたが二十四時間眠りつつ゛けられるのなら、それは 実に
すばらしいことです。世界のもめごとが減るからです」
それは人によりけりだ。
だが、ヨーガは不老長寿に大きな関心を寄せるようになった。
まるでそれ自体 が目標であるかのように。
ヨーガはそこで道を踏みはずしてしまった。
ヨーガはどんどん生理学的なものになっていった― ヨーガの関心は重要ではな
いものごとに注がれるようになった。
だが、秘密はそこにある―それは呼吸のなかにある。
(´・(ェ)・`)
(つづき)

353鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/02(土) 22:36:12 ID:1d4drIFg0
ヴェーダにはプラーナがアートマンであると記されているのじゃ。
プラーナにも意識は在るのじゃ。
全てに遍満する意識の一部なのじゃ。
人と同じ本質を持つアートマンなのじゃ。

354避難民のマジレスさん:2019/03/02(土) 22:56:50 ID:LC3de7YgO
>>353
プラーナとは、熱感や痺れとして、実感できる気と同じでありますか?
(´・(ェ)・`)つ

355避難民のマジレスさん:2019/03/02(土) 23:10:31 ID:LC3de7YgO
>>352
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき)
 より抜粋

呼吸は二つのエネルギーの乗り物だ。
ひとつは目に見える空気、 酸素を含んだ触知できる空気だ。
そして酸素にまつわるようにして、 あなたをもっともっと深く躍動させ、生命
とともに燃えあがらせる 生命力エラン・ヴィタール、プラーナがある。
だから、睡魔に襲われるたびに、ただ呼吸を見守るだけで、 眠気は消えてゆく

そして呼吸とともにより多くの生命が あなたのなかに流れ込むことで、昏沈も
消えてゆく。
それゆえに、坐るときにはつねにこころハートを静かに保ち、 気エネルギーを
集中させなければならない。
こころを静めるにはどうすればよいか?
呼吸によってである。
ここでも 呼 吸 に よ っ て だ。
呼吸は最もすぐれたテクニックのひとつとして用いられてきた。

息の出入りをこころが意識していればいいのであり……息が入っては出てゆく
のを見守っていればいい。
そうして注意深く見守ることで、あなたの眠りは消えてゆく。
昏沈は消えてゆく。
そしてあなたは中心感覚を得る。
呼吸は二か所で観察することができる。
空気が身体に最初に入ってくるときに触れる鼻先か、あるいは息が入ってきて
腹を上下に動かす最後のセンター、臍へそのセンターだ。
これが見守ることができる二つのセンターだ。
つい先日、こう尋ねた者がいる。「和尚、鼻の先を見守るのはいいのですが、
ユダヤ人のようなかぎ鼻の場合はどうなのでしょう?」
実のところ、鼻があるのはユダヤ人だけだ。
他の者たちは鼻があると思い込んでいるだけだ。
かぎ鼻ならば、空気が入ってくる鼻先を見守りなさい。
かぎ鼻はこの手の瞑想にはすばらしい助けとなる。
かぎ鼻であることを喜びなさい。
ここにいる人々の少なくとも半分はかぎ鼻だ。
ここにいる人々の半数はユダヤ人だからだ。
質問を読んでいて、私は本当に驚いた。
といいうのも、呂祖師や彼がこの技法を授けた中国の人々のことがとても心配
になってきたからだ。
彼らにはまったく鼻というものがない!
彼らにとって鼻先を見守ることはさぞかし困難だったことだろう。
先端などあるのだろうか?

息の出入りをこころが意識していればいいのであり、 耳に聞こえてはならない

耳に聞こえなければ、 息は軽く、軽ければ、純粋である。
耳に聞こえるようなら、気息は荒く、荒ければ、濁っている。
濁っていれば、昏沈と無気力な状態が生じ、眠気に誘われる。
これは自明の理である。
呼吸するとき、こころハートをいかに正しく使うかを理解しなければならない。
それはこころを用いない用い方である。
努力なき努力。修行なき修行。道なき道、門なき門―タオや禅はこのような表
現をする。
あなたは力まず、緊張をせずにものごとを為さねばならない。
そこで師は言う―それはこころを用いない用い方である。
聴くことに微かすかに光を当てるだけでいい。
あなたは手放し状態にならなければいけない。
これがヨーガとタオの違いだ。
ヨーガは意志の道であり、タオは明け渡しの道だ。
ヨーガは言う。「息をこうして吸いなさい。息をこれくらい深く吸ってしばら
く止め、それから深く吐き出してしばらく止める―意志の力である一定のパタ
ーンをつくりだしなさい」
タオは「呼吸はそのままにせよ」と言う。
聴くことに微かに光を当てるだけでいい―ちょうどあなたがたが私に耳を澄ま
しているように。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

356避難民のマジレスさん:2019/03/03(日) 10:28:25 ID:LC3de7YgO
>>355
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき)
 より抜粋

タオは「呼吸はそのままにせよ」と言う。
聴くことに微かに光を当てるだけでいい―ちょうどあなたがたが私に耳を澄ま
しているように。
私の言葉はあなたの耳に向かっている。
言葉に飛びつく必要はない。
言葉を引っぱりこむ必要はない―そんなことはしなくていい。
あなたはただ注意深くして、静かに耳をそばだて、開いていればいい。

この句には秘められた意味がある。
光を当てるとはどういうことか?
それは目の光がもつ自然に照らしだす働きのことだ。
目は内側を見るだけで、外界を見るわけではない。
外を見ることなく明るさを感じていることが内側を見るということであり……
一種の手放し状態にあるときにはいつも、あなたの内側には大いなる光が感じ
られる。
手放し状態にあれば、それはひとりでに起こる。
<存在>に明け渡しているなら、内側にまばゆい光が感じられる―大いなる光ラ
イトが内側にあり、大いなる喜びデライトが外側にある。
それは自然に起こる。
そして内側にその明るさを感じていることが内側を見るということだ。

外を見ることなく明るさを感じていることが内側を見る ということであり、内
側を実際に見るということではない。
聴くとはどういうことか?
それは耳の光がもつ自然に聴く働きのことだ。
耳は内側を聴くだけで、外界の音を聴くわけではない。
外界の音を聴くことなく明るさを感じていることが 内側を聴くということであ
り……目の裏に、耳の内側に、あなた自身の内奥の源に光を感じはじめたら、
あなたは安定し、中心が決まり、こころハートは静かになっている。
そうなったら、あなたは世間にいながら世間を超えている。
これが超越だ。

内側の音を実際に聴くということではない。
したがってこの場合、聴くというのは無音の状態を聴くだけ であり、見るとい
うのはそこに何の形もないのを見るだけである。
内側には何の形も見えず、何の音も聞こえない。
見えるのは穏やかな光―音なき音、形なき光だけだ。
それゆえに神は"音なき音""形なき形"と定義される。

目が外界を見ず、耳が外界の音を聞かなければ、 それらはおのずと閉じて内界
に沈んでゆきがちである。
内側を見、内側に耳を傾けるときにのみ、 感覚器官は外に向かうこともなく、
内に沈み込むこともない。
このようにして昏沈と無気力な状態を取り除くことができる。
これが、太陽と月がその精と光を結合させることである。
内側に耳を傾け、内側に目を向けているなら―それは内側に形のない光、音の
ない音、沈黙の音楽を感じているということだが―そこで内なる男性と内なる
女性が出会っている。
これが結合、完全なオーガズム、神秘の合一ユニオ・ミスティカだ。

昏沈に襲われて眠気をもよおしたら、立ちあがって 歩きまわるがいい。
頭がすっきりしてきたら、坐りなおす。
やがて修行の成果が現れてきて、昏沈や眠りに陥ることはなくなるだろう。
この経文は実地に行なってみなければならない。
労することなく、これらの経文の奥義に入りこむ努力をしなければならない。
力むことなく、明け渡し、手放し状態になることを学びなさい。
(´・(ェ)・`)
(おわり)

357鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/03(日) 22:38:55 ID:1d4drIFg0
>>354 そうじゃ、体の中に流れるエネルギーとして感じる気と同じなのじゃ。
 熱かったり冷たかったりするのは気が変化しているだけで無くなっては居ないのじゃ。
 常に肉体にも空間にも遍満するエネルギーなのじゃ。

心を用いないとは聞く事無く聞き、見ることなしに見ることなのじゃ。
聞くことや見ることに没頭すればそれは実現するのじゃ。
没頭して主体が無くなれば自然に心を用いなくなるのじゃ。
心を用いる主体が無ければ用いることも無いのじゃ。

358避難民のマジレスさん:2019/03/03(日) 23:34:56 ID:LC3de7YgO
>>356
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える
より抜粋

呂祖師は言った。
汝らの修行は次第に集中し、成熟してゆくだろう。
だが、断崖に立つ枯れ木のように打坐する境地に到るまでには、 まだ多くの錯
誤を犯す可能性がある。
これに関しては特に注意を促しておかねばならない。
このような境地は、身をもって体験することで はじめて認識できるものである。
まず錯誤について語り、それから確認の しるしとなる体験について話すこと
にしよう。

修行をはじめるときは、何よりもまずゆったりと くつろいだ気持ちでのぞむよ
うに配慮しなければならない。
あまり多くのことを求めてはならない。
気の動きとこころハートの動きがおのずから 調和するように配慮しなければな
らない。
そうしてはじめて静かな境地に入ってゆける。
この静かな境地に入っているときには、 正しい状況と正しい空間をつくらな
ければならない。
世事の只なかで坐ってはいけない。
すなわち精神は虚しい熱中から自由でなければならない。
世間のしがらみをすべて脇によけ、 泰然自若としていなければならない。
また正しい手順にこだわり過ぎてもいけない。
あれこれ工夫をしすぎるとこの危険が生じる。
私は工夫をしてはならないと言っているのではない。
正しい道は有と無のあいだに等しい距離を保つことにある。
目的を通して無目的を達成することができるなら、要点を体得したことになる。
みずからを方下し、超然と乱れず、泰然自若としていればいいのである。

また人は誘惑に満ちた世界の餌食になってはいけない。
誘惑に満ちた世界とは、五つの暗い悪魔が遊び戯れる場所だ。
不動の境地と言うと、人はよく枯れ木や冷たい灰を思い浮かべるが、 大地が明
るい春を迎えている姿を思い浮かべることはめったにない。
そのようにして人は暗黒の世界に沈んでゆくのである。
そこではエネルギーは冷え、息は荒くなり、寒さと衰亡のイメージが 頻繁に現
れてくる。

そういう状態に長くとどまっていると、植物や石の世界に入ってゆく。

また人は数知れない誘惑に惑わされてはならない。
これが起こるのは、静かな境地がはじまった後、 突然あらゆる妄想のつながり
が続々と現れてくるときである。
それを打ち破ろうとしても、どうにもならない。
その妄想を追うと、気分が軽くなったような感じがする。
これは主人が召使になってしまったことを意味する。
もしこのような状態に長くとどまっていると、 幻想に満ちた欲望の世界に入っ
てしまう。

最善の場合には、天国に生まれ、最悪の場合には、野狐の世界に生まれる。
確かに、こういった野狐の霊は有名な山に住み、風や月、花や果実を楽しみ、
珊瑚のような樹や宝石のような草を楽しんでいるが、果報が尽きれば、 再び混
乱の世界に生まれ変わるのである。
あるとき、暗い森の奥深くにわけ入った狩人たちが小屋を見つけた。
小屋のなかでは隠者が木の十字架の前で祈っていた。
彼の顔は喜びで輝いていた。
「こんにちわ、兄弟ブラザー。どうか素晴らしい午後になりますように。あな
たはとても幸せそうですね」
「私はいつも幸せです」
「あなたはこの人里離れた小屋で苦行をしながら幸せに暮らしていらっしゃる
。私たちは何もかも手にしているのに、幸せじゃありません。どこで幸せを見
つけたのですか?」
「私はこの洞窟で見つけたのです。あの穴をのぞいてごらんなさい。そうすれ
ば私がなぜ幸せなのか少しはわかるかもしれません」―そう言って彼は小さな
窓を見せた。
「かつぎましたね。私たちには樹の枝しか見えませんよ」
「もう一度見てごらん」
「見えるのは樹の枝と、それから、青空がほんの少し」
「幸せの秘訣はそれですよ」
と隠者は言った。
「天国がほんの少し……」
至福は人間に内在している本性だ。
それを獲得する必要はない。
それは再発見すればいいだけだ。
私たちはすでにそれをもっている。
私たちはそれだ。
それをどこか他の場所に探し求めたら、確実に取り逃がすことになる。
探すのをやめ、内側を見るがいい。
そこではあなたの人生で最大の驚きが待ち受けている。
何世紀にも、何生にもわたって探し求めてきたいっさいのものが、すでにそこ
にある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

359鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/04(月) 20:52:21 ID:1d4drIFg0
全ての目覚めた者達は常に心を観ることを説いているのじゃ。
悟りも極楽も平安も幸福も全て心の中にあるものじゃ。
一切苦であるこの世には無いのじゃ。
この世に幸福や天国を求める者はそれを見つける事無く終わるじゃろう。
心の中に探す者が永遠の幸福と天国を見出すことができるのじゃ。

360避難民のマジレスさん:2019/03/05(火) 08:32:28 ID:LC3de7YgO
>>358
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

乞食になる必要はない。
あなたは生まれながらの帝王だ。
だが、神の王国はあなたの内側にあるのに、あなたの目は外を探しつつ゛けて
いる。
あなたが取り逃がしつつ゛けているのはそのためだ。
それは目の前ではなく、目の後にある。
神の王国は対象ではない。
それはあなたの主観だ。
それは探求者の本性そのものだから、探す必要はない。
それがわかれば、昼なお暗い森の洞窟に独りぼっちで暮らしていても、人は幸
せになることができる。
さもなければ宮殿でさえ惨めさを引き起こすだけだ。
世界にはあらゆる種類の惨めさがある。
貧しい者には貧しい者の惨めさがあり、金持ちには金持ちの惨めさがある。
だが、惨めさに関するかぎり、違いはない。
ときには金持ちの苦しみのほうが大きいことがある。
金持ちには余裕があるからだ。
金持ちのほうが多くの可能性 、選択肢を手にしている。
貧しい者は惨めさをいくつも買うことはできないが、 金持ちは買うことができ
る。
だから、最も裕福な人々がこの世で最大の惨めさを 味わっている。
この意味では、最も裕福な人々が最も貧しい人々になる。
実際、金持ちになったとき、人ははじめて人生の貧しさを感じ取る。
貧しいときには、いつか裕福になって、楽しみ祝えばいいと希望を託す ことが
できる。
だが、外側の豊かさを達成したら、不意に希望が消え失せ、 深い失望がそこに
腰を据える。
あなたは絶望に取り囲まれている。
今や希望もなく、未来もない。
もはや最後の希望もついえてしまった。
あなたは「いつか金持ちになるぞ。そうすれば何もかもうまくゆく」 と考えな
がら生きてきた。
ところが金持ちになっても、何ひとつ変わらない。
内面の惨めさは依然としてつつ゛いている。
実際、外側の豊かさゆえに、外側の豊かさとの対比ゆえに、 内なる貧しさをよ
り鮮明に、より正確に、より鋭く見ることができる。
外側の豊かさは内なる貧しさを感じるための下地を提供するだけだ。
ものをもつことで、あなは内なる空虚さに気つ゛く。
それゆえに、富める国が宗教的になるのは不思議なことではない。
仏陀やマハーヴィーラの時代のインドは富にあふれていたので、 宗教的だった

インドは裕福だった。
その裕福さゆえに インドの人々は内なる貧しさに気つ゛いていた。
そして内なる貧しさに気つ゛くとき、人は内界を探求しはじめる。
物質では内なる渇望を充たせないことに気つ゛くとき、物質は どこまでももの
であり、内側には取り込めないことに気つ゛く とき、それが揺るぎない確信と
なったとき、人は新たな探求、 新たな冒険に乗り出す。
その冒険が宗教だ。
今日のインドは宗教的ではありえない。
インドは世界で最も貧しい国のひとつだ ―そのインドがどうして宗教的であり
えよう?
宗教的たりえるだけの余裕がない。
宗教は最も高い次元の贅沢、究極の贅沢だ。
それは究極の音楽、究極の詩、究極の踊りだ。
それは<存在>そのものに完全に酔いしれることだ。
腹を減らし、飢えていては、それを探求することはできない。
空腹なときに必要なのはパンであって、瞑想ではない。
病気のときに必要なのは薬であって、瞑想ではない。
健康な人だけが、瞑想でなければ充たせない何かが欠けていることを自覚できる

人々は私に、ここで講話に参列しているインド人が少ないのはなぜかと尋ねる。
それは不思議なことではない。
彼らは瞑想に関心がないのだ。
彼らはもの に興味をもっている。
彼らはすっかりものに取り憑かれている。
もちろん霊性について語りはするが、それはたんなる口先であり、過去の遺物
にすぎ ない。
彼らはそういったことを得々として語る―少なくとも自分たちは霊性をそなえ
て いると。
ものは足りないけれど、霊性なら自慢することができるというわけだ。
だが、私にとって精神主義は物質主義よりも高次の段階にある。
物質主義は踏み石の役目を果たす。
富める国だけが精神の貧しさを感じる ようになる。
そして精神の貧しさを感じるようになったら、可能性は二つしかない。
自殺をするか、内なる変容を通り抜けるか、そのどちらかだ。
瞑想は内なる変容の技法だ。
自殺と瞑想が残された唯一の 選択となれば―生全体が無意味だから自分自身を
壊してしまう か、存在の新しい次元へと自分自身を変容させるか― 人は自殺か
瞑想のどちらかを選ばなければならない。
世界の富める国々は自殺を選ぶか、瞑想を選ぶかというこのジレンマをいつも
抱えて いる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

361鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/05(火) 22:48:58 ID:1d4drIFg0
神の王国は目の前ではなく、眼の後ろにあるとオショーは言うのじゃ。
それは客観ではなく主観であるからと説いているのじゃ。
それ自身は認識できない認識主体、アートマンのことなのじゃ。
それに達すれば全ての喜びの王国は永遠にあり続けるのじゃ。

362避難民のマジレスさん:2019/03/06(水) 06:47:13 ID:LC3de7YgO
>>360
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづく)
より抜粋

富める国々のほうが貧しい国々よりも自殺や狂気の悩みを多く抱えている。
貧乏人は自殺のことなど考えているひまがない。
生きることで精いっぱいだ。
貧乏人 は自分のエネルギーを変容させることなど考えているひまがない。
彼の頭は子供たち を養い、雨露をしのぐにはどうすればいいかでいっぱいだ。
彼は肉体より高次なもの、 肉体より深いものにはいっさい興味がない―それも
無理のないことだ。
私はそれを非難しているのではない。
それはまったく自然なことだ。 そうあってしかるべきだ。
世界の貧しい国々がどんどん共産主義に傾いてゆき、 世界の資本主義国がどん
どん精神主義に傾いてゆくのはそのためだ。
マルクスの予言は外れた。
マルクスは富める国々が共産化するだろうと 言っていたが、それはたわごとで
あることが判明した。
貧しい国々だけが 共産主義になった。
ロシアは最も貧困に悩む国のひとつだった。
中国もそうだし、 インドもそうだ。
インドはいつなんどき共産主義の餌食になるかわからない。
それは途上にあって、待ち構えている。
アメリカは共産主義にならなかった。
マルクスは富める国々が共産化するだろう と予言した。
私はこう予言する。
富める国々は必ず宗教的になり、貧しい国々は 共産主義になる、と。
そして、共産主義を通してひとたび国が豊かになると、 その国は宗教を探し求
めるようになる。
それが今ロシアの魂の深部で起こって いることだ。
今やロシアは、再び神や瞑想や祈りについて考えることができる 地点にやって
来ている。
あなたは驚くかもしれないが、ロシアの人々は密かに 集まって祈っている。
祈りは政府から固く禁じられているからだ。
宗教的であることは、犯罪とみなされている。
この国では、寺院はあるが、訪れる者はいない。
教会はあるが、せめて日曜日には 教会に通うよう、なんとか人々を説き伏せな
ければならない。
人々を寺院や教会や モスクやグルドワラに行かせるには、うまく丸めこまなけ
ればならない。
人々が 密かに地下室に集まり、音が漏れないように黙って祈りを捧げている国
を想像できる かね?
ロシアの魂の奥深くで、再び宗教が浮上しつつある。
それは浮上してきて しかるべきだ。
今やロシアは高い次元のものごとについて考えられるほど豊かに なっている

私の生のヴィジョンでは、物質主義と精神主義は矛盾するものではない。
物質主義は宗教のための道を整える。
私が完全に物質主義者であるとともに、 完全に精神主義者でもあるのはそのた
めだ。
これは、私があなたがたに説いて いる最も基本的な教えのひとつだ。
けっして肉体と魂、世間と神を対立させては いけない。
けっして物質主義と精神主義を対立させてはいけない―肉体と魂の ように、そ
れらはともに手を携えてゆく。
物質主義の立場を取りながら、それを霊性への踏み石として使いなさい。
この姿勢は人々の心マインドに大きな混乱を引き起こすだろう。
というのも、 人々はつねに貧しさを精神的なものだと見なしてきたからだ。
それはまったく 馬鹿げている。
貧しさはこの世で最も非精神的なものだ。
貧乏人は精神的にはなれない。
いくら努力しても、その精神性は表面的なものに とどまる。
彼はまだ豊かさに幻滅したことがない。
その彼がどうして精神的に なりえよう?
大いなる幻滅が必要だ。
外の世界に対する大いなる幻滅が。
そうなったら人は内側を向く。
外の世界に完全に幻滅する地点に到って はじめて人は内を向く―
あなたは世間を見てきた。
あなたは世間を生きてきた。
あなたは経験を積み、そこには何もないことを、すべてはしゃぼん玉のような
はかない体験であることを知るに到った。
世間は大きな約束をするが、何も もたらしはしない。
最後には虚しさだけがその手に残る。
外の世界が人に与える ことができるのは死だけだ。
生命は内側に探求されなければならない。
生命の源はあなたの 内 部 に ある。
樹は種子のなかに潜んでいる。
だが、種子を割って開いても、もちろん樹は 見つからない。
そういうやり方では見つからない。
あなたは種子を育てなければ ならない。
そうすれば種子のなかに隠されていた設計図がひもとかれる。
母親の子宮に宿った子供は種子にすぎないが、あらゆる設計図、あらゆる 可能
性がそなわっている―どんな肉体をもつか、どんな顔になるか、目の色は どう
か、髪の毛、身長、年齢、どれだけ長く生きるか、健康かどうか、男か女か 、
黒人か白人か―あらゆるものが種子に含まれている。
生命はその種子から成長する。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

363鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/07(木) 00:04:09 ID:1d4drIFg0
金も権力も人を幸福にはしてくれないのじゃ。
それを知るために一度は金や権力を得てみる必要がある者も居るじゃろう。
実際に得てみて絶望すれば真の幸福への道に眼を向けることもあるのじゃ。
金や権力を得てもそれができなくて薬や酒で死んでしまう者も多いがのう。

364避難民のマジレスさん:2019/03/07(木) 06:05:58 ID:LC3de7YgO
>>362
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

瞑想とはそこからすべてのものが現れてきた―肉体が現れ、欲望が 現れ、精神
作用マインドが現れてきた―内奥の
中核に引き返すことだ。
あなたは源にもどらなければならない。
宗教とは源への回帰だ― そして源を知ることが神を知ることだ。
源を知ることが目的地を知ることだ。
それらはひとつだからだ。
あなたが最初に芽生えた内奥の中核にもどることは、 あなたが到達したいと願
っている<究極なるもの>に到ることだ。
円は完結する。
アルファがオメガになる瞬間がある。
そのときそこに成就がある。
円が完結するとき、そこに成就がある。
それが呂祖師の『黄金の華の秘密』の教えのすべてだ。
彼は道をはっきりさせようとしている。
どうすれば円を完結させることができるか、
どうすれば光を巡らせることができるか、
どうすれば内側に動いてゆけるか、
どうすればほんの少しの青空を、
ほんの少しの天国を手に入れることができるか―
そうすれば、どこにいても幸せでいられる。
あなたは地獄にいても幸せだ。
今のままのあなたでは、どこにいても不幸になる。
たとえ天国にいても不幸になる。
あなたはそこでも不幸になる手段や方法を見つけだす。
なぜなら、 あなたは嫉妬や怒りや貪欲や所有欲をすべてもち歩いているからだ。
あなたは激怒、性欲、抑圧をすべてもちあるいている。
あなたはこの荷物をそっくりもち歩いている。
天国に着いた瞬間、 あなたはそこでもまたまわりに地獄をつくりだす。
なぜなら、 あなたは地獄の種子をもち歩いているからだ。
清らかであれば、静謐せいひつであれば、あなたは天国 にたどり着くと言われ
ているが、真相はまったくその逆だ。
清らかであれば、静謐であれば、天国があなたのもとにやって来る。
人はけっしてどこへも行かない。
人はつねにここにいる。
だが、ひとたび内側が光で満たされたなら、 外側の世界すべてが変容を遂げる

仏陀はあなたがたと同じ世界で活動している。
仏陀はあなたがたが歩くのと同じ通りを歩いている。
だが、 仏陀はまったく異なる世界に生きている。
仏陀は楽園で暮らし、あなたは地獄で暮らしている。
あなたは仏陀の隣に坐っているかもしれない。
彼の手を取ったり、彼の足に触れたりしているかもしれない。
それほど近くにいても、二つの世界は遥かに遠く離れ、分かれている。
天国にある、完全な祝福のなかにある、神という名のその光輝に包まれる 秘法
は何か?
これがその秘法だ―
呂祖師は言った。
汝らの修行は次第に集中し、成熟してゆくだろう。
タオの道は頓悟とんごの道ではない。
それは禅のようではない。
禅は頓悟だ。
タオはゆっくりと成長してゆく。
タオは突然起こる、唐突な変化を信じない。
タオは<存在>と歩調を合わせることを信じ、けっして自分の流儀を押し付けた
り、川を押したりせず、ものごとをひとりでに起こらせてゆく。
そしてタオは言う。
永遠の時間があるのだからあわてる必要はない。
適切な時に種子を蒔いて、待てばいい。
そうすれば春がやって来る。
春はいつでもやって来る。そして春が来れば、花が咲く。
とにかく待ちなさい。急いではいけない。
樹の成長を速めようと引っぱったりしてはいけない。
「すべてが インスタント・コーヒーのようになればいい」とねだったりしては
いけない。
待つことを学びなさい。自然は実にゆうゆうと動いてゆくからだ。
このゆったりとした動きゆえに、自然には優美さがある。
自然はとても女性的であり、女性のように移ろってゆく。
自然は走らず、急がず、あわてることがない。
自然はひじょうにゆっくりと進む、静かな音楽のようだ。
自然は実に忍耐強い。
そしてタオは自然の流儀を信じている。
タオとはまさに"自然"を意味する。
それゆえに、 タオはけっして急がない。
これを理解しておかなければならない。
タオの基本的な教えはこれだ― 忍耐強くあることを学べ。
無限に待つことができるなら、 それは即座に起こるかもしれない。
だが、即座に起こることを求めてはいけない。
求めれば、それはけっして起こらないだろう。
あなたが求めるそのことが障害になる。
その欲望 そのものがあなたと自然のあいだに溝をつくる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

365鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/07(木) 22:19:32 ID:1d4drIFg0
タオの法はそれ自体が静寂の法となっておる。
受動性を極めるという目指し方が悟りを得た後の静寂とも重なるのじゃ。
悟る前に既に悟りの妙趣を味わう如きなのじゃ。
それが仏教とは違うところなのじゃ。

366避難民のマジレスさん:2019/03/08(金) 07:52:14 ID:LC3de7YgO
>>365
止からはじめて、まず荒れ狂う心を鎮め整え、観に取り組み、思考、感情をコントロールする方法を身につけり、また気功により、実感することと思考とのちがいを体験することにより、
くまは、悟りの妙趣を味わうとまでは言えませぬが、かなり生きるのが楽になったであります。
これは、仏教的な方法ではないのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

367避難民のマジレスさん:2019/03/08(金) 08:12:28 ID:LC3de7YgO
>>364
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

自然と調和を保ち、自然にみずからの道をとらせなさい― それはいつ起こって
もかまわない。
それはいつも時を逸することがない。
起こるのが い つ で あ っ て も だ。
たとえ長い年月がかかるとしても、 それで遅れたことにはならない。
それはけっして遅れない。
それはつねに正しい瞬間に起こる。
タオはあらゆることが必要な時に起こると信じている。
弟子に用意ができたとき、師が現れる。
弟子に究極の用意ができたとき、神が現れる。
それを可能にするのは、性急で、慌ただしい、攻撃的な姿勢ではなく、
あなたのふところの深さ、虚空、受容性、受け身の姿勢だ。
真理は征服できないことを覚えておきなさい。
人は真理に明け渡さなければならない。
人は真理に征服されねばならない。
だが、いつの時代にも、あらゆる国々で 攻撃的で野心に満ちた教育が行なわ
れてきた。
私たちは人々をせきたてる。
私たちは人々の恐怖を煽る。
私たちは彼らに言う。
「時は金であり、じつに貴重なものだ。過ぎ去った時間は もどってこない。だ
からぐずぐずしてはいられない。急げ」と。
これが人々を狂気に駆り立ててきた。
彼らはここからあそこへとあわてて 飛びまわり、どこにいても少しも楽しむこ
とがない。
彼らはこの国際ホテル から別の国際ホテルへと世界中を駆け回る。
どのホテルも似たりよったりだ。
東京であろうが、ボンベイであろうが、ニューヨークであろうが、パリであろう
が 大差はない。
これらの国際ホテルはみな似たりよったりだ。
ところが人々は、この国際ホテルからあの国際ホテルへと駆けまわりながら、
世界一周旅行をしているつもりになっている。
どこもかしこも同じなのだから、 どこかの国際ホテルに腰を据えていればよか
ったし、他のところに出かけてゆく 必要などなかったのだ。
だが人々はどこかに向かっていると考えている。
スピードは人々を神経症に追いやっている。
タオは自然の道だ。
樹が育ち、川が流れるように、 そして鳥や子供たちのように…… それとまっ
たく同じように、人は 神のなかへ成長してゆかなければならない。

呂祖師は言った。
汝らの修行は次第に集中し、成熟してゆくだろう。
あわてないこと。死に物狂いにならないこと。
今日うまくゆかなくても、希望を失うことはない。
今日しくじったとしてもどこもおかしくない。
数日のあいだ失敗がつつ゛いてもどこもおかしくない。
人々は失敗することをひじょうに恐れている。
ただ失敗するのが怖いために、けっしてやってみようとはしない。
怖がるあまり恋をしない人々が大勢いる―誰にわかるだろう?
拒絶されるかもしれないではないか。
そこで彼らは愛情を表現しないでおこうと心に決めた。
そうすれば誰にも拒絶されることはない。
人々は失敗を恐れるあまり、けっして新しいことをやろうとしない―わかるも
のか。
失敗したら、どうするんだ?
そして言うまでもなく、内側に入ってゆくためには何度も失敗せざるをえない

一度もそこに入ったことがないからだ。
あなたは外界での活動や外向的な仕事をこなす手腕や力はそなえているが、ど
うやって内側に入ればよいのかわからない。
人々は「内側に入りなさい、なかに入りなさい」という言葉を耳にしても、何
のことだかわからない。
彼らが知っているのは出てゆく方法だけだ。
彼らが知っているのは他人のところへ出かける方法だけだ。
彼らは自分自身に到る方法をまったく知らない。
それも無理はない。
過去からの習慣ゆえに、あなたは何度も失敗するだろう。
希望をなくしてはいけない。
成熟はゆっくり起こる。
成熟は必ず起こるが、それには時間がかかる。
そして、いいかね。人が違えば、成熟する速さも違う。
だから比較しないこと。
「あの人はとても静かで、楽しそうなのに、私はまだなっていない。いったい
どこがいけないのだろう?」と考えてはいけない。
他人と比較してはいけない。
人はそれぞれ異なる過去生を生きてきたのだから。
今生ですら人々の生き方は様々だ。
例えば、詩人は科学者よりも内側に入ってゆきやすいかもしれない。
受けた訓練が違うからだ。
科学的な訓練は、客観的であること、対象となる事物に注意を向け、対象とな
る 事物を観察し、主体を忘れることにある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

368鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/08(金) 22:40:35 ID:1d4drIFg0
>>366 そうじゃ、違うのじゃ。
そもそも仏教では感覚も初めの段階から厭離することを実践するからのう。
何かを感じることも無いのじゃ。

タオの法は全てが起こるままにさせておくのじゃ。
自らは何にも関わらない。
全てが起こるままにしておけば心は鎮まっていくのじゃ。
そのように何の期待もなくあるがままにしていくことで全ての障害を乗り越えていくのじゃ。

369避難民のマジレスさん:2019/03/08(金) 23:05:15 ID:LC3de7YgO
>>368
なるへそであります。
くまは仏教でなくても良いのであります。
楽になれた事実と、実感が求める全てでありますから。
て、ことは、仏教的には、くまは外道でありますね。
(´・(∀)・`)つ

370避難民のマジレスさん:2019/03/08(金) 23:45:50 ID:LC3de7YgO
>>367
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

科学者は、科学者であるためには、 実験から完全に距離を置かなければならな
い。
科学者は実験に巻き込まれては いけない。
そこに感情をもち込んではいけない。
科学者はコンピュータのように まったく平然としていなければならない。
科学者は人間であってはならない。
そうなってはじめて人は真の科学者となり、科学で成果をあげることができる

さあ、詩人の技量はこれとはまったく違う。
詩人は巻き込まれる。
詩人は花を観察しながら、まわりで踊りはじめる。
詩人は身をもって参加する。
詩人はたんなる超然とした観察者ではない。
舞踏家のほうがもっと容易かもしれない。
舞踏家とその踊りは一体であり、踊りは内に深く根ざしているので、 舞踏家は
たやすく内なるスペースに入ってゆける。
それゆえに、古代の世界各地の神秘的なミステリー・スクールにおいて 舞踏は
秘められた技法のひとつだった。
舞踏はミステリー・スクールや寺院において進化した。
舞踏は最も宗教的な現象のひとつだ。
だが、それはその意味を完璧に失い、まったく正反対のものに成り果ててしま
った。
それは性的な現象になってしまった。
舞踏は霊的な次元を失ってしまった。
だが、いいかね、霊的なものはすべて堕落したら性的なものになってしまうし、
性的なものはすべて上昇すれば霊的なものになりうる。
霊性とセクシャリティは織り合わされている。
数学者よりも音楽家のほうが瞑想に入ってゆきやすい。
人が違えば、 得意な分野も違い、精神構造も違い、条件つ゛けも異なっている

例えば、キリスト教徒のほうが仏教徒よりも瞑想することがむずかしいかもし
れない。
仏教徒たちは二十五世紀ものあいだ瞑想を絶やさ なかったので、その門人たち
はある特定の質をそなえている。
仏教徒が私のもとへ来ると、ひじょうに簡単に瞑想に入ってゆける。
キリスト教徒がやって来ても、瞑想にはまるで馴染みがない。
キリスト教徒は瞑想を完全に忘れてしまっているからだ。
キリスト教が知っているのは祈りだけだ。
祈りはまったく異なる現象だ。
祈りのなかでは他者が必要とされる。
祈りはけっして自立したものではありえない。
祈りはむしろ愛に似ている。
祈りは対話だ。
瞑想は対話ではない。
それは愛に似たものではなく、 愛とはまったく逆のものだ。
瞑想のなかで、あなたは独りっきりになってしまう。
行く場所もなく、関わる相手もなく、対話もない。
他者がいないからだ。
あなたはどこまでも自分自身であり、自分自身以外の何ものでもない。
これはまったく異なる取り組み方だ。
だから、それはあなたが成長する途上で身につけた技能、精神構造、条件つ゛け
、 教育、宗教に左右される。
読んできた本、一緒に暮らしてきた人々、みずからの 内側にかもしだしてきた
波動に左右される。
それは千とひとつのものごとに、 あなたがどれだけ多くのものを吸収すること
ができるかどうかに左右される― が、それは必ず、確実にやって来る。
必要なのは忍耐、黙々と実践することであり、 辛抱強く働きかければ、集中が
生まれ、成熟が起こる。
実のところ、成熟した人と集中力のある人は同じ現象の両側面にすぎない。
だからこそ子供たちは精神を集中できない。
彼らは絶えず動きまわり、一か所に じっとしていられない。
あらゆるものが珍しい―車が通り過ぎてゆく、鳥が鳴き、誰 かが笑いはじめる
、隣の人がラジオをつけている。
蝶々が飛んでゆく―あらゆるもの が、全世界が魅了する。
彼らは次から次へと目移りしてゆく。
彼らは集中できない。
他のことを忘れてしまうほど、世界が存在しなくなるほど、 しっかり腰を据え
てひとつのことに取り組むことができない。
成熟するにつれ、集中力が生まれてくる。
成熟と集中力は言葉は違うが同じものを指している。
だが、まず覚えておかなければならないのは、 それは徐々にやって来るという
ことだ。
比較してはいけない。あわててはいけない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

371避難民のマジレスさん:2019/03/09(土) 13:21:53 ID:LC3de7YgO
>>370
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

だが、断崖に立つ枯れ木のように打坐する境地に到るまでには、 まだ多くの錯
誤を犯す可能性がある。
これに関しては特に注意を促しておかねばならない。
呂祖師は言う―断崖に立つ枯れ木のように打坐する境地に到るまでには
・・・・・・これはとほうもなく美しく、意義深い道家タオイストの表現だ。
これは生きながら死に、
死にながら全一に生きる
ことを意味している。
喜びにあふれ、祝いながら世間のなかで暮らし、しかも世間の一部にはならな
いこと、世間のなかにありながら、
世間が自分のなかに入ってこないようにさせることを意味している。
断崖に立つ枯れ木のように
―それは死人のように生きることだ。
アレキサンダー大王は、サニヤシンをインドから母国へ連れて帰りたかった。
師である偉大な哲学者アリストテレスから「インドからもどるときには、
サニヤシンを連れてきてほしい」と頼まれていたからだ。インドが世界に
貢献したもので、サニヤシンの道、サニヤシンの生き方にまさるものはない。
アリストテレスは深い関心を寄せていた。
彼はサニヤシンがどういう種類の人間なのか見たかった。
それはインドでしか見られないからだ。
それはインドが世界の文化と人類に対して捧げた特別な貢献だ。
世間で生きながら、世間の一部とならず、
超然と離れたままでいるという、まったく異なる世間の生き方だ。
それは池に咲く蓮の花が水中にありながら、水に触れられないのに 似ている。
蓮の花びらにたまった露に朝日が当たると、それは真珠 のように美しく見え
る。
が、露は少しも花に触れていないし、花も 少しも露に触れてはいない。
それほど近くにありながら、遠く離れている……。
「サニヤシンとはどういう種類の人間だろう?」―アリストテレスの関心は哲
学的 なものだった。
彼はサニヤシンになるような人間ではなかったが、アレキサンダー にサニヤシ
ンを連れてくるよう依頼した。
「あなたはたくさんのものをもち返って くるだろう。どうか私には、忘れずに
サニヤシンを連れてきてほしい」
インドを発とうとしていたアレキサンダーは思い出した。
「そうだ、サニヤシンだ」彼はインドの最後の滞在地で人々にサニヤシン のこ
とを尋ねた。
すると人々は言った。
「ええ、この国にはすばらしいサニヤシン がいますが、彼を連れてゆくのはま
ず無理です」
アレキサンダーは言った。
「私にまかせればいい。心配することはない。おまえ たちは私のことを知らな
いな。私がついて来るように命じたら、ヒマラヤの山々 でさえついて来ざるを
えない。サニヤシンなどわけもない。彼はどこにいる? 居どころを教えてくれ
さえすればいい」
そしてその居どころがわかった。
そのサニヤシンとは、川のほとりに住んでいる裸の行者ファキールだった。
そのサニヤシンをアレキサンダーのもとへ連れてくるために、抜き身の剣を 手
にした四人の屈強な男がおくられた。
抜き身の剣を手にした四人の屈強な男たちを見て、サニヤシンは笑いはじめた。
男たちは言った。
「わかっていないようだが、これはアレキサンダー大王の 命令だ。宮廷までつ
いて来てもらおう。大王がお待ちだ」
するとサニヤシンは言った。
「私はずいぶん昔に去来するのをやめた。
私に会いたければ、大王のほうから会いにくればいい。
だが、私はもう 去来はしていない。
去来することは私の心とともに消えた。
もはや来る者もいなければ、去る者もいない。
私はもう存在していない!」
もちろん、このギリシャ人たちは理解することができなかった。
ギリシャ人はインド人とは正反対だ。
インド人は基本的に非論理的であり、
ギリシャ人は基本的に論理的だ。
インド人は詩的、直感的であり、
ギリシャ人 は理知的だ。
この四人の兵士は彼に言った。
「なんというたわけたことを 言っているのか。おまえを引きずってゆくことだ
ってできるんだ!」
サニヤシンは言った。
「 身体を引きずってゆくことはできても、 この私を引きずってゆくことはでき
ない。
身体を牢屋に閉じ込めることはできても、 この私を閉じ込めることはで
きない。
私の自由は損なわれないままだ。
私は蓮の花であり、水は私に触れることができない」
さあ、この言葉はギリシャ人にはさっぱり通じなかった。彼らは言った。
「待っていろ。大王様にお伝えして、処置を仰ぐことにしよう」
(´・(ェ)・`)
(つづく)

372鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/09(土) 23:30:01 ID:1d4drIFg0
>>369 仏陀になるための教えは全て仏教なのじゃ。
 オショーもタオも逃れられないのじゃ。
 わっはっはっは。

断崖の枯れ木のように座れというのじゃ。
もはや全ての計らいを捨てて座るのじゃ。
タオでは座禅のように座ることを座忘というのじゃ。
全てを忘れて座るのじゃ。
自分も忘れたらサマーディに入るのじゃ。

373避難民のマジレスさん:2019/03/09(土) 23:34:06 ID:LC3de7YgO
>>372
苦がのないのが覚者でありますね。
(´・(∀)・`)つ

374避難民のマジレスさん:2019/03/09(土) 23:47:45 ID:LC3de7YgO
>>371
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える3(つづき)
より抜粋

アレキサンダー はこのサニヤシンの美しい言葉を耳にし、ことの顛末てんまつ
を聞いた。
「 彼はすばらしい人で、川岸で日の光を浴びながら裸で坐っています。 彼は
大王のように見えますが、まわりには何ひとつものがありません。 彼は無一物
であり、乞食こつじきに使う鉢さえもっていませんが、 どうどうとしていて、
優美です!彼の目をのぞき込めば、全世界 を支配する皇帝のように見えます。
彼は私たちの愚かさを、私たちが 抜き身の剣を携えていったことを笑い飛ばし
、少しも動じませんでした。 そして『身体は殺せても、この私を殺すことはで
きない』と言ったのです」
アレキサンダーは興味をそそられた。
彼はこの裸のサニヤシンに会いに行った
彼は感動 し、深く心を打たれ、こう言った。
「私と一緒に来ていただこう。これは命令だ!」
だが、サニヤシンは言った。
「 サニヤシンになったその日から、 私は他人の命令に従うことをやめた。 私
は自由な人間であり、奴隷ではない。 誰も私に命令することはできない。私を
殺すことはできても、私に命令することはできない」
アレキサンダーは腹を立て、剣を抜いて言った。
「この場で首をはねてしまうぞ!」
するとサニヤシンは再び笑いはじめた。彼は言った。
「 首をはねるのはいいが、首などとっくの昔に 自分ではねてしまったよ。私は
死人なのだ」
さあ、これが真のサニヤシンの意味だ――死人。
その男は言った。
「死人を殺せるわけがない。それはまったく馬鹿げている。 どうして死人を殺
せるだろう?死人はすでに死んでいて、もうこれ以上死ぬ ことなどできはしな
い。何もかもすでに終わってしまった。あなたは来るのが 少し遅すぎた。私は
もう存在していない。そう、首をはねることはできる。 あなたは私の首が砂の
上に転がってゆくのを見るだろう。 私もまた自分の首が砂の上に転がってゆく
のを見る。 私は見守る者、目撃者だ」
これが「断崖に立つ枯れ木」の意味だ。
アレキサンダーは断崖であり、 このサニヤシンは枯れ木だった。
断崖が枯れ木に何ができるだろう?
枯れ木はすでに死に、息絶えている。
断崖は枯れ木を殺すことができない。
枯れ木は断崖を恐れない。
だが、こうなるまでにはまだ多くのことが起こりうる――
(p318)
まだ多くの錯誤を犯す可能性がある。
これに関しては特に注意を促しておかねばならない。
このような境地は、身をもって体験することではじめて認識できるものである。
いいかね、このうえもなく価値のあるメッセージ――これは探求者たちにとっ
て最もすばらしい論書のひとつだ――
のなかで呂祖が言っていることはすべて、 彼自身がその旅の途上で体験したも
のだ。
だから彼はそれを言っている。
彼はこれらの錯誤を犯したことがある。
弟子たちがこれらの錯誤に足を取られないですむよう、 これらの錯誤に心を乱
されずにすむよう、彼は弟子たちに教えたい。
一度も瞑想をしたことがない者たちには、これらの錯誤が何であるか わからな
いだろう。
身をもって体験してはじめて、彼らもそれをようやく 理解することができるよ
うになる。
だが、<道>の途上にある者たちには心の 用意をさせて、途上にどんな罠が待ち
受けているかを言っておかねばならない。
<道>はそれほど単純ではない。
色々な 場所からたくさんの道が枝分かれしている。
行き止まりの道を選んでしまうこともあるが、 それが行き止まりであること
に気つ゛いたときには すでに何年も、あるいは何生もが過ぎ去ってしまっている。
そして、費やしたすべての努力と旅は無駄になり、 本道を見失った地点まで、
またもどってこなければならなくなる。
そして、道標みちしるべとなるものはない。
いつも使える地図は手に入らないし、そんな地図はつくれない。
なぜなら、神は変化しつつ゛けているからだ。
神の存在とは絶えざる変化のことだ。
変わらないのは変化だけであり、 あらゆるものが変化しつつ゛けてゆく。
だからいつも使える地図などつくれない。
ただヒントだけが与えられる。
これらはヒントだ。
これらのヒントを理解したら、あなた は正しい道をたどることができる。
そして過ちを犯しそうになるたび に、あなたの理解が助けとなる。
まず錯誤について語り、それから確認のしるしとなる体験について話すことに
しよう。
呂祖は言う――「まず起こりそうな錯誤について話し、それから正しい道の上
にいることをはっきりと確認できるしるしについて語ろう」
(´・(ェ)・`)
(つづく)

375避難民のマジレスさん:2019/03/10(日) 07:31:58 ID:LC3de7YgO
>>374
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

修行をはじめるときは、何よりもまずゆったりと くつろいだ気持ちでのぞむよ
うに配慮しなければならない。
これが最初に理解すべきことがらだ。
ひとたび内なる道を行こうと決意したら、
ひとたびサニヤシン、瞑想者になろうと決意したら、
ひとたび内なるものの呼びかけに応え、
「私は誰か?」
という問いの探求、探索に乗り出したら、まず力んではいけないということを
覚えておかねばならない。
ゆったりとした気持ちでのぞみ、
内なる旅が快適なものになるよう心がけなければならない。
さあ、これはとても重要なことだ。
ふつう、この最初の錯誤は誰にでも起こる。
人々は内なる旅をいたずらに複雑で、不快なものにしてしまう。
それはある理由から起こる。
人々は日常の生活で他人に腹立ちを覚えている。
彼らは日常の生活で他人に暴力的になっている。
外に向かうふつうの旅では、人々はサディストになり、
他人を苦しめて楽しんでいる。
他人を打ち負かすことを楽しんでいる。
他人と張り合い、他人を征服するのを楽しんでいる。
他人に劣等感を抱かせることさえできれば嬉しいのだ。
外に向かう旅とはそういうものだ。
政治とはそういうものだ。
これは合法的に、あるいは非合法的に、絶えず他人よりも秀でようとしている
政治的な心理マインドだ。
とにかく、何がなんでも、他人を打ち負かそうと絶えず努力をしている。
相手を叩きつぶさなければならないとしても、臆することはない、叩きつぶせ
ばいい。
とにかく人は勝利をおさめなければならない。
首相や大統領の座につかなければならない。
これやあれやにならなければならない――いかなる犠牲を払ってもだ!
全員が競争相手なのだから、まわりはみな敵だ。
これを覚えておきなさい――そもそも教育というものは、人に闘いの準備をさ
せ、闘う覚悟を決めさせるものだ。
友情や愛の下地を準備させるのではなく、闘い、憎しみ、戦争にそなえさせる
ものだ。
競争があれば、必ず憎悪が生まれてくる。
張り合っている相手に、互いに油断できない相手にどうして友好的な態度を取
れるだろう?
彼らが勝ってあなたが負けるか、あなたが勝って彼らが負けるか、二つにひと
つだ。
だから、あなたがたのいわゆる友情は見せかけ、形だけのものにすぎない。
それは人生を円滑に送るための潤滑油の一種だ。
が、奥深くでは友人はひとりもいない。
友人たちでさえ友人ではない。
なぜなら、彼らは互いに比較し合い、張り合っているからだ。
野心、政治的な駆け引きに満ちた教育のために、この世界は戦場になってしま
った。
人が内側に方向を転じると、問題が起こってくる。
これらの怒り、憎しみ、攻撃性、暴力はどうなるのだろう?
今や彼はひとりだ。
彼は自分自身を痛めつけはじめる。
彼は自分自身に腹を立てる。
いわゆる大聖マハトマたちはまさにそれだ。
彼らは
なぜ自分を痛めつけているのだろう?
なぜ断食しているのだろう?
なぜ針のベッドの上に横たわっているのだろう?美しい木陰があるのに、
なぜ焼けつく太陽の下に立っているのだろう?暑いのに、
なぜ火のそばに立っているのだろう?
寒いのに、
川や雪のなかになぜ裸のまま立っているのだろう?
これは姿を変えた政治家たちだ。
彼らは最初は他人と闘っていたが、まわりに誰もいないので、自分自身と闘っ
ている。
彼らの精神は分裂している。
彼らは自分自身を分裂させてしまった。
それは今や内戦だ。彼らは肉体と闘っている。
肉体はいわゆる大聖マハトマたちの犠牲になっている。
肉体に罪はない。
肉体はあなたに何ひとつ悪いことはしていない。
だが、いわゆる宗教は「肉体は敵だ、肉体を痛めつけろ」と説きつつ゛けてき
た。
外へ向かう旅はサディズムの旅だった。
内へ向かう旅はマゾヒズムの旅になる―― 人は自分自身を痛めつけはじめる。
そして、自分自身を痛めつけることには、 ある種の歓び、倒錯した喜びがある

歴史を調べてみれば、驚くだろう。
人間が自分自身に対して何をしてきたか、とても信じられないだろう。
人々はみずからの身体を傷つけ、手当てもせずに放置してきた――身体は敵だ
からだ。
キリスト教、ヒンドゥー教、ジャイナ教、その他様々な宗派があるが、彼らは
実に抜け目のない、狡猾な、うまいやり方で身体を痛めつけるようになった。
彼らは身体を痛めつける大した技法を開発した。
断食を称賛するだけでなく、みずからの身体を叩き、鞭打つキリスト教の一派
があった 。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

376鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/10(日) 21:55:10 ID:1d4drIFg0
>>373 そうじゃ、覚者には苦が無いのじゃ。

タオではまずくつろぐことが大事というのじゃ。
全ての争いや競争や欲を捨てて座るのじゃ。
あらゆる社会や組織での競争や価値観をも捨てるのじゃ。
塵に等しい者となることで全てを捨てるのじゃ。

377避難民のマジレスさん:2019/03/10(日) 22:39:30 ID:LC3de7YgO
>>375
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

最もすぐれた聖者とは、みずからの手で最も自分の身体をひどく傷つけた者だ
った。
人々はやって来て、彼らの傷を数えたものだった。
他人の傷を数えるとは、いったい どういう連中だろう?
彼らもまた倒錯した喜びに浸っていたにちがいない。
インドではジャイナ教の行者ムニたちが身体を傷つけている。
ディガムパラ派に属する ジャイナ教の僧侶は毎年髪の毛をむしり取る。
そして彼らが髪の毛をむしるときには 大勢の人が集まってくる。
それは苦痛に満ちているが、人々は「立派な苦行が行なわれ ている」と楽しみ
にしている。
その男はたんなる倒錯した精神病者にすぎない。
彼には 電気ショックが必要だ。
それ以外のものでは役に立たない。
髪の毛をむしりはじめる行為には、ある種の狂気が含まれている。
そして、 あなたが夫であれば知っているように、怒り狂った妻は、ときどきそ
れをやる ことがある。
妻のほうがそれをよくやるのは、妻は夫を殴るべきではないと教え られてきた
からだ。
ではどうすればいい?夫を殴りたいが、殴るわけにゆかない。
経典には夫は神であると述べられている。
それがまったくのたわごとであることは わかっているが、経典は経典だ。
彼女は夫のことを知り尽くしている――夫が神だと したら、いったい悪魔は誰
だろう?
だが、それは口にしてはならない。
彼女は夫の 足に触れなければならない。
妻が夫に愛の便りを送るときには「あなたの下僕」と 書かなければならない。
どちらが下僕か彼女は知っているのだが!
誰もが実情を知っているが、うわべを取り繕わねばならない。
妻が夫を殴れば、何か 罰当たりなことをしたような、罪を犯したようなやまし
さが湧いてくる。
だから夫を 殴るわけにはゆかない。
だが、彼女は 本 当 に 殴りたいのだ!
だったらどうすれば いい?皿を割るか――そんなことをしたら損をするだけで
、自分が苦しむだけで、何の 役にも立たない――それとも最も手軽で、安価で
、経済的な方法を取り、自分自身を 叩き、髪の毛をかきむしり、壁に身体を打
ちすえ、壁に頭をぶつけるか。
これが一番安上がりな方法だ。
彼女は夫の頭をぶちたいのだが、そうすることはでき ない。
それは許されておらず、倫理にもとる。
誰がこの観念を彼女に吹き込んだのだ ろう?
夫や彼の仲間の僧侶や政治家たちだ。
精神病院に行けば、髪の毛をかきむしっている人が大勢いる。
人々が髪の毛をかきむしることには一種の狂気がある。
さて、髪の毛をむしり取っているジャイナ教の僧侶は、本当は病気だ。
だが、人々は 集まってお祝いをする――「とても偉大なことが行なわれている
!見ろ!なんと すばらしい聖者だろう!」
こういった人々は病気だ、と言ったばかりに、私は反感を 招いてしまった。
ことは単純だ、ごく単純だ。彼らは私に反発せざるをえない。
キリスト教の宗派には……かつてロシアには性器を切り取る一派があって、盛大
な 集会が開かれたものだった。
ある定められた日に、人々はそれを行なった。
それは 精神錯乱だった。
ひとりが自分の性器を切り取り、それを投げ捨てると、あたり一面 に血がまき
散らされる。
するとその錯乱状態が、ただ見物にきていた人たちに乗り移る 。
つつ゛いて誰かが飛び込んで、その行為に加わってゆく。
祭りが終わる頃には、 性器の山ができている。
こういう連中が偉大な聖者と見なされた。
女性たちはどうしていいかわからなくなり、乳房を切り落としはじめた。
負けてはいられないからだ。
女性たちは乳房を切り落としはじめた。
単純な錯誤からあらゆる種類の愚かな行為が起こりかねない。
あなたが内側に向かいはじめると、それまで他人の人生に難癖を つけてきた古
い思考様式マインドが、あなた自身の生に難癖を つけようとする――そういっ
た錯誤が起こりかねない。
いいかね、内なる探求者はゆったりとした気分でいなければならない。
ゆったりとくつろいでいるときにのみ、何かが起こりうるからだ。
緊張し、不快な気分を味わっているときには、何も起こらない。
緊張し、不快な気分を味わっているときには、心が乱れ、 穏やかな気分ではい
られない。
腹が減っているのに、どうして穏やかな気分でいられるだろう?
ところが人々は断食を説いてきた。
彼らは断食は瞑想の助けになると言っている。
ときおり断食が体調をよくする助けになることはあるだろう。
不要な体重がいくらか減るかもしれない。
だが、断食は瞑想の助け にはならない。
断食していると、食べ物のことばかりが頭に浮かぶ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

378鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/11(月) 23:55:42 ID:1d4drIFg0
苦行は世界のどこにでもあったものじゃ。
それは他人に恐れと恐れの克服を見せるが故に畏敬の対象になったが悟りとは関係ないものじゃ。
苦行では悟りは訪れないのじゃ。
そうであるからお釈迦様も苦行を捨てたのじゃ。

379避難民のマジレスさん:2019/03/12(火) 03:52:08 ID:LC3de7YgO
>>377
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

聞いた話だが…… 結婚したカップルが地区の牧師に相談に来た。
最初は深刻そうだった会話も 次第に打ち解けてきて、牧師はこの地区にかわいい娘が何人いるか数えあげた。
「牧師さん」と夫は言った。
「驚きましたよ」
「なぜですか?」と牧師は尋ねた。
「ダイエット中でも、メニューは見ていいんですね」
セックスを抑圧している人々はメニューばかりを見ている。
空腹を抑えている人々は食べ物のことばかり考えている。
それは自然なことだ!
瞑想などできるはずがない。
断食していれば、次から次へと料理の名前が心に浮かび、 美味しそうな料理が
続々と湧いてくる。
美味しい食べ物の香りや味覚に触れて、あなた ははじめて鼻が生きているのを
感じ、はじめて舌が生きているのを感じるようになる。
ときどき断食して食べ物に対する興味を取りもどすのはよいが、それは 瞑想の
役には立たない。
味覚を取りもどすために、身体をもう少し敏感に させるのはよい。
だが、断食は断食明けのごちそうに役立てるべきだ!
食欲を取りもどすためにときおり食べないのはよい。
それは健康のためにはよい。
だが、瞑想は断食とはいっさい関係がない。
満ち足りているときよりも、 腹を減らしているときのほうが瞑想はむずかしく
なる。
確かに、食べ過ぎも また問題をつくりだす。
食べ過ぎてしまうと眠くなるからだ。
まったく何も食べずにいると、空腹を感じる。
真ん中にいることが正しい道――中庸だ。
空腹を感じずにすむように食べなさい。
だが、 胃がもたれ、眠気をもよおす
ほど食べ過ぎてはいけない。
そうすれば瞑想がやりやすくなる。
中庸は、あらゆる面で、あらゆる状況において実践されなければならない。
ゆったりとくつろぎなさい。
自分自身を痛めつける必要はない。
不要な問題をつくりださなくてもよい。
怒り、暴力、攻撃性に満ちた想念マインドを落としなさい。
そうしてはじめて内側に入ってゆくことができる ――くつろいだ意識のなかで
、はじめて人は内側に 深く深く漂ってゆくことができるようになるからだ。
完全なくつろぎのなかで、人は内奥の中核にたどり着く。
(p325)
修行をはじめるときは、何よりもまずゆったりとくつろいだ気持ちでのぞむよ
うに配慮しなければならない。
あまり多くのことを求めてはならない。
求め過ぎると、緊張が起こり、不安が生まれるからだ。
実のところ、何ひとつ求めてはならない。
ただ待つのだ。
こころハートに種子をまいて仕事をはじめ、春を待つがいい。

あまり多くのことを求めてはならない。

人々は多くのことを求めるようになる。
彼らは即席の悟り、サマーディを欲しがる。
彼らは即席のニルヴァーナを欲しがる。
ときどき愚かな人々が私のもとに来てこう言う―-
「七日も瞑想したのですが、まだ何も起こっていません」
七日だって?七千万回も生まれ変わりながら、彼らは瞑想に反することばかり
やってきたというのに。
たったの七日で……。
まるで神や私に貸しがあるかのようだ。
彼らは不平を言いながらやって来る。
「何も起こりませんでした。七日が過ぎ、キャンプはあと三日しか残っていな
いのに、私たちはまだ光明を得ていません!」
求め過ぎてはいけない。
あまり欲張ってはいけない。
もう少し分別をもちなさい。
ものにはすべて時間がかかる。

気の動きとこころハートの動きがおのずから調和するように配慮しなければならない。
いいかね、成果のことは気にかけなくていい。
成果はつねにあなたの必要と力量に応じて現れる。
何であれあなたに準備ができていることが起こる。
成果が現れなければ、それはたんにあなたにはまだ準備ができていないという
ことだ。
そのための準備をしなさい。
成果を求めても役に立たない。
自分にまだ力量が足りないことを認め、こころハートを
もっと浄化し、
もっと意識を集中し、
もっと瞑想し、
もっと静かになり、くつろいで、内界と
もっと調和してゆくことだ。
そして待ちなさい。
こころハートと気エネルギーが調和すると、成果はおのずと現れるからだ。
種子をまいてしまえば、土を掘り返し、毎日種子の様子を調べる必要はない。
そんなことをすれば種子は死んでしまって、けっして何も起こらなくなる。
何ヶ月も何も起こらないとしても、あなたはただ待つより他にない。
何ヶ月も何も起こらないとしても、あなたは水をやり、肥料をやり、
世話をしつつ゛けなければならない。
するとある日、朝早く、不意に奇蹟が起こり……
種子が芽を吹く。小さな双葉が顔を出し、奇蹟が起こっている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

380鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/12(火) 23:41:21 ID:1d4drIFg0
瞑想し、観察をすれば変化は着実にやってくるじゃろう。
しかし、変化を期待したり、変化しようとしてはいかんのじゃ。
日々の集中と観察にただひたすら努めるのじゃ。
そうすれば変化は自ずからやってくるのじゃ。

381避難民のマジレスさん:2019/03/13(水) 00:09:59 ID:LC3de7YgO
>>379
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

見えなかったものが目に見えるようになっている。
この世にこれにまさる奇蹟はない。
種子が芽を出している。
さあ、踊りなさい!
だが、ものごとにはつねにふさわしい時というものがある。
(p326)

そうしてはじめて静かな境地に入ってゆける。
この静かな境地に入っているときには、 正しい状況と正しい空間をつくらな
ければならない。
言うまでもないことだ。
薔薇の園をつくろうとしているなら、土をそっくり入れ替えなければならない

石を取り除き、古い根を取り除き、雑草を取り除かなければならない。
あなたは外界から守られた、新しい状況と新しい空間をつくりださなければな
らない。
あなたは周囲に柵を設けなければならない。
薔薇を栽培するつもりなら、こうしたことをすべて整える必要がある。
瞑想は薔薇、最もすばらしい薔薇、人間意識の薔薇だ。
この書物が『黄金の華、黄金の薔薇の秘密』と呼ばれているのはそのためだ。
正しい状況とは何だろう?
正しい空間とは何だろう?
世事の只なかで坐ってはいけない。
瞑想が深まる場所を見いださなければならない。
例えば、映画館に行って最前列に坐ったり、駅に行ってプラットホームに坐る
よりも、樹の下に坐るほうが助けになる。
いまだにタオがあたり一面に流れ、その波動を放ち、脈打ち、ほとばしってい
る大自然、山々のなか、樹々のもと、川のそばへ出かけていったほうがいい。
樹は絶えざる瞑想のなかにある。
樹の瞑想は静かであり、無意識だ。
私は樹になりなさいと言っているのではない。
あなたはブッダにならなければいけない!
だが、ブッダと樹には共通点がひとつある。彼は
樹のように青々と繁り、
樹のように樹液に富み、
樹のように祝っている。
もちろん、違いもある――
ブッダには意識があるが、樹は無意識だ。
樹は無意識な状態でタオのなかにあり、
ブッダは意識とともにタオのなかにある。
だが、その違いは大きい。
天と地ほどの差がある。
だが、樹のそばで坐っていると、まわりで美しい鳥たちが歌い、孔雀が舞い踊
り、流れる川のせせらぎが聞こえてくる。
あるいは滝のそばで坐っていると、そのすばらしい音楽が聞こえてくる。
自然がまだ乱されず、汚されていない場所を見つけなさい。
そういう場所が見つからなければ、戸を閉めて、部屋のなかで坐りなさい。
もしそれができるなら、瞑想だけをする部屋を用意するといい。
ほんの片隅でいいから、瞑想だけに使うようにする。
専用にするのは、どんな種類の行為も独自の波動を放つからだ。
そこで瞑想だけをすれば、その場所は瞑想的になる。
毎日瞑想をするたびに、その場所はあなたの瞑想の波動を吸収する。
翌日部屋に入ると、その波動があなたに返ってくるようになる。
それは助けになる。
それはもどってくる。
それが応えてくれる。
寺院、教会、モスクの背景にはそのような着想がある。
その着想はすばらしい。
みんなが祈りや瞑想に使う部屋を個別にもつことはできないかもしれないが、
村で専用の部屋を設けることならできる――人がたむろせず、俗事が行なわれ
ることのない、川岸の樹々に囲まれた寺院。
瞑想がしたくなれば、その寺院にゆけばいい。
そして寺院にいる人の邪魔をしてはいけないことをみんなわきまえている。
聖地とは瞑想にふさわしい条件を満たした空間に他ならない。
激しい怒りを感じているなら、それは瞑想にふさわしい時ではない。
それでは流れに逆らうことになる。
ひじょうに貪欲になっているなら、それは瞑想にふさわしい時ではない。
なかなか瞑想に入れないだろう。
だが、簡単に瞑想に入ってゆける瞬間がある。
太陽が昇ってゆく。
日の出を見ていると、突然、内側がひっそりと静まり返り、まだあなたは騒が
しい街の一部ではない――これこそ瞑想にふさわしい時だ。
今日は気分がよく、健やかで、誰とも言い争いをしていない――これこそ瞑
想にふさわしい時だ。
友達がやってきて、あなたは愛に満たされている――これこそ瞑想にふさわし
い時だ。
あなたは恋人とともにいて、二人はこのうえもなく幸せだ――一緒に坐って瞑
想するがいい。
恋人や友人と一緒に瞑想することができたら、あなたは人生で最大の喜びが生
まれているのを見いだすだろう。
正しい状況を見いだせない者などひとりもいない。
二十四時間のうちには、たやすく瞑想に変容できる瞬間が何度も訪れる。
そういった瞬間には、あなたは自然に内側に入ってゆきつつあるからだ。
満天の星空の夜、大地に身を横たえ、星を眺め、調和を感じ……そして瞑想す
るがいい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

382鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/13(水) 23:05:32 ID:1d4drIFg0
世間で遊び呆けていながら瞑想に入ることは出来ないものじゃ。
一度座ろうとしても遊び仲間が誘いにきたりするじゃろう。
そして遊んでしまうじゃろう。
瞑想には生活をも変える必要が在るのじゃ。
一度でできなければゆっくりとでも変えていくが善いのじゃ。

383避難民のマジレスさん:2019/03/13(水) 23:24:45 ID:LC3de7YgO
>>381
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

ときどき山で休暇を過ごすのもいい――だが、ラジオをもってゆかないこと。
さもないと、がらくたを丸ごともってゆくことになる。
そして山に行くときには、自分の連絡先や電話番号を誰にも教えてはいけない。
教えるくらいなら、どこにも出かける必要はない。
山に行くのなら、数日のあいだ世間のことをすっかり忘れてしまいなさい。
それが休日(holiday)の意味だ。
それは神聖(holy)なものでなければならない。
それではじめて休日の名に値する。
神聖なものでなければ、神々しいものと調和していなければ、それは休日では
ない。
人々は自分たちの世界をもち歩いている。
私は数人の友人とともにヒマラヤに行ったことがあるが、
そこで独りにさせて欲しいと頼まなければならなかった。
というのも、彼らはトランジスター・ラジオや新聞や雑誌や読みかけの小説を
もってきていたからだ。
そして彼らは絶えずおしゃべりをして、いつもくり返している話題をまたもや
もち出してきた。
だから、私は彼らに言った。
「何のためにヒマラヤに来たのかね?その話は家でたっぷりしてきたはずなの
に、またここで同じ話を、同じゴシップを、同じうわさ話をくり返すのかね」
私と一緒に美しい場所へ行くたびに、彼らはカメラを取り出して、写真を取っ
た。
私は彼らに言った。
「ここに来たのは目で見見るためだろう。ヒマラヤを見るためにカメラをもっ
てきたわけじゃないだろう!」
だが彼らは言った「すてきなアルバムをつくるんだよ。どんなにすばらしい場
所を訪れたかあとで振り返るんだ」
ところが、彼らはその場にいなかった。
彼らはひたすらカメラのシャッターを押していた。
こういった愚かな振る舞いをもち込んではいけない。
そして、ときどき山に行くのはいい。
だが、私は山で暮らしはじめなさいと言っているわけではない。
それはよくない。
なぜなら、あなたは山に中毒し、世間にもどるのが怖くなってしまうからだ。
休日はあくまで休日だ。
休日が終われば、世間にもどり、聖なるものの 安らぎ、静けさ、体験をすべて
もち帰るのだ。
それを一緒にもち帰るのだ。
それがにぎやかな街のなかでも自分のもとにとどまるように努力するがいい。
これらの示唆は初心者のためのものだ。
本当に瞑想が身につけば、映画館の席に坐っていても 瞑想できるし、駅のプラ
ットホームでも瞑想できる。
十五年前、私は休む間もなくインドを旅していた。
旅は途切れることなく、 年がら年中、来る日も来る日も、昼夜を問わず、いつ
も汽車や飛行機や 車に乗っていた。
だが、どこにいても同じだった。
みずからの実存に 本当に根つ゛いてしまえば、どこにいても変わらなくなる。
だが、それは初心者にはむずかしい。
樹が根つ゛いてしまえば、風が吹こうが、雨が降ろうが、雷が鳴ろうが、 まっ
たくかまわない。
かえってそのおかげで樹は完全なものになる。
だが、 樹が小さくてひ弱なときには、子供でさえも危険だ。
あるいは牛が通り 過ぎただけで、その聖なる動物に踏みつぶされてしまうかも
しれない。
初心者には、いいかね、この呂祖の示唆はこのうえもなく重要だ。
すなわち精神は虚しい熱中から自由でなければならない。
世間のしがらみ をすべて脇によけ、泰然自若としていなければならない。
瞑想しようとしているときには、電話をはずし、人との関わりを絶つ。
ドアに「瞑想中につき、一時間はノックをしないように」と書いた紙を貼って
おくといい。
そして瞑想ルームに入ってゆくときには、靴を脱ぎなさい。
聖地の上を歩いているからだ。
さらに靴だけでなく、頭を占めていたものをすべて脱ぎ捨てる。
意識しながら靴と一緒にあらゆるものを置いて、からっぽの状態で内側に入っ
てゆく。
二十四時間のうち一時間くらいなら都合がつけられるだろう。
二十三時間は仕事、欲望、思考、野心、投影に当てればいい。
こういったことすべてのなかから一時間だけ暇をつくりだしなさい。
最後には、生涯のうちその一時間だけが自分の人生の本当の時間だったこと
に気つ゛くだろう。
他の二十三時間はまったくの無駄だった。
その一時間だけが手元に残り、他の時間はすべて水泡に帰してしまったと。

また正しい手順にこだわり過ぎてもいけない。
覚えておかねばならない二番目のことがらは、正しい手順に気をとられ過ぎて
はならないということだ。
さもなければ、特定の姿勢で坐るべきだといったような考えが頭にこびりつい
て離れなくなる。
坐ることができるのはいいが、もしそれが不要な脅迫観念になるようなら、落
としてしまいなさい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

384避難民のマジレスさん:2019/03/14(木) 20:04:36 ID:LC3de7YgO
>>383
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

例えば、正式な蓮華座では坐ることができないかもしれない――それはずっと
椅子の生活をつつ゛けてきた人にはむずかしい。
筋肉が特定の仕方で発達しているためにむずかしい――そうなると脚が気にな
って仕方なくなってくる。
だから、蓮華座を無理強いする必要はない。
蓮華座を組むのがやさしければ問題はない。
組めなければ、どんな姿勢でも蓮華座になる。
床の上に坐れなければ、坐るのがむずかしければ、椅子に坐ればいい。
瞑想は椅子を怖がったりなどしない。
それはどこでも起こりうる。
先日、レヌがこう尋ねた。「木馬の上でも悟りは起こりますか?」
起こるかもしれない。それどころか木馬ですら悟るかもしれない!
そのことは心配しなくてもよい。
だから、呂祖は言う……
また正しい手順にこだわり過ぎてもいけない。
わずかに注意を払うだけでいい。
背骨が本当にまっすぐ伸びているかどうか、頭が背骨の上にちゃんと乗ってい
るかどうか、両目が呂祖の指示通りに向けられているかどうか……
それにあまりこだわり過ぎてはいけない。
あなたがたの目と呂祖が語っている目とは種類が違う。
中国人とその目のことは知っているだろう。
実のところ、中国人たちはいつも鼻の頭を見ているように見える。
彼らの目は半分つぶっているようだ。
中国人にサニヤスを授けるとき、私は彼らの目を見つめるのに大へん苦労する。
あなたがたは違う種類の目をもっている。人によって目の種類も鼻の種類もそ
れぞれ違っている。
だから、こういった小さなことにあまりこだわり過ぎないこと。
それらはしるしにすぎない。
それらを理解し、吸収したら、自分の道を行くがいい。
自分自身の道を見いだしなさい。
覚えておかねばならない基本的な注意は、ゆったりとくつろいでいなければな
らないということだ。

あれこれ工夫をしすぎるとこの危険が生じる。
私は工夫をしてはならないと言っているのではない。
正しい道は有と無のあいだに等しい距離を保つことにある。
人はちょうど真ん中にいなければならない。
人々は活動的になり過ぎるか、怠惰になり過ぎるかする。
活動的になり過ぎると、不安が――一種のあわただしさ、性急さ、速さ、落ち
着きのなさが起こってくる。
怠惰になり過ぎると、眠気、一種の無気力さ、昏沈が生じてくる。
真ん中にとどまることをつねに判断の基準とするべきだ。
食べ過ぎてはいけない。
腹をすかし過ぎてはいけない。
寝過ぎてはいけない。
睡眠不足もいけない。
つねに真ん中にとどまることを忘れてはならない。
行き過ぎは禁物だ。
あらゆる極端を落とさなければならない。
なぜなら、真ん中にのみ、くつろいだ心の状態があるからだ。

目的を通して無目的を達成することができるなら、ものごとを体得したことに
なる。
この種のバランスを、
努力と無努力、
目的と無目的、
存在と不在、
心と無心、
有為と無為のあいだで達成することができるなら……

目的を通して無目的を――努力を通して無努力を、有為を通して無為を――
達成することができるなら、要点を体得したことになる。
みずからを放下し、超然と乱れず、泰然自若としていればいいのである。
これが基本だ。
そうなれば人は事物の流れとともに流れてゆける。
人は自分を解き放つことができる。
(p333)
また人は誘惑に満ちた世界の餌食になってはいけない。
誘惑に満ちた世界とは、五つの暗い悪魔が遊び戯れる場所だ。
不動の境地と言うと、人はよく枯れ木や冷たい灰を思い浮かべるが、 大地が明
るい春を迎えている姿を思い浮かべることはめったにない。
いいかね、
宗教的な人間にとって最大の課題は深刻になり過ぎないことだ。
宗教的な人間にとって最大の課題は悲しまないことだ。
宗教的な人間にとって最大の課題は否定的にならないことだ。
なぜなら、ふつうはそうなってしまうからだ――宗教的な人間は悲しみに沈み
、ひどく深刻になり、生に対して否定的になる。
彼らは春のことをすっかり忘れてしまう。
彼らは枯れ木や冷たい灰のことばかり考える。
彼らはバランスを失っている。
ときには大地が明るい春を迎えている姿を想起しなければならない。
真に宗教的な人間はユーモアの感覚をもち合わせている。
真に宗教的な人間は誠実ではあるが、けっして深刻ではない。
為すべきことに完全に身を捧げているが、けっして「俺のほうがおまえより高
潔だ」といった態度は取らない、絶 対 に 取らない。
けっして優越感にひたることはなく、謙虚だ。
真に宗教的な人間は雨や風とともに踊ることができる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

385鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/14(木) 23:03:17 ID:1d4drIFg0
何かに拘りすぎればそれもまた障害になるものじゃ。
法にさえ拘れば道を外れてしまうのじゃ。
なにものにも拘らずに進んでいくのじゃ。
その拘らないことにも拘らないようにするのじゃ。
自己が知れようとしたときには何もかも捨てて邁進するがよいのじゃ。

386避難民のマジレスさん:2019/03/14(木) 23:22:42 ID:LC3de7YgO
>>384
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える
より抜粋

子供たちと一緒に微笑み、笑うことができる。
生のあらゆる状況にくつろぐことができる。
それが自由だ。
それは自我エゴからの自由だ。
自我は人を深刻にする。

そのようにして人は暗黒の世界に沈んでゆくのである。
深刻になり過ぎると、暗黒の世界に、否定的な世界に沈んでゆく。

そこではエネルギーは冷え、息は荒くなり、 寒さと衰亡のメッセージが頻繁に
現れてくる。
いいかね。冷淡になってはいけない。
世のいわゆる聖者たちは冷えきっている。
彼らは要点をすっかり取りちがえている。
冷静クールになるのはいいが、けっして冷淡コールドになってはいけない
――この二つには大きな違いがある。
そこにはとても深いパラドックスがある。
私は「涼しいクール」と言う。
それは熱を帯びた情熱と比べれば涼しいが、死の冷たさと比べたら温かい。
死の冷たさと比べれば温かいが、ぎらぎらした生への欲望に比べれば涼しい。
それは温かくもあり涼しくもある。
真に宗教的な人間は情欲をもたないがゆえに涼しい。
彼は悲しんだり深刻になることがないので温かい。
そういう状態に長くとどまっていると、植物や石の世界に入ってゆく。
あまりに冷え過ぎると、やがてあなたは岩のようになり、無意識になってしま
う。
あなたは人間から転落する。
私の観察によれば、巷の聖者の多くは人間から転落してしまっている。
彼らは超人になるのではなく、人間以下に落ちてしまった。
彼らは岩や石の世界に属している。
(p335)

また人は数知れない誘惑に惑わされてはならない。
これが起こるのは、静かな境地がはじまった後、突然 あらゆる妄想のつながり
が続々と現れてくるときである。
それを打ち破ろうとしても、どうにもならない。
その妄想を追うと、気分が軽くなったような感じがする。
精神分析が道を誤ったのはここだ。
精神分析は自由連想の技法になってしまった。
あなたはどこまでもつつ゛けてゆくことができる。
想念が次から次へと現れ、それが無限につつ゛いてゆく。
次から次へと現れる想念から身を引いたままでいなければいけない。
想念はやって来て、四方からあなたを取り囲む。
想念は雲に似ている。
わずかに顔をのぞかせていた青空さえも消えてゆく。
そして想念ではち切れそうになると、人は本能的に闘いはじめる。
瞑想とは無念無想の状態であることを読んで知っているからだ。
だが、
闘ってもけっして無念無想にはなれない。
闘っても負けるだけだ。
闘うことそのものが敗北の原因になる。
影と闘うことはできない。
闘っても負けるだけだ。自分の影と
闘おうとしたら、あなたは負けるしかない――
影がとても強いからではなく、
影など 存 在 し な い からだ。
存在しないものと闘って、どうして勝つことができるだろう?
想念は影だ。闘ってはいけない。
闘わなければ、もうひとつの道が開かれる――精神分析が選んだのはそれだ。
その場合には、想念とともに動き、想念を自由に漂わせ、自由に連想を起こら
せる。
ひとつの想念が別の想念に結びつき、またその想念が別の想念に結びついて次
々と連想が起こり、それが延々と果てしなく、うんざりするほどつつ゛いてゆ
く。
これには一種のくつろぎに似た感覚がともなう。
精神分析が終わると、人々が安堵し、救われた気持ちになるのはそのためだ。
救われたわけでもないし、助かったわけでもない。
たんに闘いが消えただけだ。
あなたが緊張するのは闘うからだ。
闘わなければ緊張は消える――そして緊張が消える ことで、あたかも救われた
ような気分になる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

387鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/15(金) 22:44:25 ID:1d4drIFg0
想念が次々に浮かんで止まらないのは初心の内にあることじゃ。
それをただ眺めるようにしていればやがては止まるのじゃ。
無理に戦ってはいかんのじゃ。
それがこつなのじゃ。

388避難民のマジレスさん:2019/03/16(土) 00:51:00 ID:LC3de7YgO
>>386
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

ムラ・ナスルディンは、二サイズも小さい、きちきちの靴をはいていた。
彼は一日中不平をこぼし、靴に腹を立てていた。
ある日、私は彼に尋ねた。
「靴を変えればいいじゃないか。どうして文句ばかり言っているんだい? 誰も
その靴をはけと無理強いしていないだろう。新しい靴を買えばいいじゃないか」
彼は言った。
「だめだ!絶対にいやだ!」
私は言った
「なぜだい?」
彼は言った。
「それが唯一の慰めだからだよ。一日中靴と格闘したあと、家に帰って靴を 放
り出し、ベッドに横になると、とても気分がいいんだよ!」
それは気分がいい。
想念と闘っても勝ち目がないので、闘うことをやめ、 想念を自由に漂わせ、想
念とともに動いてゆくと、気分がよい。
精神分析の 秘密はひとえにそこにある。
精神分析はまったく助けにならない。
闘いをやめさせるから、気分がよくなるだけだ。
呂祖は言う。
「どちらも正しくない。闘う必要はないし、 想念を野放しにして、その後を追
う必要もない。 あなたは見守る人、目撃者のままでいればいい」
これは主人が召使になってしまったことを意味する。
想念の後を追えば、主人が奴隷になってしまう。
もしこのような状態に長くとどまっていると、 幻想に満ちた欲望の世界に入っ
てしまう。
主人の立場を取りもどさなければならない。
あなたは奴隷ではなく主人にならねばならない。
主人であるとはどういうことだろう?
目撃者でいることが主人であることだ。
そこにある想念を見守りなさい。
穏やかに、静かに、見守りなさい。
想念が来ては去るにまかせなさい。
想念が現れては消えるにまかせなさい。
あなたはただ気つ゛いている――
想念が現れ、とどまり、去ってゆく――
すると、まもなく想念が現れる回数がどんどん減ってゆくポイントが来る。
そしていつの日か、すきまが現れ……
いっさいの想念が消えている。
そのすきまのなかで、最初の神の体験が起こる。

最善の場合には、天国に生まれ、最悪の場合には、野狐の世界に生まれる。
確かに、こういった野狐の霊は有名な山々に住み、風や月、花や果実を楽しみ、
珊瑚のような樹や宝石のような草を楽しんでいるが、果報が尽きれば、 再び混
乱の世界に生まれ変わるのである。
瞑想がうまく進むと、あなたは天国に、永遠の至福のなかに生まれる。
しくじり、道をはずれると……道家では、そうして道をはずれることを、
最悪の場合には、野狐の世界に生まれる、と表現している。
野狐とは詩人の精神スピリットだ。
野狐とは空想力に富んだ精神のことだ。
瞑想の途中でしくじっても、何かが得られる。
あなたは樹や花、世界やその美しさを前よりももっと楽しむことができるよう
になる。
だが、やがて瞑想によってつくりだされたエネルギーは尽き、あなたは昔の混
乱に舞いもどらざるをえなくなる。
いいかね、瞑想がうまく進むと、喜びは永遠にあなたのものになる。
だが、失敗してもすばらしい喜びや詩の瞬間がいくつかは訪れる。
瞑想をしくじった者は詩人になる。
瞑想を達成した者は見者になる。
見者は永遠の詩人であり、詩人はつかのまの詩人だ。
だから、ときどきこういうことが起こる。
あなたは瞑想を少しかじるが、気分が高揚するとやめてしまう。
あなたはすべてが達成されたと思い込む。
緑の樹も赤い薔薇も鮮やかさを増し、恋はすばらしく、様々なことが起こりは
じめている――もう面倒なことはやめよう。
だが、つくりだされたエネルギーはまもなく尽きる。あなたは野狐になる。
世界中で薬物ドラッグによって生み出されているものはそれだ。
薬物は野狐しか生みださない。
だが、瞑想も、完結しなければ、薬物と変わらないものになる。
ひとたび決意したら、全身全霊で関わらねばならない。
あなたは何があってもその 果 て ま で 行かねばならない。
それは挑戦だ。この挑戦を受け入れ、内なる探求の最も美しい旅に出かけなさ
い。
そして到達するまで、台風の目に入るまで、
けっして途中で止まってはいけない。
(´・(ェ)・`)
(おわり)

389鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/16(土) 22:53:09 ID:1d4drIFg0
全てを見ていながら、見るもの、見る対象に関わらないでいることで人は見る者になるのじゃ。
そして見ているだけならば思考が止む時が訪れる。
その時、人は思考が無くても意識はあることがわかるのじゃ。
そのようにして自分とは思考ではないことが知れるのじゃ。
思考のもたらす苦が無くなり、思考が無くなる不安も無いじゃろう。

390避難民のマジレスさん:2019/03/17(日) 00:39:46 ID:LC3de7YgO
>>388
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華
より抜粋

呂祖師は言った。
様々な種類の確証の体験がある。
人は小さな要求に満足せず、 生命あるものをすべて救済せんとする高邁こうま
いな決意をもたなければならない。
軽薄で無責任なこころに陥らず、みずからの言葉を行為によって 実証するよう
努力しなければならない。

静けさのなかで、精神は途切れることなく大いなる喜びにあふれ、 酔ったよう
な、湯を浴びたような感じがつつ゛く。
これは光の原理(陽)が全身を巡って調和しているしるしだ。
このとき黄金の華の蕾つぼみが芽生えはじめる。
さらにすべての窓が静まり、銀色に輝く月が中天にかかり、 この大地は明るい
光に満ちた世界のように感じられてくる。
これはこころハートの本体が開き、澄んできたしるしである。
これは黄金の華が開いてゆくしるしである。

さらに、全身に力がみなぎり、嵐も霜も恐れなくなる。
人々が不快に感じるものごとに出会っても、 精神の種子の明るさが曇ることは
ない。
黄金で家を満たし、白い宝玉で階段をつくるようなものだ。
朽ち果て腐臭を放つこの世の事物も、 真のエネルギーの一息に触れると即座
によみがえる。
赤い血はミルクに変わり、もろい肉体は純金やダイヤモンドに変わる。
これは黄金の華が結晶したしるしである。
光の輝きは次第に結晶化する。
こうして大いなる台座が出現し、やがてその上にブッダが現れてくる。
黄金の本性が現れるとき、それはブッダに他ならない。
ブッダとは大いなる悟りを得た黄金のように輝く聖者だからである。
これは大いなる確証の体験である。
寓話をひとつ……
ある日のこと、ヴィシュヌ神は遠い山の深い洞窟に座り、弟子と一緒に瞑想し
ていた。
瞑想が完成したことにいたく感動した弟子は、ヴィシュヌの足もとにひれ伏し
、感謝のしるしに何かの奉仕をさせて欲しいと言った。
ヴィシュヌは笑いながら首を振った。
「私が無償で与えたものに、行為で報いることほどむずかしいことはない」
弟子は「主よ、どうか何かのお役に立てさせてください」と言った。
「よかろう」とヴィシュヌは優しい声で言った。
「冷たくてうまい水が飲みたい」
「すぐにもってまいります」
――弟子はそう言うと、嬉しそうに歌を歌いながら山を駆けおりていった。
やがて彼は美しい谷の端にある小さな家の前に来て、戸を叩き
「私たちはさすらいのサニヤシンで、この世に家をもたない者です」
すばらしい乙女が現れて、崇敬の念もあらわに彼を見つめた。
「まあ」と彼女はささやいた。
「遠い山の頂きであの聖者にお仕えしていらっしゃるのですね。どうぞ、なか
にお入りになって、祝福を授けてくださいな」
「申し訳ありません」と彼は言った。
「急いでいるのです。水をもってただちに師のもとへ帰らなければならないの
です」
「でも、祝福をしてくださっても、あのお方はお怒りになりませんわ。
あのお方は偉大な聖者なのですから、その弟子であるあなたは、私たちのよう
に幸運に恵まれない者たちを助けてくださらなければなりません……どうかお
願いです」と彼女はくり返した。
「この貧しいわが家を祝福してください。あなたをここにお迎えして、あなた
を通して主にお仕えできるなんて、
本当に光栄ですわ」
さらに物語はつつ゛く。
彼は態度をやわらげ、家のなかに入り、そのなかにあったすべてのものを祝福
した。
やがて夕食の時間になったので、まだ帰らずに、彼女が料理したものを食べて
、それを祝福する(食べることが祝福になる)ように勧められた。
そして夜も更けてきたので、「山までの道は遠いし、暗闇で足を滑らせ、水を
こぼすかもしれません。今夜はここで寝て、朝早く旅立てばいいではないです
か」と勧められた。
ところが朝になると、誰も乳搾りを手伝う者がいなかったので雌牛が苦しみだ
し――雌牛はクリシュナ神の聖なる使いであり、苦しませてはならない――
「一度でいいからあなたが手を貸してくれるならとてもありがたいのですが」
と頼まれた。
こうして日々が過ぎていったが、彼はまだとどまっていた。
彼らは結婚し、たくさんの子供をもうけた。
彼は土地を耕して、すばらしい収穫をあげた。
さらに土地を買って穀物を栽培した。
まもなく近隣の人々が助言や手助けを求めて会いにくるようになった。
彼は無償でそれを与えた。一家は繁栄した。
彼の努力で寺院が建てられ、学校や病院がジャングルを切り開いてつくられた。
谷はこの世の宝石になった。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

391避難民のマジレスさん:2019/03/17(日) 10:09:27 ID:LC3de7YgO
>>390
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

かつては荒野でしかなかった場所に調和がみなぎっていた。
その繁栄と平和の知らせが国中に広がるにつれ、人々は谷に殺到した。
そこには貧困も病気もなく、人々はみな働きながら神への讃歌を歌った。
彼は子供たちが大きくなり、孫たちができるのを見守っていた。
平穏無事な日々がつつ゛いていた。
ある日のこと、谷を見下ろす低い丘に立ちながら、老人はここにやって来てか
ら起こったすべてのことを思い起こした。見渡すかぎり農園が広がり、村は豊
かに繁栄していた。
老人は満足した。
が、そのとき突然、山津波が押し寄せ、みるみるうちに村中を飲み込んでしま
った。
あっという間に、すべてが消えてしまった。
妻も子供も農場も学校も近所の人々も――すべてが飲み込まれてしまった。
彼は茫然として、眼前でくり広げられる大災害を見つめていた。
見ると、師のヴィシュヌが激流の上に乗っていた。
ヴィシュヌは、彼を見ると悲しげな笑みを浮かべて言った。
「私の水はまだかね!」
これは人間の物語だ。
これは万人に起こっている。
私たちは完全に忘れ去っている――
なぜここにいるのか、
いったい何をしにやって来たのか、
何を学び、何を得、何を知るためなのか、
自分は誰であり、どこから来てどこへ行くのか、
私たちの源はどこにあるのか、
生、肉体、現世 への旅を引き起こしたものは何なのか、
そして今まで に何を達成してきたのかを完全に忘れ去っている。
もし山津波がやって来れば――それは必ずやって来る。 それはつねにやって来
ている、その名前は死だ――すべてが消えてしまう。
子供、家族、名前、名声、金、権力、地位…… 一瞬のうちにすべてが消え去り
、あなたは たった独りで、完全に独りぼっちで取り残される。
あなたの業績はすべて山津波によってかき消されてしまう。
築きあげてきたものはすべて夢に他ならなかったことが明らかになる。
そしてあなたの手も、こころハートもからっぽだ。
が、あなたは神と顔を合わせなければならない、
<存在>と顔を合わせなければ
ならない。
<存在>はあなたを待ちつつ゛けている。
最初に頼んだものをあなたがもち帰ってくる ことを延々と待ちつつ゛けている

だが、あなたは眠りこけていて、千とひとつの夢を見ている。
今まであなたがやってきたことはすべてみな夢に過ぎない。
なぜなら、死がやって来れば、すべて押し流されてしまうからだ。
実在するものは死によっても押し流されることがない。
実在リアリティは死を知らない。
実在は死ぬことがない。
実在は不死だ。
実在は永遠だ。
死にゆくものはすべて、死ぬこと によって本物ではなかったことが、 幻想、
マーヤ、夢――すてきな夢かも しれないが夢でしかなかったことが判明する。
あなたは地獄の夢を見ているかもしれないし、天国の夢を見ているかもしれない

どちらにしても大差はない。
目覚めた瞬間、あなたは自分が完全にからっぽ であることに気つ゛くだろう
――それは仏陀が知っている 肯定的な意味の空くうではなく、否定的な意味の
空虚さだ。
自我エゴの消滅ではなく、 自我がなし遂げようと努めてきた いっさいのもの
の消滅…… 自我でいっぱいだけれど、 達成もなく、了解りょうげもなく、知
識もない状態。
だが、 自我が知識を求めていないというわけではない。
自我は知識を求めている。
自我は膨大な知識をそなえ、情報を集めている。
自我は偉大な収集家だ。
金を集め、情報を集め、ありとあらゆるものを集める。
自我は蓄えることを信奉している。
自我とは貪欲、まさに貪欲そのものに他ならない。
自我とは貪欲の別名だ。
それは所有したがる が、あなたが手にしているものはすべて消えてゆく。
そしてあなたがやってきたことは、すべてみな夢のなかの仕業だった。
目覚めた瞬間、あなたは驚くだろう。
どれだけ多くの時間を無駄にしてきたことか、 どれだけ多くの生を夢見ながら
過ごしてきたことか、 どれだけ多くの夢を生きてきたことか。
探求者であるというのは、 この夢から出てくること、 この夢見る状態の意識
から出てくることをいう。
探求者であるということは、
目覚めようと努力することだ。
目覚めるとは覚者ブッダになることだ―― 油断なく醒め、意識し、内なる光に
満たされることで、 無意識がすべて消え、眠りがすべて消え、眠りの闇が内側
から消え、 あなたは十全に目覚めている。(´・(ェ)・`)
(つづく)

392避難民のマジレスさん:2019/03/17(日) 10:17:59 ID:LC3de7YgO
>>391
弟子の瞑想は完成してなかったのでありますね。
(´;(ェ);`)つ

393鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/17(日) 23:05:01 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、まだこの世に未練があったのじゃ。

道教では気が集まって丹になり、更に凝縮して陽神になるというのじゃ。
黄金の花はその兆しなのじゃ。
そして陽神は体を抜け出すのじゃ。
ヨーガでは脱身というのじゃ。
仏教でも意生身というのじゃ。
気の修行が完成した証なのじゃ。

394避難民のマジレスさん:2019/03/17(日) 23:23:30 ID:LC3de7YgO
>>391
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

こんなことがあった…… 偉大な占星術師が仏陀の姿を目にした。
彼はわが目を疑った。
その身体、 身体を取り巻いているその黄金のオーラ、その美しい顔――湖のよ
うに静かで、 湖のように深く澄みきった、その水晶のような透明さ、その歩く
優美な姿。
彼は仏陀の足もとにひれ伏して言った。
「私は占星術と手相を研究してきました。私は生涯をかけて人間のタイプを 研
究してきました。ですが、あなたのような方にお会いするのははじめてです!
あなたはどのようなタイプに属しておられるのでしょう?あなたは地上に 降り
立った神なのですか?ともてこの世に属する方のようには見えません。 あなた
には重さが微塵みじんもありません。あなたは軽々としていて重さがない。 あ
なたはどのようにして地上を歩かれるのですか? あなたは重力の作用を受けて
おられるようには見えません。 あなたは地上で何が起こっているかを見るため
に天国から降りて来られた神 なのですか?神の使者なのですか?預言者なので
すか?あなたは誰なのです?」
すると仏陀は言った。
「私は神ではない」
占星術師は尋ねた。
「では、インドの 神話に出てくるヤクシャなのですか?」――ヤクシャという
のは神より一段低い 存在だ。
仏陀は言った。
「いいや、私はヤクシャでもない」
「では、あなたは誰 なのです?あなたはどういう種類の人なのですか?あなた
をどう分類すればいい のでしょう?」
仏陀は言った。
「私は男でもなければ女でもない」
占星術師は途方に暮れてしまい、こう言った。
「それはどういう意味ですか?
あなたは動物だとでも……動物の精、樹の精、山の精、川の精だとでも おっし
ゃるのですか?」――インドの神話は汎神論的だから、それはあらゆる 種類の
精霊を信じている。
「では、あなたは誰なのです?薔薇の精なのですか?あなたはとても美しく、
とても無垢に見えます」
すると仏陀は言った。
「いいや、私は動物でもなければ 、樹や山の精でもない」
「では、あなたは誰なのですか?」
占星術師は困り果てて しまった。
すると仏陀は言った。
「私は醒めた意識に他ならない。あなたは私を 分類することができない。なぜ
なら、分類はどれも夢にしか当てはまらないからだ」
自分は男であるという夢を見ている者もいれば、 自分は女であるという夢を見
ている者もいる。
そのようにして夢はどこまでもつつ゛いてゆく。
分類は夢の世界に属している。
目覚めると、人はその目覚め、 覚醒の本質そのものになっている。
人は目撃者、純粋な目撃者以外の 何ものでもない。
雲はすっかり晴れている。
男や女、動物、神、樹といった"雲"―― どんな雲や形もひとつ残らず消え去
っている。
人はまさに形のない醒めた意識、終わりもなく 果てもない広大無辺な澄んだ大
空になっている。
この醒めた意識には雲がなく、ただ青空が広がっている。
これが肯定的な虚空であり、これがにゃはんニルヴァーナだ。
それから否定的な虚空がある。
あなたは雲でいっぱいになっている―― すっかり雲に覆われて、かすかな青空
ものぞめない。
あなたは知識でいっぱいに なっている――いっぱいになり過ぎて、瞑想のため
の空間が少しも残されていない。
何も知らないのに、知っているつもりでいる者――よく「パンディット」 とか
「学者」と呼ばれている連中は愚か者だ。
彼らを避けなさい。
何も知らず、自分が知らないということも知らない のは、無垢な人であり、子
供だ。
彼を目覚めさせるがいい。
何も知らず、自分が知らないということを知っている のは、覚者ブッダだ。
彼に従いなさい。
「私は誰でもない」というこの自覚に到る ことが、覚者ブッダになるというこ
とだ。
ブッダとはある人物の名前ではない。
ブッダとは 誰 で も な い 状 態 を表す名前だ。
ブッダは人物ではない。
ブッダとはまさに空間、開け放たれた空間、 開放状態のことであり、その開放
状態、開け放たれた大空を表す名前だ。
自分の想念マインドを見守りなさい。
どれほど多くの夢がつつ゛いていることか。
あなたは夜、夢を見るだけではなく、絶えず夢にひたっている。
昼間、目覚めているつもりでいるとき ですら、夢が途切れることはない。
いつでも目を閉じてくつろぎさえすれば、 ただちにそこを漂っている夢が見え
てくる。
夢はつねに底流のようにそこにある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

395避難民のマジレスさん:2019/03/17(日) 23:40:30 ID:LC3de7YgO
>>393
鬼和尚は脱身できますか?
(´・(ェ)・`)つ

396鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/18(月) 21:20:55 ID:1d4drIFg0
↑誰でもできるのじゃ。
実際に寝ている時は誰でも脱身しているのじゃ。
肉体の意識から離れているのじゃ。
自分ではわからないだけなのじゃ。
意識的にできるようになるのが脱身なのじゃ。
本当は意識が拡大しているのじゃ。
肉体に囚われない意識に広がるのじゃ。

397避難民のマジレスさん:2019/03/18(月) 22:30:17 ID:LC3de7YgO
>>396
ふむふむ。
で、その脱身を気を体内に巡らすことができるように、意図的に操作できるようにもなるのでありますか?
(´・(ェ)・`)つ

398避難民のマジレスさん:2019/03/18(月) 22:43:47 ID:LC3de7YgO
>>394
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

夢はけっしてあなたのもとを離れず、絶えずそこにあって、 あなたの実存に影
響を与えつつ゛けている。
夢は意識にはのぼらない。
あなたはそれに気つ゛いていないかもしれない、 その存在さえ知らないかもし
れない。
だが、夢は絶えずそこにある。
私に耳を傾けているときでさえ、 その映画、その夢のドラマはつつ゛いている。
私が言っていることが耳に入らないのはそのためだ。
それはまずあなたの夢を透過しなければならないために歪んでしまう。
あなたは語られてもいないことを聞く。
あなたの夢が歪ませ、操作し、投影を起こし、ものごとを変えてしまう。
私があることを言うと、あなたはまったく別のことを聞く。
そしてこれらの夢は内側で強い力を振るっているので、 あなたはその夢をどう
扱えばいいのかわからない。
実のところ、夢にあまりにも深く同一化しているので、 自分がそれではないこ
と、見守ることができ、距離を保つこと ができ、傍観者でいられることがわか
らなくなっている。
あなたは夢に同一化し過ぎている。
先日、私は気の毒なハビブのことを話した。
彼はユング派の分析家であることに こだわるあまり、何が起こっているのか見
ることができずにいる、と。
その話をした のは、ほんの二日前のことだ。
私は九時四十五分に話を切りあげたが、彼はわずか 十分後の九時五十五分に手
紙を書いてきた。
昨日はもっとひどかった。
私が話している最中に彼は手紙を書いていた!
私が彼のことを話しているあいだ、彼は十分も待つことができなかった。
私が 「少し待ちなさい。そんなにあわてずもう少し我慢して、それに瞑想して
ごらん。 あなたはこういったことをこの場で理解することはできない。あなた
は理解力、 明晰さ、識別力がある状態ではないからだ」と言っていたのはその
ことだった。
だが、私の話の最中に、彼は手紙を書きはじめた。
私が話しているさなかに 、彼は手紙を書いていた。
さあ、そんな状態で何を書くことができるだろう?
私は語っていなかったのと、話してすらいなかったのと同じだ。
彼は自分自身の内なるつぶやきを聞いていたにちがいない。
そこから手掛かりを得ていたにちがいない。
彼は一言も理解することができなかった。
彼の夢はあまりにも強過ぎたのだろう。
彼は知識の重荷を背負っている。
私は「ユング派の自我エゴを落としなさい」と言っていたのに。
だが、何が起こったと思うかね?
ハビブは死んでしまった――彼はユング派の自我エゴを落とす よりもサニヤス
を捨ててしまった。
彼の耳にはそう聞こえたのだ。
私が「ユング派の自我エゴを落としなさい!」と言ったとき、彼は別のことを
聞いた。
彼の耳にはこのように聞こえた。
「では、サニヤスは私には向いていない。私には向いていない。私には 知識は
落とせない。それは私がもっているすべてのものだ。それに、どうやって 落と
せばいいのだろう?どうやって思考マインドを脇によければいいのだろう? そ
んなことはできっこない!それなら、サニヤスを落とす方がましだ」と。
彼はサニヤスを落とした。
もはやハビブは存在しない。
彼は夭逝してしまった。
実のところ、彼は流産してしまった。
何が起こったのだろう?
要点が見抜けなかったのだろうか?
誰がその邪魔をした というのだろう?
彼の頭マインドは雑念だらけになっていたにちがいない。
本を読み、蓄積してきたいっさいのもの――彼はそれに執着し過ぎていた。
彼は探求し、探索するためにここにやって来た。
自我を手放す用意が微塵もないのに、 それが探求と言えるだろうか?
それが探索と言えるだろうか?
人は往々にして、自我エゴに何かをつけ足すことができると、 自分は霊的な探
求者であると思い込むことがある。
あなたがたの言う霊的な旅というのは、 巧妙な自我の幻想にすぎない。
人々は 自我をもっと満足させたい、 自我をもっと強くしたい、 自我にもっと
活力を与えたい。
彼らは自我を聖なる霊光オーラで包みたい。
が、聖なる霊光は 自我が消えてはじめて現れるのであり、この二つは共存できな
い。
人を覚醒させることのできる教えに巡り合うのはまれなことだ。
人を揺さぶり起こし、深々と根を下ろした長い長い夢から 引きずりだせる師マ
スターに巡り合うのはまれなことだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

399鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/19(火) 23:30:07 ID:1d4drIFg0
>>392 そうじゃ、できるのじゃ。
本来意識は肉体に制限されているものではないからのう。

誰もが自分について幻想を見ているのじゃ。
肉体が自分とか知識が自分とかのう。
仏教とかタオとかヨーガはその夢から覚ましてくれるものなのじゃ。
そのような貴重な教えは稀にしか逢えないのじゃ。

400避難民のマジレスさん:2019/03/20(水) 05:24:56 ID:LC3de7YgO
>>398
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

師との遭遇は希有な現象であり、 それを取り逃がしてしまうことはたやすい。
簡単に取り逃がすのは、 大鎚おおつ゛ちで叩きつぶしてもらえるよう 師の前
に頭を差し出すことが、師とともにある ための第一条件だからだ。
師とは大鎚だ。
人々は勘違いをして、師が「よし!君は偉大な霊的探求者だ」と言ってくれる
状況 を探し求めている――彼らは師が自我エゴを支えてくれるものと思い込ん
でいる。
今は亡きハビブが望んでいたことはそれだ。彼は私にこう言って欲しかった―― 「君は偉大な霊的探求者だ。君がしてきたことはまったく申し分なく、寺院の基礎は 完成している。


39黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華2
より抜粋

君はほとんど用意ができており、ほんのわずかのものが加われば、 すべてが完成するだろう」と。
彼が求めていたもはそれだ。
が、それはありえない。
なぜなら、 まず最初に私はあなたを壊さなければならないからだ。
完全に壊れてはじめて、あなたは目覚めることができる。
が、壊れることは辛く、痛みに満ちている。
有名なユダヤ教神秘主義の諺ことわざがある
―― 神はやさしくない。神は叔父さんではない。神は地震だ! 師マスターもま
たそうだ――
師は叔父さんではない。
師はやさしくない。
師は地震だ。
すべてを余すところなく賭ける覚悟のある者だけが、 自我エゴとして死ぬ用意
のある者だけが、生まれることができる。
「あなたがたは肩にみずからの十字架を担がなければならない。 私について来
たければ、肩にみずからの十字架を担がなければならない」 と言うとき、イエ
スが言おうとしているのはそのことだ。
カビールは言った。
「本当に私について来たければ、ただちに家を焼き払いなさい!」
彼の語る家とは何だろう?
人は再び広い大空のもと、星、太陽、月のもとに出られるように、 今まで暮ら
してきた夢の家を焼き尽くさなければならない。
そうすれば 再び風や雨に打たれることができ、 再び大自然にハートを開くこ
とができる――神とは 最も深く隠された大自然の中心に他ならないからだ。
神は知識というよりも、いわば無垢な状態に似ている。
知識ではなく、 完全に無垢になることによってあなたは神を知る。
だが、それは自我エゴにはとてもむずかしい…… これらの言葉を聞くことでさえむずかしい。
自我はただちにそれを歪め、操作し、すり変え、色つ゛けし、 上塗りをし、み
ずからを壊すどころか、それを支えるものに仕立てあげる。
自分は死んだと思い込んでいた男の話があるが、これを見れば 自我がどのよう
に働くかがよくわかる。
彼は精神科医に助けを求めに行った。
精神科医は知っているテクニックをすべて 使ってみたが、役に立たなかった。
最後に精神科医は患者の論理に訴えかけてみた。
「死人は血を流しますか?」と医者は尋ねた。
「いいや、もちろん流さない」と 患者は答えた。
「なるほどね」と医者は言った。
「では、調べてみましょう」 医者が鋭い針を取り出して、患者の皮膚を刺すと
、おびただしい血が流れはじめた。
「ごらんなさい!さあ、なんとおっしゃいますか?」と医者が尋ねた。
「おや、なんてことだ!」と患者は答えた。
「驚いたなあ!死人というのは血を流すものなんだ!」
自我エゴはこのように働く、頭マインドはこのように働く。
つまりものごとを証拠、裏つ゛け、餌に変えて使ってゆく。
自我は実に微細であり、実に巧妙な手段を取って、あなたに 「自分は正しい」
と思い込ませることができる。
それはありとあらゆる策を弄して
「正しいのは私であり、私に逆らうものはすべて間違っている」
と思い込ませようとする。
覚えておきなさい。
自我が正しいことなど け っ し て ありえない! そして、自我に逆らうもの
はすべて……そのチャンス を逃さずに、自分の自我を壊すための機会に使いな
さい。
自我を壊すことができるとき、それは 大いなる祝福の瞬間となる。
なぜなら、あなたがいないときに、神が存在し、 あ な た が い な い と き
に、あ な た が 存 在 す る からだ。 これは生と<存在>における最大のパラドックスだ
―― あなたがいないときに、はじめてあなたは存在する。 ヴィシュヌの気が進
まなかったのはそのためだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

401鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/20(水) 23:09:34 ID:1d4drIFg0
師匠が道標として役に立つのは弟子に準備が出来たときとよく言われるのじゃ。
その準備とは自分を含めた全てを捨てる準備なのじゃ。
そのような準備が出来た者は稀なのじゃ。
しかし、死によって全てが奪い去れることを自覚すればその準備もできるようになるのじゃ。
いずれ全てなくしてしまうものを捨てることで永遠を獲得するのじゃ。

402避難民のマジレスさん:2019/03/21(木) 01:32:10 ID:LC3de7YgO
>>400
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

ヴィシュヌは弟子に言った。
「私が無償で与えたものに行為で報いることほどむずかしいことはない」
――なぜだろう?なぜそれが一番むずかしいのだろう?
師は弟子がまだ夢のなかにいることを、まだ自我 エゴのなかにいることを知っているからだ。
実のところ、「お返しをしなければいけない。これほどたくさんのことをして
頂いた のだから、あなたに何かをし
てさしあげたい」という考えそのも
のが自我の思いだ。
弟子が自我を落としてしまったら、 誰が返礼するというのだろう?
いったい誰が? 「ありがとう」と言う者さえいるだろうか?
誰もいない。
完全な沈黙だけがある。
その完全な沈黙のなかで、師は顔をほころばせる。
弟子はこの完全な沈黙を通して感謝を表している。
ある男が仏陀のもとへ行った。
彼は人類のために何かをしたかった。
彼は大金持ちだった。
彼は仏陀に尋ねた。
「人類のために私にできる ことを教えてください。私にはたくさんの金があり
ます。子供もなく、 妻は死に、独り身ですから、何でもすることができます」
仏陀はとても悲しげな目で男を見つめて沈黙していた。
男は言った。
「なぜ黙っておられるのですか?なぜ話をしてくださらないのですか? あなた
はいつも慈悲について語っておられます。私には何でもする用意があります。
おっしゃってくだされば何でもします。大丈夫です――私には充分な金が あり
ますから!どんな仕事でも与えてくださればやり遂げます」
仏陀は言った。
「あなたが言っていることはわかるが、私は悲しいのだ。 あなたはものごとを
為すことができない。なぜなら、 あなたはまだ存在していないからだ。 何かを
為すことができるようになる前に、人は まず存在するようにならなければいけ
ない。 問題はどれだけ金をもっているかではなく、 あ な た 自身がいないこ
とにある!」
慈悲心という質は実存の影なのだが、その実存が欠けている。
自我エゴはけっして慈悲心をもつことができない。
自我は非情だ。慈悲のゲームを演じているときでさえ、自我は非情だ。
自我が消えてしまうと……ときには 自我のない人がとても非情に見えること
がある。
が、そうではない。
彼は非情ではありえない。
彼のその非情さですら深い慈悲にちがいない。
禅師が弟子の頭を棒で打つのは非情ではない。
それはとほうもない慈悲だ。
禅師が弟子に飛びかかって殴るのは非情ではない。
なぜなら、ときおり師の一撃によって、一瞬のうちに、 稲妻が闇を切り裂くよ
うに弟子が光明を得ることがあるからだ。
仏陀は言った。
「あなたには何もできない。 金があることは知っている。あなたのことは耳に
していた。だが、あなたを のぞき込んだとき、私はひどく悲しくなった。あな
たは何かをしたがっているが、 何かを為すことができる要素が欠けている。あ
なたは夢を見ることしかできない」
だからヴィシュヌは言う。
「私が無償で与えたものに行為で報いることほどむずかしいことはない」
ゲオルギー・グルジェフが弟子たちに言っていたのはそのことだ。
彼がP・D・ウスペンスキーに最初に言ったことはそれ、まさにそれだった。
ウスペンスキーは偉大な探求者、知識の探求者だった。
はじめてグルジェフに 会いに行ったとき、彼はすでに世界的に有名な数学者、
思想家だった。
彼が書いた 最も優れた本『テルティウム・オルガヌム』はすでに出版されてい
た。
それは類まれな本だ――著者がまだ覚醒していなかったという意味でもまれだ。
こんなに美しい作品をどうして書くことができたのだろう?
覚醒した人間にしか わからないような誤りが二、三あるが、ふつうの人間なら
まず気つ゛かない。
それはまるでブッダが書いたかのように、ほとんど完璧だ。
だが、ゲオルギー・グルジェフはその本に目を通すと、あちこちの 頁をぱらぱ
らとめくって、それを部屋の外へ投げ捨て、こう言った。
「まったくのたわごとだ! 君は何もわかっちゃいない! そもそも君はいな
いのだ。 その君にどうして知ることができるだろう? 人はまず存在しなければ
ならない。 そこではじめて人は知ることができるようになる」
ウスペンスキーは師マスターを探して東洋をくまなく旅した人物だった。
これは美しい物語であり、まるで寓話のようだ。
彼はインドを旅した。彼はセイロンやビルマへ行った。
彼は僧院やヒマラヤの洞窟で 暮らしたことがある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

403鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/21(木) 23:47:53 ID:1d4drIFg0
法華経には菩薩が何万と集まろうと仏陀の智慧はわからないと書いておるのじゃ。
その通りなのじゃ。
自ら到達しなければ悟りの智慧はわからないのじゃ。
どれほど知識を集めても悟らない限り仏陀の智慧には届かないのじゃ。

404避難民のマジレスさん:2019/03/22(金) 02:42:53 ID:LC3de7YgO
>>402
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

ラマやスワミやたくさんのヒンドゥー教の神秘家に会ったが、 誰も彼を満足さ
せることができなかった。
なぜか?
それは彼らが語ったことはみな 経典の焼き直しに過ぎず、ウスペンスキーがす
でに学んでいたことだからだ。
彼ら自身の言葉はひとつもなかった。
失意のうちに、彼は帰途についた。
彼はロシアに、かつて暮らしたペテルブルグにもどってきた。
ペテルブルグのある喫茶店で、彼はグルジェフに会った。
その最初の 出会いのとき、師のまなざしを見て、ウスペンスキーは悟った。
「この男こそ私が捜していた人物だ。私はこの町にずっと暮らし、この喫茶店
に 何年も通いつつ゛けてきたが、探し求めていた人がこの喫茶店に坐っている!
セイロン、ネパール、カシミールなど遥か遠くの場所で探しつつ゛けていたのに

グルジェフは、まずウスペンスキーにこう言った。
「自分が存在しないかぎり、君はものごとを知ることができない。 自分が存在
しないかぎり、君はものごとを為すことができない」
ところがパラドックスは、 自分が存在しなくなってはじめて、 「私」という
言葉が通用しなくなってはじめて、 人は存在するようになるというところにある。
(p355)
これらの経文は、覚者ブッダの境地をつくりだすための鍵だ―― あなたは覚醒
そのものであって、何者でもなく、 光に満ちてはいるが、完全にからっぽだ。
さあ、経文だ――
炉祖師は言った。
様々な種類の確証の体験がある。
確証の体験は、あなたが我が家に近つ゛きつつあるしるしだ。
人は確証の体験を理解し、それに気つ゛いていなければならない。
なぜなら、そこから勇気と希望が得られるからだ。
それは活力を与えてくれる。
あなたは探求が無駄ではないことを、
朝がすぐそこまで来ていることを感じるようになる。
まだ夜は暗いかもしれないが、最初の確証の体験がこもれ日のように差し込み
はじめている。
星が消えてゆき、東の空が赤く染まりつつある。
太陽はまだ昇っていないが、空はもう明るくなっている――
もうまもなく太陽が顔を出すにちがいない。
東の空が赤く染まれば、もうじき太陽が地平線から顔をのぞかせる。
鳥たちは朝の到来を讃えている。
樹々はいきいきとし、眠りは消えてゆく。
人々が起きはじめた。
これが確証の体験だ。
それとまったく同じように、霊的な道においても、紛れもない確証の体験が起
こる。
それはまだ目には見えない美しい庭園に向かって歩いてゆくと、近つ゛けば近
つ゛くほど、風が涼しくなってゆくのが感じられるようなものだ。
庭園から遠ざかってゆくと、涼しさも消えてゆく。
近つ゛いてゆくと、再び涼しくなってくる。
もっと近つ゛いてゆくと、風が涼しくなるだけでなく、花の香りが、たくさん
の花の香りが漂ってくる。
遠ざかってゆくと、香りも次第に消えてゆく。
近つ゛けば近つ゛くほど、梢で歌っている鳥たちの声が聞こえてくる。
樹は見えないけれど、鳥たちの声が聞こえてくる
・・・・・・遠くでカッコウが鳴いている・・・・・・
マンゴーの茂みがあるにちがいない。
あなたはどんどん近つ゛いてゆく。
これが確証の体験だ。
それとまったく同じことが内なる庭園――
内なる生命、喜び、沈黙、至福の源
泉へと進んでゆくときに起こる。
中心に向かって進んでゆくと、いくつかのことが消え、
いくつかの新しいことが現れてくる。

人は小さな要求に満足せず、生命あるものをすべて救済せんとする 高邁こうま
いな決意をもたなければならない。
そして、いいかね、確証の体験が現れはじめても、すぐに満足してしまっては
いけない。
涼しい風が吹いてくると、あなたはそこに坐りこんで到着したと考える。
涼しさはすばらしい、涼しさは喜びに満ちている。
だが、あなたは先に進んでゆかなければならない。
小さなことで満足してはならない。
それらが起こりはじめたことを喜び、
それらを道標みちしるべと見なしなさい。
だが、そこはまだ目的地ではない。
それらを楽しみ、神に「ありがとう」と感謝して、
確証の体験がやって来る方向に進みつつ゛けるのだ。
小さな要求で満足してはならない。
例えば、安らぎは小さな要求だ。
それはたやすく達成することができる。
緊張のない心の状態はたやすく達成することができる。
それは大したことではない。
心安らかで心配や不安がない
というのは、それほど大したことではない。
では、偉大なこととは何だろう?
人は目標として何を胸に抱きつつ゛ければよいのだろう?
(´・(ェ)・`)
(つづく)

405鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/22(金) 23:05:18 ID:1d4drIFg0
悟る前にはいろいろな現象が起こるじゃろう。
自分の体が消えたように感じたり、何もかもが自分であるように感じたりするのじゃ。
サマーディに入り、安らぎと喜びを感じる者も居るじゃろう。
それらはよい兆しであるが囚われてはいかんのじゃ。
囚われれば修行は止まってしまうのじゃ。
囚われずに進むのじゃ。

406避難民のマジレスさん:2019/03/23(土) 06:12:00 ID:LC3de7YgO
>>404
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

生命あるものをすべて救済せんとする 高邁こうまいな決意をもたなければなら
ない。
これが判断の基準になっていることにあなたは驚くだろうが、それはいつも判
断の基準とされてきた。
仏教ではこれを「菩薩の誓願」と呼んでいる。
内なる中心に近つ゛けば近つ゛くほど、この世界に住む生きとし生けるすべて
のものの苦しみを感じるようになってゆく。
一方では深い穏やかさと静けさを感じ、
一方では苦悩するすべてのものたちへの深い憐れみを感じはじめる。
苦しみに次ぐ苦しみ、そしてまた苦しみ。
どこもかしこも苦しみで満ちている。
一方では大いなる喜びが沸きあがってくるが、一方では深い悲しみもまた湧い
てくる。
何百万もの人々が苦しんでいるからだ――
それも何の理由もない馬鹿げた苦しみを味わっている。
あなたが味わっている至福を達成することは、彼らの生得権でもある。
だから、もう自分は至福に満ちているから、
すべては終わったのだと満足してはならない。
あなたが至福に満ちるようになっても、
すべてが終わったわけではない。
今や旅は新たなる方向へと転じる。
覚者ブッダの境地を達成し、わが家にたどり着いたら、いよいよ真の仕事ワー
クがはじまる。
これまでは夢にすぎなかった。
今や、他の人々が夢から出てくるのを助ける真の仕事がはじまる。
弟子が達成したら、彼は師にならなければならない。
キリスト教で「キリスト意識の誓い」と呼ばれているのはこれだ。
それを本当に理解しえたキリスト教徒はいない。
彼らはそれを誤解してきた。
彼らはイエスだけがキリストであると考えている。
「キリスト」という言葉は「クリシュナ」から来ている。
それは誓いだ。
自分が救われたら、あらゆるものを救わなければならないというのがその誓い
だ。
苦しみから救われることは無上の喜びだが、他の者たちを苦しみから救ってゆ
くことと比較すれば何でもない。
自分が苦しみから救われることは、依然として自己中心的であり、自己に焦点
が合わせられている。
自己の何かが依然として残っている。
あなたは自分のことにしか関心がない。 自己が消え、あなたが救われたからといって、 どうしてその旅をやめることが
できるだろう?
さあ、今度は他の者たちを救わなければならない。
イエスが救済者と呼ばれるのはそのためだ。
だが、彼が唯一のキリストではない。
彼の前にもたくさんのキリストがいたし、 彼の後にもたくさんのキリストがいた。
これからもたくさんのキリストが現れるだろう。
覚者ブッダになる者はみな、必然的に あらゆる者を救済しなければならなく
なる。
人間の喜び、安らぎ、至福は小さなものだ。
そういうもので満足してはならない。
いつか分かち合わねばならないことを、
いつか他の人々が目覚める手助けをしなければ ならなくなることを片時も忘れ
てはいけない。
この種子をあなたのこころハートの奥深くに植えつけなさい。
仏性が花開いたときも、あなたが世界から消えてしまわないように。
仏教には二つの言葉がある。
ひとつは「アルハト」だ。アルハトとは、光明は得たのだが、 すべてが終わり
、為すべきことは完了したと考えている者をいう。
彼は消え失せてしまう。
もうひとつは「ボーディサットヴァ」と呼ばれる。
彼は光明を得たが、消えず去らずに、 懸命にこの世にとどまろうとする。
彼は滞在を引き延ばし、可能なかぎり この世にとどまろうとする。
こんな話がある。
仏陀がにゃはんニルヴァーナの扉に到達した。
すると扉が開き、天上の音楽が奏でられ、黄金の花が降り注ぎ、 花輪を手にし
た天人たちが彼を歓迎しようと待ち構えていた。
ところが、仏陀は入ることを拒み、扉に背を向けた。
天人たちは驚いて、目を疑った。
彼らは何度も何度も彼に尋ねた。
「何をしておられるのです?あなたは今生だけではなく、何生 にもわたって
こ の 扉 を探し求めてこられたのでしょう。 ようやくたどり着かれたのに、
扉に背を向けられるとは? 私たちはあなたをお待ちしていました。 またひとり
覚者ブッダが増えたと、天国は喜びで湧きかえっています。 どうかお入りくだ
さい!一緒にあなたの 仏性の開花を祝おうではありませんか」
だが仏陀は言った。
「苦しんでいる者がひとり残らず救われないかぎり、 私はなかには入らない。
私は待たなければならない。 私は最後に入るつもりだ。他の者たちを先に入れよ
う」
(´・(ェ)・`)
(つづく)

407鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/23(土) 23:36:08 ID:1d4drIFg0
大乗仏教では修行に入る時に菩薩の誓願わするのじゃ。
悟ったら娑婆世界に戻って衆生を導くと誓うのじゃ。
その誓いがあれば悟った後に戻ってくることもできるのじゃ。
そして教えを説くこともできるのじゃ。
そうでなければ大抵はそのままニルヴァーナ行きなのじゃ。

408避難民のマジレスさん:2019/03/23(土) 23:45:43 ID:LC3de7YgO
>>407
鬼和尚、いつもありがとうであります。
小乗の悟りでは涅槃行きでありますか?
肉体的にも死んじゃうのでありますか?

「苦しんでいる者がひとり残らず救われないかぎり、 私はなかには入らない。
私は待たなければならない。 私は最後に入るつもりだ。他の者たちを先に入れよ
う」
←これは、大乗あるいはOSHOの創作でありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

409避難民のマジレスさん:2019/03/24(日) 00:01:25 ID:LC3de7YgO
>>406
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

この美しい物語によると、仏陀は今も なお扉の前で待ちつつ゛けているとい
う。
扉は開いている。
いつ仏陀が入りたいと言うか わからないから、天人たちも扉を閉めるわけには
いかない。
彼にはなかにはいる権利があるので、扉は開いている。
仏陀のために扉は開け放しになっている。 こうして天上の音楽は流れつつ゛け
、花は今も降り注ぎ、 天人たちは花輪を手にして待ちつつ゛け・・・・・・ そして仏
陀は外に立っている。
彼は人々を勇気つ゛けている。
呼びかけ、挑み、奮い立たせている。
彼は人々に言っている。
「扉は開いている。 この機会を逃してはならない。なかに入りなさい! 私は
最後に入ることになるだろう。もう扉は二度と閉まらない。 すべての人が救わ
れ、光明を得ないかぎり、 扉が閉まることはない」
これは寓話にすぎないが、とほうもなく意義深い。
それを歴史的事実だと見なしてはならない。
そんなことを すれば要点を見逃してしまう。
扉もなければ、天人もいないし 、花輪もなければ、天上の音楽もない。
そして仏陀は、光明を得た瞬間に消えてしまった。
その彼がどうして扉に背を向けたまま立っていられるだろう?
誰がそこに立っているというのだろう? だが、その誓いは・・・・・・。
仏陀が<存在>のなかに解き放ったエネルギーは今もなお作用している。
真 に 探し求めている者たちは、今でもそのエネルギーを手に入れることができ
る。
そのエネルギ-はどこまでも作用しつつ゛けてゆく、 永遠に作用しつつ゛けて
ゆく。
イエスはもはやいないが、そのキリスト意識は新しい位相に入っている。
マハーヴィーラはもはやいないが、その意識はこの生命の大海に入っている。
これらの人々は<存在>の一部となり、波動を放っている。
それがこの寓話の意味だ。
彼らは今もあなたを奮い立たせている。
そのメッセージを受け取る用意があるなら、彼らは今でも あなたを向こうの岸
辺に連れてゆこうとしている。
死を迎える瞬間、師マスターは無限のエネルギーの一部になる。
そのエネルギーには仏陀が加わっている。
マハーヴィーラが加わっている。
ツァラツストラが加わっている。
老子、イエス、マホメットが加わっている。
師が死を迎えるたびに、より多くのエネルギーが解放され、 それが大きな潮の
うねりになってゆく。
じつに多くの人々が光明を得てきたので、 それはひとつらなりの潮流になって
ゆく。
あなたがたは幸運だ。
あなたの憧れが本物ならば、 あなたの願いが本物ならば、 この潮のうねりに
運ばれて 向こうの岸辺に行くことができる。
それを胸の奥に刻んでおきなさい。
小さなものごとで満足してはいけない。
途上ではたくさんのことが起こるだろう。
奇 蹟 の よ う な こ と が数多く起こるだろう。
だが、どれにも満足してはいけない。
いいかね、あなたは キリスト意識、ボーディサットヴァ にならなければいけ
ない――それ以下の ものではあなたを満足させることはできない。
これは聖なる不満足だ。
(p361)
軽薄で無責任なこころに陥らず、みずからの言葉を行為によって実証するよう
努力しなければならない。

探求者の生はつまらないことで占められてはならない。
些細なことをやりつつ゛けるたびに、時間、エネルギー、生命いのちが無駄に
なってゆくからだ。
探求者は時を無駄にすることができない。
その生涯はひたすらある一点に向けられ、捧げられねばならない。
彼はふらふらしてはいられない――
喫茶店に坐り込み、どうでもいいうわさ話に興じてなどいられない。
役にも立たないものを読んではいられない。
彼は旅の役に立たないことはいっさいしない。
あとで重荷になり、落とさなければならなくなるようなものはいっさい集めな
い。
彼は質素シンプルなままでいる。
この質素さは禁欲主義とはいっさい関係がない。
この質素さはまったく科学的なものだ。
彼はもち歩かねばならないようながらくたを集めない。
彼は重荷を担がない。
そして知識以上のがらくたはない。
なぜなら、他のがらくたは外にあるが、知識は内側に入り込んでいるからだ。
知識のために、軽々としていなければならない頭が、ひどく重たくなる。
「だるま」と呼ばれる日本の人形を見たり、観察したことがあるだろうか?
ボーディダルマは日本では「だるま」と呼ばれている。
その人形はみごとだ。
だるま人形――それは光明を得た人を表している。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

410避難民のマジレスさん:2019/03/24(日) 13:35:08 ID:LC3de7YgO
>>409
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

みごとというのは、どんなに放り出されても、不思議なことに、それは必ずも
との姿勢にもどってくる。
立ち直ってくるからだ。
放り投げても、けっしてひっくり返らずに、再びもとの姿勢にもどってくる。
その人形は底が重くて頭が軽いので、けっして逆さにはならない。
それはつねに正しい姿勢で坐っている。
人間の場合はそれとまったく逆になっている。
人間は逆さになっている。
頭がひじょうに重く、頭でっかちだ。
人間は逆立ちしている。
知識でいっぱいになっている人は逆立ちをしている。
彼はいつもシルシュアーサナ、逆立ちのポーズを取りつつ゛けている。
頭のなかに知識がない人――
頭が空っぽで、静かな人は、正しい姿勢をしている。
彼は蓮華座で坐っている。
彼は”だるま人形”だ。
彼をひっくり返すことはできない。
どんなに頑張ってみても、彼は必ずもどってくる。
彼をかき乱すことはできない。
どんなに頑張っても、
彼の不動の境地は揺るがない。

軽薄で無責任なこころに陥らず……
責任とは何だろう?
ふつうこの言葉の意味は間違ったものと結びつけられている。
真の責任は神への責任に他ならない。
あるいは、真の責任は自分自身の本性への責任に他ならない。
あなたは社会や教会や国家に責任を負っているのではない。
あなたに家族や社会に対する責任はない。
あなたが責任を負わねばならないのはただひとつ、それはあなたの本来の顔、
あなたの本来の実存だ。
その責任を取ることで、他のすべての責任はおのずと果たされる。
自然になりなさい。
自然な人間は責任リスポンシビリティを取ることができる――
なぜなら、彼は感応リスポンスするからだ。
自然ではない人間はけっして感応しない。
彼は単に反応リアクトするだけだ。
反応とは機械的であるという意味であり、
感応とは機械的ではなく、臨機応変に応答することをいう。
美しい花を見ると、あなたはふと「きれいだな」とつぶやく。
それが反応なのか感応なのか見守りなさい。
それを深くのぞき込み、詳しく調べてみなさい。
口にした「きれいな花だ」という言葉は、この瞬間、今ここで、あなたの内側
から自然に湧き起こった感応だろうか?
それは生の体験なのか、それとも他人が「花はきれいだ」と言っているのを聞
いたので、決まり文句をくり返しているだけなのだろうか?
それをよく調べ、観察してみるがいい。
誰があなたを通して話しているのだろう?
それは母親かもしれない……あなたは母親に連れられてはじめて庭に、公園に
行った日のことを思い出さないだろうか。彼女はあなたに
「この薔薇を御覧なさい。なんてきれいなんでしょう!」と言った。
そしてこれまで読んできた本、これまで見てきた映画、かつて話した人々――
それらすべてが「薔薇はきれいだ」と言っていた。
それがあなたのなかにプログラムして組み込まれてしまっている。
薔薇の花を見たとたんに「きれいだ」と言うのは、
あなたではなく、そのプログラムだ。
それはレコードにすぎない。
録音テープにすぎない。
外側の薔薇が引き金になって、ただテープがくり返しているだけだ。
それは反応だ。
感応とは何か?
感応とはその瞬間に起こる
プログラムされていない
生の体験だ。
あなたは花を見ている、
観念で目をふさがれることなく、
しっかり花を見ている。
あなたは こ の 花を、その現前げんぜんを見ている!
知識はすべて脇によけられている。
こころハートは感応し、頭マインドは反応する。
責任はこころハートから生まれる。
あなたは何も言わないかもしれない。
実際、「これはきれいだ」などと言う必要はない。
聞いた話だが……
老子はよく朝の散歩に出かけたものだった。
隣家の男がついて行きたいと言うと、老子は言った。
「だが、いいかね。ぺらぺらしゃべらないこと。
ついて来てもいいが、おしゃべりはごめんだ」
男は何度も口を開きたくなったが、老子の視線を感じて、なんとか言葉を押し
とどめた。
だが、太陽が昇りはじめると、その日の出があまりにきれいなので、誘惑に逆
らえなくなり、老子が言ったことをすっかり忘れてしまった。
彼は「なんて美しい朝だろう!」とつぶやいた。
すると老子は言った。
「ほら、口数が多くなってきた。君はしゃべりすぎる! 君も私もここにいて、
太陽があそこに昇ってきている――私に向かって 『きれいな朝日だ』などと言
って何になる? 私には見えないというのかね? 私は盲目だとでもいうのかね?
そんなことを言って何になる? 私もここにいるんだから」
実のところ、「きれいな朝だ」とつぶやいた男はそこにはいなかった。
彼はくり返していたのであり、それは反応だった。
(´・(ェ)・`)
(つづく`)

411鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/24(日) 21:49:19 ID:1d4drIFg0
>>408 小乗の悟りとか大乗の悟りというものはないのじゃ。
 大乗の誓願もただ修行を勧めるための方便なのじゃ。
 他人の為に頑張る者のための法なのじゃ。
 お釈迦様のように誓願をしなくとも他人の為に法を説く目覚めた者もいるのじゃ。
 もはや涅槃に行くというならば座り続けて餓死したりするのじゃ。

 そのような誓願は大乗に本当に在るのじゃ。
 オショーの創作ではないのじゃ。
 大乗の経に書いて在るのじゃ。

412避難民のマジレスさん:2019/03/24(日) 22:25:11 ID:LC3de7YgO
>>411
鬼和尚、ありがとうであります。
悟ると、一切の執着なくなるので、教えを説く以外に命を長らえようとしなくなるのでありますね。
テラワダの僧侶とかは悟ったら涅槃行きなのですかね?
(´・(ェ)・`)つ

413避難民のマジレスさん:2019/03/24(日) 22:41:22 ID:LC3de7YgO
>>410
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

感応するときには、言葉が まったく不用になることもあれば、ときには必要
になることもある。
それは状況による。
だが、必ずしも言葉がともなうとはかぎらない。
言葉がともなうこともあれば、ともなわないこともある。
感応はこころハートから生まれる。
感応は感情フィーリングであって、思考ではない。
あなたはわくわくする――薔薇の花を見ると、 何かがあなたの内側で踊りはじ
め、あなたの実存の内奥の核で 何かがかき立てられる。
何かがあなたの内側で開きはじめる。
外側の花が内なる花に挑みかけ、 内なる花がそれに感応する。
これがこころハートの応答する力リスポンシビリティだ。
つまらないものにこころを奪われていなければ、 こころハートがこの内なるダ
ンスを踊れるだけのエネルギー、 有り余るエネルギーを蓄えることができる。
エネルギーが 思考に消費されると、あなたの感情は飢えてしまう。
思考は寄生虫だ。
思考は、本来なら感情に用いられるはずのエネルギーを食べて生きている。
思考はエネルギーを搾取している。
思考はあなたの実存に起こる漏電のようなものだ。
思考はあなたのエネルギーを抜き取ってしまう。
そうなったら、あなたは穴だらけの壷のようになる―― 何も溜めておけないの
で、あなたはいつまでたっても貧しいままだ。
思考がないと、 エネルギーが内部に蓄えられて、 そのレベルがどんどん高く
なってゆく。
あなたは一種の飽和状態になる。
その満たされた状態 において、こころハートが感応する。
そうなったら生は詩になる。
そうなったら生は音楽になる。
そこではじめて、そこでようやく、みずからの 言葉を行為によって実証すると
いう奇蹟 を行なうことができるようになる。
そうなったら「君を愛しているよ」と言うだけでなく、 あなたの存在そのもの
が愛の証となる。
そうなったらあなたの言葉は無力なものではなく、 そのなかに魂を宿すように
なる。
あなたの言葉と行動が一致するとき、
あなたの言葉と行動がちぐはぐにならないとき、
あなたの言葉が誠実さで満たされるとき、
あなたが自分の言った通りのものになるとき
――そのような生のみが生きるに値する。
それまでは、あなたは一種の分裂した状態で生きている。
口ではあることを言いながら、別のことをやってしまう。
あなたの精神は分裂したままだ。
言葉と行動がもはや分離せず、
同じ現象の二つの側面になる地点に到達しないかぎり、
人類はみな精神分裂症にかかっている。
あなたは感じる通りのことを言葉にし、
言葉通りのことを感じるようにならなければいけない。
言葉通りのことを行い、
行なう通りのことを言葉にするように。
そうなれば、あなたを観察するだけで、
あなたの実存がまがいものでないことが見えてくる。
静けさのなかで、精神は途切れることなく大いなる喜びにあふれ、
酔ったような、湯を浴びたような感じがつつ゛く。
これは光の原理(陽)が全身を巡って調和しているしるしだ。
このとき黄金の華の蕾つぼみが芽生えはじめる。
静けさのなかで――すばらしい確認のしるしだ――
精神は途切れることなく大いなる喜びにあふれ……。
まったく何の理由もないのに、あなたは突然喜びに包まれる。
普段の生活では、喜びを感じるときには何らかの理由がある。
美しい女性に会ったので嬉しいとか、前から欲しかった金が手に入ったので嬉
しいとか、きれいな庭のある家を買ったので嬉しいとか――だが、こういった
喜びは長続きしない。
それはつかのまのものだ。それが途切れずつつ゛くということはない。
聞いた話だが……
ムラ・ナスルディンが、家の前で、ひどく悲しげな顔をして坐っていた。
隣人が尋ねた。
「ムラ、どうしてそんなに悲しそうな顔をしているんだい?」
するとムラは言った。
「というのもね、十五日前に叔父が死んで、五万ルピー残してくれたんだ」
隣人は言った。
「それで悲しむなんておかしいよ。喜べばいいじゃないか」
ムラは言った。
「とにかくまず話を最後まで聞けよ。七日前にまた別の叔父が死んで、七千ル
ピー残してくれたんだ。でも、それっきりで、もう何も起こらないんだ……誰
も死なないし、何も起こらない。
一週間が過ぎていって、僕は本当に悲しいよ」
何かによって引き起こされた喜びは消えてゆく。それはつかのまのものであり
、すぐにあなたは深い悲しみのなかに取り残される。
喜びはすべてあなたを深い悲しみのなかに残してゆく。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

414鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/26(火) 00:00:33 ID:1d4drIFg0
>>412 そうかもしれん。
 お釈迦様の伝統があるから法を説くかもしれん。
 大乗の禅の坊主にも悟ってから法を説かなかったものもいるのじゃ。
 自由なのじゃ。

陽気が全身に満ちれば常に体は軽く精神も晴れ晴れとしているというのじゃ。
その状態を目指して気を体内に巡らせる行もあるのじゃ。
宗派によっては気を巡らせずひたすら丹田に気を蓄積するものもあるのじゃ。
行き着くところは同じなのじゃ。

415避難民のマジレスさん:2019/03/26(火) 04:04:50 ID:LC3de7YgO
>>413
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

だが、確認のしるしとなる別の種類の喜びがある。
まったく何の理由もないのに、あなたは突然喜びに包まれる。
その理由をつきとめることはできない。
誰かに「何を喜んでいるのです?」
と問われても、答えることができない。
私は自分がなぜ喜びに包まれているのか答えることができない。
理由はない。
ただ喜びに包まれているのだ。
さあ、こ の 種の喜びは乱されることがない。
何が起ころうと、それはつつ゛いてゆく。
それは昼も夜もそこにある。
あなたは若者かもしれない、年老いているかもしれない、 元気かもしれない、
死を迎えつつあるかもしれない―― が、それはつねにそこにある。
周辺が変化しても持続する、不変の喜びを見いだしたら、 あなたは確実にブッ
ダの境地に近つ゛いている。
これが確認のしるしだ。
来ては去るような喜びに大した価値はない。
それは世俗的な現象だ。
喜びが持続するなら、途切れることなく持続するなら―― まるで陶酔したよう
な、麻薬なしで酔いしれたような気分になるなら、 まるで風呂あがりのような
、朝露のようにすがすがしく、春の若葉の ようにさわやかで、池の蓮のように
みずみずしい気分になるなら、 まるで湯を浴びたばかりのような気分になるな
ら―― そのすがすがしい気分がどこまでも途切れずにつつ゛く なら、あなたは
紛れもなくわが家に近つ゛いている。
これは光の原理(陽)が全身を巡って調和しているしるしだ。
今や、あなたの全身は調和のとれた統一体として働いている。
あなたの全身は調和がとれている。
あなたはもはや分裂していない。
あなたはもはや断片ではない。
これが個性化だ。
あなたはひとつの全体としてまとまり、
部分はすべて共振しながらともに働いている。
どの部分も実存というオーケストラの一員を演じている。
調和からはずれているものは何もない。
肉体、心、魂、最も低いものと最も高いもの、
セックスからサマーディまで……すべてがこのうえもない調和のうちに、
一糸乱れずまとまりながら働いている。
(p368)

このとき黄金の華の蕾つぼみが芽生えはじめる。
さらにすべての窓が静まり、銀色に輝く月が中天にかかり、 この大地は明るい
光に満ちた世界のように感じられてくる。
これはこころハートの本体が開き、澄んできたしるしである。
これは黄金の華が開いてゆくしるしである。
さらに頭脳マインドだけではなく、すべての窓、すべての感覚が静まると……
頭脳は内なる感覚器官だ。
まずそれを静めなければならない。
さらに頭脳に餌を与える五感、目や耳や鼻などすべての感覚器官がある。
それらは外界から絶えず情報を送り込み、
それを内側に、頭脳に蓄えつつ゛けてゆく。
その感覚器官も静まり、何も持ち込まず、物音ひとつ立てず、受動的になっているとき……
目は眺めているが、何も持ち込もうとしない。
耳は聞いているが、聞こえるものに執着しようとしない。
舌は味わっているが、味をむさぼろうとしない。
あなたの感覚はすべて静まり、銀色の月が中天にかかっている……
銀色の月とは女性原理の象徴だ。
銀色の月が中天にかかり、すべての感覚が鳴りを潜め、頭脳が受動的になり、
静まるとき、あなたは受け身で待つという女性原理を達成している。
あなたは子宮になっている。
満月の夜だ。
すべてが涼しく、
静かで、ひそやかだ。
何も身動きしない。
その喜びは果てしない!

この大地は明るい光に満ちた世界のように感じられてくる。
それは内側だけで感じられるものではない。
それが内側にあるときには、ただちに外側にも感じられるようになる――全世
界が明るい光に満ちている。

これはこころハートの本体が開き、澄んできたしるしである。
あなたは透きとおり、澄みわたり、
清らかになり、知覚力が冴えてゆく。
女性原理は受動的な原理なので清澄さをもたらす。
それは休息を、完全な休息をもたらす。
あなたは何もせずにただそこにいる。
すべてが冴えわたり、一片の雲もない。
あなたは実在をどこまでも見通すことができる。
内側にも静謐せいひつさと喜びがあり、
外側にも静謐さと喜びがある。

これは黄金の華が開いてゆくしるしである。
最初は蕾つぼみがふくらみかけただけだったが、
今や花が開きつつある。さらなる一歩が踏み出された。

さらに、全身に力がみなぎり、嵐も霜も恐れなくなる。
沈黙と喜びが深まってゆくにつれ、あなたはみずからの死が存在しないことを
感じはじめる。
死に際し、死んでゆくのはペルソナ、人格だけであり、本質はけっして死ぬこ
とがない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

416避難民のマジレスさん:2019/03/26(火) 19:40:29 ID:LC3de7YgO
>>415
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

みずからの内に宿るもの、けっして変わらぬもの――
どんな状況のもとにあってもつつ゛いてゆく喜び――
を知るとき、はじめてあなたはみずからの内に不死なるものがあることを、永
遠なるものがあることを知る。
その瞬間、力がみなぎり、底力が湧きあがり、恐怖が消える。
そうなったら人は恐れない。
そうなったら震えはとまる。
あなたははじめて恐怖をもたずに実在をのぞき込んでいる。
そうでないかぎり、世に言ういわゆる神々は恐怖の産物にすぎない。
人はみずからを慰めるために神々をつくりだした。
人は恐怖から身を守る後ろ盾として、防御として、
鎧よろいとして神々をつくりだした。
あなたは恐れている。
あなたには誰かすがりつく相手が必要だ。
それらは偽りの神々だ。
それらは本当の神々ではない。
恐怖に駆られながら、どうして真の神を見いだすことができるだろう?
いわゆる宗教家たちは神を恐れ敬う人々として知られている。
真の宗教家には恐怖がない――彼は世間も神も恐れない。
恐れのない境地のなかで、まったく異なる神のヴィジョンが生まれてくる。
(p370)

人々が不快に感じるものごとに出会っても、精神の種子の明るさが曇ることは
ない。
もう曇ることはない。あなたの精神を打ちひしいだり、澄んだ意識を歪めるこ
とのできるものは何もないからだ。
あなたはつまらないことに興味を示し、本質的なことを忘れてしまっている。
浜辺で貝殻やきれいな石を集めているだけで、すぐそばにあるダイヤモンドの
ことなどすっかり忘れてしまっている。
あなたは死が奪い去ってゆくがらくたを集めている。
私は死によっても奪われることのない宝物を手に入れるよう呼びかけている。
ラザロよ!墓から出てきなさい!
そして、
聴く者は弟子になる。
聴く者はサニヤシンになる。
聴く者は内なる世界へと動きはじめる。
彼の旅は他の人々の旅とはまったく違うものになる。
彼は世間で暮らしているかもしれないが、もはやそこにはいない。
彼の関心はまったく別のところにある。
赤い血はミルクに変わり……
マハーヴィーラの有名な寓話が伝えようとしているのはこのことだ。
それによると、蛇が、とても危険な蛇がマハーヴィーラに襲いかかり、
彼の足を噛んだが、血の代わりにミルクが流れ出たという。
ところがジャイナ教徒たちはそれを文字通りに解釈し、
物笑いの種になっている。
それは文字通りに解釈すべきものではない。
それは寓話だ。
赤い血は暴力を表し、ミルクは愛を表している。
子供が生まれると、母親の乳房はすぐにミルクでいっぱいになる――生まれた
ばかりの子供への愛と思いやりから。
突然、彼女の血はミルクに変わりはじめる。
みるみるうちに母親の生化学のなかで奇蹟が起こりはじめる。
今まで彼女は女にすぎなかったが、今では母親になっている。
子供の誕生とともに、二人の人間が生まれる――
一方には子供が、そしてもう一方には母親が。
母親の生化学はふつうの女性とは違っている。
奇蹟が起こっている。
愛ゆえに、血はミルクに変わりはじめる。
それは象徴的だ。
血は暴力であり、ミルクは愛だ。
人がこの境地に達すると、暴力はすべて影を潜める。
彼は愛そのものであり、愛より他の何ものでもない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

417鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/26(火) 22:02:18 ID:1d4drIFg0
肉体や人格は死ぬが本質は死なないというのじゃ。
その本質とは全てのものの本質と同じなのじゃ。
全ては同じ本質を持ち時とともに変るものではないのじゃ。
それを実感すれば全てに戻るのじゃ。

418避難民のマジレスさん:2019/03/26(火) 22:25:22 ID:LC3de7YgO
>>416
41黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華4
より抜粋

もろい肉体は純金やダイヤモンドに変わる。
そして見える者たち、見る目をそなえた者たちは、ブッダの身体のなかに、も
ろい肉体ではなく純金やダイヤモンドを見ることができる。
弟子たちが話すことを他の人々が信じないのはそのためだ。
他の人々は、弟子たちは催眠術にかけられていると考える。
なぜなら、弟子たちは他人には見えないものを、身近な弟子たちにしか感知で
きないものを見はじめるからだ。
彼らはふつうの肉体のなかに別のものを、他の身体、黄金やダイヤモンドでで
きた身体、永遠の身体を見はじめる。
この肉の身体は時間の身体だ。
その背後には永遠の身体が隠されている……
だが、それを見るには目をもたなければならない……
そして愛と明け渡しだけが、あなたに目を授けることができる。

これは黄金の華が結晶したしるしである。
だが、この内なる旅に入ってゆくと、人はみずからの身体を黄金やダイヤモン
ドとして見ることができるようになる。
そうなったら、黄金の華が結晶したと確信してもいい。
最初、それはふくらんでゆく蕾つぼみにすぎなかったが、しだいに花が開いて
ゆき、今や結晶している。

光の輝きは次第に結晶化する。
こうして大いなる台座が出現し、 やがてその上にブッダが現れてくる。
今やブッダはそれほど遠くないことを、夜明けが近つ゛いてきていることを、
夜が明けつつあることを確信することができる。
光の輝きが結晶化するにつれ、台座が現れ……
この黄金やダイヤモンドのヴィジョン、永遠の身体のヴィジョンという台座の
上に……やがてブッダが現れてくる。
この地点を過ぎれば、為しうることは何もない。
後はただ待たなければならない。
何もせず、静かに坐っていると、春が来て、草はひとりでに生えてくる。

やがて
――春が訪れると――

その上にブッダが現れる。
黄金の本性が現れるとき、それはブッダに他ならない。
東洋人はそれを「ブッダ」と呼び、
西洋人はそれを「キリスト」と呼んできた
――それは同じ本質を指している。

ブッダとは大いなる悟りを得た黄金のように輝く聖者だからである。
これは大いなる確証の体験である。
みずからの内側に光輝く台座、結晶化した光が見え、 その台座の上にブッダが
現れたら――黄金の華が開き、 花を咲かせ、その黄金の蓮の上にブッダが現れ
てきたら、 あなたはわが家に帰り着いている。
これが究極のゴールだ。
これを見いださなければならない。
これを見いだすことはできる。
これはあなたが生まれながらにしてもっている権利だ。
取り逃がすとしたら、誰のせいでもない、 その責任はひとえにあなたにある。
 す べ て を賭けなさい。
 だが、逃してはならない!
 す べ て を犠牲にするがいい。
 だが、逃してはならない!
(´・(ェ)・`)
(おわり)

419鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/27(水) 22:34:59 ID:1d4drIFg0
金は千年たっても輝きを失わないから永遠の象徴なのじゃ。
修行を終えた者は黄金の肉体となるというのも不死の境地に入った喩えなのじゃ。
死ぬ者が不死の境地に入ることは卑金属が金になると同じ錬金術なのじゃ。
それが黄金の華の秘密なのじゃ。

420避難民のマジレスさん:2019/03/27(水) 22:57:50 ID:LC3de7YgO
>>418
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験
より抜粋

呂祖師は言った。

ところで、点検できる確証の体験が三つある。
その第一は、瞑想の状態に入ったときに神々が谷間にいるという体験である。
人々の話し声が数百歩も離れたところから響いてくるように聞こえ、 そのひと
つひとつがひじょうに鮮明である。
だが、その音はすべて谷間でこだまが反響するように聞こえる。
いつも聞くことができるのだが、自分自身の声はけっして聞こえない。
これが「神々が谷間にいる」といわれる体験である。

ときおり次のような体験が起こることがある。
人が静かな状態になるとすぐに、目の光が燃えあがりはじめ、 眼前にあるもの
がすべて明るく輝き、まるで雲のなかにいるかのように感じられる。
目を開けて身体を探しても、もはやどこにも見つからない。
これが「からっぽの部屋が明るく輝く」という体験である。
内も外も、あらゆるものが等しく輝いている。
これはひじょうによいしるしである。

あるいは、坐って瞑想していると、肉体が絹か宝玉のようにまばゆく輝きはじ
める。
坐ったままでいるのがむずかしくなる、上に引きあげられるような感じがする

これは「精神が天に帰り、その頂点に触れる」と呼ばれる体験である。
やがて、本当に上昇するような体験をすることがある。

さて、これらの三つの体験はすべてこの世で得ることができる。
だが、これですべてを説明しつくせたわけではない。
各人の気質や性癖に応じて異なった現象が現れるからだ。
もしこういったことを体験したなら、それはよい素質のしるしである。
こういった現象は、人が水を飲んで、その冷暖をおのずから知る ような性質の
ものである。
それと同じように、人はこれらの体験を自分で 確かめてみなければならない。
そのときはじめてそれは本物の体験になる。

呂祖師は言った。

光を巡らせる訓練は徐々に成果が現れてゆく。
その際、日常の務めを放棄してはならない。
古人は 「仕事がやって来れば、それを引き受けなければならない。 ものごとが
やって来れば、それを根底から理解しなければならない」と言っている。
正しい思考によって事を適切に処置してゆくなら、 光は外界の事物によって散
らされることなく、みずからの法則に従って巡る。
穏やかな目に見えない光の循環でさえこのようにして起こりはじめる。
すでにはっきりとした形をとった真の光の循環の場合は言うまでもない。

日常生活のなかで、自他の思いをいっさい混入することなく、 ものごとに対し
てつねに打てば響くように対処する力をもつなら、 それは環境から生じる光の
循環である。
これが第一の奥義である。

朝早く、世間のしがらみをいっさい断って、 一、二時間瞑想することができれ
ば、さらに、 あらゆる外界の活動と事物に主観をいっさい交えず、 打てば響く
ように対処することができれば、そして それを途切れることなくつつ゛けるこ
とができれば、 二、三ヶ月後には天上から真人たちがやって来て、 その行為を
認めてくれるであろう。

ある美しい朝のことだった。
今朝と同じような朝だったにちがいない。
涼しい風が吹き、濡れた大地の甘い香りが一面に立ちこめていた。
鳥たちが歌い、太陽が地平線から顔を出そうとしていた。
朝露が草葉の上で真珠のように輝いていた。
朝はいつも美しい。
必要なのはそれを見る目だけだ。
鳥たちがそこにいて、毎朝のように歌っている。
だが、誰がそれを聴いているだろう?
樹々は花を咲かせているが、誰がその美を味わっているだろう?
美的な感覚をそなえたこころハートが欠け、計算高い頭マインドだけが働いて
いる。
あなたが醜い世界に住んでいるのはそのためだ。
私はあなたがたに遠い昔の物語を話そうとしている。
ゴータマ仏陀のサニヤシンたちがマンゴーの樹々の下で瞑想をしていた……
朝ほど瞑想にふさわしい時はない。
一晩中休息を取ったおかげで、
あなたはみずからの実存のすぐ近くにいる。
他のどの時間よりも、早朝ほど意識して
中心に入ってゆきやすい時はない――
あなたは一晩中その中心にいて、たった今そこを後にしてきたばかりだからだ。
千とひとつのものごとが立ち現れる世界はまだはじまっていない。
あなたは事物に向かい、外界に出てゆく途上にあるが、
内なる中心はすぐそこに、ほんの間近にある。
ちょっと振り返れば、そこにあるものを
――真理、神、光明を見ることができる。
夢も見ないほど深い眠りのなかで訪れていたものを見ることが
……だが、あなたはそのときは無意識だった。
深い眠りには若返らせる力がある。
あなたは実存の中核に入ってゆくからだ――
(´・(ェ)・`)
(つづく)

421鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/28(木) 22:36:55 ID:1d4drIFg0
虚室生白とか呼ばれる現象なのじゃ。
元々荘子の言葉なのじゃ。
サマーディに入った状態なのじゃ。
自己を忘れ、意識が拡大していく過程なのじゃ。

422避難民のマジレスさん:2019/03/28(木) 23:52:48 ID:LC3de7YgO
>>420
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

呂祖師は言った。

無意識ではあるが、入ってゆくことに変わりはない。
外界での疲れはすべて取り去られ、傷はすべて癒され、
ほこりはすべて消え失せる。
あなたは湯を浴びてきた。
みずからの実存のなかに深く身を浸していた。
パタンジャリが「深い、夢のない眠りはサマーディとよく似ている」
と言うのはそのためだ。
だが、よく似てはいるが、まったく同じではない。
どこが違うのだろう?
違いはごくわずか だとも言えるし、ひじょうに大きいとも言える。
が、そこにはこれだけの違いがある――つまり眠りのなかでは意識がないが 、
サマーディのなかでは意識がある。
だが、その空間は同じだ。
だから、朝、眠りから覚めたばかり のとき、あなたは中心のすぐそばにいる
…… 間もなく周辺があなたをつかまえ、乗っ取ってゆく。
あなたは仕事の世界に入ってゆかなければならない。
その外界の旅に出かける前に、 意識的に自分が誰であるかを見る ことができ
るように振り返ってみる―― まさにそれが瞑想というものだ。
だから、いつの時代にも、朝には、 大地が目覚め、鳥たちが目覚め、太陽が
目覚め、 大気全体に目覚めが満ちてゆく早朝には、 この状況を使うことができ
る。
あなたはこの目覚めの潮流に乗って、 油断なく目を見張り、醒めながら、み
ずからの 実存のなかに入ってゆくことができる。
そうすればあなたの生全体が変容を遂げる。
あなたに異なる方向感覚がそなわることで、 その日一日がそっくり変容を遂げ
る。
そうなったら街の雑踏マーケットプレイスに入ってゆきながら、 内なる中核と
依然として接触を保ちつつ゛けることができる。
そして、それは最も深遠な秘法、黄金の華の秘密だ。
……その朝、仏陀のサニヤシンたちはマンゴーの樹々の下で瞑想をしていた
…… あなたがたが私のまわりに集まってきているように、何千人もの人々が 仏
陀のまわりに集まってきていた。
瞑想の他に学ぶべきものはなかった。
ブッダたちは教えるのではなく、ただ分かち合うだけだ。
彼らは教義を授けるのではなく、まさしく実践法を授ける。
彼らは信条を授けるのではなく、まさしく信頼の味を味わわせる。
そして信頼をほんの一滴味わうだけで、生は変貌を遂げる。
覚醒した人と結びつくには、あなた の側でも少しは醒めるより他にすべはな
い。
なぜなら、似た者同士しか親しくなれないからだ。
ブッダとともにあるためには、日常生活で 求められるよりもいくらか多くの注
意深さが求められる。
日常生活では、あなたはロボットのように機械的にならなければいけない。
師のもとへ行くと、あなたは 機械的であることをやめ、自動的に反応するこ
とをやめ、 もう少し注意深くなり、ものを見つつ゛けるだけでなく、 みずから
の実存をも想起することを求められる。
……仏陀の弟子たちは瞑想をしていた……
こんなに美しい朝を取り逃がすわけにはゆかない。
鳥たちが朝の太陽を讃えているときには、 あなたも神を讃えなければならない。
樹々が風にそよいでいるときには、 あなたもこの永遠の舞ダンスに加わらな
ければならない。
あなたもお祝いをしなければならない。
新しい日がはじまる―― 過去を忘れ、過去を引きずらず、 新しく生まれ変わ
りなさい。
(p380)
……仏陀にはスブーティという名前の弟子がいた。
弟子たちの何人かは本当に稀な者たちだった。
スブーティは 覚者ブッダの境地の瀬戸際に立っていた希有な者たちのひとりだ
った。
あとわずか一歩で、彼はブッダになるところだった。
彼はわが家に帰りつつあった。
刻一刻とわが家に近つ゛きつつあった。
自我エゴが消え神が生まれる中心へと、 あなたが死んで全体が生まれる中心
へと どんどん近つ゛きつつあった。
中心に到ると、部分は全体のなかに消え、調和のとれた宇宙が生まれ、 あなた
はもはや死を恐れ身震いしている分離した存在ではなくなる。
そうなったら、あなたはこの<存在>の永遠の遊戯の一部になる。
スブーティはまさに瀬戸際にいた。
彼は仏陀の弟子のなかで 最 も 静かな者たちのひとりだった。
あまりに静かだったので、ほとんど存在していないかのようだった、 と経典は
伝えている。
彼がやって来ても、誰も注意を払わなかった。
彼が通り過ぎても、誰も彼が通り過ぎたことに気つ゛かなかった。
彼はじつに静かなそよ風のようだった…… ふつうあなたは 注目を浴びたがっ
ている。
注目されないと、あなたは傷ついてしまう。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

423鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/29(金) 22:21:22 ID:1d4drIFg0
朝目覚めた時、一瞬だけ人は自分を忘れていると自覚できるのじゃ。
それは自然なサマーディともいえるのじゃ。
朝には智慧が浮かび、心も静かに鎮まっているのじゃ。
瞑想はその時を自分の意志で生み出せるようにする法なのじゃ。

424避難民のマジレスさん:2019/03/30(土) 02:31:40 ID:LC3de7YgO
>>422
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

呂祖師は言った。

あなたは 注目を浴びたい。
注目をされたがっているのはいったい誰なのだろう?
自我エゴが注目を浴びたがっている。
自我は注目を浴びることで生きている。
誰にも相手にされなかったら――あなたがやって来ても誰も気つ゛かなかった
ら 、あなたが通り過ぎてもまるで相手にされず、誰も「おはよう、元気かい?」
と 声をかけなかったら――あなたは傷ついてしまう。
あなたはこのように考えはじ める。
「私は無視されている。私が誰であるかをあの連中に教えてやらなければ」
自我はつねに注目を浴びたがっている。 ……スブーティはとても静かだった。
注目を浴びたいという彼の欲望は消えてしまっていた。
注目を浴びたいという欲望が消えたとたん、あなたの 実存からはいっさいの政
治が消える。
そうなったらあなたは宗教的になっている。
そうなったらあなたは自分が何者でもないことにすっかりくつろいでいる。
そうなったらあなたはまったく異なった生を生きる。
そうなったらあなたはとても静かに生きるので、 どんな物音も立てず、さざ波
ひとつ立てず、一度も 去来したことがないかのように去来してゆく。
スブーティはいながらにしていなかった…… 実のところ、真 に 存在する瞬間
、あなたは 自我エゴという観念をそっくり落としてしまう。
人々が自我という観念をもち歩いて いるのは、彼らが存在していないからだ

この逆説を理解しようとしてみなさい。
存在していない者たちには自負心がある。
彼らは何がなんでも自負心を もたざるをえない。
彼らは世間に向かって自分を証明しなければならず、 絶えず演技をしつつ゛け
ている。
演技をしなければ、自分が誰でもない者に なってしまうことを知っているから
だ。
彼らは演技をし、声を張りあげ、 騒ぎ立て、他人の目を引きつけなければなら
ない。
アドルフ・ヒトラー、ジンギス・カーン、チムールや歴代の無数の愚かな政治
家 たち、彼らがしてきたことは、人
々の注意をもっともっと自分に引きつけること だった。
こういった連中は真に存在していない人々だ。
存在している人々はみずからの実存に深く満足している。
他人が注目するかどうかなど誰がかまうだろう?
彼らは自分だけで満ち足りている。
自分自身で充分に満足している。
だから、これはパラドックスだ。
存在していない人間は、 自分を大きく見せようと努力し、特別な誰かであるふ
りをする。
存在している人間はふりをせず、 自惚れず、とても静かな存在になる。
……彼はあたかもいないかのように存在していた……
そして不在のなかではじめて真の臨在プレゼンスが現れてくる。
人物が消え失せて、臨在が現れてくる。
……彼はゆっくりと溶けてゆき、人物として消え去った……
それが起こるとき、その奇蹟が起こるとき、 そのまさに不在そのものが光輝く
臨在となる。
……スブーティも樹の下に坐っていたが、瞑想すらもしていなかった。
他の者たちは瞑想をしていたが、彼はただ何もせずそこに坐っていた。
それは最も高度な瞑想の姿だった…… 瞑想を す る のは、あくまで初心者に
すぎない。
初心者は瞑想をしなければならない。
だが、瞑想を理解した者は す る という見地でとらえることさえできない。
何かをしたとたん、あなたが揺れ動くからだ。
何かをしたとたん、あなたは緊張する。
何かをしたとたん、自我が再び裏口からしのび込む ――行為とともに行為する
者が現れてくるからだ。
瞑想とは無為の境地だ。
確かに最初のうちは や ら なければならない。
だが、ゆっくりと瞑想が深まるにつれ、理解が生まれ、行為は消えてゆく。
そうなったら 瞑想は行為ではなく、実存のありようになっている。
行為は所有の世界の一部だ。
行為は所有のもうひとつの側面だ。
もちたければ、 行為しなければならない。
もちたければ、 行為せざるをえない。
数限りない人々が行為と所有の世界にとどまっている。
これら二つの彼方にもうひとつの世界 ――存在ビーイングの世界がある。
そこではあなたは何ももたず、行為の主体でもない。
すべては完璧に静かだ。
すべては完全に受動的であり、さざ波ひとつ立っていない。
……だから彼は瞑想をしていたのではない、いいかね。
彼は何もせずにただ坐っていただけだ。
すると突然、彼のまわりに花が舞い落ちはじめた。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

425避難民のマジレスさん:2019/03/30(土) 09:56:03 ID:LC3de7YgO
>>424
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

それはふつうの花ではなかった。
この世の花ではなかった。
地上の花ではなかった。
それらは樹々から落ちてくる のではなく、空から舞い降りてきた。
いずこからともなく、忽然と現れてきた。
彼はこれほど美しく、鮮やかで、 かぐわしい花を見たことがなかった。
それらは彼方の花、黄金の華だった。
彼が畏敬の念に打たれ、驚嘆したのも当然だ。
すると神々が 「あなたの空くうについての講話は何とすばらしいのでしょう」
とささやきかけてくる声が聞こえてきた。
彼はすっかり当惑してしまった。
「空についての講話ですって? 私は空について話してなどいません」
とスブーティは言った。
「あなたは空について話さなかったし、 私たちは空について聴きませんでし
た」と神々は応えた。
「それが真の空なのです」
そして花がスブーティの上に雨のように降り注いだ。
これは私がこれまでに出会った最も美しい物語のひとつだ。
そこには深遠な意味が隠されている。
あなたが沈黙していれば、完全に沈黙していれば、 <存在>があなたの上に降り
注ぎはじめる。
祝福が雨のように降り注いでくる。
あなたが沈黙していれば、 あなたが瞑想の状態にあり、 何もせずただ存在し
ているなら、 全存在が、その恩寵のすべて、その 美と祝福のすべてをあなたの
上に結集させる。
これがイエスが「至福の境地」と呼んでいる状態だ。
はじめてあなたは<存在>の荘厳な輝きに気つ゛くようになる。
そうなったら、一瞬一瞬が永遠であり、息をする ことでさえすばらしい喜び、
すばらしい祝祭になる。
あなたが消えた瞬間、苦しみも消える。
苦しみは自我の影だ。
が、祝福は自然な現象であり、 それはあなたがからっぽになった とたんに、
ひとりでに起こってくる。
全存在が押し寄せ、爆発する。
ルートヴィッヒ・ヴィットゲンシュタインは「神秘的なのは 世界の成り立ちで
はなく、それが存在するということだ」と言っている。
世界が存在すること自体が神秘だ。
どこか他の場所に出かけてゆく必要はない。
神秘は隠されていない。
神秘は至るところにある。
世界が存在すること自体が神秘だ!
神秘を探すために深く掘り下げる必要はない。
神秘は至るところにある。
深みにだけでなく表面にもある。
ただそれを感じるこころハートがあればいい。
ただいつでも呼応できるように開いている実存があればいい。
ただ油断なく醒めていれば――努力や緊張をいっさいともなわずに 油断なく醒
めていればいい。
必要なのは瞑想の状態だけだ。
それがあれば、<存在>の恩恵が雨のように降り注ぎはじめる。
(p384)
さて、経文だ――
呂祖師は言った。
ところで、点検できる確証の体験が三つある。
その第一は、瞑想の状態に入ったときに神々が谷間にいるという体験である。
人々の話し声が数百歩も離れたところから響いてくるように聞こえ、 そのひと
つひとつがひじょうに鮮明である。
だが、その音はすべて谷間でこだまが反響するように聞こえる。
いつも聞くことができるのだが、自分自身の声はけっして聞こえない。
これが「神々が谷間にいる」といわれる体験である。
呂祖は、三つの確かな手応えのあるしるしについて語っている。
彼は最初のしるしを「神々が谷間にいる」と表現している。
歩んでゆく者たちは――あなたがたはみな瞑想に向かって歩んでいる――この
奇妙だがとてつもなく美しい空間に出くわすことになる。
瞑想があなたの内側で結晶しはじめた最初のしるしは「神々が谷間にいる」と
述べられている体験だ。
この隠喩メタファーは何を意味しているのだろう?
それは瞑想があなたのなかで起こりはじめると、たちまち全存在が谷間となり
、あなたは丘の頂上に立つということだ。
あなたは上昇しはじめる。
全世界が遥か遠くに見下ろせる深い谷間となり、あなたは日の照る丘の上に坐
っている。
瞑想はあなたを上昇させる――物理的にではなく、霊的にだ。
その現象が起こるときにははっきりわかる。
それらがしるしになる。
瞑想しながら内側に入ってゆくと、突然、あなたは自分と周囲の騒音のあいだ
に大きな距離が生まれているのに気つ゛く。
あなたは雑踏マーケットプレイスの只なかに坐っているかもしれないが、突然
、自分と騒音のあいだにすきまが生まれているのに気つ゛く。
ほんの一瞬前には、これらの騒音はほとんどあなたと一体化していた。
あなたはそのなかにあった。
今やあなたはそれらから遠ざかりつつある。
あなたの身体は前と同じようにそこにある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

426避難民のマジレスさん:2019/03/30(土) 10:01:31 ID:LC3de7YgO
>>425
>「神々が谷間にいる」・・・それは瞑想があなたのなかで起こりはじめると
、たちまち全存在が谷間となり、あなたは丘の頂上に立つということだ。
あなたは上昇しはじめる。
全世界が遥か遠くに見下ろせる深い谷間となり、あなたは日の照る丘の上に坐
っている。
・・・・瞑想しながら内側に入ってゆくと、突然、あなたは自分と周囲の騒音
のあいだに大きな距離が生まれているのに気つ゛く。

これが、虚室生白 であり、「神々が谷間にいる」の意味でありますね。
(´・(∀)・`)つ

427鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/30(土) 22:54:44 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、サマーディに入り、身体から意識が拡大してきている状態なのじゃ。
自分が無く、光だけがあると感じるのじゃ。
いくつも意識が在るように感じるのじゃ。
どこまでも意識が大きくなっているから上に跳んでいくように感じるのじゃ。
わかっていれば怖くないのじゃ。

428避難民のマジレスさん:2019/03/30(土) 23:42:29 ID:LC3de7YgO
>>425
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

山に出かける必要はない――
これは内側にある本当の山を見いだす方法だ。
これは内側にあるヒマラヤを見いだす方法だ。
あなたは深い静けさのなかへと入ってゆく。
すると、すぐそばで聞こえていた騒音が――そこにはひどい混乱があった――
にわかに遠ざかり、後退してゆく。
外の世界はすべてこれまで通りで、何ひとつ変わっていない。
あなたは瞑想をはじめた同じ場所に坐っている。が、瞑想が深まってゆくにつ
れて、それが感じられてくる。
外界の事物とのあいだに距離が生じてくるのが感じられる。
人々の話し声が数百歩も離れたところから響いてくるように聞こえ……まるで
ふいに世界があなたから遠ざかってしまったかのようだ。
あるいはあなたが世界から遠ざかってしまったかのようだ。
だが、ひとつひとつの思考はきわめてはっきりとしている。
外側で語られている言葉はすべてきわめてはっきりしている。
実のところ、かつてなかったほどはっきりしている。
これが瞑想の不思議な働きだ。
あなたは無意識になってゆくのではない。というのも、無意識のときにも騒音
は消えてゆくからだ。
例えば、クロロホルムを嗅がされれば、あなたはこれと同じ現象が起こってゆ
くのを感じるだろう。
騒音がどんどん遠くへ遠くへ遠ざかってゆき……やがて消えてゆく。が、あな
たは無意識になってしまっている。
何ひとつはっきりと聞くことはできない。
瞑想のなかでもまったく同じことが起こるが、違いがある――騒音がどんどん
遠ざかってゆくが、ひとつひとつの音がひじょうにはっきり聞こえてくる。
かつてなかったほどはっきりと聞こえる。
それは目撃者が生まれてきているからだ。
最初はあなたも騒音の一部と化していた。
あなたは騒音のなかに失われていた。
今やあなたは目撃者、観察者であり、あまりに静かなので、あらゆるものをあ
りありと鮮明に見ることができる。騒音は遠くにあるが、かつてなかったほど
鮮明にはっきり聞こえてくる。
瞑想しながら音楽を聴いていると、これが起こる。
まず音楽が遠ざかってゆくのが感じられる。
つつ゛いて、それと同時に、ひとつひとつの音がかつてなかったほど鮮明には
っきり聞こえてくる。
以前は、音と音が混ざり合い、互いに重なり合っていた。
今や、ひとつひとつの音がみな原子のようにきわだっている。
ひとつひとつの音が分離している。
人々の話し声が数百歩も離れたところから響いてくるように聞こえ、 そのひと
つひとつがひじょうに鮮明である。
だが、その音は すべて谷間でこだまが反響するように聞こえる。

そして、三つめのことが感じられる。
音が直接ではなく、間接的に聞こえてくる。
まるで音そのものではなく、こだまのように。
音はだんだん希薄になり、その実体が失われる。
音はだんだん実質をなくし、その物質性が消える。
それらはもはや重くなく、軽い。
その重力のなさを感じることができる――それはこだまのようだ。全存在がこだまのようになる。
ヒンドゥー教の神秘家たちが世界を「マーヤ」――まぼろし――と呼ぶのはそ
のためだ。
「まぼろし」とは非現実という意味ではなく、たんに影やこだまに似ていると
いうことだ。
それは実在しないという意味ではなく、たんに夢に似ているということだ。
影のようであり、夢のようであり、こだまのようだ――そのように感じられる。
それらが現実だとは感じられない。
全存在が夢と化し、ひじょうに鮮明にくっきりと見えるのは、あなたが目を見
張っているからだ。
夢まぼろしのようなのは、あなたが目を見張っているからだ。
最初、あなたは夢のなかに我を忘れていた ――注意を怠り、これが現実だと考
えていた。
あなたは自分の想念マインドに同一化していた。
今はもう想念に同一化することなく、 分離した実体があなたのなかに生まれ
ている ――それが注意深く見守る状態、サクシだ。
いつも聞くことができるのだが、自分自身の声はけっして聞こえない。

そして四つめのことが感じられる。
あなたはまわりにあるすべてのものを聞くことができる――人々が話したり、
歩いたりしている。子供たちが笑っている。誰かが泣いている。
鳥が鳴き、車が通り過ぎる。
飛行機や汽車……あなたはあらゆる音を聞くことができる。
が、ただひとつ例外がある――あなたは自分自身の声を聞くことができない。
あなたは完全に消えてしまっている。
あなたは空からであり、ひとつのスブーティになりつつある。
あなたはもぬけのからだ。
あなたはひとつの実体として自分自身を感じることができない。
あらゆる騒音がそこにあるのに、あなたの内なる騒音だけは消えている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

429避難民のマジレスさん:2019/03/31(日) 07:23:45 ID:LC3de7YgO
>>428
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

ふつうは外界よりも内界のほうが騒々しい。
本当の混乱はあなたの内側にある。
本当の狂気はそこにある。
そして、外側の狂気と内側の狂気が出会うとき、地獄が生み出される。
外側の狂気はつつ゛いてゆく。
それはあなたがつくりだしたわけではないから、消し去ることはできないが、
内なる狂気は簡単に消し去ることができる。
それはあなたの手の内にある。
内なる狂気が消えてしまえば、
外なる狂気は実体を失う。
それは現実感をすっかり失って、まぼろしになる。
自分の古い声は見つからない。
内側に思考が湧いてこないので、音がない。
これが「神々が谷間にいる」と呼ばれる体験だ。
あなたはからっぽになっている。
あらゆるものが谷の底深くに沈んでゆき、
聞こえてくるのはこだまだけだ。
そして、こだまが聞こえてきても、
あなたはけっして影響を受けることがない。

先日、狂った男がアヌラーダを強姦しようとした。男は強姦未遂でつかまった。
私は、彼女がその事件に影響されたかどうか確かめようとアヌラーダを呼んだ。
ひじょうに嬉しいことに、
彼女はまったく影響されていなかった。
事件はまったく尾を引いていなかった。
瞑想のなかへと成長することの美しさがそこにある。
たとえ殺されても、あなたは影響を受けないままでいる。
さあ、彼女を強姦しようとするのは残忍なことだ。
ひとりのインド人が強姦しようとした。
これがインドの真の姿であることをモラジ・デサイに知らせてやろう。
そして事件はこれ一件だけではない。
それはありふれた出来事になりつつある。
私のサニヤシンが外を歩くのはひじょうに危なくなっている。
この醜いインドは私のインドではない。
この醜いインドはモラジ・デサイやシャラン・シンやアドヴァニやその一党に
属している。
私はこの醜いインドとはまったく関係がない。
だが、もうひとつのインドがある。
覚者ブッダたちのインド、永遠のインドだ。
私はその一部だ。あなたがたはその一部だ。
実のところ、瞑想が起こっている場所ならどこでも、その人はこの永遠のイン
ドの一部になる。
その永遠のインドは地理的なものではなく、霊的な空間だ。
その永遠のインドの一部になることがサニヤシンになることだ。
私は嬉しかった。
このうえもなく嬉しかった。
アヌラーダを見ると、彼女はまったく影響されていないし、恐怖のかけらすら
なく、何もなかった――まるで何事もなかったかのように、まるでその企ては
夢のなかで行なわれたかのように。
人はこのようにしてゆっくり瞑想のなかへ成長してゆく。
あらゆるものが実体を失ってゆく。
人はあらゆるものを見ることができる。
彼女は応戦した。
彼女は勇気があり、どうどうとしていた。
彼女は為すべきことはすべてやった。
彼女は屈服しなかった――が、内なる意識は影響を受けていなかった。

これが「神々が谷間にいる」といわれる体験である。
ときおり次のような体験が起こることがある。
人が静かな状態になるとすぐに、目の光が燃えあがりはじめ、 眼前にあるもの
がすべて明るく輝き、 まるで雲のなかにいるかのように感じられる。
目を開けて身体を探しても、もはやどこにも見つからない。
これが「からっぽの部屋が明るく輝く」という体験である。
内も外も、あらゆるものが等しく輝いている。
これはひじょうによいしるしである。
さあ、第二のしるしは「からっぽの部屋が明るく輝く」と呼ばれている。
からっぽにならないかぎり、あなたは暗いままだ、暗闇のままだ。
「からっぽの部屋が明るく輝く」――
あなたが完全にからっぽであり、
あなたの内側に誰もいないとき、
光が現れる。
自我エゴの存在が闇をつくりだす。
暗闇と自我は同じ意味だ。
無我と光は同じ意味だ。
だから瞑想の技法はすべてみな、どこを目指そうとも、最終的には、あなたの
内なる実存であるこのからっぽの部屋に向かう。
沈黙の空間だけが残され、あなたはその空間に、光源をもたない大いなる光が
現れるのを見る。
それは太陽が昇るときに見える光のようではない。
太陽からやって来る光は永遠のものではありえないからだ。
夜になればそれは再び消え失せる。
またそれは燃料を必要とする光のようではない。
なぜなら、燃料がつきるとその光は消えてしまうからだ。
この光にはひじょうに神秘的な性質がある。
それには源がなく、原因がない。
それは引き起こされるものではない。
それゆえに、この光はひとたび現れると 存続し、けっして消えることがない。
実際、それはすでにそこにある。
それが見えるほどあなたがからっぽでないだけだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

430鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/31(日) 22:56:33 ID:1d4drIFg0
インドもなかなか物騒になっているというのじゃ。
時代の転換期なのじゃろう。
インドに目覚めたものが多いのは、病んでいるから医者が多いようなものとオショーも言っていたのじゃ。
しかし、お釈迦様やオショーも生んだインドは永遠の目覚めの光を世界に放っているのじゃ。

431避難民のマジレスさん:2019/04/01(月) 06:52:40 ID:LC3de7YgO
>>429
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

そしてこの光が内側で成長しはじめると、 人が静かな状態になるとすぐに 次
のような体験が起こる。
あなたが沈黙して坐り、静かで、穏やかになり、 内も外も不動であるなら、た
だちに 目の光が燃えあがりはじめる。
突然、目から光が放たれているのに気つ゛く。
これはまだ科学が気つ゛いていない体験だ。
科学者は光が目に飛び込んでくると考えるが、その逆はけっして思いつかない。
光は外からやって来て、目に飛び込み、あなたのなかに入る。
これは物語の半分に過ぎない。
後の半分は神秘家と瞑想者だけが知っている。
光が入ってくる――これは一面にすぎない。
光が目から放たれるというもうひとつの側面がある。
そして 光が目から放射されはじめると、 目の光が燃えあがりはじめ、 眼前にあるものがすべて明るく輝く。
そうなったらこの存在全体が明るく輝く。
そうなったら樹々はかつてなかったほど青々 と繁り、その緑は光輝くような性
質を帯びてくる。
そうなったら薔薇はかつてなかったほど色鮮やかに見える。
薔薇は同じだし、樹々も同じだが、 あなたから放たれた何かが注ぎ込まれる
ことで、 今まで以上にはっきりと見える。
そうなったら小さなものごとがすばらしく美しくなる。
覚者ブッダの目にはただのきれいな石が、エリザベス女王に とってのコイヌー
ル・ダイヤモンドよりも美しく見えている。
エリザベス女王には世界最大のダイヤモンドであるコイヌールでさえ、 覚者の
目に映るふつうの石ほどにも美しく見えてはいない。
なぜだろう?
覚者の目は光を放つことができるからだ。
その光を浴びると、 ふつうの石がコイヌールになる。
ふつうの人々が覚者になる。
覚者にとっては、あらゆるものが仏性に満ちている。
「私が光明を得た日、全存在が光明を得た。 樹や山や川や岩――あらゆるもの
が光明を得た」 と仏陀が言ったのはそのためだ。
全存在がさらなる豊かさへと高められた。
それは、あなたが<存在>にどれだけ 多くのものを注ぎ込めるかにかかってい
る。
あなたが注いだ分だけが返ってくる。
何も注ぎ込まなければ何ひとつ返ってこない。
得るためにはまず注ぎ込まなければならない。
創造的な人々が非創造的な人々よりも 美や喜びをたくさん知っているのはそ
のためだ。
なぜなら、創造的な人々は<存在>に何かを注ぎ込んでいるからだ。
<存在>は応えてくれる……気前よく応えてくれる。
あなたの目はうつろだ――何も与えず、ひたすら養ってゆく。
ため込むばかりで、分かち合うことがない。
だから分かち合う力をもった目に出くわすと、 必ずそこにはとほうもない質の
違いが、 とほうもない美しさ、静けさ、力、潜在能力がある。
光をあなたに注ぎ込むことのできる目を見ること ができたら、あなたはこころ
の底から揺り動かされる。
だが、その光を見るのでさえ、今より もう少し注意深くならなければいけな
い。
太陽が昇り、夜が明けているのに、あなたはぐっすり眠っているかもしれない

だとしたら、あなたにとって太陽は昇っていないし、朝は来ていない。
あなたは暗い夜のなか、悪夢のなかをさまよっているのかもしれない。
あなたはもう少し醒めていなければならないのに、こうしたことが起こってい
る。
現代人の意識のなかで、この種の体験は幻覚剤サイケデリックスを通して わず
かながらも訪れた。
それは強いられたものであり、暴力的なものだ。
それは自然なものではなく、みずからの生化学反応を無理やりねじ伏せている

だが、その体験は起こり、たくさんの人々が薬物ドラッグを通して 瞑想にたど
り着いた。
それは薬物が、彼らが一度も自覚して いなかったことに気つ゛かせてくれたか
らだ。
ある薬物を取ると、世界が今よりもっと美しく見えてくる。
何の変哲もないものが並はずれたもののように見える。
何が起こっているのだろう?
その薬物は、内なる光があなたの目から事物の上に放たれるように強いている
―― だが、それは強いられた現象であり、危険だ。
薬物による幻覚体験が終わるたびに 、あなたは前よりももっと深い暗闇に落ち
てゆく。
そして薬物を長いあいだ 常用してきた人の目は ま っ た く うつろになってし
まう。
彼は目から光を放射してきたが、それをつくりだすすべを知らないからだ。
彼はもっと多くの光をつくりだすために、どうやって内なる光を巡らせたらよ
いかを 知らず、放射してばかりいる。
だから薬物を摂取する者は次第に目の活力、目の 若々しさを失ってゆく。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

432鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/01(月) 22:29:01 ID:1d4drIFg0
人が物を見ることができるのは自分の眼から光が出ているからという信仰が在るのじゃ。
光や気のエネルギーは人の体に入ってくるだけでなく出て行く道も在るのじゃ。
それは常に全てと循環しているのじゃ。
目覚めれば全てはそのような本質の光と気付くのじゃ。

433避難民のマジレスさん:2019/04/02(火) 04:35:26 ID:LC3de7YgO
>>431
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

彼の目はどんよりと曇った、暗い、ブラックホールになる。
それとまったく逆のことが瞑想を通して起こる。
あなたが静かになればなるほど、 さらにたくさんの光が生み出される―― そ
して、それは強要された現象ではない。
あなたがあまりに多くの光を蓄えているので、 それはあなたの目からあふれは
じめる。
それはただただあふれはじめる。
雲が水分でいっぱいになると 雨を降らさざるをえないように、 ありあまるほ
どもっているので あなたは分かち合わざるをえなくなる。
あなたが光に満ちていると、そこへ さらにたくさんの光が入り込込んできて
、 刻一刻と流れ込み、それが果てしなくつつ゛いて ゆく――今やあなたは分か
ち合うことができる。
あなたは樹々や岩や人々と分かち合うことができる。
あなたは天地万物に与えることができる。
これはひじょうに好ましいしるしだ。
だが、薬物ドラッグにだまされてはならない。
薬物によって得られるのは 偽りの体験、強要された体験にすぎず、そして強い
られた体験はすべて あなたの内なる生体環境エコロジー、あなたの内なる調和
にとって 破壊的であり、最後には、あなたは得るのではなく、失ってしまう。
ときおり次のような体験が起こることがある。
人が静かな状態になるとすぐに、 目の光が燃えあがりはじめ……
あなたはそれを体験するだろう!
あなたの目は炎のように燃えあがる。
そして目が燃えあがると、まるで事物がもはや三次元ではなく四次元になった
かのように、天地万物のすべてが新しい色合い、新しい深み、新しい次元を帯
びるようになる。
新しい次元――光輝く次元がつけ加わる。

目の光が燃えあがりはじめ、眼前にあるものがすべて明るく輝き、 まるで雲の
なかにいるかのように感じられる。
あたかも太陽に照らされて、
雲全体が燃えているかのようであり、
あなたは雲のなかにいて、その雲は
陽光を反射し火のように輝いている。
人はこの光の雲のなかで暮らすようになる。
人はそのなかで眠り、そのなかを歩き、そのなかで坐る。
この雲には切れ目がない。
この雲は霊光オーラとしてとらえられてきた。
見る目をそなえた人々は聖人の頭のまわりや、身体のまわりに光を見る。
精妙な霊光が彼らを取り巻いている。
今や科学でさえそれを認めつつある――特にロシアでは、キルリアン写真はき
わめて意義深い結論に達した。
そのひとつはあらゆるものが精妙な霊光に囲まれているというものだ――見る
目さえあればいい――
その人の状態が変わると霊光も変わる。
さあ、これは科学的な結論だ。
病気のときには、あなたの霊光も変わる。
それはくすんでいて、悲しげで、艶がない。
死が六か月以内に迫っていれば、あなたの霊光は消えてしまう。
そうなるとあなたの身体のまわりには光がなくなる。
あなたが幸せで、喜びにあふれ、充実し、満たされていると、霊光はどんどん
大きく広がり、どんどん明るくなってゆく。
もちろん、キルリアン写真の実験は覚者ブッダにはまだ行なわれたことがない。
それにソ連では、とりわけ現代では、仏陀のような人を探し出すのは容易なこ
とではない。
不幸なことだが、国中がまったく愚かな罠に陥ってしまっている。
国中が唯物主義の罠に陥っている。
これまで唯物主義がひとつの国を支配したことはなかった。
ソ連のようにひとつの国が唯物主義に条件つ゛けられたことはかつてなかった。
子どもたちは神も魂も存在せず、人間はただの肉体にすぎないと教え込まれる。
祈りのことなど、瞑想のことなど、いかにして静かになるかなど眼中にない。
イエスや仏陀やスブーティのような人に出くわしたら、キルリアン写真の技術
者は奇蹟を目の当たりにするだろう。
そうなったら彼らは最も純粋な光、最も涼しい光に出くわすだろう。
それは光であり、生命であり、愛だ。

目を開けて身体を探しても……
あなたの内側が光に満ち、目が火を放ち、全存在が新しい生命の炎と化してい
るその瞬間に、目を開いて身体を見つけようとしても見つからない。
こういった瞬間には物質は消滅する。
実際、現代物理学は「物質はいっさい存在しない。すべてはまぼろしだ」
と言っている。
あなたの身体はけっして固いものでできているのではない。
現代物理学は「奥深くでは、あなたの身体は電子でできている」と言う。
電子とは光の粒子、光の原子のことだ。
だからこの内なる火があかあかと燃えあがり、そこに現前しているときに、目
を開いても、自分の肉体を見つけることはできない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

434鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/02(火) 22:59:37 ID:1d4drIFg0
西洋でも昔はエーテルというものが大気に満ちていると考えられていたのじゃ。
科学的な実験で否定されてしまったのじゃ。
しかし、エーテルがあるとしたほうが説明の付くことも多いのじゃ。
気もエーテルと同じく全てにあるものじゃ。
それは全てとつながるエネルギーなのじゃ。

435避難民のマジレスさん:2019/04/03(水) 07:11:52 ID:LC3de7YgO
>>433
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

身体がそこにないのではない。
それはそこにあるのだが、
これまで見てきたように
それを見ることはできない。
それは光の雲と化している。
あなたは霊光オーラを見ている。
光景が一変してしまっている。
これまで一度も見たことがないものが見え、
それまで見てきたものはすべて姿を消している。
それはあなたの透視力ヴィジョンによる。
霊的なものを見る透視力をそなえていないので、あなたは肉体、物質的なもの
しか見ることができない。
物質を見るには、何もいらない――知性もいらないし、
瞑想的な質もいらないし、祈りもいらない。
物質を見るのはひじょうに粗雑なことだ。
霊的なものを見るのはひじょうに精妙なことだ。
ひとたび霊的なものを見ることができれば、あなたは物質が消え失せるのを目
にすることができる。
その二つを同時に見ることはできない。
もう一度くり返そう。
ヒンドゥー教の神秘家たちがこの世界を「まぼろし」と読んだのはそのためだ。
つまり彼らは物質が存在していないことを見抜く地点にまで到達したのだ。
存在しているものはすべて神に他ならない。
ただ意識だけが存在している。
物質というのは錯覚にすぎない。
あなたが正しく見たことがないために、物質が立ち現れてくる。
それは 意 識 に他ならない。
例えば、私があなたを見るとき、私はあなたを物質ではなく意識として見ている。
あなたに触れるとき、私はあなたの身体に触れているのではなく、あなたの内
奥の中核に触れている。
あなたのエネルギーに触れている。
あなたの目をのぞき込むとき、私はあなたの肉眼をのぞき込んでいるのではな
く、 あなたの霊眼に触れようとしている。
それはそこにある。
あなたにとって、それはまだ存在していないけれど、 私にとってはそれはすで
に存在している。
あなたが私に耳を傾け、 分かち合われているものを理解しようとするなら、
じきにそれはあなたにとっても現実になるだろう。
神があるか、世界があるか、そのいずれかだ。
両者がともに見つかることはけっしてない。
世界を見ている者たちはけっして神を見ることがない。
そして神を見た者たち、彼らにとって世界は消え失せている。
"世界"というのはたんなる誤解にすぎなかった。
それは数を数えたり、算数をしていて計算間違いをするようなものだ。
二足す二を五にしてしまうと、ものごと全体がおかしくなってしまう。
もとにもどって誤りを見つけだし、それを正せば、 二足す二は再び四となり、
ものごと全体が変わる。
それとまったく同じように、物質というのは目の錯覚だ。
それはヒンドゥー教の神秘家たちが言っていることとそっくりだ。
暗闇のなかで縄を見ると、あなたはそれを蛇だと思い込んでしまう。
蛇だと思い込んだため、あなたは駆けだしてしまう。
心臓はドキドキし、息は切れ、震えている。
涼しい夜だというのに、あなたは汗をかいている。
あなたは心臓発作さえ起こしかねない。
まったく何の理由もないのに!
朝になれば、それが縄にすぎなかったことがわかる。
これはひじょうに馬鹿げたことだ。

私はあるとき友人とともにある家に泊まったことがある。
その家にはハツカネズミ やドブネズミがぞろぞろいた。
その夜のこと、私たちが寝ているあいだにネズミが 友人のベッドに入り込んだ
にちがいない。
ネズミが彼を、その足を噛もうとした ところで、彼は目を覚ました。
彼はベッドから飛び出して、大きな悲鳴をあげた。
ネズミはきっと逃げたのだろう。
何の害もなかった――噛まれる寸前ではあったけれど 。
だが、彼はとても心配した。
彼はそれが蛇だったのではないかと不安になった。
私は 「馬鹿だな!蛇なんかいないよ。いるはずがないじゃないか」と言って、
二人であたり を見まわした。
「君の家にもネズミはたくさんいるだろう。きっとネズミだよ」 ――それで彼
も納得した。
私たちは眠りについた。
すべては丸くおさまった。
私たちは川に行き、そこで泳いだ後、帰宅した。昼食をすませた頃、家のなか
で蛇が 見つかった。
すると友人はたちまち気絶してしまった――蛇がいると思っただけで!
私は色々やってみたが、すでに気を失ってしまっているので、どうしようもな
かった。
一時間半ほど彼は気を失い、ある種の昏睡状態に陥っていた。
医者たちが呼ばれて、彼らが診察した。
「毒なんてこれっぽっちもありませんよ。 ネズミでさえ何の悪さもしていな
いのに、蛇が何かをするわけがないでしょう」
だが、それでも彼を正気にもどすために注射が打たれた。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

436鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/03(水) 22:15:05 ID:1d4drIFg0
オショーの説くとおり全ては意識なのじゃ。
全ての宇宙には意識だけがあると言えるものじゃ。
物質も大気も全て意識の一欠けらに過ぎないものじゃ。
それらを別の名称で呼び、イメージによって認識するのは記憶による仮設であるだけなのじゃ。
全ては隙間もなく繋がり合い、永遠に存在する意識であるだけなのじゃ。

437避難民のマジレスさん:2019/04/03(水) 23:06:39 ID:LC3de7YgO
>>435
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

ちょっとした思い込み……が、思い込みが現実をつくりだすことがある。
縄を見て、駆けだすとする―― そのとき駆けているのは現実であり、 心臓が
ドキドキしているのも現実だ。
あなたは心臓発作を起こして、 死んでしまうことさえある――それは現実だ!
だが、蛇はそこにいなかった。
それはただの思い込みにすぎなかった。
神秘家たちは、「世界はただの思い込みにすぎない」 と言う。
あなたは怖がらなくてもいいのに怖がり、 逃げなくてもいいのに逃げだし、
心配しなくてもいいのに心配している。
それはただの思い込み、勘違いにすぎない。
世界は存在せず、ただ神のみがある。
すべてのものはただ意識のみで成り立っている。
目を開けて身体を探しても、もはやどこにも見つからない。
これが「からっぽの部屋が明るく輝く」という体験である。
内も外も、あらゆるものが等しく輝いている。
これはひじょうによいしるしである。
これらのことを理解しておかなければいけない。
こういったことは、あなたがたにもいずれ起こることになるからだ。
理解しておくことは助けになる。
そうしておかないと、ある日、目を開けて、自分の身体が見つからなかったら
、あなたは狂ってしまうかもしれない。
あなたはきっと何かまずいことが起こったと思うだろう――死んでしまったか
、狂ってしまったかのどちらかだ。
身体はどうなってしまったんだろう?
だが、この経文を理解しておけば、正しい瞬間が来たときに思い出すだろう。
私がこれほど多くの経典について語っているのはそのためだ。
ことが起こった時にあなたがふいをつかれないよう、
ありとあらゆる可能性に気つ゛かせるためだ。
あなたには知識があり、理解する力があり、すでに地図をもっている。
あなたは自分がどこにいるかを確かめることができ、その理解のなかに安らぐ
ことができる。
あるいは、坐って瞑想していると、 肉体が絹か宝玉のようにまばゆく輝きはじ
める。
坐ったままでいるのがむずかしくなり、 上に引きあげられるような感じがす
る。
これは 「精神が天に帰り、その頂点に触れる」 と呼ばれる体験である。
やがて、本当に上昇するような体験をすることがある。
第三のしるしだ――「精神が天に帰り、その頂点に触れる」
これはすぐに起こる。
これはごく初歩的な段階で起こりはじめる。
静かに坐っていると、突然、地面から少し、十五センチほど浮いているような
感じになる。
びっくりして目を開けると、あなたはちゃんと地面の上に坐っている。
そこであなたは夢を見ていたにちがいないと考える。
いいや、夢を見ていたわけではない。
あなたの肉体は地面の上にとどまっていた。
だが、あなたには別の身体、肉体の内に隠されている 光の身体――アストラル
体、微細体、ヴァイタル体、あるいは なんとでも好きなように呼べばいい――
がある。
その身体が浮かびあがりはじめる。
内側から感じられるのはその身体に他ならない。
なぜなら、それはあなたの内界だからだ。
目を開けると、肉体は地面の上に、 前と同じ姿でちゃんと坐っている。
幻覚を見ていたのだと決めつけてはいけない。
それは現に起こったことだ。
あなたは少し浮かびあがったのだ―― ただし、第一身体ではなく第二身体が。
肉体が絹か宝玉のようにまばゆく輝きはじめる。
それと同時に、いつであれ地面から浮上したと感じるときには――まるで重力
がもはやあなたに影響を与えなくなり、別の法則が働きはじめたかのようだ
……私はその法則を「恩寵の法則」と呼んでいる。
法則のひとつは重力の法則であり、それはあなたを下に引きおろす。
私はもうひとつの法則を「恩寵の法則」と呼んでいるが、それはあなたを上に
引きあげる。
そして、遅かれ早かれ、科学はそれを必ず発見するにちがいない。
なぜなら、法則はすべて必ず正反対の法則によって補足されるものだからだ。
単独で存在しうる法則はない。
重力にはそれを補うものがあるはずだ。
昼には夜があり、夏には冬があり、男には女があり、愛には憎しみがあり、
生には死があり、<陰>には<陽>があるように。
だから、それとまったく同じように、もう一方の極を補い、補完する法則があ
るにちがいない。
その法則を私は「恩寵の法則」と呼んでいる。
それはあなたを上に引きあげる。

肉体が絹か宝玉のようにまばゆく輝きはじめる
、という体験が起こると、それと同時に……坐ったままでいるのがむずかしく
なり、 上に引きあげられるような感じがする。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

438鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/04(木) 22:44:36 ID:1d4drIFg0
瞑想をしていればいろいろな現象が起こるものじゃ。
意識が拡大したせいなのじゃ。
今までの常識が覆ることに驚き、怖くなる者もいるじゃろう。
それでも恐れずに進むことが大事なのじゃ。

439避難民のマジレスさん:2019/04/05(金) 01:28:14 ID:LC3de7YgO
>>437
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

これは 「精神が天に帰り、その頂点に触れる」 と呼ばれる体験である。
今や上昇の旅がはじまろうとしている。
そして、いいかね。
上昇と内向は同じものを指し、外向と下降は同じものを指している。
内側に入れば入るほど、あなたはさらに高く上昇してゆく。
高みに達すれば達するほど、あなたはさらなる深みに入ってゆく。
それらは同一の次元であり、同じ次元の二つの局面だ。
やがて、本当に上昇するような体験をすることがある。
それもまた起こる。
この内なる身体がとても高く上昇しはじめ、とほうもない力を放ちはじめると
、肉体すらも一緒に浮かびはじめるかもしれない。
それは起こりうるが、わざわざそれを起こす必要はない。
それは愚かなことだ。
いつの日かそれが自然に起こったら、それを楽しんで、気楽に受けとめるがい
い。
こういった確かな手応えとなるしるしは理解すべきものであって、得意気に自
慢するようなものではない。
こういった体験は誰にも話してはいけない。
そうしないと自我エゴがもどってきて、そういった体験を食いものにしはじめ
る。
そしてひとたび自我が入り込めば、体験は消えてしまう。
けっして言いふらしてはならない。
もしそういった体験が起こったなら、ただそれを理解し、留意して、それにま
つわることはみな忘れてしまいなさい。

さて、これらの三つの体験はすべてこの世で得ることができる。
だが、これですべてを説明しつくせたわけではない。
この三つの体験は実際に起こりうる。
だが、それを体験したとしても、それを言葉にすることはできないだろう。
それに、ここで言われていることはみな象徴にすぎない。
ほんとうの体験は語ることができない。
言ったことはみな嘘になってしまう。
それを口にすれば、真実を曲げてしまうことになる。
真実は語ることができない。
だが、それでも私たちは何かを言わなければならない。
「神々が谷間にいる」「からっぽの部屋が明るく輝く」「精神が高みに帰る」
または「精神が天に帰り、その頂点に触れる」
――こういった隠喩メタファーが編み出されてきたのはそのためだ。
これらはあるものを指し示す象徴、隠喩にすぎない。
が、体験は広大無辺だ!

各人の気質や性癖に応じて異なった現象が現れるからだ。
これもまた覚えておかねばならない。こういったことすべてがあなたに起こる
わけではないかもしれない。
あるいは違った順序で起こるかもしれないし、違った形で起こるかもしれない。
人はみな本当にひとりひとり違っているから、起こりうることがらも数限りな
い。
これらの体験は、ある人にはここに描かれているような形では起こらないかも
しれない。
例えば、ある人には上昇してゆくような感じは起こらずに、どんどんどんどん
身体が大きくなって、部屋中に広がってゆくような感じが起こるかもしれない

身体はさらに広がりつつ゛け、家はその人のなかにすっぽりおさまってしまう。
それはひじょうに戸惑う体験でもある。
人は目を開けて、何が起こっているのか見たいと思う。
「私は狂ってゆくのだろうか?」――そしてまた
「全存在は私の内側にある。私はよそ者ではない。<存在>は私の外にあるので
はなく、私の内にある。星は私の内側をまわっている」と理解する瞬間が訪れ
てくることもある。
あるいはどんどん小さくなって分子になり、ほとんど目に見えなくなり、つい
には原子になって消えてしまう といった体験が起こる人もある。
それもまたありうる。
パタンジャリは起こりうる体験をすべて網羅している。
気質、才能、潜在能力は人によってそれぞれ違う。
だから体験はすべて人によって違う起こり方をする。
それはこれに似たことが起こるかもしれない ことを示唆しているにすぎない。
だから、狂うのではないかとか、 何か異様なことが起こりつつある などと考
えてはいけない。
こういった現象は、人が水を飲んで、その冷暖をおのずから知る ような性質の
ものである。
それは体験することだ。
水を飲んで、その水が冷たいか暖かいかわかるのはあなただけだ。
喉が渇いているなら、それで渇きがおさまるか、ますますつのるか、それがわ
かるのはあなただけだ。
坐ってあなたを外から観察している者には、あなたの内側で何が起こっている
のかわからない
――渇きがおさまるか、ますますつのるか、水は冷たいか暖かいか
――誰も外側からうかがい知ることはできない。
水を飲むあなたの姿を見ることはできても、あなたが味わっている体験を味わ
うことはできない。
人々はあなたが瞑想しているのを見ることができるが、内側で起こっているこ
とを見ることはできない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

440鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/05(金) 22:26:24 ID:1d4drIFg0
そのような体験は誰にでも起こり得るものじゃ。
しかし、起こらないこともあるのじゃ。
それが起こったからえらいと言う事はなく、起こらないからまだ未熟ということもないのじゃ。
囚われればそれも魔になるものじゃ。
囚われずに進むのじゃ。

441避難民のマジレスさん:2019/04/05(金) 22:46:10 ID:LC3de7YgO
>>439
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

ここにやって来て、人々が瞑想しているのを観察してもいいでしょうかと尋ね
る人が大勢いる。
私は言う――
「どうやって観察するつもりかね?」
観察することができた者はひとりもいない。
みんなが坐ったり、踊ったり、歌ったりしているのを見ることはできるが、そ
れは本当に起こっていることではない。
瞑想は彼らの内側で起こっている。
それは彼らにしか見ることができない。
だから、ほんとうに見たいのなら、あなたも参加しなければならない。
あなたは瞑想者にならなければいけない。
それが唯一の道だ。
それは借りるわけにはゆかない。
誰もあなたに知らせることはできない。
だから見物人としてここにやってくる者たちは時間を無駄にしているだけだ。
こういったことは参加してはじめて知ることができる。
それと同じように、人はこれらの体験を自分で確かめてみなければならない。
そのときはじめてそれは本物の体験になる。
呂祖が言っているからといって、それを鵜呑みにしてしまってはいけない。
ただ彼を理解しようとするがいい。
それはあなたの記憶にしまっておきなさい。
こういったことを信じる必要はないし、また疑う必要もない。
ただそれらを記憶のすみにとどめておきなさい。
そうすれば機が熟して何かが起こりはじめたら、いつでも理解することができ
る。
これはあなたが道に迷わないように地図を与えているだけのことだ。
なぜなら、内なる旅の道程にも道からはずれる地点がたくさんあるからだ。
人は思い違いをしかねない。
恐怖に駆られ、怯えてしまいかねない。
人は内なる世界から外界へと逃げてしまいかねない。
こういった体験は断じて人を怯えさせるようなものではないが、あなたの解釈
がそれを恐ろしいものにしてしまうかもしれない。
考えてもみるがいい。
ある日、目を開けると自分の身体が見えない。
あなたの解釈は恐怖を煽ってしまいかねない。
「これは紛れもない狂気のしるしだ」と。
あなたは瞑想をしなくなり、瞑想を恐れるようになってしまうかもしれない。
なぜなら、こうなるともう次に何が起こるか、どこへ進んでゆくのか、どこへ
向かってゆくのか、誰にもわからないからだ。
あなたは体験全体に疑いの目を向けるようになる。
あなたは自分が神経症になりつつあると思い込む。
毎日のように人々は私のもとにさまざまな体験を抱えてやって来る。
自分たちの体験を口にするとき、彼らの顔や目に恐怖を見てとることができる
――彼らは恐れている。
私がそれはよいしるしだと言うと、ただちに空気が変わる。
彼らは笑いはじめる。
彼らは嬉しくなる。
「これはすばらしい」
「あなたはよくやっている」
「あなたはうまく成長している」といった私の言葉を聞くやいなや、その場で
ただちに大きな変化が起こる。
悲しげな顔つきは消え、飛びあがって大喜びをする。
何も変わってはいない。
彼らの体験は同じだ。
ただ私が違う解釈を与えただけだ。
彼らは知らなかったので怯えていただけだ。
こういったことがらは信じる必要もないし、無視する必要もない。
ただいつかその時がきたら正しく解釈できるように、記憶の片隅にとどめてお
けばいい――
そして正しい解釈には こ の う え も な い 意義がある。
それなくしては内なる旅はきわめてむずかしいものになる。
きびすを返し、世間にもどって、まともな人間になりたいと思う地点がたくさ
んある。
人は何か異常なことが起こっていると思いはじめるが、「異常」という言葉に
は非難が込められている。
瞑想を一度もしたことがない人々に話したら、彼らは言うだろう。
「精神分析医か精神科医のところへ行ったらどうだい。診てもらったほうがい
いよ。君はまったくおかしなことを言っている――身体が大きくなるだって!
理性をすっかりなくしちまったのかい?身体が浮かびあがり、重力が消えてし
まうだって?あるいは、どんどん小さくなってゆき、消えてしまうだって?君
は幻覚を見ているんだよ、まぼろしの餌食になっちまったんだ。精神科医のと
ころへ行きたまえ、君をちゃんともと通りにしてくれる、君を治してくれるよ」
そして、精神分析家や精神科医のもとへ行ったら、 確 か に 彼らは治してく
れるだろう。
彼らは自分たちのいわゆる知識でもってあなた の頭をぶっ叩くだろう。
彼らは瞑想に関しては何も知らず、瞑想はまだ彼ら の意識のなかには入ってい
ない。
彼らは道の途上で起こる体験に関しては 何も知らないが、狂った人々のことな
らたくさんのことを知っている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

442避難民のマジレスさん:2019/04/06(土) 09:37:17 ID:LC3de7YgO
>>441
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

そして、ここでひとつこころにとめておくべきことがある。
それは、瞑想者にも起こるが狂人にも起こる類似した体験がたくさん あって、
それらがひじょうに紛らわしいので、精神科医はまず間違いなく 「この人は狂
っているから、治さなければならない」と見たてるだろうということだ。
彼はあなたを狂人として治療する――彼はあなたに薬を飲ませ、 注射を打ち、
電気ショックを与え、正常な精神状態に連れもどす。
彼はあなたの瞑想への可能性をすべて台なしにしてしまうだろう。
今や西洋ではこうした大きな危険がある。
瞑想を学んでいる人々が西洋にもどり、 自分たちの解釈を超えた何かが起こっ
たので、それを聖職者に話したとする―― キリスト教の聖職者は瞑想のことは
まったく何も知らない――聖職者は彼らを 精神科医のもとへ送り込む。
精神科医に話しても、彼が知っているのは 狂人に関することだけであり、覚者
ブッダに関してはまったくの無知だ。
しかも彼らの体験のいくつかは似かよっている。
医者はきっとこう解釈するだろう
――あなたは正常な状態から転落したのであり、引きもどしてやらねばならない。
そして彼がやることはどれも破壊的であり、あなたの身体、あなたの精神に打
撃を 与える。
その害があまりに大きいので、あなたは二度と再び瞑想に入れなくなって しま

――医者はそういうひどい障害をつくりだしかねない。
だから、ときに何かが起こったら、必ず 瞑想している人々のところへ行きな
さい。
世界中にセンターを開きなさい、 と私がしきりに言っているのはそのためだ

そうすればそこでサニヤシンは瞑想することができるし、 何かが起これば他の
サニヤシンに会うことができるし、 体験を分かち合いに行くことができる。
少なくともそこには共感を示してくれる人が誰かいるだろう。
少なくともあなたを非難しない人がいるだろう。
その人は あなたの体験を尊重し、 あなたの体験を受け入れ、 あなたに希望と
霊感を与え、
「それでいい、先へ進みなさい。もっと多くのことが起こるだろう」 と言って
くれる。
まさにこのために師が必要とされる―― あなたが信頼を寄せることのできる
誰か、ただ 「それでいい、もっと先へ進みなさい」 と言ってくれる誰かが。
そこでようやくあなたは前進することができる。 その旅は危険に満ちているか
らだ。
(p405)
呂祖師は言った。
光を巡らせる訓練は徐々に成果が現れてゆく。
その際、日常の務めを放棄してはならない。
私もまたそれを強調している――
サニヤシンは世間を放棄してはいけない。
あなたの瞑想は世間の只なかで成長してゆかねばならない。
それは日常生活の一部にならなければいけない。
あなたは逃避主義者になってはいけない。
なぜか?
古人は「仕事がやって来れば、それを引き受けなければならない。 ものごとが
やって来れば、それを根底から理解しなければならない」 と言っている。
正しい思考によって事を適切に処理してゆくなら、 光は外界の事物によって散
らされることなく、みずからの法則に従って巡る。
穏やかな目に見えない光の循環でさえこのようにして起こりはじめる。
すでにはっきりとした形をとった真の光の循環の場合は言うまでもない。
まず第一に、あなたがどのような状況のもとにいようとも、
それは神が授けた状況なのだから、拒絶してはいけない。
それはひとつの機会であり、成長するための好機だ。
もしその機会から逃げだしたら、あなたは成長しない。
ヒマラヤの洞窟に行き、そこで暮らしはじめ、その洞窟に深い愛着を抱くよう
になった人々は大人になれずにいる。
彼らは幼稚なままだ。
彼らは鍛えられていない。
世間に連れてこられたら、彼らはこなごなに打ち砕かれてしまう。
彼らはそれに絶えることができない。
数日前のこと、ヒマラヤで三ヶ月暮らしたサニヤシンがやってきた。
彼女は「もうここにいるのはこりごりです。私はもどりたいのです」
と言った。
さあ、これでは成熟を遂げたとは言えない。
彼女は今やヒマラヤに取り憑かれている。
彼女が自分の瞑想、静けさだと考えているものはすべて彼女のものではない。
それはたんなるヒマラヤの静寂の副産物にすぎない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

443鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/06(土) 22:33:27 ID:1d4drIFg0
瞑想は悟りという世間外の境地を目指す故に、常に常識外の体験が起こるものじゃ。
それを恐れて瞑想をやめてしまってはいかんのじゃ。
むしろそれを歓迎して、囚われないようにするのじゃ。
そのようにして進めば新しい、真実の世界が見えてくるのじゃ。

444避難民のマジレスさん:2019/04/06(土) 22:56:54 ID:LC3de7YgO
>>442
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

私は彼女に言った。
「ここに三週間ほどいて、それからあなたの静けさや瞑想がどうなったか話し
にきなさい。
もしそれが消えてしまうようなら、それはあなたのものではなかったというこ
とだ。
そうだとしたら、ヒマラヤになど行かないほうがいい。
ここで瞑想を深めなさい!
この人混みのなかで瞑想的になってからヒマラヤに行くのであれば、あなたの
瞑想は何千倍も深められるだろう。
息抜きに行くのはいいが、そこに執着してはいけない。
必ず世間にもどってきなさい」
そう、ときおり山に入るのはいい、それはすばらしいが、それに中毒してしま
い、世間を捨てることを考えはじめるのは完全に間違っている。
なぜなら、世間の嵐にもまれてこそ人は円熟してゆくからだ。
世間の挑戦を受けてこそあなたは結晶化する。
呂祖は「自分が置かれた状況を受け容れなさい。
それはあなたにふさわしい状況にちがいない。
だからあなたはそのなかにいるのだ」と言っている。
<存在>があなたの面倒を見てくれている。
それは何らかの理由があってあなたに与えられている。
それは偶然ではない。
偶然に起こることなど 何 も ない。
何であれあなたに必要なものがすべて与えられる。
ヒマラヤにいることが必要で あったなら、あなたはヒマラヤにいたことだろ
う。
必要に応じて、あなたがヒマラヤに出かけてゆくか、さもなければ ヒマラヤが
あなたのもとへやって来るかそのどちらかだ。
だから弟子に用意ができたときには……師が現れる。
あなたの内なる静けさが整ったときには、神がやって来る。
そして何であれ道の途上で必要なものはいつでもすべて与えられる。
<存在>は面倒を見てくれる。
母親のように世話をしてくれる。
だから心配することはない。
それよりもその機会を使いなさい。
この挑戦に満ちた世間、この外界の 絶えざる混乱を使わなければいけない。
あなたはその目撃者でいなければいけない。
それを見守りなさい。
どうすればそれに影響されない でいられるか、それを学びなさい。
水中の蓮の葉のように、その影響を受けず、 触れられないままでいる こつを
学びなさい。
そうなったら感謝の気持ちが湧いてくるだろう。
なぜなら、混乱のすべてに注意を向けることではじめて、 ある日、突然「神々
が谷間にいる」という体験が現れるからだ。
あなたは人混みが遠くに消えてゆき、 こだまのように響いているのに気つ゛く

これがまやかしでない真の成長だ。
日常生活のふつうの仕事のなかで 瞑想的であることができたなら、 あなたに
起こりえないものは何もない。
光が巡りはじめ、あなたは ただ注意深く見守っている。
朝、瞑想をして、中心の近くにとどまりつつ゛けなさい。
世間に出て行っても、中心の近くに とどまって、自分自身を想起しつつ゛け
なさい。
自分がしていることを意識しつつ゛けなさい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

445避難民のマジレスさん:2019/04/06(土) 23:34:51 ID:LC3de7YgO
>>444
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

日常生活のなかで、自他の思いをいっさい混入することなく、 ものごとに対し
てつねに打てば響くように対処する力をもつなら、 それは環境から生じる光の
循環である。
これが第一の奥義である。
そして、様々なものごとが立ち現れたら、
行為しながら、しかもその行為に同一化してはいけない。
傍観者にとどまりなさい。
何であれ必要なことは打てば響くようにやりなさい。
必要なことはすべてやりつつ、
しかもやり手になってはいけない。
それに巻き込まれてはいけない。
それをやり、それを終わらせてしまいなさい――打てば響くように。
朝早く、世間のしがらみをいっさい断って、一、二時間瞑想することができれ
ば、 さらに、 あらゆる外界の活動と事物に主観をいっさい交えず、 打てば響
くように対処することができれば、 そしてそれを 途切れることなくつつ゛ける
ことができれば、 二、三ヵ月後には天上から真人たちがやって来て、 その行為
を認めてくれるであろう。
主観を交えずに行動しなさい。
状況に留意して、何であれ必要なことをやるがいい。
だが、その行為に執着してしまってはいけない。
そのことを心配してはいけない。
結果を考えてはいけない。
必要なことをただやり、
油断なく目を見張り、
泰然自若として、
遠く離れた中心にとどまり、
そこに根をおろすがいい。

だが、その中心を一日中想起しつつ゛けられるように、
毎日、早朝に、内なる中心に自分を方向つ゛けなさい。
最良の時間は二度ある。
最初のよい時間は早朝だ。
自分自身を中心に方向つ゛ければ、
周辺で暮らしながらも中心を十全に想起したままでいられる。
そして第二の時間はベッドに入る前だ。
再び自分自身を中心に方向つ゛ければ、
深く眠っていても――夢を見たり、無意識になっているあいだですら
――できるかぎり中心の近くにとどまりつつ゛けることができる。
この二つが最良の時間だ。
この二度の時間に瞑想することができれば、どこにも行かなくていい。
僧院や洞窟に入る必要はないし、世間を捨てる必要もない。
そうすればいつの日か、ふと気つ゛くと
花が頭上に降り注ぎ、神々が耳元で
囁いている。
ひとつの魂がわが家に帰り着く瞬間、
全存在がそれを喜び祝う。
スブーティに起こったことはあなたにも起こりうる。
それを熱望しなさい。
それはあなたが生まれながらにもっている権利だ。
その権利をどうどうと主張するがいい。
(p409)
(´・(ェ)・`)
(おわり)

446鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/07(日) 20:45:06 ID:1d4drIFg0
静けさを求めて人の居ない所で瞑想しても、寂しさに耐えられなければ無意味なのじゃ。
それはむしろ常に他人のことばかり考えて瞑想には害になるじゃろう。
それよりは街中の自分の家で瞑想した方がよいのじゃ。
そこでもなにものにも囚われずに瞑想できたならば、悟りはやってくるじゃろう。

447避難民のマジレスさん:2019/04/07(日) 22:26:33 ID:LC3de7YgO
>>445
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う
より抜粋

呂祖師は言った。
四つの詩句は、気(エネルギー)の空間に精神を結晶させる。
六月に、突然、白い雪が舞う。
三更(午前零時)に、日輪がまばゆい光を放つ。
水中にそよ風が吹く。
天上をさすらいながら、受容の精神の力を食べる。
そして、さらに深い秘法のなかの秘法がある――
どこにもない国こそ、真のわが家である。

これらの詩句は神秘に満ちている。
それが意味するのは、深遠なるタオにおいて最も重要なのは 「無為の為」とい
う語句である、ということだ。
無 為 は人が形象(物質性)に巻き込まれるのを防いでくれる。
無 為 に して 為 す ことで、人は鈍くうつろな状態や 生気のない虚無に沈み
込むことから逃れることができる。

これまで光を巡らすことについて語ってきたのは、
外側から内なるものに働きかける、
最初の悟りの手がかりを示すためだ。
これは師を得るのを助けるためのものであり、
初歩の境地にある学人たちに向けられたものだ。
彼らは上方の関門に達するために、下方の二つの関門を通り抜ける。
ものごとが次第に明らかになり、悟りの機縁がうかがわれると、
天は道を明らかにすることを惜しまず、究極の真理を明かしてくれる。
弟子たちよ、これを秘密にし、努力を怠らぬようにせよ。

光を巡らすとは一般的な用語である。
修行が進むごとに、黄金の華はよりいっそう大きく開いてゆく。
だが、それよりもまだすばらしい循環がある。
これまで我々は内側にあるものに外側から働きかけてきたが、
今や中心にとどまって永遠なるものを支配する。
これまでは師を助けるための奉仕だったが、 今や師の指令を広めるのである。
こうして関係はすっかり逆転する。

この技法によってさらに精妙な領域に入って行きたければ、
まず身心を完全に統御し、完全に自由で安らかな状態に入り、
いっさいのしがらみを放下し、どんな些細なことにも心をとめず、
天上のこころを正しく中心に置くよう心がけなければならない。
巡る光が内なるものを照らしだすと、ものに左右されなくなり、 暗いエネル
ギーの動きは封じられ、黄金の華が集中的に照らすようになる。
これが凝縮した極の光である。同類のものは互いに引き合う。
したがって、極性を帯びた深淵の光は上昇する。
それはもはや深淵の光であるだけではなく、 創造的な光が創造的な光に出会う
ことだ。

この二つの実体が出会うと、それらは固く結ばれて離れなくなり、 尽きること
のない生命が発現する。
それはおのずと根元の気(エネルギー)の宮のなかを去来し、浮き沈みをくり返
す。
人は光輝く無限なるものを目のあたりにする。
全身が軽やかになり、今にも飛びそうになる。
「雲が千の山々にかかる」と呼ばれる状態である。

それはあちこちを軽やかに去来し、覚知しえぬほど静かに浮沈する。
脈拍は穏やかになり、呼吸は止まる。
これが真の創造的な交合の瞬間であり、 「月が無数の水面を吸引する」と呼ば
れる状態である。

この暗黒の只なかに、突然、天上のこころが動きはじめる。
これが一陽来復であり、新しい生命
が兆すときである。

ある王に三人の息子があった。
息子たちのうち誰が将来王国を治めるにふさわしいか、適正を調べたいと思っ
た王は、風変わりなテストを思いついた。
王は息子たちに弓と矢をもってついてくるよう命じると、馬に乗って田舎に出
かけていった。
広々とした畑のそばの道端で馬を止めた王は、すぐに射落とせるほど近くの
樹の枝にとまっている禿鷹を指さした。
「おまえにあの禿鷹を射落としてもらいたい」と王は長男に向かって言った。
「だがその前に、何がおまえの目にとまるか言ってごらん」
王子は怪訝な顔をして答えた。
「えーっと、見えるのは草や雲や空や川や樹や……」
「もうよい!」と王は言い、次男に弓矢を構えるよう合図した。
まさに矢が放たれようとしたそのとき、王は再び言った。
「その前に、何がおまえの目にとまるか言ってごらん」
「私には馬、大地、麦畑、それに禿鷹がとまっている朽ち果てた老木が見えます」
と次男は答えた。
「もういい、弓矢を納めなさい」と言って、三男の方を向き、禿鷹を射るように
命じたが、再び同じ質問をくり返した。
「まずおまえには何が見えるかね?」三男は矢をつがえ、弓をぴんと引きしぼ
ると、獲物から一瞬も目を離さずに、落ち着いた口調で答えた。
「見えるのは翼のつけ根だけです……」若者はそう言って矢を放った。
禿鷹は地面にころがり落ちた。
この三番目の息子が王になった。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

448避難民のマジレスさん:2019/04/07(日) 22:35:04 ID:LC3de7YgO
>>447
四つの詩句
>六月に、突然、白い雪が舞う。
三更(午前零時)に、日輪がまばゆい光を放つ。
水中にそよ風が吹く。
天上をさすらいながら、受容の精神の力を食べる。
どこにもない国こそ、真のわが家である。

うむ。
この難解な詩句を、じっくり解説してくれるようであります。
楽しみであります。
(´・(∀)・`)つ

449鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/09(火) 00:00:12 ID:1d4drIFg0
六月とは昔の中国の陰暦では真夏なのじゃ。
六月に雪が舞うとは陽気が満ちているところに陰の気があるということなのじゃ。
真夜中に太陽が照らすとは陰の気の中に陽の気があるということなのじゃ。
水は眼であり、眼によって風を起こすとは気を眼の光で導くことなのじゃ。
即ち丹田に眼光を注いで陽気を起こし、眼光で頭頂の上丹田に導くのじゃ。
そうすると陽の気が陰の気に変るから、それをまた丹田に戻すのじゃ。
そうすると頭の中は陽の気で満たされて陰の気が次々に生じて下るのじゃ。
これが陽の気の中に陰があることなのじゃ。
陰の気が次々に下ると丹田は陰の気に満たされて更に陽の気を発する。
これが陰の気の中に陽の気がある状態なのじゃ。
このようにして互いに陰陽の気を強めあう真の回光が起こるのじゃ。
そして意識は気と合致して天地も合一する境地に入るのじゃ。

450避難民のマジレスさん:2019/04/09(火) 06:10:44 ID:LC3de7YgO
>>449
鬼和尚、ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ

451避難民のマジレスさん:2019/04/09(火) 06:30:29 ID:LC3de7YgO
>>447
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

王国は集中力をもって働きかけることのできる者が治めるものだが、内なる王
国となればなおさらのことだ。
方向、目標、明晰なヴィジョンをもって生きてゆくことで、あなたのエネルギ
ーは結晶化する。
目標というのはたんなる口実にすぎない。
方向というのはたんなる方便にすぎない。
ふつうあなたの注意力はばらばらに四散していて、ある部分はこちらへ行こう
とし、別の部分はあちらへ行こうとしている。
ふつうあなたは複数であり、 群集であり、あなたの存在の断片が絶えず他の断
片とせめぎ合っている。
そのあなたが どうしてこの世で何かを達成しうるだろう?
どうして充実感を味わうことができるだろう?
あなたの生涯がとことん惨めなものになり、その一生が悲劇に 他ならないもの
になってしまったとしても、驚くべきことではない。
あなた以外の誰にも責任はない。
あなたには無尽蔵のエネルギーがあるが、 そのエネルギーでさえ無駄に費やさ
れることがある。
あなたの断片のひとつひとつが一種の内戦状態にあれば、 価値あることは何ひ
とつ成し遂げられない―― 神に関し
ては言うまでもないし、真理に関しては言うまでもない。
あなたは価値あることを 何 ひ と つ 成し遂げられないだろう。
なぜなら、内側のものであれ外側のものであれ、何かを 実現するためには必ず
ひとつのことが求められるからだ。
つまり、あなたはひとつになっていなければならない―― あなたのエネルギー
が余さずワークに注ぎ込まれ、 あなたの全エネルギーがひとつの問いと化すこ
とができるように。
あなたはたくさんの問いを抱えているが、そのすべての問いが一丸となり、 あ
なたの内にただひとつの問いを生み出さないかぎり、それは役に立たない。
あなたの生がひとつの問いと化し、ひとつの 方向をもてば、それは成就に向け
て動きはじめる。
そうなればそれは結晶化する。
結晶化とは、 あなたがゆっくりとひとつにまとまってゆくこと、 あなたの内側
にすこしずつ<個>が現れてくることを意味している。
そして真理の究極の実現とは、あなたの 実存のなかに究極の統合が実現され
ることだ。
「神」という言葉はそれを指している。
天国のどこかであなたを待っている神などいない。
神はあなたの内側で待っているが、あなたがひとつ であってはじめて彼を見い
だすことができる。
一なるものだけが一なるものを見いだせるからだ。
偉大な神秘家プロティノスの有名な言葉を思い出しなさい
――"一者から一者への飛翔"
まずあなたは独りにならなければいけない。
昨日、私がアムリットに言っていたのはそのことだ。
独りになりなさい、と。
独りアローンとは、 すべてがひとつオール・ワンになることだ。
散逸がいっさいなくなるので、
この独りあること、あるいはすべてがひとつの状態、
この内なる統合は無尽の力を解き放つ。
あなたは漏れなくなる。
凡人というのはあちこちに穴が開き、至るところから漏れている素焼きの瓶かめ
のようなものだ。
いくら水を入れても入れても、どんどんからになってゆく。
いくら努力をしても か い がない。
まず穴をふさがなければならない。
人生は ひ とつ になるための大いなる機会なのだととらえなさい。
いったんひとつの方向に進みはじめたら、 あなたは自分をひとつにまとめるこ
とができる。
あなたのなかで何かが落ち着きはじめる。
中心が生まれ、その中心が神への扉となる。
これらの経文にはこのうえもない価値がある。
それはまたひじょうに神秘的でもある。
というのも、真理を分かち合いはじめるときには、
詩や寓話や神秘の言語を用いなければならないからだ。
そうするより他にない。
数学の言語は適切ではない。
人は譬たとえを多く用いなければならない。
経文に入ってゆくまえに、この小さな話に耳を傾けなさい。
偉大な禅師である南泉はひじょうに歳老いていたが、 法を継ぐ者が現れるのを
待ちつつ゛けていた。
実際、彼には いつでも肉体を離れる用意ができていたが、彼が得たものをすべ
て伝え、 鍵をわたせるように、ただひたすら法を継ぐ者が現れるのを待ちつつ゛
けていた。
彼にはたくさんの弟子たちがいたから、それはとても奇妙に思える。
彼には何千人もの弟子がいた。
なぜ彼は何千人もの弟子たち のひとりに鍵をわたすことができなかったのだろ
う?
(´・(ェ)・`)
(つづく)

452鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/09(火) 22:37:16 ID:1d4drIFg0
>>450 どういたしまして、またおいでなさい。

この回光は実践し続けることで、最後には座っただけで自動的に起こるようになるのじゃ。
陰陽の気が自然に肉体を巡り、肉体からサマーディに入っていくのじゃ。
それを大周天と呼ぶ宗派もあるのじゃ。
もはや意識的な行も必要ではないのじゃ。

453避難民のマジレスさん:2019/04/10(水) 01:38:15 ID:LC3de7YgO
>>451
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

彼のまわりにはすぐれた学者たちがいた――きわめて技量があり、 論理を巧み
に使いこなし、弁舌に優れ、知識が豊かな学者たちが。
だが、彼は待たなければならなかった。
これらの人々は論理は理解できたが、 愛を理解することはできなかった。
そして、 愛はまったく異なる言語を話す。
これらの人々は数学を理解することはできたが、 隠喩メタファーの言葉はまる
で理解することができなかった。
これらの人々は散文を理解することにかけては申し分なかったが、 詩の神秘に
こころを開くことができなかった。
だから彼は待たねばならなかった。
彼は病んだ老躯ろうくを私室のベッドに横たえ、 古びた肉体にかろうじてとど
まっているという状態だった。
法を継ぐ趙州じょうしゅうが部屋に入ってくるのを 南泉がはじめて目にしたの
はその日のことだった。
彼はさっそうと現れ……言葉はひとことも発せられなかった。
師もしゃべらなければ、のちに弟子となる趙州もしゃべらない。
彼はよそものだったが、その部屋に入るときの仕草だけで充分だった。
師は彼に尋ねた。
「おまえはどこから来たのか?」
師はもう何日も口を開いていなかった。高齢の師の病は重かった。
彼はひたすら気力を蓄えておくために、話すことさえしなかった。
何日も過ぎて、彼が趙州に話しかけた最初の言葉が
「おまえはどこから来たのか?」だった。
趙州は言った。
「瑞像ずいぞう院から参りました」。
瑞像とは"至福の姿"という意味だ。
南泉は笑いながら――彼はもう何か月も笑ったことがなかった――尋ねた。
「おまえは至福の姿を見たことがあるかね?」
趙州は言った。
「至福の姿は見たことがありませんが、 横たわる仏は拝見したことがあります」
ここで南泉は立ちあがった――彼はこの一年近く、 床から出たことがなかった
。そこで南泉は立ちあがり、尋ねた。
「おまえにはすでに師があるかね?」
趙州は答えた「ええ、ございます」
南泉は尋ねた。「おまえの師匠は誰だ?」
病気がすっかり消え失せてしまい、再び若返ったかのようだった。
彼の声ははっきりとして、若々しく、溌剌として、生気に満ちていた。
「おまえの師匠は誰だね?」
趙州は笑いながら言った。
「冬の寒さも峠を越えましたが、まだ寒い日がつつ゛きます。 どうか師よ、お
身体を大切になさってください」
まさに絶妙の表現だった。
南泉は言った。
「これで私も安らかに死んでゆける。 私の言葉が通じる者がやってきた。 表
面ではなく深みで出会うことのできる者がやってきた」
趙州は言った。「師よ、お身体を大切になさってください」 ただそう言っただ
けで、師弟の絆が結ばれた。
そして趙州が 「冬の寒さも峠を越えましたが、まだ寒い日がつつ゛きます。
どうか師よ、お身体を大切になさってください」と言うとき、 彼はどのように
譬たとえを使えばいいかを知っている。
彼は詩というものを知っている。そして 彼は愛というものを知っている。
だから 彼は言った。「どうか師よ、お身体を大切になさってください。 どうか
横になってください。床から飛び起きる必要はありません。 あ な た が私の
師です! 私はまだ至福に出会ったことはありませんが、仏を拝見しました」
師は弟子を認め、弟子は師を認めた ――ほんの一瞬のあいだに。
何が起こったのだろう?
起こったことは言葉を超えているが、 それでもそのことを、少なくともその
ことを 言葉で語らなければならない。
少なくともこの物語を 言葉で伝えなければならない。
他に方法はない。
これらの呂祖師の言葉はひじょうに神秘的だ。
深い愛に満ち、共感できるこころハートをもって 理解しようとしてみなさい。
聴き方には二つある。
ひとつは内側で絶えずあら探しをして、とやかく口をはさみ、ものの善し悪し
を決め、 それが自分に合致するかどうか、自分の知識に適合するかどうかを判
定している 批評家の聞き方だ。
批評家は絶えずものを比べて、品定めをしている。
それはこれらの美しい経文を理解するにふさわしい態度ではない。
これらの経文は批評の好きな人の手にはおえない。
これらは共鳴できる力をそなえている人、あるいは、さらに言うなら 感情を分
かち合うことができる人、 波長を合わせることができる人、 こころを開き、全
一に耳を傾けることができる人 にのみ開かれている。
そうすれば肉体の心臓ハート だけでなく、深いところに隠されている 霊的な
こころハートまでもが揺り動かされる。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

454鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/10(水) 21:25:46 ID:1d4drIFg0
悟った者同士には妙観察智による智慧が在るから互いに一目で分かるものじゃ。
お釈迦様と迦葉の捻華微笑のようにのう。
趙州はまだ悟っていなかったが、決意して修行して既に智慧が付いていたのじゃ。
話す言葉にも含意、隠された意味があったのじゃ。
瑞像院とは南泉の寺なのじゃ。
そこが既に自分の寺というのじゃ。
横たわる如来とは南泉のことなのじゃ。
師匠は南泉じゃと答えたのじゃ。
南泉もそれに気づいて趙州はもはや悟る寸前と知ったのじゃ。

455避難民のマジレスさん:2019/04/10(水) 23:18:25 ID:LC3de7YgO
>>453
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

呂祖師は言った。
四つの詩句は、気(エネルギー)の空間に精神を結晶させる。
あなたにはエネルギーがある、
あなたは必要とするすべてのものをもち合わせている。それなのに
あなたは貧しく、いまだに乞食のままだ。
あなたは自分のエネルギーを使ったことがない、
自分の財宝をまだ開けてみたことがない。
あなたは神から授けられたものに目を向けたことすらない。
あなたは内側を見ずに外に駆けだしてゆくせいで惨めになる。
そして、その惨めさはつつ゛いてゆく。
というのも、あなたを満足させるものは外界には何ひとつ見つからないからだ。
外の世界で何かを見つけた者などひとりもいない。
アレクサンダー大王でさえもだ。
あなたはこの地球をそっくり手中におさめることもできる。
あなたはこの七つの大陸、全世界を支配する天輪聖王チャクラヴァルテインに
なることもできる。
意外に思うだろうが、現代の地理学によれば大陸は六つしかないのに、
古代インドの地理学では大陸は七つあることになっている。
そこにはアトランティス大陸が含まれているにちがいない。
そして七つの大陸すべてを制覇した者は「天輪聖王」と呼ばれている。
たとえ天輪聖王になったとしても、あなたは貧しいままであり、何ひとつ得て
はいない。
それどころか、あなたは多くのものを失っているだろう。
なぜなら、あなたは一生をかけてつまらないもの、世俗的なもの、意味のない
もの、無益なものを求め格闘してきたからだ――そういったものはいつでも死
によって取り去られてしまう。
内なる何かを得ないかぎり、あなたが豊かになることはない。
内なる王国だけが人を豊かにする。
死ですらその豊かさを取り去ることができないからだ。
それが奪い去られることはない。
それが破壊されることはない。
それが取りあげられることはない。
ひとたびそれを知れば、それは永遠にあなたのものになる。
あなたには内なる空間がある。
あなたには内なるエネルギーがある。
すべてのものを手に入れることができる。
あなたはまだそれをのぞき込んだことがないだけだ。
あなたはすばらしいヴィーナを手にしているのに、まだそれに触れたことさえ
ない。
あなたはそのなかにどんな音楽が含まれているのかまだ見たこともない。
あなたはそれをほとんど忘れかけている。
呂祖は言う。四つの詩句は……
たった四つの詩句が
あなたの実存を結晶させ、
あなたの内側に帝王をつくり、
あなたをブッダやキリストやクリシュナ
のような人にすることができる。
この四つの詩句とは何か?
さあ、この四つの隠喩メタファーを理解しようとしてみなさい。

一、六月に、突然、白い雪が舞う。
二、三更(午前零時)に、日輪がまばゆい光を放つ。
三、水中にそよ風が吹く。
四、天上をさすらいながら、受容の精神の力を食べる。
そして、さらに深い秘法のなかの秘法がある――
どこにもない国こそ、真のわが家である。
さあ、この神秘的な詩句、この秘教的な言辞を解読しようとしてみなさい。
そこには隠された大いなる美と隠された大いなる意味がある。
深く共感するこころをもちなさい。
なぜなら、それが秘教的なものを理解する唯一の方法だからだ。

一、六月に、突然、白い雪が舞う。
六月は一年のちょうど真ん中だ。
それはあらゆるものの真ん中を意味している。
あらゆるものの真ん中にあることができて、けっして極端に偏らなければ、最
初に必要とされる条件を満たしている。
真ん中にありなさい――
これは探求者にとって、実存的な探求の途上にある者にとって計り知れない価
値がある。
いつも真ん中、「中庸」を覚えておきなさい。
食べ過ぎてはいけないし、
完全に食を断ってもいけない――これでもなくあれでもない。
ものに執着し過ぎてもいけないし、ものを捨ててもいけない。
人々とともに暮らしながら、馴れ合い過ぎないこと。
馴れ合い過ぎると、まったく少しも独りでいることができなくなる。
また独りぼっちで暮らしはじめてはいけない。
孤独に病みつきになり、人を避けるようではいけない。
世間にいながら、世間を自分のなかに入らせてはいけない。
世間から逃げだす必要はない。
けっして極端に走らないこと――
これは覚えておくべき最も基本的なことがらだ。
なぜなら、心マインドはつねに一方の極端からもう一方の極端へと動くからだ。
心は極端を通して生きているものであり、真ん中では死んでしまう――これが奥義だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

456鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/11(木) 21:28:31 ID:1d4drIFg0
未だ学問によっても解明できないエネルギーは確かに人の体の中にあるものじゃ。
それが明らかになれば今の医学も根本的に変らなければならないじゃろう。
それは人をサマーディに導くことが出来るエネルギーなのじゃ。
中国では気といい、インドではプラーナというのじゃ。

457避難民のマジレスさん:2019/04/11(木) 22:48:48 ID:LC3de7YgO
>>455
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

食べすぎたあと、何日間か食事を制限する人々がいる。
そして数日間いわゆるダイエットに苦しんだあと、彼らは再びがつがつとむさ
ぼるように食べはじめる。
そしてまた……これは悪循環だ。
彼らはひとつの極端からもうひとつの極端へと動き、もうひとつの極端から再
び元にもどってくる。
行ったり来たり、行ったり来たり、古い時計の振り子のようにどこまでも動
きつつ゛ける。
彼らは振り子の動きによって時計が進んでゆくことを知らない。
時計――これはすばらしい譬たとえだ。
振り子が真ん中にとどまれば、時計は止まる。
心マインドもそうだ――
あなたが極端からもうひとつの極端へ動いていると、
心は存続し、時間は存続する。
心と時間は同義語だ。
あなたが真ん中で止まる瞬間、
時間は消え失せ、時計が止まる。
心は消え失せ、心が止まる。
心も時間も消えてしまったとき、突然、
あなたははじめて自分が誰であるかに気つ゛く。
雲はひとつ残らず消え、広々とした空に太陽が明るく輝いている。

六月に、突然、白い雪が舞う。
そして中国では、この経文が書き記された地方では、毎年六月に初雪が降る。
あなたの実存は冷やされて鎮まる――それが中道だ。
白い雪はいくつかのことを表している。
まず、純白さ、純粋さ、涼しさ、静謐せいひつさ、
すがすがしさ、美、恩寵。
真ん中にいるなら、あなたはみずからの内なる実存がヒマラヤのように、清ら
かな雪に覆われたヒマラヤの頂きのようになってゆくのを見るだろう。
あらゆるものが冷やされて鎮まり、完全な静寂に包まれ、すべてがじつにさわ
やかで、いっさいの汚れが消えている。
汚れは心マインドのものだ。
心がなくなり、思考がなくなれば、不純なものもなくなる。
あなたの実存を汚すのは思考だ。

六月に、突然、白い雪が舞う。
それはにわかに起こる。
ただ真ん中にいるだけで、どこからともなく、忽然と、白い雪が降りはじめる。
試してみるといい。
これは実験だ。
これは理解しなければならない哲学ではなく、試してみるべき実験だ。
何についてもその真ん中にあろうとしてみなさい。
そうすれば大いなる涼しさ、穏やかさ、落ち着きがあなたの内に生まれてくる
のに気つ゛くだろう。
(p423)

三更(午前零時)に、日輪がまばゆい光を放つ。
こして、これが二つめの譬たとえ――三更(午前零時)だ。
人間には三つの層がある。
ひとつめは肉体ボディ、二つめは心マインド、三つめは魂ソウルだ。
第一の条件を満たしたなら、第二の条件に取り組むことができる。
最初の条件を抜きにして、二番目に取り組むことはできないから、順を追って
進んでゆかねばならない。
途中からはじめるわけにはゆかない。
どこから手をつけてもいいというわけではない。
ものごとには順番というものがある。
まず、あらゆることがらの真ん中を達成しなさい。
そして、心が極端に向かおうとしているかどうか一日中見守りなさい。
極端を避けるようになれば、第二のことがらが可能になる。
極端を避けるようになると、あなたは内側にある三つのもの――
自分の粗雑な部分である肉体、精妙な部分である心、そして彼方のものである
魂に気つ゛くようになる。
肉体と心は物質の二つの側面だ。
肉体は目に見える物質であり、
心は目に見えない物質だ。
そして心と肉体の両方を同時に見るとき、見ているあなたは第三のものだ。
それが三更ザ・サード・ウオッチ――
見張り、観察者、目撃している者だ。

三更(午前零時)に、日輪がまばゆい光を放つ。
見守ることに専念し、目撃者になりきっていると、 突然、まるで真夜中に太陽
が昇り、まばゆい光を放っている かのように、あなたは内も外も光で満たされ
る。
全存在が燃えあがる。
(p424)
そして三つめの詩句は――
水中にそよ風が吹く。
道家では、水は事物の究極の源を表している。
それはタオそのものを表している。
老子はみずからの道を「流水の道」
と呼んだが、それにはたくさんの理由がある。
まず、水は柔らかく、謙虚であり、最も低い場所を探し求める。
イエスが「この世で一番後になる者が私の王国では最初となり、
最初の者が一番最後になる」と言っているように、水は最も低い場所、くぼみを探し求める。
雨はエベレストに降るかもしれないが、そこにはとどまらず、谷に向かって流れはじめる。
そして谷のなかでも一番深いくぼみにたどり着く。
水はいつも最後にいて、野心をもたない。
水には一番になろうとする野心がない。
そして水になることがサニヤシンになることだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

458鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/12(金) 23:06:59 ID:1d4drIFg0
このような古書は時節の八卦に託して真意を伝えたりするものじゃ。
翻訳されるとわけが分からなく似るのじゃ。
周易参同契にも卦に託して道教の周天等が説かれているのじゃ。
説くところは大体同じなのじゃ。

459避難民のマジレスさん:2019/04/12(金) 23:55:51 ID:LC3de7YgO
>>458
確かに、この4つの詩句は、歴史や、古文献の知識がないくまには、OSHOや鬼和尚の解説がなければ、理解不能であります。
OSHOは、かなり自由に解説してるように思えるであります。
(´・(ェ)・`)つ

460避難民のマジレスさん:2019/04/13(土) 00:12:45 ID:LC3de7YgO
>>457
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

水のようになることは、何者でもないものであることに完全な幸せを感じるこ
とだ。
そして第二に、水とは流動に他ならない。
水はつねに流動している。
動きが止まると、水は汚れ、汚水となって、毒すら帯びるようになる。
水は死んでしまう。
水の生命は流動のなかに、生き生きと躍動し、流れることにある。
生命はすべて流れであり、制止しているものはない。
科学者のエディントンはこう言ったと伝えられている――
「『静止』という言葉はまったく意味をなさない。なぜなら、存在しているも
ので静止しているものなど何ひとつないからだ」と。
それは現実に、事実に合致していない。
あらゆるものが成長の、動きの途上にある。
生は巡礼の旅だ。
生においては、名詞は偽りであり、ただ動詞だけが真実だ。
私たちは言語のなかに名詞をつくりだした。
これらの名詞は生に関してひじょうに誤った印象を与える。
それは正しくない。
いつか将来、言語がもっと実存的なものになるときがくれば、名詞は消えて動
詞に置き換えられるだろう―― あ ら ゆ る 名詞が。
川というものはなく、川 と し て 流 れ ゆ く であり、
樹というものはなく、樹 と し て そ び え ゆ く だ。
なぜなら、一瞬といえども樹は静止していないからだ。
それはけっして存在イズネスの状態にはない。
それはつねに生成ビカミングし、流れ、どこかへ向かっている。
<存在>は流動的であり、ゆえに水、"水中"が隠語メタファーになる。
目撃者に気つ゛けば、第三のものが可能になる。
あなたは流れることの美しさに気つ゛くだろう。
安定を渇望したり、現状がいつまでもつつ゛くことを願ったりしなくなる。
あなたは川とともに流れはじめ、
<存在>という川の一部になる。
あなたは変化を楽しむようになる。
人々は変化を心底から恐れ、変化に対して大きな恐怖を抱いている。
ものごとがよい方向に変わってゆくときでさえ、恐れる。
彼らは新しいものを恐れる。
心マインドというものは古いものには実に賢く振る舞えても、
新しいものに出会うと必ず当惑するからだ。
心は新しいものを再びイロハから習わなければならない
――誰が習いたがるだろう?
心は世界をそのまま停止させておきたい。
社会が法を遵守し、古い型を守るのはまさにこの心があるためだ。
世界中で数限りない人々が因襲にとらわれている。なぜだろう?
そこにはかなりの資本が投下されているにちがいない。
これは投資だ――
誰も学びたくはないし、誰も成長したくはないし、
誰も新しいものに慣れ親しみたくはない。
人々はどこまでも古い型を守りつつ゛けようとする。
が、そうなると当然、退屈してくる。
そこで彼らは「どうして退屈なんだろう?どうすれば退屈せずにすむだろう?
」と言う。
彼らは自分たちで退屈をつくりだしておきながら、退屈をつくりだしたそのか
らくりを見ていない。
大勢の人が私のもとにやって来て、自分は退屈していると言う。
「どうすれば退屈から抜け出せるでしょう?」と。
退屈が問題なのではない。
退屈は副産物だ。
問題の奥にあるのは、新しいものを探求する用意ができているか?
冒険に出る用意ができているか?
ということだ。
冒険とは賭けることだ。
それはよくなるかもしれないし、これまで知っていたよりもさらに悪くなるか
もしれない
――それは誰にもわからない。
それに関してはひとつも確実なことは言えない。
生で唯一確かなのは、それが不確かなものであるということだけだ。
人は不確かさより他には何も当てにすることができない。
新しいものは人をひどく不安にさせる。
彼らは古いものにしがみつく。
世界に因襲にとらわれた人々がいるのはそのためだ――
彼らは無用な重荷になっている。
彼らのおかげで世界はよどんでいる――
彼らは古い型を踏襲することにこだわりつつ゛けている。
例えば、インドの歴史はほぼ五千年に達するが、マヌがつくりあげた社会構造
はそのまま残っている。
それは当時は良いものだったかもしれないし、何らかの意義があったにちがい
ないが、五千年が経ったというのにインドにはいまだに不可触賎民がいる。
触れることすら許されない人々がいる。
彼らは人間ではない。
正統派を自認する者たちは彼らの影にさえ触れない。
かつてはそうだった。
今でもいくつかの村では、不可触賎民、スードラが通りを歩くときには「どう
かわきによけてください。そちらに行きますよ」と叫ばなければならない
――というのも、カーストの高い誰かに影が触れると罪になってしまうからだ

彼は叩かれ、へたをすると打ち殺される!(´・(ェ)・`)
(つづき)

461鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/13(土) 22:31:02 ID:1d4drIFg0
>>459 そうじゃ、そもそもその詩は四行でもないのじゃ。
 かなり意訳されているのじゃ。
 無為にして為すという秘訣が欠けているのじゃ。
 それだけでオショーならば一章分は説法できたであろうにのう。
 日々の精進の果てに全ての思考も捨てて何の計らいもなく、肉体が自らサマーディに入る神秘の法門なのじゃ。

462避難民のマジレスさん:2019/04/13(土) 22:56:13 ID:LC3de7YgO
>>460
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

今でもこの罪を着せられ焼き殺される人々が いるが、この愚劣な社会構造は五
千年も生き延びてきた。
これほど非人間的なのに!
これほど非民主主義的なのに!
インドでは民主主義が成功しそうにないのはこのためだ。
ヒンドゥー教の精神そのもの が民主的ではない。
精神構造のすべて、心理的な条件つ゛けが民主主義に反している のに、どうし
て民主的な国をうまくつくりあげることができるだろう。
民主主義において最も大切な基本は、万人が平等であるということだ。
誰かが誰かよりも価値においてまさるというわけではない――ところが ヒンド
ゥー教徒はそれを受け容れることができない。
事実、スードラ、 不可触賎民は人間として認められていない。
彼は人間ではなく、家畜扱い をされている。
女を人間と見なすことはできない。
女性もまた家畜扱いをされてきた。
さあ、この種の精神――それがどうして民主的になりえよう。
だから民主主義の 名のもとにあるのは混沌以外の何ものでもない。
なぜなら、民主主義の基盤が 存在していないからだ。
だが、この国は五千年にわたりこの社会構造とともに 存続してきて、それを手
放す用意ができていない。
この構造のどこに美点があるのだろう?
美点などどこにもありはしない。
それはただただ醜く、おぞましく、忌まわしく、吐き気をもよおすほどだ!
人々はあまりにも長くそれと暮らしてきたので、もう他のことは何も学びたく
ない ――ただそれだけのことだ。
彼らはそれとともに生きてゆきたい。
彼らはそれが あると安心することができる。
彼らはどんな変化も毛嫌いしている。
いいかね、この傾向は多かれ少なかれどんな人間のなかにもある。
あなたは変わりたくはない。
あなたは変化を恐れている。
なぜなら、変化とともに新たな挑戦が生まれるからだ。
そしてあなたは新しい状況に対処できるかどうか不安に思っている。
古いものならうまく扱えるし、手際よくさばけるから、 古いものに寄り添って
いるほうがましだ。
古いものは意のままに操ることができる。
新しいものはどうなるかわからない。
思い通りになるかもしれないし、 思い通りにはならないかもしれない。
学ぶことができるのは子どもたちだけだ。
子どもたちには何も過去がないので、 しがみつくべき古いものがいっさいな
いので、 いつでも喜々として学ぶことができる。
大きくなればなるほど学ぶことができなくなる。
十三歳位で、人々は学ぶことをやめる。
それが彼らの精神年齢になる。
探求者であるなら、あなたは 絶えず学びつつ゛けなければならない。
生きることは学ぶことだ。
学ぶことはけっして終わらない。
死の瞬間においてすら、 探求者は学びつつ゛ける。
彼は死を学ぶ。
彼はいつでも変わる用意ができている。
水は変化する要素を、永遠の変化を、 流動的な現象を表している。
いつでも変化でき、過去を忘れ、 過去を許すことができ、瞬間とともに進ん
でゆく 用意のある者たちこそが真の人間だ。
なぜなら、彼らは冒険家だからだ。
彼らは生の美を、生の祝福を知っている。
そして生はその神秘をこのような人々に、 こ の よ う な 人 々 に だ け 明
かしてくれる――なぜなら、 彼らはそれに値するからだ、 みずからの手でそれ
を稼ぎ取ったからだ。
賭けることで、彼らはそれを稼ぎ取った。
彼らには勇気がある。
水中にそよ風が吹く。
もしあなたが水のような現象になり、
変化し、絶えず移り変わり、動き、流れ、
けっして過去や古いものにしがみつかず、
いつも新しいものを探し求め、
つねに新しいものを楽しんでいると……
"そよ風"が吹いてくる。
あなたは恩寵に包まれる。
あなたの実存は至福に包まれる。
そうなったら、あなたの内側ではじめて聖なるものが踊りだす……
"そよ風が吹く"とはそのことだ。
神はとてもやさしい。
神はけっしてあなたの扉を叩かない。
神の足音はけっして聞こえない。
訪れるときには、
神は音を立てずに、ひっそりとやって来る。
あなたが水のようになっていないかぎり、
神のそよ風があなたの上に吹いてくることはない。
まず流動的になりなさい。
流動的でありつつ゛けること――これはサニヤシンに対する私のメッセージで
もある。
そして、いいかね。未来は絶えず変化してゆく用意がある者たちのものになる。
なぜなら、今や世界はめまぐるしい速度で変化しているので、
古いものにしがみついている者たちは大きな苦しみを味わうことになるからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

463避難民のマジレスさん:2019/04/15(月) 00:45:23 ID:LC3de7YgO
>>462
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

彼らはこれまで大きな苦しみを味わったことがなかった。
むしろ逆に、進んで変わろうとする者たちのほうがひどい苦しみをなめてきた。
これからは状況が逆さになるだろう。
これからの時代は変化を愛し、喜々として踊りながら変わってゆこうとする者
たち、変化を祝う者たちのものになる。
そして、いつなんどき変化の機会が訪れても、彼らはそれを逃がさない。
未来は彼らとともにあることになる。
歴史は大きな転換をとげ、別の地平を進もうとしている。
「何かが変化しつつあるときには、
けっしてそれを妨げてはいけない」
と私がいつも力説しているのはそのためだ。
恋人との関係が変化しつつあるなら、それを妨げてはいけない。
それを受け入れ、なるようにならせなさい。
別れなければならなくなっても、くよくよしないこと。
執着心があると、いつまでも惨めなままでいなければならない。
変わってゆくものは変わってゆく!
その変化を楽しみ、その新しさを楽しみなさい。
新しいものを受け入れ、歓迎するがいい。
過去をあげつらわずに、 新しいものを受け容れることができるようになれば
、 まもなくあなたはみずからの生が格調の高さ、優美さ、 穏やかな気品を帯び
はじめたことに気つ゛くだろう。
あなたは柔らかな花のようになる。
まさにその瞬間に探求者は踊りはじめる。
まさにその瞬間に祝祭がはじまる。
そしていいかね、イルカやチンパンジーは 遊びを知っているかもしれないが
、 祝うことができるのは人間だけだ。
祭り祝うことはまさに人間的だ。
色々な定義を耳にしたことがあるだろう―― 「人間は理性的な動物である」と
言う者もいれば、また別のことを言う者もいる。
私は「人間は祭り祝う動物である」と言う。
人間が他のすべての動物と袂をわかつのはそこだ。
だが、古いものにしがみついて いたら、どうして祝うことができるだろう?
過去に生き、死んだもののなかで生き、 生があなたに触れるのを許さないな
ら、 あなたは墓のなかで暮らしている。
それは薔薇の茂みが咲き終わり、 しぼんでしまった花に執着し、散った花び
らばかりを集め、 新しい蕾つぼみや新しい花を恐れたり、春を恐れたりしてい
るようなものだ。
これが何百万もの人々、大多数の人々の状況だ
――彼らは咲き終わり、 しぼんでしまった花びらにいつまでも執着し、それを
集めつつ゛けている。
彼らは記憶のなかに生きている……彼らはそれを「郷愁ノスタルジア」 と呼ん
でいるが、愚かなことこのうえもない。
真の人間は郷愁などまったく抱かない。
過去はもうそこにないのだから、 けっしてあとを振り返ることがない。
彼は瞬間に生き、未来に対しては開いたままでいる。
現在は 彼のものであり、その現在ゆえに、 彼は未来を受け容れることができる
ようになってゆく。
彼の窓は風に、雨に、太陽にいつも開かれている。
彼は広場だ。
水中にそよ風が吹く。
人はこの瞬間に到ってはじめて神に気つ゛く。
まず、あなたは中心においてバランスを取りはじめる。
次に、あなたは目撃者、魂に気つ゛くようになる。
そして第三に、あなたは臨在プレゼンスに、ある未知の神秘の臨在に、"そよ風"
に気つ゛きはじめる。
(p431)
そして第四に……

天上をさすらいながら、受容の精神を食べる。
第四の現象はこれだ――
神の臨在に気つ゛きはじめると、
あなたの二元性、あなたの根本的な極性は消えはじめる。
そうなったら、あなたは
男でもないし女でもない、
<陽>でもないし<陰>でもない。
すると突然、
あなたの男が女を食べ、
あなたの女が男を食べる。
この地点で、ヒンドゥー教の
アルダーナリシュバル(両性具有)
という概念が重要な意味をもってくる。
そうなったら、あなたは両方であると同時にいずれでもない。
あなたは肯定と否定の二元性を超越している。

天上をさすらいながら……

だがこれは、あなたがそよ風、霊妙な踊り、神の臨在を知り、
広々とした大空をさすらうようになってはじめて可能になる。
あなたはもはや何にも執着していない。
あなたはもはや地の上を卑屈に這いまわってはいない。
あなたは墓のなかにはいない。
あなたは翼を広げている。
あなたは大空を羽ばたいて、<存在>と<存在>がもたらす
すべての挑戦にいつでも応じることができる――
もはや正統派の考えにとらわれることもなく、
因襲にとらわれることもなく、
社会の規範にとらわれることもない。
あなたは反逆者だ。
そして反逆的な魂だけが
神の臨在を感じるようになる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

464鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/15(月) 02:21:54 ID:1d4drIFg0
間違った翻訳でも陰陽が合一するという根本的な主題は正しいのじゃ。
肉体の中にエネルギーがあり、それが陰陽に区別されるというだけでも科学で解明されていない現象なのじゃ。
更にその合一がもたらす変容にはいつの日にか、科学がたどり着けるかどうかもわからんのじゃ。
多くの者に理解不能であるから秘伝とも言えるのじゃ。

465避難民のマジレスさん:2019/04/15(月) 07:49:05 ID:LC3de7YgO
>>464
鬼和尚、いつもありがとうであります。
間値がった翻訳はどの部分でありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

466鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/15(月) 23:55:49 ID:1d4drIFg0
↑その詩は本来
玉清留下逍遙訣。四字凝神入氣穴。六月俄看白雪飛。三更又見日輪赫。水中吹起藉巽風。天上遊歸食坤德。更有一句玄中玄。無何有鄉是真宅。
と続くのじゃ。
 かなり長いのじゃ。
 四字とは無為にして為すということなのじゃ。
 それによって気は穴に入るというのじゃ。
 欲心では入らないのじゃ。

 水の中の巽の風なのじゃ。
 それは目を持って気を導く事なのじゃ。

 更に一句有り玄の中の玄とは陰の中の陰なのじゃ。
 一切を捨て切り受容性の極地に入るのが深奥の秘訣なのじゃ。
 老子から続く道家の法なのじゃ。
 全て詳しく解説すれば本が一冊できるほどなのじゃ。

467避難民のマジレスさん:2019/04/16(火) 00:19:03 ID:LC3de7YgO
>>466
おー!
流石であります、鬼和尚!
読み方すらわからぬ、情けないくまであります。
(´・(ェ)・`)つ

468避難民のマジレスさん:2019/04/16(火) 00:34:58 ID:LC3de7YgO
>>463
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

神の臨在――これこそが天国だ!
そうなったら、あなたを完全に結晶化させる
第四の奇蹟が起こり、あなたの二元性は消える。
これが起こるまでは、あなたは奥深くでは分裂している。
あなたが男であれば、あなたはみずからの女性性を抑圧しつつ゛けているし、
また抑圧せざるをえない。
社会はあなたに「自分が男であることを忘れるな」と教える。
もしあなたが声をあげて泣いたなら、誰かがきっとこう言うだろう。
「何をやっているんだ。女だったら声をあげて泣いてもかまわないが、
君は男だろう。だったら泣くんじゃない」
すると即座に涙は止まる。
あなたは涙を抑え、涙をぐっとのみこむ。
あなたは男であり、男らしくしなければならないから、泣いてはいけない。
泣くことができなければ、
どうして笑うことができるだろう?
あなたの笑いは中途半端で生ぬるい。
それは笑いすぎたら緊張がすっかりゆるみ、
抑えていた涙がこぼれはじめるかもしれないという恐れがあるからだ。
この現象を観察したことはないだろうか?
人は笑いすぎると、泣きだしはじめる。なぜだろう?
笑いすぎると、どうして涙があふれてくるのだろう?
笑うということは、あなたが自分を容認しているということだからだ。
容認すれば、あなたはあらゆるものを受け容れてゆく。
ひとつのことだけを認め、あとは認めない
などということはできない。
ひとつのことを抑圧すれば、あなたはありとあらゆるものを抑圧せざるをえな
くなる。
これは覚えておかねばならないとても基本的なことがらだ――
ひとつのことを抑圧すると、それと同じ分だけ自分の全人格を抑圧しなければ
ならなくなる。
泣くことができなければ、あなたは
笑うこともできない。
笑うことができなければ、あなたは
泣くこともできない。
怒ることができなければ、あなたは
慈悲心をもつこともできない。
慈悲深くなることができなければ、あなたは 怒ることもできない。
生はある一定の水準を保っている。
何であれひとつのことを受け容れれば、 生の他のことも同じ分だけ受け容れ
ざるをえなくなる。
あなたにはできないことがひとつある―― 「涙は抑えるけれども、腹の底から笑う」――それは無理な相談だ。
男はもっともっと男らしくなるように教え込まれる。
小さな男の子たち――私たちは彼らの土台を、基本的な バランスを変えようと
し、単極になるよう強要してゆく。
男の子たちを無理やり男に仕立てあげねばならないので、 いくつかのことを禁
じなければならない。
喧嘩をしても、私たちは何もとやかく言いはしない―― 男は命を懸けて闘うも
のだというわけだ。
銃やピストルで殺し合い ごっこをしたり、探偵小説を読んだりしても、私たち
はとがめはしない。
だが、女の子には銃をもたせない。
女の子にはこう言い聞かせる―― 「人形で遊びなさい。お見合いをしたり、お
母さんになったり、お家をつくったり、 ご飯をつくったりするのよ。そういう
ことをして遊びなさい。それがあなたの 人生なの、そうなることになっている
の。だから、準備をするのよ」
女の子は樹に登り、枝から逆さにぶらさがったりしてはいけないと言われる。
私たちはそれをさせない。私たちはこう言う――「おまえは女の子なんだよ。
女の子はこういうことはしないものさ。おまえには似つかわしくないね」。
徐々に徐々に、私たちは極を、一方の極を強調し、他の極を完璧に抑圧してゆ
く。
これが精神分裂症のもとになる。
社会はいまだに人の実存を丸ごと受け容れる ことができないので、誰もが分裂
症にかかっている。
実存するものリアリティに向かって進んでゆくにつれて、 あなたは自分の実存
を丸ごと受け容れなければならなくなる。
あなたは男であると同時に女、 または女であると同時に男だ。
誰も男だけではないし、 誰も女だけではない。
そして、あなたがそのどちらでもある というのはすばらしいことだ。
なぜなら、それによって あなたの人生、あなたの実存は豊かになるからだ。
それは あなたに様々な彩りを加える。
あなたは七色のスペクトル、虹そのものになる。
あなたは単色ではなく、すべての色があなたのものになる。

四つめに、あなたが 神の臨在のなかに入ってゆくようになると、 分裂症は跡
形もなく消え失せる―― 分裂症が消えるにはそうするより他にない。
精神分析は大して役には立たない。
実のところ、それはあなたの極性を強調しつつ゛ける。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

469鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/16(火) 23:14:02 ID:1d4drIFg0
>>467 言葉の意味だけはオショーの説くのと同じなのじゃ。
 含意は周天の法の奥義なのじゃ。

例えば初心の者が偶然姿勢を正しくしてサマーディに入れたとしても、数秒から数十分位で終わってしまうのじゃ。
未だ気が足りず、循環もしていないからなのじゃ。
丹田の陽気が大量に生じて頭頂に入り、そこからまた大量の陰気が生じて丹田に戻るという循環が起これば、いつまでもサマーディに入っていられるのじゃ。
それを恐れて思考や分別が起これば、止まってしまうのじゃ。
肉体の陰陽の気の循環と、全てを受容する心構えがあってサマーディは長時間続けることが出来るのじゃ。
その秘訣を伝えた詩なのじゃ。

470避難民のマジレスさん:2019/04/17(水) 06:57:26 ID:LC3de7YgO
>>469
鬼和尚、ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ

471避難民のマジレスさん:2019/04/17(水) 07:21:24 ID:LC3de7YgO
>>468
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

心理学はいつか男性優位ではない地点にまで到らなければならない。
さもなければ、心理学の名のもとにいつまでも愚行が演じつつ゛けられてゆく。
ジークムント・フロイトは、女性は男根への羨望を抱いていると言う。
まったくのたわごとだ!彼は男性は乳房への羨望を抱いているとはけっして言
わない。
これは男性指向の考え方だ。
実際、女性はどんな羨望にも苦しんでいない。
むしろ逆に、男が多くの羨望に苦しんでいる。
それは男には子どもが産めないからだ、子どもをつくることができないからだ

子どもをつくることができないので、男は その代用として他のたくさんの創造行為を行なう。
詩を書いたり、絵を描いたり、 彫刻をしたり、建築をしたりする。
これらは代用の創造行為だ。
奥深くで彼は ひとつのことを――自分が生命を産みだせないことを知っている
からだ。
そちらのほうがはるかに真実に見えるが、 フロイトはそのことについては一言
も語っていない。
彼は女性はひとり残らず男根への羨望を抱いていると言う。
これはまったくのたわごとだ。
心理学はいまだに男と女という 古びた区分けを手放せないでいる。
人間は男と女の両方だ。
だが、この究極の統合は第四のステージではじめて起こる。
天上をさすらいながら、受容の精神を食べる。
"受容"とは女性性を意味している。
あなたはその対極を食べる。
そして、いいかね、食べるとは吸収するということだ。
「弟子たちはみな人の肉を食べなければならない」
といういにしえの格言があるのはそのためだ――
それは師を食べなければならないからだ。
それを文字通りに受け取ってはいけない。
それは譬たとえにすぎないが、ひじょうに深い意味が込められている。
食べるとは吸収すること、消化することを意味しているからだ。
師はあなたの一部になり、もはや分離してはいない。
イエスが最後の晩餐で弟子たちに別れを告げるとき言っていたのはそのことだ

彼はパンを裂いて弟子たちに配り、
「このパンは私だ。それを食べなさい。それは私の肉だ」
と言い、ワインを注いで弟子たちに配り、
「このワインは私だ。それを飲みなさい。これは私の血だ」と言う。
これもやはり譬えだ。彼は弟子たちに言っている。
「人食いになりなさい。師を食べ、師を消化しなさい。そうすれば、あなたと
師のあいだに分離はなくなる」
それはこの第四の言辞についても当てはまる。
あなたは自分のなかのもうひとつの極を食べなければならない。
呂祖は男性の弟子たちに語っていたにちがいない。
なぜなら、いつの時代でも、男たちのほうが冒険心や探究心が旺盛だからだ。
女性のほうがもっと落ち着き、くつろいでいるように見える。
だから、そこにいたのは男性の弟子たちだったにちがいない。
彼は男性の弟子たちに語っていたにちがいない。
だから彼は「みずからの女性を食べなさい」と言っている。
だが、それは女性の弟子たちにも当てはまる。
彼女たちはみずからの男性を食べなければならない。
二元性が消え失せるように、内側でもう ひとつの極を吸収しなければならな
い。
ひとたびこの四つの詩句が成就されたなら、 すべてのなかで最も深遠な秘密が
明かされるだろう。
そして、さらに深い秘法のなかの秘法がある―― どこにもない国こそ、真のわ
が家である。
さあ、ここではじめてあなたは自分が存在していないことに気つ゛く。
だが、自分が存在しないといっても、それはたんなる空虚な状態を意味するも
のではない。
あなたのなかの人格は姿を消すが、臨在が現れてくる。
内側にあった<存在>からの分離感は消え失せるが、全体があなたのなかに宿る
ようになる。
あなたはもはや孤島ではない。
今や自分がどこにいるかをつきとめるすべはない。
それゆえに……

どこにもない国こそ、真のわが家である。
もう自分がどこにいるのか、
自分が誰であるのか言うことはできない
――それこそが真のわが家だ。
この"どこにもない"というのは、実にすばらしい言葉だ。
インドの偉大な神秘家スワミ・ラーマティルタは、
最高裁判所で検事をやっていた友人の話を何度も何度もくり返したものだった。
この友人は完璧な無神論者であり、絶えず神の存在を否定する説を唱えていた

彼は筋金入りの無神論者だったので、みんなに注意をうながすために、居間の
壁に誰の目にもわかる大きな文字で「神はどこにもない GOD IS NOWHERE」と書
きつけていた。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

472避難民のマジレスさん:2019/04/17(水) 08:44:44 ID:LC3de7YgO
>>466
玉清留下逍遥訣
四字凝神入氣穴
六月俄看白雪飛
三更又見日輪赫
水中吹起藉巽風
天上游歸食坤徳
更有一句玄中玄
無何有郷是真宅

玉清は逍遥訣を留め下せり
四字は神を凝らして氣穴に入る
六月に、俄かに白雪の飛ぶを看て
三更に又、日輪の赫たるを見る
水中に吹起し巽風を藉る
天上に游歸し坤徳を食らう
更に一句有り、玄中の玄
無何有郷はこれ真宅なり

↑読み方見つけたであります。
(´・(∀)・`)つ

473鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/17(水) 23:06:04 ID:1d4drIFg0
↑それでよいのじゃ。

気を鍛錬する秘訣でありながら、心を制御することが大事とされているのじゃ。
無為の為によって神気を貯めるのじゃ。
欲心も分別もせずに全てを忘れて丹田に集中するのじゃ。

気が大量に発生して体を通れば、さまざまな現象が起こったりするのじゃ。
体が震えたり、自動的に動いたり、映像が見えたりするのじゃ。
それらに囚われず全てを受け容れる境地が玄の中の玄なのじゃ。

474避難民のマジレスさん:2019/04/18(木) 06:51:12 ID:LC3de7YgO
>>471
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

彼に会いにきたり訪ねてきた者たちはみな、まずこの「神はどこにもない」と
いうこの文字をいやでも目にすることになる。
あなたが「神はある」と言おうものなら、
手ぐすねを引いて待っていた彼がただちにとびかかってくる。
そうこうするうちに子どもが生まれて、子どもは言葉を覚えはじめたが、まだ
まだたどたどしかった。
ある日のこと、父親の膝に坐っていた子どもがその文字を読みはじめた。
「どこにもない NOWHERE」という単語は長すぎて読めなかったので、子どもは
それを二つに分けてこう読んだ――
「神は今ここにいる GOD IS NOW HERE」
NOWHERE は NOW と HERE の二つに分けることができる。
父親は驚いてしまった。
この言葉を書いたのは自分だが、一度もそんな読み方をしたことはなかったか
らだ。
意味がまるで逆さになってしまう……神は今ここにいる。
彼は子どもの目を、その天真爛漫な目をのぞき込み、
はじめて何か神秘的なものを感じた。
はじめて子どもを通して神が話しかけたような気がした。
彼の無神論、生涯をかけた無神論は、
この子どもの言葉ゆえに消え失せてしまった。
そしてラーマティルタは、この友人は息を引き取るときには、
彼が知るかぎり最も敬虔な人物のひとりになっていたと言っている。
が、その変化は子どものちょっとした読み違いで起こった。
子どもは「どこにもない NOWHERE」を一息で読むことができなかった。
この「今ここ NOW-HERE」
と「どこにもない NOWHERE」という言葉はすばらしい。
神が今ここにいることがわかると、
神はどこにもいないことがわかる。
どちらも同じことだ。
神はどこか特定の場所にいるわけではなく、それは確かに真実なので、神はど
こそこにいるという言い方はできない。
居場所をつきとめることはできないし、それを確定することはできない。
ナナークは、
神の居場所を尋ねるのはまるで見当違いであり、
神がいない場所はどこかと尋ねるべきだと言っている。
神があまねく存在しているのであれば、
神は至るところにいると言っても、
神はどこにもいないと言っても大差はない。
神があまねく存在しているのであれば、
ど こ そこ に と言うことには意味がないからだ。
神はある。
どこにもない国とは今ここのことだ。
今が唯一の時間であり、ここが唯一の場所だ。
今ここで神を見いだすことができなければ、
どこへ行っても神を見つけることはできない。
この瞬間、ま さ に こ の 瞬 間 に ……
三つのステップが実現され、
第四のものが達成されたら、
これが起こる。
これは秘法のなかの秘法だ――
神はどこかに腰かけている人物ではない。
神が人物として知られることはけっしてないし、
人物として知られたことも一度もない。
神を人物として認知した人々はみずからの空想にだまされていただけだ。
キリストの姿を見るなら、それはあなたの空想だ。あなたがそれをつくりだし
ている。
クリシュナの姿を見るなら、それはあなたの空想だ。
空想力を培うことはできるし、空想の翼を広げることはできるが、あなたは夢
をつむぎだし、夢を投げかけている。
それはあなたの夢を見る心の働きだ。
真理は人物ではないし、真理は ど こ か に、外にあるものではない。
それは客体として見つかるものではなく、
みずからの目撃しつつある主体だ。
そしてそれは、あなたの男と女が消えて
ひとつになってはじめて実現する。
フランス人が言うように、三つの性別がある――男、女、そして聖職者。
彼らは冗談で言っているのだが、そこにはなかなか深い意味が込められている。
まさに三つの性別がある――男、女、そしてブッダだ。
ブッダは男とも呼べないし女とも呼べない。
いずれかの肉体をもってはいるが――
男の肉体かもしれないし女の肉体かもしれない――
ブッダはもはや自分の肉体に同一化していない。
彼はただ純粋な目撃者だ。
彼は、あなたが彼の肉体から離れているように自分の肉体から離れている。
あなたと彼の肉体とのあいだには距離があるが、 彼とその肉体のあいだにも同
じような距離がある。
あなたは外に立って彼の肉体を見ているが、 彼は内側の深いところに立って自
分の肉体を見ている。
だが、 あなたと彼の肉体のあいだの距離 と、彼とその肉体のあいだの距離は
同じだ。
彼はもはや自分の肉体に同一化していない。
彼は男とも呼べないし女とも呼べない。
彼はただ超越している。
そしてこの彼方なるものが開かれたとき……
どこにもない国こそ、真のわが家である。
あなたはわが家に帰り着いている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

475鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/18(木) 22:26:08 ID:1d4drIFg0
回光して陰陽の気を循環させた肉体は何か人と違うものに変化するのではないのじゃ。
むしろ人間の本来の姿に戻るというのじゃ。
子供に近いからだがその本来の姿なのじゃ。
欲はなくなり、常に快があり、知識は乏しくとも智慧は在るのじゃ。
そのような肉体に戻ることが真宅に還ることなのじゃ。

476避難民のマジレスさん:2019/04/18(木) 22:44:11 ID:LC3de7YgO
>>475
うむ。
くま禅病予防のため、熱感として感じられる「気」をコントロールして巡らせていたとき、明らかに精神的な瞑想とは異なり、肉体の実感として容易く感じられるものだったので、
あの先に、そんな世界が広がっているとは、思えなかったであります。
むしろ、集中して座っているとき以外に、日常で、腰や背中、脚などが突然発熱してきたりしてたので、あまり深入りしない方がよいかなと思ってしまったのでありました。
(´・(ェ)・`)つ

477避難民のマジレスさん:2019/04/18(木) 23:22:48 ID:LC3de7YgO
>>474
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

この詩句は神秘に満ちている。
それが意味するのは、深遠なるタオにおいて 最も重要なのは「無為の為」とい
う詩句である、ということだ。
わが家に帰り着いてはじめて「無為の為」
という言葉の究極の意味がわかるよ
うになる。
だが、あなたはまさにその始めから、その方角に向かって進んでゆかなければ
ならない。
そうしてはじめて、いつの日か究極なるものが起こる。
無為の為とは何だろう?
活発に動きまわるのはとても簡単だし、
何もしないでいるのもとても簡単だ。
夜も昼も活動的で、絶えず動きまわり、落ち着きのない人々がいる。
西洋ではそれが起こっている。
人々は過剰なほど活動的になってしまっている。
彼らはほんの一瞬も落ち着いて坐ることができない。
坐り心地のいい、すてきな椅子に坐っているときでさえ、そわそわしながら姿
勢を変えてばかりいる。
彼らは落ち着くことができない。
人生そのものが騒々しい。
彼らはいつも忙しくしているための何かを必要としている。
彼らは忙しく動きまわり、自分自身を狂気に駆り立ててゆく。
東洋の人々はひじょうに消極的で、怠惰になってしまった。
彼らは怠惰のあまり死に瀕している。
彼らは怠惰のせいで貧しい。
彼らは自分たちが貧しいのは世の中のせい、他人のせいだと言わんばかりに、
世界全体を非難しつつ゛けている。
彼らが貧しいのは、彼らが怠け者、完璧な怠け者だからだ。
彼らが貧しいのは、行為が完全に消え失せてしまったからだ
――その彼らがどうして生産的になれるだろう?
どうして豊かになれるだろう?
彼らは搾取されてきたから貧しいのではない。
インドの裕福な人々の有り金をすべて分配したとしても、貧困はなくならない
だろう。
裕福な人々がみな貧乏になることは確かだが、貧乏人が金持ちになることはな
い。
貧困はずっと奥深いところに、無為ゆえにある。
そして一方の極を選ぶのはとても簡単だ。
為すことは男性的であり、無為は女性的だ。
呂祖は「人は無為の為を学ばなければならない」と言う。
人はこの複雑なゲームを学ばなければならない。
人は行為しなければならないが、やり手になってはいけない。
人はあたかも神の道具として働いているかのように行為しなければならない。
人は行為しながら、しかも無我の状態にとどまらなければならない。
行動し、対応しながら、しかも落ち着きを失ってはいけない。
行為を為し終え、適切な対応をすませたら、休息を取ればいい。
働かなければならないときには働き、遊ぶときには遊べばいい。
働き、遊んだら、休息を取り、浜辺で寝ころべばいい。
浜辺で太陽の光を浴びながら寝そべっているときには、
仕事のことは考えないこと――
会社のことを考えてはいけないし、
書類のことを思い浮かべてはいけない。
世間のことはすっかり忘れてしまいなさい。
太陽の光を浴びて、そのなかに身を横たえなさい。
それを楽しむのだ。
これはあなたが無為の為を身につけてはじめて可能になる。
そして会社では何であれやらなければいけないことをやりなさい。
工場でやらなければならないことをすべてやりつつも、
行為しているときでさえ、目撃者でありつつ゛けること。
奥深くでは、ゆったりとくつろいで、完全に
中心が定まり、周辺は車輪のように動いているが、
中心は台風の目のようになっている。
中心では何も動いていない。
これが完全な人間だ。
彼の魂はくつろいでいる。
彼の中心は完全に穏やかだ。
彼の周辺は活動し、世間の千とひとつのことを行なっている。
これが私のサニヤシンの概念だ。
だから私は
「世間を捨ててはいけない、世間にとどまりなさい」と言う。
世間のなかで行為し、やらねばならないことはすべてやりながら、しかも泰然
とし、超然とし、触れられずに、池のなかの蓮のようでありなさい。

無 為 は人が形象(物質性)に巻き込まれるのを防いでくれる。。
みずからの内奥の中核が無為のなかにあることを思い出せば、あなたはだまさ
れることはないし、形やイメージに巻き込まれることはない。
それは物質的なものだ。
あなたは世俗的にはならない。

無 為 に し て 為 す ことで、 人は鈍くうつろな状態や生気のない虚無に沈
み込む ことから逃れることができる。
そしてもうひとつの危険は、ある種の鈍さ、生気のなさ、鈍感さ、否定的な
空虚さ、虚無に退行することがあるということだ。
これもまた避けなければならない。
無為の為がこれを防いでくれる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

478鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/19(金) 22:15:20 ID:1d4drIFg0
>>476 そのような熱感も気を通す時期によくあることじゃ。
 ありのままに受け容れる心構えがあれば続けられたじゃろう。
 知識もまた必要なのじゃ。
 深く学び実践して恐れを超えて進むのじゃ。

479避難民のマジレスさん:2019/04/19(金) 23:49:34 ID:LC3de7YgO
>>478
うむ。
確かに、怖れであったのでありましょう。
鬼和尚、ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ

480避難民のマジレスさん:2019/04/20(土) 09:10:58 ID:LC3de7YgO
>>477
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

行為はあなたを積極的にさせ、無為はあなたを消極的にさせておく。
行為はあなたを男性的にさせ、無為はあなたを女性的にさせておく。
両方のバランスが取れたら、それらは互いを打ち消し合って、彼方なるものが
開き、突然、あなたの内にブッダが生まれてくる。

これまで光を巡らすことについて語ってきたのは、 外側から内なるものに働き
かける、 最初の悟りの手がかりを示すためだ。
これは師を得るのを助けるためのものであり……
最初の二つの詩句――六月に、突然、白い雪が舞う
と、次の三更(午前零時)に、日輪がまばゆい光を放つ
――これらは初歩の境地であり、あとの二つの詩句――
水中にそよ風が吹くと、次の天上をさすらいながら、受容の精神の力を食べる
はより高い境地だ。
最初の二つは初歩の境地であり、あなたが師を見いだす助けになる。
師と出会ったときには、この二つの境地を体得していてはじめてその人を師と
認めることができる。
体得していなければ、仏陀のような人に出会ったときも、自分が何を取り逃が
したのかも気つ゛かずに彼の傍らを通り過ぎてしまうかもしれない。
いつかあとになってこの二つの境地を体得したなら、あなたは声をあげて泣き
、後悔するだろう。
ブッダと道ですれ違ったことを思い出すからだ。
そうなったら、「どうして取り逃がしてしまったのだろう」
とひどく悔やむことになる。
最初の二つはあなたが師を見いだす助けになる。
最初の二つの境地は、外側から内側へと働きかけなければならない。
働きかけは外側からはじめなければならない
――今まさにあなたはそこにいるからだ。
そして内側に入ってゆきはじめなければならない。
次の二つの段階では、あなたは師を見いだし、師はあなたを見いだしている。
次の二つは師の指令を実行することにある。
プロセスは逆になる。
今や内なるものが外に働きかけるようになる。
最初の二つの段階では、あなたは修養し、実践し、瞑想していた。
あなたは働きかけ、探し求め、闇のなかを手さぐりしていた。
次の二つの段階では、あなたは師を見いだし、彼の声を聴き、彼の目を見つめ、
彼のハートを感じている。
師の臨在があなたの実存に満ちわたっている。
信頼が湧き起こっている。
今やただ従って、師の指令をひたすら実行すればいい――
これらの指令を実行してゆくことが、あなた自身を実現することになる。

これは……初歩の境地にある学人たちに向けられたものだ。
彼らは上方の関門に達するために、下方の二つの関門を通り抜ける。
ものごとが次第に明らかになり、悟りの機縁がうかがわれると、
天は道を明らかにすることを惜しまず、究極の真理を明かしてくれる。
弟子たちよ、これを秘密にし、努力を怠らぬようにせよ。
最初の二つにはあなたの側の大きな集中的な努力が必要とされる。
あなたは意識的に働きかけ、腰を据えて働きかけなければならない。
それは骨が折れる。
最初の二つの境地が容易でないのは、あなたの目が閉じているから、あなたの
ハートが鼓動していないからだ。
次の二つの境地が易しいのは、今やあなたの目が開いているからだ。
あなたは師の存在を知り、師のメッセージを聞いた。
今やものごとは明らかになった。
今やあなたは見ることができる。
ヒマラヤの頂は遥か遠くにあるかもしれないが、あなたはそれを見ることがで
きる。
まだ千マイルも旅をしなければならないかもしれないが、あなたはそれを見る
ことができる。
遥か遠くからでも陽に照らされたヒマラヤの頂を見ることができる。
あなたはそれがそこにあることを知っている。
今やそれはたんに時間の問題でしかない。
あなたはあの頂と麓を何度も何度も往復したことがある
案内人ガイドがそばにいることを知っている。
今やあなたは耳を傾け、従うことができる。
最初の二つの境地は大きな疑いに包まれている。
人は悪戦苦闘しなければならない。
そこでは道を誤る可能性がひじょうに高い。
些細なことで、実に些細なことで人は道をはずれてしまいかねない。
あとからふりかえってみれば、そのばかばかしさがわかるだろう。
ごく些細な、まったく取るに足りないことなのに、それが妨げになってしまう
ことがある。
探求者は油断なく、しっかりと目を見張っていなければならない。
最初の二つの境地では、ごくごく注意深くあらねばならない。
そうしてはじめて初歩の境地を体得することができる。
初歩の境地を体得すると、高い境地に手が届くようになる。
天は道を明らかにすることを惜しまず……
師を通して、天は<道>を明らかにしはじめる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

481鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/20(土) 22:57:28 ID:1d4drIFg0
少なくともサマーディにまで至るには精神による鍛錬だけでなく、気による鍛錬も有効であることを道教やヨーガは示しているのじゃ。
心の鍛錬が苦手な者とか、行き詰まりを感じている者には福音となる可能性も在るのじゃ。
宗教的な修行であるから、心だけを鍛錬するしかないと思うのは誤りなのじゃ。
気や肉体もまたサマーディへの道となるのじゃ。

482避難民のマジレスさん:2019/04/20(土) 23:09:13 ID:LC3de7YgO
>>481
うむ。
鬼和尚、ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ

483避難民のマジレスさん:2019/04/20(土) 23:25:53 ID:LC3de7YgO
>>480
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

天は……究極の真理を明かしてくれる。
弟子たちよ、これを秘密にし、努力を怠らぬようにせよ。
光を巡らすとは一般的な用語である。
修行が進むごとに、黄金の華はよりいっそう大きく開いてゆく。
だが、それよりもまだすばらしい循環がある。
ここまで私たちは自分が取り組み、自分が努力して行なう光の循環について語
ってきた。
だが、行なう必要がなくひとりでに起こる、それよりもさらにすばらしい循環
がある。
それは天からの贈り物、天の恵みだ。
最初の二つの境地を体得すると、あなたの前に師が現れる。
次の二つの境地を体得すると、あなたの前に神が現れる。
そして第五の秘密、秘法のなかの秘法とは、ものごとがひとりでに起こりはじ
めるということだ。
あなたは何もする必要がない。
むしろ、あなたが何かをすればそれは邪魔になる。
今やあらゆるものがみずからの内なる力によって動いている。
タオが、あるいは神が
あなたに乗り移っている。
あなたは乗っ取られている!
あなたは完全に消え失せ、今やあなたのなかには神しかいない。
神が花として咲き、樹として繁るように、
神はあなたのなかで黄金の華となって花を咲かせる。
今や 神のなすがままであり、あなたの出る幕はない。
今やそれは 神の意志であり、あなたの意志は仕事を終えてしまった。
最初の二つの段階では強い意志が求められ、
次の二つの段階では進んで明け渡すことが求められる。
そして四つの境地を体得し終えると、
意志は必要でなくなるし、
明け渡すことも必要でなくなる。
いいかね、明け渡しはまた 意志を落とすためのものでもある。
最初の二つの境地では意志の鍛練をしなければならない。
次の二つの境地ではその意志を落とさなければならない。
それが明渡しだ。
そして明け渡しによって意志が落とされたとき、 究極の秘法のなかの秘法とは
意志でもないし、明け渡しでもない。
やはりここでも意志は男であり、明け渡しは女だ。
第四を超えて行くことで、あなたは 男と女の両方を超えて行く。
意志が去り、明け渡しもまた去ってゆく…… もはやあなたはそこにはいない、
どこを探しても見つからない。
そこには何者でもないもの、 <無>、にゃはんニルヴァーナがある。
そこでタオはみずからの仕事を成就し―― 春が訪れると樹に花が咲き、
雨が降ると雲が湧き、
朝になると太陽が昇り、
夜になると空に星が散りばめられるように
―― いっさいのことがいかなる努力もなしに進行してゆく。
太陽は朝になると何の努力もなしに昇ってくるし、
星は夜になると何の苦労もせずにまたたき、
花は何の奮闘もせずに花を咲かせる。
あなたは究極の自然の一部になっている。
だが、それよりもまだすばらしい循環がある。
これまで我々は内側にあるものに外側から働きかけてきたが、
今や中心にとどまって永遠なるものを支配する。
これまでは師を助けるための奉仕だったが、
今や師の指令を広めるのである。
こうして関係はすっかり逆転する。
この技法によってさらに精妙な領域に入って行きたければ、
まず身心を完全に統御し、完全に自由で安らかな状態に入り、
いっさいのしがらみを放下し、どんな些細なことにも心をとめず、
天上のこころを正しく中心に置くよう心がけなければならない。
巡る光が内なるものを照らしだすと、ものに左右されなくなり、
暗いエネルギーの動きは封じられ、
黄金の華が集中的に照らすようになる。
これが凝縮した極の光である。
同類のものは互いに引き合う。
したがって、極性を帯びた深淵の光は上昇する。

あなたが二つに分けられていたら――
男と女、否定と肯定、闇と光、頭とこころ、思考と感情に分断されていたら、
あなたのエネルギーは下降してゆく。
分断は下降への道だ。
分断されず、ひとつになっていれば、あなたは上昇しはじめる。
ひとつであることは上昇することであり、
二つであることは下降することだ。
二元性は地獄へと到る道であり、非二元性は天国へと到る道だ。

したがって、極性を帯びた深淵の光は上昇する。
それはもはや深淵の光であるだけではなく、 創造的な光が創造的な光に出会う
ことだ。
そしてこの統合があなたの内側で起こるとき、
大いなる創造性が爆発する。
人は自分にどんな可能性が秘められているか
けっしてうかがい知ることができない。
そこには詩人が待ちうけているかもしれないし、
画家が、歌手が、舞踏家が待ちうけているかもしれない。
自分の内側で何が待ちうけているのかけっしてわからない。
あなたの男性と女性が出会い、
潜在能力が解き放たれたとき、それは実現する。
ウパニシャッドはそのようにして生まれた。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

484鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/21(日) 23:05:51 ID:1d4drIFg0
>>482 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

陰陽の合一という観念は多くの宗教で何度も現われるものじゃ。
気だけでなく心の性質という面でも語られるのじゃ。
三つのグナのうちサットヴァを除く二つラジャスとタマスも、陰陽と捉えることもできるのじゃ。
サットヴァはその二つが理想的にバランスが取れた時に現われる実践に向いた心境なのじゃ。

485避難民のマジレスさん:2019/04/21(日) 23:19:56 ID:LC3de7YgO
>>483
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

『コーラン』『聖書』、カジュラホ、コナラック、タジ・マハール、アジャン
タ、エローラもそうだ。
このような創造性はどれも、現代人が
いわゆる創造性として知っているものとは完全に異なっている。
ピカソの創造性はタジ・マハールを設計した者とはタイプが異なっている。
タジ・マハールを設計した者――
彼の極性は消え去っていた。
彼はスーフィ―の神秘家だった。
それは彼のヴィジョンであり、深い瞑想から生まれたものだった。
今でも満月の夜にタジ・マハールに瞑想すれば、驚くようなことが起こる――
あなたの内側深くにある何かが上昇しはじめる。
上に向かって動きはじめる。
満月の夜に、一時間ほど、ただそこに坐って、
タジ・マハールを眺めながら深く瞑想するだけで、
あなたの内側の熱が鎮まってくる。
あなたのなかを雪が舞い、
涼しさが、すがすがしさが生まれてくる。
あるいは優れた仏教の神秘家によって
彫られた仏像を見つめていると――
ただ瞑想し、その仏像を眺めていると、
あなたのなかの何かが落ち着いてくる。
ピカソの絵を見つめていると、頭がおかしくなりそうになってくる。
一時間もその絵を見つつ゛けていたら、吐き気をもよおしそうになる。
それは創造性というよりも嘔吐と言ったほうがいい――まるでピカソは
自分の神経症を絵にぶちまけているかのようだ。
おそらく彼の神経症は軽くなっただろう。心理学者もまたそれと同じことを
言っている。
狂人に絵の具とキャンパスを渡して、絵を描くように言う。
絵を描きはじめると、たちまち彼の狂気は軽くなってゆく。
だから、今では絵画を使った心理療法、絵画療法を唱える精神分析の流派があ
る。
そう、それは可能だ。
絵は重荷を解き放ってくれる。
内側で進行していることをキャンパスにぶちまけると、
あなたは楽になる。
胃の調子がおかしく、気分が悪いときには、吐いてしまうと楽になる―― 絵を
描くときに感じる解放感はそれとまったく同じ種類のものだ。
吐いてしまうと楽になるが、吐き出されたもの を見る人たちはどうなるだろ
う?
だが、誰が彼らのことを気つ゛かうだろう。
それに愚かな人々というのはどこにもいるものだ。
これは現代絵画だと言えば ――それはただの嘔吐かもしれないのに――彼らは
それを賞賛する。
彼らは 「批評家がこれは現代アートだと言うのだから、きっとそうなのだろう
」と言ってくれる。
聞いた話だが…… 現代画家の展覧会があった。
人々は絵の前にたたずんで、これはすばらしいとほめ そやしていた。
優れた批評家たちも顔をそろえていたが、彼らも絶賛していた。
すると そこに画家がやって来て、こう言った。
「待ってください!絵がさかさまになってる」
絵が逆さになっていることに誰も気つ゛かなかった。
実際、逆さにかかっていたおかげで、よけい神秘的に見えたのだ。
人々はまったく愚かだ。
何につけても彼らは流行を追い求める。
そんなものは 創造性ではない。
それは神経症、あるいは神経症にむしばまれた創造性だ。
別の種類の創造性があり、 グルジェフはそれを「客観芸術」と呼んでいた。
内なる極性がもはや極性を失い、
内なる分裂が消え、あなたがひとつになったとき、
そのとき創造性が解き放たれる。
そのときあなたは人類にとって 計り知れない助けとなることをやっている。
なぜなら、それはあなたの全体性、 あなたの健康な状態から生まれてきたも
のだからだ。
それは<全体>の歌だ。
それは旧約聖書の「雅歌」のようなものだ――
とほうもない美と、とほうもない輝きを放っている。
同類のものは互いに引き合う。。
あなたがひとつになっていると、
神はあなたに引き寄せられてくる。
一なるものは一なるものに引き寄せられるからだ……
"一者から一者への飛翔"。
あなたは神に向かって飛翔をはじめ、
神はあなたに向かって飛翔をはじめる。
(´・(ェ)・`)つ
(つづく)

486避難民のマジレスさん:2019/04/21(日) 23:23:20 ID:LC3de7YgO
>>485
満月の夜にタジ・マハールに瞑想・・・
優れた仏教の神秘家によって彫られた仏像・・・
鬼和尚、みーはーな関心でおはずかしいのでありますが、鬼和尚のおすすめの、国内にある仏像があれば、教えてください。
(´・(ェ)・`)つ

487鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/23(火) 00:09:52 ID:1d4drIFg0
大日如来の像がよいじゃろう。
何処の寺にあるものでもよいのじゃ。
空になった心が味わえるのじゃ。
神仏をイメージすれば今の自分のイメージ以上の智慧と力も発揮できるのじゃ。

488避難民のマジレスさん:2019/04/23(火) 00:19:06 ID:LC3de7YgO
>>487
ありがとうであります。
いろいろ行ってみるであります。
(´・(ェ)・`)つ

489避難民のマジレスさん:2019/04/23(火) 00:30:40 ID:LC3de7YgO
>>485
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

それはもはや深淵の光であるだけではなく、 創造的な光が創造的な光に出会う
ことだ。
この二つの実体が出会うと、それらは固く結ばれて 離れなくなり、
尽きることのない生命が発現する。
それはおのずと根元の気(エネルギー)の宮 のなかを去来し、
浮き沈みをくり返す。
あなたの創造性が完全に解き放たれると、
神の創造性があなたのなかに降りてくる。
そしてこの二者の創造力の出会いが起こる。
創造者だけが創造者に出会うことができる。
創造者だけが創造者に出会う力量をそなえている。
そして、この二つの創造力、人間と神の創造力が出会うとき……。
いいかね、そこには二つの出会いがある。
最初の出会いはあなたの内側にいる男と女の出会いであり、
第二の、最終的な出会いは、全一で円満な人間としてのあなた
<全体>との出会い、人間と神との出会い、究極の出会いだ。
それは永遠のものだ。
ひとたびそれが起これば、あなたは死を超える。
それが元にもどることはありえない。

人は光輝く無限なるものを目のあたりにする。
全身が軽やかになり、今にも飛びそうになる。
「雲が千の山々にかかる」と呼ばれる状態である。
今やあなたは千の山々にかかる雲のように無限なるものだ。

それはあちこちを軽やかに去来し、 覚知しえぬほど静かに浮き沈みする。
脈拍は穏やかになり、呼吸は止まる。
これが真の創造的な交合の瞬間であり、
「月が無数の水面を吸引する」と呼ばれる状態である。
この暗黒の只なかに、突然、天上のこころが動きはじめる。
これが一陽来復であり、新しい生命が兆すときである。
そしてそれが起こると、
あなたの内なる創造者と
<全体>の創造者とのこの出会いが起こると、
あなたはこのうえもなく静かに、完全に静かになり、
気配がひそみ、脈拍は穏やかになり、呼吸が止まる。

これが真の創造的な交合の瞬間であり、
「月が無数の水面を吸引する」 と呼ばれる状態である。
満月になればそれがわかる。
海水は月に向かって浮上をはじめ、月に行きたいと願う。
それとまったく同じように、
人間は神に到達したいと願う。
だが、内側にこのうつろな空間を、
内側にこのまったき虚空を生みださないかぎり、
わずかに浮上しては、再び降下することになる。
だが、あなたがひとつの不在――否定的な不在ではなく、
完全に肯定的な不在になることができたら、
月は無数の水面を引き寄せる。
そうなったら、あなたは上昇し、
どこまでも昇りつつ゛け、そして
月との出会いが起こる!

この暗黒の只なかに、突然、天上のこころが動きはじめる。
ふつうの心臓が止まり、
ふつうの脈拍が停止するとき、
あなたははじめてまったく異なる質が生まれてくるのを感じる。
あなたは再び息を吹き返すが、
その息はもはや前と同じものではない。
あなたの脈は再び打ちはじめるが、
それはもはや同じ脈ではない。
今や神があなたのなかに生きている。
今やあなたはそこになく、
ただ神だけが存在している。
私たちがブッダを「バグワン」と呼ぶのはそのためだ。
神が彼のなかで生きはじめる瞬間がやって来た。
人は姿を消してしまった。
人はたんなる中空の竹となり、
そこを神の歌が流れはじめた。
それが究極の目的地だ。
(´・(ェ)・`)
(おわり)

490避難民のマジレスさん:2019/04/23(火) 00:33:59 ID:LC3de7YgO
>>489
中空の竹・・・以前講読会で取り上げたマハムドラーの詩にも出てきた表現でありますね。

心を揺さぶる講演でありました。
(´・(ェ)・`)つ

491鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/23(火) 22:14:20 ID:1d4drIFg0
>>488 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。

>>490 全てを流れるままにしていればその境地も訪れるのじゃ。
 その時、自分とか、自分のものはもはや無いのじゃ。
 全ては流れ去り、通り過ぎていくものであることが実感できるのじゃ。
 自分がしているということもまたなくなるのじゃ。
 それが無為の為なのじゃ。

492避難民のマジレスさん:2019/04/23(火) 22:45:25 ID:LC3de7YgO
>>491
> 自分がしているということもまたなくなる
 それが無為の為

うむ。
鬼和尚、ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ

493避難民のマジレスさん:2019/04/23(火) 23:10:34 ID:LC3de7YgO
>>489
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬

呂祖師は言った。
沈黙が訪れると、一片の思考すら湧き起こらない。
内側を見ている者は、突然、見ていることを忘れてしまう。
このとき、身心は完全に解き放たれてしまうであろう。
いっさいのしがらみは跡形もなく消滅する。
自分の精神の宮と坩堝るつぼがどこにあるのか、もはやわからない。
肉体を確かめたいと思っても、つきとめることができない。
これは「天が大地に浸透する」という状態であり、 すべての霊妙なものが根元
に帰るときだ。
長足の進歩を遂げると、影もこだまもすべて消え去り、 学人は深い静けさのな
かで悠然としている。
これは不可思議なものすべてが根源に帰り、 気(エネルギー)の洞穴に納めら
れたということだ。
場所を変えずとも、場所はおのずと変わってゆく。
そこは形なき空間であり、そこでは千の場所も万の場所も ひとつの場所に他な
らないからだ。
時間を変えずとも、時間はおのずと変わってゆく。
これは測ることのできない時間であり、 そこでは無限の劫こうも一瞬に他な
らないからだ。
こころというものは、静けさの極点にまで 達しないかぎり、動くことのできな
いものだ。
人が動きを起こしてその動きを忘れるようなら、それは本来の動きではない。
それゆえに外界の事物の刺激を受けて動くのは本性の欲望であり、 外界の事物
の刺激を受けずに動くのは天の動きであると言われる。
だが、思念が起こらないときには、正しい思念が湧いてくる。
それが真の思念だ。
ものごとが静まり、悠然としていると、 天の活動のあらわれが突然動きだす。
これこそ何の意図もない動きではないだろうか?
無為にして為すとは、まさにこれを意味する。
最も深い秘密は、いついかなるときも、 欠かすことのできないものである。
これは こころを洗い、思念を清めることであり、沐浴である。
それは無極にはじまり、再び無極へと帰る。
仏陀は意識を創出する無常なるものを宗教の根本的な真理として語る。
生命と人間の本性を完成させる仕事のすべてが 「虚空を生み出す」という言葉
に含まれている。
すべての宗教は、死から出て生に入るための 霊的な仙薬を見いだすという点で
は目的を同じくする。
この霊的な仙薬はどこに帰するのか?
それはいつも無念無想の境地にあるということだ。
道教で説かれる沐浴、洗い清めるという最も深遠な奥義は、 こころをからっぽ
にする修行につきる。
これですべてのことに片がつく。
ある満月の夜のことだ。
大地は初々しい花嫁のように見えた。
月の光は雨のように降り注ぎ、空も海も
大いなる喜びに包まれていた。
樹々は酔っぱらい、酔いしれ、
陶酔しているかのように風に揺られ、
山頂に雪を抱いた遠くの山々は
深い瞑想のなかにあるブッダのように見えた。
松の老木を吹き抜ける風は清らかな調べをかなで、
舞い踊る天地万物には、もう少しで触れられそう
なほどのしっかりとした手応えがあった。
そして、このような歓喜と祝福に満ちた夜に、
彼方なるものが地上に降りてきた。
希有な女性である千代能が光明を得た。
彼女は再び楽園にもどった。
彼女はわが家に帰り着いた。
時が消え、時の感覚がなくなり、永遠のなかで、
永遠なるものとして生まれるとは
なんという瞬間だろう!
完全に消滅しながら、
しかもはじめて存在するとは
なんという瞬間だろう。
尼僧の千代能は何年にもわたり修行してきたが、
光明を得ることができなかった。
ある夜のこと、彼女は水をなみなみと張った古い手桶を運んでいた。
彼女は歩きながら、桶の水面に映る満月を眺めていた。
と、突然、桶をたばねていた竹のたががはずれ、
桶はばらばらになってしまった。
水はこぼれ、月影は消え去り、
そして千代能は光明を得た。
千代能がいただく桶の底抜けて
水もたまらず月も宿らず
光明は起こるときに起こる。
起こるように命じることはできないし、
それを引き起こすこともできない。
それでも、それを引き起こすために
多くのことを為すことはできるが、
どんな行為も光明を引き起こす原因にはならない。
どんな行為も光明をもたらしはしないが、
光明を受け取れるようみずからを準備することにはなる。
それは訪れるときに訪れる。
あなたの行為はすべて、光明を受け取れるよう、
それが訪れたことを知り、その到来を認識できるよう
準備をすることに他ならない。
それは起こる……
だが、自分に用意ができていなければ
見逃しつつ゛けることになる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

494避難民のマジレスさん:2019/04/23(火) 23:13:30 ID:LC3de7YgO
>>493
>すべての宗教は、死から出て生に入るための 霊的な仙薬を見いだすという点で
は目的を同じくする。
この霊的な仙薬はどこに帰するのか?
それはいつも無念無想の境地にあるということだ。
道教で説かれる沐浴、洗い清めるという最も深遠な奥義は、 こころをからっぽ
にする修行につきる。
これですべてのことに片がつく。

うむ。

>尼僧の千代能
の話の原典は何でありましょうかうか?
(´・(ェ)・`)つ

495避難民のマジレスさん:2019/04/25(木) 02:56:12 ID:LC3de7YgO
>>493
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)

それは刻一刻と起こりつつある。
吐く息、吸う息のひとつひとつが光明をもたらす。
なぜなら、光明とは
<存在>を成り立たせている素材
そのものに他ならないからだ。
だが、それを認識するのはむずかしい。
それがそこにあることに気つ゛くのはむずかしい。
神は存在する。
神の存在は疑いようがない。
問題は、私たちには神が見えない、
見る目がそなわっていないということだ。
瞑想や祈りや浄化はすべて、あなたに
見る力をそなえさせてくれる助けになるにすぎない。
ひとたび見ることができたら、
あなたは驚くだろう―― それはつねにそこにあった。
昼も夜も、年がら年中、
それはあなたの上に降り注いでいたのに、
あなたはそれをとらえることができるほど敏感では なかったし、それに満たさ
れるほどからっぽではなかった。
あなたはあまりにも自我エゴで一杯になっていた。
元をたどるなら、これが 最も基本的なことがらだ―― あなたがいなくなると
、 ただちに光明が起こる。
虚空が現れると、 ことはすべて片つ゛いてしまう。
あなたがいつつ゛けるなら、あなたは 無知のままであり、闇に満たされてい
る。
あ な た が闇だ。
そこに あ な た が い る ことが"魂の闇夜"だ。
あなたがいるとき、 あなたは<存在>から分離している。
それが闇をつくりだしているものだ―― 私と<全体>とのあいだには 溝がある
、隔たりがあるという 思い。
そうなったら私は独りぼっちになる。
そうなったら恐怖に包まれて、苦しみが生まれる。
私はひどく孤独な、ちっぽけな存在であり、 いずれ死がやって来たら、跡形も
なく消されてしまう。
死にあらがって身を守るすべはない。
こうして人は震え、おののきながら生きている。
だが、私たちが 震えや恐怖を引き起こしている。
<存在>から切り離されているというその 思いがそれをつくりだしている。
この分離感を落としたとたん―― 自分は切り離されていない、
けっして切り離されることもないし、 分離など起こりようがない、
自分は全体の一部であり、 元から全体に組み込まれている、
自分は全体のなかにあるし、 全体は自分のなかにある
ということを見た瞬間―― 問題は解消し、永遠に溶け去ってしまう。
死が消え失せ、恐怖が消え失せ、苦悶が消え失せる。
そして恐怖、不安、苦悩に巻き込まれていた エネルギーが一挙に解き放たれる。
その同じエネルギーが魂の祝祭と化す。
光明とは何だろう?
それは本当のあるがままの自分 を見る度量のことだ。
私たちに自我エゴなどというものはない。
自我というのはたんなる思い込みにすぎない。
私たちがそれをつくりだし、それを投影している。
それは私たちの幻想であり、私たちの夢だ。
それは実在せず、現実にはないものだ。
気つ゛きを深め、内側を見つめれば 見つめるほど、自分というものは消えて
ゆく。
気つ゛けば気つ゛くほど、あなたはいなくなる。
そして覚醒がすみずみにまで 行きわたる瞬間、あなたは消え失せる。
もはや水はなく、 水面に映る月影もなく、 あなたの手はからっぽだ。
それはからっぽであり…… ことはすべて片つ゛いている。
それが千代能に起こった。
彼女は長いあいだ修行してきた。
彼女はありとあらゆる瞑想を行ない、 ありとあらゆる技法を修得してきたが、
それでも悟ることができなかった。
それを引き起こすことはできない。
それはあなたを超えている。
あなたに引き起こすことができるなら、それはあなた以下のものだ。
あなたに引き起こせるなら、
それはまたもや 自我エゴの新しい飾りにすぎないものになる。
それを引き起こすことはできない。
それが起こるよう仕向けることはできない。
それが起こるためには、あなたが消えなければならない。
だから世界中の経典を学びつくすこともできる。
あなたは豊かな学識をそなえた知識人にはなるだろうが、
それでも光明を得ないままでいる。
実のところ、知識を蓄えれば蓄えるほど 自我が膨らんでゆくために、
あなたは 前よりもっと光明から離れてゆく。
苦行を積めば積むほど、あなたの自我は膨らんでゆく。
「私はこれをやっているし、あれもやっている。
私はずいぶんたくさんのことをやってきた―― 断食をくり返し、数しれぬほど
礼拝をしてきた」
やればやるほど自分に価値 があると思い、光明に値すると思うようになる。
光明を要求することはできない。
光明が訪れるためには、人は 完全に消えなければならない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

496鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/25(木) 22:35:19 ID:1d4drIFg0
>>494 それは実在した尼僧の話じゃな。
 禅宗で修行して桶が抜けたことで観照が起きたのじゃ。
 分別や観念が桶であり、月の影が自分なのじゃ。
 観念が無ければ自分もなかったと気付いたのじゃ。
 絵にもなっているのじゃ。

497避難民のマジレスさん:2019/04/25(木) 22:55:19 ID:LC3de7YgO
>>496
鬼和尚、ありがとうであります。
絵画になるくらいでありますから、有名な話なのでありますね。
検索したら、仏光国師語録 という本に記されてるようありますが、
OSHOは本当に博学な菩薩でありますね。
(´・(ェ)・`)つ

498避難民のマジレスさん:2019/04/25(木) 23:11:48 ID:LC3de7YgO
>>495
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)

神が訪れるためには、思考 マインドがやまなければならない。
それを「神」と呼ぼうが、「光明」と呼ぼうが―― それは同じものだ。
千代能は長いあいだ修行をしてきたが、 光明を得ることができなかった。
光明は探し求めることによって 見いだせるようなものではなく、 探求がすべ
て無益であることが 明らかになったときに訪れてくる。
そして、いいかね、私は 「探し求めてはいけない」 と言っているのではな
い。
探し求めないかぎり、 探求が無益であることは けっしてわからないからだ

私は「瞑想をしてはいけない」 と言っているのではない。
瞑想をしなければ、 するのではなく 向こうから訪れてくる 瞑想がある とい
う理解にはけっして到らない。
瞑想は、たんにあなたの目を洗い清め、もっと見えるようにしてくれるだけだ。
あなたのこころハートは、 もっと敏感に冴え、とぎ澄まされ、 愛に満ち、感
じやすくなる。
あなたの実存は今まで見た ことがないものをとらえはじめる。
あなたはみずからの実存の内にある 新しい空間を探求しはじめる。
新しいことが毎日、刻一刻と起こるようになる。
あなたの瞑想は風呂のようなものだ―― 風呂に入るとすっきりするが、 その
さわやかさは悟りではない。
それはたんに道を整えるだけだ。
あなたが光明に到ることはけっしてない。
それはつねに向こうからやって来る ――光明があなたのもとに到る。
神があなたのもとにやって来れるよう、
神のための道を整えなさい。
神を見いだすことはできない。
できるのは、 神があなたを見つけだしてくれるように、
深く信頼して、待つことだけだ。
千代能もそのようにして取り逃がしていた。
彼女は探求し、探求し、その探求にあまりにも 巻き込まれすぎていた。
だが、この探求もまた 「私は求道者だ」「私は凡人ではない」「私は精神的
だ」「私は宗教的だ」 「私は高潔だ」と言って、あなたのエゴを膨らませる。
もしこの"おまえよりも私のほうが高潔だ" といった態度が生まれてきたら、
あなたは道に迷ってしまう。
それは人生で犯しうる 最大の罪であり、最大のあやまちだ。
他人よりも自分のほうが高潔であり、自分は聖者だが他人は罪人であり、
「見ろ、私の徳の高い人生を」といった思いが浮かんできたら、 有徳の人にな
ってしまったら、あなたは道に迷ってしまう。
なぜなら、この 自分は徳が高いというエゴは もっとも微妙なエゴであり、
落とすのがひじょうにむずかしいからだ。
鉄の鎖を捨てるほうがやさしい。
ダイヤモンドを散りばめた金の鎖を身にまとうことができたら、 それを捨てる
ことはいっそうむずかしくなる。
なぜなら、それは鎖のようには見えず、高価な装飾品のように見えるからだ。
汚い牢屋から脱け出すことはやさしいが、 もしそれが宮殿だったら、誰が脱け
出したいと思うだろう?
脱け出すどころか、なかに入りたいと思うだろう。
罪人のほうが聖人よりも神に近い。
なぜなら、罪人はその境遇から脱け出したいと思っているが、 聖人は得意にな
って自分の幻想にひたっているからだ。
千代能は尼僧だった。彼女は微妙な、自分は正しい ――ものをよく知っている
、高潔な人間だ ――という態度を楽しんでいたにちがいない。
彼女は偉大な出家者だった。彼女はすばらしい美貌に恵まれていたと言う。
あまりに美しいので、ある僧院を訪ねたときには断られてしまった。
こんなに美しい女性を僧院に入れると、僧侶たちが動揺するかもしれないから
だ。
その後、彼女は顔を傷つけてやっと別の僧院に入ることができた。
彼女はすばらしい美人だったにちがいないが、ちょっと考えてごらん…… 彼女
は自分の顔を傷つけて、それを醜くしておきながら、 深いところではこう考え
ていたにちがいない。
「私のみごとな捨て方を見なさい。私はとても美しい女性だった。なのに私は
その顔 を傷つけた……こんなことをした者はかつていなかったし、これからも
いないだろう。 私の捨て方を見なさい。肉体への執着のなさを見なさい。私は
美貌のことなど少しも 気にしていない。私はどんな犠牲を払っても光明を得よ
うと決意している」
こうして彼女は見逃しつつ゛けていた。 だが、ある満月の夜に それは起こった。 それは意表をついて、突然、起こった。
それはいつも不意に起こる。
それはつねに突発的に起こる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

499避難民のマジレスさん:2019/04/26(金) 16:02:51 ID:Encevg.s0
>>497 横レス失礼します
「無水無月」というoshoの本で
”あれこれとたくみし桶の底抜けて
水たまらねば月もやどらじ”が紹介されています
千代能以外の禅師の話も色々書かれていておすすめです

500鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/26(金) 22:09:40 ID:1d4drIFg0
>>497 そうじゃ、かなり学んでいるのじゃ。
 オショーは既に如来なのじゃ。
 菩薩はまだ悟っていない修行者なのじゃ。
 
>>499 ご苦労さんなのじゃ。

501避難民のマジレスさん:2019/04/26(金) 23:07:27 ID:LC3de7YgO
>>499
情報提供、ありがとうであります。

>>500
如来でありましたか。覚者でありますね。
(´・(ェ)・`)つ

502避難民のマジレスさん:2019/04/26(金) 23:19:50 ID:LC3de7YgO
>>498
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)

だが私は、 それは他の誰にでも起こりえたと言っているのではない。
それは千代能に起こった。
彼女が為したことはどれもその原因ではないが、 彼女が為したことのすべてが
彼女の内側にあるものを―― 何をやっても失敗に終わる、 人が成功することは
ありえない という理解を生じさせた。
彼女はまったく望みのない 状態に到ったにちがいない。
その絶望は為しうることをすべてやりつくしたときにはじめて感じられるもの
だ。
そしてその絶望が訪れたときに、 はじめて希望が生まれてくる―― その救い
ようのなさのなかで、 自我エゴは大地に叩きつけられ粉々になる。
人はもはや何ものも要求しない。
自我はその絶頂に達して はじめて、その頂点で消えてゆく。
中途半端な自我を落とすことはできない。
それはできない相談だ。
なぜなら、まだ先に望みがあるからだ。
「わからないぞ、もう少し努力すれば、 もう少し修行すれば、もう少し執着
を捨てれば……わかるものか。
まだすべての方角を調べたわけじゃない、まだ望みはある」
とそれはつぶやく。
自我というのはしぶとい。
だが、可能なあらゆる方角をすべて探しつくし、 究めつくしたのに、いつもし
くじってばかりいれば、 失敗につぐ失敗を重ねていれば、いつまで探求し、 探
索することをつつ゛けていられるだろう?
いつの日か探求や探索は落ちてしまう。
だからこのパラドックスを覚えておきなさい―― 光明は探求を落とした者たち
にしか起こらない。
だが、探求を落とすことができるのは誰なのか?
それは充分に深く究めつくした者たちだけだ。
これはパラドックスだ。
これは理解しなければならない大いなる秘密のひとつだ。
それを胸の奥に沈潜させなさい。
片方だけを選ぶ可能性は高い。
「探し求めよ、そうすれば汝は見いだすだろう」と言う者たちがいる。
それは真理の半面にすぎない。
ただ求めるだけで見いだした者はひとりもいない。
また「求めても神が見つからないのなら、そもそもなぜ求めるのか? 待てばよ
い。やがて神の恵みとして起こるだろう」と言う者たちもいる。
そのようなやり方でもけっして起こらない。
あなたがたは何世紀にもわたり、何生にもわたって 待ちつつ゛けてきたが、い
まだにそれは起こっていない―― そのような仕方では起こらないことは それだ
けで充分に明らかだ。
では、 それはどのようにして起こるのだろう?
それは探し求めることをやめた探求者に起こる。
それはもてる力をすべてふり絞って探求したが、 しくじった者、完璧にしくじ
った者に起こる。
その失敗のなかで、 最初の光線が、不意にあなたに射してくる!
救いようのない絶望感にひたっているとき、 光明のことはすべて忘れようと諦
めているとき、 探求がやんで、光明を得たいという欲望さえも なくなってしま
ったとき、突然、それが訪れる ……そしてそれで何もかも片ずいてしまう。
それはそのようにして千代能に起こった。
それはそのようにして仏陀に起こった。
それはいつもそのようにして起こる。
仏陀は六年間にわたって働きかけてきた―― 懸命に働きかけてきた。
思うに、これだけ激しく 働きかけた者は他にはいないだろう。
彼は命じられたことはすべて、 できると耳にしたことはすべて、 どこかで拾
い集めることができたものはすべて やりつくしてしまった。
彼はあらゆるタイプの師のもとを訪ね、 実に厳しい修行を重ね、誠実に、真
面目に取り組んだ。
だが、六年が虚しく過ぎていったある日のこと、仏陀は、 このようにしていて
もそれは起こらない、 働きかければ働きかけるほど、 私というものが強くなっ
てゆく、 という事実に気つ゛いた。
その日、彼はくつろいで、 探し求めることを完全に落とした。
すると、まさにその夜のこと…… その夜もやはり満月だった。
満月と光明には どこかつながりがあるにちがいない。
満月は海に与えるのと同じくらい 深い影響をあなたのこころハートに与える。
満月はあなたを揺り動かし、美や至福へと向かわせる。
それはあなたのなかに何かを……仙薬をつくりだす。
それは人の感受性をひじょうに高めるので、 あなたは今まだかつて見たことが
ないものを 見ることができる。
それは満月の夜のことだった。
仏陀はゆったりとして、完全にくつろぎ、 はじめてぐっすりと眠った――何か
を探し求めて いるとき、どうして眠ることができるだろう?
眠りのなかでも探求はつつ゛き、欲望は夢を紡ぎだしつつ゛けている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

503避難民のマジレスさん:2019/04/27(土) 11:10:33 ID:LC3de7YgO
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)

今や、何もかもが失敗に終わってしまった。
彼はこの世間を、王国を、恋愛や人々との関係 の喜びや苦しみを、肉体と心の
苦悩や歓喜を見てきた。
続いて彼は禁欲の修行者、僧侶となり、 たくさんの道に従い、それもまた見
てしまった。
彼はいわゆる世間を味わい、 いわゆる出世間をも味わったが、 いずれも失敗
に終わった。
もはやどこにも行くところはない、 これ以上は一寸たりとも動けない。
欲望はみな消え失せてしまった。
そこまで絶望しきっているとき、 どうして欲望を抱くことができるだろう?
欲望とは希望のことだ。
欲望とは、まだ何かする ことができるということだ。
その夜、仏陀は "為しうることは何もない、いっさい何もない" ということを
知るに到った。
その要点を見るがいい。
そこにはとほうもない美しさがある…… 為しうることは何もない、いっさい
何もない。
彼はくつろいだ。
彼の身体はゆったりとくつろいでいたにちがいない。
彼のこころハートはゆったりとくつろぎ、願望も、未来もなかったにちがいな
い。
この瞬間がすべてだった。
空には満月がかかり、 彼は深い眠りについていた。
そして、朝が来て、目覚めたとき、 彼は通常の眠りから覚めただけではなく、
私たちみなが生きている形而上的な眠りからも 覚めていた。
彼は覚醒をとげた。
彼は弟子たちによくこう言った。
「私は懸命に働きかけたが、成長することができなかった。 そして働きかける
という考えそのものを落としたとき、私は成就した」
私が自分の仕事ワークを「遊び」と呼んでいるのはそのためだ。
あなたがたは矛盾した立場に立たざるをえない。
それが「遊び」という言葉の本当の意味だ。
あなたがたは働きかければ何かが起こる かのように妙に深刻な姿勢で取り組
んでいるが、 それは働きかけることを通しては絶対に起こらない。
それは働きかけることがやみ、 遊び心に満ちた気分が生まれ、 くつろいだ気
分になったときにはじめて起こる…… しかもそれは努力して身につけたくつろ
ぎではなく、 こう理解することで生まれるくつろぎだ――
「何をやっても、"私"をますます強めるだけだ。 何をやっても、自我エゴをま
すます膨らませるだけだ。 自我は障壁なのだから、何をやっても元のもくあみ
だ」
これを見抜くと、行為はかき消えてしまう。
そして行為なくして、どうして 行為の主体が存在できるだろう?
行為が消えれば、その影である 行為の主体も消えてゆく。
そしてあとにはあなたが残される――
<全体>のなかに、この宇宙的な遊戯の 一部として、丸ごと、完全な状態で。
それが光明だ。
これらの経文にはとほうもない価値がある。
それらに瞑想するがいい。
呂祖師は言った。
沈黙が訪れると、一片の思考すら湧き起こらない。
内側を見ている者は、突然、見ていることを忘れてしまう。
沈黙には二つの種類がある。
ひとつは修養して身につけるものであり、
もうひとつは訪れてくるものだ。
修養して身につけた沈黙は抑圧された騒音にすぎない。
黙って坐ることはできるし、長期にわたって坐りつつ゛け、
何か月も何年も訓練をつつ゛けてゆけば、次第に騒音を抑圧できるようになっ
てゆく。
だが、あなたは依然として火山の上に坐っている
――それはいつ噴火するともかぎらない、
ちょっとしたきっかけがあれば充分だ。
それはほんとうの沈黙ではなく、強いられた沈黙にすぎない。
これが世界中で起こっていることだ。
瞑想しようとしている人々、静かになろうとしている人々は、
ただ自分に静けさを強いているだけだ。
強いることはできる。
自分の周囲に何層もの静けさを張りめぐらせることはできるが、
それは自分自身をだますことに他ならない。
そんな皮相なものでは役に立たない。
沈黙があなたの実存そのものから湧き起こってこないかぎり、 外から内側に強
いられたものではなく、 逆に内からやって来たものでないかぎり
――それはやって来る、 内から外に向かって湧きあがってくる、
中心から周辺に向かって湧きあがってくる ……それはまったく異なる現象だ。
呂祖は言っている。
沈黙が訪れると―― いいかね、それはもたらされたものではなく、 強いられ
たものではなく、訪れるものだ――
一片の思考すら湧き起こらない。
そうなったら、あなたは火山の上に坐っているのではない。
私の方法論全体が沈黙を 修養して身につけるのではなく、 内なる騒音を発散
浄化カタルシスして、 それを投げ捨てることにあるのはそのためだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

504鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/27(土) 23:03:54 ID:1d4drIFg0
自ら行うことは自我を起こすことになるから、観照も起こらないのじゃ。
努力し続けて自我も起こり続けてしまうのじゃ。
努力の果てに全ての努力を放棄して、今まで努力していた者に気付くのじゃ。
努力もまた必要であったのじゃ。
それがなければ、放棄して観ることもなかったのじゃ。

505避難民のマジレスさん:2019/04/27(土) 23:22:34 ID:LC3de7YgO
>>503
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)

私のもとにはじめてやって来た人々はひじょうに困惑する。
仏教の師のもとにいたことがあるなら、
彼らはヴィパッサナをやり、坐を組み、自分自身に ある決まった姿勢を強いて
いただろう。
なぜ姿勢をくずさないのか?
それは身体をある一定の姿勢に強いてとどめておくことで、 心マインドもひと
つの形に押し込めておくことができるからだ。
肉体ボディと心マインドは連動している。
心は肉体の内なる局面であり、 それは物質的な現象だ。
それはあなたの実存とは何の関係もない。
それは肉体と同じように物質的なので、肉体に何かをすれば、 それは自動的に
心にも反映する。
だからいつの時代にも人々は姿勢を整える訓練を行なってきた――
蓮華坐の姿勢で坐り、仏像のように、石仏のようになるよう肉体に強いる。
身体を微動もさせないでいることができれば、 心がある種の静けさのなかに入
ってゆくのに気つ゛くだろう。
だが、それはまやかしであって、本物ではない。
身体の姿勢によって力つ゛くで静かにさせているだけだ。
試してみるといい――こぶしを握り、顔をしかめ、 歯を噛みしめて、憤怒の姿
勢をとってみるがいい。
そうして憤怒の姿勢をとってみると、 驚いたことに、本当に怒りを覚えはじめ
る。
俳優はそれをやっている――
身体を動かして一定の姿勢をとり、 そこに入りこんでゆくと、やがてその気
になってくる。
二人の偉大な心理学者ジェームズとランゲは、今世紀の初頭に実に奇妙な 理論
を編み出した。
それはジェームズ&ランゲの理論として知られている。
彼らは昔から常識とされてきたことにそぐわない、ひじょうに奇妙なことを言
った。
ふつう私たちは、人は怖くなって逃げだす、恐怖に駆られて走りだすと考えてい
る。
ジェームズとランゲは、それは真実ではないと言った――走るから、恐怖を覚
えるのだと。
馬鹿げて見えるが、そこにはいくらかの真実が含まれている――半面の真理が。
常識にも半面の真理はあったが、これもまた同じ全体のもうひとつの半面を言
ってい。
笑いはじめたら、悲しみが前よりも少し軽くなった感じがする。
冗談を言って 笑っている友人たちのそばに行って坐るだけで、自分の悲しみや
惨めさを忘れてしまう 。
あなたは笑いはじめる。
すると笑いはじめたとたんに、気分がよくなってゆく。
身体からはじめることもできる。
試してみるといい!
悲しみを感じていたら、駆けだしてみるといい。
家の近くを七回ほどまわって、 深呼吸をし、陽光を浴びて、風に吹かれなさ
い。
七回まわったら、立ち止まって、心境の変化がないかどうか 見てみるといい。
いいや、同じであるはずがない。
肉体の変化が心を変えてしまった。
肉体の生化学が心を変えてしまう。
ヨーガの姿勢はそのためにある。
それらはすべて心を一定のパターン に押し込むための姿勢だ。
それは本当の沈黙ではない。
本当の沈黙はひとりでに現れて くる沈黙でなければならない。
私が勧めるのは、肉体に無理強い してはいけないということだ。
それよりも、踊ったり、歌ったり、身体を動かしたり、 走ったり、ジョギング
したり、泳いだりするがいい。
肉体をありとあらゆる仕方で動かしなさい。
そうすれば 心マインドもまたありとあらゆる仕方で動き、そのようにして 内側
をかきまぜることで、発散浄化カタルシスがはじまり、 心は毒を放り出してゆ
く。
大声で怒鳴り、怒り、枕を叩きなさい。
すると驚くようなことが起こる―― 枕を叩いたあとは、気分がすっきりする

心のなかにあったものが解き放たれたのだ。
妻や夫を殴るのも、枕を殴るのも大差はない。
枕は、妻や夫を殴るのと同じくらい完璧に役に立つ。
肉体にとっては殴る相手が誰であろうと同じことだからだ。
殴るポーズを取るだけで心は怒りを放出しはじめる。
心と肉体は協調して働いている。
カタルシスからはじめなさい。
そうすれば子ども時代から内側にため込んできた がらくたを一掃することがで
きる。
怒っていたのにそれを外に表すことができなかったのは、 怒れば母親が取り乱
してしまうからだ。
あなたはそれを抑え込んでしまった。
あなたは腹が立ち、怒鳴りたかったが、 そうすることができず、逆に微笑み
を浮かべた。
内側にため込んできた す べ て の も の ――あなたはそれを投げ捨てなけれ
ばならない。
そうして待っていると…… 沈黙があなたのなかに降りてくる。
その沈黙には他にはない美しさがある。
それはまったく別のものだ。
そこには異なる質がある。
そこには異なる深みがある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

506鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/28(日) 23:40:56 ID:1d4drIFg0
これがオショーのダイナミック瞑想なのじゃ。
現代人はストレスを多く抱えているから先ずはストレスを発散させるというのじゃ。
それから沈黙が起こってくるのを待つのじゃ。
そうすればより深く瞑想に入ることが出来るというのじゃ。

507避難民のマジレスさん:2019/04/29(月) 00:08:45 ID:LC3de7YgO
>>505
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)

 沈黙が訪れると、一片の思考すら湧き起こらない
――思考が起こってこないように抑え込んだわけではない。
見張っていたわけではないし、こちこちに身を固め、 一片の思考がよぎるのも
許さなかったわけではない。
あなたは闘っているのではなく、 手放しの状態になっているのだが、 何ひと
つ湧いてこない。
一片の思考も起こらず、 思考がひとりでに消えてゆくとき ――それは美しい。
そうなったらあなたは完璧に静かであり、 その沈黙はよいものだ。
強いられた沈黙はよいものではない。
内側を見ている者は、突然、見ていることを忘れてしまう。
その体験のなかで、こんなことが起こる――内側を見ている者は、突然、見て
いることを忘れてしまう
これが本当に内側を見るということだ――
内側を見ていることさえ忘れてしまうということが。
内側を見ていることを覚えていたら、それはまたしてもひとつの思考にすぎない。
最初は外界を見ていたし、今度は内界を見ているが、そこには自我エゴがある。
最初は外向的で、今度は内向的だが、そこには自我がある。
最初は樹々を見ていたが、今度は思考を見ている。
最初に見ていたのは客観的なものであり、今見ているのは主観的なものだが、
ことのすべては少しも変わっていない。
あなたは依然として二つに――見る者と見られるものに、観察者と観察される
ものに、主観と客観に分割されている。
二元性がしぶとく残っている。
これは本当の沈黙ではない。
二つのものがあれば葛藤が起こらざるをえないからだ。
二つのものは静かではありえない。
ひとつになると、どんな葛藤も起りえないので、あなたは静かになる。
沈黙を強いるのではなく、それが自然に降りてくるのを許しなさい。
強いられた沈黙は作為的であり、一方的に押しつけたものだ。
これこそ私がここであなたがたとともに、私の人々とともに起こそうとしてい
る大いなる変革のひとつだ。
古い技法はすべて基本的に何かを強いている。
私が理解するところでは、けっして何も強いてはいけない。
むしろ、もち歩いてきたがらくたをすべて放り出すがいい。
もっともっとからっぽになり、もっと広々とした空間をもちなさい。
内側にもう少し空間をつくりだせば、その空間に沈黙が訪れてくる。
自然は真空を嫌うから、がらくたをすべて放り出して、からっぽになることが
できたら、彼方なるものが内側に降りてくるのを目の当たりにするだろう。
舞い踊るエネルギーがあなたのなかに、あなたのすべての細胞のなかに入って
くる。
あなたは言葉もなく、音もない歌、聖なる音楽に満たされる。
この音楽のなかには見ている者がいない。
この音楽のなかには見られている者がいない。
観察する者が観察されるものになっている。
踊り手は踊りそのものになり、あらゆる二元性が消え失せている。
この非二元性こそ真の沈黙に他ならない。
このとき、身心は完全に解き放たれてしまうであろう。
このような瞬間には、手放し状態のままでいなければならない。
姿勢のことなどいっさい忘れてしまいなさい。
やろうとすることはすべて忘れて、何もしようとしてはいけない。
無為の状態にありなさい。
ただゆったりとして、
完全にくつろぎ、何もせずにいる。
くつろげばくつろぐほど、あなたの実存にさらに深い沈黙が浸透してゆけるか
らだ――ただ開いて、感じやすくなり、くつろいでゆくがいい。
いっさいのしがらみは跡形もなく消滅する。
すると驚いたことに、落とそうとしていたのに落とせなかったすべての欲望が、
いつの間にか消え去っている。
世間のしがらみ、頭をわずらわす仕事、そういったあらゆる雑念や行き交う思
考の流れは、もはや跡形もない。
あなたは驚くだろう――
あの連中はみなどこへ行ってしまったのだろう?
と不思議に思うだろう。
あなたは奮闘していたが、努力しているときには、一片の思考ですら追い出す
ことはできない。
やってみるといい。
思考をひとつでも放り出したいと思ったら、あなたは完全に失敗する。
それは放り出せない。
放り出そうとすればするほど、なおいっそう大きな音を立てて自分に跳ねもど
ってくる。

静かに坐って、猿のことを考えないようにしてみるといい。
それは単純な実験だ。一匹だけではなく、猿が次から次へとぞろぞろやって来
て、あなたに百面相を見せてくれる。
追い払おうとすればするほど、猿たちはますます扉を叩いて、「なかに入れて
くれ」と言うだろう。
猿たちはあまり行儀がよくないから、ことわりもせずに、なかに飛び込んでく
るかもしれない。
あなたは猿また猿に取り囲まれる。
忘れようとすればするほど猿はますますたくさん現れる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

508鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/29(月) 22:26:40 ID:1d4drIFg0
観る者と観られる者の二つがある時、それは未だ観念による自己認識があることを示しているのじゃ。
記憶から想起される自分という観念を観ているから二つが在るのじゃ。
記憶からの観念が無ければ、観る者と観られる者の二つは無いのじゃ。
観る者と観られる者が一つであるありようが実現するのじゃ。

509避難民のマジレスさん:2019/04/29(月) 23:04:43 ID:LC3de7YgO
>>507
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)

忘れようとすればするほど猿はますますたくさん現れる。
何かを忘れようとしたら、それをますます思い出すことになるからだ。
それは思い出そうとするのと同じだ。
努力をすることで忘れることはできない。
沈黙が降りてくると、突然、いっさいのしがらみが消えてしまう――跡形もなく
消え去る!
後には痕跡すら残らない。
あなたは信じられない、あのすべての騒音は……どこへ行ってしまったのだろ
う?
それがかつて自分のなかにあったことすら信じられない。
それが今なお他人のなかにあることが信じられない。
これは目覚めた人々がみな直面しなければならない基本的な問題のひとつだ。
あなたがたはあらゆる問題を抱えて私のもとにやって来るが、私の苦境がわか
っていない。
私にはまずこのことがわからない――あなたがたはどうしてそんなにたくさん
の問題を抱え込むことができるのだろう?
どうやってそれを抱えつつ゛けているのだろう?
あなたがたは本当に信じられないようなこと、不可能なことをやっている!
なぜなら、私が思考をつかもうとしても、 それはすり抜けていってしまうから
だ。
それはつかめない、それは逃れ去ろうとする。
ところがあなたがたは「思考を止めたいのですが止められません、 その努力に
すっかり疲れ果て、退屈し、うんざりしています」と言う。
あなたがたは本当にみごとな芸当をやっている!
いつの日か沈黙があなたの上に降りてくれば わかるだろう……それは痕跡すら
残さない。
内側に思考が存在していたことすら信じられない。
思考はすっかり消え失せている。
それは影にすぎなかった。
思考は本質的なものではなく、 影にすぎない。
影は消えても跡を残さない。
そもそも 影には実体がないから、その足跡を見いだすことはできない――
あなたがたの思考もそうであり、 あなたがたの想念マインドもそうだ。
自分の精神の宮と坩堝るつぼがどこにあるのか、もはやわからない。
この状態が起こり、内に沈黙が降りてきて、それにおおいつくされると、内を
見ているのか外を見ているのかわからなくなる。
誰が見ている者で、誰が見られている者なのかわからなくなる。

自分の精神の宮と坩堝がどこにあるのか、もはやわからない。
そうなったら自分が誰であるかを言うことはできない。
あなたはそこにいる――
実際、はじめてあなたは存在しているのだが、ではそれはいったい何者なのか
、それは何なのか?
答えはやって来ない。
中国の武帝がボーディダルマに尋ねた……
ボーディダルマは武帝をひどくいらだたせていた。
ボーディダルマは大胆不敵で、歯に衣を着せず、ずばりとものを言う男だった。
武帝は尋ねた。「私はたくさんの善行を積んできたが、天国でどのような報酬
を得られるだろう?」
ボーディダルマは深い軽蔑のまなざしを武帝に向けながら言った。
「報酬だって?あなたは地獄に堕ちるだろう!天国なんてとんでもない」
武帝は言った。「良い行いをしたのに、地獄へ堕ちると言うのかね?
私はたくさん寺を建て、無数の仏像をつくり、無数の仏教僧を養い、寺院を国
費で維持し、仏陀の法ダルマ、その教えを広めるために大いにつくしてきた。
国中の者たちが仏教徒になろうとしている。
人々は瞑想をし、祈りを捧げている。
経典の翻訳も進められ、何千人もの学者が翻訳に取り組んでいる。
なのにあなたは何の報酬も得られないと言うのかね?
私の行為は神聖なものではないと言うのかね?」
するとボーディダルマは言った。
「神聖なものだって?この世には聖なるものなど何もない。聖もなければ、俗
もない。だが、いいかね」と彼はつつ゛けた。
「この自分は徳を積んだ人間だという思いを落とすがいい。この偉業を成し遂
げたという思いを落とすがいい。そうしなければ、無間地獄に堕ちてしまうぞ」
当然、武帝は気分を害し、いらだった……きっと豊かな教養を身につけた文化
人だったにちがいない。そうでなければボーディダルマに乱暴な振る舞いをし
ていただろう。
だが、その彼ですら誘惑には逆らえず、気分を害し、腹を立てながら尋ねた。
「では、私の前に立っているあなたは誰なのか?聖もなく、俗もなく、徳もな
いならば、私の前に立っているのは誰なのか?」
ボーディダルマは笑いながら言った。「私は知らない」
だが、武帝は理解することができなかった。
あなたがたも取り逃がしたかもしれない。
ふつう私たちは、到達した人は自分がだれであるのかを知っていると考える。
だから彼は「自己知識を達成した人」と呼ばれる。
ところがボーディダルマは
「私は知らない」と言う。
これは自己知識の最高峰だ。
これこそが 本 当 の 自己知識だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

510鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/30(火) 22:47:57 ID:1d4drIFg0
既に自分が無い者には自分の知識も無いのじゃ。
それが真の無我なのじゃ。
自分の知識があればまだ無我ではないのじゃ。
一切の自己を無くしてありのままにあるのが無我なのじゃ。

511避難民のマジレスさん:2019/04/30(火) 23:14:05 ID:LC3de7YgO
>>509
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)

人は消えてしまった。
知る者がそこにいるだろうか?
知るということは、知る者と知られるものがあるということだ。
そこにはもはや二元性はない。
知る者がそこにいるだろうか?
そこには沈黙だけが、とほうもない沈黙だけがあり、分割はなく、分かつこと
のできないものがある。
「私は知っている」などとボーディダルマが口にするはずがない。
もし彼が「そうだ、私は自分が永遠の魂であることを知っている」
と言っていたら、この出会いはごくありきたりのものになっていただろう。
おそらくそのほうが武帝は納得しただろうが、ボーディダルマは面目を失って
いただろう。
彼は正直だった。
彼は「私は知らない」と言った。
「私は自分が誰なのか知らない」
と言う者に誰がついて行くだろう?
武帝はこの男について行くことを諦めた。
武帝に理解できないことがわかると、ボーディダルマは言った。
「皇帝ですら私を理解できないとしたら、他の者たちなど当てにはならない」
そこで彼は山に入り、壁に向かって九年間坐りつつ゛けた。
人々がやって来て、「なぜ壁の方ばかりを向いているのですか?」
と尋ねると、彼はこう言ったものだ。
「人々の方を向いても、みんな壁と似たようなものだ。
壁の方を向いているほうがましだ。壁ではない者、感応力と理解力をそなえた
者が来たら、そこではじめてその人に顔を向けるとしよう」
「私は知らない」
という彼の言明には計り知れない美しさと気高さがある。
(p473)

自分の精神の宮と坩堝るつぼがどこにあるのか、もはやわからない。
肉体を確かめたいと思っても、つきとめることができない。

こうして沈黙があなたを覆いつくし、あなたを包み込む瞬間、自分の肉体を確
かめたいと思っても、つきとめることができない。
もう肉体はないとも言えるし、 もはやあなたは分離していないので、 全存在が
あなたの肉体になっている とも言える。
この状況はときとして人を狂気に追い込みかねない。
注意するがいい。
目を開けても肉体が見つからず、
目ではとらえられないといったことが起こっても、 心配してはいけない。
先日の夜、あるサニヤシンが私に尋ねた。
「鏡の前に立っていると、何だかわけがわからなくなってしまいます。
というのも、鏡に映る姿が自分だとは思えないからです」
それは途方に暮れさせる。
鏡をのぞき込むたびにこの問い―― 「これは誰だろう?」という問い が湧き
起こってくるので、彼は最近では鏡を避けている。
「これは私だ」と感じることができない。
さあ、これでは頭がおかしくなっても無理はない。
このために彼はひじょうにかき乱されていた。
だがこれは役に立つしるし、確認のしるしだ。
現によいことが起こっている。
彼は肉体との同一化を解きはじめている。
それはよいことだ。
彼は正しい道の上にいる。
私は彼にできるかぎり鏡をのぞき込むよう、 そして暇を見つけたらいつも鏡の
前に坐って、 鏡に映った肉体を見つめ、「これは私ではない」 と感じつつ゛け
なさいと言った。
「これは私ではない」とくりかえす必要はない。それはまやかしになる。
ただ感じるだけでいい! それは彼にひとりでに起こっているから、問題はな
い。
これは彼の自然な瞑想になるだろう。
それで充分だ。
ゆっくりゆっくり、やがていつか鏡に映る影を 見ることができなくなる瞬間が
やって来る。
そのほうがもっと通常の感覚をかき乱す。
スワパーヴァにそれが起こった。
私は彼にこの瞑想を与えた。
何か月もそれを行なったあと、ある日、 鏡の前に立っていると影が消えてし
まった。
「何が起こっているのだろう?」 と彼は目をこすった。
狂ってしまったのだろうか?
鏡がそこにあり、その鏡の前に 立っているのに、影が消えてしまっている。
そして、その日、彼の存在はすばらしい変容をとげた。
スワパーヴァは今ではすっかり人が変わり、 まったくの別人になっている。
はじめて私のもとにやって来たとき、 彼はエゴの固まり以外の何ものでもな
かった―― しかもインドでいちばん危険なパンジャビ風のエゴだ。
実際、彼はこのパンジャビ風のエゴのために罠にかかっていた。
彼が真理について知りたがっていたので、私は 「君には賭ける用意ができてい
るかね?」と尋ねた。
「君にはすべてを賭ける勇気があるかね?」―― さあ、それは彼のエゴへの挑
戦だった。
彼は「できない」と言うことができなかった、身を引くことができなかった。
彼は「ええ」と言ったが、「何をやれと言われるかわかったものじゃないぞ」
と少し怯えているようだった。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

512鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/01(水) 22:05:05 ID:1d4drIFg0
i肉体が自分だと認識している者には肉体の観察が効果を発揮するじゃろう。
観察する者が自分と思えば、観察されるものは他のものとなるのじゃ。
肉体が観察されれば肉体は他のものとなるのじゃ。
そのようにしてエゴもなくなっていくのじゃ。

513避難民のマジレスさん:2019/05/01(水) 22:51:52 ID:LC3de7YgO
>>510
>自分の知識も無い
>一切の自己を無くしてありのままにある

とは、自分の記憶をを失うと言う意味ではなく、
記憶にもとづいた思考をしなくなると言う意味でありましょうか。
(´・(ェ)・`)つ

514避難民のマジレスさん:2019/05/01(水) 23:08:41 ID:LC3de7YgO
>>511
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)

だが、彼はジャンプした。
そしてそれが鏡のなかで起こった日 ――彼の影が消えた日―― 彼の奥底深く
にある何かが変化し、動いた。
今や見違えるように変わったスワパーヴァを見ることができる。
彼はひじょうに素直シンプルになり、謙虚になり、 ヴィパッサナ倉庫でもくも
くと働いている。
彼は百万長者の大金持ちだ。
彼は自分が所有している大きな会社の社長であり、 彼のもとで何百人もの人々
が働いていた。
今や彼は一介の労働者のようにアシュラムで働いているが、 これほど幸せだっ
たことは一度もなかったし、 これほど至福に満ちていたことも一度もなかった。
この瞬間があなたにもいつか訪れるかもしれない。
瞑想していると、沈黙が降りてきて、 自分の肉体を見いだすことができなく
なる。
鏡のなかをのぞいても、そこに顔は映っていない。
心配せずに、紛れもない確認のしるしとしてとらえなさい。
何かすばらしいことが起ころうとしている―― あなたの古い自己証明アイデン
ティティが崩れつつある、 あなたの古い自己像が消えつつある。
神があなたをわがものとするまえに、 あなたは完全に消えなければならない。
肉体を確かめたいと思っても、つきとめることができない。
これは「天が大地に浸透する」という状態であり……
自分の肉体を見ることができず、自分の肉体を感じたり、自分の肉体に触れる
ことができないとき――
これが「天が大地に浸透する」と言う状態だ。
楽園が降りてきつつある。
神があなたのもとへやって来つつある。
神はすでに到達している。
神のこころはあなたのハートとともにあり、
神の手はあなたの手に握られている。
あなたが消え失せたのはそのためだ。
部分が全体になったからだ。

すべての霊妙なものが根源に帰るときだ。
今やあなたの生はすみずみまで霊妙な輝きをおびるようになる。
一瞬一瞬が比類のない瞬間となる。
ひとつひとつの体験がすばらしく、えも言われぬものになる。
それからはあなたの生は純粋な詩となる。
それからはあなたはけっして退屈することがない。
生は刻一刻と新たに移り変わってゆくのに、どうして退屈していられるだろう?
人々が退屈しているのは、古びて、生気を失った、鈍重な自我エゴをもち歩い
ているからだ。
彼らが退屈しているのはそのためだ。
自我がなければ、退屈もない。
そうなったら生は喜びだ!
そうなったら起こるひとつひとつのことが神からの贈り物になる。
人は絶えず額つ゛きたい思いにかられ、感謝の念を抱きつつ゛ける……

すべての霊妙なものが根源に帰るときだ。
長足の進歩を遂げると、影もこだまもすべて消え去り……
「神々が谷間にいる」瞬間がやって来る という、呂祖の最初の言葉を覚えてい
るだろう。
あなたは丘の上に坐っており、 全世界が谷間のなかにあるという感じをもつ

音が、ひじょうにはっきりと、実にありありと 聞こえてくるが、それは遥か遠
くにあって、 谷に響くこだまのようだ。
今やそのこだまさえも消えてゆく。
すべての影が去ってゆく。
千代能を覚えているだろうか?
彼女はみずからの光明を祝ってこの詩を詠んだ。
 千代能がいただく桶の底抜けて
 水もたまらず月も宿らず
水面の鏡像、影、こだまはすべて消え去った。
あるがままのものだけが残っている。
そして、そのこのうえもない美しさが。
学人は深い静けさのなかで悠然としている。
これは不可思議なものすべてが根源に帰り、 気(エネルギー)の洞穴に納めら
れたということだ。
外側の生はすみずみまで絶えることのない霊妙な輝きに包まれる。
あなたは浜辺で再び子どもにもどり、風のなかを走り、陽光を浴び、あたかも
ダイヤモンドの鉱脈を見つけたかのように
貝殻やきれいな色石を集めている。
外界の森羅万象のすべてが霊妙な輝きの質をおびる。
では内側では何が起こっているのだろう?
不可思議なものすべてが根源に帰り……
深い洞察のなかでは、外界の霊妙な輝きに合わせて、不可思議なものすべてが
その源に帰る。
不可思議なものとは何だろう?
在ることそれ自体が最大の奇蹟だ――ただ在ることが。
それを感じるのに金持ちである必要はない。
それを感じるのに教育を受ける必要はない。
それを感じるのに有名になる必要はない。
ただ在ること……。
あなたが在ることそのものが最大の奇蹟、最大の神秘だ。
なぜあなたは存在しているのだろう?
理由はない。
あなたはそれを稼ぎ取ったわけではないし、それを求めたことすらない。
それはただ起こっている。
だから外界には霊妙な輝きがあり、内側には不可思議な世界がある。
光明を得ている人はそのようにして生きている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

515鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/02(木) 22:11:56 ID:1d4drIFg0
>>513 記憶に基づいた認識をしなくなるのじゃ。
 それが本来の認識なのじゃ。
 それができれば刹那毎に新しく今ここにある真の実在が知覚できるのじゃ。
 そこにはもはや知覚する者とされる者の区別も無いのじゃ。

516避難民のマジレスさん:2019/05/02(木) 22:45:33 ID:LC3de7YgO
>>514
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)


そして、今やこういったことが起こりはじめる。

場所を変えずとも、場所はおのずと変わってゆく。
もうヒマラヤに行く必要はない、
街の雑踏マーケットプレイスを捨て去る必要はない。
あなたは人で賑わう街にとどまることができるが、もはやその場所は前と同じ
ではない――
場所そのものが変容してしまう。
街の雑踏さえもがとても美しく、それと比べればヒマラヤなど取るに足りない。
ありふれた現実がこの世のものとは思えない美でみなぎるようになる。
毎日そばを通りながら一度も目にとめたことがなく、気にもとめなかった樹が
、突然、弾けたように花を咲かせ、あなたの意識に花とかぐわしい香りを浴び
せかける。
生はありとあらゆる色にあふれ、極彩色になり、ものごとはひとりでに変わり
はじめる……
それはひとえにあなたがこの内なる静けさ、この無我の状態に到ったからだ。

場所を変えずとも、場所はおのずと変わってゆく。
私が「私のサニヤシンは世間を離れてはいけない」といつもくり返し強調する
のはそのためだ。
これを光明を得たかどうかを判別する基準にするがいい――あなたが光明を得
たら、世界はおのずと姿を変える、それは変わらざるをえない。
それに世間から逃げたとしても、どこにも行くあてはない。
どこへ行っても、あなたは再び同じ世界をつくりあげる。
それをつくりだす青写真があなたの内側にあるからだ。
この女のせいで厄介なこと――子どもや、家や、責任――が生じてくるのだと
考えて、その女性と別れることもできる。
その女性やかわいそうな子どもを置いて、逃げだすこともできる――
これまで多くの男たちがそれをやってきた。
だが、あなたはかつてこの女性に恋をしたのだ。
あなたの内側にはまたしても恋に落ちる可能性がある。
遅かれ早かれ――おそらくは早いうちに――もうひとつの家庭をもち、別の男
や別の女ができ、子どもが生まれ、責任が生じてくる。
生をそうたやすく、そう手軽に変えることはできない。
あなたはたんにまわりの環境を変えるだけで、奥深くでは青写真をもち歩いて
いる。
まわりの環境は青写真によってつくられる。
青写真が再びそれをつくりだす。
それは種子に似ている。
あなたは樹を倒したが、種子をもち歩いている。
種子が再び地面に落ちると、樹がまた必ず生えてくる。
種子を焼いてしまわなければならない。
そうなったら、どこにいてもこの奇蹟が感じられるようになる。

場所を変えずとも、場所はおのずと変わってゆく。
この世界そのものが楽園になり、
この世界そのものがにゃはんニルヴァーナになり、
この肉体そのものが仏陀の身体になる。

そこは形なき空間であり、そこでは 千の場所も万の場所も ひとつの場所に他な
らないからだ。
時間を変えずとも、時間はおのずと変わってゆく。
これは測ることのできない時間であり、そこでは 無限の劫こうも一瞬に他なら
ないからだ。
何にも手を加える必要はない。
そしてこの二つが世界を構成している要素だ。
見るがいい、呂祖が言っていることは、今や現代の物理学によって完全に裏
つ゛けられている。
アルバート・アインシュタインは、世界はたった二つのもの、時間と空間から成り立っていると言う。
実のところ、それらは二つではなくひとつのものであるから、新しい言葉をつ
くりださねばならない。
彼はそれを「時間と空間」と呼ばずに「時空」と呼ぶ。
時間と言うのは空間の第四の次元であり、二つの 言葉のあいだにはハイフンさ
えいらない。
空間を変えなくてもいいし、時間を変えなくてもいい。
それらはひとりでに変化してゆく。
た だ 自 分 自 身 を 変 え さ え す れ ば い い 。
ハートに変化が起これば、全存在が変化する。
天国はどこか別の場所にあるわけではないし、 地獄もどこか別の場所にあるわ
けではない。
それはあなたの内側にある、 どちらもあなたの内側にある。
 あなたがそれらをつくりだす。
だが、人々は愚かなことをやりつつ゛けている。
先日ある人が手紙を寄こした――「どうしたことでしょう?……」彼は妻を四
度 変えていた。
これが四度目の結婚であり、その女性は彼にとって一緒に暮らす 四人目の女性
だった。
そして今、彼は「いつもどうしてこうなるんでしょう?
最初はすべてがすばらしく見えるのですが、半年も経たないうちにまた 同じよ
うにだめになってしまうんです」と言っている。
いつもまったく同じことがくり返されるのは、 あなたが前と少しも変わってい
ないからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

517避難民のマジレスさん:2019/05/03(金) 12:21:09 ID:LC3de7YgO
>>516
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬

そしてことは入り組んでいる。
例えば、あなたは妻にうんざりしている―― 心マインドはつねに新しいものを
、感情を煽る 、何か新しいものをしきりに欲しがっている。
あなたはその女性を知ってしまった。
彼女の地形をすみずみまで知りつくしてしまった。
今や 彼女の地理に精通してしまい、もうこれ以上探検の余地は残されていない。
あなたは別の女性に関心を寄せるようになる。
別の女性に関心を寄せはじめる と、妻はますますもめごとをつくりだすように
なる。
あなたが彼女にではなく 別の誰かに関心を寄せているのに気つ゛くと、嫉妬が
生まれてくる。
彼女はたくさんのもめごとを引き起こす。
小言を言うようになり、意地悪になって ゆく。
彼女ががみがみ言えば言うほど、あなたはますます彼女がいやになってゆく。
さあ、この悪循環を見るがいい。
彼女はあなたがそばにいて欲しいのだが、やることなすことすべてがあなたを
遠ざけて しまう。
彼女はますます所有欲をつのらせ、いちだんと嫉妬深くなってゆき、家庭生活
を営むことは不可能になってゆく。
それは地獄になってしまう。
あなたはできるかぎり彼女を避けるようになる。
夜遅くまで会社で働き、仕事が なくても会社に居座りつつ゛けるようになる。
家に帰ればいやでも妻と顔を合わせる ことになり、また同じ苦しみを味わうこ
とになるからだ。
そして彼女が本当に求めているものは何だろう?
あなたにそばにいて欲しいのだ。
ところが彼女はその逆の ことばかりやって、あなたを追い払おうとしている。
そして邪魔者扱いにされればされるほど、別の女性がさらに美しく魅力的に見
えてくる 。
別の女性が魅力的で美しく見えるようになればなるほど、ますますその女性と
一緒に いたくなるし、その女性もあなたともっと一緒にいたくなる。
そしてやがて彼女は 「私と一緒にいたいのなら、あの女ひとと別れてね」と言
いはじめる。
妻と別れたとたん、その男が自分のなかに見いだしていた 美しさが消え失せて
しまうことに、その女性は気つ゛いていない。
男がその女性のなかに見ている美しさの 九割はもうひとりの女性に負うてい
る。
その女性は男の妻を敵と見なしているが、そうではない。
実は彼は、あの妻のおかげで恋に落ちてくれたのだ。
こういったことは無意識のうちに行なわれる。
それを見るがいい!
見なければ、それはいつまでも作用しつつ゛ける。
相手の女性はとても幸福になる。
彼女が幸福になればなるほど、あなたはもっと彼女の そばにいたくなるし、そ
れにつれて、いままでの女のほうはますます醜く見えてくる。
じきにあなたはこの女性と永遠に暮らしたいと思うようになる。
あなたはいままでの 女と別れて、この女性と暮らしはじめる。
それまでの女と別れたその日、まわりの状況はすっかり変わってしまう。
今やこの新 しい女性と一緒にいても、それほど美しく見えないし、それほど魅
力的にはみえない。
あなたを不愉快にさせる者がいないので、催眠状態がだんだん解けてゆく。
半年も経たないうちに催眠は解けてしまう――この女性も前の女性と変わらな
い。
もう 地理の調査は終わり、ことは片つ゛いてしまった。
だが、女性には何が起こったのか わからない――「この人はとっても愛してく
れていたのに、どうなったのかしら?」
彼女は自分でそれを壊してしまった。
そしてこの男も何が起こったのかわからない――
「この女性はあんなにすばらしく見えたのに、ごく平凡な女だった」
またしても動きが、同じ動きが、無意識の奥に潜む同じ種子による 悪循環がは
じまり、彼は別の誰かに恋をしはじめる。
人々は無意識のうちに恋に落ちて、無意識のうちに恋から覚める。
彼らは次から次へと相手を変えてゆくが、自分自身を変えることはない。
彼らは外側を変えつつ゛けるが、自分は同じままだ。
あなたは変えてゆくこともできる――幾多の生涯にわたって、 あなたはそれを
やり、同じことをくり返してきた。
それはとめどない悪循環になっている。 それは車輪だ。
同じスポークが 上がって来ては下がり、 また上がって来ては下がる。
それはまわりつつ゛ける車輪であり、 あなたはその車輪のなかにとらえられ
ている。
醒めなさい。 場所を変える必要はないし、 時間を変える必要はない。
外側のものは何ひとつ変える必要がない。
外界はこれ以上は望めないほど完璧だ。
やらなければならないことはただひとつ―― もっと意識的になり、 もっと油
断なく目を見張り、 もっと注意深く気つ゛き、 もっとからっぽになること。
そうすれば外界に投影するものは何もなくなる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

518鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/03(金) 22:42:09 ID:1d4drIFg0
お釈迦様も全てのものごとは心から作られるといっているのじゃ。
心の中の反応が自らの環境に投射されるのじゃ。
心が乱れていれば、周りも乱れていると感じるのじゃ。
それは外の環境が悪いのではなく、自らの心が原因なのじゃ。

519避難民のマジレスさん:2019/05/03(金) 23:45:13 ID:LC3de7YgO
>>517
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)

内側にある種子をすべて焼きつくさなければならない。
内側にある青写真をすべて焼きつくさなければならない。
その青写真を焼き、種子を焼き、 内側にあるものをすべて放り出して、 ただ
からっぽになっていると、彼方から 何かがあなたのなかに入ってくる。
楽園が地上に浸透してくる。 それが変容の瞬間だ。
この変化とともに、全存在が一変してしまう。
女性も、子どもも、人々も、会社も、騒々しい街中も、 すべては元のままだが、もはや前と同じではない。
それはあなたがすっかり変わってしまったからだ。
これが正しい変容の道だ―― けっして外側からはじめてはいけない。
内側からはじめなさい。
こころというものは、静けさの極点にまで達しないかぎり、動くことのできな
いものだ。
人が動きを起こしてその動きを忘れるようなら、それは本来の動きではない。
それゆえに外界の事物の刺激を受けて動くのは本性の欲望であり、 外界の事物
の刺激を受けずに動くのは天の動きであると言われる。
いいかね、天の動きに身をゆだね、神があなたを動かすままにさせることだ。
<全一なるもの>に明け渡しなさい。
そうでないと、あなたは状況に反応しつつ゛け、状況はあなたとその意識に作
用しつつ゛けるだけで、あなた自身には何の変化も起こらない。
相手の男や女を変えることはできるし、仕事を変えることはできるし、家を変
えることはできる。
ものをどんどん変えつつ゛けることはできるが、本当には何ひとつ変わってい
ない。
<全体>があなたをわしつ゛かみにし、あなたのハートがもはや外界の事物に動
かされなくなり、実存の内奥の中核――それを「神」「天」「タオ」と呼んで
もいい――によって動かされるようにならないかぎり……。
あなたがそれを動かすのではなく、あなたが<全一なるもの>の手にするただの
道具となっているとき、それこそまさに「汝の王国は来たり、汝のわざはなさ
れた」という言葉でイエスが言わんとしていることだ。
イエスはそのような言い方をした。
同じ真理をユダヤ流の表現で言い表した。
天の動きに身をゆだねよ――これは中国の言い表し方だ。

だが、思念が起こらないときには、正しい思念が湧いてくる。
これは奇蹟だ――
思いが微塵みじんも湧いてこないときには、
何をやっても正しい行ないになる。
何が正しく何が間違っているかを判別するということではない。
思考マインドが静まり、こころハートが神によって動かされるとき、起こるこ
とはすべて的を射ている。
正しいことをすれば聖人になるというのではない。
あなたが聖人であれば、あなたが為すことはすべて正しいものになる。
正しい行為をすることで聖人になろうとしているのであれば、それはひたすら
自分を抑圧してゆくことに他ならない。
間違ったことを抑圧しつつ゛け、正しいふりをしつつ゛けている。
あなたは偽善者になる。
聖人になろうとしてはいけない。
神にその座をゆずってしまいなさい。
ただからっぽになり、明け渡して、手放しの状態になりなさい。
神にハートの動きをゆだねれば、あらゆるものが美しくなる。
そうなったら、起こることはすべて正しく、間違いが起こることはない。
つまり、自我エゴから生まれるものはすべて間違っているということだ。
ボーディダルマが「あなたは地獄に堕ちる。
あなたが行なってきたことはうわべは崇高で、宗教的に見えるが、奥深くでは
自我が得意そうに笑みを浮かべている」
と言ったのはそのためだ。
自我から生じるものはすべてあなたを地獄へ、苦しみのなかへと連れてゆく。
自我を落とし、ものごとが起こるにまかせなさい――風が吹くと樹が揺れ動き、
太陽が昇ると鳥たちが歌いだすように。
<全体>に身をまかせきってしまいなさい。
あなたはこの生を独りだけで生きているわけではない。
神があなたを通して生きるがままにさせなさい。
そうすればすべてがよきものとなる。
神から生まれるものはすべてよい。

それが真の思念だ。 ものごとが静まり、悠然としていると、 天の活動のあらわ
れが突然動きだす。
これこそ何の意図もない動きではないだろうか?
今や個人的な目標がないのだから、あなたの人生には何の目的もない。

無為にして為すとは、まさにこれを意味する。
人が生きているのは、神が人を通して生きることを望んでいるからだ。
人が行為するのは、
神が人を通して何かをしようと望むからだ。
だが、こちらへ行こうがあちらへ行こうが、それは人のあずかり知るところで
はない。
どんな役割が与えられても、あなたはそれを演じつつ゛ける。
それは神の演劇であり、脚本も監督も神がつとめている――あなたは自分の役
を可能なかぎり完璧に演じる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

520鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/04(土) 22:41:12 ID:1d4drIFg0
自分のために行った善事は慈悲の心からの行ないではないから善事とはならないのじゃ。
助かる者もいるから悪とか無意味ではないがのう。
王様は自らの支配のためにそれと同時に何人も殺したりしているから大抵地獄行きなのじゃ。
何でもお見通しなのじゃ。

521避難民のマジレスさん:2019/05/04(土) 23:03:46 ID:LC3de7YgO
>>519
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)

どんな役が与えられても、あなたはそれを演じ切る。
所帯を切り盛りしているなら、所帯を切り盛りするがいい。
商売をやっているなら、商売をつつ゛けるがいい。
そういったものを変える必要はない。
ひとえに必要なのは、自分がやり手であるという考えを落とし、
ある目標に到達しなければならないという考えを落とし、
どこかにたどり着かねばならないという考えを落とすことだ。
どこであれ神が望むところ へ運ばれてゆきなさい。
風に舞う枯れ葉になりなさい―― そうすればすべてがよきものとなる。
そうすれば生は至福に満ちてくる。
もはや緊張などありえないし、不安も起こらない。
失敗のしようがない。
欲求不満を覚えることはけっしてない。
なぜなら、そもそも最初からあなたは 何も期待してはいないからだ。
これが目的のない生を生きることだ。
無為にして為すとは、まさにこれを意味する。
最も深い秘密は、いついかなるときも、欠かすことのできないものである。
これはこころを洗い、思念を清めることであり、沐浴である。
呂祖は、これを「沐浴」と呼ぶと言っている――
神があなたの上に振り注ぎ、あなたは清められ、きれいに浄化される。
神が一面にあふれかえり、あなたは跡形もなく消え失せ、無意識の片隅にすら
痕跡は残っていない。
神は至るところにみなぎり、あなたをくまなく満たしている。
神は光であり、
神があなたをくまなく満たすとき、それは「光明」と呼ばれる。
あなたは光に満ちあふれる。
それは無極に始まり、再び無極へと帰る。
今やあなたはわが家に帰り着いている。
今やあなたは生まれる前と同じように、天地がはじまる前と同じように、再び
ひとつになっている。
禅の人々はそれを「本来の面目」と呼んでいる。
本来の顔はひとつであり、無二であり、男でもなければ女でもなく、<陽>でも
なければ<陰>でもない。
誕生するやいなや、この形ある世界に生まれ落ちるやいなや、あなたは二つに
なる。
瞑想に入ってゆくと、再び深い沈黙が降りてくる。
突然、<二>が消え失せる。
あなたは再び<ひとつ>になる。
始めにあなたは両極を超えていた。
終わりにあなたは再び両極を越える。
ただその二つのあいだでのみ、あなたは分断されている。
そのはざまに世界がある。
始めに神があり、終わりに神がある。
源が目的地だ。
源に舞いもどってもいいし、目的地に消え去ってもいい。
言い方は違うが、それらは同じことを指している。

仏陀は意識を創出する無常なるものを宗教の根本的な真理として語る。
生命と人間の本性を完成させる仕事のすべてが 「虚空を生み出す」という言葉
に含まれている。
そもそも宗教というものは"虚空を生み出す"という単純な現象に帰することがで
きる。
からっぽになれば、あなたは満たされる。
いっぱいなら、あなたはうつろなままだ。
あなたが完全にいなくなれば、彼方なるものの存在が浸透してくる。
自分自身を押しとどめ、自分にこだわりつつ゛けるなら、あなたはうつろなま
まであり、ただの影、鏡像にすぎず、現実のものではない。

すべての宗教は、死から出て生に入るための 霊的な仙薬を見いだすという点で
は目的を同じくする。
完全にからっぽになるという秘法――これこそあらゆる宗教が探し求めてきた
仙薬だ。
それを飲めば不死になる。
なぜなら、死ぬ者は存在せず、あなたはすでに消え去っているからだ。
もはや死は起こりえない。
あなたはすでに死んでしまった!
自我エゴとして死んだ者は永遠の生命を得ている。
この霊的な仙薬はどこに帰するのか?
それはいつも無念無想の境地にあるということだ。
自我がもはやなくなり、あなたがからっぽになり、沈黙が内側に降りてくる
とき、あなたはどのように生きるだろう?
あなたは永遠に目的をもたずに生きてゆく。
薔薇のしげみが花を咲かせるとき、そこにどんな目的があるだろう?
朝になって鳥が歌いはじめるとき、そこにどんな目的があるだろう?
太陽が昇るとき、そこにどんな目的があるだろう?
いったいこの<存在>にはどんな目的があると言うのだろう?
この<存在>はビジネスではないから目的はない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

522鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/05(日) 23:04:33 ID:1d4drIFg0
沐浴という言葉は道教では特別な意味を持っているのじゃ。
それは身を清めて神に会う準備をすることなのじゃ。
一切の観念をすて新たな身となって全てを放棄する準備なのじゃ。
その後に神も身に降りるというのじゃ。

523避難民のマジレスさん:2019/05/05(日) 23:20:33 ID:LC3de7YgO
>>521
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)

それはまったき喜びであり、遊び心に満ち、
ヒンドゥー教徒はそれを「リーラ」と呼んでいる。
それはまさに
エネルギーの喜びだ。そこに
エネルギーがあって、
エネルギーが舞い踊り、歓喜している。
エネルギーがあるとき、あなたはその
エネルギーを楽しむ。あなたは
走り、歌い、踊り、泳ぎ、遊ぶ。
エネルギーは表現に喜びを見いだす。
あなたは創造的になる――純粋な
エネルギーに駆られて、絵を描き、詩を書き、音楽をつくる。
<存在>は
エネルギーであり、
エネルギーは何の理由もなく
舞い踊ることを欲する。
踊りのための踊り、
絵のための絵、
恋のための恋……
在るために在ることを。

それはいつも無念無想の境地にあるということだ。
道教で説かれる沐浴という最も深遠な奥義は、 こころをからっぽにする修行に
つきる。
これですべてのことに片がつく。
やらなければならないことはただひとつ――
こころハートの内にもち歩いているものを
すべて吐き出し、それを投げ捨てることだ。
そうすれば為されるべき唯一の基本的なことがらをやり終えたことになる。

これですべてのことに片がつく。
とてつもなく美しい言辞だ。
これですべてのことに片がつく。
他には何もいらない。
経典はいらないし、僧侶はいらない――
これですべてのことに片がつく。
必要なのはただひとつ――
神があなたのなかを流れられるようにからっぽになりなさい。
神にその座をゆずりなさい。
神があなたを笛にできるように、中空の竹になりなさい。
神が歌うときには美がある。
神が歌うときには歓喜がある。
神が歌うときには笑いがある。
あなたが歌うときには惨めさと涙と苦悶しかない。
なぜなら、 自我エゴというのは実にちっぽけなものだからだ。
自我は歓喜を内に含むことができない、
そのなかにおさまるのは苦悶だけだ。
歓喜は無限のものだから、その 歓喜を包み込むために、あなたは 無限になら
なければならない。
大海を包み込みたければ、人は 広大無辺にならなければならない。
からっぽになることで、人は広大無辺になる。
からっぽになることで、人は広々とした空間になる。
からっぽになることで、あなたの下地は整えられる。
あなたは主人になることができる。
主人に準備ができれば、神は 客として訪れることができる。
からっぽになる ことで、あなたは主人になる。
主人になりなさい。
神はあなたの扉を叩きながら 戸口でずっと待っているのに、
あなたの耳には届かない。
あなたの内側には大へんな騒音がある
――どうして扉を叩く音が聞こえるだろう?
愚かな私事わたくしごとにすっかり夢中になっていて、
どうして無念無想の純粋な美しさを見ることができるだろう?
あなたは銀行預金をいかに増やすかで悩み、
政治の世界でいかに成功しようかと悩み、
どうやってもう少し有名になろうかと悩んでいるが、
神はあなたの扉を叩きつつ゛けている。
神はいつでもみずからを注ぎこもうとしているが、
あなたのほうに 神を受け容れる準備ができていない。
その通り、呂祖は正しい。
あらゆる宗教において最も基本的なことがらは、 虚空をあらしめることだ。
あらゆるヨーガやタントラ、あらゆる錬金術の体系―― タオ、スーフィ―、ハ
シディズム――の行法は、すべて こころをからっぽ にするという、ただこの一
事につきる。
これですべてのことに片がつく。
この美しい物語をもう一度くり返そう。
尼僧の千代能は何年にもわたり修行をしてきたが、光明を得ることができなか
った。
ある夜のこと、水を張った古い手桶を手にした彼女は、歩きながら桶の水に映
る満月を眺めていた。
突然、桶を束ねていた竹のたががはずれ、桶はばらばらになってしまった。
水はこぼれ、
月影は消え去り、そして千代能は
光明を得た。
彼女は詩を詠んだ。
 千代能がいただく桶の底抜けて
 水もたまらず月も宿らず
これですべてのことに片がつく。
(´・(ェ)・`)
(おやり)

524鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/06(月) 22:13:37 ID:1d4drIFg0
結局全ての技法も方法も自分を放棄するところに行きつくのじゃ。
光を巡らすのも陰陽を合一させるのもそのための方法に過ぎなかったのじゃ。
一切を放棄して悟りに行き着くのじゃ。
観念が無ければ自分もまたあることができないのじゃ。

525避難民のマジレスさん:2019/05/06(月) 22:34:07 ID:LC3de7YgO
>>523
黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん1

まだはっきりつかめないなら、仏教徒の三つの観想
―― 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん――
を使って説き明かしてみよう。
まず空観が三つの観想の最初にくる、 いっさいの事物は空であると見なされる。
次に仮観が行なわれる。
すべてが空であることを知りながら、 事物を破棄せずに、空の只なかで自分
の仕事を行なってゆく。
だが、事物を破棄しないとしても、それらに注意を注ぐこともない ――これが
中観だ。
空観を実践しているときには、 万物を破棄しえないことを知りながら、 それら
に気をとめないようにする。
このようにして三つの観想はひとつになる。
だが、とどのつまりは空を体験することで力が得られる。
それゆえに、空観を実践するときには、 空は紛れもなく空であるが、仮象も
空であり、中心も空である。
仮観を実践するには大きな力が必要である。
このとき仮象は明らかに幻影であるが、 空も幻影であり、中心も幻影である。
中観の道にあるときには、やはり空の心象を生み出すのであるが、 空と呼ばず
に、中心と呼び、また仮観を実践するときにも、 それを仮観と呼ばず、中心と
呼ぶのである。
中心そのものについては、別に説明する必要はないだろう。
禅の逸話をひとつ……
禅師蜷川にながわが臨終の床についていると、
もうひとりの禅師一休が訪ねてきた。
「私が道案内をいたそうか?」と一休は尋ねた。蜷川は答えた。
「私はこの世に独り来て、独り去ってゆくのです。
どんな手引きをしてくださると言うのです?」
一休は答えた。
「もし君が本当に生まれ、本当に死んでゆくと思っているなら、自分は来ては
去ってゆくと思っているなら、それはまぼろしだ。
来ることもなく去ることもない道を教えよう」
一休がその言葉でいともあざやかに道を示してみせたので、蜷川は微笑を浮か
べ、黙ってうなずくと、静かに息を引き取った。
これは美しい物語だ。この物語について理解しなければならないことがいくつ
かある。
それは呂祖の経文に入ってゆく助けになるだろう。
まず第一に、真理を探し求めている者にとっては、死でさえも機会になるとい
うことだ。
探し求めていない者にとっては、生ですら学ぶ機会にはならない。
人々は何ひとつ学ぶことなくその生を生きてゆく。
彼らは成熟というものを知らないままその日々を過ごしてゆく。
彼らはほとんど眠っている。
人々は夢遊病者のように生きている。
彼らは酔っぱらっている――
自分が何をしているのか気つ゛いていないし、なぜそれをしているのか気つ゛
いていないし、自分はどこから来たのか、どこへ去ってゆくのかも気つ゛いて
いない。
彼らはまさに風のなすがままに運ばれてゆく流木のようだ。
彼らの生は偶発的なものだ。
この「偶発的」という言葉を覚えておきなさい。
何百万もの人々が、ただ偶発的な生を生きている。
自分の生のたずなを握り、それを偶発的なものから実存的なものに変えてゆか
ないかぎり、変容は起こりはしない。
それがまさにサニヤスというものに他ならない――
偶発的なものを実存的なものに変えようとする努力、
無意識の生を意識的な生に変えようとする努力、
目覚めようとする努力。
そうなったら生は学びのプロセスになり、死もまたそうなる。
そうなったら人は学びつつ゛ける。
そうなったら、一瞬一瞬、ひとつひとつの状況が贈り物としてやって来る。
そう、苦悩でさえも神からの贈り物になる。
だが、学び方を覚え、贈り物の受け取り方を身につけた者たちにだけだ。
ふつうはどのようにして受け取ればいいかわからず、
どのようにして吸収すればいいかわからないために、
あなたにとっては祝福でさえ贈り物にならない。
あなたは生をロボットのように生きている。
こんな話がある……
ある男が夜更けに帰宅した。彼は妻に帰宅が遅れた言い訳をした……。
ちょっと飲み過ぎていたこの気の毒な男は、腹を立てている妻に、バスを乗り
間違えてしまったんだよと言った。
妻は言った。「はいはい、よくわかったわ――あなたの姿を見ればすぐにわか
るわよ。でも、バスを乗り間違えたことにどうして気つ゛いたの?」
夫は言った。「ああ、隅っこのほうで二時間ほど立ってたら、人が次々とやって来てハンバーガーやコーヒーを注文して
ゆくんだよ。
それでやっとおかしいってことに気つ゛いたのさ」
それはバスでさえなかった!

あなたが生きている生は生ですらない、生ではありえない。
あなたのなかに光がないのに、どうしてそれを「生」と呼べるだろう?
あなたのなかに愛がないのに、どうしてそれを「生」と呼べるだろう?
あなたは機械のように動いているのに、どうしてそれを「生」と呼べるだろう?
(´・(ェ)・`)
(つづく`)

526鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/07(火) 22:52:48 ID:1d4drIFg0
観念の中に生きる者はそもそも何をしたらよいのかさえわからないものじゃ。
半分寝ているような状態で苦から逃避し、快楽を求めてさまようだけなのじゃ。
自分が何処から来て何者であり何処へ行くのかもわからんのじゃ。
一切の苦から永遠に解放された不死の境地があることすらわからないのじゃ。
それを知識としても理解し、実践する者は幸いなのじゃ。

527避難民のマジレスさん:2019/05/07(火) 23:14:56 ID:LC3de7YgO
>>525
54黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)

意識とともにはじめて生が訪れてくる――誕生によってではなく、
意識によって。
瞑想者だけが生きはじめるようになる。
他の者たちは自分をだましているだけだ。
彼らは本当に生きてはいない。
彼らはありとあらゆることをやっているかもしれない。
彼らはやりつつ゛ける。まさに最後までやりつつ゛ける。
富を築き、権力を握り、あれこれの野心を達成する。
彼らはどこまでもつつ゛けてゆくが、それでもその 人生の合計、総計はゼロ
だ。
テキサス州のオースティンで行なわれたロデオ大会で優勝した六十歳の男に、
ニューヨークの新聞記者がインタヴューをしていた。
「あなたのお歳でロデオの チャンピオンになるなんて大したものですね」
「いいや」とカウボーイは言った。
「親父には負けるよ。親父は八六歳だけど、いまでもフットボールの球を蹴っ
てるよ」
「へぇー」と記者は口をあんぐり開けて言った。
「お父さんにお会いしたいな」
「今はだめだよ。エル・パソで、じいさんの介添えをしているからな。じいさん
は 百十四歳なんだけど、明日結婚するのさ」
「あなたの家族は本当にすごいんですねえ」 と記者は言った。
「まず六十歳のロデオ・チャンピオンのあなた、八十六歳になる フットボール
選手のお父さん、そして百十四歳で結婚したがっているお祖父さん」
「とんでもない、だんな、そうじゃないよ」とテキサス男児は言った。
「じいさんは結婚したかないんだけど、せざるをえなくなったのさ」
このようにして人生はその最後まで過ぎてゆく。
これは本当の生ではない。あなたは犠牲者にすぎない―― 無意識の本能の犠牲
になり、生物的衝動の犠牲になり、 生理現象の犠牲になり、自然の犠牲になっ
ている。
これは隷属だ。 この無意識のすべてから自由になることが解放だ。
体内の生化学の束縛から自由になること、 あなたの内にある無意識なものすべ
てから自由になること、
自分自身になること、
意識の光となること―― それが本当の生のはじまりだ。
意識を保ち、
しっかりと目を見張り、
瞑想的に生きはじめたとき、
そこから はじめて自分の歳を数えなさい。
ひとつひとつの行為が意識の香りを放つ とき、あなたはわが家に近つ゛きつ
つある。
そうでなかったら、あなたはどんどん遠ざかりつつある。
生はあなたが目覚める機会をたくさん与えてくれる。
だが、あなたは目覚めるどころか、 この好機を活かすどころか、むしろ自分
を 無意識に溺れさせるもっと効き目の強い麻薬ドラッグを探しはじめる。
苦しみがやって来たら、それは目覚めるための好機 なのに、あなたは麻薬を探
しはじめる。
その麻薬はセックスかもしれないし、酒かもしれないし、LSDかもしれない。
その麻薬は金かもしれないし、政治権力かもしれない。
どんなものでも麻薬になる。
あなたを無意識にさせておくものはすべて麻薬だ。
あなたを非本質的なものごとに没頭させておくものはすべて麻薬だ。
薬を売っているのは薬局だけではない。
それはどこでも手に入れることができる。
学校や大学でも麻薬は売られている。
というのも、そこでは野心がつくりだされ、 野心は人々を無意識にさせておく
からだ。
野心は人々に影、まぼろし、夢を追わせ、走りまわらせておく。
いわゆる政治家は最大の麻薬密売人だ。
彼らは絶えずあなたのなかに権力への渇き、権力への餓え、 貪欲をつくりだ
しつつ゛け、あなたはそのとりこになってしまう。
野心を抱き、競争心を燃やすことは、 酒に溺れることと同じだ。
そしてこちらの酒のほうがよく効く。
ふつうの酒は禁じることができる。
この酒はどんなところでも――両親から、聖職者から、 政治家から、教授から
いともたやすく手に入れることができる。
社会はこの麻薬にどっぷりとつかっている。
何か追いかけるものがあると、あなたは気分がいい。
追いかけるものが何もなくなると、とたんにどうしたらよいのかわからなくな
る。
あなたはただちに何か新しく没頭できるものをつくりだす。
いつの時代にも覚者たちが観察してきたのは、 苦しみがやって来たときには
、 それは時がきたという、 「目覚めなさい」という 神からの示唆だというこ
とだ。
だが、あなたはその苦しみを麻薬で紛らわせてしまう。
あなたの妻が死ぬ――あなたは 深酒をあおりはじめたり、賭け事に手をだす
ようになる。
それはこの生が永遠につつ゛くものではない ということに気つ゛く絶好の機会
だった。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

528鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/08(水) 23:00:50 ID:1d4drIFg0
この世において真の幸福への道を求める者は少ないものじゃ。
金や権力や名声を求めることだけで人生を終えてしまうのじゃ。
それは動物や虫と変わりない愚かな生き方なのじゃ。
苦痛から逃れて快楽を探しているだけであるからのう。
永遠に苦から逃れる方法があることさえも知ろうとしないのじゃ。

529避難民のマジレスさん:2019/05/08(水) 23:52:29 ID:LC3de7YgO
>>527
黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん1

この家は砂上の楼閣であり、 この生は紙でできた船であり、いつ沈んでもお
かしくない。
気まぐれな風がひと吹きすれば、生は終わりをつげる。
目覚めなさい!
妻は死んでしまった。あなたも 同じ列に並んでいるのだから、いずれは死を
迎える。
そして その列は「死」と呼ばれる窓にどんどん近くなってゆく。
だが、 あなたは目を覚まさない。
あなたは別の妻を探しはじめる。
破産しても、 あなたは目を覚まさない。
敗北を喫しても、 あなたは目を覚まさない。
あなたは前よりも激しく、 なおさらやっきになって探しはじめる。
ある婦人が七人の医者を抱えた付属病院に行った。
彼女はある医者の部屋に入り、 二十分後に悲鳴をあげながら待合室へ駆けおり
てきた。
彼女からことの顛末てんまつ を聞いた別の医者が最初の医者を呼んでこう言っ
た。
「あの患者になぜ妊娠している なんて言ったんだ?彼女は妊娠なんかしちゃい
ない。死にそうなほどおびえていたぞ」
「わかってるさ」と最初の医者が言った
「でも、彼女のしゃっくりは治っただろう?」
耳を澄ませば、目を凝らせば、 人生に起きた苦しみはすべて 祝福が姿を変え
たものだ ということがわかるだろう。
それは あなたのしゃっくりを治してくれる。
それはショックかもしれない……が、 あなたにはショックが必要だ!
なぜなら、あなたは自分のまわりにたくさんの 緩衝器を張りめぐらせているか
らだ、自分のまわりにたくさんの ショック吸収装置を育てあげてきているから
だ。
それを壊さなければならない。
それが壊されないかぎり、あなたは 夢を見ながら生きてゆくことになる。
そしていいかね、 夢のなかでは 夢は現実のように見える。
あなたはそのことをよく知っている――あなたは毎晩 夢を見るが、夢のなかで
は夢は実に生々しく見える。
それにあなたは自分の 夢を支える理屈や論理をいつでも見いだすことができる。
たとえ 夢が破れても、まったく何の実体もないその 夢を支えるための理屈を見
いだすことができる。
聞いた話だが…… ある朝のこと、男はひどく驚いた様子で目を覚ました。
彼は妻を起こしてこう言った。
「ねえおまえ、昨夜は、恐ろしい夢を見てしまったよ。十キロもあるマシュマ
ロを 食べてる夢なんだけど、おまけに、自分の枕がどうしても見つからなくて
さ」
目を覚ましているときでさえ、あなたは 何か理由つ゛けを見つけるだろう。
まわりを見渡せば、いつでも必ず 理由つ゛けを見いだすことができる。
あなたの頭マインドは実にずる賢い。
頭はたくさんのゲームを演じ、 たくさんのトリックを仕掛けてくるが、 それ
はひじょうに筋が通っているように見えるし、 大きな説得力があるようにも見
える。
あるフランス人が帰宅すると、息子が祖母と一緒にベッドに入っているので 仰
天した……。
――こんなことはフランスでしか起こらない!―― 「おい、おまえ」と彼は言
った。
「どうしてこんなまねができるんだ?」
「だって」と息子は言った。
「父さんは僕の母さんと寝てるじゃない。 だから僕は父さんのママと寝てるの
さ。ちっともおかしくないよ」
あなたは何でも理屈をつけることができる――馬鹿げたことでさえだ。
油断せずに目を覚ましていなさい。
あなたの頭マインドは必ず夢のほうの肩をもつ。
あなたの頭は夢見のプロセスの源泉だ。
それゆえに、 あなたの頭にはそれらの夢を支えるつとめ、義務がある。
意識をしっかり とぎ澄ましていなければ、あなたは 何度も何度も自分の頭に
だまされ、弄ばれ、罠にかけれられて、これまで 何度も出くわした、何度も悔
やみ、何度も決意し、そして 「もう二度とごめんだ!」と誓った同じ愚かさに
陥ることになる。
だが、頭は巧妙な誘いの手口でやってくる。
頭マインドは最も優秀なセールスマンだ。
頭は誘い方がとてもうまい。
頭はいつもあなたの無意識の欲望を助けているために、肉体もまた 頭に協力す
る。
目覚めようとする努力は並大抵のものではない。
それは人が生において遭遇しうる最大の挑戦であり、 真の人間、勇敢な人間だ
けがそれに向き合うことができる。
目覚めるという挑戦を受け容れるには度量がいる。
それはありうる最大の冒険だ。
月へ行くほうがやさしい。
エベレストへ行くほうがやさしい。
太平洋の底へ行くほうがやさしい。
みずからの自己のなかへはいってゆくとき、本当の問題が生じてくる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

530鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/09(木) 23:44:07 ID:1d4drIFg0
人の真の幸福は心の中を探すより他はないものじゃ。
しかし、人が恐れるのも心の中を観ることなのじゃ。
心には苦があり、孤独があり、隠してきた醜さが在るのじゃ。
それらから眼を背けていた生き方から改心して心を観るようになるのは強い決意が必要なのじゃ。

531避難民のマジレスさん:2019/05/10(金) 02:18:35 ID:LC3de7YgO
>>529
黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)

そうなると 過去全体がそれに抵抗する。
過去全体が山のようにあなたの上にのしかかり、あなたを押し戻し、 あなたが
大空へ――無限なるもの、永遠なるもの、神、 にゃはんニルヴァーナへと翔け
昇るのを許さない。

これはすばらしい寓話だ。
ひとりの師がこの世を去ろうとし、 もうひとりの師が別れを告げにやって来る。
だが、なんという別れの告げ方だろう!
死という機会が使われる。
そう、ごくごく意識的な人々だけが 死によって開かれる機会を使うことがで
きる。
無意識に見られる死は敵であり、 意識的に見られる死は最大の友達だ。
無意識に見られる死は、 あなたのすべての夢を、 あなたのすべての生活様式
を、 あなたが築きあげてきたすべての世界を、 あなたが元手をかけてきたあら
ゆるものをこなごなに打ち砕いてしまう ――すべてが崩れ落ちる。
だが、意識的に見られた死は 新たなる生の始まり、 神に到る扉になる。
蜷川にながわが息を引き取ろうとしていたとき、 一休は尋ねた。
「私が道案内をいたそうか?」
彼は、死は始まりであって終わりではないと言っている。
「私の手引きはいらないかね?私の助けはいらないかね?あなたは 新しい存在
のありようを学ぶことになる。
新しい光景が開かれてくる。
あなたは 新しい次元、新しい地平に入ってゆこうとしている ――私の手引きは
いらないかね?私の助けはいらないかね?」
蜷川は答えた。
「私はこの世に 独り来て、独り去ってゆくのです。 どんな手引きができると言
うのです?」
その通り、私たちは独りで来て、独りで去ってゆく。
そしてこの二つの独りあることのあいだに、私たちは ともにあること、関係性
、愛、家族、友人、仲間、国家、教会、組織など すべての夢をつくりあげる。
私たちは独りで来て、独りで去ってゆく。
<独りあること>が私たちの究極の本性だ。
だが、その二つのはざまで、私たちは どれだけ多くの夢を見ることだろう!
人は夫や妻に、父や母になる。
人は金、権力、威信、社会的地位をかき集めるが、 空手で生まれ、空手で死ん
でゆくことをよく知っている。
この世のものをもってゆくことはできない―― それでも人は集めつつ゛け、そ
れでも人はしがみつき、執着心をますますつのらせ、 いずれ去らねばならない
この現世にもっともっと深く根をおろそう
とする。
この世界を旅籠はたごとして使うのはいいが、そこに家を建ててはいけない。
それを使うのはいい、だが、 それに使われてはいけない。
ものを所有してもしかたがない。
何かを所有しはじめたとたんに、人は それに所有されてしまうからだ。
所有すればするほど、いっそう 所有されてしまう。
使うがいい!
だが、 死がやって来つつあることを、 死がいつも途上にあることを心にとめ
て、 それを忘れてはいけない。
いつなんどき死が扉を叩き、 何もかもそのままにして 立ち去らねばならない
かもしれない。
いつもあなたは中途半端 のままで立ち去らねばならない。
人は生で何ごとも完結させることはできない。
蜷川は抜かりなく答えた。
「私はこの世に独り来て、独り去ってゆくのです。 どんな手引きができると言
うのです? 死を前にしてどうやって私を助けることができるでしょう?
生きているあいだは助け合うという幻想を抱くこともできますが、 死を前にし
てどうやって?」
彼は深遠な真理を語っているが、真理はまだまだ奥が深い。
一休はさらに高い真理をもって答えている。
これを覚えておきなさい―― 真理と虚偽のあいだに葛藤があるのではない。
真の葛藤は より低い真実とより高い真実のあいだにある。
虚偽はどこまでも虚偽だ。
虚偽に何ができるだろう?
真理をどう損なうことができるだろう?
虚偽と真実を選び分けるという問題ではけっしてない。
問題はつねに 低い真実と 高い真実の はざまにある。
蜷川が言ったことは確かにすばらしい真理だ―― 私たちは独り来て、独り去っ
てゆく。
だが、それよりもまだ高い真理がある。
一休は答えた。
「本当に来ては去ってゆく のだと思っているなら、それは君のまぼろしだ」
誰が来て、 誰が去ってゆくのか?
すべてはあるがままにある。
来ては去ってゆくというのもまた夢だ。
例えば、夜になって、 眠りにつくと、夢がはじまる。
朝になると、夢は消える。
自分はどこかに行って、 そこから帰ってきた と思うだろうか?
ふと気つ゛くと、いつもの部屋のいつものベッドの上にいる。
それはすべて夢だった!
あなたは遠くの場所まで旅をしていたかもしれない―― 月や惑星や恒星を訪れ
ていたかもしれない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

532鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/10(金) 23:38:25 ID:1d4drIFg0
来た如しと書いて如来というのじゃ。
この世に来た事も無く、去ったことも無いのが悟りを得た存在なのじゃ。
観念による謬見が無い故に、来る者も去る者もいないと知れるのじゃ。
ただ意識として常に在り続けるだけなのじゃ。

533避難民のマジレスさん:2019/05/11(土) 04:39:11 ID:LC3de7YgO
>>531
黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)

だが、朝になって目を覚ますとき、あなたは 星の上で目覚めるわけではない

眠りについたその同じ場所で目を覚ます。
人生は夢だ!
私たちは今いる場所にいる。
私たちは今あるがままにある。
私たちは一瞬も動いていないし、 みずからの本性から微動だにしていない!
これこそ真理の究極の表現だ。
そう、蜷川は重要なことを、とても意義深いことを言っていた――
「私たちは独り来て、独り去ってゆく」―― だが一休は、それよりもさらに深
遠なことを言っている。
彼は言う。
「何が去り、何がやって来ると言うのかね? あなたはくだらぬことを言って
いる! 誰が生まれ、誰が死んでゆくと言うのかね?」
波が立ち、再び 海のなかに消えてゆく。
海の波は波立つ前と同じように 海であることに変わりはない。
それはまた消えて 海にもどってゆく。
形は現れては消えてゆくが、 実在は今あるがままの姿でありつつ゛ける。
変化はすべて見せかけにすぎない。
深いところに、最も奥深いところにある 中核では、何もけっして変化しない。
そこではすべてまったく同じままだ。
時間は周辺で起こる現象だ。
中心には時間もなく、変化もなく、動きもない。
そこではすべてのものが永遠だ。
蜷川が息を引き取る寸前のこの対話の 要点を見てみなさい。
これは死を前にして論じるようなことがらではない。
人々は死が迫ると、相手を助け、慰めようとする。
「まだ死にはしないよ。死ぬなんて誰が言ったんだい?君はもっと長生きする
よ」
容体を知っているときでさえ――医者が「できるかぎりの手はつくしましたが
、もうこれ以上はどうすることもできません」と言っているのに――それでも
家族の者たちは、あなたは死なないというふりをしつつ゛ける。
家族の者たちは夢がもう少しつつ゛くように、手を貸そうとする。
家族の者たちは奇蹟が起こって生命が救われることを願ってやまない。
この対話はこのうえもなく美しい。
誰かが死を迎えつつあるなら、 死がやって来たことを気つ゛かせてやったほ
うがいい。
実際、死が今日訪れようと訪れまいと、 すべての人に気つ゛きをうながす方
がいい。
死が訪れるのが明日であろうと明後日であろうと違いはない。
それはいずれは訪れる。
ひとつ確かなのは、 死は必ずやって来るということだ。
生において唯一確実なもの――それは死だ。
だから、最初から死について語るほうがいい。
いにしえの文化では、子どもたちはみな 死を自覚させられたものだ。
あなたのまさに基盤は 死の自覚の上に築かれるべきだ。
死を自覚している人間は必ず 生を自覚するようになるが、 死を自覚していな
い人間は生に対しても無自覚でありつつ゛ける ――なぜなら、生と死は同じコ
インの裏表だからだ。
一休は言った。「もしもそう思うなら……」 だが、いいかね。彼は 「もしも」
という言葉を使っている。
なぜなら、一休は知っているからだ。
彼はこの男、蜷川を知っている。
一休はどこまでも見通すことができる。
この男には一点の曇りもない。
一休は蜷川が行き着いていることを知っている。
おそらく彼は一休を挑発して、何か 美しいことを、真理に触れるようなこと
を言わせようとしているだけなのだ。
おそらく彼の発言は仕掛けにすぎず、 ゲームをして遊んでいる。
だから一休は言う―― 「 も し も 君が、自分は本当に来ては去ってゆく と思
っているなら、それはまぼろしだ。
来ることもなく、去ることもない道を教えよう」
来ることもなく去ることもない道とは何だろう?
そう、あなたの内側にはある場所がある。
そこはあなたの永遠の故郷であり、 そこでは何ひとつ起こらず、 そこでは何
ひとつ変わらない―― 誕生もなく、 死もなく、 来ることもなく、 去ること
もなく、 生じることもなく、 滅することもない。
すべてのものがいつも同じだ。
一休がその言葉で あざやかに道を示してみせたので、 蜷川は微笑を浮かべて
うなずくと、 静かに息を引き取った。
それにまさる表現はありえない―― 蜷川がひと言も発しなかったのはそのた
めだ。
だが、彼は微笑んだ……。
語りえぬものを微笑みで表し、 語りえぬものをうなずくことで表し、 語りえ
ぬものを指し示すことはできる。
彼はそれを表情で示した。
彼は認め、うなずくことで、一休に言った。
「よろしい、非の打ちどころがない。 あなたもまた故郷に帰り着いている」
(´・(ェ)・`)
(つづく)

534鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/11(土) 23:38:25 ID:1d4drIFg0
蜷川も一休の言葉で死の寸前に悟ったのじゃろう。
どこかから来るでもなく、去って行くのでもない意識に戻れたのじゃ。
それに気付けば笑って死ねるのじゃ。
身体がなくなっても永遠に消えることの無い意識に還るだけであるからのう。

535避難民のマジレスさん:2019/05/11(土) 23:50:14 ID:LC3de7YgO
>>534
OSHOは、蜷川も悟っており、その事を一休は見通してたと解釈しているようでありますね。
いずれにしても、確かに美しいお話しであります。
(´・(ェ)・`)つ

536避難民のマジレスさん:2019/05/12(日) 00:04:33 ID:LC3de7YgO
>>533
黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)

二人の師が言葉を交わすことはきわめてまれだ。
というのも、二人の師が出会うとき、ふつうは ともに言葉を発することがない
からだ。
言うべきことは何もない。
だが、二人の師が言葉を交わすとき、 そこには必ず大いなる遊びがある。
そこには遊び心がある。
いいかね、それは議論ではなく、対話だ。 彼らはもっとうまい表現を引き出そ
うと互いを挑発している。
一休はそれを語った。
蜷川は満足した、 心から満足した。
一休は何を言ったのだろう?
――私たちが思い描く生は生ではない、
まだ私たちはそのありのままの姿を 一度も見たことがない、ということだ。
私たちはあまりにも幻想に心を奪われて、 最後の最後まで幻想のとりこになっ
てゆく。
聞いた話だが…… 夫を亡くした義理の母のことで心を痛めている男がいた。
その八十二歳になる 未亡人は深い悲しみにくれていた。
ある夜のこと、彼女を家から連れだすために、 彼は八十五歳の男性とのデート
を仕組んだ。
その夜更けに、デートを追えて帰宅した 彼女はすっかり頭にきていた。
「どうしたんですか?」と男は尋ねた。
「私を何だと思ってるの?」と彼女は息巻いた。
「あんな男、顔を三回 ひっぱたいてやったわよ」
「てことは……」と男は言った。
「迫られたんですか?」
「ちがうわよ!」と彼女は答えた。「あんな男、死んでるも同然だわ!」
だが、そんな歳になっても人々はデートをしつつ゛ける。
もし本当に幽霊というものがいるならば、 彼らはあなたがたがしているのと同
じことを、 まったく同じことをしているにちがいない。
そして、それは死後の生までつつ゛いてゆく。
ある恋人たちの話を聞いたことがある…… この深く愛し合っている二人のカッ
プルは心霊主義者だった。
彼らは クリスチャン・サイエンスを信じていた。
ある日のこと、彼らは死やそれに 類する深遠なテーマについて話し合っていた
が、どちらか先に死んだ方が死後 三十日経った時点で必ず相手に連絡を取るよ
うにし、相手も心を開き受容的に なって三十日後の特定の時間にそなえること
にしようと約束した。
しばらくして男が交通事故で死亡した。
女性は熱心に待っていた。
三十日が過ぎ、 ちょうど約束の時間がやって来た。
彼女はドアを締め、明かりを消すと、半信半疑 で尋ねた――「ジョン、あなた
そこにいるの?」
だが、信じられないことにジョン の声が聞こえてきた。
ジョンは言った。「やあ、君、僕はここにいるよ」
彼女はいった 。「あなた元気にしてる?そこで幸せに暮らしてる?」
すると彼は言った。 「僕はとっても幸せだよ。この雌牛をごらんよ――なんて
すてきなんだろう?」
「雌牛ですって?」と彼女は言った。
「頭が変になってしまったの!?私は天国のことをもっと聞きたくてたまらな
いのに、あなたったらばかな雌牛の話ばかりして!」
すると彼は言った。「天国だって?君は何を言ってるんだ。僕はプーナの コレ
ガオンパークの雄牛になっちまったんだよ!」
それがつつ゛いてゆく―― その同じ愚かさが来世まで持ち越される。
意識的にならないかぎり、あなたは この輪のなかを堂々巡りしつつ゛け、 こ
の輪はまわりつつ゛けてゆく。
それは実に退屈であり、 それをつつ゛けてゆくのはまったく馬鹿げている。
だが、 気つ゛くためには大いなる努力が必要になる。
気つ゛くためにはみずからの眠り、みずからの 無意識な状態との長い格闘に入
ってゆかねばならない。
その闘いは困難で骨が折れるし、しかもその道は上り坂だ。

さあ、経文だ……これらの経文は、 目覚めるための計り知れない 助けとなっ
てくれるだろう。
呂祖師は言った。
まだはっきりつかめないなら、仏教徒の三つの観想―― 空観くうがん、仮観け
かん、中観ちゅうがん―― を使って説き明かしてみよう。
師の慈しみは限りない。
彼はあなたがたの眠りが深い
ことをよく知っているので、
何度もくり返し要点を明確にする。
最初は聞き逃したかもしれないので、
師はもう一度くり返す。
二度目も聞き逃したかもしれないので、
師はもう一度くり返す。
仏陀は光明を得たあと四十二年間を生きたが、
朝も夕も、昼も夜も、四十二年間、同じことを言っていた。
絶えず同じことをくり返し言っていた。
なぜなら、あなたがいつそれを理解するか誰にもわからないからだ。
いつあなたが受容的になるか誰にもわからない。
いつあなたのハートに小さな窓が開いて、
客が入って来ることができるようになり、
一条の光があなたを貫くか誰にもわからない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

537鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/12(日) 23:06:29 ID:1d4drIFg0
>>535 そのようじゃ。
 一人来て一人去っていくとは悟っていれば言えないことであるがのう。
 まだ自分があるのじゃ。
 それもまた一休の言葉を引き出す演出と解釈したのじゃな。
 大乗仏典ではよくある演出なのじゃ。

538避難民のマジレスさん:2019/05/12(日) 23:24:06 ID:LC3de7YgO
>>536
黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)


二十四時間、あなたはいつも同じままでいるわけではない。
ときにはひじょうに頑なになって、入り込むのがとてもむずかしいこともある。
ときには耳がすっかり遠くなって、声が耳に届いていても、聞こえないかもし
れない。
だが、 ときにはもう少しこころを開いて、 もっと感じやすくなり、 もっと
愛情深くなり、 もっとしっかり聴くことができ、 あまり理屈っぽくなくなって
いるときもある。
柔和で、女性的になっているときもあれば、 強情で、男性的になっているとき
もある。
それは周期的に変わってゆく。
それを見守ったら、じきにあなたは 理解力が高まる瞬間や、 理解力が低下す
る瞬間が あることに気つ゛くようになる。
あなたは二十四時間、同じままでいるわけではない。
あなたは絶えず変化し、流動している。
師が話しつつ゛けなければならないのはそのためだ。
いつがあなたにとってふさわしい 瞬間なのかは誰にもわからないから、 師は
どこまでもくり返してゆく。
正しい瞬間がやって来れば、 必ず変容が起こる。
一瞬でもハートを射ることができれば、 あなたはそれからはまったくの別人
になる。
もう二度と同じ人間にはもどらない。
 呂祖は話しつつ゛ける……  私たちは、次第にこの美しい書物『黄金の華
の秘密』の終わりに近つ゛いてきている。
 彼はまたしてもくり返す――まだはっきりつかめないなら……  彼はあらゆ
ることがらをはっきりとさせたが…… まだはっきりつかめないなら、仏教徒の
三つの観想―― 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん―― を使って説き
明かしてみよう。
明晰さとは何だろう?
明晰さとは雑念がない心の状態をいう。
雑念は空に浮かぶ雲のようだ。
空が雲でいっぱいになっていたら、太陽を見ることはできない。
あなたの空に、あなたの内なる大空に、あなたの意識に雲がかかっていないと
き、明晰さが生まれる。
いいかね、明晰さとは頭が切れることではない。
頭が切れる者たちは、明晰な人々ではない。
頭の回転を早くさせることは簡単だ。
頭が切れるというのは、抜け目なく立ちまわるということに他ならず、ずる賢
さをましな言葉で言い換えただけのことだ。
頭が切れる者たちはずる賢い人々ではあっても、明晰な人々ではない。
いいかね、理知的であることは聡明であるということではない。
理知的であることはやさしい。
情報を集めればいいし、知識を習得すればいい、そうすれば、すばらしい知識
人、学者、パンディットになることができる――だが、そんなものは明晰さで
はないし、そんなものは聡明さではない。
聡明さというのはそれとはまったく逆のものだ。
頭のなかを知識がうごめいていないとき、内なる空に一片の雲もよぎっていな
いとき、何の計算もなく、何の狡猾さもなく、何のずる賢さもないとき、まっ
たく何も考えず、ただあるものをすべて映しだす鏡のようになっているとき――
それが明晰さだ。
明晰さとは鏡のような質をいう。
そして明晰になることが神に直面することだ。
神を知識で知ることはできない、神は明晰さによって知られる。
神は利口な頭や、小賢しい知恵によって知られるのではなく、天真爛漫なここ
ろによって知られる。
天真爛漫であることが明晰さだ。
イエスが「幼子のようにならないかぎり、私の王国に入ることはできない」
と言うのはそのためだ。
彼は何を言おうとしているのだろう?
彼はただこう言おうとしている――その内なる空がまだ雲に覆われていない、その鏡がまだほこりで汚れていない、その
知覚が一点の曇りもなく澄みきっている幼い子どものように清らかにならない
かぎり……。
彼はものをあるがままに見ることができる。
彼はそれをゆがめないし、ゆがめることで利を得ようとはしない。
彼は投影せずに、どんな状況もすべてありのままに見る。
彼は受動的な鏡になっている――それが明晰さだ。
(p509)

まだはっきりつかめないなら、仏教徒の三つの観想―― 空観くうがん、仮観け
かん、中観ちゅうがん―― を使って説き明かしてみよう。
この仏教徒の三つの観想は、最も優れた瞑想の方便のひとつだ。
いいかね、それは方便であって、哲学ではない。
それを哲学ととらえてしまうと、要点を丸ごと見逃すことになる。
それは起こった。
何世紀にもわたって、仏教哲学に関する様々な大論文が書かれてきたが、それ
は愚にもつかないたわごとだ。
なぜなら、仏陀は哲学者ではないからだ。
彼はいかなる哲学も教えなかった。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

539鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/13(月) 23:02:27 ID:1d4drIFg0
明晰とは気付いていることということもできるじゃろう。
知識とは記憶であり、記憶に頼れば今ここにあるものごとにも気付かないのじゃ。
常に注意深く心の働きに気付いているようにすれば観察も容易になるのじゃ。
自分を認識する微妙な心の働きにも気付くようになるのじゃ。

540避難民のマジレスさん:2019/05/14(火) 03:12:23 ID:LC3de7YgO
>>538

黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)

実際、彼は反哲学的な姿勢を強く取った。
仏陀が町を訪れるときは、必ず弟子たちが先に町に行って、「哲学的な質問を
仏陀にしないでください」と触れてまわるのが慣例になっていた。
仏陀は十一の質問のリストを用意していた。
その十一の質問のなかにすべての哲学が含まれていた――神について、天地創
造について、輪廻転生について、死後の生について等々。
この十一の質問のなかには、ありうるすべての哲学が含まれていた。
その十一の質問のリストを見れば、どんな質問もできなくなる。
そのリストが町中に伝えられた。
「仏陀は哲学者ではありません。形而上学者ではありません。思想家ではあり
ません!だから、こういった質問は仏陀にしないでください。彼は哲学者では
なく、医者としてここに来たのです。目が見えなければ、薬を調合しますし、
耳が聞こえなければ、手術をします」
仏陀は「私は医者だ」と何度もくり返し言っていたが、 彼の名のもとに壮大な
哲学が生まれ、 彼が方便として用いた言葉が 哲学的な教義になってしまった。
例えば、空くう――"すべては空である"―― これが根本的な原理であると主張
する仏教の教派がいくつかある。
それは方便にすぎない。
それは客観的事物については何も言っておらず、 人間の心マインドについてあ
ることを言っているだけだ。
それはあなたが明晰になるのを助ける、 ただそれだけのことだ。
仏陀の関心は客観的な事物ではなく、 あなたの明晰さにある。
彼は「明晰であれば、存在の実相がわかる」と言う。
だとしたら、客観的な事物 について語ってみてもしかたがない。
まったく何の益にもならない。
それは光や色や虹や花のことを 盲人に語ってみるようなものだ。
それはまったく馬鹿げている。
盲人に昇る太陽のことは伝えられない。
盲人に銀色に輝く月の光のことは伝えられない。
盲人に樹々の緑のことは伝えられない。
盲人にとって「緑」は何の意味もなさないからだ。
言葉は聞こえてくる―― あなたが「神」という言葉を耳にするのと同じよう
に、 盲人は「緑」という言葉を耳にする。
あなたは理解しないし、盲人も理解しない。
その言葉を何度も何度も何度も聞いているからといって、 自分は神が何である
かを理解しているなどといった馬鹿な考えを抱いてはいけない。
神を理解するためには 神を目で見なければならない。
それ以外に方法はない。
緑を理解するためには目で 緑を見なければならない。
それ以外に方法はない。
ラーマクリシュナはよく語っていた…… ある盲目の男が友人に招かれた。
彼らはキル――おいしい乳製品―― を用意した。
盲人はキルが大好きだったので、「これはいったい どんなものですか、どんな
見てくれをしているのですか?」と尋ねた。
盲人の隣に哲学の大家が坐っていたが、哲学者のつねとして、 教えたり、理屈
をこねたりする機会を逃すはずがない。
彼はただちに 盲人に、キルが何でできていて、どんなふうに見えるか話しはじ
めた。
彼が「それは真っ白だ」と言うと、盲人は尋ねた。
「待ってください!私には何のことだかさっぱりわかりません。"真っ白" とい
うのはどういうものですか?すみませんが、それを説明してはくれませんか?」
哲学者にはありがちなことだが、彼は相手が盲人であることに気つ゛かないま
ま、 "真っ白"がどういうものであるか説明しはじめた。
彼は言った。「白鳥や白鷺しらさぎ を見たことがあるかね。そう、キルは真っ
白な白鷺や、白鳥や、白い花にそっくりだ」
「鷺さぎですって?」と気の毒な盲人は言った。「ますますわけがわからなく
なってきましたよ。
私には白が何なのかわからないのに、またややこしくなってきた。
その鷺というのは何ですか?私は一度も見たことがないのです」
まだ相手の目が見えないことに気つ゛いていないので、 哲学者の言うことはす
べて的はずれなものになってしまった。 彼は白鷺がどういうものかを説明しは
じめた。彼はここでひとつ工夫をこらし、 盲人に手を差しだして、それに触る
ように勧め、こう言った。
「いいかい、鷺の首は、この曲げた私の手のようになっているんだよ」
すると盲人は楽しそうに笑い、大喜びをした。彼は心の底から感謝して 哲学者
に言った。
「これでキルが何だかわかりましたよ―― 曲げた手のようなものなんですね。
わかりました。どうもありがとう」
哲学者はここで自分が何をしでかしたのかに気つ゛いた。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

541鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/14(火) 22:56:11 ID:1d4drIFg0
全てが空であるとは法則ではないのじゃ。
客観的な事実でもないのじゃ。
ただ修行のための観念なのじゃ。
他の一切の観念を捨てるための、観念を滅するための観念なのじゃ。

542避難民のマジレスさん:2019/05/15(水) 03:18:48 ID:LC3de7YgO
>>540
黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)

白さを盲人に説明することはできない。
そのすべはまったくない。
だが、彼を助けることはできるし、彼の目を治療することはできる。
彼を眼科医のモディ先生のもとに送ればいい――彼はときどきここへやって来
る。
盲人には手術が必要だ。
目が見えるようになれば、説明はいらなくなる。
白がどういうものか、緑がどういうものか自分でわかるようになる ――神もそ
うだし、天地万物もそうだ。
だから、いいかね、まず第一に、これら ――空観、仮観、中観――は方便に
すぎない。
彼はただ「これは方便のひとつだ」と言っているだけだ。
物語をもうひとつ……これではっきりしてくるだろう。
ある男が街から帰ってきたが、ふと見ると、家が火事になっていた。
子どもたち、幼い子どもたちは家のなかで遊んでいる。
怖くてなかに入れない ので、彼は外から大声でどなった。
彼は大きな声で「みんな出ておいで!火事だぞ」 と叫ぶ。
だが、子どもたちは遊びに夢中になっていて耳を貸そうとしない。
そこで男は方便を思いつき、大声で 「聞こえるかい?おまえたちに街でたく
さんおもちゃを買ってきたぞ!」と叫ぶ。
すると子どもたちは全員駆けだしてきた。
男はおもちゃを買ってきてはいなかったが、 子どもたちは「街へ行くのだった
ら、おもちゃを買ってきてね」と頼んだのだった。
外に出て、おもちゃがないのを知って、子どもたちは「おもちゃはどこにある
の?」と尋ねた。
男は笑いだして言った。「おまえたちを火に包まれた家から連れだすために嘘
をついたんだよ。おもちゃは明日、買ってきてあげるよ」
これが方便だ。
いいかね、 方便は真実でもないし虚偽でもない。
方便は役に立つか役に立たないかであって、 真実か虚偽かというものではけっ
してない。
「真偽」という言葉は方便には当てはまらない。
ここで行なわれている瞑想はすべて 方便であって、真実でもなければ、虚偽
でもない。
それらは役に立つか役に立たないか、 必ずそのどちらかであり、真偽がとり
ざたされる余地はない。
火事になっている家から出てこられるように、 私はあなたがたにおもちゃを与
えている。
外に出たら、あなたがたにもわかる。
あの子どもたちでさえ理解した。
家が燃えているのを見たとたんに、彼らは おもちゃのことはすっかり忘れてし
まい、 父親の愛情を理解した。
彼はこの子どもたちをこころから愛していた にちがいない。
だからこそ嘘をつくこともできた。
それは嘘だった。
あなたがたは驚くだろうが、 いつの時代にも禅師たちは言ってきた ――仏陀
は大嘘つきだ、と。
だが、仏陀の慈悲は 嘘をつけるほどに 深いものだった。
彼は方便を編み出した。
観想の対象となる三つのもの ――空と仮象と中心――これは方便だ。
"空"とは、外界にあるこのいっさいの世界、 客観的な世界は完全にからっぽで
あるということだ。
それを空であると見なしなさい。
「それは空だ」と観想すれば、驚くようなことが起こる。
「世界はいっさい空である」と見なしはじめると、 即座に多くのことがひとり
でに変わりはじめる。
あなたは貪欲でなくなる―― 事物が空であるなら貪欲になってもしかたがな
い。
あなたは野心的でなくなる―― 事物が空であるなら野心を抱いてもしかたが
ない。
大統領の椅子がまったくうつろなものである ことがわかれば、誰も興味をもた
なくなる。
あなたがそれに実体を与え過ぎ、必要以上に 現実に仕立てあげているために
、 野心が芽生えてくる。
お金がうつろなものである ことがわかれば、誰が気にかけるだろう?
それを使うのはいいが、金のことで 頭を悩ませる必要はない。
あなたを取り巻くこの世界はすべて空…… とめどなく姿かたちが移り変わって
ゆく夢のようなものだ と見なすようにするがいい。
グルジェフはよく弟子たちに 「通りを歩くときには、自分は 夢を見ているの
であり、傍らを通り過ぎてゆく人々は 夢の現れにすぎないし、店もすべて 夢な
のだと思い起こすがいい」 と言っていた。
そしてこれに三ヶ月間瞑想を つつ゛けると、それが起こりはじめる。
すさまじい爆発が起こる。
突然、あらゆるものがうつろになる。
店はそこにあり、人々は歩いているし、買物をしている。
確かにあなたの傍らを人々が通り過ぎてゆく。
表面的には何も変わらないが、突然、 見えるのはうつろな影だけになる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

543鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/15(水) 23:41:40 ID:1d4drIFg0
燃える家から子供達を救うために玩具を与えるという方便は法華経に記されているものじゃ。
全ての法は方便とも言えるじゃろう。
それは自らの本心をどこまでも観察する勇気と意欲がない者のための嘘であり、方法なのじゃ。
方便によって導かれて自分を見るまでに成長できる者は幸いなのじゃ。
それも仏陀の慈悲なのじゃ。

544避難民のマジレスさん:2019/05/16(木) 07:29:09 ID:LC3de7YgO
>>542
>>542
黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)

映画館に行けば、スクリーンの上にあるのは うつろな影にすぎないことはよく
わかっている のに、あなたはそのうつろな影にだまされてしまう。
映画館に坐っていると、実に様々な感情が通りすぎてゆく。
悲劇が起こると、あなたは泣きはじめる。
おそらく映画館が暗くしてあるのはそのためだ。
そうしなければ、あまりに愚かでばからしく見える。
もし誰かが――妻や友人がそばに坐っていて、あなたが 泣いているのに気つ゛
いたら、彼らは笑いだすだろう。
彼らは「どうしたんだい?あるのはからっぽのスクリーン だけで、他にはなに
もないじゃないか。映画がそこに映り、 白と黒が――あるいはカラーの映像が
――戯れているだけだよ。 みんな影さ」と言うだろう。
だが、あまりにも影に夢中になり過ぎて、 影に実体があるように見えはじめて
くる。
仏陀の方便はちょうどこの反対だ。
仏陀は言う ――これほど実体感があるように見える人々―― 彼らを夢であり、
空であると見なしなさい、と。
すると、いつの日か驚くようなことが起こる。
全世界が白いスクリーンになり、 影だけが通りすぎてゆく。
影だけが通りすぎてゆくとき、 あなたはみずからの内に大いなる 無執着が生
まれてくるのに気つ゛く。
あなたは超然として、遠く離れている。
そうなったら問題は何もない。
二つめは"仮象"だ。 あなたが「全世界は空であり、夢にすぎない」 と見なし
、瞑想し、絶えず観想していると、 第二の現象が起こりはじめる。
いいかね、それを夢と見なしても、 それだけで世界が消えてしまうわけでは
ない。
そういう錯覚に陥ってはいけない。
「世界は夢だと思いつつ゛けていれば、やがて世界は消えてしまう」 などど思
わないこと。
世界は消えはしない。
スクリーンに映る映画が影にすぎない ことはよくわかっていても、それでも
それはつつ゛いてゆく。
ただそう思うだけで、 それが消え去るわけではない。
映画館に坐って瞑想していると映画が消えてしまい、 他の者たちには見えても
自分には見えず、 ただ白いスクリーンだけがある、 などどいうことはありえな
い。
そんなことはけっしてない。
瞑想者にも映画は見えるが、 ただ見方が違う。
彼はそれが夢であることを知っている。
世界が消えるわけではない。
世界はありつつ゛けるが、それは 重要性を失い、実体をもたなくなってゆく。
それはまっすぐな棒を水のなかに入れるときのようなものだ。
水中に入ったとたんに、棒は曲がって見える。
取り出すと、もちろんどこも曲がっていない。
もう一度 水のなかに入れると、やはり曲がって見える。
そうなればそれが目の錯覚だったこと がはっきりわかる――棒は曲がって い
るように見えるだけで、曲がってはいない。
だが、いくら目の錯覚だとわかったとしても、 それで棒が曲がらずに見えるわ
けではない。
だから、まず最初、あなたは 「この世界は空である」と瞑想する。
すると、つつ゛いて第二のことがらが生じてくる―― それでも世界はありつ
つ゛けるが、 もはやそれはまぼろしだ。 もはやそれには実体がなく、 夢と同じものからできている。
最初の無意識な知覚の仕方では、 世界には堅固な実体があるように見えた
―― それはひじょうに客観的であり、 まざまざとそこにあった。
空に瞑想したあとも、 世界は依然としてそこにあるが、 もはや実体を失い
、 ただの想念マインドのゲーム にすぎないものになっている。
それは夢のようなものだ。
ヒンドゥー教徒たちが「世界は幻影マーヤだ」 と言うとき、彼らが言おうとし
ているのはそのことだ。
それは聖者の目から世界が消えてなくなるということではない。
それはたんにもうそこには価値がなくなったということだ。
それは無価値なものに、完全に無価値なものになってしまった。
そして三つめは"中心"だ。
世界がもはや実体感を失い、 客観的な世界が姿を消して、 主観的なまぼろし
になるとき、 あなたの内側に新しい体験が生まれてくる。
ここではじめて あ な た が実体をもつようになる。
通常、人は客観的な世界に みずからの実体を投影している。
それを外界から取りもどすと、 あなたが実体をもつようになる。
世界がありありとしていたら、 あなたの影はうすくなってゆく。
世界が現実感を失えば、 あなたの影が濃くなってゆく。
もう一度映画を使って説明してみよう。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

545鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/16(木) 22:58:27 ID:1d4drIFg0
全てを空と観想しても全ては目の前にあり続けるじゃろう。
全て消えてしまう訳は無いのじゃ。
生きている限り食べたり飲んだりしなければならないからのう。
それらが空でありながらあり続けるように見える仮の存在として観る工夫も必要になるのじゃ。

546避難民のマジレスさん:2019/05/16(木) 23:08:04 ID:LC3de7YgO
>>545
方便としての「空」を、後世、釈迦的緻密な分析方法であ、哲学的にしてしまったのでありますかね。
(´・(ェ)・`)つ

547避難民のマジレスさん:2019/05/16(木) 23:08:42 ID:LC3de7YgO
>>545
方便としての「空」を、後世、釈迦的緻密な分析方法であ、哲学的にしてしまったのでありますかね。
(´・(ェ)・`)つ

548避難民のマジレスさん:2019/05/16(木) 23:36:35 ID:LC3de7YgO
>>544
黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)

スクリーンの上を影が飛びかっているだけだ と気つ゛けば、突然、あなたは自
分がいることに気つ゛く。
その影はまやかしだが、 あなたは実在している。
影のなかに自分を見失って しまうと、あなたは現実感を失い、 自分があるこ
とをすっかり忘れてしまう。
夢のなかでは自分があることをすっかり忘れ、 夢が現実になっている。
あなたの現実は丸ごと 夢に食いつくされている。
夢は現実をすべて奪い去り、 うつろなあなただけが残される。
夢から現実を取りもどすと、 あなたがありありと存在するようになる。
あなたの内側に中心が生まれ、 あなたはひとつにまとまる。
これが「個性化」「結晶化」と呼ばれるものだ。
世界が現実のものになるか、 あなたが現実のものになるか、 そのどちらかだ
――その両方が 同時に現実のものになることはありえない。
それを覚えておきなさい。
その両方が同時に現実のもの になることはありえない。
それが風景の焦点ゲシュタルトを変えることだ。
世界から現実感を取りもどせば、 あなたがありありと存在しはじめる
――あなたは実存を達成する。
人々は二種類のタイプに大別することができる――
もつことに関心を寄せる人々と、 在ることに関心を寄せる人々に。
もつことに関心を寄せる人々は、 世界が実在することを――
もっと金をため、 もっと権力を手に入れ、 もっと名声を高め、信望を集める
ことを 信じている。
彼らは中身がからっぽの人々だ。
彼らは自分の中心を完全に失っている。
彼らは自分が誰であるのかを知らない。
真の自己は影になってしまっている。
そして別の種類の者たちは
――私は彼らを「宗教的な人々」と呼ぶ――
外界から現実を取りあげて、
それを元あった場所にもどす。
彼らは実体を獲得するようになる。
彼らは実存をもつようになる。
彼らはさらなる存在感をもつようになる。
より大きな存在感を発している人に出会うと、
人は必ずある種の磁力を感じる。
仏陀が無数の人々を引きつけたのは、
この実質をともなった存在のゆえだった。
それは目にすることができる。
政治権力を握っている者をのぞき込めば、
中身はからっぽであり、ただ藁わらだけが詰め込まれている。
金をたくさんためこみ、大したものをもっているつもりになっている者
――彼をのぞき込めば、
そこにはただ黒い穴が開いている。
貧しい男、乞食がその背後に隠れている。
実存をそなえた者は、
帝王の身なりをしていることもあるし、
乞食の身なりをしていることもある
――だが、彼はつねに帝王だ。
彼は仏陀のように托鉢をしているかもしれないし、
ジャナク王のように帝王の座についているかもしれない が、
どちらにしても違いはない。
彼は ど こ に い て も つねに帝王だ。
彼の王国は内側にあり、 彼には風格がともなっている。
彼はどうどうとしている!
あなたは存在していない。
あなたはものはもっているが、
実存をもってはいない。
そしてあなたはものを代用品として使っている。
ものをもてばもつほど、ますます 自分の存在を信じることができる。
渇望し、貪り、野望を抱くのはそのためだ。
もっともっとものを所有しようとするのは、それが 「俺はひとかどの人間なん
だ」と言って 自分をだます唯一の方法だからだ。
だが、実存をそなえている人は関心を抱かない。
もつことは彼のゲームではない。
それは彼が 世間を後にして、 世間を捨ててしまうという意味ではない。
世間を捨てるということは、その人がまだ 世間を生々しい現実であると考えて
いることに他ならない。
さもなければ、どうして捨てたりするだろう?
あなたは朝起きて、
「私は夢を捨てたんだ。王様になった夢を見ていたのに、私は王国を捨てたん
だぞ」
と大きな声で近所に触れまわったりはしない。
人々はあなたが狂ってしまったと思う だろう。
彼らは警察に通報するだろう。
彼らはあなたに精神科医のところへ行って、 心の治療を受けるようにと言うだ
ろう。
「君はおかしくなってしまったのかい? それが夢なら、いちいち捨てなくても
いいはずなのに」
仏陀が放棄したのは、 彼が夢のなかに生き、それには 堅固な実体があると考
えていたからだ。
彼は森のなかで光明を得た。
いいかね、放棄したとき、彼は無知だった。
世間を捨てる前に光明を得ていたら、 彼はけっして放棄などしなかっただろう。
捨てる意味などない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

549避難民のマジレスさん:2019/05/16(木) 23:46:54 ID:LC3de7YgO
>>544
> スクリーンの上を影が飛びかっているだけだ と気つ゛けば、突然、あなたは自
分がいることに気つ゛く。
> 夢は現実をすべて奪い去り、 うつろなあなただけが残される。
夢から現実を取りもどすと、 あなたがありありと存在するようになる。

←ここでの「あなた」、「自分」はマハラジやマハリシやパパジが言う「真我」でありますかね。
(´・(ェ)・`)つ

550鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/17(金) 23:35:14 ID:1d4drIFg0
>>546 そうじゃ、それは本来方便としての方法であり、実践のためのものなのじゃ。
 それを知らなければ空が実際のものと見まがう空見に陥るのじゃ。

>>549 そのようなものじゃ。
 認識できない認識主体なのじゃ。
 それがあるとき世界はないのじゃ。
 観念であるからのう。
 あることとして全てを観るのじゃ。

551避難民のマジレスさん:2019/05/18(土) 09:07:28 ID:LC3de7YgO
>>548
黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん

ジャナクは王として宮殿に暮らしているとき光明を得た。
だから彼はそれをけっして捨てなかった。
そんなことをしても意味がなかった。
クリシュナは一度も放棄しなかった。
そんなことをしても意味がなかった。
影にすぎないものを どうやって捨てるというのだろう?
仏陀が放棄し、マハヴィーラが放棄したのは、 彼らがまだ光明を得ていなかっ
たからだ。
私が言おうとするのは―― 人々は無知だったからこそ 世間を放棄したのだと
いうことだ。
仏陀でさえ、無知だったときには世間を放棄した。
光明を得ると、彼は世間にもどってきた。
もどってこざるをえなかった。
深く眠りこけ、自分たちが見ている夢が現実である と錯覚している者たちが大
勢いる ことを知っていたからだ。
彼はみんなを目覚めさせねばならなかった。
中心は、 外界から現実感を取りもどした ときにはじめて現れてくる。
あなたは みずからの現実を事物に与え、 みずからの現実を事物に注ぎ込んで
いる。
それは観察することができる―― 人々は事物との抜き差しならぬ情事にはま
っている。
彼らはみずからの魂を事物に注ぎ込み、 自分の正体をすっかり見失っている。
彼らは事物のなかに埋没してしまっている。
わが家にもどってくるがいい。 現実を取りもどすのだ。
事物はあなたが 現実感を与えた分だけ 現実になるのであり、それはあなたの
投影だ。
そうでなければ、それはからっぽの、 白いスクリーンにすぎないものになり
、 重要性を失って、それに溺れることも、 それを捨てるということもなくなる

どちらも的をはずれたものになる。
まず空観が三つの観想の最初にくる。
いっさいの事物は空であると見なされる。
次に仮観が行なわれる。すべてが空であることを知りながら、 事物を破棄せず
に、空の只なかで自分の仕事を行なってゆく。
よく聴きなさい。
なぜなら、世間で苦しみをなめている人々は、ほとんど必ず世間との交わりを
絶とうとしたり、
絶ってしまったりはじめるからだ――
まるで世間に問題があるかのように!
問題は世間にあるのではない。
問題は あ な た だ。
それにどこへ行こうと、
あなたは行く先々で問題を引き起こす。
あなたはみずからの影を投げかける。
世間を捨てることもできるが、
世間は白いスクリーンにすぎない。
が、映写機はあなたの内側にある。
どこに行っても、あなたはそこに、別の何かに自分のフィルムを投影しはじめ
る。
それは宮殿ではなく、粗末な小屋かもしれない――
だが、その小屋があなたの王国になる。
それは小屋ですらないかもしれない。
ヒマラヤをさすらっているとき、私はたくさんの人々に出会った。
あるとき私は三十年以上も洞窟で暮らしている聖者に――いわゆる聖者に出会
った。
私は二、三人の友人と一緒にいたが、その洞窟が気に入ったので、私たちはそ
の洞窟で一夜を過ごすことにした。
彼はひじょうに腹を立ててこう言った。
「どういうつもりかね?これは 私 の 洞窟だぞ!」
私は言った。
「でも、あなたは世間を放棄なさったのではありませんか?
この洞窟があなたのものだとは不思議ですね?」
彼は言った。
「とにかくこれは私のものだ。三十年も私はここで暮らしてきたんだ」
「あなたは三十回も生まれ変わり、ずっとここで暮らしてこられたかもしれま
せん。でも、放棄することの意味は何ですか?なぜあなたは妻を捨てたのです
か?なぜあなたは家を捨てたのですか?何が問題だったのですか?"私のものだ"
という考えが問題だったはずです。今やこの洞窟はあなたのものです。となる
と、その洞窟とともに問題が生じてきます。所有欲が洞窟に染みついてしまっ
ています」
どこへ行くかは問題ではない。
自分の生を変えることはそれほど簡単ではない。
あなたはみずからの知覚を、ものを見る視点ゲシュタルトを、実存そのものを
変えなければならない。

呂祖師は言った。

事物を破棄せずに、空の只なかで自分の仕事を行なってゆく。
すべては空であると知るが、人はみずからの仕事を行ないつつ゛けてゆく。
どこにも行く必要はない。
どこに行けるというのだろう?
この世界はいっさい空だ!
ヒマラヤはMGロードの店と同じくらいにからっぽだ。
そしてヒマラヤの樹々や動物はプーナの住民と同じくらい実体がない。

そのあいだには何の違いもない。
違いはあなたの中心、あなたの内なる実存に起こらねばならない。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

552避難民のマジレスさん:2019/05/18(土) 09:35:36 ID:LC3de7YgO
>>551
黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)

だが、事物を破棄しないとしても、それらに注意を注ぐこともない……
これがその変化だ――人は打ち壊すこともなく捨て去ることもなく、しかもそ
れらに注意を注ぐこともない。
人は注意を注ぐのを控えるようになる。
注意は餌だ。
そのようにしてあなたは事物に執着するようになる。
ある女性に魅了されると、あなたは何度でもその女性を見つめたくなる。
あなたは餌をやっている。
あなたは投影をしている。
あるものが気に入ると、あなたはそれに注意を払うようになる。
注意を払うことで、あなたはそれに執着するようになる。
注意を払うことが橋になって執着が生まれる。
何も捨てる必要はない。
ただ橋を壊せばいいだけだ。
事物に注意を払うことなく世間のなかで生きなさい。
虚空のなかを動いているかのように進んでゆきなさい。

――これが中観だ。
これができたら、あなたの内側に中心が生まれる。
あたかも世間のなかにいないかのように 世間で暮らすことができたら、 世間は
ただの夢にすぎないかのように 世間で暮らすことができたら、 突然、大いなる
エネルギーが―― 散逸していたエネルギーすべてが あなたの内部で結晶化する。
あなたはありとあらゆるやり方でエネルギーを散逸させてきた。
あなたは四方八方に漏らしている。
注目することで漏らしている。
あなたがもはや漏らさなくなり、 注意力がもはや不動のものとなり、 注意が
内側に集まり、 内側で蓄積され、 内側で結晶化するとき、 中心が生まれてく
る。
空観を実践しているときには、 万物を破棄しえないことを知りながら、 それ
らに気をとめないようにする。
人はこの夢がつつ゛いてゆかねばならないものであることを知っている。
この夢はまた美しいものでもある。
そこで思い煩うことなど何ひとつない。
捨て去らなくてもいい、打ち壊さなくてもいい、それと闘わなくてもいい。
あなたは自分の影と闘ったりはしない。
あなたはそれが影であることを知っている。
それは影であると知っているから、打ち壊したいとも思わない。
どこまでも後をついてくるから、けっしてあなたのもとを去らないから、それ
のことを心配しない。
あなたはそれが影であることを知っている。
この世間が影であることを知ると……実在の影であって実在そのものではなく、
湖に映る月であって月そのものではないと知ると、人は世間の只なかにあって
さえくつろぐようになる。
世間をまったく気にもとめずに、人はみずからの務めを果たし、みずからの仕
事をし、飄々ひょうひょうとしながら暮らしつつ゛けてゆく。

このようにして三つの観想はひとつになる。
そうなったら三つの観想はもはや三つではなく、それはただひとつの観想になる。
あなたは中心に収斂してゆき、中心を自覚するようになる。
グルジェフが「自己想起」と呼び、仏陀が「サマサティ」――留意――と呼び、
マハヴィーラが「ヴィヴェック」と呼んでいたのはこのことだ。
今やあなたはリアルではないものを見抜き、現実と非現実を識別している。
今やあなたは何が影であり、何が実物であるかを見抜いている。
あなたは実物の月を見たし、水に映る月影も見た……
だが影はつつ゛いてゆく!
影はそれが影であると気つ゛いたからといって消えてゆくものではない。
それはつつ゛いてゆく。
そして問題は何もない――それは美しい!
湖のほとりに坐って、月影を眺めていればいい――
それは美しいし、何の問題も生じてこない。
だが、あなたはそれが実在しないことを知っている。

だが、とどのつまりは空を体得することで力が得られる。
だが、覚えておきなさい――統合、結晶化は、ひとえに空を体得することから
生まれてくる。
それが瞑想の出発点になる。

それゆえに、空観を実践するときには、空は紛れもなく空であるが……
さあ、あなたがたはもう少し深く入ってゆかねばならない。
いっさいが空であると知ると、問題が生まれてくる。
あなたはその空を何かしっかりとした実体があるものだと見なしはじめるかも
しれない――それが問題だ。
というのも、頭マインドはいつも言葉にとらわれてしまうからだ。
『不思議の国のアリス』というすばらしい本のなかにこんな一節がある……
アリスが王様のもとへ到着すると、王様はラブレターが届くのを今か今かと待
ちわびていた。
彼は誰を見ても「使いの者に会わなかったかね?」と尋ねてまわる。
王様はアリスにも「こちらへ向かっている使いの者に会わなかったかね?」と
尋ねる。
アリスが「誰もいませんわ」と言うと、王様は彼女が"ダレモイナイ"という名
前の誰かに会ったのだと思い込む。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

553避難民のマジレスさん:2019/05/19(日) 00:00:58 ID:LC3de7YgO
>>552
黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)

王様は言う「おまえよりも足がのろいやつじゃ、"ダレモイナイ"は。でなけり
ゃとっくに着いておるはずじゃ。わしは何度も何度も同じ知らせを聞いておる。
たくさんの者がここに着いたが、みんな口をそろえて"ダレモイナイ"と言う。
なのにまだダレモイナイは到着していない!おまえよりも足がのろいやつじゃ
、ダレモイナイは」
当然アリスは「王様は何を言ってらっしゃるのだろう?私より足がのろい人は
誰もいないですって?」と考えて、こう言い返した。
「誰もいないわ、私よりも足が速い人」アリスは気分を害していた。
すると王様は言った。
「ダレモイナイは、おまえより足が速いのか?ではなぜそいつはまだ着かんの
じゃ?」
話がこんがらがったわけに気つ゛いたアリスは、
「王様、ダレモイナイなんて人は誰もいないんです」と言った。
すると王様は言った。「もちろんじゃ。ダレモイナイはダレモイナイに決まっ
ておる。だが、そいつはどこにおるのかね?」
こうして話は延々とつつ゛いていった。
空でさえものになってしまいかねない。
仏教哲学で起こったのはそれだ。
哲学者はあたかも空が神であるかのように、空が生の本質そのものであるかの
ように、空について語りはじめる。
彼らはあたかも無が何ものかであるかのように、無のことを語りはじめる。
無は言葉にすぎない。
自然のなかにはノーは存在していない。
ノーは人間が発明したものだ。
自然のなかでは、すべてがイエスだ。
自然のなかには、肯定的なものだけが存在している。
否定的なものは人間がこしらえたものだ。
例えば、この椅子はただの椅子だ。
自然のなかでは椅子は椅子でしかない――それがありのままの姿だ―― だが、
言葉では 「これはテーブルではない、これは馬ではない、これは人間ではない」
と言うことができる。
これらの言明はすべて正しい。
椅子はテーブルではないし、馬ではないし、人間ではないからだ。
だが、これらは否定的な言語表現にすぎない。
自然のなかでは椅子はただの椅子でしかない。
自然のなかに否定的なものはなく、 ただ肯定的なものだけがある。
だが、言語のなかには否定形が存在し、その否定形ゆえに大いなる哲学が生ま
れてきた。
無そのものがひとつの事物になってしまう。
不在がある種の存在であるかのように語られる。
だから、それに注意しなさい。
あなたに注意をうながすために、呂祖師は言う。
いいかね、空は紛れもなく空であるが、仮象も空であり…… 幻影(仮象)は少
なくとも 幻影としては実在する と考えはじめてはいけない。
幻影もまた空であり、 そこには何もない。
例えば縄を蛇だと錯覚するとしよう。
見ると蛇がそこにいるが、明かりをもってくると消えてしまう。
そうなると「蛇はどこへ消えたのだろう?蛇はどこからやって来たのだろう?」
という疑問が湧いてくる。
蛇は一度も現れたこともなければ、消え去りもしなかった。
それは存在しなかったのだ。
実のところ、縄はいつも縄だった。
それはあなたの錯覚だった。
あなたが蛇をつくりだし、それを投影した。
それは妄想マインドの産物 にすぎなかった。
いいかね、空は空であり、
仮象も空であり、
中心も空である。
これが仏陀のなす最大の貢献だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

554鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/19(日) 22:56:37 ID:1d4drIFg0
空とは法であるからそれに囚われてはいかんのじゃ。
それもまた悟りを得るためには捨ててしまうしかないのじゃ。
空をもったまま悟りにはいけないのじゃ。
彼岸に至れば捨て去るべき観念を滅するためのいかだでしかないのじゃ。

555避難民のマジレスさん:2019/05/19(日) 23:09:45 ID:LC3de7YgO
>>553
黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)

ヒンドゥー教徒たちは「世界はまぼろしだ」と言う。
ジャイナ教徒たちは「世界はまぼろしであり、心マインドもまぼろしである」と言う。
仏陀は「世界はまぼろしであり、心はまぼろしであり、中心もまぼろしである」
と言う。
彼の洞察力はとてつもない。
彼は言う――
見られるものが幻影だとしたら、どうして見る者が実在しえるだろう?
これは最も深遠なにゃはんニルヴァーナの言明だ――
夢がまぼろしだとしたら、その夢を見る者も幻影であり、踊りがまぼろしだと
したら、その踊り手もまた幻影だ。
彼は何を言おうとしているのだろう?
彼はこう言おうとしている――
まず世間を捨て、それから心マインドが紡ぎだす幻想を捨て、さらに中心とい
う、自己という考えも捨てなさい、と。
そうしなければ自我エゴが生き残る。
新しい名前で、巧妙な仕方で、自我が生き残る。
それもまた去らせなさい。
あらゆるものを去らせなさい。
ただ虚空、無だけをあらしめなさい。
その無のなかにすべてがある。
その完全な不在のなかに臨在がある。
仏陀はその臨在のことはけっして語らない。
彼は、それは身をもって知るべきものだと言う。
そのことは語るべきではない。
なぜなら、心は実に狡猾であり、臨在について語れば、それを渇望するように
なるからだ。
神について語れば、心はその神を手中におさめることを考えはじめる。
仏陀は神については何も語らないが、それは神が実在しないからではない――
覚者より他の誰が神の存在を知りうるというのだろう?
だが、彼がけっして語らないのにはある深いわけがある。
神について語ると、神を得たいという欲望を生みだしかねないからだ。
そして、もしそこに欲望があれば、あなたはけっして神に到りつくことがない。
欲望はすべて消えなければならない。
無欲の境地にあってはじめて神は到来する。

仮観を実践するには大きな力が必要である。
このとき仮象はあきらかに幻影であるが、 空も幻影であり、中心も幻影であ
る。
中観の道にあるときには、やはり 空の心像を生みだすのであるが……
これらの空の心像は助けにすぎない。
まず、世間からあなたを連れだすために、仏陀は「世界は空である」と言う。
すると幻影が真実になってしまう。
そこで仏陀は「幻影もまた空である」と言う。
すると中心が真実ということになる。
そこで仏陀は「中心もまた空である」と言う。
まったき沈黙のなかで、いっさいのものが跡形もなく消え失せる――
そのまったき沈黙のなかに祝福があり、神がある。

また仮観を実践するときも、 それを仮象と呼ばず、中心と呼ぶのである。
中心そのものについては別に説明する必要はないだろう。
いっさいのもの――世界、想念マインド、自己――が消え去ると、いったい何
が起こるのだろう?
呂祖師の言うとおりだ。彼は、別に説明する必要はないだろう、と言っている。
さらに何かを言うことは危険だからだ。
さらに何かを言うと、あなたに欲望の対象を与えることになる。
そして欲望が生まれると、全世界がなだれ込んでくる。
これはすならしい方便だ。
それに瞑想することができたら、あなたは無限なるもの、永遠なるもの、時を
越えたもの、真実の生を得るだろう。

(´・(ェ)・`)
(おわり)

556避難民のマジレスさん:2019/05/19(日) 23:13:22 ID:LC3de7YgO
>>555
oshoの言う(神の)臨済とは、アートマン、ブラフマンのことでありますかね?
(´・(ェ)・`)つ

557鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/20(月) 23:07:07 ID:1d4drIFg0
↑そのように捉えて善いのじゃ。
それは本来言葉で語れるものではなく、自ら追求するものであるからのう。
どこまでも追求して行けば、悟りも得られて真実の意味を知るのじゃ。
語ることの出来ないものを伝えるには、法によって体現させるしかないのじゃ。

558避難民のマジレスさん:2019/05/21(火) 08:54:22 ID:LC3de7YgO
>>555
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十五話 かわず飛び込む水の音

タオ、分かたれていないもの、大いなる一者は、 相反する二つの存在原理――
闇と光、陰と陽を生みだす。
陰からは受容的な女性原理が現れ、陽からは創造的な男性原理が現れる。
陰からは生命が現れ、陽からは受容的な本性が現れる。
ひとりひとりの人間のなかには胚胞があるが、それは 受胎の瞬間に命と性、生
命と本性に分かれる。
個々の人間の肉体のなかで、それらは二つの極 ――アニマとアニムスによって
表される。
この二つは生涯にわたって争い、主導権を求めて闘いをくり広げる。

生命エネルギーが下方に向かって流れれば、すなわち、何の障害もなく 外界に
向かって流れ出せば、アニマがアニムスに打ち勝ち、黄金の華は開かない。
生命エネルギーが逆流のプロセスによって導かれたら、すなわち 蓄えられ、散
らされずに上昇させられたなら、アニムスが勝利をおさめている。

生涯を通じて生命エネルギーを蓄える道を守る者は、 黄金の華の境地に到達す
るだろう。
そこで自己は対立物の葛藤から解き放たれ、再び タオ、分かたれていないもの
、大いなる一者とひとつになる。

 古池やかわず飛び込む水の音
これは松尾芭蕉の最も有名な俳句のひとつだ。
この俳句には、目覚めた人々だけが気つ゛くことのできる格別の味わいがある。
その美はたんに審美的なものではなく実存的なものだ。
そのかぐわしい香りは悟りの境地から放たれる。
タオとはひとえに何の但し書きもない、形容もつかない、ありのままの姿を指
している。
タオとはただ"そのようにある"ということだ。
 古池やかわず飛び込む水の音
俳句はふつうの詩ではない。
ふつうの詩は空想から生まれる。
ふつうの詩は想いマインドの産物だ。
俳句はただありのままの姿を映しだす。
意識は鏡になって、目の前にあるものを映しだす。
鏡は映るものに影響されない。
その前を醜い人が通りすぎても、鏡が醜くなることはない、
鏡には何の変化も起こらない。
美しい人が通りすぎても、鏡が美しくなることはない。
映す相手が誰もいなくても、鏡は前と同じで変わらない。
映しても映さなくても、善いものを映しても悪いものを映しても、鏡は清らか
なままだ。
目覚めた人の意識もそうだ。
芭蕉は仏頂禅師の弟子だった。
このとてつもなく美しい俳句が生まれたとき、芭蕉は古池のほとりにある小さ
な庵で暮らしていた。
ある日のこと、にわか雨があがると、仏頂禅師は芭蕉のもとを訪れ、
「近頃のおまえの見解けんげはどうかな?」と尋ねた。
いいかね、師は「どんな知識を身につけたかな?」
と尋ねるのではなく、「見解はどうかな?」と尋ねている。
見解けんげというのは知識とはまったく別のものだ。
知識は借り物だが、見解は自分自身のものだ。
知識は外からくるが、見解は内側から生まれてくる。
知識は手垢にまみれているので醜い。そして
知識はけっしてあなたの実存の一部にはなりえない。
それはいつまでたっても異質なもの、よそよそしいものであり、
あなたのなかに根をおろせない。
見解はあなたのなかから育ってくる。
それはあなた自身の開花だ。
それはまぎれもなくあなたのものであり、
それゆえに美をそなえ、解き放つ力を宿している。
真理はけっして誰からも
借りることができない。そして
借りてきた真理はもはや真理ではない。
借りてきた真理はすでに虚偽だ。
語られるやいなや、その真理はたちまち嘘になる。
真理とは体験されるべきものであり、聞いたり、読んだりするものではない。
真理はたんにあなたが蓄えてきたものの一部に、あなたの記憶の一部になるもの
ではない。
真理は実存的なものでなければならない。
あなたの実存の毛穴のひとつひとつがそれを感じなければならない。
そう、それはひとつの感性フィーリングでなければならない。
ひと息ひと息が真理で満たされていなければならない。
それはあなたのなかで脈動し、あなたのなかを血のように巡らなければならない。
真理が体得されると、あなたはそれになる。
だから仏頂は弟子に向かって、
「芭蕉、近頃のおまえの見解けんげはどうかな?」と尋ねた。
そしてこの"近頃の"という美しい言葉を忘れてはいけない。
真理はつねに成長している。
真理は動いている。
それは静的ではなく、ピチピチと躍動している。
それは踊りだ。
それはそびえゆく樹々、流れゆく川、まわりつつ゛ける星々のようだ。
真理はけっしていかなる意味でも静的な現象ではない。
それは停滞したものではなく、実にダイナミックに、勢いよく動きまわっている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

559鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/22(水) 00:18:47 ID:1d4drIFg0
オショーは芭蕉が好きなのじゃ。
禅味のある俳句を作ったからなのじゃ。
俳句は悟りの境地をも表す三行詩という解釈で世界に広まっているのじゃ。
外国人の俳句集も出版されているのじゃ。

560避難民のマジレスさん:2019/05/22(水) 00:34:09 ID:LC3de7YgO
>>558
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十五話 かわず飛び込む水の音(つづき)

いきいきとしているためには動きつつ゛けていなければならない。
死だけが静止し、死だけがよどんでいる。
だから死んでいる人々もうわべは生きているようにみえるかもしれないが、
真理がもはや成長していなければ、彼らは死んでいる。
彼らの魂はもはや成長していない。
真理とは観念ではなく、あなたの実存そのもの、あなたの魂そのものだ。
それゆえに師は「 近 頃 の おまえの見解けんげはどうかな?」と尋ねた。
彼は過去のことを尋ねているのではない。
知識はつねに過去に関わり、空想はつねに未来に関わっている。
彼は現在のことを尋ねている、 現に目の前にあるもののことを尋ねている。
芭蕉は答えた。
 雨過ぎて青苔を流す つい先程まで雨が降っていた。
雨はあがり、青い苔がみずみずしく輝いている。
悪くはないが、まだ充分ではない。
それはすでに過ぎ去ったことであり、 現に目の前にあるもののことではない。
それはすでに記憶になっていて、 今まさに体験していることではない。
仏頂は満足しなかった――悪い答えではなかったが、まだまだだった。
そして絶妙な答えが出るまで、 意にピタリとかなった答えが出るまで、 師は
けっして満足しない
―― 芭蕉のように大きな力量を秘めた 人物を前にしてはなおさらだ。
もはや芭蕉の師、仏頂のことを知る者はいない。
彼はただ芭蕉のおかげで知られている。
この弟子には無限の力が秘められていた。
師はそうたやすく満足することはできない。
それを覚えておきなさい!
器が大きければ大きいほど、 あなたには困難な課題ワークが課せられる。
師はあなたにきびしい態度を取るだろう。
彼はあなたを少しも容赦しないだろう。
芭蕉ほどの器をそなえていない者の答えならばそれでもいい。
師はうなずいて同意したかもしれない――が、芭蕉はだめだ。
数分の間があいても、ずれていることに変わりはない。
すでに雨はあがり、空は晴れ、太陽が顔をのぞかせ、その光を 古池や、庵いお
りや、あたり一面に投げかけている。
師は「まだ言葉が足りない!」と言った。
師が「まだ言葉が足りない!」と言うのは、 もっと言葉を加えなさいという意
味ではない。
彼は言葉の数が足りないと言っているのではない。
彼はこう言っている―― もっと深みのあることを言いなさい、
もっと力強いことを言いなさい、
もっと実存的なことを言いなさい、
もっと内実のあることを言いなさい!
(p533)
まさにそのとき、 蛙が池にポチャンと飛び込む音が聞こえた。
彼はこう詠んだ。
 かわず飛び込む水の音 さあ、これがタオだ――
現に目の前で、あるがままに、息つ゛き、脈動している、 まさにこの瞬間。
タオは過去を知らず、未来を知らない。
タオはただひとつの時制しか知らない――それは現在だ。
タオは 今 こ こ しか知らない。
みずからの思考マインドを消えてゆかせれば、 過去もないし、未来もない。
過去と未来は思考の産物だ。
実際に存在するのは現在だけだ。
そして過去もなく、未来もないとしたら、
どうしてそれを「現在」と呼べるだろう?
現在は過去や未来と照らし合わせてはじめて意味をもつ。
現在は過去と未来のあいだにはさまれている。
過去と未来を取り去れば、現在もまた消え失せる。
それがタオの瞬間だ――
時間が消え、人はありありと その場にいて、完全に今ここにいて、 過去の亡
霊のあいだをさまようこともなく、 まだ生まれていない未来の心像のなかをさ
まようこともない。
これが<光明エンライトメント>の瞬間だ――
時間が消え、人はただただここにあって、 他のどこにもいない。
そして時間が存在しないときには、 思考マインドも存在しない。
思考と時間は同義語だ。 思考の量が増せば増すほど、人は 時間を意識するよ
うになる。
だから西洋の国々では時間をひじょうに意識するようになった。
それは思考を発達させてきたからだ。
山や密林のなかに住んでいる原始的な人々のところへ行ってみるといい。
原住民のところへ行くと、そこには時間の観念がない。
それは 考える力マインドがまだ発達していないからだ。
だが、それが再び起こる――理解によって、 過去への郷愁と未来への 夢想を
すべて落とすと、 時間は再び消える。
そして時間が消えるとともに、
突然、思考はどこにも見当たらなくなる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

561鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/22(水) 22:55:31 ID:1d4drIFg0
今あるものを観て、過去を推測するだけではまだ時間があるのじゃ。
今この瞬間を切り取ってこそ、今ここにあると言えるのじゃ。
今ここにあるものをありのままに認め、現しだすことこそ真の芸術なのじゃ。
かつて誰もなしえなかった悟りの芸術なのじゃ。

562避難民のマジレスさん:2019/05/23(木) 02:27:53 ID:LC3de7YgO
>>560
黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十五話 かわず飛び込む水の音(つづき)

そして思考が消えると、静けさが訪れる。
その静けさのなかで、彼方なるものが地上に浸透してくる。
その静けさのなかで、未知なるものがあなたのなかへ降りてくる。
その静けさのなかで、神との出会いが起こり、
その静けさのなかで、感謝の祈り、祝福が湧き起こる。
その静けさのなかに、神の王国が出現する。
 かわず飛び込む水の音 これがタオの言辞だ。
これがタオだ――素朴で、純粋で、まさにあらわだ。
この答えを聞いて、師はこのうえもなく喜んだ。
弟子がわが家に帰り着くと、 師はいつでも歓喜する。
師の喜びには限りがなく、まるで 自分が再び光明を得たかのようだ!
すでに欠けるところのない師の実存に、 さらに満ち足りたものが加えられる。
師につけ加えねばならないものは何もないが、 弟子が覚醒へと燃えあがり、炎
と化すたびに、 師はまるで自分が光明を得たかのように感じる。
師はこのうえもなく喜んだが、 まさにその師の喜びが機縁となって、 芭蕉は
光明を得た。
師の嬉しそうな顔を、 師が放つ喜びのオーラを、 師がうなずいて認めるさま
を――あるいは 何も言わずに、その静けさを天の恵みのように 弟子の上に注い
でくれるのを見て、 芭蕉は光明を得た!
なんとすばらしい光明の瞬間だろう!
これまで無数の人々が光明を得てきたが、 芭蕉のような仕方で光明を得た人
は これまでになかった。
師が喜んでいたので、まさにその 師の喜びが芭蕉の胸を剣のように貫いた。
花々が彼の上に降り注いだ。
師は微笑んでいたにちがいなちがいないからだ……
師は喜びと祝福に満ちた目で芭蕉を見つめていただろう、 きっとこれまで聴い
たこともないような音楽が聴こえていたにちがいない。
もしかすると、仏頂は踊りだすか、 それに類する気違いじみたことをやった
にちがいない。
弟子が光明を得る というのは些細なことではないからだ。
のちに、芭蕉はこの俳句を ダイヤモンドのように磨きあげていった。
彼は生涯をかけてそれを磨きあげていった ――なぜなら、これは希有な現象だ
からだ。
この小さな俳句……
 古池やかわず飛び込む水の音
芭蕉自身の光明のプロセス を誘発したのはこれだった。
彼はそれをダイヤモンドのように磨きあげていった。
彼はそれをカットして、さらにもっと深みを加えていった。
彼は"古池"を加えた。
最初の句はこれだけだった……
 かわず飛び込む水の音
のちに彼は"古池"をつけ加えた。
私の感じでは、古池が自分も加えて くれるようにと主張したにちがいない。
古池も加えられてしかるべきだった――
古池がなければ蛙もいなかっただろうし、その蛙が 飛び込むことも、水の音が
することもなかっただろう。
芭蕉は古池に多くのものを負っている。
彼はそれを加えた。
そこで俳句はこうなった……
 古池やかわず飛び込む水の音
さらにそののち、彼は「水の」という言葉を落とした。
そうなると俳句は前のように完全な形ではなくなるが、
前よりももっと完成度の高いものになった。
それはこうだ……
 古池やかわず飛び込む、音
それは前ほど完全な形ではなくなった が、より完成度の高いものになった。
より完成度の高いものになったということで、 私は何を言おうとしているのだ
ろう?
今やそれは成長しつつある現象になり、 ピリオドが打たれることはないとい
うことだ。
前のものには終止符が打たれ、仕上げがすんでいた。
それには何も加えることができなかった。
瞑想の機縁となるものは何も残されていなかった。
だが、"音"だけになると、扉が開かれてくる。
もはや終止符は打たれていない。
それはひとつの探求になる。
だから、それは完全な形は失った が、より完成度の高いものになった。
今やそれはまったく非の打ちどころがない。
成長しつつあるという意味において非の打ちどころがない。
今やそれは成長しつつある樹であり、予測することができない。
今やひとりひとりがそれに瞑想しなければならない。
そしてこれは芭蕉に従おうとする探求者 にとってすばらしい瞑想のひとつに
なった。
それは前よりもいちだんと美しいものになった。
いつも覚えておきなさい、 完全なもの、完全無欠なものは、何かを失ってし
まう ――それは死んだものになる。
優れた画家たちはみなこのことを知っている。
そして最も優れた絵というのは 少し未完のままで残されていて、 最後の一筆
は加えられていない。
最も優れた詩というのは 未完のままで残されている。
だから扉が開いたままになっており、 あなたはそのなかに入ってゆくことが
できる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

563鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/23(木) 23:09:44 ID:1d4drIFg0
老子の道徳経にもタオとはあまりにも微妙で捉えられず、見ることも聞くことも出来ないというのじゃ。
名前も付けられないそれに仮に名づけてタオというのじゃ。
それを求めるために心も可能な限り鎮めなければならないのじゃ。
極限まで静まった心にタオは芽生えてくるのじゃ。

564避難民のマジレスさん:2019/05/24(金) 00:08:50 ID:LC3de7YgO
>>562
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十五話 かわず飛び込む水の音(つづき)

あなたの 実存は未完の詩と親しく交流することができ、 実存がそれを仕上げ
ることになる。
それはあなたの 実存のなかで完結する。
だから、それはこのようになった……
 古池やかわず飛び込む、音
さらにそののちに、彼はまた言葉 を落とし、とうとうこうなった……
 古池やかわず飛び込む、ポチャン!
さあ、今や絶頂に近つ゛きつつある。
ただの"ポチャン!"。
このほうが真実に近い…… カエルにとって、 池にとって、 実在にとって
より真実だ。
実在は"ポチャン!"しか知らない。
あなたはただその場に立ちつくし、 そして驚異の念に打たれ、 探求し、瞑想
をはじめる。
誰かが芭蕉に尋ねた。
「あなたはどうして『水の』という語句を落とし、 最後には『音』という言葉
まで落としてしまったのですか?」
芭蕉は言った。
「どんな音がするのか耳を澄ましてほしいのだ。私は言いたくない。
 どんな音がするのかあなたの耳で聴いてほしい」
 古池やかわず飛び込む、ポチャン!
あなたはまったく新しい瞑想的な空間に放り出される。
突然、古池の姿がくっきりと目に浮かんでくる。
それは目の前にあるかのようにありありと感じられる。
そしてカエルが飛び込む。
それは過去にいるカエルではない……ポチャン!
あなたはその音を再び聴くことができる。
それは現実そのものになる。
これは偉大な芸術であり、芸術家が体験したものを、受容的であり、みずから
を開き、いつでも冒険に出かける 用意ができている人のなかに再び再現させる
ことができる。
ブッダたちはみなこの方法を取る。
彼らの言明は「瞑想」と呼ばれるプロセスを あなたのなかに引き起こすための
機縁にすぎない。
これがタオのやり方だ―― あなたをありのままの現実に連れもどすこと。
これは私のやり方でもある―― あなたが瞬間とぴったりひとつになるのを助
けること。
まさに こ の 瞬間! こ れ がそれだ!
タオは教義ではない。
それは気つ゛きに到るための独自な道だ。
それは目覚めの道、光明の道、わが家へ帰るための道だ。
タオとは単に道を意味する。
そしていいかね、 それはふつうの意味での道を指しているのではない。
「道」という言葉を耳にするたびに、 人はどこか遠くにある目的地のことを、
その道が到り着く先を考えはじめる。
いいや、タオとは道のことだが、目的地とは関係がない。
では、それは何を意味しているのだろう?
それは"ものごとのありよう"を意味している。
それはたんにものごとのありよう、すでにあるもの、 そうであるところのもの
を意味している。
達成しなければならないものなど何もない。
すべてはあなたの上に降り注いでいる。
ただ今ここにあって、祝うがいい。
私にとって宗教とは祝祭だ。
だが、タオのような単純シンプルな現象を好まない人々がいる。
彼らの自我エゴは手ごたえがないので物足りなく思う。
彼らはいつもけわしい道に興味をもつ。
彼らはいつも困難なものに興味をもつ。
困難なことがなかったら、 彼らはそれをつくりだす。
彼らはものごとをあっさり行なうことができない。
彼らは 単純であることが苦手だが、 単純であることが、神のなかにある唯一
の道だ。
神とは単純さ、天真爛漫さだ。
神はバラの茂みやマンゴーの林から聞えてくるカッコウの鳴き声と同じくらい
単純だ。
神は少女たちのくすくす笑いと同じくらい単純だ。
神は樹から舞い落ちる木の葉と同じくらい単純だ。
神は松の老木を吹き抜けてゆく風と同じくらい単純だ。
だが、神がそのように単純であることを好まない人々がいる。
そういった人々が神学をつくりだす。
そういった人々が神にまつわる難解で、抽象的な空論をつくりだし、 ものごと
全体をほとんど理解できないようなむずかしいものにしてしまう。
だが、神はひじょうに単純だ。
 古池やかわず飛び込む、ポチャン!
そう、神はそれに似ている…… それをしっかりこころに刻んでおきなさい。
あなたの自我が策を弄しはじめるからだ。
人々はそのようにしてタオの単純な道を取り逃がしている。
キリスト教には実に多くの信者がいる。
仏教には数多くの信者がいる。
イスラム教には数多くの信者がいる。
だが、タオは今だに教団ではない。
タオが教団だったことはないし、組織になったことは一度もない。
個人が存在し、 個人がそれに従い、 個人がそれを通して成就して きたがそれ
はけっして大衆の道にはならなかった。
なぜか?
それはタオが 自我の流儀を落とす用意ができている者たち、 子どものように
単純で、天真爛漫になることができる者たち だけに開かれているからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

565鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/24(金) 23:32:56 ID:1d4drIFg0
老子や荘子の教えは道家と呼ばれるのじゃ。
道教とは違うものじゃ。
道教がそれを勝手に取り入れて老子や荘子を仙人の一人としているだけなのじゃ。
老荘の教えは常にそれを理解できる者だけのものなのじゃ。

566避難民のマジレスさん:2019/05/24(金) 23:38:02 ID:LC3de7YgO
>>565
鬼和尚、ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ

567避難民のマジレスさん:2019/05/25(土) 00:03:13 ID:LC3de7YgO
>>564
59黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十五話 かわず飛び込む水の音(つづき)

問題のむずかしい面だけを見ようとする者たちがいる。
彼らの目には単純な解決方法は映らないし、いつも 最も複雑なやり方を考えな
ければならない。
それで思い出したが、ある若者がニューポートにある高級な会員制のカントリ
ー クラブに入会を申し込んでいた。
ごく控えめで風采のあがらないこの若者は、 入会を許可されるためにはクラブ
の審査員とゴルフを一ラウンドやらなければ ならないと告げられた。
約束の日の午後、彼は最初のティーグラウンドでホッケーの棒や、クリケット
の つちや、ビリヤードのキューをもって審査員たちと出会った。
審査員たちは胡散 臭そうな目でじろじろと眺めたが、それでも球を打ちはじめ
た。
驚いたことに、 若者はホッケーの棒を手に取ると平然と二百七十五ヤードをか
っ飛ばし、続いて クリケットのつちで打ったセコンドショットはみごとな弧を
描いてグリーンに オンした。
そして彼はビリヤードのキューで二十フィートのパットを沈めた。
途方に暮れる審査員をアンダーパー六十八で散々にやっつけたあと、若者は彼
ら とともにクラブ・バーに向かった。
彼はスコッチとソーダを注文したが、注文の品がくると、ショットグラスの中
身を自分の肩ごしにカウンターの上に置いて あるソーダのなかへひょいと投げ
込んで、それらを混ぜた。
この若者のしなやか な身のこなしの芸当を見せつけられて、クラブの審査員は
再び唖然とした。
「実にあざやかなお手並みだねぇ!」と彼らは叫んだ。
「あなたのすばらしい 才能はどこから降って湧いたのですか?」
「生まれてこのかた」と若者は説明 した。
「どんな運動も僕にとっては子どもの遊びのようなものだったんだ。何 でもす
ぐにできてしまい退屈で仕方ないから、何をするにつけても、一番むずか しい
やり方でやるようにしてるんだ。ピンポンのラケットでテニスをしたり、 テニ
スのラケットでピンポンをしたりしてね……」
「ちょっと待ってくださいよ」とクラブの審査員のひとりが口をはさんだ。
「もしあなたの言うことが本当で、どんな運動でも一番むずかしいやり方で やるというのなら、ひとつ質問があるんです
よ……」
「わかってますよ」と 若者は微笑みながら言った。
「みんな同じことを尋ねるんです。いいですよ、 教えてあげましょう――ハン
モックの上で立ちあがることについてでしょう?」
これが自我エゴのやり方だ。
タオは単純シンプルだ、単純そのものだ。
ハンモックの上で立ちあがらなくてもいい。
タオに関する最も基本的なことがらは、 それは子どもの遊びのようなものだ
ということだ。
だが、子どものようになることは人々には不可能に近いことのようだ。
誰が子どものようになりたがるだろう?
イエスは「幼子のようにならないかぎり、私の神の王国には入れない」と言う

だが、誰も子どものようにはなりたがらないようだ。
私たちの悲劇はそこにある。
私たちは何日間もタオの世界の奥深くに分け入ってきた。
今日で経文は終わり、呂祖師の言葉もこれが最後だ。
これらは単純だ。
それらを理解するには単純でなければならない。
そこには大した知識は含まれていないが、 紛れもなく多くの洞察が含まれてい
る。
それらはあなたを物知りにさせたりはしない。
むしろ逆にすべての知識を取り去って、 あなたを無知にする。
だが、もし無知になれたなら、 勇気を奮い起こして知識をすべて落とすこと
ができたなら、 無知な状態のまま生きてゆくことができたなら、 人と神のあい
だの障壁がなくなり、 人と<存在>のあいだの障壁がなくなる。
知識は障壁をつくりだす。
アダムがエデンの園から追放されたのは、 知識の樹の実を食べてしまったから
だ。
その実を吐きださなければならない。
ひとたび知識が吐きだされたら、 あなたは清浄になる。
そしてその清らかさのなかで、 すべてのものが手に入るようになる。
あらゆるものがすでに待ち受けている。
ただあなたが汚れ、知識でいっぱいになっているために、 それを見ることがで
きないだけだ。

さて、経文だ――
タオ、分かたれていないもの、大いなる一者は、 相反する二つの存在原理――
闇と光、陰と陽を生みだす。
陰からは受容的な女性原理が現れ、 陽からは創造的な男性原理が現れる。
陰からは生命が現れ、 陽からは本性が現れる。
これが『黄金の華の秘密』の最後の章句だ。
あなたが覚えておけるように、
論書のすべてがここに要約されている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

568鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/25(土) 23:50:12 ID:1d4drIFg0
>>566 どういたしまして、またおいでなさい。

タオでは質朴であることが尊ばれるのじゃ。
多くの知識や才能を発揮することはよくないというのじゃ。
むしろ何の飾りも無く、無能であることが本質に近いというのじゃ。
そうであれば全ての競争から離脱し、タオに合一するというのじゃ。

569避難民のマジレスさん:2019/05/26(日) 09:56:53 ID:LC3de7YgO
>>567
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十五話 かわず飛び込む水の音(つづき)

タオ、分かたれていないもの、大いなる一者は、 相反する二つの存在原理――
闇と光、陰と陽を生みだす。
まず、タオとは何か?
あるがままのもの、名もなく、制約もない、ただあるがままのもののことだ。
それはいっさいのものを包含している。
それは樹や星を包み込み、あなたや私や動物や鳥たちを包み込んでいる。
それは森羅万象のすべてを包み込んでいる。
そしてあるがままのものはこれから存在するいっさいのものを含んでいる。
タオを言葉にすることができないのは、それがいっさいのものを包含している
からだ――
あらゆるものを包み込める言葉はない。
言葉の目的そのものが区分を示すことにある。
言葉の目的そのものが類別することにある。
テーブルはテーブルであって椅子ではない。
椅子は椅子であって犬ではない。
犬は犬であって人間ではない。
言葉はそのまわりに明確な境界があってはじめて意味をもつ。
それは他のあらゆるものを締め出してしまう。
それはちっぽけなものだけを内包して、存在全体を締め出してしまう。
タオは万物を内包して、何も締め出すことがない。
タオを言葉にすることができないのはそのためだ。
タオは、示すことはできるが言い表すことはできない。
タオの人のなかに入ってゆくことができ、タオの人を自分のなかに入ってこさ
せる用意ができているなら、彼はその味をあなたに味あわせることができる。
タオの人は一瞥いちべつを与えることが――包み隠さぬ<存在>の全容を閃光の
ように垣間見させることができる。
だが、あなたは怯えてしまうかもしれない。
大いなる歌『バガヴァッド・ギータ』のなかで起こったことはそれだ。
弟子のアルジュナは師であり、友であり、導き手であるクリシュナに尋ねた。
「あなたは深遠なことを語られます。
 あなたは実に巧みに論じられます。
 あなたの言葉には強い説得力がありますが、私の胸の奥深くにはまだ疑いが
残っています。
それはあなたがおっしゃることを私自身がまだ体験していないからです。
なぜその一瞥を与えてくださらないのですか?
ほんのちょっと味わうだけでいいのです。
いつまでも議論を続けてもしかたありません。
どんなに論をつくしてもしかたありません。
ほんのすこしでも味わえば、私は納得し、疑いは消え去るでしょう」
クリシュナは「いいだろう」と言った。
そして師と弟子のあいだに起こった最も美しい物語のひとつが生まれた。
クリシュナの身体はみるみる大きくなり、無限大に広がると、世界が彼のなか
で巡りはじめた。
アルジュナは恐れおののいた。
クリシュナには無数の手があり、全ての星とすべての惑星が彼のなかにあった

生と死が彼のなかにあり、彼のなかですべての両極が出会い溶け合っていた。
それは混沌カオスだった。
アルジュナは自分の気がふれてしまったのではないかと思った。
彼はおののきのあまり目をつぶり、悲鳴をあげ、「元にもどってください!二
本の腕をもったふだんのあなたの姿にもどってください。もう一度私の懐かし
い友にもどってください。これはあんまりです!」と叫んだ。
クリシュナは元にもどると、こう言った。
「こうなることはわかっていた。おまえには全体の姿を味わう用意がまだでき
ていない」
全体の姿はあなたを震撼させる。
その広大無辺な姿はあなたを震撼させ、あなたの正気を奪ってしまう。
それは奈落であり、あなたはシャボン玉のようにその奈落のなかに消えてゆく

それはあまりに広大なので、あなたは自分が誰なのかまったく識別できなくな
ってしまう。
アルジュナに起こったことはそれだ。彼は言った。
「おっしゃる通りです。私は死んでゆくような感じがしました。
あるいは自分が狂ってゆくような感じが、またはすでにおかしくなっているよ
うな気がしました。
本来の姿にもどってくださって感謝します」
するとクリシュナは言った。
「これは私の本来の姿ではない、あれが私の本来の姿なのだ」
タオは無限だ。
タオは全体なるものだ。
タオとは森羅万象のすべてであり、それゆえに言葉で表すことはできない。
だが、師と弟子が親密に触れ合うなかで、その何かが脈動をはじめる。
あなたが<全体>に呼応できるようになり、分離したものとしては働かなくなり、
しばらくのあいだ分離の観念が消えて、ひとつにまとまる瞬間がある。
しずくが海のなかに消え去ると――一瞬かもしれないが――あなたはタオとは
何かを知る。
だから、タオは言い表すことはできないが示すことはできる。
私がここでやっていることはそれだ。
ここは哲学を学ぶ場所ではない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

570鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/26(日) 23:01:53 ID:1d4drIFg0
全てであるものを現す言葉は無いのじゃ。
タオというのも仮に付けられた名前なのじゃ。
全てが一つならば一つですらないのじゃ。
一つとか二つというのはいくつもあるものごとにつけられた数字の観念であるからのう。
無であり、観念の否定でしか全ては表せないのじゃ。

571避難民のマジレスさん:2019/05/26(日) 23:06:22 ID:LC3de7YgO
>>569
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十五話 かわず飛び込む水の音(つづき)

私はあなたがたにどんな哲学も教えてはいない。
これは実存的な道場スクールだ。
私はあるがままの<存在>を教えている。
そして<存在>はすでにここにある。
もう少し勇気を出してみずからを開き、 それが入ってくるのを許せばいいだ
けだ。
それはあなたの扉を叩いている!
イエスは言う。
「叩きなさい、そうすれば扉は開かれる。
 求めなさい、そうすればそれは与えられる。
 探しなさい、そうすればそれは見つかる」
私はまったく逆のことをあなたがたに言いたい。
神はあなたの扉を叩いている。
何千年ものあいだ叩いてきた。
聴きなさい!
神が扉を叩いている……
扉を開けなさい。
耳を澄ましなさい!
神はあなたに
「みずからに課した牢獄から出てきなさい」 と言っている。
神はあなたを探している!
邪魔をしてはいけない!
神があなたを探すのを手伝いなさい!
神が探しているのにあなたは 逃げている、
何生にもわたって 逃げつつ゛けている。
惨めなくせに、それでもあなたは 逃げつつ゛けている。
そして神の手が近つ゛いてくると、 いつもあなたは身震いする。
だが、私にはわかっている。
その恐怖が起こるのも無理はない。
何が怖いのだろう?
それは神が存在するなら、 自分は存在しえないという恐怖だ。
フリードリッヒ・ニーチェは言っている。
「神が存在するなら、どうして私が存在しえるだろう?
だから私は"神は存在しない"と 決 め る 。
そうしてはじめて 私 があることができる」
何百万もの人々がそのように決めてしまっている。
彼らは自分が残るために神を否定してしまっている。
神が存在しなければ、 自我エゴにも存在する余地がある。
神が存在するなら、どのようにして 自我を支えればよいのだろう?
何によって?
あなたはもはやそこにいなくなる ――それが恐れだ。
神は自我の死だ。
タオを味わうことはできるし、 タオを体験することはできる。
だが、ある条件を満たさなければならない。
あなたはいかなる自我ももたないほど 素朴シンプルにならなければいけない。
"私"という思いが消えるほど 静かにならなければいけない。
タオ、分かたれていないもの、大いなる一者は、相反する二つの存在原理 ――
闇と光、陰と陽を生みだす。
一なるものが二になる――これは道家タオイストがものに取り組む姿勢のまさ
に基盤をなしている。
なぜなら、そこではじめて遊びが生まれるからだ。
ひとつのものは二つにならなければいけない。
そして二つのものは互いに対立しなければならない。
そうしてゲームがはじまる。
古代のヒンドゥー教の聖典は「神は独りだったので、深い孤独感を味わってい
た」と言う。
神は他者をつくることにした。
ヒンドゥー教徒が<存在>はリーラだ、遊戯だと言うのはそのためだ。
神はちょっとした楽しみのために他者をつくりだした。
タオはひとつだが、顕れるやいなや、それは二つにならなければいけない。
形あるものは二元的にならなければいけない。
それはけっしてひとつではなく、二つに――分裂して二つにならなければいけ
ない。
それは物質と意識に、男と女に、昼と夜に、生と死にならなければいけない。
この二つの原理は至るところで目にすることができる。
生は何から何までこの二つの原理で成り立っているが、その二つの原理の背後
には一なるものが隠されている。
この二元性、両極のあいだに巻き込まれたままでいるなら、あなたは世間にと
どまっている。
聡明になって、もう少し意識をとぎ澄まし、もっと深く事物の奥底をのぞき込
むようになったら、
あなたは驚くだろう――これらの両極は実は対立する極ではなく、互いに補い
合っている。
そしてこの両者の背後にはたったひとつのエネルギーがある
――それがタオだ。

タオ、分かたれていないもの、大いなる一者は、
相反する二つの存在原理――闇と光、陰と陽を生みだす。
陰からは受容的な女性原理が現れ、陽からは創造的な男性原理が現れる。
陰からは生命が現れ、陽からは本性が現れる。
基本的に、極性は男と女
――男性的なものと女性的なもの――と名つ゛けることができる。
そのように理解するほうが私たち人間の現実感覚に近い。
それは「肯定と否定」とよんでもいいが、それでは少し距離ができてしまう。
「陰と陽」「シヴァとシャクティ」
「男と女」と呼ぶことで、それは私たちのハートにとても近しいものとなる。
私たちはこういった二元性を知っているからだ。
男は女に惹きつけられ、女は男に惹きつけられる。
ところが一緒になると二人のあいだには喧嘩が絶えなくなる。
別れては暮らせないが、一緒になっても暮らせない。
とてつもない魅力があるが、反発も強烈だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

572避難民のマジレスさん:2019/05/26(日) 23:08:29 ID:LC3de7YgO
>>570
空とかアートマンと同じ感じでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

573鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/27(月) 23:56:44 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、タオもまた観念を超えて行くための観念なのじゃ。
その名前によって定義されるものではなく、ただ無であり、沈黙がその教えとなるものなのじゃ。
自我を超えて観念に囚われなければそれに到達するのじゃ。
そして名前を超えたその本質を了解するのじゃ。

574避難民のマジレスさん:2019/05/28(火) 01:05:46 ID:LC3de7YgO
>>571
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十五話 かわず飛び込む水の音(つづき)

恋人と一緒にいると、あなたはどうやって独りになろうかと考えはじめる。
あなたは自由のことを、独りになることを、美や静けさや、そういったすべて
のことを考えはじめる。
ところがいざ独りになると淋しくなって、相手が恋しくなり、愛に満ちた空間
や温もりやあれやこれやを思い浮かべるようになる。
独りになるとそばにいたくなり、一緒にいると独りになりたくなる。
見守ってみるといい。
それはあなたへのすばらしいメッセージだ。
それはただあなたは半分であり、女性も半分であることを告げている。
一緒になると、あなたがたはひとつになる。
だが、そうなると問題が生じてくる。
そのひとつになった瞬間、あなたがたは歓びにあふれ、祝い喜ぶが、 そうなる
と問題が生じてくる。
このひとつになった状態、これは 男のものだろうか女のものだろうか?
どちらが優先的な要素になるのだろう?
それが葛藤だ。
男と女はひとつになりたいのだが、 男はそのひとつの状態のなかで主導権をと
り、女を屈服させ、服従させておきたい。
そして同じ欲望が女の側からも起こる。
男のほうが屈服し、服従すべきだと。
どちらもひとつになりたいのだ が、そのひとつの状態は 私 の も の でなけ
ればならない。
私が男であれば、そのひとつの状態は男のものであり、 女は男のなかに消え去
らなければならない。
私が女であれば、そのひとつの状態は女のものであり、 男は女のなかに消え去
らなければならない。
葛藤、魅惑と反発、人生の悲喜劇のすべてはそこから起こってくる。
女性的な原理は受容的であり、男性的な原理は創造的だ。
そしてどちらも手を携えて進むしかない。
ばらばらでは、どちらもが苦しむことになる。
そうなったら女性には 受け取るものが何もなく、虚しい気持ちになる。
受け取ってくれる相手がいないと、 男性の創造性は失われてしまう。
その価値を認め、励ましてくれる人がいないからだ。
女性は受け取り、励まし、 男性が創造性を発揮するのを助けてくれる。
男性の創造性は 女性が受容性を深めるのを助けてくれる。
この女性の受容性はたんに生物的なものではなく、 霊的スピリチュアルなもの
でもある。
優れた詩人の背後にはいつも 霊感を与えてくれる女性の影が見え隠れする。
女性たちみずからが偉大な詩人だったことはない
――彼女たちにはその必要がない――
だが、 女性なくしては優れた詩はけっして生まれない。
女性は灯台の役目を果たす。
男たちは偉大な詩人ではあったが、女性が いなければ詩はたちまち精彩を失い
しぼんでしまう。
受容性と創造性は鳥の二つの翼だ。
未知なるものへと向かうこの飛翔は、 二つの翼があってはじめてなし遂げら
れる。
翼ひとつでは、鳥はどこにも行けない。
そしていいかね、創造性のほうが 受容性より価値があるというわけではない
――それらは等しい、完全に対等だ。
右の翼のほうが優れているとか、 左の翼のほうが優れているなど といったこ
とはけっしてありえない。
それらは対等だ。
同じではないが、対等だ。
今や女性のハートには創造的になりたい という大きな欲求があるが、それに
はある理由がある。
それは創造性が賛美されているからだ。
ノーベル賞は創造的な人にのみ与えられるものであり、 ごく奥ゆかしい受容性
を示す者たちには与えられない。
さあ、これは醜い状況であり、 創造的になりたいという強迫的な願望をつく
りだす。
なぜなら、受容的な人々はまったく称賛されず、 話題に取りあげられないから
だ。
だから世界中の女性たちが創造的になりたがっている
が、創造的になりたいと思ったとたんに、女性たちは 女らしさ、優美さを失い
はじめる。
女性はどんどん男っぽくなってゆく。
創造性というのは男性的な原理だからだ。 女性はどんどんきつくなってゆく。
彼女はやわらかさ、まろやかさを失い、 ごつごつとしたかどをもち、 闘いは
じめるようになる。
ウーマンリブの活動家が怒鳴っているさまを見てみるといい。
その声を張りあげている様は醜い。
彼女たちの闘いが正しいことはわかるが、 闘うというのは女性にふさわしい道
ではない!
闘いそのものが女らしさを破壊してしまう。
それは違う形で行なわれなければならない。
実のところ、男が女性の平等のために闘うべきだ。
理解力をそなえた人、思慮深い人、知性をそなえた人が、 女性の解放を目指し
た男性の運動をつくりだすべきなのだ。
彼らが闘うべきだ!
それは男が女に押しつけてきた隷属だ―― 男たちはやましさを感じるべきであ
り、 自分たちがやったことをすべて元にもどすべきだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

575避難民のマジレスさん:2019/05/29(水) 07:47:16 ID:LC3de7YgO
>>574
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十五話 かわず飛び込む水の音(つづき)

だが、女性が闘いはじめたら―― そして、そうなれば当然、彼女たちは創造
的になって、 絵を描いたり、踊ったり、歌ったり、彫刻をしたり、 作曲をした
りすることを考えはじめる――
彼女は無意識のうちに男のまねをしている。
だが、覚えておきなさい―― 男のまねをする女はつねに二流の男になってし
まう。
それは醜いことだ。
対等であろうとする努力そのものが無駄になってしまう。
女性は一流の女性にしかなれない。
男になろうとすれば、二流の男になる他にない。
男が受容的になろうとしても同じことが起こる。
男は女性がそなえている自然な受容性をもつことができない。
彼は二流の女性になってしまう。
一流であるためには、 みずからの本性に従わなければならない。
けっしてまねをしてはいけない。
みずからの内にある本性に従いなさい。
みずからの内に備わっている本性に従いなさい。
その本性が実現されてはじめて、人は 至福、成就、充足の境地に到り着くか
らだ。
女性は生命、いわゆる生命、 普遍的な現象としての生命を生みだす。
男、すなわち男性的な要素は、人間性を生みだす。
男は部分的であり、女は普遍的だ。
男はものごとの細部にこだわる。
男は専門家になる。だから 男性が主導権を握っている分野はみな、 遅かれ早
かれ細分化してゆくことになる。
科学ではまさにそれが起こっている。
あらゆるものが徐々に細分化されて新しい枝を生じ、 その枝がまた分岐して、
今やことのすべてが 収拾のつかないものになっている。
男はたくさんの知識をつくりだし、 細部にこだわってきたが、今やその知識
から 全体像を組み立てる者はひとりもいない。
どうやって全体をまとめたらいいのか誰にもわからない。
その統合は男性ではなく、 女性を通してはじめて起こりうる。
なぜなら、女性は ものごとを普遍化する原理だからだ。
男性は切り分け、女性はまとめあげる。
それゆえに、女性のほうが男性よりも 宗教を身近なものに感じるし、つねに
男性よりも 宗教に親しみを覚えてきた。
あなたはその事実を観察したことがないかもしれない。
根本的なことは、宗教は 一なるもの、全体性、全一性 という見地でものをと
らえるということだ。
まさにそれがタオだ。 「神」と呼んでもいいし、好きな名前で呼べばいい。
科学は解剖し、分割しつつ゛け、電子、最小の粒子に逢着した。
両者はまったく正反対の方法だ。
宗教はどんどんものをつなぎ合わせていって、 すべてを包含する究極のタオに
到る。
それは究極の統合ユニティだ。
科学はとめどなく分割を続け、ますます専門化してゆく。
彼らによれば、専門化とはより狭い対象に関して、 より多くのことを知ること
だと言う。
聞いた話だが…… 二十五世紀のことだ…ある男が医者を尋ねた。
彼は高齢で、目の調子がおかしかった。
医者は「どちらの目が悪いんですか?」と尋ねた。
すると彼は言った。「右目じゃよ」
医者は言った。「すみませんが、別の医者のところへ行ってください。 私は左
目が専門なものですから」
いずれこういったことが起こるだろう。
それはすでに起こっている。
人間はもはやひとつの統合体ユニティとは見なされていない。
おびただしい数の専門家がいる。
誰も人間を 全体として、全一なるものとしてとらえていない。
それは医学が直面しつつある、医学が目を背けず直視して、 解決策を見いださ
なければならない最大の課題のひとつだ。
なぜなら、患者はひとつの統合体とは見なされていないからだ。
頭の調子が悪ければ、全体から切り離して頭だけが取りあげられる。
アスピリンか何か、ただ薬をちょっと与えるだけでいい。
誰も身体全体のことなど気にかけない。
アスピリンはまず胃にゆき、じかに頭に向かうわけではない。
胃はどうなるのだろう?そんなことは誰も気にとめない。
人間は統合体ユニティだ。
人間を機械のように扱うことはできない。
車の具合がおかしければ、修理工場に行って、部品を交換する。
機械には魂がなく、部品を寄せ集めたものにすぎないからだ。
では、魂とは、何だろう?
魂とは部品の寄せ集め以上のものが そこにあるということだ。
その背後には統合体がある。
現代の医学の前にはこの事実が大きく立ちはだかっている。
なぜなら、これらの科学はどれも男たちが発展させてきたものだからだ。
女性からの影響が欠けている。
女性はつねに普遍化する。
彼女は統合的な見地でものをとらえ、 部分的な見地ではけっしてものをとら
えない。
女性はけっして緻密な計算をしたりしない。それはありえない。
女性は、つねに包括的ホーリスティックな 姿勢でものごとに取り組む。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

576避難民のマジレスさん:2019/05/29(水) 23:48:30 ID:LC3de7YgO
>>575
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十五話 かわず飛び込む水の音(つづき)

二十五世紀前に記されたこの言辞 が意味するものはそれだ。
それは現代にも響き合う。
タオ、分かたれていないもの、大いなる一者は、 相反する二つの存在原理――
闇と光、陰と陽を生みだす。
陰からは受容的な女性原理が現れ、陽からは創造的な男性原理が現れる。
陰からは生命が現れ、陽からは本性が現れる。
ひとりひとりの人間のなかには胚胞があるが、 それは受胎の瞬間に命と本性に
分かれる。
人はみな単一の存在、一なるものとしてやってきて、そののちに分裂する。
それはプリズムを通過した光線が七色に分かれるのに似ている。
受胎がプリズムのような働きをして、
ひとつの白い光線が七色に分かれる。
一なるタオは分裂して
二つの相反する極――男と女になる。
いいかね、どの男もたんに男というのではなく、その背後には、彼のなかには
女が隠れている。
女の場合も同じだ。
どちらも両方の性を備えている。
顕在意識が男であれば、無意識は女だ。
顕在意識が女であれば、無意識は男だ。
それはそのようになっている。
そして外側の女性や男性と出会いたいという欲望はかなえられることがない――
内なる男性と内なる女性を出会わせるすべを知らないかぎりは。
外側の女性はいくつかの出会いの一瞥いちべつを与えることしかできない。
それは美しい瞬間ではあるが、大きな代価を払わねばならない。
恋人たちはみな知っている――確かに忘我の瞬間がときにはあるが、それを得
るためには大きな代価を払わねばならない。
みずからの自由を失わなければならないし、
みずからの実存を失わなければならないし、
依存するようにならなければいけない。
人はありとあらゆる妥協をしなければならなくなり、それが傷となって、うずく。
外側の女性や男性との出会いはつかの間のものでしかありえない。
だが、別の出会いがある。
それはタオの秘められたメッセージのひとつだ。
あなたは内なる女性を見いだすことができる――
あなたの意識と無意識が出会い、
あなたの光と闇が出会い、
あなたの大地と空が出会い、
あなたの肯定と否定が出会う場所で。
あなたの内側でその出会いが起こったら、
あなたは全体になっている。
「タオの人」と呼ばれているのはこのことだ。
タオの人は男でもなければ女でもない。
彼はみずからの一なる状態に帰り着いている。
彼は独り(alone)であり、完全にひとつ(all alone)だ。
老子は男とも呼べないし女とも呼べない。
仏陀は男とも呼べないし女とも呼べない。
イエスは男とも呼べないし女とも呼べない。
生物学的には男だが、 霊的な観点から見るとそうではない。
霊性のうえでは、彼らは両者を超えている。
仏陀の内側には無意識がなく、 分割がない。
彼は 分割されていない。
分割がなくなると、内なる葛藤はすべてやんでしまう。
分割があると、人は 絶 え ざ る 内乱状態にあり、 外側の女性と争うだけで
なく、内なる女性とも 絶えず闘いつつ゛けることになる。
あなたも身に覚えがあるだろう。
泣き出したくなる瞬間がやってきても、内なる女性は涙を流すことをためら
わないが、 男のほうがそれを止めてしまう。
内なる男が言う。
「おい、何をやってんだ?気は確かかい?他人に女々しくなったと思われるぞ。
泣いてはいけない!君のような男にはふさわしくないぞ。女が泣くのは かま
わない、好きなだけ泣きわめかせておけばいい。でも、君は表情を変えず、厳
しく 、いかめしい態度を取り、弱みを見せてはいけない。涙を押さえるんだ!」
こうして闘いがはじまる。
同じことが女性にも起こる。
あなたは樹に登りたい。その樹はとても美しく、 雲と戯れんばかりに高くそび
えている。
誰だって登りたくなる。
ところが、あなたの内なる女性が言う。
「待って!登ってもいいのは男の人だけよ、 あなたはだめ。あなたは女でしょ
う。女にとって何がふさわしく、何がふさわしくない か考えなきゃだめよ。
一定の行儀作法、エチケットに従わなきゃいけないわ」
――そこであなたは我慢する。
これが絶え間なくつつ゛いてゆく。
男は女の側面を抑え、女は男の側面を抑えてゆくが、 やがて抑圧された部分が
微妙な仕方で復讐をはじめる。
それは裏口から入ってきて、あなたを毒するようになる。
女性が非常にかたくなで、冷酷になり、小言を言って、くってかかり 、醜くな
る瞬間があるが、それは男が復讐しているということだ。
樹に登ることはきっとすばらしいことだったのに、 あなたはそれを抑え込ん
だ。
今度は男が裏口から入ってきて、あなたは 夫や子どもに向かって金切り声を張
りあげたり 、ものを投げつけたりしはじめる。
さあ、これは醜いことであり、病的な振る舞いだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

577鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/29(水) 23:52:22 ID:1d4drIFg0
女性的であるもの、受動性の極致がタオの求める境地なのじゃ。
それは既に無我にも近いものじゃ。
自我が無ければ全てを受け容れるのであるからのう。
それが真の宗教的なあり方なのじゃ。

578避難民のマジレスさん:2019/05/31(金) 05:14:38 ID:LC3de7YgO
>>576
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十五話 かわず飛び込む水の音(つづき)

泣けばよかったのだ。
涙は生の一部だから美しい。
泣けばよかったのだ。
その涙を隠す必要などなかった。
涙を隠せば、笑うこともできなくなる。
あなたはいつも恐れるようになる――
笑い過ぎたら、笑いによって緊張がすっかり解けて、 抑圧された涙がこみあげ
てくるかもしれない。
ニーチェは「私が笑うのは涙を隠しておくためだ。笑わなければ 泣きだしてし
まうかもしれない。私はそれを恐れる」と言った。
さあ、これはひとつの面にすぎない。
人は微笑みを絶やさずにいることができる。
それは本当の笑いではない。
人は微笑みを絶やさずにいることができる――それは社交上の駆け引きだ。
そうすれば目から涙があふれそう になっているのを誰にも気つ゛かれないで
すむ。
人々はあなたの微笑みに気を取られてしまい、あなたの目には気つ゛かない。
これはひとつの方法だ。
もうひとつは笑うどころか、微笑さえ浮かべず、岩のように固い表情をすると
いう やり方だ。
他人には鋼鉄の男だと思わせておけばよい。
これが「スターリン」という 言葉の意味だ――鋼鉄の男。
スターリンは一度も笑わなかったと伝えられている。
鋼鉄の男――その彼がどうして笑えるだろう?
鋼鉄の男は笑えない。
だが、これは醜いことであり、機械のようになることだ。
それでは人間らしさを失ってしまう。
人は偽物、まがいものになるか、岩のようにかたくなり、 堅い殻をつくりあげ
て、絶えず自分を抑制していなければならない。
タオは、みずからの実存の両極を否定する必要はないと言う。
それを受け容れなさい。 それはあなただ! そのどちらの光線もあなただ。
それらを出会わせ、融け合わさせなさい!
それらをともに踊らせなさい!
再び一なるもの―― タオ、分割されざるもの、大いなる一者―― の洞察を
得ることができるように、 それらを深く融合させなさい。
個々の人間のなかで、それらは二つの極――アニマとアニムスによって表される。 この二つは生涯にわたって争い、主導権を求めて闘いをくり広げる。
主導権を求めて闘うのを止めなさい!
それはあなたの内なる政争だ。
どちらもけっして主導権をとることはできない。
どちらも必要であり、対等に求められる。
それらは正反対なので、
両者を受け容れるのはひじょうにむずかしい――論理の上では
両者を受け容れるのはひじょうにむずかしいが、それでも両方を受け容れなさ
い。
論理は生には当てはまらない。
生にもっと当てはまるのは、弁証法として知られるものだ。
論理は生には当てはまらない。論理は直線的だ。それは両極を含んでいない。
タオは「両極はつねにそこにあり、並んで走っている」と言う。
そのプロセスは論理的ではなく弁証法的だ。
正の命題テーゼには、反の命題アンチテーゼが立ちはだかる。
男には女が立ちはだかり、この対立、この葛藤、この挑戦から、エネルギーが
解き放たれる。
そして、そのエネルギーは、あなたが愚か者なら浪費されるし、あなたが賢け
れば蓄えられる。
浪費されれば、あなたは絶え間のない葛藤、内乱を味わい続けることになる。
あなたの生は分裂症になってしまう。
あるいは、あなたが知性をそなえ、親しみを込めた深い抱擁のなかで相反する
ものを包含するすべを知っていたなら、 反の命題に対立した正の命題は、 あな
たの実存のなかに新しい現象 ――"合の命題ジンテーゼ(統合)"を生みだす。
あなたはより高い次元に上昇する。
あなたはより深い形で統合される。
そして再びその合の命題が 正の命題として働いて、 反の命題を生み出し、
再びより高い次元で合の命題(統合)が生まれる。
それがどこまでも続いてゆき、 波の上に波が重なり、 どんどん高まってゆ
く。
続々と新たな次元が開かれ、 人は進み続けることができる。
究極の次元は、あなたの生の全面的な統合だ。
いっさいの葛藤が消え失せる―― 落とそうとしなくても、 ひとりでに消え失
せる。
これがタオ、<道>、 分割されざるもの、 大いなる一者だ。
生命エネルギーが下方に向かって流れれば、すなわち、何の障害もなく外界に
向かって 流れ出せば、アニマがアニムスに打ち勝ち、黄金の華は開かない。
エネルギーが下へ、すなわち外に向かって流れると、
再び同じものを生みだす力、生殖力になる。
それは大いなる現象だ!
あなたはそのようにして生まれた。
誰もが――仏陀やイエスやクリシュナのような人たちもみなそのようにして生
まれた。

エネルギーが下に向かって流れると、それは新しい人間を、神が宿る新しい形
をつくりだす。
だが、黄金の華は開かない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

579鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/31(金) 23:01:58 ID:1d4drIFg0
タオもまた分割されていないものを説くのじゃ。
統一されたものであり、気付く意識であるものに心の中を追求して至るのじゃ。
全てが私に還り、私も無に還っていくのじゃ。
アートマンであり、ブラフマンであり、タオでり、意識であるものだけが在ると知れるのじゃ。

580避難民のマジレスさん:2019/05/31(金) 23:31:05 ID:LC3de7YgO
>>578
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十五話 かわず飛び込む水の音(つづき)

あなたは別の人間――子ども、すばらしい子どもをつくりだす。
生は続き、生は流転を続け、どこまでも流れ続けるが、それでは黄金の華は開
花することができない。
黄金の華はどのようにして花開くのだろう?

生命エネルギーが逆流のプロセスによって導かれたら、 すなわち蓄えられ、散
らされずに上昇させられたなら、 アニムスが勝利をおさめている。
可能性は二つある。
下に向かって流れるエネルギーは性欲になり、
上に向かって流れるエネルギーは霊性になる。
下に向かって流れるエネルギーは生殖力になり、
上に向かって流れるエネルギーは創造力になる。
下に向かって流れるエネルギーは新しい生命を生みだし、
上に向かって流れるエネルギーは あ な た を再誕生させる。
イエスが「再び生まれ変わらないかぎり」――父や母からではなく、
みずから上昇する働きによって生まれないかぎり、
ドウィジャ、"二度生まれし者"とならないかぎり
――「私の神の王国に入ることはできない」と言うとき、
彼が言おうとしているのはそのことだ。
黄金の華は、あなたの実存の最高の頂で待ち受けている。
ヨーガの見取り図では、それは「サハスラーラ」
―― 一千枚の花弁をもつ蓮華 ――と呼ばれている。
それは第七番目のチャクラであり、頭のなかにある。
最も低いのは性のチャクラ、ムラダーラであり、
最も高いのは第七のチャクラ、サハスラーラだ。
エネルギーがいちばん低いチャクラから下降すると、新しい生命が生まれる。
エネルギーが蓄えられ、上昇させられると、いつかそれはサハスラーラに達し、
そして黄金の華が花開く。
もちろん、それにはエネルギーが必要だ。
それはひとつの可能性として、潜在力として、そこに潜んでいるにすぎない。
エネルギーが供給されないかぎり、それは開花することができない。
それは樹に水をやらないのと同じだ。
樹は待ち望んでいるのに、水をもらえない。
樹液は上に向かって流れてゆかない。
どうして数限りない花を咲かせることができるだろう?
できるはずがない。
樹は苦しみ続け、ほとんど枯れそうになっている。
樹はゆっくりと死んでゆくだろう。
葉も一枚ずつしおれてゆき、やがて枝が枯れてゆき、最後には根が死んでゆく。
樹には絶えず上に向かって流れてゆくエネルギーが必要だ。
樹液は樹のなかを巡るが、人間もまた樹になぞらえることができる。
そして人間を樹になぞらえる私の比喩は新しいものではない。
それは最古の象徴のひとつだ。
それはユダヤ教の神秘的な流派スクールのなかで用いられてきた。
それは「生命の樹」と呼ばれる。
仏教が禅においてその頂点を極め、イスラム教がスーフィ―においてその絶頂
に達したように、ユダヤ教はカバラにおいてその究極の頂に到達した。
カバラは「人間は樹であり、花を咲かせるためには膨大なエネルギーが必要だ」
と言う。
だが、エネルギーを蓄えるということは、エネルギーを抑えることではないと
いうことを覚えておきなさい。
多くの人々がここで道を誤ってしまう。
エネルギーを蓄えることは、エネルギーを抑えることではない。
そのプロセスはまったく違う。
抑圧するということは、最も低いセンターを絶えず抑えつけているということ
だ。
最も低いセンターを抑圧し過ぎると、性の倒錯が起こる。
それが自然に解放されるのを許さず、いちばん低いセンターにエネルギーが溜
まり過ぎると、それはなんらかのはけ口を見いだして性的な倒錯を引き起こす
恐れがある。
それは必ず倒錯を引き起こす!
それは病気をつくりだす。
精神科医、心理学者、精神分析家に尋ねてみるといい。
彼らは「心理的な病が百例あるなら、そのうちの九十五パーセントはセックス
に起因している。どこかでセックスが関連している」と言うだろう。
九十五パーセントというのはかなりの数だ。
そして精神科医や精神分析家のもとを一度も尋ねたことがない人たちもけっし
てましな立場にいるわけではない。
誰もが抑圧されている。
抑圧は変容ではない。
このことをはっきりと理解しておきなさい!
抑圧が変容に通じることは絶対にありえない。
では、変容とは何だろう?
そしてエネルギーの蓄積とは何だろう?
エネルギーを蓄えるというのが 瞑想的なプロセスだ。
それは道徳家になることではない。
私はこのうえもない助けとなる ささやかな技法をやってみることを勧める。
それは昔からずっと道家の人々によって用いられてきた。

それは師から弟子にのみ伝えられてきたものであり、
それゆえに書物に記されたことはなかった。
だが、今や公開されるべき時がきた。
なぜなら、今や何百万もの人々が 書物を通して霊的な探求に取り組んでいる
からだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

581避難民のマジレスさん:2019/06/01(土) 13:15:51 ID:LC3de7YgO
>>580
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十五話 かわず飛び込む水の音(つづき)

師はいつも得られるものではない。
これはあなたのエネルギーを変容させ、 上に導いてゆくための単純な技法だ。
そしていつも覚えておきなさい――道家の技法はごく単純だが、 「こんなに単
純なことが、どうしてそんなに大切なのだろう?」 などと思わないように。
それを実際に行ない、 試してみれば、あなたにもわかるだろう。
これがそのやり方だ……
少なくとも一日に二度は―― 最良の時間は早朝、ベッドから出る直前だ。
頭がはっきりし、目が覚めてきたと感じたら、二十分間それをやりなさい。
朝、何よりもまず最初にそれをやりなさい!
ベッドから出てはいけない。
そこでそれをやりなさい。
その場でただちにやりなさい!
なぜなら、眠りから出てこようとしているとき、 あなたはひじょうに繊細で、
受容的になっているからだ。
眠りから出てこようとしているとき、あなたは すがすがしく、いきいきとして
いるから、 影響はひじょうに深く浸透してゆく。
眠りから覚めたばかりのとき、あなたは あまり頭マインドのなかにいない。
だからすきまギャップがそこにあり、そこから この技法があなたの内奥の核ま
で 浸透してゆくことができる。
そして早朝、あなたが目覚めようとし、大地全体が目覚めつつあるときには、
大いなる覚醒のエネルギーの潮流うしおが 至るところを取り巻いている。
その潮流を使いなさい。
その機会を逃がしてはいけない。
古代の宗教はみな、早朝、 日が昇るときに祈りを捧げたものだ。
なぜなら、日の出とともに、大自然の すべてのエネルギーが上昇してゆくか
らだ。
その瞬間、あなたは上昇してゆく エネルギーの波に楽々と乗ることができる。
そのほうがやさしい。
夕方になると、それはむずかしくなる。
エネルギーが後退してゆくので、流れに 逆らって闘わなければならなくなる

朝のうちは流れとともに進んでゆくことができる。
だから、早朝、半睡状態でまどろんでいるとき、 ただちにその場ではじめるの
がいちばんいい。
そして手順はとても簡単だ。
姿勢を変える必要はないし、ヨガアーサナもいらない。
沐浴しなくてもいいし、何もいらない。
あなたは仰向けになったまま、 ただベッドに横たわっていればいい。
目は閉じたままにしておく。
息を吸うときには、大いなる光が頭から 入って来るようにまざまざと思い浮
かべる―― まるで太陽が頭のすぐそばに昇ってきたかのように。
黄金の光があなたの頭のなかに差し込んでくる。
あなたは中空であり、 黄金の光はあなたの頭のなかに差し込んできて、 どん
どん深く深く浸透し、芯までうるおすと、 あなたの爪先から出てゆく。
息を吸うときには、このような 視覚化をしながら吸いなさい。
息を吐くときには、別のことを思い浮かべなさい――
闇が爪先から入って来る、暗黒の大河が爪先から 入ってきて、上に昇り、頭か
ら出てゆく。
まざまざと思い浮かべることができるよう に、ゆっくりと、深く息をするがい
い。
ごくゆっくりとやりなさい。
眠りから覚めたばかりのときは、 ひじょうに深い、ゆったりとした 呼吸をす
ることができる。
身体が休息を取り、くつろいでいるからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

582避難民のマジレスさん:2019/06/01(土) 13:23:59 ID:LC3de7YgO
>>581
いよいよ、あと一回で「黄金の華の秘密」も終りである。
講読会で取り上げてきた書物は読み流すことのできないものばかりであるが、
そこで語られてる言葉は、実践が通して実感できなければ意味のない言葉なのでありまましょう。
実践としてくまは、できるだけ常に意識を内側にむけるようにしているであります。
(´・(ェ)・`)つ

583避難民のマジレスさん:2019/06/01(土) 23:46:46 ID:LC3de7YgO
>>581
61黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十五話 かわず飛び込む水の音(つづき)

もう一度くり返そう―― 息を吸うときには、黄金の光を 頭から入ってこさせ
るようにする。
黄金の華はそこで待ち受けているからだ。 この黄金の光は助けになる。
それは全身を洗い清め、創造力を すみずみにまでゆき渡らせる。
これは男性的なエネルギーだ。
そして息を吐くときには、想像しうる最も 暗い闇を、闇夜のような、川のよ
うな 暗闇を爪先から昇らせ――
これは女性的なエネルギーであり、 あなたをなだめ、 あなたを受容的にさ
せ、 あなたを落ち着かせ、 あなたを休ませる――
そして頭から出てゆかせなさい。
そして再び息を吸い、黄金の光を入ってこさせる。
朝早く、これを二十分間やりなさい。
次によい時間は、夜、再び眠りにつくときだ。
ベッドに横になり、しばらく力を脱いてくつろぐ。
今や眠りと目覚めのあいだを行ったり来たりしている。
ちょうどその只なかにいると感じはじめたら、 プロセスを再び開始して、二十
分間続けなさい。
それをやりながら眠ってしまうのがいちばんいい。
なぜなら、その影響は潜在意識のなかに とどまり、作用しつつ゛けるからだ

三ヶ月経つと、あなたは驚くことだろう。
ムラダーラ、最も低い性の中枢に絶えず集まってきていた エネルギーは、もは
やそこにとどまってはいない。
それは上に向かってゆく。
先日、ある人が質問をよこした。
彼はこう言っている。
「私はここで、他のどこでも見かけたことがないほどの 飛びっきりの美人に会
いましたが、性的な匂いは少しも感じません」
どうしてそうなるのだろう?
確かに彼の観察は正しい。
深く瞑想すれば、あなたは 性的な香りをふりまかなくなる。
そこには違う種類の美がそなわる ようになり、性を刺激するものではなくなる

それは霊性の香りを放つようになる。
それは情欲の粗雑さではなく、 繊細な優美さをそなえるようになる。
セックスはあなたの梯子の最下段であり、粗雑だ。
エネルギーが上昇すると、まったく異なる種類の 美と優しさがあなたのなかに
湧き起こってくる。
それは聖なるものだ。
肉体性は希薄になり、 霊性の密度が増してゆく。
三ヶ月間、この単純な技法をやれば、驚くだろう。
抑圧する必要はない。
変容が起こりはじめている。
生涯を通じて生命エネルギーを蓄える道を守る者は、 黄金の華の境地に到達す
るだろう。
生涯にわたってこれをやり続けることができたら、いつの日かそれが起こる。
呂祖師は、あなたが忍耐強くあり続けるように、
生涯を通じて……と言っている。
それはいつでも起こりうる。
それは今日起こるかもしれないし、明日起こるかもしれないし、明後日に起こ
るかもしれない。
それはあなたがどれだけ強烈に、誠意を込めて働きかけるかに、どれだけ強い
憧れをもち、どれだけ全一に入ってゆくかにかかっている。
あなたのなかで黄金の華が咲くその日、覚者の境地ブッダフッドが開かれる。
あなたはありうる最も偉大な宝を獲得した。

生涯を通じて生命エネルギーを蓄える道を守る者は、 黄金の華の境地に到達す
るだろう。
そこで自己は対立物の葛藤から解き放たれ、 再びタオ、分かたれていないもの
、大いなる一者と ひとつになる。
タオからタオへ、一なる者から一なる者へ――
プロティノスはそれを"一者から一者への飛翔"と言う。
(´・(ェ)・`)
(おわり)

584鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/01(土) 23:47:16 ID:1d4drIFg0
↑ご苦労さんなのじゃ。

精力のエネルギーを気に変えて頭頂に導くのが小周天の原理なのじゃ。
それは抑圧ではなく解放なのじゃ。
無理にするものではなく自然に流れが習慣化していくのを待つのじゃ。
そうすれば肉体は蘇り、サマーディにも至るのじゃ。

585避難民のマジレスさん:2019/06/02(日) 00:03:04 ID:LC3de7YgO
昨年10月17日から読んでまいりたした「黄金の華の秘密」、本日終了であります。
OSHOの本をもっと読めならいいなと思いますので、またいつか、ネット上でひろえたら、講読会で取り上げたいと思います。

明日からは、
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA
の講読会をはじめます。
鬼和尚、みなさま、よろしくお願いします。
(´・(ェ)・`)つ

586避難民のマジレスさん:2019/06/02(日) 07:23:14 ID:LC3de7YgO
>>585
1「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

序章:愛と無の祝祭

―あなたは愛、あなたは無の踊り手

 すべてが始まる以前、あなたは「純粋の意識」そのものとして存在していた。
 愛の中で完全に満ち足りた愛そのもの、  
 気づきを伴った空間そのもの、
 安らぎ以上の平安そのものであった。

 あなたの本質は映像が映し出される映画のスクリーンと同じもの。
あなたは英知の輝き、宇宙の創造者に「創造するという概念」を与えた人だ。
 忘れることができることは全て忘れて、決して忘れることができないそのも
のとしてのあなた自身を知りなさい。
 あなたはその上で全ての物事が起こる基盤だ、ただ起こらせなさい。
あなたは今、この瞬間そのもの、
この今から逃れられる私が存在するだろうか?
 あなたが真理そのものであり、唯一存在するのは真理だけだ。

 あなたの本質は無活動。
 太陽が無活動であるように本質は不動だ。
 活動は思考の投影から起こるもの。
 あなたのドラマ、あなたの世界。

 あなたは貴重なこの瞬間、現存そのもの。
あなたに触れたそよ風は悪魔でさえ神聖にする力を授けられる。 

  あなたは対象やアイデアに気づいている自分に気づいているそのものだ。
あなたは気づきよりももっともっと静かなそのものだ。 
あなたは命、そこから命という概念が生み出される。
 あなたの本質は静寂そのもので、それを手に入れることはできない
それは常に存在しているのだから。

 あなたはまず空間という概念を作り出した。
そして存在・意識・至福という姿をとった。
「世界」というのはあなたの*1マインドが生み出したもの、
 全てはあなたの*2ハートから、核心から、無から、起こって来る。
  
 今、ここに存在するのがあなたのハート。  
 このハートの祠の中であなたは愛として留まっている。
  そこから時間と空間が生み出される。

  あなたは内側、外側という概念を持たない内側にいる。
 マインドがどこにも存在しないところが内側、壁が存在しないところが内側。
 全てのアトムにあなたは存在している。
  このことを知った時、あなたは至福に満たされる。
  
 あなたは無そのもの、究極の実体、
無から無と言う概念を取り除いて無だけを残しなさい
 無を超えるものは何もないのだから。
  全ては無から現れ、無の中で踊り、無に帰っていく。
 波が海から起こり海の上で踊り海に帰っていくように
 あなたはこの無の踊り手だ。
  この無から外れて存在するものは何もない故に
 無は全てを含んで満ち満ちている。
 存在と無存在の間に無は存在する。
  自由であるためには、この安らぎに満ちた無が 
あなたの基盤であるという確信が必要だ。

 あなたの中ですべての出来事が起こる。
起るべきことは起こるのだから安らぎに満ちて影響されずにいなさい。
 平和に満ちていなさい、そうするとこの平和が外に広がっていく。
平和から生まれるものは平和、混乱から生まれるものは混乱。
 だから平和でいなさい、この平和を宇宙に奉げなさい。
これが唯一あなたがすべきことだ。
「私は平和だ」と考えることでさえこの平和を乱してしまう。
 だからただ静かにしていなさい、あなたの「在るがまま」でいなさい。

 あなたは「在る」ことであり、「在り続けた」でもなければ、
「在り続けるだろう」でもない。
 あなたは死に侵されない永遠性、
そこには時間が存在しないので死も存在しない。
そのまさに永遠性というのは今、この瞬間のことだ、それが「在る」ということ
だ。

 単に「在る」ということはいつも輝いた存在だ。
 私自身、これが存在の光だ。
   このダイヤモンドの光は隠しおおせるものではない。
  マインドが存在しない時、
  あなたの顔は美と無垢で光り輝く。
   ただ静かにして、あなたのあるがままでいなさい。
  
用語解説
*1 マインド 思考の集合体。

*2 ハート  心臓や心という意味ではなく、源泉、センターという意味。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

587避難民のマジレスさん:2019/06/02(日) 18:47:44 ID:Zjqr/UEo0
>>585 お疲れ様でした!
貴重な文献を鬼和尚さまの解説で読むことができました。
ありがとうございます。引き続き講読会、楽しみにしています。

588避難民のマジレスさん:2019/06/02(日) 22:28:38 ID:LC3de7YgO
>>586
パパジは、「静かにしていなさい」と繰り返し言うのである。
最初は、静かにするにはどうしたらよいのでしょうか?
と聞きたくなったのであるが、
読み進むと何となく、わかってくるような気がしてきたのである。
(´・(ェ)・`)つ

589鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/02(日) 22:37:25 ID:1d4drIFg0
>>585 ご苦労さんだったのじゃ。
 正に菩薩の行ないじゃ。
 またよろしくなのじゃ。

この書はひたすら集中を訓練することではなく、気の操作によってサマーディにまで一気に到達させる方法を示したものなのじゃ。
クンダリニー・ヨーガと同じ人体のエネルギーを使う法なのじゃ。
気の感覚が分かり、精神集中だけでは効果が上がらない者には福音となる書なのじゃ。
しかし、サマーディから先に行くにはやはり精神の修練も必要なのじゃ。
その部分にタオの実践が必要なのじゃ。
それが還虚合道なのじゃ。

590避難民のマジレスさん:2019/06/02(日) 22:45:40 ID:LC3de7YgO
>>589
鬼和尚、ありがとうでありま。
今後ともよろしくお願いしするであります。
(´・(ェ)・`)つ

591避難民のマジレスさん:2019/06/02(日) 22:47:27 ID:LC3de7YgO
>>586
1「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)

〜SRI H.W.L.POONJA

序章:愛と無の祝祭(つづき)

   あなたは空間、決して移動進行することの無い空間。
  内側の空間、外側の空間という区別は名前と形のために生じる。
   いかなる対象物、考え、行動に対する執着を取り除くことによって
  この名前、形という概念を取り除きなさい。

  あなたはすでに喜びの園にいるのだから、
  幸せである為にあなた以外に誰も必要としない。
   過去のことに思い巡らすと悲しくなると言うのなら
  この「今」に帰ってきなさい。

   この喜びのこの瞬間が過去の記憶や苦しみを消し去ることができる。
  なぜならこの瞬間こそが幸福のありかなのだから。
  だから苦しむ為に過去の記憶に戻ると言うのはまさに馬鹿げている。
  
   条件付けのない意識が幸福と静けさをもたらす。
  この静寂は時間や空間とは何の関係もない、「今」に存在する。
   思考によって条件付けされた幸福はマインドの幸福だ。
  最初の条件付けである「私」は幸福の妨げになる。
  エゴの欲望と期待によって幸せな人は誰もいない。
   だから幸福を望むなら、考えないこと、欲望を持たないこと。
  ただ静かにしていなさい、考えることは暗い墓場にいることだ。
  幸福であるためには一切何も保持しないことだ、
   さもないとあなたのポケットから死んだ魚のような悪臭が漂うだろう。
  親愛なる友よ、幸福は体験ではない、あなたの本質なのだから
  そのために何もする必要はない。

   幸福は私の本性だという真の知識が幸福をもたらすのだ。

   ここ、ここに美酒があるのに誰も知らない。
  全てがここにある、これが意識だ。
  意識がこの宇宙の全ての基盤だ。
   「それ」、即ちあなたは全ての分子、アトムに存在する、
  時間や空間でさえ「それ」がその存在を与えるのだ。
   あなたが肉体やマインドの服を着ていると誰が気づいているのか、
  誕生や死の繰り返しがこの同じ意識の中で起こっていると誰が意識しているの
か?
   あなたが「それ」だ。
  すべての活動や無活動、多様性や一体性、これらはすべて意識の中に存在する。
  束縛はこのことを否定することであり、自由はそれを知っていることだ。
   あなたはそれだ、あなたはその意識だ
  
   意識、
  感覚では捉えることができない。
  頭では理解することができない。
  意識だけがいたるところに存在する。 
   それがあなたの内に「私」として湧き上がって来る
  それは太陽の輝き、地球の自転だ。
  それは空間と時間を超えたもの。
   逆に時間と空間は意識から生まれて来るのだ。
 マインドで真理を探そうと努力するなら
 それを見逃してしまうだろう。
 これらのマインドの試みが動きとなり、雲となり、その不動性を隠してしまうか
らだ。
 思考が止まった時に、それはそれ自身の姿を現す。
  一瞬だけで良い、思考の動きを止めなさい。
  一秒だけで良い、全ての欲望、全ての思考を止めなさい。
  一瞬だけで良い、「私が」という考えを捨てなさい。
   そうすればあなたは誕生と死という輪廻から永久に越えられる。
  この輪廻が*3サンサーラ、あなた自身の想像のたまもの。
  誕生も始まりも死も存在しない。
   真の知識によってのみこの輪廻を止めることができる。
  「私は一体誰なのか?」
  この自問がこの輪廻を止めることができる。
   だから決心しなさい。
  人間としてのこの生はすばらしい祝福だ、決して無駄にしないことだ。
   延期することはサンサーラ、苦しみの繰り返しだ。
  あなたが困った時にはいつでも、「私は夢を見ているのか?」と自問しなさい。
  これは「私は誰か?」という質問と同じことで夢から覚めることが出来る。
   そして、あなたはあなたの真我と恋に落ちるだろう。
  その時初めて「他人」を知ることになる。
  この知識の光をあなたがどこにいようとも燈し続けなさい。
  
   静かにしていなさい、考えないでいなさい、努力しないこと。
  束縛されるには努力が必要だが、自由であるためには努力はいらない。
   心の平安は思考と努力を超えたところにある。
  思考と努力がそれを隠して、決してそれを明らかにすることはできない。
   このために静かにしていることが愛と平和の宝庫を開ける鍵となる。
   
用語解説
*3 サンサーラ 個人が解放されるまで繰り返される生と死のサイクル。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

592鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/04(火) 00:08:43 ID:1d4drIFg0
自我の在る者は過去の記憶から悲しみや怒り寂しさなどに苦しめられるのじゃ。
そしてそれらを未来にも続くであろうと認識するから不安になるのじゃ。
過去の記憶に囚われず、記憶を未来に投射せずに今ここにあれば誰でも幸福になれるのじゃ。
それが本来の意識なのじゃ。

593避難民のマジレスさん:2019/06/04(火) 05:09:34 ID:LC3de7YgO
>>591
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

序章:愛と無の祝祭
   
   この静けさがノーマインド、この無思考が自由だ。
  何もないこと、この静けさにあなた自身を一体化させなさい。
   しかし注意しなければならないことは、それを経験にしないことだ。
  経験は「観察者と観察されるもの」という二元性を持つマインドの罠で
  それから遠ざけてしまうからだ。
   「ただ在ること」は「ただ在ること」だ、観察者や観察されるものは存在しない。
  「私は自由だ」という経験は、「私は束縛されている」という経験と全く同じマインドの罠だ。
   対象を手放したあとは主体も手放しなさい。
  全てを手放して、静かにしていなさい。

   人生の目的は平和でいること、
  全ての生き物を愛すること、自分が誰かを知ること。
  あなたの本性を知れば全てを知ることになる。
   この潔癖な知識のみ、無のみが存在する。
  限界のない無からどのようにして抜け出すのか。
  名前、形の様相はこの無の戯れだ。
   今、ここで、ただ静かにして、あなたは一体誰なのかを知りなさい。

   あなたはこの瞬間に存在する、「これ」に自己紹介しなさい。
  マインドをいろいろな方面に向けないことだ。
   修行なし、過去なし、未来なし、
  あなたのハートの中の無も、空間でさえ存在しない。
  永遠に自由であるために、この一瞬に向かって自己紹介しなさい。
   この瞬間はいつもこの瞬間だ。それは不変だ。
  マインドと概念から自由になることが本当の自由だ。

   自由はあなたの基本的に持って生まれた権利だ。
  この瞬間を最も有効に使うにはその中に溺れてしまうことだ.
   静かにしていなさい、あなたは内側の内側にいる、
  どこにも定着しないで、努力するのをやめなさい。
  努力と修行の概念は束縛になる。
   ただ静かにしていなさい、
  どこにいようとも、ただ静かにしていなさい。

   名前と形というものが事の本質を隠してしまう。
  これが教訓だ。
  名前と形に囚われることは、自由への障害になる。
  あなたの基盤である意識がそれに覆われて見ることができないからだ。
  馬の彫像といえば目は素材のグラナイトを見ることができない。
  指輪を見なさい、それを作っている素材のゴールドは見ることはできない。
  ゴールド無しに指輪が成り立たないように  
  名前と形は意識を離れて存在することはない。

   波が起こる以前は静かな海であった、欲望が起る前は無であった。
  切望や束縛を壊しなさい。
  経験者ではなく経験している、見る人ではなく見ているに同一化することによ
って
  それらを破壊しなさい。
   あなたは意識そのものであつて、意識がある「人」ではないのだから。
  自由であるためには自由のように振舞いなさい。
   自由とは欲望がないことだ。
  すべては無欲の状態の中で知ることができる。
  何も所有したくないのならポケットはいらない。
 過去は過去なのだから記憶というポケットに入れて持ち歩かないことだ。
  自分は生きていると知っていながらどうして過去という墓場に入ろうとする
のか。
  一時的なものには執着しないで、あなたの絶対的な真我に執着しなさい。

   あなたが執着した全てのもの、あなたが愛した全てのもの、
  あなたが知っている全てのものは、いつか消え去ってしまう。
   このことを知った上で、世界は自分のマインドが創り出し
  その中で演じて、苦しんでいるだけなのだと分別しなさい。
   真理か、そうでないか識別しなさい。
  既知は真理ではないので来ては去っていく、
  未知は変わらない真理だ、それと一緒にいなさい。
  現れては消え去る全てのものは実在しないのと同じだ。
   それらから蜜の甘さは味わえないのだから、執着するのはやめなさい。
  そして、いったん手放したら、もう二度と取り戻そうとしないことだ。
   永遠にあなた自身の存在の中に留まりなさい。

   真理は不動だ。行ったり来たりはない。
  エゴの混乱、動揺が全宇宙の混乱を創り出す。
   しかし、真理は不動だ。
  このエゴがどこから、どのようにして生まれて来るのか注意深く見てごらん。
  「私」というのは単なる親から社会からの条件付けの集まりだ。
  習癖の集まりにすぎない。
   個人というのは本当の私がエゴという着物を着ているようなものだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

594鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/04(火) 22:49:49 ID:1d4drIFg0
名前と形はインドではナーマ、ルーパというのじゃ。
伝統的な分類による観念の要素なのじゃ。
記憶に拠って人は名前と形で全ての物事を認識しているのじゃ。
自分も名前と形で認識しているのじゃ。
それも記憶に依存したものであるから謬見となるのじや。

595避難民のマジレスさん:2019/06/05(水) 04:55:19 ID:LC3de7YgO
>>593
1「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

序章:愛と無の祝祭(つづき)

  個人というエゴを捨てなさい。
  エゴはそれが問題だという、
  神はそれは問題ではないと言う。
   全てが至高の力に支配されているのだから
  エゴの決定力は幻想にすぎない。
   全能に直面しなさい。

  降伏するとはあなたのエゴを、個別性という概念を明け渡すことだ。
  降伏するとはあなたの馬鹿さ加減、邪悪さを
  存在の意志に明け渡すことだ。
  それだけのことだ。
   川が海に流れ込むように降伏しなければならない。
  降伏とは「あなた」という川の分離感が
  海の中に流れ込んで、川であるという限界が無くなってしまうことだ。
   そして、起こることは起こるがままにすることだ。

  空間に降伏しなさい。
 真の知識でエゴを溶かしなさい。
  自問という乗物に乗って愛と崇拝と一緒に
 あなたの真我に、静かに内側に入っていきなさい。
  この自問はすべての努力を捨てるということだ 
 静かに、静かに入っていきなさい、小さな思いつきでさえ大きな雑音となる。
 静かにしていなさい。
 静かにしていなければならないのはエゴであって、あなたはそのエゴではないと知りなさい。
  この沈黙は話をする、しないとは全く関係が無い、
 マインドの中に一つの思考も湧き上がらない状態を沈黙と言うのだ。
  静かにしていなさい。
 考えるのを止めなさい。
 努力するのを止めなさい。
 
  この何も無いこと、この静けさにあなた自身を一体化させなさい。
 そこには「獲得」するものは何も無い。
  源泉の本性は耕して栽培してその実を得るというものではない。
 あなたは意識で農夫ではないからだ。
  既にそのものなのだから
 どうしてそのものになろうと努力する必要があるだろう。
  社会から押しつけられた束縛から逃れようと努力することは、
 押しつけられた自由を獲得するのと同じことだ。
  
 あなたはものや考えに気づいていることに気づいている「それ」だ。
  気づきとは、「対象に気づいている自分に気づいている」ことだ。
  あなたは「それ」、静けさそのもの。
  
   覚醒への近道はマインドの純潔さに頼っている。
 このショートカットはあなたの欲望を切るということだ。
  欲望の対象物が幸福をもたらすのではない。
 これは逆に束縛を与える。
  獲得したあとの無欲状態が幸福をもたらすのだ。
  無欲が幸福をもたらすのだ。
   欲望だけがあなたの平和と休息への道を妨げている。
  この欲望というのがマインドの病癖だ。
   欲望なしに生き、幸福でいなさい。

  幸福はあなたの本質だからその為に何もする必要はない。
  自分を知る、自分の本質を知るということが幸福をもたらす唯一の道だ。
  「ここ」、ここに美酒があるのに誰も知らない。

  世界の出来事、自由、マインド、全ては存在しない。
 これが究極の真理だ。
  究極の真理は全て無であり、いつも無であったということだ。

  ノーマインドとは外側の世界とは関係がない。
 ノーマインドが無に行きつく唯一の道で、他に道はない。
 本質が明らかになるのはあなたがノーマインドの時だ。
  だから静かにして、何も考えないこと、努力をしないこと。
 何も考えないでおこうと努力しないこと。
 
  自分の本性を知るには
 強靱な肉体とマインドと意志が必要だ。
 あなたはやり遂げねばならない。
  単にメニューを読んでいるだけでは空腹を満たすことはできない。
 食物を食べなさい。
 愚かなマインドを征服しなさい。
  理解するということではない、「在る」ということだ。
 自由でありたいと決めるのはマインドではない。
 なぜなら自由を達成した時、マインドは存在できなくなるのだから。
  マインドをコントロールしなさい。必要な時は召使いのように使いなさい。
 ここ、この瞬間に自由である為にはマインドは必要ない。

  私が本当に教えたいことは、
「教えることができないそのものについて」教えたいのだ。
 私の教えは教えることができないということだ。
  全ての教えが湧きあがって来るその源泉、
 その本質について私は教えることができない。
 この本質というのは全てを超越しているので
 教えるとか教えないとかの問題ではない。
  その本質とは全ての言葉が生まれて来るその源泉のことだ。
 バグワン(マハルシ)ならこう言うに違いない。
  真理はここにある、あなたは一体何が欲しいのか?
 決断はあなたにかかっていると・・・。
(´・(ェ)・`)
(おわり)

596鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/05(水) 22:55:53 ID:1d4drIFg0
百万人のブッダがいても一人の人間に永遠の意識を教えることは出来ないのじゃ。
それは自ら到達しなければ理解も出来ないものなのじゃ。
教えられるのはそれに至る方法だけなのじゃ。
そうであるから方法を教わったならば、実践するしかないのじゃ。

597避難民のマジレスさん:2019/06/06(木) 03:29:10 ID:LC3de7YgO
>>595
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第1章 真我 ☆Part1
  
   真我というのはあなたであるところのもの、
  あなたは「*1それ」だ。
  測り知れない「それ」から、経験や概念が現れる。
  真我は往来のない一瞬。
  それは、*2ハート、*3アートマン、無。
  それは、それ自身の中で、それ自身に対して、それ自身で光り輝いている。

  真我が生命に息吹を与える。
  それを探し求める必要は何もない、それは「ここ」にあるのだから。
  あなた自身があなたが探し求めているものだ。
  「それ」が存在する全てだ。
  唯一真我のみ。

  欲望だけが生まれ変わっただけであなたは決して生まれてこなかった。
  何もかって起ったことはないし、何も存在したものもない。
  この何もないこと、これがあなたの本質、
  そして、これが究極の真理だ。
  完全にあなただけ、即ち美しさだけが存在する。
  唯一真我のみ。

  あなたの本質は意識だ、ということは明らかで拒むことはできない。
  あなたはハートの蓮華の中で至福の喜びに満ちて存在している。
  静かにしていなさい、
  そうするとあなたの真我があなたの真我にその姿を現わすだろう。
  「真我を知る」ということは他の全てのものを犠牲にしても知る価値があるものだ。
  他の全てのものは意識から出現する蜃気楼にすぎないからだ。

  全ての生き物の中に真我が存在する。
  それ故に他人を愛するということは真我を愛すること、
  自分自身を愛することと同じだ。
  真我は最も偉大な愛で同時に最も愛すべき愛人、
  愛というのが真我の魅力で、真我が真我を魅了する。
  この愛、この喜びの源泉のほかに何もない。
  あなた自身がどんなに美しいか見てごらん。
  あなたはこの内なる美しさ、愛そのもの。

  これでもない、これでもない。(*4Neti,Neti)
  しかし、あなたの本質は決して拒絶されることはない。
  それは「今」だけに存在する。
  起きていようが、寝ていようが、夢見ていようが、
  唯一「今」に存在する、
  唯一真我のみ。

  この現在の瞬間が光であり、真我である。
  この瞬間は束縛でも自由でもない。
  概念を超えた最も貴重なものだ。
  この瞬間は全てが投影される何もないスクリーン。
  それはいつも不動で何にも影響されず時間を越えたもの。
  究極とこの「存在」の間には何の違いもない。
  この瞬間にいるためには
  この瞬間にいたいという欲望も含めて、全ての欲望を捨てることだ。

  本質的に名前も形もない「それ」に数え切れない名前がつけられた。
  存在、気づき、至福、アートマン、真理、真我、吉兆、美、
  自由、神の愛、完全、無、意識、瞬間、無努力、ここ、沈黙、*5ブラーフマン。
  舌が「舌」という言葉を話すように、
  あなたがあなたの名前を呼ぶ。
  あなたの先入観であなたの本性が覆われないように
  仏陀は否定的な言葉で真我について話した。
  たとえば、‘ANATA’とは、触れることができないもの、
  姿のないもの、目に見えないもの、
  近づくことのできないもの、知ることのできないもの、穢れのないもの。

  観念と世界が現れる以前にあなたは存在している。
  それ故に「それ」は言葉では言い表すことはできない。
  真我は自分自身を理解する必要はない。
  自由というのは自由という概念が現れる以前にあった。
  「私」という概念、マインド、過去が消え去ったあとに残されたもの、
  それがあなただ。
  何もないということは何の概念もないということ。
  それがあなただ。

  平和・美・愛と同一化しなさい。
  それを体験するのではなく、それと同じものになるのだ。
  「私は無活動、活動は私の中で起こっている。
  私はスクリーン、私は『それ』。
  私は決して生まれてこなかったし、決して死にはしない。」このことを知りなさい。

用語解説

*1それ  本質的に名前のない真理を指す代名詞

*2ハート   心臓や心という意味ではなく、源泉、センターという意味。

*3アートマン 全ての存在の不滅の本質、ブラーマンと同じ意味。

*4Neti,Neti これでない、これでない。
ウパニシャッドに書かれた言葉、ブラーフマンは言葉や思考では言い表すこと
はできないので、絶対の真理を見つける為に全てを拒否していく過程

*5ブラーフマン  ヒンドゥイズムの絶対的現実、究極の真理、存在・知識
・至福
(´・(ェ)・`)
(つづく)

598鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/06(木) 23:00:48 ID:1d4drIFg0
アートマンは認識できない認識主体なのじゃ。
認識主体から全ては認識されるのじゃ。
しかし、認識主体のみは認識できないのじゃ。
それにたどり着くには全てを否定するしかないのじゃ。

599避難民のマジレスさん:2019/06/07(金) 04:08:36 ID:LC3de7YgO
>>597
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第1章 真我 ☆Part1(つづき)

  意識そのものと同一化しなさい。
  自分は誰かと覚えていたらこの世の中の動きは宇宙の踊りだ。
  往ったり来たりするものに留まるのではなく、
  自分自身に留まりなさい。
  個別な自我はマインド。 
  「在ること」は未知の領域を持たない。
  自分自身が自分自身に気づいて「在ること」なのだ。
  「在ること」に同一化しなさい。

マインドが純粋・潔癖なら、存在する全てに真我を見るだろう。
  すべての概念、特に純粋さの概念を取り除くことでマインドを純粋にしなさい。
  そうすると真我が無のマインドにそれ自身で姿を現すだろう。

  エゴ、マインド、そして全ての創造物は真我から真我としてやってくる。
  醜悪な疑念や差別や分離感でさえ美しい源泉から湧きあがってくる。
  真我の中ではすべきこと、すべきでないことは存在しない。
  不幸に直面しても、あなたは不幸ではない。
  あなたは不幸に影響されることのない気づき。
  波は海から切り離せないように光線も太陽から切り離すことはできない。
  これと同じように、あなたは存在から離れて生存することはできない。
  あなたはこの瞬間、全てが存在するこの瞬間。

  経典の中に内なる三つの神聖な川について書かれている。
  それらは存在・意識・至福。
  それらは思考や努力で対象化されたり、主体化されることはない。
  それはとても親密で、とても身近にある。
  網膜の背後、息をする以前にある。
  これを見る必要はない、あなたはそれだから。

   あなたは、「存在」・「在ること」とどんな違いもない。
  目で見るということではなく、全ては「在る」ということを見てごらん。
  対象物を見るということではない。
  単に見ることが、「在る」ことだ。

  意識が本来の「母」。
  このことを知っているならこの「母」が面倒見てくれる、
  幸福・平安・不死を与えてくれる。
  この「母」を知らないために問題に巻き込まれる。
  既知の母は永遠の平和と愛を与えることはできないから
  あなたの本質であるこの「未知の母」、「それ」に戻りなさい。

  至福は永遠だ。
  マインドが死んだとき、至福が湧きあがってくるように見えるけれども
  至福は体験から来るものではない。
  それはあなたの本性だ。
  至福は賢者のハートだ。
  至福はこの贈り物をあげようと全ての人を呼んでいる。
  「あなたは全ての存在のハートの中に座っている。」
  これが真理だ。
  この真理であなたの顔は光り輝く。

庭で庭仕事をしている王は王のままで決して庭師ではないように、真我は世間
の庭の中にいても真我として在ることができる。
活動的な世間で活動しているのはあなたであなた自身の真我ではない。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

600鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/07(金) 22:12:42 ID:1d4drIFg0
パパジの説くことは実に明確じゃ。
人は何かになったり、何かをしたりしなかったりする必要も無いというのじゃ。
ただそれであるだけであるから、何もする必要は無いのじゃ。
何もしないと言うことが最高の道なのじゃ。
修行していない者には難しいことであるがのう。

601避難民のマジレスさん:2019/06/07(金) 22:30:40 ID:LC3de7YgO
>>599
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第1章 真我 ☆Part1(つづき)
  
世界の物理性が現れてくる、その源泉に行きなさい。
そうすると広大さ、秘密の神聖なあなたのハートの核心を発見するだろう。
しかし、対象に執着したり何かに成ろうとする欲望のためにこのことを忘れて
しまう。
欲望と期待のためだ。
全ては一つで、一つが全て。

古びた習癖の期待や欲望を捨て、この共通の真髄に一体化したならあなたは宇
宙の皇帝だ。
「今」・「ここ」に戻ってきなさい、そうするとあなたがこの「今」・「ここ
」になる。

  全ては真我。
  あなたと私の違いは単なる言葉、単なる概念の違い。
  あなたの中の真我は私の中の真我で全ての存在の中の真我。
  全ての源泉は同じだ、これが真我、これが愛、これが慈悲。
  真我から離れようとしても決して離れることはできない。

  「私は海、目に見える全ての形態は私の上で踊っている波だ」、これが知
識。
  波が起こるとき、海は何も失うものはない。
  波が静まるとき、海は何も得るものはない。
  波が遊んでいるときは海も遊んでいるのだ。
  私は海、私は水、私は波。
  海と水と波の間に分離はあり得ない。
  そこには何の違いも、動揺も動揺する人もいない。
  
「私」、あるいは他の思考を起こすことが波を起こすことだ。
  どんなに波立とうと、水は水のまま。
  だから全てをあるがままにあらしめなさい。
  全てがあなたの真我なのだから。
  河が海に流れ込むように、あなたであるところのものに流れ込みなさい。
  幸福、至福、存在、宇宙に流れ込みなさい。
  「ここ」には気づきのみ、真我のみ。

  たとえそれを忘れてしまってもあなたは「今・ここ」にある「それ」だ。
  忘れっぽいあなたに気づいているのはあなたなのだから。
  あなたは目覚め・夢・眠りの三つの状態に存在する覚醒の意識。
  この変化する三つの状態の中で唯一真我のみ消えることはない。
  
  真我はノーマインド、ノーマインドは肉体を持たない。
  ノーマインドのこの美しさから芸術や直感的洞察が生まれる。

  かって何も起らなかったしこれからも何も起らない。
  あなたはいつも完成された愛であり平和であり続けた。
  変化するものは真実ではない、真実であるものは変化しない。
  あなたは変化を超えた、言葉では言い表せないその秘密、その純潔さだ。
  しかし、「私」に触れると誇りという概念で汚されてしまう。
  
「私が努力してやり遂げた」というこの「私」は、真の「私」ではない。
  真の「私」は全てが自分の反射―投影だということを知っている。
  単に「私が在る」と知っていることは無努力の状態だ。
  これが瞑想であり*6サハジャつまり自然な存在の状態だ。
 
宇宙の塵の一つ一つの中に数え切れない宇宙が存在し、数え切れない仏陀が光
り輝いている。
あなたが理解できるようにそれを説明するのは難しいがこれは事実だ。
それを見ることはできる。
たとえば、全てが一つの原子から現われる、それは神秘だ。
誰もこの神秘を解くことはできない。
私たちがいつもサットサンガで話している「この瞬間」も アトムと同じようなものだ。
その一瞬にあなたの全ての生をみることができる。
全ての人が本質的に仏陀なのだ。

用語解説

*6サハジャ   自然で完全に悟りを得た状態。

(´・(ェ)・`)
(おわり)

602避難民のマジレスさん:2019/06/09(日) 02:02:42 ID:LC3de7YgO
>>601
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA
崎山綾子翻訳

第1章 真我 ☆Part2

Q:永遠で、しかも定義することができない存在を明示してもらいたい。
    
その存在があなただ。
なぜそれを疑っているのかね。
悟りというのは疑わしい言葉、思考、概念ではない。
悟りというのはいつも「ここ」にある。

  「ここ」というのはこの空間にという意味ではない。
 「ここ」というのはマインドが届くことができない内なる場所という意味だ。
  この「ここ」というのは「そこ」の反対語ではない。
  この「ここ」というのはどこでもなく、それはあなたの*1ハートだ。
  マインドが動かないとき、全てはハートに帰って来る。
  宇宙の全てがあなたのハートの中の一点に存在する。
  
  この「ここ」にマインドの向きを変えなさい。
  そうすると、マインドは消え去る。
  そして光、知恵、愛だけが残る。
  これがあなたそのもの、これがあなたといつも一緒にあるものだ。

Q: 私が肉体でもなく、マインドでもないとしたら一体私は何なのでしょうか?
    
あなたは真理、善、美の形をとる無形性だ。
これがあなたの形態だ。
我々がここでやっていることは直接それを見るということだ。
しかしあなたはこれに向かって進んでいくのではない。あなたがこれだ。
Satchitananda。
これが*2アートマンの形態だ:真理・意識・至福、これがあなたの真我だ。
それを外に追い求めるのではない、「それ」は内にある。

至福はあなたの内に。それがあなただ。
真理はあなたの内に。それがあなただ。
美はあなたの内に。それがあなただ。
愛はあなたの内に。それがあなただ。

Q:真の気づきとは何ですか。
      
例えば花という対象物に気づいている気づきがある。
真の気づきはこの対象に「気づいていることに気づいている」気づきだ。
それは乱されない単なる気づきでその中でことが起こり、消え去る。

 対象物や出来事に対する気づきを超えた気づきがある。
  あなたはその気づきでその中に対象に対する気づきが存在している。

この真の気づきには名前が無い。
名前をつけようとしたら問題が生じる。
あなたには名前が無いし、形も無いので何も見ることはできない。
「私は名前無し、形無し」ということを知りなさい。

それが「私は自分の真我に気づいている」ということだ。
純粋の意識がその中にあなたを引っ張り込むのだ、あなたがその中に入って行
くというのではない。
もしあなたが入って行くというのならそれはエゴが入って行くということだ。

しかし「それ」があなたを引っ張り込むとき、「それ」があなたを家に連れて
帰ろうと決めたのだ。
理由は分からないがこれが起っていることだ。
意識によってあなたが選ばれるというのは非常に珍しい。
しかし一度「それ」に引きずり込まれたらその人の旅は終わりだ。

そう、気づきに名前を与えたりしないこと。
さもないとそれはある人の観察の対象物のひとつになるだろう。
意識は決して観察され得ない。それはいたるところに満ちている。
無限界、永遠そのものだ。あなたはそれに溶け込んでゆかねばならない。
現実にはそれは溶け込みでもない、それを言い表す言葉はない。

「それ」と同じように無垢で純粋でいなさい。
そうするとあなたは「それ」によって選ばれる。
あなた自身の努力で決してできることではない。
あなたはとても美しいので花婿によって花嫁として選ばれた、と想像してごらん。
これがどのようにして事が終わるかだ。
    
Q:私はすべての出来事を遠くから見ている観察者のような感じがします。
 
この観察者は誰からも影響されない、この観察者はどんな自己証明も持たない

名前、形を超えたものだ。
あなたがこの種の観察者であるとき、誰もあなたに触れることはできない。
あなた自身にさえ触れることはできない。

そうすると恐怖はなくなる。森の中に独りで行くことができる。
ライオンやタイガーにあっても恐れることはない。
彼らの目の中を見つめなさい、そうすると誰もあなたを殺せない。

用語解説

*1ハート 心臓や心という意味ではなく、源泉、センターという意味。

*2アートマン 全ての存在の不滅の本質、ブラーマンと同じ意味。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

603鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/09(日) 22:42:07 ID:1d4drIFg0
パパジの説く事はどこまでも気付いていることなのじゃ。
それは気づいている者があるということを意味しないのじゃ。
真の気付きは主体無く起こるものじゃ。
全てであると言う気付きなのじゃ。

604鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/09(日) 22:42:42 ID:1d4drIFg0
パパジの説く事はどこまでも気付いていることなのじゃ。
それは気づいている者があるということを意味しないのじゃ。
真の気付きは主体無く起こるものじゃ。
全てであると言う気付きなのじゃ。

605避難民のマジレスさん:2019/06/09(日) 23:52:53 ID:LC3de7YgO
>>602
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第1章 真我 ☆Part2(つづき)

Q:私は*3超意識を一瞥したことがあります。それは意識の広がりであり、
存在の中心が存在しない感じでした。
 
あなたが何かを一瞥するとき、あなたは一瞥を一瞥する人になる。
あなたが一瞥するものは一瞥する人の対象物だ。
一瞥するには、「一瞥する人・一瞥・一瞥されるもの」があるはずだ。
誰の対象物にも決してならない超意識をどのように一瞥することができるのかね?
神でさえこれを見ることはできない。

なぜなら神でさえ、その帰依者が信仰する知覚の対象だからだ。
この超意識の一瞥は不可能だ。それは対象化されることはありえない。
それは主体なのだから。
本当のことを言えば、それは主体でもない。
主体と対象という関係がないとき、一瞥はありえない。

全世界が見る人・見ること・見られるもの、で成り立っている。
しかし、超意識はこの分類には属さない。誰かが自由でありたいという非常に
強い欲望を持ったとき、それは超意識に向かって動いていく。
そしてそれと溶け合って、「それ」そのもの になる。

蛾が炎に向かって飛んで行き、炎に口づけしたとき何が起こる?
蛾ではなくなる。炎は幸福に燃えて、「私の愛しい人、こっちへおいで。あ
なたが来るのを待っていたのだよ。」この蛾は戻っては来ない。炎となってしまうからだ。
このようにことは起こって一瞥はありえない。
自由でありたい人は誰でもその人を呼び続けている何かによって導かれている
のだ。

Q:エネルギー・ゴールデンライト・気づきの間にはどのような関係があるのですか。
    
 ウォーターは英語、アグアはスペイン語、パニはヒンディ語。同じ実体に対し
て3つの異なった名前。
このように「それ」を*4シャクティ、光と呼ぶこともできる。
光というのは何かについての知識を持つということだ。
光が知識だ。知識はエネルギーだ。
そのエネルギーがあなたを知識に導き、全ては一つだということを知るのだ。

あなたは知識そのもの、そしてエネルギーだ。
そしてこれは気づきと同じことだ。
異なった人々によって異なった言葉が使われるように違いは言葉だけだ。
ある人は「自由になりたい」と言い、仏教徒なら「無になりたい」、他の人は
「*5ニルヴァーナが欲しい」と言うだろう。
これらの異なった言葉は名前のない同じ実体を意味しているのだ。

パニ、アグア、ウォーターの実体には名前がない。
このように「それ」を気づき、光、エネルギーと呼ぶのはその人によるのだ。
しかし、「それ」は名前のない、形のないものだからそれ自身の名前を知らない。
だから名前のついたものは、真実でない何かであるに違いない。

名前や形が名前や形のない「それ」へと導く?
一体どうして名前と形のないものを見つけることができるのか?
それは不可能なのだから、名前と形のないものを探そうと試みないことだ。

しかしこの光がそこにある。そしてこれが知識、このエネルギーが気づき、そ
こには何の違いもない。
シヴァとシャクティは同じものだ。
一方は知識で、他方は自分自身がシヴァであると知るためのエネルギーだ。

エネルギーは決して死なない。エネルギーは常に残ったままだ。
形は現れたり消えたりするがエネルギーはいつも「ここ」にあるだろう。
    
Q:基盤としてですか?
    
そうだ、エネルギーが基盤だ。そして基盤はエネルギーによって「私は基盤
だ」ということを知るのだ。
そこには何の違いも生じない。「私は『それ』だ」というこのエネルギーの知
識はエネルギーそのもの、知識そのもの、光そのもの、知恵そのものだ。
これはまた「自由」とも呼ばれている。
    
Q:気づきとエネルギーは異なったものではないのですね?
    
そうだ、それらは異なったものではない。
波は海から起こり、海とは異なったもののように見える。
名前は違う、動きは違う、高さや幅や広さが違う。
また、波は動く。そして波は、元は海であったことを忘れる。
しかし、海と波の中身は同じだ。
さて、波は今ともかく「私は海だ」と思い出す。

だから、岸に向かう波の動きをあらしめなさい。
波が立って、落ちて、消えるのを許しなさい。
これが世界の顕現と消滅の過程だ。しかし海は何も心配していない。
基盤、本質は波になるのを気にしないのだから、波の動きは問題にはならない。
     
用語解説

*3超意識  肉体に属する意識ではなく、肉体、マインド、を超えた普遍的な意識

*4シャクティ 聖なるパワー、エネルギー、恩寵と悟りを授けるエネルギー。活動性

*5ニルヴァーナ 消滅、絶滅、仏教用語、全ての欲望が消滅した悟りの状態。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

606鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/10(月) 23:02:35 ID:1d4drIFg0
究極にまで達した教えには常に悟りへの道を示すものがあるのじゃ。
それをいろいろな名前で呼ぶが、実際は同じものなのじゃ。
名前も形も無いものに導くために仮に設定して示すだけなのじゃ。
実践によってのみその彼方に至ることができるのじゃ。

607避難民のマジレスさん:2019/06/10(月) 23:55:14 ID:LC3de7YgO
>>605
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第1章 真我 ☆Part2
     
Q:それではエネルギーはいつもそこに有り続けるということですか。
    
 いや、エネルギーはいつも「ここ」にあり続けるのだ。
海がある限り、海そのものの中に、波が動いて消えるのを許すエネルギーがあ
り続けるのと同じように。
    
Q:もしあなたが死んだときには?
    
それは波が海に消え去ることと同じことだ。
死については誰かから聞いただけであなたの体験ではない。
あなたは生まれて来たと誰かが言ったのを受け入れたために、いつか死ぬとい
うことにも同意したのだ。
しかしエネルギーそのもの、基盤そのものは死なない。
肉体は波と同じだ。
姿形は消えてなくなるが本質は不変だ。この理解がエネルギーと呼ばれるのだ。
基盤に帰っていくことがシヴァになること即ち、不変の海になることだ。

Q:どうして全ての欲望を断つことができるのですか。
     
  静かにしていることによってだ。

Q:私は私の自己証明を失ったのか、それとも自己証明のない真我を見つけた
のでしょうか。どうか明らかにして下さい。
    
あなたはどんな自己証明を失くして、どんな自己証明を探し出したのか解らな
いのだね。
肉体との同一化が以前の自己証明だ。
そのときあなたは、息子になり父になり母になる。
肉体との同一化に留まっている限り、全ての自己証明を超えた「私は在る」と
いう自己証明を持つことはできない。
これが真我との同一化だ。
エゴ-マインド-肉体-感覚-対象物との同一化ではない。

Q:究極の解脱によって真我の美が永久に光り輝く為に、どうすれば私のマイ
ンドを完全に破壊することができますか?
    
至福の海でありなさい。
そうしたら世界との関係は見えなくなるだろう。
海だけが見えるのだ。
海の外とどんな関係も持たないこと。
満ち足りた水、満ち足りたあなた自身との繋がりだけだ。
この充満性があなたの本質だ。
これは楽しむべきものだ。
 
 海の中にいなさい。
海として海だけを考えていなさい。
他に何もいらない。
海だけがあなたのマインドの中に、目の中にあるべきだ。
常に海の実体と繋がっていなさい。
これがあなたがすべきことだ。
 
 「それ」を考えていなさい。
「それ」を嗅ぎなさい。
「それ」を聞きなさい。
「それ」を触りなさい。
そうしてあなたの戦いは終わるだろう。

Q:思考の流れと流れの間隙は何ですか?
  
その間隙が意識だ。
雲と雲の間には間隙がある。
その間隙が青空だ。
思考のスピードを落としなさい。
そうだ!その間隙を見つめなさい。
雲よりも間隙に注意しなさい。
最初の思考が去って次の思考はまだやってこない、それが意識だ。
それが自由だ。
それがあなたのいる場所、あなたの住家。
あなたはいつもそこにいる、分かるかね。

注意する方角を変えなさい。
図形を見るのではなく背景を見るのだ。
壁のように大きな黒板に白い点を書いて、「何が見えるか」と尋ねたら、99
%の人が黒板を見ないで、「白い点が見えます」と答えるだろう。
大きな黒板は見えないが目に見えないほど小さな白い点は見える。
なぜかね?
これがマインドの固定したパターンだからだ。

黒板ではなくて図形を見ること、空を見ないで雲を見ること、意識を見ないで
思考を見ること。
これは教訓だ。
いつも意識を見なさい。
意識があなたであると知りなさい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

608鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/11(火) 21:35:44 ID:1d4drIFg0
思考や感情等の全ての観念の働きの背景に意識はあるのじゃ。
肉体や思考や感情に囚われていると、それが感じられないのじゃ。
全ての観念と認識を超えた背景に眼を向ければ感じられるようになるのじゃ。
それは寝ている時にさえ在ると感じられるのじゃ。

609避難民のマジレスさん:2019/06/11(火) 22:14:37 ID:LC3de7YgO
>>607
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第1章 真我 ☆Part2(つづき)
  
Q:ここでは「あなたは肉体ではない」と度々話されていますが、生きている
ことの神聖さを体験する為には肉体は貴重だと信じている人たちがいます。
その人たちは完全に肉体と同一化することによって解放されています。
          
  生 命の神聖さはあなたの内にある*6プルシャ(Purusha:根本的な霊魂)
だ。
「それ」を経験しなさい!
それは男や女の形をした肉体ではない。
あなたが男性か女性かに関わらず内なるハートのプルシャだ。
ウパニシャドや他の聖典には、このプルシャは親指と同じぐらいの大きさだと
書かれている。
それはあなた自身のハートの中にあって永遠の炎として燃えている。
それがあなた自身、あなたのアトーマン(Atman:不滅の真我)だ。
それに集中して見てごらん。

 あなたはこのプルシャで、男や女という性別ではないということを知るだろ
う。
全ての人はプルシャであるけれども誰も「それ」と同一化することができない。
他の興味の為に肉体と同一化しているのだ。
誰もこの永遠のプルシャについて聞いたことはない。
これが私が話していることだ、現れもしないし、消えもしないもの。
私 が話しているのはそのプルシャだ。

 もしあなたが「それ」になりこのプルシャと一つになった時は、舌が話すの
ではなく、言葉がやって来るその源泉から「それ」が話しているのだ。
舌は話すことができる、しかし話すことができるという力は一体どこからやっ
て来るのか?
それはプルシャと呼ばれる源泉からやって来るのだ。
私が話しているのはそのプルシャだ。

Q:あなたの恩寵だけが私をマインドの世界から目覚めさせてくれるでしょう。
自由に対するこの熱望さえもあなたの恩寵です。
どうか私の本当の名前を教えて下さい。
     
あなたに与えられた名前は両親や牧師によって与えられたものだ。
これらは本当の名前ではない。
あなたは名前と一緒に生まれて来たのではない。
生まれた後でスーザンとか他の名前になる。
あなたは名前ではない、名前があると決して考えないことだ。
  本来あなたは名前無し。
  形があれば名前がある。
  名前があるところには形があるに違いない。
  あなたは形ではない、あなたは形の中身だ。
  あなたは名前のない誰かだ。
  形だけが名前を必要とするのだから。
  あなたのハートに誰が座っている?
  それには名前があるかな?
   ハートの住人、それが本当のあなただ。
  あなたは両親から生まれて来たのではない。
  あなたは「それ」、名前のない「それ」、
  決して死ぬことはないし、生まれることもない「それ」、
  永遠である「それ」だ。
  人の言うことを信じるなら、なぜ私が言っていること、「私はそれだ」と
信じないのか。
  私はアートマン、私は平和、私は愛、私は至福、
  これが信じられないのなら、このマントラを永久に唱え続けなさい!
  「私は至福」。

Q:形を持たない、この至福に形という考えを押し付けたくないので、どんな
新しい身元証明も持ちたくありません。
    
名前や形との同一化を捨てる決心をしたなら、その場であなたは形のない物
になるだろう。
もし身元証明という概念に触れない時、あなたは今、ここで、自由だ。
あなたの名前を使う為にあなたは過去に触れる。
人々はあなたを名前で呼ばなければならないがその名前はあなたの過去とは何
の関係もないものであるべきだ。
 仏陀というのも名前だ。
仏陀を仏陀と呼ぶ時、どんな個性が頭に浮かぶかね?
このように名前は、どんな執着も関係性もあなたに思い出させるべきではな
い。
それゆえに*7サットサンガではどんな個性とも全く関係のない名前が与えら
れるのだ。
人々は古い名前や過去をここに残していく。
私がMiss無をここに連れてきなさいといったら、彼女をここに連れてこられ
るかね?
言葉はそこにある、意味もそこにある、しかし「無」を連れてくることがで
きるかね?
 それはできない。
このようにあなたのア-トマンには個人としての名前がついているがそれを捕
まえることはできない。
それは空間を超えたもので、触れることはできないからだ。
        
用語解説

*6プルシャ 根源的な魂

*7サットサンガ 真理との交友、実現した聖人と弟子、探求者の交友、真理についての質問と対話。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

610避難民のマジレスさん:2019/06/11(火) 22:16:46 ID:LC3de7YgO
>>609
プルシャ(Purusha:根本的な霊魂)とアトーマン(Atman:不滅の真我)は同じ意味のようでありますが、言葉の違いの理由はあるのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

611鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/12(水) 22:39:33 ID:1d4drIFg0
それは人によって違うのじゃ。
生命や肉体の神聖を信じる者には、それがプルシャから来ていると説くのじゃ。
一切を否定するアートマンは、そのような者には厳しすぎるからのう。
相手にあった教えを説かなければ、実践せず、実践しても長く続くことも無いからなのじゃ。
対機説法なのじゃ。

612避難民のマジレスさん:2019/06/13(木) 07:25:27 ID:LC3de7YgO
>>611
鬼和尚、ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ

613避難民のマジレスさん:2019/06/13(木) 07:47:38 ID:LC3de7YgO
>>609
3「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第1章 真我 ☆Part2(つづき)

    
Q:人生の中で消極的なものを拒否する必要は何もないのですね。
それらは来ては去っていくのですから。
ただ執着しないでいるということですね。
    
この世界の全てのものはやって来て、留まって、去っていく。
やって来て、留まって、去っていかないものがあなた自身の真我だ。
    
Q: 求道者には3つの範疇があるといわれています。樟脳のようにすぐに会
得する人、ガンパウダーのようにまもなく会得する人、湿った木のように時間
をかけて会得する人。湿った木にどんな助言をしますか?
    
  範疇はない。
得るものは何もない。
あなたはいつも自由だ。
しかしあなたの注意が他のものにむいている。
一時的な対象物から注意をそらして、注意をあなた自身に向けてごらん。
本当のあなたはいつも「ここ」に存在する。
    
Q:樟脳のように燃えて「ここ」にいつもいたい。
    
 樟脳を火の近くに置くとすぐに着火する。
あなたの決心、献身、勤勉さ、熱心さが強烈な時、グルというのは火であなた
のハートは樟脳だ。
ハートの中でその火に近づくと何も残らずに燃え尽きてしまう。
もしあなたが炭のようであれば、燃えるのに時間がかかり燃えた後には灰が残
る。
生木ならもっと時間がかかる。
しかしたとえ生木でも炭でも真我だけに注目している人は数分で全てを終えて
しまう。
    
Q:私の中のこの気づいていることが「それ」ですか?
    
いや、それではない。
この気づいていることは「それ」ではない。
あなたは人や物や考えに気づいている。
しかしこれらの全てのものは過去に属している。
過去に対する気づきはそれではない。
 この「気づいていることに気づいている」それが「それ」だ。解るかな?
この「気づいていることに気づいている」のは誰か?
対象物に気づいている時、あなたのマインドは同時に何かに「気づいてい
ると気づいている」。
そう、この「気づいていることに気づいている」のは誰か。
頭を180度回転して、何かに気づいている「それ」に直面しなさい。
 そしてこれを知ったなら忘れてしまいなさい。
そうしないと、それは過去の体験となって、一時的な体験を何か価値のあるも
のとしてあなたの注意を引き付ける。
気づいていることは過去に属さないのでその体験については忘れてしまいなさ
い。
そうすると悟りにさえも執着しない世界中で一番自由な人だ。
全てを忘れなさい。それが 全てだ。
もし憶えていると、憶えていることは記憶でこれは過去だ。
  
  あなたの前にやって来るものに対してその場で対応しなさい。
  それが全てだ、これが私の助言だ。

Q:どのようにして「それ」を知ることができるのですか? 
 
 「それ」を幸福、平和、愛と表現しているがこれらではない。
これ以上のものだ。
期待することができるものをはるかに超えたものだ。
期待はマインドにすぎないし、マインドそのものは存在しない。
これらをはるかに超えているがまさにこの瞬間に知ることができる。

「それ」を知るのに膨大なプログラムは必要ない。
努力や手段も必要ない。
ただ静かにしていることでひとりでに現れる。
単にそれを妨害しないことだ。
今、その機会を与えなさい。
何億年も無駄にしてきたのだから、今、その一瞬を与えなさい。

「それ」が自然と明らかになるのを待ちなさい。
「それ」自体がひとりでに現れるのを待ちなさい。
あなたの概念、意図、期待、考えを「それ」に押し付けるためにその啓示を知
ることができない。

ただ静かにしていなさい、そうすればそれが起こるだろう。
瞑想によってでもなく、集中によってでもなく、聖地巡礼によってでもなく、
苦行によってでもなく、教会にいくことによってでもなく、ヨガをすることに
よってでもない。
これらは、「それ」を知るのに何の助けにもならない。
「それ」を知るのを延期させているだけだ。

「それ」はここに在る。
マインドがあなたを騙している。
決して耳を傾けないことだ。
ただ単に静かにしていなさい。
考え始めないことだ。
そのための努力でさえ必要がない。
「それ」はひとりでに現れるだろう。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

614鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/13(木) 23:03:25 ID:1d4drIFg0
>>612 どういたしまして、またおいでなさい。

気付いていることに気づいてることは、悟っていなければ難しいじゃろう。
どこまでも遡る無限遡及になるからのう。
その観念も実は心の変化によるものと気付けば捨てられるのじゃ。
過去の自分の気付いたことを追っているだけであるとその働きを見極めるのじゃ。

615避難民のマジレスさん:2019/06/14(金) 07:34:30 ID:LC3de7YgO
>>613
4「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第1章 真我 ☆Part2(つづき)

Q:内側だけが真実だということですね。
  
 もし内側が真実なら外側もまた真実であるに違いない。
全てが真理で全てが真我だ。

Q:マインドを超えたこの愛の深みに入って行くためにあなたの最初の一押しを
与えてください。

超えたところに行きたいのかね?
 それなら一人で行きなさい。
何も一緒に連れていかないことだ。
何についても考えないことだ。
思考を持っていかないことだ。
何も考えないというのが超えたところだ。

問題はあなたが考えるときやってくるのだ。
私は苦しんでいると考えている、恋人のことを考えている、これらすべての考
えることを絶対的にやめることだ。
そうすると過去の習癖に戻ってくることはない。
単に考えないこと、一人でいること。

全世界が思考から現れるように問題は思考から現れる。
なぜ問題に巻き込まれるのかね。

単に考えないこと、何も考えないときは、ほかに何もする必要がない。
これで十分だ。
そして何も考えないようにと努力しないことだ。

Q:(質問者が理解して笑い出す)とても簡単です。
 
 超えたところからやってくるこの笑いは、概念なしの笑いで普通の笑いとは
非常に違った笑いだ。
笑うことが全てのことの終わりだ。

Q:今あなたと一緒にいるということで胸がいっぱいです。
とても幸福すぎてあなたの言葉を理解しようとしても私のマインドは動きそう
にありません。

これが知恵だ、これが理解だ。

Q:かって一度も触れたことのない、何か無のようなものに触れた気がします。

これが至福だ、これが永遠の幸福だ、これが無だ。
これは時間の中で起こったことではないのでこの一触れで十分だ。
これから差し込んだ光が永久にマインドを捕らえるのに十分だ。

 あなたと古い習癖や行動との葛藤をこれが許さないだろう。
あなたは大変幸運だ。

ひとつスーフィの寓話を紹介しよう。

大昔の宮廷で人々が地位の順に従って王が来るのを待っていた。
そこにみすぼらしい服を着た男が入ってきて一番上の席に座った。
首相がこの新参者に彼の身元を明らかにするように命じた。
     
「お前は首相か?」
     「それ以上だ」と男は答えた。

     「お前は王様か?」

     「どの王よりも偉大だ」

     「お前は神か?」

     「私はそれよりも上だ」と貧しい男は答えた。
     「神より上のものは何もないぞ」と首相は言い返した。

     それが答えを引き出した、「その何もないのが私だ」。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

616鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/14(金) 22:25:43 ID:1d4drIFg0
神でさえ観念の中にあるものじゃ。
何も無いものは観念を超えた所にいるから神より上なのじゃ。
神以外のどのような観念よりも高いのも当然なのじゃ。
王とか大臣なども観念遊戯に過ぎないのじゃ。

617避難民のマジレスさん:2019/06/15(土) 00:46:27 ID:LC3de7YgO
>>615
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第1章 真我 ☆Part3

Q:真我が全ての中心ですか?
 
真我には中心がないし,円周もない。
中心に瞑想しようとする瞑想者もいないし、瞑想もない。
真我は流動的で自然で自発的で、やり手がいないので疲れも知らない。
やり手というのは「私がこれをしている」、「私はこれをしなければならない」
、「私は困っている」、「私は幸福だ」。
人との関係性も肉体を通り過ぎていくだけで真我とは何の関係もない。
あなたはこれらのことに影響されないし、これらの概念を超えたものだ。

世界や神や生き物たちに背を向けても、真我には決して背を向けないことだ。
あなたは何億年ものあいだ、真我に対して内気であった。
真我を見ないで見る価値のないものを見続けてきた。
今、あなたの真我に内気であってはならない。
目をしっかりと開いて真我を見てごらん。

Q:パパジ、空間だけです。

 すばらしい!すばらしい!それは空間だ.それは限界がない。
全てはこの空間の中にあり、あなたはこの空間だ。
あなたが空間であるとき、全てがこの空間の中にあるのだから全ての欲望はこ
こで終わりになる。
これが空間が実体である人の欲望の全てが、欲望が起こる以前に満たされてい
るということだ。
 
国の王は「この土地、あそこの土地を買いましょう」とは言わない。
王は全てを所有し、王国の君主なのだからこんな考えは決して起こらない。
このようにあなたが空間になったときは欲望の終わりだ、と言うことは苦しみ
の終わりだ。

欲望が苦しみを与える。
欲望が起こると、その近くに行きたい、それを達成したい、それを手に入れた
い、そしてあなたはそうするだろう。
そうしてあなたは幸福になる、違うかね? 欲望の対象物があなたを幸福にしたと考えるかもしれないが、真実は達成した
あとの欲望の不在が、その無の瞬間があなたを幸福にするのだ。
 
  欲望無しでいることが幸福であることだ。
  あなたの源泉に帰るとき、あなたは幸福だ。
  これが幸福の秘訣だ。

 全ての苦しみと死を取り除くためには源泉として留まりなさい。
そこでは何も存在しない。
全ては完全で満ち足りている。
それがあなたの本質だ。
あなたは既に「それ」であり、いつも「それ」であり続けるだろう。

「私は肉体」、「私はエゴ」という観念が苦しみを引き起こす。
教え込まれたこれらの観念が、存在しなかったときがあった。
そのとき、あなたは完璧であった。
そして、今も完璧だ。

頭の中に詰め込まれたこれらの観念を取り除きなさい。
振るい落としなさい。
そうすると、この今の瞬間に、あなたは誰かということを知るだろう。
さて、どんな考えが今あなたの中にあるのかな?
  
(´・(ェ)・`)
(つづく)

618鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/15(土) 23:37:50 ID:1d4drIFg0
中心とか外とか内とかも全て観念なのじゃ。
それがあるうちはアートマンには到達できないのじゃ。
全ての欲と観念を振り捨ててアートマンを求めるのじゃ。
そうすればアートマンも現れるのじゃ。

619避難民のマジレスさん:2019/06/16(日) 00:09:22 ID:LC3de7YgO
>>617
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第1章 真我 ☆Part3(つづき)
    
Q:全てに執着していると、どれだけ苦闘しなければならないかと気づいています。
    
苦闘する必要はない、苦しむというのはもがく事だ。どんな思考も起こさな
いこと。
「誰が苦闘するのだろう?」という考えや「私」という考えでさえも起こさな
いことだ。
 
   「私」はない、肉体はない、エゴはない、マインドはない、感覚はない
、対象はない、顕現はない。
 
過去を振り返って、起こったこと(顕現)の全ては、感覚と感覚の知覚作用に
すぎないと理解しなさい。
感覚というのはマインドが外に向かって働いているということだ。

実際にはマインドと感覚を区別することはできない。感覚がないときマインド
はない。
マインドというのはエゴ以外の何ものでもない、エゴは「私」以外の何もので
もない。
そしてこの「私」という存在感は源泉そのものだ。
今度は源泉から始めよう、どうなるか見てごらん。
  
  「私」は源泉から湧き上がる、波が海から湧き上がるように。この「私」
を湧き上がらせなさい、すべてをこの「私」に属させなさい。

  「私」が起こって、エゴになる。エゴがマインドになる。マインドが感覚
になり感覚はそれぞれの感覚に応じた対象物となる。
 
  これらの全てはあなたの内側で起こっている。これらの全ては意識の中で
起こっている。意識の中にある全てを見るためには、あなたは意識で在らねば
ならない。
  
しかしあなたは自分は肉体だ、マインドだと思っているのでいつも困難の中にい
る。
  これを見ることができない。これが苦しみの原因だ。
 
あなた自身を個的なエゴ―マインド―肉体と考えるのは傲慢だ。
個人が全てを動かしていると考えるのは傲慢だ。傲慢以外の何ものでもない。
なぜ全てをこの意識と呼ばないのか?
 
  全ては無だ。あなたは無の中で踊り手の役を演じているだけだ。単にこの
ゲームを演じなさい。

  あなた自身を個人として見るか意識として見るかそれはあなた次第だ。一
つは破滅的、他方は平和だ。

  平和以外に何が欲しいのか?「存在」として留まって見てごらん。
 
あなたは何もコントロールする必要はない。何かが起こるだろうと期待しない
ことだ。あなたは空間だ。
 
  全てが「私」で、全てが「あなた」だ。全てが「それ」自身でこれがあな
たの本質だ。
  「それ」について何もする必要はない。全てを解放して、今、無を見てご
らん。全てが投影されるスクリーンを見てごらん。
 
映画館に行ってスクリーンに映し出された映像を見ている。山や川やロマンス
、強盗の襲撃事件など・・・。
映画が終わったとき、スクリーンは川の水で濡れてはいないし、ロマンスの香
りもないし、盗賊の発射した銃弾の穴もない。スクリーンは完璧に白いまままだ。

この世界の顕現はあなたのマインドを横切る欲望の投影と同じだ。だから観客
としてのあなたは簡単にその映画にのめり込んで同一化されてしまうのだ。
あなたはこれらの映像ではない、あなたはスクリーンだ。スクリーンは映画が
始まる前、最中、終了後、みな同じだ。

もしあなた自身が完璧で、不変で、永遠のスクリーンと同一化したなら、あな
たは何が起こっても平静で、その変化に苦しむことはない。
逆にそれらを楽しむことになる。全ての存在はこの一つの潔癖なスクリーンだ。
それは全てを超えているので、埃を払ってきれいにするという修練は必要ない。
悟るには生涯の修練が必要だと説く教師達こそ、彼らのマインドという埃を払
って、きれいにするべきだ。
    
Q:私は永久に「これ」が欲しい。
    
あなたは初めて「この」経験をしたのだね。
過去に経験した全ての経験は消えてしまった。
だから「この」経験を永久に保ちたい。しかし「この」経験はあなたから決し
て離れることはない。

以前は全てがあなたから去っていった。「今、ここ」では、決して取り残され
ない。
あなたは正にその至高の力によって握られている、だから決して取り残される
ということはありえない。

もう恐れる必要はない。あなたは逃げられない、決して逃げられない。
この愛から逃出すことはできない(笑)。
一度それに触れたら、あなたは自分を見失う。
全ては解き放されて、「それ」そのものになる。
河が海に流れ込んでいくとき、河は即座に海になるように。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

620避難民のマジレスさん:2019/06/16(日) 23:49:36 ID:LC3de7YgO
>>619
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第1章 真我 ☆Part3(つづき)

    
Q:それが可能だということがまだ信じられません。
    
河が海に流れ込んでいくとき、河は永久に海であり続けることができるかと
自分に質問するかね(笑)?
それは過去の恐れだ、その恐れは今あなたから消えていく。
全ての経験は永遠ではないので消え去ってしまう。
それらは想像、幻想に過ぎなかったから消えていったのだ。

今、この経験は概念や知覚や想像を超えたものだ。
それはどこに消え去るというのか?
波は恐れているので、「私は生涯波としてありたい」という考えが波のマイ
ンドの中にある。
「私はなくなる、私はなくなる」と波は恐れている。
「私はなくなる」、どこに消えるのか? どこに行くのか? 消えて次は何にな
るのだろうか?

 波が消えたとき、波は波でなくなり、その本質に帰っていく、海だ。
過去、波が海であった、現在、波が海である、未来、波が海であり続けるだろ
う、永久に!!
そこには時間という概念は全くない。時間というのは無知なマインドの中に存
在する。

光や知恵の中では「私は全体から分離している、私は広大さや充満性から分離
している」という考えは起こらない、これを知らないのが無知だ。
分裂はない、全てが一体で、愛で美だ。これから逃れることはできない。
今あなたの無知は消え去った。これが永遠の生命、これが蓮花の蜜だ。
    
Q:はい、解ります。いま無が見えます。
    
すばらしい! もし見えるなら、この見ることが在ることだ。
目を通して対象を見るときは物が歪んで見えるかもしれないが、この見ること
は在ることだ。
これを見る為のもう一つの目があるのだ。どの目を使うかはあなたにかかって
いる。

この視覚は肉体的な目とは何の関係もない。
それは内在性、内なる視覚だ。
この目を使うなら、外側も内側も、いつもこの目で見ることができる。
ニルヴァーナとサンサーラは何の違いもなくなる。見るものは全て内側にある。

全ての美しさ、知恵。その目は限界を超えて見ることができる。
内側でもないし外側でもない。解るかな? 顔にある目を通して見ることを止
めたら、他の目が開く。

あなたが今ここでやったように「私」という思考をつかんで源泉に帰りなさい
、そうするとその視界が開けるだろう。「無が見える」と言ったとき、この無
が「その」視界の美しさだ。
聖なる視界。あなたは理解するだろう、そして全てが美しい存在として見える
だろう。
    
Q:真我の観点からすれば何もすることはないというのは解りますが、私のい
るこの時点からマインドを解き放し、エゴ中毒を取り除くのに何かすることは
できないのですか?
    
 最初に、あなたの観点が真我の観点より優れているかどうか見てごらん!
もしあなたが創造者やグルやあなた自身の真我より優れているのなら、もし
アートマンよりも優れているのならあなたの観点に従いなさい。
その結果を見なさい。
真我の観点というのは真我だ。
真理は真理、これは既に今、ここに。
あなたの真我に会うのにどんな修練が必要かね?
    
Q:いいえ、必要ないでしょう。しかし思考がやって来ると・・・・
    
 真我は肉体より前に存在している。
あなたが話すことより前に、言葉よりも前に存在している。
どのようにして真我に行き着くのかという概念、実践や方法という概念を捨て
なさい。
捨ててしまったらそこに何があるか言ってごらん。
どこに居るのか言ってごらん。
努力や実践の概念を持ち込まないこと。
努力しようと考えないこと。
私が意味していることを本当に理解したなら、あなたは誰か、あなたは何が欲
しいか言ってごらん。
実践なし、思考なし、マインドの坩堝をかき混ぜないこと。
努力しようとしないこと。
私の話を聞いたのだから今度はあなたが話す番だ。
さて、あなたは誰か言ってごらん。
考えないこと、努力しないこと。
    
Q:私は神に会いたいだけです。
    
 だから神があなたをここに今連れて来たのだ。
全ての人が神だ。
しかし私達が私達の中に神を見ない限りその事実を知ることはできない。
まず神をあなたの内側に見つけることだ。
そうしたら動物の中にも、鳥の中にも、岩の中にも神を見つけることができる
だろう。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

621鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/17(月) 23:58:45 ID:1d4drIFg0
神を信じる者には神を説くのが智慧なのじゃ。
その神もまた自らの心の中にあると言うのじゃ。
信じる神を心の中に見出すのじゃ。
そうすれば全てが神と気づくのじゃ。

622避難民のマジレスさん:2019/06/18(火) 03:59:57 ID:LC3de7YgO
>>620
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第1章 真我 ☆Part3(つづき)
    
Q:人々の目の中に神が隠れているのがだんだん見えてきました。
    
(笑いながら)神は隠れてはいない。
神が見えないということは、あなたは神以外のものを見ているということだ。
だから、他に何も見ないで唯一神だけを見るべきだ。
そうすると、あなたの目を通して見ているのが神そのものだ。

 あなたの重荷を下ろして、神に降伏して静かにしていなさい。
そうすると神があなたの重荷を引き受けてくれる。
重荷を頭の上に担いで歩いている限り神はあなたの面倒を見ることはできない。
そのようなあなたにとっては、神は隠れているようにしか見えない。
    
Q:あなたは私が神だといいますが、私という一滴のしずくが海と同じなので
すか?
    
一滴と海との間には何の区別もない。海を創っているのはその一滴の全体性だ。
一滴、一滴の無数の集まりが海だ。
    
Q:それらは質的に同じ物ですか?
あなたのノーマインドは私のノーマインドと同じですか?
    
質的に同じだ。
一粒の砂糖と一ポンドの砂糖、味は同じだ。
そうだ、あなたのノーマインドは私のと同じだ。
    
Q:ノーマインドには疑いがないと言われましたが・・・。
    
(笑いながら)ノーマインドには疑いがない。
何もないのだから何を疑うのかね。
    
Q:ノーマインドの中での経験は何ですか。
    
そこに経験はない。ノーマインドの状態から抜け出したときにのみ対象に対
する経験がある。
過去の経験を取り除きなさい、そうするとこの瞬間には経験はない、経験すべ
き何ものもなく、経験者もいない。 あなたは全てから自由だ。
経験は時間の中で起こるがこの瞬間には時間がない。
この瞬間は時間とは無関係だ。

Q:ジャスミンと呼ばれる波はパパジと呼ばれる波に見つめられて一つになり
たい、そして「それ」を祝いたい。
    
波が海と一つになったとき、祝祭が始まる。

私は海ではないと考えているのは 波だけだ。「私は水と共に、どこにでも行く
ことができる」「私には長さや幅があるので岸まで行ける」。しかし再び、波
は沈んで海となる。

波の本質である水は海の本質である水と何の違いもないのだから「私は海だ」
ということを知りなさい。この水が海と波をつないでいる基盤だ。
基盤は波が海から分離していると考えても何の影響も受けない。
あなたは海と何の違いもない。海は波と何の違いもない。
この事実をあなたは祝うべきだ。これが分裂の終わりだ。
   
   真我なしには何も起こらない。
   全ての存在は真我として一つだ。

  波は海の胸座で遊んでいる。
  波は海と別れていると感じながら、時間の中で動き回っている。
  そして最後に波は海に帰っていく。
 
  波は海から湧き上がり、海の中で動き、海の中に帰っていく。
  一体性はそのままだ。
  波の動きは海にとっては何の問題もない。

海はあなたから離れた存在ではない。海は決してあなたを騙したりしない。
もしこれを知っているなら、あなたは好きなように遊ぶことができる。
愛は、海は、あなたを決して忘れない。もしこれを知らないとあなたは苦しむ
ことになる。

Q:昨夜、強烈な夢を見ました。その後かなりの沈黙が続き目を覚しましたが
、この夢が何を意味しているのか私には解りません。
    
 夢は問題ではない。この沈黙が境界だ。目覚めでもなく眠りでもない、沈
黙だけが存在する。目覚めと眠りを越えたこの境界、そこには何の経験もない。
そこでは過去の記憶は存在しないし、それには名前もない。

もし名前を使いたいのなら、沈黙か無が最適だ。何を意味しているのか解らな
いというのが、それが境界域の沈黙であったという確証だ。
なぜなら、そこでは感覚や記憶力が働かないし、エゴも存在していないからだ。

これは眠りと目覚めの間の空白だ。
そこでは「私」・「あなた」・「彼ら」というのがない。
これを「無」と呼んでもよい。
そこから全てが現れたように、そこに全てが消えてゆく。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

623鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/18(火) 22:47:45 ID:1d4drIFg0
ノーマインドとは気付きの状態なのじゃ。
そこでは思考も感情も静まり、心の本来の姿が見えるのじゃ。
主体は無く、全てが一つと見えるのじゃ。
誰にでも訪れるありようなのじゃ。
特に寝覚めで自分を忘れている時に感じることができるじゃろう。

624避難民のマジレスさん:2019/06/19(水) 03:04:43 ID:LC3de7YgO
>>622
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
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第1章 真我 ☆Part3(つづき)

Q:私は自分はライオンであるということを知っているのに、なぜ私はロバと
一緒に歩いているのでしょうか?
私の中のロバ性を解放していつもライオンでありたい。
 
あなたがライオンであると知っていたらロバと一緒に歩いても、問題はない。
ロバはライオンの餌だからだ(笑)。
だから、彼らは一緒にいることはできない。
ライオンが自分がライオンであることを忘れて、自分はロバであると考え出し
たなら、それは問題になる。

あなたに洞察を与えるライオンの話をしよう。

 昔、ある村に一人の洗濯男が住んでいた。
その当時は村人達の洗濯物をロバの背に載せて川辺に運んだものだ。
ある日、洗濯男が川で洗濯しているところへ、一匹の雌のライオンが水を飲みに来た。
そのとき、密猟者が銃でライオンを撃ち殺した。

雌ライオンは死ぬ間際に赤子を産み落とした。
そこへ密猟者が来てライオンの皮を剥いで去って行った。
ライオンの赤子は後に残されて、かわいそうに思った洗濯男はその赤子を家に
連れて帰ってミルクを飲ませて養育した。
さて、このライオンの子に何が起こったか、注意して聞きなさい。
 
このライオンの子は誰が自分の母親か知らずに洗濯男に養育された。
そして毎日彼と一緒に川に行った。
遂にこのライオンは大きくなって、洗濯男はこのライオンのロバに洗濯物を担
がせ始めた。
このライオンは他のロバと一緒に草を食べ始めた。

なぜなら、人は一緒にいる人の習癖を見習うものだから。
子どもが煙草を吸う人と一緒にいると、同じように煙草を吸い出す。
このようにして習癖というものが形作られるのだ。

ある日この「ロバ」は他のロバと一緒に野原で草を食べていた。
一匹のライオンがこれを見て言った、「一体全体どうしたことか? どうして
あのライオンはロバと一緒に草を食べているのか?
ライオンの餌はロバだ。
しかしあのライオンはロバと一緒に草を食べている。近寄って見てみよう。」

ライオンが近づいた途端、この「ロバ」も含めてすべてのロバは逃げ去った。
ライオンは素早く、この「ロバ」の首根っこを捕まえた。
「どうしたのだ、お前はライオンだ。それなのに私を恐れてロバ達と一緒に逃
出した。お前と私は一緒の家族に属するのだぞ!」

「いいえ、ライオン様、どうか嘘をつかないで下さい。私はロバです」と、年
長の思慮深いライオンにとらわれた若いライオンは震えながらそう言った。

「私はロバです。どうか私を食べないで下さい。私の兄弟達が私を待っていま
す。どうか許して下さい。どうか冗談を言わないで下さい。私は自分がロバで
あるのを知っています。」

「お前はライオンだ。お前がロバだと考えるのは馬鹿げた事だ。」と賢いライ
オンは言った。
「どうして私がライオンであると信じることができましょう。私はロバです。」
そこでこの賢いライオンはこの「ロバ」を川に連れて行って「水の上に写って
っているお前の顔を見てごらん、お前の顔は私の顔と同じではないのか?」

この「ロバ」は叫んでいった。「確かに私の顔はあなたの顔と同じだ!!」
「今度は口を開いて私のように吠えなさい」。この「ロバ」はどのようにして
吠えるのかしらなかった。誰も吠え方を教えなかったので、他のロバ達と一緒
にロバのように啼いていた。しかし、吠えることはライオンの本性だ。

そこでこの「ロバ」は口一杯あけて吠えたのだ。
その途端、この「ロバ」はライオンになった。
この吠え声が、本当の自分についての疑いを拭い去ったのだ。
そしてこのライオンはロバを食べる為にその後を追っていった(笑)。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

625鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/19(水) 23:16:51 ID:1d4drIFg0
誰もが生まれ育った環境によって、自己イメージを作ってしまうのじゃ。
それによって大抵は一生自分の能力を限定して生きるのじゃ。
自分自身を観察できればそれも変えられるのじゃ。
本来の自分の智慧と力を解放できるからなのじゃ。

626避難民のマジレスさん:2019/06/20(木) 01:29:31 ID:LC3de7YgO
>>624
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
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第1章 真我 ☆Part3(つづき)

さて問題は、このロバがどのようにしてライオンになったのか?
即座に彼はライオンになった。
何がこの「ロバ」をライオンにしたのか?
吠えたことだ。さもなければいつまでもロバのように啼いていた。

 このように、あなたはあなたを川に連れて行き、あなた自身の顔を見せてく
れる*サットグルが必要だ。
あなたはロバではないが肉体に束縛された人々のロバ的社会に住んでいる。

「私は束縛されている、私は苦しんでいる、私は死んでいく」という人々はす
べてロバだ。
グルは「あなたは束縛されていない」と告げる。
「私は自由だ」とライオンのように吠えなさい。
それがロバとライオンの区別をつけるのだ。

しかしあなたは「メー」とヤギのように啼いているだけだ。
というのもこれがあなたの住む社会の習癖だからだ。
悪い連れ合いをもつとライオンでさえロバになる。
あなたは、ロバのような両親のもとで育った。
これが違いを作るのだ。

あなたが私の前に来るときは、私は無理にでもあなたの顎を開かせて吠えさ
せる。
そうしないとロバはライオンの前にとどまることはできない。

何世にもかけて排泄した 自分の汚物の中にいるのを止めなさい。
ライオンになりなさい。
それはあなた次第だ。
延期して、大人になって、年を取って苦しむだけだ。
ロバがしていることをあなたはしているのだ。
誰かがあなたに汚れ物を担がせて、洗濯屋があなたのボスになるのかね?

 違う!! いつかあるライオンがあなたを見つけてあなたはライオンになる。
あなたは既にライオンなのだから。
ロバはライオンにはなれない。

  歪んだ愚かな社会だけがあなたをロバにするのだ。
  感覚はロバで、あなたの本性はライオンだ。
  永遠に形をとらない意識だ。
  
ライオンのサットグルがあなたを意識の湖に連れて行き、
  あなたの本当の顔を見せてくれる。
  「あなたは既に『それ』だ」、
  これがグルが言うべき全てだ。

私の親愛なる友よ、あなたは自由だ。
誰が「あなたは縛られている」と言ったのかね?
 考えてごらん、誰もあなたを縛ったことはないし誰もあなたの足に鎖をつけ
たことはない。
 あなたはただ「束縛されている」と考えているだけだ。
そしてその「考え」が束縛になる。

もし「私は自由だ」と考えるとあなたは自由だ。
それはあなた次第だ。
しかし「私は自由、あなたは自由」は唯一思考だ。
もしあなたが何も考えないとき、あなたは目覚めた人になる。
    
Q:私を川に連れて来て下さって有難うございます。
しかし、私は口を開いているだけで吠えてはいないのです。
    
 口を開けてあくびをするのは眠たいときだ。
吠えるということは目覚めるということだ。
ライオンが吠えているときは、ライオンが起きているという証拠だ。
森の動物達、鹿や兎達はその吠え声を聞いて逃げ回る。
しかしライオンがあくびをすると誰もがこう言う:「ライオンは眠っている、
さあ餌を探しに行こう」と。
吠え声を聞くと誰もが穴の中に隠れてしまう。
 
このようにあなたが吠えるとマインドの習癖や怠性、あなた自身を見つけるの
を妨害している平和の盗人、全てが逃出してしまう。
そうしてあなたは目覚めるのだ。
その吠え声とは「私は自由だ!」

肉体やマインドや目を肥やすために何かを探しているあなたはあくびをして
いるということだ。
だからあなたは吠えなければならない、「私は自由だ!」。
吠える為にはどこへ行くべきか?

あなたのエゴが眠っている、そのときがサットサンガにいく最適なときだ。
完全に眠っている人々は彼らの真我の吠え声を聞いたことがないので今なお眠
り続けるだろう。
そういう人たちは時機が熟していないのでサットサンガに連れて来る方法はな
い。
そういう人たちは眠らせておきなさい。

しかしあなたは目覚めていなさい。
サットサンガにやってきなさい。そしてライオンのように吠えるのだ!!

(´・(ェ)・`)
(おわり)

627鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/20(木) 22:58:46 ID:1d4drIFg0
悟るとは自分がなにものであるかを悟るということなのじゃ。
師は自分がなにものであるかを悟らせてくれるものなのじゃ。
自分がなにものであるか悟れば無我になるのじゃ。
更に無我を観る者さえ悟れば大悟徹底なのじゃ。

628避難民のマジレスさん:2019/06/21(金) 01:38:20 ID:LC3de7YgO
>>626
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第2章 サットグル:真のグル ☆Part1

   真我がサットグルだ。
  内なるものがあなたを助けてくれる。
  あなたの真の案内者は内に、
  知恵と知識は内に。
  しかしあなたの先入観のためにそれを見ることができない。
  サットグルは内に。
  「それ」だけを瞑想しなさい。

  サットグルは他の何よりも偉大だ、
  神でさえもかなわない。
  サットグルは真理-気づき-至福。
  サットグルは太陽、
  サットグルを見つけたらあなたの松明はもういらない。

  あなたは内なる真我の言葉を理解することができないので、
  サットグルが外なるグルとして現れる。
  あなたが自分は肉体だと考えているなら、肉体を持ったグルが必要だ。
  あなたに平和を与えてくれる聖人と一緒にいなさい。
  彼はサンサーラという砂漠の中で、
  涼しい木陰を与える大樹のようなものだ。

  このグルは羊のようなエゴの屠殺者だ。
  グルの役目は私はあなたの内にいると教えて、
  あなたは存在―意識―至福だと確信させることだ。
  真のグルは誰でもこう言うに違いない:
  「内を見なさい、あなたと真我とグルの間には何の違いもない。」

  宝物のありかをグルは教えてくれる。

  真のグルかどうかは頭の上のダイヤモンドや、弟子の数では判断できない。
  真のグルというのは、
  その人の現存があなたに平和を与え、
  欲望や執着や切望を取り除く人だということを知っていなさい。
  *1ジニャーニの松明の火は偽りの確信でできた家屋を完全に燃やしてしまう。
  しかし、*2カビールの言うように誰もこの火をありがたく受取る人はいない。

  グルは真理を知っている。
  この真理を、謙虚な弟子達に伝達する。
  目での一瞥、手で触ること、思考、
  あるいはアルナーチャラのように沈黙によって、真理を伝達する。
  この沈黙が不動の光だ。

  真のグルには弟子はいない、
  全てが「存在」であり、沈黙だけが話す。
  完璧なグルには教えることがない。
  なぜなら彼は、あなたはすでに自由だと知っているからだ。
  真のグルの「教えでない教え」は、「グルなし、弟子なし、教えなし」、
  「何もかつて存在したものはない」、この教えを言葉なしで伝えねばならない。
  この教えを言葉なしにあなたのハートに植え付けねばならない。
  もしあなたがそれを理解しようとしたら、
  それは頭の中に植え付けられることになる。

  真のグルは名前や形や概念を取り除く。
  説教師はあなたの首に縄をかけて捕らえようと、
  それらをもっと付け加えていく。
  説教師は死肉に集まる禿鷹のようにあなたにしがみつく。
  真のグルはそれぞれの弟子達が吸収することができるものを教えて送り返す。

  だからあなたはグルをテストしなければいけない。
  グルの系列を調べなさい。これは大変重要だ。
  グルの弟子への解答は、
  実質的な経験をあなたに与えることによって返答されるべきだ。
  聖者はマインドからではなく、無から答を出すからだ。

  マインドとマインドの付き合いには、どんな価値も美しさもない。

  真我に近づくことは、危険に瀕して歩いているようなものだ。
  二人は一緒には行けない。
  マインドや思考でさえも連れて行くことはできない、
  唯一あなたを助けてくれるのは真我だ。
  この「炎」に触れたものは全て「炎」になるように、
  聖者に触れて聖者になる。
  真我を知ると真我だけを見る。
  この真我があなたの真のグルだ。

  最終的にはあなたのグルとあなた自身、両方の名前と姿を取り除かねばならない。
  月を見たいなら、月を指し示している指にとどまるべきではない。
  名前と形のあるところには偽りがある。
  目に見えるものは何も自由を与えることができないのだから、
  名前と形は自由への障害となる。
  溺れかけているときは真我だけを掴みなさい、
  他のものを掴むと死ぬだけだ。
  サットグルは内に、「それ」だけを瞑想しなさい。
  真のグルは真我、
  他の全ては真我を指し示す指だ。 
  五つの要素でできたものに執着しないこと。
用語解説

*1ジニャーニ  智慧そのものの人、悟りを開いた人。

*2カビール   (1440-1518) インド、バナラシの聖人
(´・(ェ)・`)
(つづく)

629鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/21(金) 23:04:00 ID:1d4drIFg0
悟りを得た本物の師は常に弟子に自らの心の中を観るように教えるのじゃ。
それだけが真の師の仕事なのじゃ。
嵐の中の船のように時々心が迷う弟子に、常に自らの心を指し示す灯台のような存在なのじゃ。
心の中の自らの名前とイメージが見えたならば師の役目も終わるのじゃ。

630避難民のマジレスさん:2019/06/22(土) 10:22:02 ID:LC3de7YgO
>>628
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第2章 サットグル:真のグル ☆Part1(つづき)

  グルは目に見えようが見えまいが肉体ではない。
  どんな肉体にも依存しないことだ、
  それらは真理を指差している指にすぎないのだから。
  グルはあなた「自身」だ。
  エゴ自身ではなく、「今、ここ」にある「あなたの真我」だ。
  グルの姿を拒絶したら、至高のものだけが残る。

  あなた自身の真我を失うということは不可能だ。
  グルによってあなたは誰かと知らされることが必要なだけだ。
  このパイロットは愛と美で、この自由がマスターだ。
  ただ静かに座っていなさい、全てはうまくいく。
    
Q:グルとは何ですか。
    
 文字どうりの意味は「暗闇を取り除く人」という意味だ。グルはあなたのハート
を開いて、光を見せてくれる「それ」だ。グルは知恵と光そのものだ。

Q:どのようにして真のマスターを見分けるのですか?

 真のマスターは彼の言葉や行為を通して見分けることはできない。しかしあなたの
マインドは彼のまわりにいると静かになるだろう。マスターとしてのしるしや徴候が
言い伝えられているが、真のマスターにはどんな徴候もない。ともかく彼はメッセー
ジを言葉なしに伝えることができる。

Q:真我を実現するためにはグル、生きたグルが必要ですか?
                   
 生きたグルの恩寵なしに真我を実現することはできない。あなたが身体の中にいる
のなら肉体を持ったグルが必要だ。さもなければグルは内在しているがあなたはその
言語を理解できない。だから肉体を持った探求者には肉体を持ったグルが必要だ。そ
うして、対話を通じて探求者の疑問が取り除かれる。そして、探求者はグルが内にい
ることを理解する。

   「グルはあなたの内にいる」と教えるために、グルが外に必要だ。

グルはあなたの内なる無形性であなたもまた形の無いものだ。もしこれを知っている
のなら、肉体を持ったグルは必要ない。幸運にもあなたが肉体を持った真のグルを探
し出したのなら、決してこのチャンスを逃がすものではない。

Q:肉体を持たないマスターは、私のマスターになるべきパワーを持っていますか?
    
もしあなたが肉体を持たないマスターの言うことを聞くことができるだけのパワー
を持っているのなら、肉体を持ったマスターは必要ない。マスターはいつもそこに肉
体なしでいるのだから。「それ」はあなたを通じて話している。「それ」はあなたの
ハートの中にいる。彼の言うことに耳を傾けないのかね? あなたの内で教えている
、姿の無いマスターの言うことを聞かないのかね?

Q:はい、聞いています。
    
もし聞いていたなら、このような質問をするはずがない。

Q:生きたグルを持たない、キリスト教徒や仏教徒はどうなるのですか?
    
西洋にいようが東洋にいようが、あなたは生きたグルを見つけなければならない。
そしてそのグルをテストしなさい。そのグルの現存がマインドを静かにさせるのなら
、そのグルに従いなさい。一緒にいなさい。あなたは肉体だと考えるなら、あなたを
助けるために肉体を持ったグルが必要だ。
 自由になりたいという強烈な欲望を持っている人は、真のグルを見つけることがで
きる。私の場合がそうだが、グルがあなたの戸口にやって来るのだ。私は他のどんな
欲望もかなわないほどの一つの強烈な欲望を持っていたからだ。

Q:*3ラマナ・マハルシのように、ある人は肉体を持ったグルなしに真理を見つける
ことができたのはどうしてですか?
    
ラマナ・マハルシもまた、非常に大きな体格をしたグルを持っていたのだよ(笑)。
それはアルナーチャラだ。グルはどんな形もとることができる。アルナーチャラは沈
黙そのもので、不動だ。これらは真のグルの徴候だ。真のグルは言葉では教えない。
言葉では真理を伝えることはできないからだ。マハルシも又アルナーチャラのように
、沈黙の中で教えた。多くの他のグルは昼夜、犬のように吠えている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

631鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/22(土) 23:26:42 ID:1d4drIFg0
アルナーチャラとはマハリシの住んでいた山なのじゃ。
沈黙する山がマハリシのグルだったというのじゃ。
自然は常に人に沈黙を持って導いているのじゃ。
そこで深い瞑想に導いてくれるのじゃ。

632避難民のマジレスさん:2019/06/23(日) 00:05:34 ID:LC3de7YgO
>>630
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第2章 サットグル:真のグル ☆Part1☆Part2

  あなたが静かで、平和であるなら、この平和があなた自身のグルだ。
  「それ」はあなたの内を除いてどこにも見つけることはできない。

これが私たちが、*4オーム、*5シャンティ、シャンティ、シャティと唱えてサット
サンガを始める理由だ。マインドから生じる疑問を取り除くために、あなたはここで
質問することができる。しかしこれは単なるおしゃべりではない。疑いがないとき、
あなたは平和になる。

Q:グルを2人持つことができますか? それとも一人を選ばなければなりませんか?
    
全てがあなたのグルだ。岩は沈黙を教えてくれる。木は慈愛を、風は執着しないこと
を教えてくれる。グル、講師、心理学者、好きなだけ持つことができるが、あなたに
とってサットグルは一人しかいない。どのようにしてこのグルに会うのか? エゴな
しでだ。

  サットグルはあなた自身の真我の内にいる、
  他のどこにもいない。
  あなたのサットグルはあなたのハートに住んでいる、
  すべての存在のハートに住んでいる。
  内なるグルの言葉を理解することができないので、
  彼の恩寵として外に姿を現し、内を見るようにと教える。
  マハルシはいつも言っていたものだ、「真のグルは内に……」

多くのグルはこの事について話さないで、彼らの写真だけを持っているように強制す
る。これらのグルからは心の平和を得ることはない。とにかく、ラマナアシュラムに
行ってラマナのホールに座るだけで、平和がそれ自身であなたのところにやって来る
だろう。

用語解説

*4オーム  そこから全ての創造がおこる根源的な音

*5シャンティ 平和

Q:マスターと弟子の関係は何ですか? それはどのように働くのですか?
    
マスターというのは、あなたは光そのもので暗闇は決して存在したことがないとい
うことを教えてくれる人だ。(パパジは質問者の目を見つめて、一息して笑いながら)
これがどのようにして働くかだ。

なぜマスターと弟子の関係を望むのかね? 弟子とマスターの間には関係があると誰
が言ったのかね? どの本に書いてあったのかね? あなたはこれを聞いたことがあ
るだけで、この関係については何も知らない。もし私がそれについて話しても、あな
たはそれを理解することはできないだろう。

まず最初に、この関係の中に落ち込むことだ。そうしたら説明なしに理解することが
できる。あなたが誰かと恋に落ちたときは、愛についての説明は必要がないだろう。
もし7歳の娘に母親が恋について説明しても、少女は理解できないだろう。

この関係の中では努力しなくてよいのだ。最愛の人の前にいる時、この最愛の人はあ
なたに努力するようにとは言わないだろう。この最愛の人はあなたの面倒をみて、そ
の人がすることをすべて受け入れるだろう。愛の中では対話は必要ないので、何が起
こっているのかとたずねようともしないだろう。愛の中では、対話なし、質問なし、
答えなし。単に二人とも静かだ。

今あなたは静かで、あなたの最愛の人も静かだ。何か素晴らしいことが起ころうとし
ている。待ちなさい。

Q:あなたと私の間にはどんな違いがあるのですか? なぜあなたは椅子に座ってい
て、私は床の上に座っているのですか?
    
違いがあると信じている人が床に座り、信じない人が椅子に座るのだ。(笑い)

Q:グルは神と一つですか?
    
覚醒した人と神の間には何の違いもない。神というのは、大文字のGOD。宗教とは
何の関係もない。グルと神は両方とも形を持たない。形の無いところに違いは存在し
ない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

633鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/23(日) 23:16:48 ID:1d4drIFg0
ここでパパジは最大最高の教えを授けたのじゃ。
相手の眼を見ることで永遠の意識を見せたのじゃ。
相手がサマーディ位にまで達していたら、師の一瞥によって無我にも辿り付けたじゃろう。
残念ながら何も感じられなかったようであるがのう。
言葉の無い教えこそ最も偉大な教えなのじゃ。

634避難民のマジレスさん:2019/06/24(月) 00:14:17 ID:LC3de7YgO
>>632
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
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第2章 サットグル:真のグル ☆Part2(つづき)

Q:不滅性については何も知りませんが、マスターが死ぬと何が起こるのですか?
実体は残るのですか? 私のグルがかなり前に亡くなったのですが、彼はまだ私の助
けになるでしょうか? あなたのグルが亡くなったとき、あなたにとってそれはどう
でしたか?
 
私のグルは死んではいない。私のグルはただの骨と皮と血と骨髄だと、決して思っ
たことがない。私には私の大切なグルだけしか見えない。そのグルは内に、あなたの
「真我」の中に。内なるこれが外に現れて、「私はあなたの内にいるよ」と教えるの
だ。もしあなたのグルが生きている間にこの教えを明らかにしていたら、今そんなに
悲しむ必要はないのだが。

グルの教えはグルの肉体よりもっと大切だ。カップの中の水を飲む時、カップを食べ
て水を捨ててしまうのかね? そうじゃない、カップの中身がもっと大切で外側では
ない。外にあるのはただの器で、器の中に何があるのか誰も知らない。

肉体のないあなたのグルは、目に見えない姿であなたのハートの中に今もいるのだと
いうことを見てごらん。この見えない姿は決して死なない。内を見るとこれが分かる
だろう。あなた自身もまた、見えない姿にならなければならない。そうすると、あな
たが愛した全ての人の見えない姿を見ることができるだろう。

誰かを深く愛すると、たとえその人が死んでも、目を閉じたらその人を見ることがで
きる。たとえ眠っていても夢の中でその人を見ることができる。しかし、その愛は非
常に親密な愛、真の愛でなければならない。あなたが心の底から真にその人を愛する
時、その人は決してあなたから離れることはない。

あなたは今ここにいるのだから、2〜3日滞在してあなたが見逃したものを見つけ出し
なさい。グルは決して死なないのだから、グルに対する執着は永遠に残るだろう。

Q:どうか内なるグルを見つけるのを助けて下さい。
    
外なるグルが内なるグルの居場所を教えてくれる。頭の中で多くのことが起こって
いるので、内なるグルが隠れ続けて来た。だから内なるグルを見ることができないの
だ。

  内なるグルが見えないのは、
  どこか他の場所を見ているからだ。
  外側を見るのをやめなさい、
  そうするとあなたの努力なしで
  「それ」がそれ自身で姿を現すだろう。
  愛と快楽を追い求めるマインドをただ止めるだけでよい。

マインドはあらゆる所からあなたのお尻を蹴りながら、延々と物を追い求めて走り続
けるように計略を仕掛ける。少数の人がこれらのずる賢こい計略から自由でありたい
と望む。少数の人がマインドの奴隷になるのを拒否して、自由になることを決心する。

  マインドを奴隷としてコントロールしなさい、
  そうするとマインドは非常に役に立つものだ。
  このマインドへの計略を外なるグルから学びなさい。
  奴隷をコントロールすること、奴隷を愛すること、奴隷を静かにさせておくこと。
  マインドを困らせないこと、マインドがあなたを困らせるのを許さないこと。
  これがマインドのコントロールの仕方だ。  

全ての人がこれをすることができると言うわけではない。少数の人がこの試みに成功
するだろう。

Q:グルへの奉仕について話して下さい。私がここにいることであなたの役に立っているのでしょうか?

 グルから知識を受け取るには12年間グルに奉仕しなければならないと私はかって言
ったことがある。昔はこれが伝統であった。今、人々は大変急いでいる。人は私のと
ころにやって来て、「自由が欲しい、今夜の便で帰らなければならない」(笑)そう
いう人たちには私はこう言ったものだ。

「他の興味にロープをつないでおいて、急いでやって来て自由が欲しいとは何事だ!
昔は12年間のテストと言ったものだ。」

本当に自由が欲しい人でない限り、人々は逃げ帰ってしまった。グルを騙しにやって
きた人は、12年間のグルへの奉仕と言うと逃げ帰ってしまった。その目的の為に、弟
子はグルに12年間奉仕するように言われた。12年後にグルは弟子に知識を与えたもの
だ。

ここでは私は12年間要求しない。私はあなたの時間のほんの瞬間が欲しいだけだ。人
々にはそれさえも難しいようだ。あなたの全人生の中でほんの一瞬、ここで私と一緒
にいて欲しいだけだ。

殆どの人にはこれができない。この瞬間を見逃したら、35億年の生と死の輪廻を又め
ぐり続けねばならないのに。あなたは今ここにいるのだからたった一秒間、私と一緒
に過ごしてほしい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

635鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/24(月) 23:49:19 ID:1d4drIFg0
内なるグルの導きは修行者が真に悟りを求めるようになったら来るものじゃ。
カラスの声とか鐘の音とか経文とかあらゆるものに現われるのじゃ。
万物は全て意識であるからのう。
内なるグルは常に全てから導きの手を差し伸べているのじゃ。

636避難民のマジレスさん:2019/06/25(火) 05:28:04 ID:LC3de7YgO
>>634
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
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第2章 サットグル:真のグル ☆Part2(つづき)

Q:私は私のグルが亡くなる前、9年間彼に仕えました。
    
 あなたはよい顔つきをしている、9年間の献身があなたの顔に輝いている。あなた
の前のグルが、*1ラクナウで後の3年間をすごすようにとあなたをここに連れて来た
のに違いない。だからあなたはここにいるのだ。これが前のグルの目に見えない恩寵
だ。

3年間ここにいなさい。自由になる為の非常に簡単な方法を教えてあげよう。

外でサットサンガにやって来る人たちの履き物をきれいにしなさい。これがあなたの
エゴを拭い去るだろう。サットサンガホールの準備が整ってからやって来るのではな
い、準備をする為にやって来るのだ。椅子を拭いて、床を掃いて、靴も磨くのだ。一
日でもよいからこれを試しなさい。これがあなたのエゴをきれいにする。エゴがなく
なると無になることが可能だ。
   
Q:あなたの為に何かできますか?
   
今言ったばかりだ。私の為に何もする必要はない、みんなの為にそれをするのだ。
みんなの世話をしなさい。そうすると彼らはあなたに会うのが楽しみだ。「神に仕え
るよりも神の帰依者に仕えたほうがよい。」これが言われていることだ。

寺院に行くと、入り口でほこりを集めて額にこすりつけて入る。エゴの無い人にとっ
ては寺院のほこりさえ神聖だ。それがなされるべきことだ。さもないとエゴが強すぎ
て今世で解脱することはできないだろう。

Q:あなたは毎日私たちに愛を降り注いで下さいますが、私はそれに値するほど純真
ではないと感じています。

あなたの中に不純さを見つけ出したのはよいことだ。そうして初めてあなたのハート
を清めようと試みるが、誰も自分のハートの不純さに気づく人はいない。まずあなた
自身の不純さを清めることから始めなさい。

あなた自身のマインドが清められると、他人のマインドの不純さは目に付かなくなる
だろう。だから、不純なもの、思考を取り除きなさい。思考のあるところには不純さ
がある。思考がないとき、あなたは全てに値する。

Q:グル自身が弟子の夢の中に現れるというのは本当ですか?
   
非常に真剣な探求者で、グルを見つけることができない人々にこれが起こるものだ。
夢の中で指示が与えられる。私の場合、私のグルはこのようにして最初に現れた。

*2エクナスのグル、*3ジャナルディンスワミもまた夢の中で彼のところにやって来
た。エクナスは夢の中である住所を与えられた。夢から覚めて、その住所に行って、
そこに彼のグルを見つけて彼は悟った。

真剣な求道者でありなさい、そうするとあなたはグルを見つける必要はない。あなた
のグルがあなたを見つけるのだから。神でさえあなたのところにやって来るだろう。
   
Q:今朝目が覚めた時、昨夜あなたが私の夢の中にやって来たのを思い出しました。
私たちは川辺に座っていて、私はあなたに一輪の花を手渡しました。あなたは花を見
て微笑んで“川の行方は一つだ”といいました。
   
私はあなたを仏陀の時代へと連れて行こう。

 仏陀とその弟子達は静かに座っていた。 
そこにカシャップ(迦葉)がやって来て、微笑みを浮かべて一輪の蓮の花を仏陀に手
渡した。
仏陀は微笑みを返して、その時カシャップは悟った。マハカシャップ(摩訶迦葉)に
なったのだ。

それ以来、何世紀にも渡って人々はこの意味を探りだそうとした。一輪の花を手渡す
、微笑、悟り。これは大変な教訓だ。

あなたは一輪の花を摘んでグルの所に持って来る。グルは微笑む。グルからの微笑で
どうしてカシャップが悟りを得たのか、誰も正確な意味を探り出すことができない。
もしその意味を理解したいなら、静かにして、ただ見ていなさい。カシャップがそこ
に戻って来るだろう。それは非常に簡単だということを意味している。

一輪の花を持っていく、グルに差し出す、彼は微笑む。そしてあなたは悟りを得る。
なぜグルが微笑んだのかと尋ねないこと。何も尋ねないこと、そうするとあなたは花
のように咲きほころぶのだ。

多くのことがこの話に付け加えることができる。しかし何も尋ねないこと。そこには
深い意味があるのだ。あなた自身でその答えを見つけ出さねばならない。私があなた
に与える質問は……
  
 一輪の花とは何か?
   どのようにして花を差出したか?
   微笑の意味は?
   誰に花を与えたのか?
   花の意味するものは何か?

用語解説

*1ラクナウ インドのウッパルプラデッシュ州の首都、パパジが住んでいた町

*2エクナス (1533-99)インド、マハラシュトラ州の聖人

*3ジャナルディンスワミ インドの聖人

637鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/25(火) 22:59:27 ID:1d4drIFg0
禅でも作務という日常の作業を修行として行うのじゃ。
掃除や洗濯や炊事等を黙々と行うことでエゴを滅する修行になるのじゃ。
修行する自分が特別な存在であるというエゴが消えていくのじゃ。
そのようにすることで自我も滅しやすくなるのじゃ。

638避難民のマジレスさん:2019/06/25(火) 23:36:20 ID:LC3de7YgO
>>636
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第2章 サットグル:真のグル ☆Part2☆Part3

Q:思考を殺すための鋭い武器がほしい。

鋭い知性を持った人に降伏しなさい、戦争と平和の計略に詳しい人に降伏しなさい。
彼にあなたの戦車の手綱を委ねなさい。彼の命令に従いなさい。グルへの降伏という
武器意外に鋭い武器はない。彼があなたのために戦ってくれる。

   私はグルに降伏するように助言する、
   内側から彼の言うことを聞きなさい。
   そして、肉体は機械と思いなさい。
   あなたがそれを動かすのではない、それはただ動いている。
   ハートに座している御者を見つけなさい、
    そうするといつも平和でいられるだろう。

Q:平和を見つける為に、あなたの前に座ってあなたの目を見つめても宜しいでしょ
うか?
   
その人の目を見つめたら平和と休息を見つけられると誰があなたに教えたのかね?
それには真実味がある。マインドが静かな人の目を見つめると、あなたもまたあなた
「自身」の中に平和を見つけることができる。マインドが不動な人の目を見つめるか
、その人のハートを見入るかどちらかだ。そうしてあなたのマインドは静かになる。
あなたは平和を見つけることができるだろう。

この目に引き付けられて、他のものを見るのを忘れてしまう。今度はあなたの目を、
あなたの目の後ろを見つめてごらん。外側の対象物でなく目の後ろを見てごらん。そ
うすると、どのようにして静かにしていられるかという「コツ」を見つけることがで
きる。

Q:西洋に帰ると古い習癖が又戻って来る、と考えるのはマインドの罠ですか? ど
のようにマスターの現存が「自由であること」を助けるのでしょうか?
   
 西洋に帰ると心の平和が乱されるとどうして考えるのか? あなたがここにやって
来たときは不安があった。今あなたは平和を知っている。平和をあなたとして持って
帰りなさい。

誰もこの平和を乱すことはできない。「これ」や「あれ」を望むことで、あなた自身
の平和をかき乱すのはあなたなのだ。今これを試してごらん。あなたの平和は決して
乱されることはなく、あなたはいつもサットサンガにいるだろう。

真に幸運な人だけがサットサンガにやって来る。何億年もの間、何世にも渡ってサッ
トサンガを熱望していたに違いない。その間に苦行や修業をしたに違いない。だから
今この平和を勝ち得るのだ。そのために相応しい年齢だ。あなたはサットサンガでは
非常に若い年代だ。これは珍しいことだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

639鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/26(水) 22:42:11 ID:1d4drIFg0
欲を持ち、執着して苦しむのも自分の心が起こすことなのじゃ。
場所とか人によってなるのではないのじゃ。
自ら意志を起こして欲を遠ざけ、執着を無くすならばどこにいても心は鎮まるのじゃ。
実践が全てなのじゃ。

640避難民のマジレスさん:2019/06/26(水) 23:44:34 ID:LC3de7YgO
>>638
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
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第2章 サットグル:真のグル ☆Part3(つづき)

Q:イエスキリストが生きているのと同じような意味で、ラマナ・マハルシはまだ生きていますか?
   
ラマナ・マハルシは生きている。これは信じることではなく真実だ。何も創造され
なかったし、何も消滅したものもない。全てがいつもここにある。

目覚めた人だけがこれを見ることができる。全ての存在はまだ「ここ」にいる。それ
らは決して消えることはない。どこに行くことができるのだ? それらは「ここ」に
とどまっている。全宇宙の全存在はあなたのハートの中に存在している。他に存在す
るところはない。

  ハートそのものの中に全ては存在し続ける。
  あなたのハート以外に何もない。
  宇宙の中の全てのもの、始まりから終わりまで、山脈から流星まで、
  全てはあなたのハートの中の点にすぎない。
  あなたも「ここ」にいる、全ては常に存在する、これが究極の知識だ。
  創造はない、保存はない、破壊はない。
  創造者が現れる以前からそれはあるがままにあったし、
  あるがままにあり続けるだろう。
  創造者はこのハートの本質から生まれて来るのだ。

(パパジはアメリカからの長い手紙を読んでいる。自由に向けての何年もの葛藤、自由
にもっと近づくために環境を変えようと試みている人の話だ)

私が今読んだ手紙に対する私の意見は、自由でありたいという切望が内から湧き上が
って来ているが、まわりの環境がそれを許さないので環境を変えたということだ。

彼は、真のグルの近くにいて学ぶということをしたことがない。これ以外のことは全
てやり遂げた。そして今は砂漠や僧や尼僧に執着している。あなたはどこでも好きな
ところに住むことができる。山と街になぜ区別をつけるのか、なぜ違いがあるべきな
のか? 違いがあるのは、マインドがあなたを騙しているからだ。

街のど真ん中で静かにしていることはできるが、ヒマラヤの洞窟では静かにしている
ことができないかもしれない。環境のことは忘れてしまいなさい。

  あなたの人生で、愛と平和を知っている人、
  それを手渡してくれる人と一緒にいるのがよい、
  このマスターは、人生の荒波を乗り切ってあなたを運ぶ筏だ。
  筏なしで人生の荒波を越えていくのは簡単ではない。
  山中であろうが家の中であろうが、瞑想で時間を無駄にしないこと。
  その代わり、マスターのところに行きなさい。
  マスターが筏だ、それがあなたの面倒を見てくれる。
  唯一筏があなたを運ぶ、瞑想や努力はあなたをどこへも運ばない。
  この筏がマスターだ、この事を知りなさい。
  時間を無駄にしないこと、彼自身の真我を知っているその人を探しなさい。
  その人は、あなたの全く知らないことを教えることができる。

  今がその時だ、この機会を無駄にしないこと。
  ここでは私は瞑想や修練を教えない。
  ただ、静かにしていなさい。
  一瞬でよい、静かにしていなさい。
  マインドの坩堝をかき混ぜないこと。

一瞬のフィンガースナップで目覚めないのなら、私の前に来てこの公式はあなたには
適さないといいなさい。ここに来て私と顔を突き合わせてごらん。そうすると「静か
に座ったことがないので、愛と平和にあったことがない」ということはできない。こ
の挑戦は全ての人にオープンだ。今日、明日、明後日……。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

641鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/27(木) 21:42:17 ID:1d4drIFg0
クリシュナムルティも通常の集中的な瞑想を否定したのじゃ。
それは逆に心を鈍くさせ、習慣的にさせるからというのじゃ。
心を鎮めることが出来たら、それが真の瞑想になるのじゃ。
そのようにして瞑想する者の居ない瞑想は既にサマーディの領域に達しているのじゃ。

642避難民のマジレスさん:2019/06/27(木) 22:56:41 ID:LC3de7YgO
>>640
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
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第2章 サットグル:真のグル ☆Part3(つづき)

Q:あなたがラマナ・マハルシに逢った時、目覚めるのに殆ど時間はかからなかった
と聞きました。
ラマナ・マハルシの一瞥であなたは自由になったというのは本当ですか? その時の
グルの伝達力の本質は何ですか?
   
マハルシは、いつも目を開けたままホールに座っていた。特に誰を見るというので
もない、彼の目は空っぽであった。私が彼の前に座った時、彼は他の誰でもなく私だ
けを見つめていた。この一瞥は恩寵だ。恩寵は、グルの恩寵を最も必要としている人
の上に注がれる。

ウパニシャッドに書かれているように、一瞥で十分だ。グルからの一瞥、一触れ、一
言で十分だ。マントラを唱えたり、瞑想したり、修練したりする必要は何もない。し
かしあなたは神聖であらねばならない。その時、この一瞥は目の後ろに焼き付くだろ
う。その時、全身が沈黙と愛の中で光り輝く。

ラマナ・マハルシのその一瞥は、世界中のもっとも偉大な聖者や賢者の目とは比べ物
にはならない。それが真我から真我への一瞥だ。だから、もし賢者があなたを一瞥し
たなら、この世に生まれて来た目的は達したのと同じだ。カビールはこう言っている


  人間の姿をして、この世に生まれて来るというのは大変な祝福だ。
  だから、死ぬ前に今世で真理を悟るのだと決心しなさい。
  なぜ今世、なぜ今日ではないのか? なぜ今日だ、なぜ今ではないのか?
  急がないと、肉体からこの鳥が飛び去ってしまったら後悔するに違いない。

Q:私はマナリの山をとても愛していますが、山はあなたと一緒にいることに比べた
ら比べものになりません。あなたの近くにいると、真我探求や神への愛の深さを非常
に強く感じます。神、グル、真我は同じだと経典では言っていますが、この祝福され
た三位一体の秘密を明かして下さいますか?

*1ヴェーダでは神、グル、真我は同じだと書かれているのを私は知っている。しか
し、グルを通じてのみ神や真我を知ることができるのだから、私はグルが神や真我よ
り高い位置にいると信じている。ここで王の調髪師であった男の話をしよう。

この男は毎朝8時に王のところに行き、マッサージをし、髭を剃った。ある朝、いつ
ものように彼が王のところに行こうとしているとき、彼のグルが訪ねて来た。彼は喜
んでグルの身体を洗い、朝食と昼食を用意した。彼はすっかり王のところに行くのを
忘れてしまった。

グルを十分にもてなし、世話をした後で、彼は王を思い出した。「グルジ、私は王の
ところに行って王の足をマッサージしなければなりません。王はリューマチもちで2
時間のマッサージなしでは宮廷へ行くことはできません。今日、私は大変遅れてしま
ったので王は怒っているかもしれません。王が私を罰して、私は二度とここに戻って
来れないかもしれません」
グルは答えて、「さあ、行きなさい。しかし夕方には戻って来てお茶を入れて下さい


そうして彼は宮殿に向かった。彼が宮殿の門を入ると上官がにこにこして彼に微笑ん
だ。そして王の前に行ったら、王は膝まづいてお辞儀をした。「どうか殿下、私にお
辞儀などしないでください。これは罰よりも辛いものです。あなたが私を殺しても構
いませんが、あなたが私にお辞儀をするという辱しめは我慢ができません」。

王は説明した。「今朝のマッサージは非常によく効いて、何十年来初めて助けなしに
一人で歩くことができた。私の足は治ったのだ。ダイヤモンドのネックレスを褒美に
あげようとしたが、お前は既に帰ってしまったあとだった。」

この調髪師は敬礼していった、「親愛なる王様、長い間あなたにお仕えしましたが、
今日でおいとまいたします。これからは私のグルに仕えたいと思います。」そうして
、彼は残りの人生をグルと一緒に過ごした。

そう、私はグルを一番におきたい。そして真我、神だ。この事をあなたはここで学ぶ
だろう。

用語解説
*1ヴェーダ 最古のヒンディー教典

(´・(ェ)・`)
(つづく)

643鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/28(金) 22:59:14 ID:1d4drIFg0
目覚めた者が他の者も目覚めさせることが出来るのじゃ。
それは本当に寝ている者を起きている者が起こすようなものじゃ。
目覚めているという意識が他の寝ている者を揺り起こすのじゃ。
それには一瞥や一言でも十分なのじや。

644避難民のマジレスさん:2019/06/29(土) 00:09:30 ID:LC3de7YgO
>>642
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
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第2章 サットグル:真のグル ☆Part4
Q:「グルなし、教えなし、弟子なし」とあなたは言いますが、私はこの事について
少し疑問に思っています。明後日、私はフランスに帰ります。グルなしで、ラクナウ
に帰って来ることなしに、私の内なる声に従うだけで自由を獲得することができるの
ですか? 覚醒した人の恩寵、現存が必要なのではありませんか?
   
グルとグルの恩寵なしにあなたは目覚めることはできない、自由になることはでき
ない。明晰な目を持って、正にその角度に立っている人が月を指差すことができる。
偏見を持って、間違った場所に立って、間違った角度を見ている人は、月を見ること
はできないので助けが必要だ。

明晰な目を持った人は、あなたの目の向きを彼の指と一列に並べるようにと言う。す
ると木の上のカラスの頭が見える。そして、指とカラスの向こうを見ると月がそこに
ある。しかし、指やカラスの頭に捕まったなら月を見ることはできない。指針は月と
何の関係もない。

だから、明晰な目を持った人が指やカラスから目を離すように言う。グルの姿に執着
してはいけない。殆どのグルは指に執着している弟子を保持して、そしてグルも弟子
も満足している。エゴが膨張すると、指が崇拝されて月は忘れられる。

私心の無いグルだけが、グルを超えてゆくようにという。自分は単なる指針で、執着
する必要のないメッセンジャーだと宣言する。

私心の無い、明晰な目を持ってすべての人を助けるグルを見つけ出すのは難しい。

Q:あなたはグルなし、弟子なしといいますが、ここにいる多くの人々があなたから
恩恵を得ているのはなぜですか?
   
私がグルなし、弟子なしというのは、与える人と受取る人がいないということだ。物
理的な人はいないということだ。グルは物体ではないし、弟子も物体ではない。与え
る人は物体でもないし、受取る人も物体ではない。

これが私の意味するところだ、与える人はいないのだ。物理的な肉体には永遠性はな
い、肉体は現れては消え去る。肉体がどんな教えをあなたに与えることができるのか
? マインドと感覚が何を教えることができるのか? マインドや感覚そのものに永
遠性はない、常に変わり続けている。

  真の教えは唯一永遠によって与えられ、
  永遠によって受けとられる。
  永遠は永遠に何も与えるものはない、
  だからそこにはグルも弟子もない。
  あなたはすでに「それ」だ、
  物体ではない、感情ではない、心ではない。
  これらの形態を取り除くと他に何が残っているか、
  何が必要なのか見てごらん。

これを見つけるために非常に多くの方法がグルによって与えられるが、どれも時間を
かける価値はない。新しく得たものはすべて、いつか失うからだ。すべての獲得は一
時的な獲得だ。全ては来て、去っていくのだから。獲得しなかったものを見なさい、
すでにそこにあるものを見なさい。

あなたがすでに持っているものを、誰があなたに与えることができる? 私がグルや
教えはないというのはこのためだ。ある人たちはこれを信じることができないが、こ
れは事実だ。あなたは誰にも、自分にも依存することはできない。依存は平和や愛で
はない。何にも依存しないことが幸福だ。

何が平和か見つけなさい、外側からどんな助けも必要としないものを見つけなさい。
これは、いくら時間をかけて修練しても知ることはできない。時間の中では見つける
ことはできないとしたら、一体どのようにしてそれを見つけるのか?

時間そのものは幸福ではない、時間を感じる時はいつもマインドがある。マインド・
時間・思考の間には何の違いもない。だから、平和が欲しいなら時間のことを考えな
いことだ。思考はいつも過去のものだから、何も考えないことだ。

  平和は決して過去に属するものではない、平和はこの瞬間に現存する。

思考は過去のもの、マインドも過去のもの。どんな思考、マインドあるいは過去も持
ち込まないとき、その時が知恵と光と平和の瞬間だ。それは獲得したり、達成したり
できるものではない。

それはすでに「ここ」にある。すでにここにあるものを得るのに、経験は必要ない。
「平和は既にここにあるよ、グルから得ることはできないよ」といってくれる人が必
要なだけだ。

これを理解することができる人は非常に希だ。殆どの人は、平和とは感覚的な快楽だ
と思っている。そうではない。男と女のセックスから来るのではない、セックスから
の快楽は一秒で終わりだ。消えてしまわない喜びを見つけなさい。

用語解説
*1アシュラム 森の中の隠遁所、聖人やヨ-ギとその弟子達の住居。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

645鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/29(土) 22:53:45 ID:1d4drIFg0
修行者が時々修行している自分に自尊心をもってしまうように、グルと弟子の関係にも魔が起こることもあるのじゃ。
有名なグルの弟子であることで驕ったりすることもあるじゃろう。
まだ悟っていないグルは多くの弟子によって昂ぶることもあるじゃろう。
そのような関係は迷いの道でしかないのじゃ。
グルも弟子も迷いの内にある間だけの関係であり、それを越えていかなければならないのじゃ。

646避難民のマジレスさん:2019/06/30(日) 09:28:42 ID:LC3de7YgO
>>644
10「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第2章 サットグル:真のグル ☆Part4(つづき)

多くの聖者は何かしなければならないとあなたに忠告する。西洋では教会に行かねば
地獄に落ちるといわれている。あらゆる所でこの恐れが植え付けられる。世界中の瞑
想場ではヨガや奉仕や瞑想がスケジュール化されている、

ここラクナウでは何かをするようにとは言われない。することはもう十分だ、何億年
もの間多くのことをやって来たのだ。ここではあなたはもうやり手ではない。もし私
が自由を獲得するためにこれやあれをしなさいというと、自由は何かをした結果得ら
れるものだと勘違いする。自由はあなたが何をしたか、あなたが何をしているかとは
全く関係がない。

  ただ私と一緒にいなさい、
  あなたの「自由」は私の仕事だ。
  あなたは何もしないで、ただ静かにしていなさい。
  ほんの一つの思考でさえ浮かんでくるのを許さないことだ。

私はこれ程多くの休息をあなたに与える。他の人たちはいつも考えているけれども、
あなたは考えることさえ必要ない。私はもう一度言おう。あなたは何も考える必要が
ない、私があなたの代わりに考える。ほんの一秒間何も考えないなら、あなたがラク
ナウに来た目的を達したと知るだろう。

もしあなたが目覚めなかったら、私の喉元をつかんでお前は嘘つきだと言ってもよい
。それをする前にほんのフィンガースナップ、半秒、1/4秒、静かにしなさい。そ
して、この1/4秒間に目覚めなかったら言ってごらん。

Q:私の欲望の多くがラクナウで満たされるのはなぜですか? 望むことが全て実現す
るので私が望むことに実に注意しなければならないと言うポイントまで来ました。

ジニャーニの現存にやってくる人々の欲望は満たされる。それは壁にゴムボールを投
げつけるようなものだ。ボールは跳ね返ってくる。聖者は何もしないので聖者がその
欲望を満たすと言うことはない。彼は山のように不動だ。ともかくこの静寂に出会う
と欲望は満たされる。

静寂は近くにやってくる誰もに平和を与える、まれに成熟したソウルには悟りさえ与
える。聖者はあなたが欲しいものは何でも与える、たとえそれがあなたの運命でなく
とも。グルの舌は神や運命に支配されないからだ。

悟りへの欲望が在るなら聖者の静寂の中で、山のように静かに座っている無欲の人の
現存の中で、それは満たされる。グルの現存の中で静かに座っているだけで十分だ。
ジュニャーニのハートを勝ち得たら頼まなくてもすべてが与えられる。

Q:弟子のグルに対する強烈な愛と執着の為に、グルが来世に生まれ変わらざるをえ
ないというのは本当ですか?
   
それは不可能だ。グルというのは弟子を覚醒に導く人だ。マジック売りは、有名ない
わゆる聖人と呼ばれる人たちがそうだが、グルではない。

  グルというのは、弟子が頼まなくても弟子に光を与え、平和を与える人だ。

他の人はコマーシャルグルだ。金もうけや*1アシュラムの建築に興味があるだけ
だ。欲望なしのグルがよい。欲望のない人の平和は、世界中の誰とも比べものになら
ない。

グルの姿に執着すべきではない。いずれ消えゆくものは永遠ではない。すべての姿や
形は消えてしまうがその本質は形の無いものだ。もし形に執着するなら、間違いを犯
していることになる。あなたに光を与えるのは形ではない。それは何か、あなたのハ
ートに深く内在している何かだ。その何かが光を与えるのだ。

「それ」があなたのグルだ。そのグルは存在の全てのハートの中にいる。人間ばかり
でなく動物や植物の中にもいる。あなた自身の本質を内に見るとき、この事が分かる
だろう。そのとき、全ての植物や動物が私に話しかけたように、あなたにも話しかけ
るだろう。

Q:チベットのことわざに、「グルというのは火のようなものだ、近づくとあなたは
燃えてしまう。しかし、充分近くにいないと熱でさえも感じないだろう」というので
す。
   
これは本当だ。グルの近くに行くとエゴが燃え尽きてしまう。たとえ遠くにいても
あなたは燃えてしまう。ホールの後ろの方に行って試してみなさい。熱がそこにもあ
るのを感じるだろう。

あなたはここに座って熱を感じなさい。

用語解説
*1アシュラム 森の中の隠遁所、聖人やヨ-ギとその弟子達の住居。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

647避難民のマジレスさん:2019/06/30(日) 09:41:49 ID:LC3de7YgO
>>646
>マジック売りは、有名ないわゆる聖人と呼ばれる人たちがそうだが、グルではない。

←これは、サイババさんとか、インドにたくさんいるグルのことでありますかね。

サイババさんのガーヤトリーマントラを聞いたことあるでありますが、なかなか気持ちよかったであります。
(´・(ェ)・`)つ

648鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/30(日) 22:42:29 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃろう。
 コマーシャルヨーギとかも呼ばれるのじゃ。
 ヨーガが世界的に有名になったから、インドではヨーガで金儲けを企む者も増えてしまったのじゃ。
 伝統的な教えも少しは学んで知っているから、マントラも唱えられるのじゃ。
 ヨーガを少しだけやってみたいという者にはよいかもしれんのじゃ。

649避難民のマジレスさん:2019/06/30(日) 23:26:14 ID:LC3de7YgO
>>646
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第2章 サットグル:真のグル ☆Part4(つづき)

Q:「それ」の中に身を沈め、溺れてしまいたいので、私の手を取ってどうかそこへ
連れていって下さい。
   
溺死とは川や海にあなた独りで行くことだが、「私の手を取って、私は溺れたい」
とはどういう意味だ? 私には理解できない、このようにして溺死はできない。とい
うのは、あなたはあなたを沈ませまいとする防御者と一緒にいるからだ。

防御者を持たない人はサンサーラの海に溺れてしまうが、防御者と一緒のあなたは無
事にその海を渡ることができる。しかし、グルの加護を求める人は少ない。

カビールが言うには:
 人間は、このサンサーラの海の中で押し流されて地獄に行く。私は、何人かをこの
流れから引き上げて岸に連れてこようとしているが、多くの人はこの加護を拒否する


さて、尊くて賢いカビールがどうして次のように言ったのか、私には解らない。「人
がこの加護を受け入れないなら、尻を蹴飛ばして流れの一番早い川の真ん中に投げ込
め。」(くすくす笑い)。

カビールは大変物静かな人であったから、その人がこんな事を言うにはよほどの問題
があったに違いない。私の場合は尻を蹴飛ばすかわりに、世間の荒波に押し流されて
いる人のところに行って、私自身一緒に押し流されるのだ。

そして蹴飛ばすかわりに、その人にキスをしてこう提案するのだ。「私たちは押し流
されているので、この流れから抜け出しましょう。私は抜け出すのによい場所を知っ
ている。」そしてその人を世間の荒波から連れ出し、安全な岸まで連れて来る。だか
ら、たとえあなたは押し流されても引っ張り出される。力によってではなく、愛によ
って!!

Q:なぜ私たちは、あなたと一緒にいるというだけでこんなに幸福なのでしょうか?
たとえ、あなたが何も言わなくても人々は目覚めていきます。

真理があるところには引力がある。だから、人々は真理そのものであるその人のとこ
ろに行くのだ。姿ではなく、「それ」が人々を引き付けるのだ。知恵を持った人の姿
は、慈愛に溢れているので人を引き付けるのだ。「それ」がそれが持っているものを
与えたい。だから、人々はやって来て恩恵を得ているのだ。貧しい人には、他の人に
与えるものがない。しかし、王なら一握りの真珠や宝石をあなたに与えることができ
る。

Q: あなたの精神界への遺言は何ですか? あなたがなくなった後、何かが達成され
るのを見たいという野心がありますか?
   
私がここにいないという日は決してやって来ないだろう。あなたは35億年も行ったり
来たりして輪廻を繰り返しているとしても、私は「ここ」に、この場所にいる。永遠
に居続けたこの場所にいる。「それ」が私の住処だ。私は決してどこへも行かないし
、どこにも戻って来ない。

私には遺言など何もない。私がここにいようがいまいが、どんな違いもない。私は誰
にも何も押し付けないので、個人的な遺言や野心や何かが達成されるべきだという欲
望もない。

Q:あなたは肉体を離れた後、どこに行くのですか? 地球に戻ってきますか?
 
もし私が戻って来る為には、私は行かねばならない。もし私が行くなら、私は戻っ
てこなければならない。だから、真理は私が来るのでも、私が行くのでもない。これ
が真理だ。
誰が行くのかね? あなたは真我についてではなく、肉体について話している。真
我はやって来ないし、行きもしない。なぜ、「それ」がどこかに行かねばならないの
かね? 全ては真我の中に含まれているのだから、なぜ行かねばならないのか?

王は王国の全てが彼のものだから、あの家又は宮廷を買いたいという欲望は起こらな
い。だから、あなたが王になったときはどこかに行くという欲望はなくなるだろう。
ただ手を叩いただけで、全ては満たされるのだから。
   
Q:あなたの教えの本質は何ですか。
   
教えることを通じては得ることができない、「それ」について教えたい。私の教えは
教えることができない。全ての教えがそこから湧き上がって来る、その本質について
は教えることはできない。

この本質は全てを超越しているので、教えるとか教えないとかの問題ではない。「そ
れ」は、そこから全ての言葉が湧き上がって来るところの「それ」である。
   
Q:存在の源泉ですか?
   
そこから全てが、言葉も含めて全てがやって来るところだ。
(´・(ェ)・`)つ

650避難民のマジレスさん:2019/06/30(日) 23:26:47 ID:LC3de7YgO
>>646
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第2章 サットグル:真のグル ☆Part4(つづき)

Q:「それ」の中に身を沈め、溺れてしまいたいので、私の手を取ってどうかそこへ
連れていって下さい。
   
溺死とは川や海にあなた独りで行くことだが、「私の手を取って、私は溺れたい」
とはどういう意味だ? 私には理解できない、このようにして溺死はできない。とい
うのは、あなたはあなたを沈ませまいとする防御者と一緒にいるからだ。

防御者を持たない人はサンサーラの海に溺れてしまうが、防御者と一緒のあなたは無
事にその海を渡ることができる。しかし、グルの加護を求める人は少ない。

カビールが言うには:
 人間は、このサンサーラの海の中で押し流されて地獄に行く。私は、何人かをこの
流れから引き上げて岸に連れてこようとしているが、多くの人はこの加護を拒否する


さて、尊くて賢いカビールがどうして次のように言ったのか、私には解らない。「人
がこの加護を受け入れないなら、尻を蹴飛ばして流れの一番早い川の真ん中に投げ込
め。」(くすくす笑い)。

カビールは大変物静かな人であったから、その人がこんな事を言うにはよほどの問題
があったに違いない。私の場合は尻を蹴飛ばすかわりに、世間の荒波に押し流されて
いる人のところに行って、私自身一緒に押し流されるのだ。

そして蹴飛ばすかわりに、その人にキスをしてこう提案するのだ。「私たちは押し流
されているので、この流れから抜け出しましょう。私は抜け出すのによい場所を知っ
ている。」そしてその人を世間の荒波から連れ出し、安全な岸まで連れて来る。だか
ら、たとえあなたは押し流されても引っ張り出される。力によってではなく、愛によ
って!!

Q:なぜ私たちは、あなたと一緒にいるというだけでこんなに幸福なのでしょうか?
たとえ、あなたが何も言わなくても人々は目覚めていきます。

真理があるところには引力がある。だから、人々は真理そのものであるその人のとこ
ろに行くのだ。姿ではなく、「それ」が人々を引き付けるのだ。知恵を持った人の姿
は、慈愛に溢れているので人を引き付けるのだ。「それ」がそれが持っているものを
与えたい。だから、人々はやって来て恩恵を得ているのだ。貧しい人には、他の人に
与えるものがない。しかし、王なら一握りの真珠や宝石をあなたに与えることができ
る。

Q: あなたの精神界への遺言は何ですか? あなたがなくなった後、何かが達成され
るのを見たいという野心がありますか?
   
私がここにいないという日は決してやって来ないだろう。あなたは35億年も行ったり
来たりして輪廻を繰り返しているとしても、私は「ここ」に、この場所にいる。永遠
に居続けたこの場所にいる。「それ」が私の住処だ。私は決してどこへも行かないし
、どこにも戻って来ない。

私には遺言など何もない。私がここにいようがいまいが、どんな違いもない。私は誰
にも何も押し付けないので、個人的な遺言や野心や何かが達成されるべきだという欲
望もない。

Q:あなたは肉体を離れた後、どこに行くのですか? 地球に戻ってきますか?
 
もし私が戻って来る為には、私は行かねばならない。もし私が行くなら、私は戻っ
てこなければならない。だから、真理は私が来るのでも、私が行くのでもない。これ
が真理だ。
誰が行くのかね? あなたは真我についてではなく、肉体について話している。真
我はやって来ないし、行きもしない。なぜ、「それ」がどこかに行かねばならないの
かね? 全ては真我の中に含まれているのだから、なぜ行かねばならないのか?

王は王国の全てが彼のものだから、あの家又は宮廷を買いたいという欲望は起こらな
い。だから、あなたが王になったときはどこかに行くという欲望はなくなるだろう。
ただ手を叩いただけで、全ては満たされるのだから。
   
Q:あなたの教えの本質は何ですか。
   
教えることを通じては得ることができない、「それ」について教えたい。私の教えは
教えることができない。全ての教えがそこから湧き上がって来る、その本質について
は教えることはできない。

この本質は全てを超越しているので、教えるとか教えないとかの問題ではない。「そ
れ」は、そこから全ての言葉が湧き上がって来るところの「それ」である。
   
Q:存在の源泉ですか?
   
そこから全てが、言葉も含めて全てがやって来るところだ。
(´・(ェ)・`)つ

651鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/01(月) 22:42:48 ID:1d4drIFg0
目覚めた者は常に言葉に出来ないそれを説いているのじゃ。
言葉に出来ないから修行法や比喩などを通じて教えるのじゃ。
修行者がそれに到達したときにのみ、その教えが分かるのじゃ。
それまで実践あるのみなのじゃ。

652避難民のマジレスさん:2019/07/02(火) 07:53:08 ID:LC3de7YgO
>>650
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第3章 恩寵 

真我の恩寵で自由への欲望が湧きあがる。
  神の恩寵でグルのところにやって来る。
  グルの恩寵で全ての疑問が取り除かれ、
  そして自由になる。

 「 私は自由でありたい」が最初の恩寵だ。
  自由そのものがあなたを呼んでいるのだ。
  この欲望があなたをこの欲望の源泉へ連れていく、真我へ。
  他の欲望の全てはこの欲望の火の中で燃えてしまうだろう。

  全てのマスターと真我の恩寵であなたは自由に到り着いた。
  この事実や自由について決して疑わないことだ。

  恩寵はグルと恩寵に価する弟子との間に存在する、
  他のどこかでそれを手に入れることはできない。
  この恩寵は世界中で匹敵するものがない。
  恩寵はそれに相応しい弟子にのみ与えられる。
  
それに相応しい弟子というのは純粋なハートを持ちグルに献身する弟子だ。
  真理は神聖な人を誉めたたえる。
  あなたが神聖なら、グルはあなたを受け入れて
  彼の恩寵をあなたに授けるのだ。
  
自由を選ぶのはあなたではない。恩寵があなたを自由の獲得の為に行かねばならない
ところ、サットグルに連れて行くのだ。恩寵があなたに必要なもの、自由の道か、献
身の道かを与える。恩寵があなたに必要のないもの、思考と欲望を取り除く。恩寵な
しにサンサーラの荒波を乗り越えることはできない。恩寵なしに覚醒はない。

この平和と愛は苦行や瞑想によって得ることはできない。しかし、もしグルがあなた
に満足したなら、グルの慈悲によって恩寵の*1プラサードをあなたに与えるのだ。
そしてあなたの探求の旅は休息と共に終わる。それは贈り物だ。

恩寵を要求することも命令することもできない。神はあなたの欲望を満たすことがで
きるし、天国に連れていくこともできる。しかし、彼らはあなたに恩寵を与えること
はできない。
だから、注意して何が恩寵で何が恥辱かを知りなさい。

王が彼の妻に王国を与えるのは恩寵ではなく、彼の他の目的を満たすためであって、
これは恥辱だ。このようにあなたが世界から得るものはすべて恥辱だ。

Q:いつも真我の恩寵を感じて私の人生を過ごしたい。
    
 何をしていようともこの欲望を持ち続けることができる。これはあなたの仕事の邪
魔にはならない。ここで学んだことはあなたがどこへ行こうともあなたの内に定着し
ている。ラクナウにいようが、ヒマラヤの洞窟にいようがサンフランシスコのスーパ
ーマーケットにいようが問題ではない。

そこに何の違いもないということを知ったなら、幻想の海を一つ乗り越えたと言える
。「ここ」から始めなさい。あなたの行きたいところに行き、あなたの好きなところ
にいなさい。

Q:私はあなたをとても愛しています。この愛は私の真我に対する愛だと知っていま
す。あなたを通じて光り輝いている恩寵と知恵に感謝いたします。
 
 あなたは大変美しい。I LOVE YOU、これが私が言える全てだ。もし、誰
かが私を愛するなら、その人は私のハートの中に座っている。私を愛する人は私のハ
ートに座って私と親密になる。私を愛する人はこれ以外にすることは何もない。この
愛には恐れがない。そして決して消えることはない。

用語解説
*1プラサード  神、グルからの贈り物、授け物。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

653避難民のマジレスさん:2019/07/03(水) 06:30:31 ID:LC3de7YgO
>>652
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第3章 恩寵 

Q:あなたの恩寵で起こるべき全ては起こっていると確信しています。このおかげで
私自身の深まりを感じています。この恩寵は肉体的にあなたに近づけば近づくほど強
くなるのですか? もっと得やすくなるのですか?
    
恩寵については肉体的にグルの近くにいようがいまいが違いはないが、グルの肉体的
現存が得られるのならグルの近くにいたほうがよい。この半世紀にほとんどの賢人や
聖人は肉体を離れてしまったので、もしグルの現存が得られるのならその現存を最大
限に利用しなさい。

グルの現存の中にいると疑問がわきあがる。それをグルに尋ねることによって明らか
になる。もし現存が得られないときは、疑問が即座に明らかにされないので真理を信
じるのが難しくなる。

  グルの現存を最大限に役立てなさい。

 恩寵に対してはグルがいるかいないかは問題ではない。たとえばブッダ、多くの人
が決して彼に会ったことはないがその恩寵を得ている。しかし、カシャップやアナン
ダのようにもし多くの人々がブッダの時代にいたら、彼の現存の恩寵を楽しんだに違
いない。

ブッダのニルヴァーナの日、彼の肉体に死が近づいていた。その時ある男がブッダに
会いに来たが、「ブッダは今すぐにも肉体を離れるだろう」と弟子達に拒否された。
しかし、ブッダはその男に会って瞬時に彼の全ての疑問を明らかにした。そして、ブ
ッダの息が永久に止まった。

ブッダの現存によって500人以上の人が悟りを得た。まさに最初の彼の説教から人
々は悟った。今日、いまだに何億という人々がブッダの恩寵を得ている。もし、あな
たがグルといられる機会があるのなら、決してそれを見逃さないことだ。

Q:時間と空間は幻想で、恩寵は真理だということを知っています。だから、恩寵は
時間と空間を超越すると言ったほうが私には意味をなします。
    
これは正しい。時間と空間はない。それはマインドの概念で、それが超越されたとき
、それは消えてしまう。その時あなたは全てを成し遂げて、これ以上何もすることは
ないと確信しなければならない。悟ることが人間として生まれて来て唯一達成する価
値のあることだ。

Q:私があなたの近くにいると大きな変化を感じます。これが恩寵の本質についても
っと知りたい理由です。
    
恩寵の本質は悟らせること、生と死の輪廻を止めること。

 このことを完全に信頼しなければならない。あなたは再び生まれて来ないというこ
とを知りなさい。さらにこの現在の誕生は幻想だということも知りなさい。

そして、世界の全てが、太陽や月や星も含めて、幻想だということを明確にしなさい
。世界は本当に存在すると考えると世界は本当になるのだ。何も考えないとき、目に
見えるものは何もない。

あなたがここにいて、私があなたの質問に答えられるのは嬉しいことだ。

Q:「降伏」の過程で果たす恩寵の役割は何ですか?
 
恩寵のみでサットグルに、あなたの真我に降伏できる。あなたの努力でできるもので
はない。だから、グルを満足させ喜ばせなければならない。そうすると、グルは幸福
であなたに恩寵を授けるのだ。この恩寵であなたは全てをグルに明け渡すのだ。これ
を唯一降伏というのだ。

あなたのマインドと努力を使っては降伏できない。内なる何かがあなたを降伏させる
のだ。あなたは神の手の中の道具になるだろう。神が働いているのだ。神の意志を実
行させなさい。

全ての人は「私の意志」を実行したい。彼らは「これが欲しい、あれが欲しい」とい
う、しかしこの意志は90年ほど続くだけだ。そして最終的な恩寵はあなたが降伏し
たときやって来る。これが恩寵だ。他に道はない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

654避難民のマジレスさん:2019/07/03(水) 06:30:40 ID:LC3de7YgO
>>652
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第3章 恩寵 

Q:あなたの恩寵で起こるべき全ては起こっていると確信しています。このおかげで
私自身の深まりを感じています。この恩寵は肉体的にあなたに近づけば近づくほど強
くなるのですか? もっと得やすくなるのですか?
    
恩寵については肉体的にグルの近くにいようがいまいが違いはないが、グルの肉体的
現存が得られるのならグルの近くにいたほうがよい。この半世紀にほとんどの賢人や
聖人は肉体を離れてしまったので、もしグルの現存が得られるのならその現存を最大
限に利用しなさい。

グルの現存の中にいると疑問がわきあがる。それをグルに尋ねることによって明らか
になる。もし現存が得られないときは、疑問が即座に明らかにされないので真理を信
じるのが難しくなる。

  グルの現存を最大限に役立てなさい。

 恩寵に対してはグルがいるかいないかは問題ではない。たとえばブッダ、多くの人
が決して彼に会ったことはないがその恩寵を得ている。しかし、カシャップやアナン
ダのようにもし多くの人々がブッダの時代にいたら、彼の現存の恩寵を楽しんだに違
いない。

ブッダのニルヴァーナの日、彼の肉体に死が近づいていた。その時ある男がブッダに
会いに来たが、「ブッダは今すぐにも肉体を離れるだろう」と弟子達に拒否された。
しかし、ブッダはその男に会って瞬時に彼の全ての疑問を明らかにした。そして、ブ
ッダの息が永久に止まった。

ブッダの現存によって500人以上の人が悟りを得た。まさに最初の彼の説教から人
々は悟った。今日、いまだに何億という人々がブッダの恩寵を得ている。もし、あな
たがグルといられる機会があるのなら、決してそれを見逃さないことだ。

Q:時間と空間は幻想で、恩寵は真理だということを知っています。だから、恩寵は
時間と空間を超越すると言ったほうが私には意味をなします。
    
これは正しい。時間と空間はない。それはマインドの概念で、それが超越されたとき
、それは消えてしまう。その時あなたは全てを成し遂げて、これ以上何もすることは
ないと確信しなければならない。悟ることが人間として生まれて来て唯一達成する価
値のあることだ。

Q:私があなたの近くにいると大きな変化を感じます。これが恩寵の本質についても
っと知りたい理由です。
    
恩寵の本質は悟らせること、生と死の輪廻を止めること。

 このことを完全に信頼しなければならない。あなたは再び生まれて来ないというこ
とを知りなさい。さらにこの現在の誕生は幻想だということも知りなさい。

そして、世界の全てが、太陽や月や星も含めて、幻想だということを明確にしなさい
。世界は本当に存在すると考えると世界は本当になるのだ。何も考えないとき、目に
見えるものは何もない。

あなたがここにいて、私があなたの質問に答えられるのは嬉しいことだ。

Q:「降伏」の過程で果たす恩寵の役割は何ですか?
 
恩寵のみでサットグルに、あなたの真我に降伏できる。あなたの努力でできるもので
はない。だから、グルを満足させ喜ばせなければならない。そうすると、グルは幸福
であなたに恩寵を授けるのだ。この恩寵であなたは全てをグルに明け渡すのだ。これ
を唯一降伏というのだ。

あなたのマインドと努力を使っては降伏できない。内なる何かがあなたを降伏させる
のだ。あなたは神の手の中の道具になるだろう。神が働いているのだ。神の意志を実
行させなさい。

全ての人は「私の意志」を実行したい。彼らは「これが欲しい、あれが欲しい」とい
う、しかしこの意志は90年ほど続くだけだ。そして最終的な恩寵はあなたが降伏し
たときやって来る。これが恩寵だ。他に道はない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

655鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/03(水) 22:51:25 ID:1d4drIFg0
降伏とは全てを捨て去ることじゃ。
しかし、全てを捨て去ろうと思えばそこに意志があることになるのじゃ。
その意志は捨てていないのじゃ。
何もかも捨てて捨て切った後に恩寵は降るのじゃ。

656避難民のマジレスさん:2019/07/04(木) 00:05:03 ID:LC3de7YgO
>>654
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第3章 恩寵 

Q:今の私はこんなに平和で、こんなに幸福で、私はこれに価するでしょうか?
    
ほんの少数の人々が最高潮に達した後でこの質問をする。これはおそらくインド式だ
。西洋の人は非常に傲慢で彼らは決してこの言葉、「私はそれに価しますか」とは言
わない。その変わりに「私はすでにそれを知っています」、「私は私の質問に対する
あなたの回答が何であるか見当がつく」、私は毎日これを聞いている。これをプライ
ドというのだ。

しかし、ある人々はグルの言葉を聞いた後で感謝して彼の足元にひれ伏す。これは*
2ハヌマンのようだ。彼は「私は決してラーマ神の恩寵に価しない」と言い張った。

ハヌマンは海を飛び越えて悪魔ラバナのいるスリランカに火を付け、ランカの平和を
取り戻し、誘拐された*3ラーマ神の妻シータを連れ戻した。

ラーマ神は彼に言った、「ハヌマンよくやった。お前はすばらしい。他に誰が海を飛
び越えてこの仕事をし終えることができたか? お前は勇敢な奴だ。」

これを聞いたハヌマンは彼の手を合わせ、ラーマ神に敬服し、彼の回りを3回まわっ
た。そして彼は一言言った。「グルクリパ」、神の恩寵という意味だ。

「私は一体誰だというのですか、私はただの猿にすぎません。その私がどうして海を
飛び越えて、この悪魔と戦えたでしょうか? あなたの恩寵によってのみこれを成し
遂げることができたのです」。

Q:恩寵とシャクティパットの違いは何ですか?

 シャクティパットとはその人が持っている色々なパワーをあなたに伝達することだ

彼らがパワーをあなたに伝達するのでどんな修練も要らない。

Q:あるグルからシャクティパットをもらいました。それは私を大変静かにさせて,
チラム(大麻パイプ)を三回吸ったときのように酔っ払いました。
 
ハザラトガンジのガンディーアシュラムの裏手にまわると1ルピーでハッシシが手に
入るのになぜグルのところに行くのか? このハイな状態は3時間続いて,また次の
一服を取ることになる。

同じように、真理の知識なしにシャクティパットを受け取るとグルと弟子の関係がデ
ィーラーと常用者の依存の関係になる。何かに依存する習癖を養うべきではない。あ
なたはそれらとは何の関係もなくそれらから何も得ることはない。ここでは伝達やシ
ャクティパットはない。起こるべき全てはあなたの内で起こる。
 
     誰もあなたにマインドの平安を与えることはできない、
     それはすでに内にある。
     あなたのものである平安をあなたに与えるのは親密さだけだ。

 私は何も伝授しないし、シャクティッパットは与えない。私がやっていることは何
かに対するあなたの依存心を取り除くことだ。何にも依存しないとき、何が起こるだ
ろう?あなたは何も失うものがない。

神や手段や他人に対する依存心を単に取り除きなさい。そうすると「それ」が光り輝
き、それ自身ですがたを現わすだろう。「それ」を失うことはない。これがここで得
られる明晰さだ。
  
他人から平和を得ることができるというマインドの混乱と観念を取り除きなさい。与
えられたものは必ずなくなるのだから依存しないこと。何にも依存しないとき、どん
な手段も使わずにそれはそれ自身で現われる。グルにも依存しないことだ。

Q:グルの恩寵とは何ですか。
    
あなたをここへ引っ張って来たものが恩寵だ。内なる神があなたの欲望を満たすため
にその場所にあなたを連れていく。これが恩寵だ。あなたが自由を望んだので、恩寵
があなたをここへ連れて来たのだ。

Q:何が恩寵を受けることを妨げているのでしょう? ある人達のハートや人生は恩
寵に満ち満ちているのに、ある人達は不幸にも恩寵に恵まれていないようです。
    
恩寵を受けることを妨げているものと、自由への到達を妨げているものとは同じもの
だ。
 彼らは他のところを見て捜し求めるのを止めず、平和に降伏していない。彼らがサ
ットサンガにいても外のものを見ていて内を見ないのだ。

あなたはあなたのマインドのある所にいる。教室にいる生徒が夜のスポーツゲームの
試合のことを考えて球場にいるようなものだ。あなたはあなたのマインドが考えると
ころにいる。だからサットサンガにいる間、マインドをあなたの真我に降伏させ続け
たら恩寵を得るのに時間はかからない。

用語解説

*2ハヌマン   猿の神、ラーマの献身者。
*3ラーマ   ヒンドゥの神。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

657鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/04(木) 22:29:21 ID:1d4drIFg0
自ら全てを捨てる決意が無ければ恩寵も得られないのじゃ。
例え正しいグルの所に行ったとしても、自我を捨てる決意が無ければ無意味なのじゃ。
リゾートに来たのとかわりないのじゃ。
ただ自我を満足させて帰って行くだけなのじゃ。

658避難民のマジレスさん:2019/07/04(木) 23:57:24 ID:LC3de7YgO
>>656
11「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第3章 恩寵 

Q : あなたの恩寵に感謝します。水曜日にアメリカに帰ります。私の時間をラクナウ
で過ごすより、私のビジネスの世話をするために・・・
  
アメリカに帰ることがあなたにとって良いことだと誰が決めたのかね? 誰があなた
をここに、サットサンガに連れてきたのかね?ビジネスの世話をしていたあなたを誰
がここに連れてきたのかね? あなたをここに連れてきた人とビジネスのためにアメ
リカに帰りたい人との違いは何かね?

Q : 違いはないとおもいますが・・・

 (怒ったように)いいや、そこには大きな違いがある。あなたは仕事で忙しくして
いたが、ともかく誰かの恩寵とあなたが積んだ過去世と現世の功徳のおかげで、この
誰かがあなたの全ての活動を取り上げてここに連れて来ようと決めたのだ。
今、あなたを連れ戻そうとしている誰かは、この同じ誰かなのかエゴなのかを見極め
なければならない。「私は子供たちの世話をしなければならない」というのはエゴの
誰かだ。全ての人のするべきことを決める誰かではない。
ラクナウを去るのが良いか留まるのが良いか、どうして分かるのかね? 本当にあな
たの仕事の世話をしているのは誰だと思うかね? あなたが活動するための力や知性
を誰が授けるのかね?
  
多くの人たちが「今日、帰ります」といって肉体は去っていくが、ラクナウからアメ
リカへこの肉体を連れて行くために肉体を操作しているのは誰か? 世話をしている
のは肉体か、それともマインドか? マインド、肉体、感覚器を活動させているのは
誰か?その人は誰か? 
私たちには分からないのだから、その至高の力に降伏しなければならない。行かなけ
ればならないのなら、行かなければならない、留まらなければならないのなら、留ま
らなければならない。違いがあるべきではないが、あなたが決めることではない。多
くの場合、人々が決定したら、その決定が実現されたためしがない。
  
二年前、デリーに住む友達が彼の弟と一緒にハリドワールにいる私に会いに来ること
になっていた。彼の弟は衣服を製造する工場をイギリスにもっていた。行く間際にな
ってこの弟はハリドワールまでの急ぎの旅をするには忙しすぎると言って、ビジネス
の世話をするためにロンドンに戻った。
弟は次にインドに来たときに必ずハリドワールにいるマスターに会いに行くと約束し
た。四日後にデリーの友達から電報が来た。クシャガートで私に会いたいと。クシャ
ガートは死後の儀式を執り行い,死者の灰をガンガー(ガンジス河)に流す場所だ。
そこで彼は私に会った。小さな包みを見せて、「これが次にインドに来たらハリドワ
ール行くと言った弟です。これが遺灰です。どうか、弟の魂を祝福してください。そ
して彼をガンガーに流します」。弟は心臓麻痺でロンドンで亡くなったのだ。
  
 次の瞬間に何が起こるか誰にもわからない、だからあなたには時間がないのだ。こ
とを決定するあなたの内なる至高の力に降伏するのがよい。「それ」に決めさせなさ
い。しかしあなたが「私は行かねばならない」というとき、この「私」は、いつもそ
こにいてすべての活動をつかさどっているその「私」とは違うものだ。

至高の力に降伏すると「それ」はうまくあなたの世話をし、間違いが起こることはな
い。あなたのビジネスでさえうまくいく。「それがビジネスをしている」あるいは「
ビジネスをしているのは私だ」、あなたは「それ」を採るか「私」を採るか決めなけ
ればならない。
  
ここにいる人たちは「ここを立ちます」と言うが、すぐに空港から戻ってくる。これ
が2・3回起こる。これはここに彼らをつれてきた「その人」がここに彼らを引きと
めようと決めたと言う意味だ。だから彼らはここを離れることができない。
(´・(ェ)・`)つ

659鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/05(金) 22:49:03 ID:1d4drIFg0
死はいつやってくるかわからないから誰もが十分な時間を持っているとは言えないのじゃ。
出来る時に実践するしかないのじゃ。
まだ生きているうちに目覚めた者に会えるのは稀な幸運なのじゃ。
盲亀の浮木とも喩えられるのじゃ。

660避難民のマジレスさん:2019/07/05(金) 23:25:21 ID:LC3de7YgO
>>658
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第3章 恩寵 

Q : 私への特別な助言をいただけますか?

あなたの活動の全てを司っている至高の力に降伏しなさい。あなたが全く活動をして
いないとき、それが静かにしている「それ」だ。降伏したなら、ここにいようがいま
いが何の問題もないだろう。

Q : 真我が現れたとどうしてわかるのですか? どうすれば真我に現れてもらえるの
ですか?

 それはあなたの選択ではない。聖典ウパニシャッドに書かれているように「私が選
んだその人に私自身を現す」。あなたの選択ではない。真我の選択だ。それがそれ自
身にそれ自身を現す。

Q : そのようにあなたが私を選んで欲しい。

 あなたはすでに選ばれたのだ。隣人が呼んでもあなたはやって来ないかもしれない
。私が呼ぶと世界中から人々がやって来るのはどうしてかね? 私が彼らを呼んだこ
とをここに来て初めて理解する。
  
  全ての人がわたしの内にいる、誰もこのことが分からない。
  呼ぶ人と呼ばれた人は同じだと言うことが分からない。

 選ばれた人にはこれが分かるに違いない。全ての人が苦しみ死んで行くが、この守
護者を信じるなら苦しみは破壊されるだろう。

Q : 自由を得る方法はないのですか?
 手段や方法はない。ただ静かにしていなさい。方法は過去に属する。あなたのマイ
ンドに浮かぶ全ての方法は誰かから聞いたものだ。方法は忘れてしまいなさい。

Q : 西洋まで恩寵がついてくるでしょうか?

  ここに恩寵があるように、そこにもあるだろう。
  彼女を愛するなら彼女は離れないだろう。
  彼女は世界中でもっとも貴重な人だ。
  彼女以外に幸福を与えてくれるものは何もない。

第3章 恩寵 終了
(´・(ェ)・`)つ

661鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/06(土) 22:53:00 ID:1d4drIFg0
恩寵以外に真の幸福を与えてくれるものはないというのじゃ。
この世で最も貴重であり、一度受けたら離れないのじゃ。
この娑婆世界から抜け出せる唯一の機会であるからのう。
真摯に悟りを追求する修行者には目覚めた者の一瞥や一言でも十分な恩寵なのじゃ。

662避難民のマジレスさん:2019/07/06(土) 23:21:50 ID:LC3de7YgO
>>660
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第4章 サットサンガ:真理との交流 ☆Part1

  サットサンガとは、サット、真理との交流、
  唯一「それ」、愛そのものとの交流を保つことがサットサンガだ。
  真理といること、賢者といることがサットサンガだ。
  サットサンガには過去、未来は存在しない、
  「これ」とか「あれ」も存在しない、
  あなたの本質のみ、美の世界だけが存在する。
  サットサンガにやって来る人は幸福だ、
  神でさえサットサンガに出席する為に人間の姿をとってやって来る。

  グルの現存がサットサンガだ。
  サットサンガでのグルの役割は、
  役割はないということを示すことだ。
  あなたが「私は誰か」と問わないかぎり
  あなたは「部分」、破壊されるものになる。
  
  人間としてサットサンガに参加できるのは大変貴重でまれなことだ、
  「これは何ですか」、「あれは何ですか」と愚かな質問をすることによって
  サットサンガを無駄にしないことだ。
  ただ謙虚に「私は一体誰か?」と自問することだ。
  サットサンガでは注意散漫にならないこと、
  記憶や概念というロープで過去と結びついているのなら
  サットサンガの外にいる。
  時間は概念で、サットサンガは時間を超えている。
  ロープや概念のないところ、心が散漫にならないところ、
  説明の必要がないところにいなさい、
  これが真理だ。

  サットサンガというのは舌のない教師と頭のない生徒の集まりだ。
  頭を閉じてハートを開きなさい。
  真理は沈黙の中で明らかになる。
  ハートを開いて、唯一「それ」に注意を払いなさい。
 
  自由への強烈な欲望は開いたハートの中に湧き上がって来る。
  この欲望はサットグルが教えの種をまく土地の肥やしになる。
  サットサンガはこの開いたハートに降る雨滴だ。
  自由の近くにいる人達には指導が必要だ、
  暗闇にいる人や、光の中にいる人には必要ない。

  サットサンガだけがあなたを苦しみから連れ出すことができる。
  サットサンガがあなたは常に静寂であったと明らかにするからだ。
  サットサンガとは「私は何々です」というのではなく
  真我としてとどまることだ。
  どのようにあなたが束縛されているのかと訊ねるのがサットサンガだ。
  サットサンガは束縛と傲慢さの根っこを断ち切ってしまう、
  少数の人が直面できるマインドの死だ。
  平和は記憶やマインドの中に住んでいるのではない、
  「ここ」に、唯一「ここ」にある。
  平和があなたの本質だ、
  サットサンガがあなたにそれを思い出させる。
  怒り、悲しみ、混乱に燃えている時は
  サットサンガの川にまっすぐに走って行きなさい。

  三つの道がある:知識、神への愛、ヨガ。
  このサットサンガでは唯一、知識:「私は一体誰か」という知識について話す。
  ヨガはここでは話さない、神への愛は全くここでは話さない。
 
  サットサンガであなたの疑問を取り除かねばならない。
  疑いだけがあなたを自由から遠ざけているのだから。
  ハートに住む疑いの蛇は、サットサンガで殺される。

  サットサンガとは、信念、意図、考え、欲望、幻想を捨てることだ。
  これが自由に到る秘密だ。
  「創造」という概念がプルシャからやって来る。
  そして、「創造者」と他の全ての概念が共に創られた。
  これらの概念に対する執着のために概念が私たちの現実となる。
  唯一サットサンガでこれらを取り除くことができる。
  この苦しみを取り除く為には
  どんな犠牲を払ってもサットサンガに出席することだ。
 マインドを活用しないでいることがサットサンガにいることだ。

  サットサンガとは静かな、隠遁の場所という意味だ。
  これは内なるハートの中にある場所だ。
  みんな裸でサットサンガにやっておいで。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

663鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/07(日) 22:38:41 ID:1d4drIFg0
真のサットサンガとは心の中にあるものじゃ。
真摯に悟りを求める心があるならば、どこでもサットサンガになるのじゃ。
聖者と共にいても金のことばかり考えていてはサンガですらないのじゃ。
真摯に悟りを求める者だけがそこに行けるのじゃ。

664避難民のマジレスさん:2019/07/08(月) 15:00:44 ID:LC3de7YgO
>>662
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA
第4章 サットサンガ:真理との交流 ☆Part1(つづき)
 
Q:私は2-3日しかここにいることができません。ここラクナウであなたと一緒に
いて一番良い時間の過ごし方は何ですか。すでにあなたの存在に深く影響されて、物
や体験に対する欲望はなくなりました。
    
対象物に対する欲望が落ちたということで十分だ。あなたの五感を通じて、世界の中
で道に迷ってしまうものだ。魚は味覚の為に釣り上げられる。鹿はある音に引き寄せ
られて殺される。象は触覚の為に捕まって殺される。竹で覆った落とし穴の近くに雌
の象の人形をおいておく。雄の象が雌に触れようとやって来て落とし穴に落ちて捕ま
るのだ。蛾は視覚の為に炎に向かって死んでしまう。
 
人間は分別の力をもち、自分の行動の結果を予測することができるので、感覚に溺れ
るという障害に打ち勝つことができる。人間は苦しみの代わりに平和を選ぶことがで
きる。何千年もの間、人々が平和を獲得した方法はサットサンガを求めてグルのとこ
ろに行くことであった。サットサンガで質問し、疑問の全てが解決する。そしてモク
シャだけが残るのだ。

Q:質問がないということはよいことですか? 質問しないと私は何かを見逃してい
るのですか?
    
それはよくない。質問があるに違いない。さもないと自由を見逃すことになる。豚や
犬やロバは何の質問もなく、そのために全てを見逃している。全ての人間は幸福にな
るための質問があるに違いない。
 
その質問とは何か? それは「私は一体誰か?」。この質問をしないとあなたは私が
すでに名前をあげた動物の社会に属することになるのだ。この質問が究極の質問で、
知性に満ちた人がこの質問をする。残りの人達はこの質問をしない。この質問をしな
さい。そして自分自身でこの答えを見つけることだ。

Q:あなたの顔のない口づけを感じました。それ以来、かつての未知への不安が自由
への招待に変わりました。
    
すばらしい! これが、サットサンガに出席している結果だ。非常にすばらしい経験
だ。この教えはどんな本からも得ることはできない。サットサンガにいる時は顔なし
でいるべきだ。そうすると頭のないグルが顔のないあなたに教えることができる。頭
をもったグルには会わない方がよい。頭というのはエゴだ。サットサンガが起こるの
はグルも弟子もエゴがないときだ。
    
Q:あなたは私に最も大切な宝物を下さいました。私は非常に感謝しています。
    
非常に多くの人々が自由の為に懸命に努力しているが、その人達は宝物は努力の真下
にあるということを知らない。彼らに必要なのは、信頼できる人だ。真実の言葉で「
あなたの努力の真下にゴールドがあるよ」と教えてくれる人だ。それが私がここで言
っていることだ。それを信じる人はすぐに修練をやめ、努力をやめ、私の予測を越え
た大金持ちになる。
  
   手に入れた全てのものは無くなってしまうが、
  「それ」は決して無くすことはできない。

Q:私は火事で私の家をなくした夢を見ました。私が消防隊を呼んだらあなたがその
消防隊員だったのです。あなたは全てが燃えてしまうように、燃えている家をただ見
つめているだけでした。
    
この夢の意味をある物語で説明しよう。貧しい小屋に住んでいたサドゥーの話だ。

彼は火を燃やして米を炊いていた。彼がしばらく小屋を離れて戻って来たら、小屋が
火事にあっているのを見た。人々は水をかけて火を消そうとしたり、数少ない彼の所
持品を燃えている小屋から引きずり出している。

サドゥーはこれを見て、引きずり出された彼の持ち物を再び火の中へ投げ返した。ま
もなく雨が降り始めた。雨が火を消していった。彼は近くの川からバケツで水を汲み
、火に水をかけ始めた。近隣の人々がなぜ最初に彼の所持品で火を大きくし、今度は
水で火を消そうとしているのかと尋ねた。
彼が言うには、「人生で一度は『火』が家を焼きつくそうとやって来る。私は火がや
って来てとても嬉しかったので、火を困らせないようにこの火に全てを与えたのだ。
今度は雨が降って来た。私は水を持って来て雨に親切にしたのだ。」と。

全てを火の中へ投げ入れて燃やしてしまいなさい。あなたの過去への執着も含めて。
現在と未来への執着でさえも燃やしてしまいなさい。全てが燃え尽きたら恩寵の雨が
あなたの上に降り注ぐ。何も残さないこと、そうすると恩寵が助けにやって来てあなたのめんどうを見てくれる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

665鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/08(月) 23:06:05 ID:1d4drIFg0
誰もが死を超える境地を欲しがるが、多くの者は探求を止めてしまうのじゃ。
信頼出来る師匠が導くことで続けられる者も多くなるのじゃ。
それは黄金のありかを示す地質学者のようなものじゃ。
自分自身の心を掘って悟りの宝を見出すのじゃ。

666避難民のマジレスさん:2019/07/09(火) 00:16:36 ID:LC3de7YgO
>>664
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
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第4章 サットサンガ:真理との交流 ☆Part1(つづき)

今も、未来も、ずっと・・・。あなたは何も考える必要はないし、何もする必要もな
い。ただ静かにしていなさい、そしてどうなるか見てごらん。執着の薮を燃やしなさ
い、そうすると恩寵がやって来る。
 
この話は非常におもしろい。このおもしろさを理解できる人は数少ない。できる限り
強く火を燃やし続けなさい。水が来たら、来させなさい。自由への欲望はこの炎で、
恩寵は真我からの雨だ。

Q:私は無知の海で漂流しているかのようです。どうか岸まで案内して下さい。私は
自由になりたい。この為に私はここにやって来たのですから。
    
全ての人が無知だ。しかし誰も自分が無知だということを知らない。全ての人が自分
の成し遂げたことを誇りにする。これが世界というものだ。自分は無知だと知って私
のところにやって来た。これで十分だ。

このサットサンガが海を乗り切る筏だ。あなたは何もする必要はない。この海につい
て話す必要も全くない。静かにしていなさい。あなたを飲み込もうとするワニがいる
のだから。数え切れない人々がすでにこのワニに飲み込まれた。今も毎日飲み込まれ
ている。

誰も筏があるということを知らない。ただ、筏に乗り、静かにしていなさい。航海士
がいてその人があなたの責任をとる。あなたは安全に岸にたどり着くだろう。
  
実際にサンサーラの海は存在しない。
  それはただあなたの欲望だけで、
  欲望が静まると、何も存在しない。
  この海は恐ろしいワニや鮫でいっぱいだと知っているなら、それで十分だ。
  ワニは、対象、人物、快楽に対するあなたの欲望だ。
  一度これらの欲望を忘れてしまったら、あなたはとても安全になる。
 
 あなたのように若い男性にはこれはよい忠告だね。あなたがサットサンガにいるの
は嬉しいことだ。ここにやって来るもっとも相応しい年齢だ。ソクラテスでさえこう
言っている。「神を知るには40才前がよい」と。ラーマクリシュナも同じことを言
っている。
 
私自身もマドラスのマリーナビーチで興味深い観察をしたものだ。

私は丸土曜日とその夜は海辺で瞑想したものだ。朝方、漁師が2隻のボートから網を
投げ入れ、輪をかいて網を閉めていくのを観察していた。観察するにつれ、ラーマク
リシュナが言っている4つのタイプの人間を象徴するような4つのタイプの魚を見る
ことができた。
  
網を見たら触らないように決めてすぐに逃げる魚、これが魚、または人間NO.1。
彼らは網にさえ入らない。スカデブがこの例だ。

NO.2の魚は網の内と外に何の違いも感じず、どちらにいようが全く気にしない魚だ
。*1ラーマティルタがこの例だ。彼はラホールに住み、家族を持ち、数学の教授で世
の中を楽しんでいたが、32才の時に全てを捨ててヒマラヤに行き彼の町へは二度と
帰ってこなかった。このNO.2の魚も網を逃れた。これらは若い時に網を逃れた人々
だ。

タイプNO.3、50才〜60才の年齢で網が閉じた後で網から飛び出すタイプだ。し
かし私の観察によると、飛び出した魚の多くは空中でカモメや鵜に捕まる。数少ない
魚が海に安全に着水した。

さて、4番目のタイプは自分自身の安全の為に網を口でしっかりと掴んでいる魚だ。
(くすくす笑い)これらの魚が漁師が岸まで持って来る魚だ。これらの魚が毎晩食卓
の上に現れるのだ。
 
岸につくと漁師は妻の助けをかりて魚を篭に入れる。彼らは喜んで感謝の気持ちでい
っぱいだ。その感謝の気持ちから、彼らの生活の糧を豊富に供給してくれた海に数匹
の魚を投げ返す。このように漁師の恩寵でこれらの魚は網から逃れた。2度目に漁師
が数匹の魚を海に返そうとしたとき、妻が彼の手をつかんで十分だと言った。(笑)
 
このようにある人達は子供時代にこの網から逃れる、ある人は若いときに、ある人は
年老いてから、私のように。しかし、私は網に掴まらずにそれをやり遂げた。白髪の
老人も心配することはない。海に授けものとして確実に戻されるのだから。漁師はと
ても気前がいいからね。

用語解説

*1ラーマティルタ 19世紀のインドの聖人
(´・(ェ)・`)
(つづく)

667鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/09(火) 23:13:06 ID:1d4drIFg0
どこに行っても全てはあるじゃろう。
ただ静かにして何もしないでいることでそれは達成できるのじゃ。
実際にはそれは悟っていない者には困難であるがのう。
自分を捨てきる覚悟でただ居るしかないのじゃ。

668避難民のマジレスさん:2019/07/10(水) 04:39:30 ID:LC3de7YgO
>>666
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第4章 サットサンガ:真理との交流 ☆Part1(つづき)

Q:なぜあなたの本や写真や他のものがここで売られているのですか。サットサンガ
の純粋性を汚しているようです。
    
*2ハザラトガンジで買い物をするなら、あなたがほしいものを売っている店に行くだ
ろう。もし靴がほしいなら服屋ではなく靴屋に行くだろう。さてサットサンガであな
たの注意がここ、あそこと散漫するなら、あなたはサットサンガにやって来たのでは
ない。あなたは「他」を批判する為に立ち寄っただけだ。もし、あなたが自由の為に
やって来たのなら何も、他人でさえ目にはいらないだろう。
 
ここに来る人は自分の家が火事だという電話を受け取った人のようであるべきだ。彼
はすぐに会社を去って、途中で友人に会い、昼食に誘われても家が火事なのだから決
して行きはしない。代わりにまっすぐに家に帰って何ができるか考えるだろう。
 
だからあなたの家が燃えている時、あなたは批判している暇はないし友人の招待も受
け入れないだろう。もし家が火事でないのなら、仕事が終わっても会社に居ることも
好きなところへ行くこともできる。

「これ」は家が火事だというようでなければならない。普通の家はあまり問題ではな
いが「この」家が火事ならできるだけ早く火を消したほうがよい。あなたはいつ人間
に生まれ変わって来るかわからないのだから。「自由でありたい」が火事だ。

Q:サットサンガで座っているだけで十分だとマインドは言いますが、私はあなたと
もっと良いつながりを持ちたい。どうしたらあなたの現存をもっと感じられますか?
    
座っているのは簡単ではない。マインドは静かにしたくないが、「わたしはここで静
かに座る」とマインドに命令しなさい。あなたはこの戦いに勝たねばならない。座っ
て、マインドが考えていることを見つめなさい。その性向を見つめなさい。どこから
来てどこへ帰っていくか見つめなさい。

そうすると、マインドが過去の出来事や人や、対象物や考えに執着しているから、静
かに座っていることができないのだとわかる。これらの執着が妨げになっているのだ
。もし一瞬でも完全に静かに座ることができたらそれは大変貴重な体験になるだろう
。私はあなたに一つ助言しよう。

  マインドが猿のように外に出たら連れ戻しなさい。
  また行く、また連れ戻す。
  また行く、また連れ戻す。
  このゲームを演じなさい。
  最終的にマインドは外に行かなくなるだろう。

 静かに座ってマインドが走り出さないように注意しなさい。走り出したら連れ戻し
なさい。これをやりなさい。単にメガネを見るようにマインドを見るのだ。あなたは
サットサンガにいるのだから、苦しみに導く古い習性を破る為にこの機会を利用しな
さい。

  マインドは執着そのものだから
  過去に対するマインドの執着を取り除きなさい。
  そうするとマインドはノーマインドになる。
  執着を取り除きなさい。
  そうするとあなたは愛と平和の光を見つけるだろう。

Q:サットサンガに参加して一ヶ月が過ぎました。私の質問は答えられましたが、ま
だ暗闇にいるような感じがします。静かにしていることができないのです。静かにな
ることはありえないと感じます。
  
あなたの国にいるなら、「静かになることはありえない」と言うことができる。これ
はあなたの国からの条件付けに過ぎない。過去を忘れてサットサンガにとどまりなさ
い。何も探さないことだ。あなたの自由への欲望は非常に強いので、「それ」はひと
りでにやってくるだろう。あなたをここに連れてきた功績が役に立つ。ただ静かに座
って何もしないことだ。

Q:静かに座っていることはできますが、私が背負って来た重荷が完全になくなった
わけではありません。
    
あなたは頭の上の重荷を取り除かねばならない。200ポンド頭の上に乗せていると
仮定して教師の所に行く。その教師がマインドから全ての概念を切り落としなさいと
言うと、これはもっと重さを加えているようなものだ。

次の教師は他のことをするように言う。そうしてもう一つの重荷。
ここでは何もする必要はない。修練なし、瞑想なし。ただ、私はあなたの頭を振って
重荷を落とすだけだ。「私は自由だ」という為には頭を振って、議論や他のことを落
としなさい。そうすると頭やマインドが軽くなる。

用語解説

*2ハザラトガンジ パパジが住んでいたラクナウという町の繁華街。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

669鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/10(水) 22:03:32 ID:1d4drIFg0
ただ静かにしているだけというのは悟っていない者には最も難しいことじゃ。
心は常に動き、何かをしようとするからのう。
それも不安や孤独があるからなのじゃ。
やはり心を修練してコントロールしなければならんのじゃ。

670避難民のマジレスさん:2019/07/10(水) 22:25:36 ID:LC3de7YgO
>>668
12「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)

〜SRI H.W.L.POONJA
崎山綾子翻訳

第4章 サットサンガ:真理との交流 ☆Part1(つづき)

Q:ここにいる人々はとても違った顔つきをしている。この違いは何ですか。
    
ここでは全ての人が若返っている。世間では普通、心配が人を食い尽くす。世間では
この心配という蛇に咬まれたことのない人は誰もいない。しかし、心配のない人は永
久に若さを保ち、死は決してその人に触れることはないだろう。これが秘密だ。

心配しないこと。人はコブラに咬まれても助かるが、心配に咬まれたら生き残るチャ
ンスはない。心配なしでサットサンガに来て座っている人は非常に若く見える。

Q:アイルランドにいる私の両親は一体全体、私がここで何をしているのかと心配し
ています。私は説明しようとするのですが、ここで起こっていることを両親に伝える
ことは非常に難しい。
    
両親の承諾なしにここにやって来て、そのことが今あなたの重荷の一つになっている
らしいね。あなたはよくやった。あなた自身の為ばかりでなく、両親もあなたを通じ
て恩恵を得ることができるからだ。

ここで何も問題なくあなたは面倒みられているということを両親に確かに伝えなさい
。ある両親はレベルの高い教育を受けさせる為に子供を外国の大学へ送る。これらの
高いレベルの教育はよい仕事を勝ち得るかも知れないが、ラクナウでの教育はあなた
に平和と愛を与える。そして、それをあなたの両親にも分かちあうことができる。
 
だからどんな状況にあろうともここにいなさい。両親が快く思っていないのならそう
させておきなさい。この状況の中で強くなくてはいけない。あなたの道を妨害する人
々を納得させようとしないことだ。
 
戦いに勝つまで行進するのだ。この戦いはあなたと、皇帝でさえ勝つことができなか
った強敵との戦いだ。この強敵とはエゴだ。彼女は弱々しくみえるが実は非常に強固
だ。彼女はこの宇宙の全ての人を打ち負かして彼女の奴隷にした。しかし少数の人が
この戦いに勝つことができる。
 
私は家族を拒絶しなさいとは言わないが、「自由でありたい」という欲望を完璧に満
たすべきだ。ここラクナウにいる間、この欲望だけを持っていなさい。そうするとあ
なたは「自由の人」としてどんな欲望にも戻っていくことができる。家族を助けたい
と言う欲望も含めて。

Q:私はここにいるのが大変嬉しい。私ができる最高のことをしているように思いま
す。
    
サットサンガに出席することがあなたのできる最高のことだ。やらなければならない
最高の仕事だ。あなたは世界中の至るところを見てまわった。しかし、最初にあなた
自身を見ない限り、他の何も理解することはできない。まず、あなたは誰か見てごら
ん。そして、その後で必要なら世界の他のものを見なさい。

   あなたの真我を見たなら
   神でさえ見る必要はない。

 最近一人の女性が25年間の探求のあと、ここにやって来た。多くのスワミやグル
が彼女に神や彼らの写真を与え、マントラを与えた。しかし、何も、誰も、彼女に平
和を与えることができなかった。そして、ここにやって来た。何の質問もすることな
しに、何も得ることなしに彼女は「私が神だ」、長い間彼女が探し求めていた神その
ものだと悟った。

Q:サットサンガと心理療法の違いは何ですか。
    
心理療法は金もうけをする機械だ。サットサンガはただ自由を与えて金もうけはしな
い。それはマインドの平和の為でマインドを騒がせる為ではない。サットサンガは愛
と平和を与えるが、心理療法は人をもっと混乱させる可能性がある。

もし、典型的なセラピストの所に行くと彼らはあなたを過去に連れていき、あなたは
そこにそのまま永久に留まることになるだろう。サットサンガでは墓を掘らない。「
私達は誰か?」、「私達は本質的に何の病気も持っていない」ということを見つけだ
すだけだ。

ほとんどのセラピストはほんの一時間あなたの前にいて、$100請求する。そして
、行ってしまう。サットグルは永遠にいつもあなたと一緒にいる。これが違いだ。

Q:私は満足していないし自由ではありません。
    
この不満は何か?
    
(´・(ェ)・`)
(つづく)

671鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/11(木) 22:23:18 ID:1d4drIFg0
座禅や瞑想を心理療法にとりいれることはあるのじゃ。
心が落ち着き、ストレスも軽くなるからのう。
しかし、悟りへの道は心理療法にはならないのじゃ。
それは別の自我という病を治すためのものであるからのう。

672避難民のマジレスさん:2019/07/12(金) 01:17:14 ID:LC3de7YgO
>>670
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)

〜SRI H.W.L.POONJA

第4章 サットサンガ:真理との交流 ☆Part2 (つづき)
   
Q:思考、疑いがあるからです。
    
どこにこの疑いが住んでいるのか? もし、頭にあるのなら、頭を切ってしまいなさ
い。もし鼻にあるのなら、鼻を取り除きなさい。これがバナラシの7才の少女の教え
だ。彼女の名前はカマリ、彼女の父は聖人カビール。
 
カビールのサットサンガに多くの人たちが参加していた。カマリが父に尋ねた。「な
ぜ、こんなにたくさんの人が朝の4時にお父さんに会いにやって来るの?」
 
父は言った。「彼らは自由と真理の為にやって来るのだ。他にどんな理由でこの寒い
冬の朝に人がやって来ると言うのか?」

「パパ、500人の人が自由の為にサットサンガにやって来るの? 私はそんなの信
じない。何か他の理由でやって来るに違いないよ」、そう言って彼女は遊びに行った


次の朝、カマリは門の前に立って、やって来た一人一人に次のように言った。

「サットサンガに入る許可を与える前に私の父が一人一人、インタビューすることに
なっているので、あなたはこの丸太に頭をのせて私が頭を切り離して父に見せます。
もし父がイエスと言ったら、あなたはサットサンガに出席することができます」と。
彼女が手に持っている斧は非常に鋭いので誰も苦痛は感じないだろうと確約した。
 
最初の一行は「私達は裁判を抱えています。裁判に勝つ為にあなたのお父さんの祝福
が欲しくてやって来ただけです。門を触ったので恩寵が得られるでしょう。それでは
裁判所に行かねばなりませんのでこれで失礼します。」
 
第二の一行は、「私達の息子が病気で、あなたのお父さんの祝福で息子がよくなると
思ってやってきました。」
 
第三の一行は「私達はサットサンガに来たのではありません。娘の結婚がうまく行く
ようにあなたのお父さんの祝福をもらいにきました。今日はこの門に敬拝して帰りま
す。」
 これら全ての人々は他の理由のためにやって来た。
  
2時間後、カビールは空っぽのサットサンガホールから出て来た。朝の6時であった
が斧を手にした彼の娘以外誰も外にはいなかった。

「パパ、誰もサットサンガの為にやって来ないと昨日言ったでしょう。なぜ時間を無
駄にするの? 今日はみんな他の目的の為にやって来たのよ。」

そうだ、聖者に会いに来たのならあなたの頭を取り除きなさい。そして初めてインタ
ビューが受けられる。あなたの疑いは頭の中のものだ。頭を取り除いたら疑いなし、
そしてあなたは自由だ。もし、あなたがこれを理解したならどんな疑いも持つことは
できないだろう。今、疑いがあるかね?
    
Q:はい。
    
それなら外に行って頭を切り落としなさい。
    
(´・(ェ)・`)
(つづく)

673鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/12(金) 22:18:57 ID:1d4drIFg0
誰もが悟りを求めている訳ではないのじゃ。
現世利益が何か得られると思っている者も多いのじゃ。
迷信なのじゃ。
誰もが自ら目覚めた者になることができると知らないのじゃ。

674避難民のマジレスさん:2019/07/13(土) 00:25:09 ID:LC3de7YgO
>>672
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第4章 サットサンガ:真理との交流 ☆Part2(つづき)
    
Q:しかし、パパジ、時々・・・
    

「時々」を直訳しなさい。「時々」とはどういう意味だ? このまちがった文法をど
の教師が教えたのだ。これは教師のいない変わったクラスだ。教師は話す為の舌はな
いし、生徒は理解する為の頭がない。これがこの変わったクラスだ。

あなたが頭を持っているのなら、頭を落とす他の場所、屠殺場を探さねばならない。
このエゴが頭だ。わかるかね? 屠殺場に持っていく値打ちがある。彼らがうまく面
倒を見てくれるだろう。私はヘッドはいらない。私はハートがほしいのだ。ここでは
頭は必要ない。頭だけを必要とする学校はいくらでもある。

外であなたの頭を取り除いて、そして話してごらん。そうするとあなたのハートが愛
の言葉を初めて話すだろう。ハートに話しをさせなさい。あなたはいつも頭で話して
いた。カマリの言うように頭を落としなさい。

この少女はどのようにしてサットサンガに出席すべきか知っていた。「私」、「あな
た」、「彼女」はサットサンガに来るのを許されない。あなたは今真理と直面しよう
としている。それがサットサンガの意味だ。

あなたは今、真理に、自由に直面している。誰があなたを殺すことができる? 自分
の真我を恐れてエゴに依存している。つかのまの問題に完全に巻き込まれて、あなた
の人生を救うことができない。何億回と生まれて死んで来たのだから死の味は十分に
知っているはずだ。
  
今は生き方を学ぶ時だ。至福の中にいつもいるのは非常に簡単だ。だが、あなたは死
にたいので、この愛と美の楽園を屠殺場に変えてしまったのだ。
 
一瞬休んで、あなたは誰か見てごらん。あなた自身の真我があなたに姿を現しキスを
してあなたを抱きしめるのを許さなかった。あなたは何億年もの間、頭を使って生き
てきた。今、少なくともハートに時間を与えなさい。静かにしていなさい。唯、静か
にしていなさい。静かにしていると真我がやって来て、抱きしめて、キスしてくれる
だろう。あなた自身の真我に時間を与えなさい。

Q:あなたとのサットサンガは陶酔的だ。ここにいつもあるものを再発見する為に、
真我の中で永遠に休息する為に、私はあなたに会いにきました。
    
普通ならこの酒にたくさんのお金を使うものだ。どのようにしてここで酔っ払ってい
るのかね。
    
Q: あなたの存在、最高の飲み物です。 
普通、最高のお酒はスコッチだ。これは3時間しか効果がないので、お金をすべて使
い果たしてしまうものだ。しかし、「この酒」は一瞬ごとにもっともっと強くなって
、3時間後には消えてしまう酒ではない。
有名なブランド(グル)を見つけることだ。そうすると一瓶で残りの人生を楽しめる
。その上、「この酒」は蒸発しない。値段が非常に高いので「この酒」を飲んだ人は
非常に少ない。ある人は「それ」には値段が付けられないと言うだろう。静かにして
いなさい。そうするとあなたは酔っ払うことができる。ただ静かにしていることだ。

あなたの陶酔が他人や物に依存しているなら、自分自身を騙していることになる。最
高の陶酔はあなたの真我以外、どんな源泉からもやって来ない。誰もあなたに幸福を
与えることはできない。誰もあなたに平和を与えることはできない。

あなた自身を見つけなさい。
混乱したマインドだけが幸福は他のどこかにあると考えている。
この愛と美は静かにしているだけで即座に現れる。
そうして全てを得ることになる。
あなたはそれを味わったようだね。
だからあなたはそんなに光り輝いているのだ。(笑)

 OK.私はあなたに会えて非常に幸せだ。
    
(´・(ェ)・`)
(つづく)

675鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/13(土) 22:25:37 ID:1d4drIFg0
質問者が何を聞いてもパパジは自分自身を観るようにいうのじゃ。
それが正しい教えなのじゃ。
自らを観る実践を勧める以外に教えは無いのじゃ。
人々がその教えによって自らを観ることが出来たならば教えは完成したといえるのじゃ。

676避難民のマジレスさん:2019/07/14(日) 00:58:01 ID:LC3de7YgO
>>674
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第4章 サットサンガ:真理との交流 ☆Part2 (つづき)
    
Q:何の目的もなしに、あなたとここで平和に満ちて一緒に座っているのが最高です。
    
 何の目的もなしに私の前に座る人が全てを得るのだ。
これは神も又約束していることだ。
「私の帰依者が私の所に来て何かを頼むとき、私は即座にそれを与える。子どもであ
ろうが、長寿であろうが、よい連れ合いであろうが、何でも。」

しかし、神にも人間と同じように恐れがある。
神が言うには、
「私は何も頼まない人が恐ろしい。私はその人に全てを与えるように束縛されるから
だ。私はその人に影のようについて行かねばならない。欲望のない人には私はその人
が必要なものをその瞬間に与えねばならないからだ。私はその人に束縛される。」

無欲でサットサンガにやって来る人も又同じことだ。彼らは何も頼まなくても全てが
与えられる。あなたには何の不足もない。残りの人生は必要な全てのものが供給され
るように確約されている。

Q:パパジ、私は新しい名前がほしいのですが。
    
 最初に意味をあげよう。
カップのようにあなたの手を合わせて、この空っぽの手を差し出しなさい。
そうすると、ダイヤモンドがその中にひとりでに落ちて来る。
このダイヤモンドが真我の知識で、ひとりでに落ちて来る。
しかし、あなたの手は何層もの心を乱すマインドをつかんでいる。
これらの層が欲望だ。

サットサンガにやって来る人は欲望をマインドから引き離して真我に戻す。
これがサットサンガで自動的に起こる。
そうしてこのカップの用意が整う、そのときダイヤモンドが落ちて来る。
真我の啓示だ。
真我がそれ自身でそれ自身に姿を現すのだ。
この空っぽのカップの手の状態がアンジェリと呼ばれている。
あなたのハートは十分開いているので真我の知識を受け取ることができるだろ
う。
 
これはウバニシャッドからの話だが、ある人が自由を得た時、どのようにして
自由を得たのかと尋ねられた。
「アムラキ(木の実)が私のアンジェリにひとりでに落ちて来たようなもので
す。私は何もしていません。それはサットサンガの木から落ちて来たのです」。
他の木ではなくサットサンガの木の下に立っているとこれが起こるのだ。
 
サットサンガで得られる名前は愛と美の名前だ。
この名前を使う人々は愛と美と恩寵の中で溺れてしまう。
あなたの名前を呼ぶ人でさえこの恩寵を得ることができる。
名前はこのように全ての人が楽しむことができる名前であるべきだ。
あなたが喜びの名前を発すると喜びに満ちるように。
 
名前が新しい系統を代表する。
苦しみから苦しみが生まれるように多くの名前はこの苦しみを背負っている。
今、あなたは違う環境にいる。
新しい名前はこの一部だ。
あなたの人生を過去から切り離して新しく出発するという意味だ。

Q:ブッダが私の最初のグルで、私のハートは彼と強く結びついています。
私は彼を以前に知っていたに違いないと思います。
又、私はまるで以前にあなたに会ったような気がします。
    
あなたは以前にブッタを知っていたに違いない。
我々はみんな以前に何回も出会っている。
ほとんどの人が憶えていない。
少数の人が、これを思い出して、何回も何回も同じ事を繰り返しているこの過
程を終わりにしたいと決めない限りこれは続いていくのだと理解する。
 
ここにいる全ての人達は何世も一緒に過ごしたのだ。
だから私達はここにいる。
わたしたちがここで出会っている目的は再び戻って来ない為だ。
ブッダのように。
彼がしたことは非常に簡単だ。
菩提樹の木の下に座り、沈黙し、全ては終わった。
彼はやり遂げた。
私達も又やり遂げることができる。
 
(´・(ェ)・`)
(つづく)

677鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/14(日) 23:00:57 ID:1d4drIFg0
誰もが何度も生まれかわっているのじゃ。
その生の中で悟りを目指した者も多いじゃろう。
この世でこそ、その願いを叶えたらよいのじゃ。
時間が有って修行できるうちに精進あるのみなのじゃ。

678避難民のマジレスさん:2019/07/15(月) 00:08:00 ID:LC3de7YgO
>>676
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第4章 サットサンガ:真理との交流 ☆Part2(つづき)
 
ある話が浮かんで来たので短く話してみよう。
これは7000年前に起こった*1ラーマヤナの中の話だ。
 
当時、聖人と悪魔が戦っていた。
悪魔はラーマの妻シータを誘拐した。
長い話を短くして、ラーマは悪魔を倒し妻を取り戻した。
 
次にラーマ、シータが王位につく為に授冠式がとり行われる。
ラーマは彼のグルにメッセージを送って王位につく為に必要な儀式をとり行っ
て祝福してほしいと頼むことにした。

 ラーマは弟のラクシュマンに彼の指輪をもたせ、早馬にのせて彼を送った。
ラクシュマンは森の中のグルのアシュラムに行って彼に告げた。
「私はラクシュマン、ラーマの弟です。私達は安全に南から帰ってきました。
来週は授冠式がとり行われます。ラーマはこの指輪に命じてあなたに儀式をと
りおこなってほしいと依頼しています。」

さて、王の指輪はこれに相当するものは何もないほど貴重なものだ。
指輪は特別なダイヤモンドでできていた。ラクシュマンがグルにこの指輪を差
し出したとき、グルは言った。
「米を炊いていて忙しいので、私の小屋に行って指輪を素焼きの壷の中に入れ
ておきなさい。」

ラクシュマンは壷に指輪を入れた。
入れたとたん予期しない音がした。
彼は壷の中に何が入っているのか興味深く思ったと同時に王の指輪を素焼きの
壷に入れるとはもってのほかだと怒った。

彼が壷をひっくり返したら彼が入れた指輪と同じ指輪がたくさん出て来た。
「どうしたものか? 数えきれない位の指輪だ。それに私が入れた指輪はどれか
わからない。」

彼は外に出てグルに尋ねた。
「誰がこれらの指輪をこの壷に入れたのですか?」

厳しい表情で*2バシスタは言った。

「ラクシュマン、お前が入れたのだ。お前が入れたのだ。」
「それはありえない、私は初めてここにやって来たのだから。」彼は叫んだ。

「いいや、何回もお前はやって来たのだ。その度に馬に乗ったまま授冠式に来
るように私に頼んだ。その度に私は指輪を壷に入れるようにと言った。お前が
馬から下りてお前のプライドを取り除かない限り、これは何度も何度も起こり
続けるだろう。私と一緒にいなさい。私が教えてあげよう。そうすると再びこ
こに現れることはないだろう。」とバシスタは告げた。

プライドを取り除き、名前や形に同一化するのをやめない限り私達は何回も現
れ続ける。
名前と形がないとき、あなたは決して以前にやって来たことはないし、今回も
やって来なかったということを悟るだろう。
これがこの話の美しさだ。

真理は「かつて何も存在したものはない」ということだ。

Q:私はブッダガヤからやってきました。
そこでは仏教の功徳や*3カルマの概念が説かれています。
もし、かつて何も存在したものがないのならそれらの概念は自由にとっては意
味のないもののように思えます。
    
それは意味のないことではない。
逆に大きな意味がある。
良いカルマなしにブッダガヤやここにやって来ることはなかっただろう。
少数の人がサットサンガにやって来る功徳を持っている。
ここに来るにはたくさんの功徳が必要だ。
これがなぜあなたがここにやって来たのかという理由だ。

いつ、自由になるかは運命で決められている。
ブッダの場合がそうであったように。
あなたの功徳の強さの為にあなたがそれを拒もうとしても自由があなたのとこ
ろにやって来るのだ。
あなたが自由になることが決められていたら、ここを発とうとしても発つこと
ができないという状況に陥るだろう。

用語解説

*1ラーマヤナ 悪魔ラバナに誘拐されたラーマの妻シータをランカから救いだしラバナを滅ぼす物語。

*2バシスタ 聖人、ラーマのグル。

*3カルマ 因果応報
(´・(ェ)・`)
(つづく)

679鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/15(月) 22:08:13 ID:1d4drIFg0
善事を行っていれば何事も心で願うことがかなうのじゃ。
悪事をしていれば何事も障害が増えて思うままにいかないのじゃ。
修行も善事をしていれば速やかに進むものじゃ。
そうであるから善事を積むのもまた修行の一つと言えるのじゃ。

680避難民のマジレスさん:2019/07/16(火) 00:12:19 ID:LC3de7YgO
>>678
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第4章 サットサンガ:真理との交流 ☆Part2(つづき)

Q:ラクナウに来て以来、私はここに来る以前のように幸福ではありません。
どうしたことでしょうか?
      
ラクナウに来る前の幸福は、おそらく幸福感をあなたに与えてくれる人や物や
場所によるもので、マインドがそれを幸福だと勘違いしていたに違いない。
おそらくあなた自身の概念から幸福を得ていたに違いない。
それは幸福ではない。
本当の幸福は説明することはできない。

幸福は他の人からやって来るのではない、聖者や賢者からでさえやって来るも
のではない。
幸福は内からやって来る。
サットサンガでさえ幸福を与えることはできない、それはいつもあなたの内に
あるからだ。
 
あなたはサットサンガにやって来て、何も考えないで静かにしているようにと
言われる。
肉体、マインド、エゴ、感覚の活動についても考えないで静かにしているよう
にと言われる。
そしてあなたは静かに平和でいることができる。
ここでは、静かにすること、マインドからどんな思考も湧き上がらないように
することを学ぶのだ。

そうすると、言いようもない幸福を感じるようになるだろう。
あなたの内なる幸福が顔に現れるだろう。
あなたが幸福なときあなたの顔の表情は完全に変わるものだ。
そして、あなたの顔を見た誰もが幸福になる。
 
湧き上がって来るこの悲しみはよい兆候だ。
何世にもわたって蓄積された悲しみがハートの底で触れられずに存在していた。
この悲しみはあなたの肉体の一部になってしまってそれから離れて存在できない。

グラスの水の底に沈んだ塵のように。
この悲しみは悪行や不正な活動の結果としてハートに蓄積されている。
あなたが今悲しみを感じているのはサットサンガがそれを取り除く為にかき混
ぜて表面に浮かびあがらせている為だ。
全ての人のマインドがサットサンガで緊張して、何年も気づかずにいたものが
表面に現れてくるのだ。

しかし、浮かびあがった悲しみはサットサンガにいることはできないのでそれ
は溶けてしまう。
事実は苦しみや悲しみがあなたをここに連れて来たのだからそれに感謝すべき
だ。
 
一度自分の真我を知ったなら悲しみの全てはたいした問題ではなくなる。
今、不運だと感じているかもしれないが、あなたは非常に幸運だ。
すぐに過去に影響されなくなる。
背負って来た重荷も忘れてしまうだろう。
あなたは「今」にいてそれを知るだろう。

Q: 私が感じているこの切望や憧れはいったいなんでしょうか?
 どのようにして私自身をこの切望にゆだねることができるのでしょうか?
 夫に捨てられたことと娘の行く末を考えるととても耐えられません。
  
あなたは家庭を捨ててインドにやってきたのにまだ関係を乗り越えていないの
なら、マインドを騒がせることになる。
半分ここにいて、他の半分はむこうに居るなら、静かにしていることはできな
い。

いつか夫や子供たちとの関係は終わりになると理解しなければならない。
あなたの夫があなたから去っていったことを感謝して幸せに思うべきだ。
全ての関係は始まって終わりになるということを体験させてもらったのだから。

次の関係を求めるという愚かなことはしないだろう。
今なら関係をのり超えて、「全てが一つだ」というところにいくのが簡単にな
るだろう。

第4章 サットサンガ:真理との交流 終了
(´・(ェ)・`)つ

681鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/16(火) 22:54:38 ID:1d4drIFg0
世間での不幸や苦はむしろ永遠の幸福を求める道に入る機会になるものじゃ。
そうであるからお釈迦様も世間は一切皆苦と説いたのじゃ。
世間は一切皆苦であるが、世間を出れば安楽なのじゃ。
一切皆苦と説くのもそこから出る道があるからなのじゃ。

682避難民のマジレスさん:2019/07/17(水) 00:54:13 ID:LC3de7YgO
>>680
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第5章 内在する「自由」への徴候 ☆Part1

内在する「自由」の徴候
 
   グルの恩寵がその人をサットサンガに連れて来るまえに、
   すでにその人の人生に自由が起こる兆しや
   自由を得るための資格が現れている。
   自由のために更に更に準備ができるにつれて、
   幻想の膜が薄く薄くなるにつれ
てそれらは現れる。

  最も重要な資格は神聖さと強烈な自由への欲望だ。
   次に識別する能力、
   真実と不真実・永遠性と一時性・平和と苦しみの違いを見分ける能力。

   次にやって来るのは冷静さと放棄だ。
   真実でない一時的な世界に執着しないこと、
   感覚の対象物に対する拒絶だ。

  他の徴候は、謙遜・不動性・法(ダルマ)にかなった生活・健康な肉体
・真我探求・神への愛・無暴力があげられる。
   
   これらの徴候の全ては同じものの異なる様相だ。
   即ち、内在する真我が真我に対して真我の姿を現しているのだ。

  これらの徴候はひとりでに現れる。
   これらに焦点を合わせないで
   これらに惑わされないで
   絶えず真我にのみ焦点を合わせていることだ。

「自由」への欲望
   
   *1サンサーラの海を乗り切ることができる筏は
   自由になりたいという強固な決心だ。

   この強烈な欲望は絶対に必要だ。
   この欲望の強烈さ自体がサットグルだ。
   ハートの痛みは真我が呼んでいる証拠だ。

   いつも真我だけを望みなさい。
   あなたが最も望むものはいつも手に入るのだから、
   自由への燃えるような欲望をもつことで十分だ。
   そして、それが祝福された徴だ。

   *2モクシャへの欲望がモクシャだ。
   今あなたは自由とのみ関係を持つ。
   今自由と「私」を識別しなさい。
   そして「私」は自由からどれだけ離れているか見てみなさい。
   行くべき場所がないとき、そこへ行くべき「私」は存在しない。
   
   ツーリストは去っていった。
   今この自由に、岩のような信念を持ちなさい。
   そうすると思考や疑いの水や風がやってきても不動だ。

   自由への欲望を持ち続けると、
   習癖の全てやマインドの妨害が落ちていく。
   自由だけを考えていなさい、そうするとあなたは自由になる。
   あなたはあなたが考えているところのものになるのだから。
   歯痛の持続性のようにいつも真我について考えていなさい。

  自由への欲望が高潮だ。
   それは疑いでできた砂の城を押し流してしまう。
   ・・この欲望のない人間は、尻尾のない動物にすぎない。

Q: 全ての束縛から自由でありたいという燃えるような欲望を持っています。
    
自由への燃えるような欲望を持ってるのならそれで十分だ。
その炎は、あなた・マインド・エゴ・肉体も含めて宇宙の全てを焼き尽くすだ
ろう。
燃やしなさい、そして燃え残ったものも全て火に投げ返しなさい。

火の中に投げ入れられたものは全て火になる。
自由への欲望でさえも、この火の中に入れると燃え尽きて「それ」になる。
非常に簡単だが自由でありたいと燃えている人は数少ない。
ほとんどの人が感覚の対象物にとり憑かれている。

   あなたの意志をこの火の中で燃やしなさい。
   そうするとどこに行く意志もなくなる。
   あなた自身を永遠・愛・平和のこの火の中で燃やし尽すのだ。
   この火を恐れることはない、それは愛そのものだから。
   この自由への欲望が愛の炎だ。

ほとんどの人がこの火を恐れている。
少数の人がこの自由を愛してしまった。
この愛の火の中で自分自身を燃やし尽くした人はいまだに生きている。
仏陀は2600年前にそれをやり遂げた。

用語解説

*1サンサーラ 個人が解放されるまで繰り返される生と死のサイクル。

*2モクシャ サンサーラからの解脱、自由、真理の実現。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

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684鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/17(水) 23:51:04 ID:1d4drIFg0
悟りを求める心の強さによって悟りも近くなるのじゃ。
強い意志が必要なのじゃ。
自我が無くなろうとする時には恐れが起こるものじゃ。
自分が無くなると感じるからなのじゃ。
その恐れを乗り越えられるのは悟りへの強い意志を持つものだけなのじゃ。

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692避難民のマジレスさん:2019/07/18(木) 08:05:06 ID:LC3de7YgO
>>682
16「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第5章 内在する「自由」への徴候 ☆Part1(つづき)

 この自由への思いがやって来たのは、彼が彼の父が手配した若くて美しい女
性にとり囲まれて、快楽の園にいたときだ。
星占いによると彼は苦行者の王となるだろうと予見された。

 そのために彼の父は快楽の牢獄に彼を閉じ込めたのだ。
しかしこの愛の炎は、彼の内に激しく燃えあがっていた。
そして彼は覚醒を得て、いまだに生き続けている。

 このようにあなたはやり遂げねばならない。
仏陀もまた人間であった。
彼がやり遂げたのだから、私たちも確かにやり遂げることができる。
全ての人が仏陀になることができる。
たった一つ必要なのは自由への炎だ。

 そうすると、あなたが「静寂」であり、その仏陀であると認めることになる。

   自由を勝ち得るには、
   あなた自身の深遠さを測り知るには、
   塩の人形になってガンガ(ガンジス河)に飛び込むことだ。
   あなたは人形であることを忘れて、
   あなたはガンガになるだろう。

これがベンガルのラーマクリシュナが言ったことだ。
これが永遠性との絶対的な一体化だ。
あなたは決して存在したことのない岸に戻って来ることはない。
    
Q:私の本質の中に溶けて、決して戻ってきたくありません。
    
よく決心した。
ここにいなさい。
この決心は非常に堅いので即座にその結果を得るだろう。
熱意を失わないことだ。

昔、マトワラと呼ばれる男がいた。
彼は樹の下に座って決心した。
「私が悟るまでこの樹から立ち上がらない。」
それで、彼はいつも樹の下に座って瞑想し、食事のために席を外すこともなか
った。そこへある人がやって来て、彼が何をしているのかと尋ねた。

 「私は瞑想しているのだ」とマトワラは言った。
「何のために?」
「幸福になるためだ。」

 「教えてあげよう。このバニヤンの樹にはどれ位の葉が茂っているかね?
 自由になるためにはこの葉の数のように何回も生まれ変わらなくてはならな
いのだよ。」とその人は言った。

「問題ない」と自信に満ちた瞑想者は言った。

 「この樹には何千もの葉がついている。生まれ変わりなど気にしない。私は
ただここに座っているのだ。」この決心で彼は瞑想しつづけた。

 しばらくして次に聖者がやって来て尋ねた。

 「何をしているのかね?」マトワラは瞑想しているのだと答えた。
 「なぜ?」と聖人が尋ねた。
 「全ての人が苦しんでいる、苦しみを取り除くためには瞑想するようにと私
のグルが言ったのだ。」と答えた。

 「教えてあげよう。このバニヤンの樹から最後の一葉が落ちるまでここで瞑
想しなさい。最後の一葉が落ちたときあなたは悟るだろう。」と聖人は言った。

 その時マトワラは大声で叫び返した。

 「私は葉が落ちるのを待つ必要はない。葉が落ちるのと私の光と知恵の間に
どんな関係があるのか?」彼は立ちあがって踊りだした。

 幸福は今ここにある。彼は悟ったのだ。

この話の意味していることは、あなたは待つ必要がないということだ。
悟りは時間に依存しているのではない。何年待てばよいというものではない。
あなたはすでに35億年も費やしてここにいるのだ。

 この樹は絶えず葉を繁らせ続ける。
もし一葉が落ちても他の葉が繁る。
どれ位待つつもりだ。立ち上がって「私は自由だ!」と叫んだらどうだ。
あなたが自由になれば結局は人生を楽しむのだ。

 それならなぜ今楽しまないのか?
 ほとんどの人が死を恐れて、「私は死んでいく。」と叫んでいる。
私は人が道に飛び出して「私は自由だ。」と叫んでいるのを見たことがない。
だからもしあなたが本当のマトワラなら道に出て叫びなさい、

 「私は自由だ!!」と。

Q:私のエゴは非常に強固です。
どうか私のエゴを破壊して下さい。私は自由を経験したいのです。

 あなたのエゴを見せてくれるかね。
そうしたら、私の強さとあなたのエゴの強さを比べることができる。
彼女に会ったことがあるのかね?
    
(´・(ェ)・`)
(つづく)

693鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/18(木) 22:36:23 ID:1d4drIFg0
どれほど強いエゴも一度観られたら滅してしまうじゃろう。
それは決して存在しなかった幻想の観念であるからのう。
その真実をありのままに観るがよいのじゃ。
今ここで自由になるじゃろう。
時を待つ必要は無いのじゃ。

694避難民のマジレスさん:2019/07/19(金) 12:35:19 ID:LC3de7YgO
>>692
16「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第5章 内在する「自由」への徴候 ☆Part1(つづき)
    
Q:それを感じただけです。 
    
このガールフレンドに会ったことがないのかね。彼女はよい友達だ。
彼女の強さを試してごらん。
おそらく彼女は象のように強靭なのであなたは逃げ出してしまうだろう。

 だから愛でエゴを飼い慣らしなさい。
もし愛で飼い慣らしたら、彼女はあなたを困らせないだろう。
彼女を一人にしておきなさい。

「私は自由になりたい」という大きな望みにはエゴが必要だ。
このエゴを許しなさい。自由が欲しいのはエゴだから。
明日にではなく今日、自由を望みなさい。
今日にではなく今、自由を望みなさい。

 彼女が強ければ強いほど、「私は自由になりたい」という欲望も強くなる。
その時、この強さはあなたの助けになる。欲望も又エゴだ。何かを欲しがるのはエゴだ。
他の欲望が同時に起こることはないので、エゴの強さを利用して自由への欲望
をかき立てるのだ。

 今それを言ってごらん。
    
Q:私は自由になりたい!
    
このように昼も夜も言い続けなさい。
そうするとそれを手に入れることができる。仏陀は手に入れた。
あなたも手に入れることができる。こう言いなさい、

 「彼は人間だった、私も人間だ。彼は手に入れたのだから私にできないはず
はない」と。
樹の下に座って自由になるまで立ちあがらない。
これが彼の決心で、彼は自由を得た。

 何事も決心しないとうまくいかない。あなたは決めなければならない。
今が一番よい時期だ。あなたの決定は確かでサットサンガにやって来た。
そこに座って修行も努力もなしで自由になりなさい。

 何も考えないでただ静かにしていなさい。マインドを掻き混ぜないこと。
どんなに簡単か、あなたは若いのだからそれをやり遂げることができる!!

   世界中で自由を求める人は数少ない。
   自由に焦がれている人はもっと少ない。
   自由だけに一点集中している人はもっと少ない。
   感覚に戻ってこない人はもっと少ない。
   危険を厭わない人はそれよりもっと少ない。
   この危険を逃れられる人はもっと少ない。
   真我を実現する人はまったく少ない。
   
 望みなさい、求めなさい、あなたがここに居ることはまったく稀なことだ。
ここにやってくるための山のような功徳をあなたは持っている。
   
   それを無駄にしないことだ。強くありなさい。

Q:もし私が自由でありたいという本当の欲望を持てば自由になれるように思え
てきました。

 「今日、今自由にならねばならない」という、100%本当の欲望が必要だ。
これ以外の欲望が何もないとき、すぐにその欲望は満たされるだろう。

Q: どのようにして今本当の欲望を持つことができますか?

 「今」。これが答えだ。「今」本当の欲望を持ちなさい、そして何が起こる
か言いなさい。
一瞬、マインドを完全に解放して座りなさい。

 そうするとこのマインドは瞬時に啓蒙される。
その瞬間ただ何も考えないでいなさい。
そうするとあなたは自由だと分かるだろう。
サットサンガの後静かに座ってマインドをどこにも行かせないことだ。

 もし行くなら、目撃者としてただ見ていなさい。
息を吸ったり吐いたりするのを見ているように思考が行ったり来たりするのを
見ていなさい。
やめないこと、常に見続けなさい。

 思考がないとき、あなたは自由だ。

Q: 私はいつも「やり手」として生きてきましたが、今はただ私の本質にとどま
ってこれに気づいていたい。これもまた欲望ですか?

  これもまた欲望かもしれないが、この欲望は何億もの欲望を燃え尽きさせる。
ほとんどの人はある欲望が消えるとすぐに次の欲望を経験する。
この絶える事のない欲望の流れをサンサーラと呼ぶ。

 欲望がある限り来世を避けることはできない。
しかし、ひとつの欲望、「自由になりたい」がこれらの全てを取り押さえる。
これは欲望だがこれが他の全てを焼き尽くす。
  
 さて、今どんな努力も試みないこと、あなたが自由であろうが束縛されてい
ようが何も考えないことだ。
いずれ「自由になりたい」というこの欲望も消え去る時が来るが、まず初心者
として始めていきなさい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

695避難民のマジレスさん:2019/07/19(金) 12:35:24 ID:LC3de7YgO
>>692
16「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第5章 内在する「自由」への徴候 ☆Part1(つづき)
    
Q:それを感じただけです。 
    
このガールフレンドに会ったことがないのかね。彼女はよい友達だ。
彼女の強さを試してごらん。
おそらく彼女は象のように強靭なのであなたは逃げ出してしまうだろう。

 だから愛でエゴを飼い慣らしなさい。
もし愛で飼い慣らしたら、彼女はあなたを困らせないだろう。
彼女を一人にしておきなさい。

「私は自由になりたい」という大きな望みにはエゴが必要だ。
このエゴを許しなさい。自由が欲しいのはエゴだから。
明日にではなく今日、自由を望みなさい。
今日にではなく今、自由を望みなさい。

 彼女が強ければ強いほど、「私は自由になりたい」という欲望も強くなる。
その時、この強さはあなたの助けになる。欲望も又エゴだ。何かを欲しがるのはエゴだ。
他の欲望が同時に起こることはないので、エゴの強さを利用して自由への欲望
をかき立てるのだ。

 今それを言ってごらん。
    
Q:私は自由になりたい!
    
このように昼も夜も言い続けなさい。
そうするとそれを手に入れることができる。仏陀は手に入れた。
あなたも手に入れることができる。こう言いなさい、

 「彼は人間だった、私も人間だ。彼は手に入れたのだから私にできないはず
はない」と。
樹の下に座って自由になるまで立ちあがらない。
これが彼の決心で、彼は自由を得た。

 何事も決心しないとうまくいかない。あなたは決めなければならない。
今が一番よい時期だ。あなたの決定は確かでサットサンガにやって来た。
そこに座って修行も努力もなしで自由になりなさい。

 何も考えないでただ静かにしていなさい。マインドを掻き混ぜないこと。
どんなに簡単か、あなたは若いのだからそれをやり遂げることができる!!

   世界中で自由を求める人は数少ない。
   自由に焦がれている人はもっと少ない。
   自由だけに一点集中している人はもっと少ない。
   感覚に戻ってこない人はもっと少ない。
   危険を厭わない人はそれよりもっと少ない。
   この危険を逃れられる人はもっと少ない。
   真我を実現する人はまったく少ない。
   
 望みなさい、求めなさい、あなたがここに居ることはまったく稀なことだ。
ここにやってくるための山のような功徳をあなたは持っている。
   
   それを無駄にしないことだ。強くありなさい。

Q:もし私が自由でありたいという本当の欲望を持てば自由になれるように思え
てきました。

 「今日、今自由にならねばならない」という、100%本当の欲望が必要だ。
これ以外の欲望が何もないとき、すぐにその欲望は満たされるだろう。

Q: どのようにして今本当の欲望を持つことができますか?

 「今」。これが答えだ。「今」本当の欲望を持ちなさい、そして何が起こる
か言いなさい。
一瞬、マインドを完全に解放して座りなさい。

 そうするとこのマインドは瞬時に啓蒙される。
その瞬間ただ何も考えないでいなさい。
そうするとあなたは自由だと分かるだろう。
サットサンガの後静かに座ってマインドをどこにも行かせないことだ。

 もし行くなら、目撃者としてただ見ていなさい。
息を吸ったり吐いたりするのを見ているように思考が行ったり来たりするのを
見ていなさい。
やめないこと、常に見続けなさい。

 思考がないとき、あなたは自由だ。

Q: 私はいつも「やり手」として生きてきましたが、今はただ私の本質にとどま
ってこれに気づいていたい。これもまた欲望ですか?

  これもまた欲望かもしれないが、この欲望は何億もの欲望を燃え尽きさせる。
ほとんどの人はある欲望が消えるとすぐに次の欲望を経験する。
この絶える事のない欲望の流れをサンサーラと呼ぶ。

 欲望がある限り来世を避けることはできない。
しかし、ひとつの欲望、「自由になりたい」がこれらの全てを取り押さえる。
これは欲望だがこれが他の全てを焼き尽くす。
  
 さて、今どんな努力も試みないこと、あなたが自由であろうが束縛されてい
ようが何も考えないことだ。
いずれ「自由になりたい」というこの欲望も消え去る時が来るが、まず初心者
として始めていきなさい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

696避難民のマジレスさん:2019/07/19(金) 12:35:25 ID:LC3de7YgO
>>692
16「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第5章 内在する「自由」への徴候 ☆Part1(つづき)
    
Q:それを感じただけです。 
    
このガールフレンドに会ったことがないのかね。彼女はよい友達だ。
彼女の強さを試してごらん。
おそらく彼女は象のように強靭なのであなたは逃げ出してしまうだろう。

 だから愛でエゴを飼い慣らしなさい。
もし愛で飼い慣らしたら、彼女はあなたを困らせないだろう。
彼女を一人にしておきなさい。

「私は自由になりたい」という大きな望みにはエゴが必要だ。
このエゴを許しなさい。自由が欲しいのはエゴだから。
明日にではなく今日、自由を望みなさい。
今日にではなく今、自由を望みなさい。

 彼女が強ければ強いほど、「私は自由になりたい」という欲望も強くなる。
その時、この強さはあなたの助けになる。欲望も又エゴだ。何かを欲しがるのはエゴだ。
他の欲望が同時に起こることはないので、エゴの強さを利用して自由への欲望
をかき立てるのだ。

 今それを言ってごらん。
    
Q:私は自由になりたい!
    
このように昼も夜も言い続けなさい。
そうするとそれを手に入れることができる。仏陀は手に入れた。
あなたも手に入れることができる。こう言いなさい、

 「彼は人間だった、私も人間だ。彼は手に入れたのだから私にできないはず
はない」と。
樹の下に座って自由になるまで立ちあがらない。
これが彼の決心で、彼は自由を得た。

 何事も決心しないとうまくいかない。あなたは決めなければならない。
今が一番よい時期だ。あなたの決定は確かでサットサンガにやって来た。
そこに座って修行も努力もなしで自由になりなさい。

 何も考えないでただ静かにしていなさい。マインドを掻き混ぜないこと。
どんなに簡単か、あなたは若いのだからそれをやり遂げることができる!!

   世界中で自由を求める人は数少ない。
   自由に焦がれている人はもっと少ない。
   自由だけに一点集中している人はもっと少ない。
   感覚に戻ってこない人はもっと少ない。
   危険を厭わない人はそれよりもっと少ない。
   この危険を逃れられる人はもっと少ない。
   真我を実現する人はまったく少ない。
   
 望みなさい、求めなさい、あなたがここに居ることはまったく稀なことだ。
ここにやってくるための山のような功徳をあなたは持っている。
   
   それを無駄にしないことだ。強くありなさい。

Q:もし私が自由でありたいという本当の欲望を持てば自由になれるように思え
てきました。

 「今日、今自由にならねばならない」という、100%本当の欲望が必要だ。
これ以外の欲望が何もないとき、すぐにその欲望は満たされるだろう。

Q: どのようにして今本当の欲望を持つことができますか?

 「今」。これが答えだ。「今」本当の欲望を持ちなさい、そして何が起こる
か言いなさい。
一瞬、マインドを完全に解放して座りなさい。

 そうするとこのマインドは瞬時に啓蒙される。
その瞬間ただ何も考えないでいなさい。
そうするとあなたは自由だと分かるだろう。
サットサンガの後静かに座ってマインドをどこにも行かせないことだ。

 もし行くなら、目撃者としてただ見ていなさい。
息を吸ったり吐いたりするのを見ているように思考が行ったり来たりするのを
見ていなさい。
やめないこと、常に見続けなさい。

 思考がないとき、あなたは自由だ。

Q: 私はいつも「やり手」として生きてきましたが、今はただ私の本質にとどま
ってこれに気づいていたい。これもまた欲望ですか?

  これもまた欲望かもしれないが、この欲望は何億もの欲望を燃え尽きさせる。
ほとんどの人はある欲望が消えるとすぐに次の欲望を経験する。
この絶える事のない欲望の流れをサンサーラと呼ぶ。

 欲望がある限り来世を避けることはできない。
しかし、ひとつの欲望、「自由になりたい」がこれらの全てを取り押さえる。
これは欲望だがこれが他の全てを焼き尽くす。
  
 さて、今どんな努力も試みないこと、あなたが自由であろうが束縛されてい
ようが何も考えないことだ。
いずれ「自由になりたい」というこの欲望も消え去る時が来るが、まず初心者
として始めていきなさい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

697鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/19(金) 22:14:34 ID:1d4drIFg0
悟りを求める思いも欲の一つと言えるじゃろう。
しかし、その欲は他の欲とは違い人を悟りに導くものじゃ。
他の欲を全て捨ててその一つの欲に邁進すれば悟りもやってくるのじゃ。
最後にはその欲さえも捨て去って大悟徹底に至るのじゃ。

698偽和尚★:2019/07/20(土) 00:06:47 ID:???0
削除のお知らせ。
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1415399543/20-25

699偽和尚★:2019/07/20(土) 00:16:31 ID:???0
削除のお知らせ。
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1415399543/26

700避難民のマジレスさん:2019/07/20(土) 00:42:15 ID:LC3de7YgO
偽和尚、ありがとうであります。
γ⌒:"-ヽ〟
(∪(   )
∪∪∨-∨

701鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/20(土) 23:35:06 ID:1d4drIFg0
>>698>>699 ご苦労さんなのじゃ。
 正に菩薩の行ないじゃ。

702避難民のマジレスさん:2019/07/21(日) 00:58:07 ID:LC3de7YgO
>>696
16「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第5章 内在する「自由」への徴候 ☆Part1(つづき)

Q: 私が実現する前に肉体を去るとしたら、この仕事は続いていくのでしょうか


 満たされなかった欲望が死ぬ時までに消えないなら、最後の欲望が最後の息
とともに肉体から出て行く。
そしてこの魂は欲望を満たすのに適した状況の中に生まれ変わる。

 魂は空中を旅して魂に適した子宮を探してその中に入る。
自由を望んでいる場合の魂は敬虔な家族を探し出す。
もし選んだ家族が相応しくない時は胎児のときに流産して探索を続ける。

 ここにいる多くの人が非常に若い時から自然と瞑想したり自問していると聞
いている。
これはあなたの前世と前世の最後の欲望が何であったかという兆候だ。

 今世であなたの旅を終わらせなければ来世がやってくるだろう。

Q:マインドの死と真理への誕生、これ以外に何も興味がありません。

 これが真の誕生で死に決して出会わない。
他の誕生は必ず死に出会う。
この誕生で死は永久に取り除かれた。
今あなたは他の誰かではなく、あなた自身の真我を手に入れた。

 もしあなたが誰か他の人を愛するなら死の結末に直面しなければならない。
他の人や対象に触れなければ死を征服する。
あなたは死を超えた、全ての存在の真我の幸福と一体なのだから。

Q:私があなたに会うためここにやって来るのに、家族や友達の反対を押し切っ
たほどの強い決心がありました。
どのようにして全てを手放してあなたの恩寵を受け取ることができますか、そ
して「存ること」の至福と一体性を楽しむことができますか?

 あなたは全てを後にしてデンマークを離れた。
友達の言うことに耳を貸さず、内なる「呼びかけ」に従った。

   今、ここであなた自身の光を見つけなければならないと決心しなさい。
   思考や友達や対象物への執着を後にしなさい。
   「私は今、それが欲しい」という決定はすぐに恩恵を得るだろう。
  
 これを言いなさい、そうすると即座にあなたは変わるだろう。
私には何が起こるか言えないが、恐れと疑いがなくなるのは確かだ。
このように強固な決心をしなさい。

 「私は自由だ」と決めたのなら、それで十分だ。
「今」それを尊敬するならそれで十分だ。
なぜ疑っているのか。
「私は自由だ」と宣言するならこの自由を尊敬しなければならない。
今それを尊敬するなら、あなたの面倒を見るのは「自由」の責任だ。
  
 「いつも自由でありたい」となぜ言うのか?
 あなたが自由であるときは時間を超越している。
どうして時間に戻ってくることができるのか?
 あなたの世話をするのはその無時間性だ。

 あなたがやり遂げたことと、それに対する報酬は何かを理解しなければなら
ない。
あなたはあなたの手のひらのダイヤモンドの評価額を知らない。
その価値を尊敬しなければならない。

 あなたの自由への委ねを尊敬することが最も重要だ。
誰でもいつも自由だ、誰でもすでに自由だ。
しかし誰もその自由を尊敬しないために誰もが苦しんでいるのだ。

 人々は苦しみだけを尊敬する。
両親・隣人・聖人・全ての宗教の頭首は「あなたは苦しんでいる」・「地獄に
落ちるだろう」と言い続ける。

 「あなたはすでに自由だ」と私は言おう。
なぜ私の言葉を尊重しないのかね?
あなたはグルのためにここにやって来た。
そう、グルを尊敬して服従しなさい。
グルの言うとおりにしなさい。

 グルは「あなたは自由だ」と言う、それを受け入れなさい。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

703鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/21(日) 22:42:43 ID:1d4drIFg0
どのようにして恩寵をうけとれるのかと聞く者は既に恩寵を受け取っているのじゃ。
既にすべてと一体であり至福に在るのじゃ。
それをわすれているだけなのじゃ。
自ら気付くだけですべてを受け取れるのじゃ。

704避難民のマジレスさん:2019/07/22(月) 08:30:33 ID:LC3de7YgO
>>702
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第5章 内在する「自由」への徴候 ☆Part1(つづき)

Q:私は幸せを感じたことがありません。
実は私は死んだも同然です。
どうすればいいのか教えてください。

 あなたの人生で一つだけ欲望を持ちなさい、自由への欲望。
この欲望だけがあなたを困らせる他の欲望の存在を許さない。
この欲望が満たされる時が来たら全てを犠牲にしなさい。

 この欲望があなたに平和と幸福を与えて、二度とサンサーラに戻ってくるこ
とはない。
全てを犠牲にしなさい、そうすると人生のあらゆる葛藤から自由になる。

 この欲望があなたに平和と幸福を与えて、二度とサンサーラに戻ってくるこ
とはない。全てを犠牲にしなさい、そうすると人生のあらゆる葛藤から自由に
なる。

 マインドがあなたを騙すのを許さないこと。マインドだけがあなたを自由か
ら遠ざける。
ここにいる少数の人びとがマインドの習癖を理解してマインドには耳を貸さ
ない。

 彼らはマインドからやってくるものを拒絶して、マインドを彼らの奴隷にす
る。
彼らは自由になるまで静かに座っている。
自由になった後でマインドの欲望の世話をしてそれを満たしてやる。
  
 あなたはハヌマン帰依者だ、違うかね?
 ハヌマンは彼の主人に仕えることが唯一の欲望で個人的な欲望は決して許さ
なかった。
ハヌマンの足跡に従い、ラーマだけのために働きなさい。
ラーマの仕事をすることで自然とパワーが身についてインド洋を飛び越えるこ
とができた。
これほどのパワーが身に付くのだ。

(´・(ェ)・`)つ

705鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/22(月) 22:12:50 ID:1d4drIFg0
この世の全てに幸福が無いならば逆にラッキーなのじゃ。
悟りを得るしかないからのう。
真の悟りを得て永遠の幸福を得ると善いのじゃ。
一切苦の世間から脱出できるのじゃ。

706避難民のマジレスさん:2019/07/23(火) 07:12:44 ID:LC3de7YgO
>>704
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第5章 内在する「自由」への徴候 ☆Part1

Q:自由になるための闘争を終えるためにあなたのもとにやって来ました。
私独りでやり遂げることはできません。
すでにあなたの現存の偉大さが私を助けています。

 あなたは独りでは得ることができない何かを得るための強い欲望を持ってこ
こにやって来た。
教えてあげよう、あなたはそれを独りですることができる、他の人の助けは要
らない。

 刀の刃の上を二人並んで歩くことはできない。
それは不可能だ。
刃の上を歩くには一人で、あなた自身で歩きなさい。
刀の刃は鋭利でこちら側、あちら側、後ろと見回していると二つに切り裂かれ
る。

 自由に向かって歩くことは刀の刃の上を歩くようなものだ。
友達や親しい人を連れて行くことはできない、余所見をしないで独りで歩かな
ければならない。
余所見をすると震えて目的地の自由に決して到達できない。
  
 これは何も考えないでいるという意味だ。考えているということは過去にいるということだ。何も考えないで何もしないことだ。ただ自由のことだけ考えていなさい。

 そうすると最愛の人からの一瞥でマインドの暗闇が取り除かれる。

Q:自由になるための闘争を終えるためにあなたのもとにやって来ました。
私独りでやり遂げることはできません。
すでにあなたの現存の偉大さが私を助けています。

 あなたは独りでは得ることができない何かを得るための強い欲望を持ってこ
こにやって来た。
教えてあげよう、あなたはそれを独りですることができる、他の人の助けは要
らない。

 刀の刃の上を二人並んで歩くことはできない。
それは不可能だ。
刃の上を歩くには一人で、あなた自身で歩きなさい。
刀の刃は鋭利でこちら側、あちら側、後ろと見回していると二つに切り裂かれ
る。

 自由に向かって歩くことは刀の刃の上を歩くようなものだ。
友達や親しい人を連れて行くことはできない、余所見をしないで独りで歩かな
ければならない。
余所見をすると震えて目的地の自由に決して到達できない。
  
 これは何も考えないでいるという意味だ。
考えているということは過去にいるということだ。
何も考えないで何もしないことだ。
ただ自由のことだけ考えていなさい。

 そうすると最愛の人からの一瞥でマインドの暗闇が取り除かれる。
静かにしていなさい、自由を勝ち得るためにここに連れてきた欲望さえ忘れて
しまう。

 静かにしていなさい、そうすると執着がなくなる、静けさへの執着も含めて。
現在には執着はない、そこにマインドがないのだから。
    
 マインドは過去だ、現在には過去は存在しない。
自由になりたいのならマインドに触れないことだ。
あなたが考えることは全て死と同然だ。
ただ静かにして努力しないこと。

 内に向かおうとする引力をしっかり捕まえて行きなさい。
そうすると他の引力には気が付かないだろう。
これにはあなたの真剣さが必要だ。
外の世界に煩わされないところに居たいなら平和があるところにいなさい。

 外側には平和は存在しない。

Q:なぜ多くの人々がここに来て、留まり、あなたを愛しているのですか?
 あなたは「自由になるにはほんの一秒必要なだけだ」と言われても、彼らは
悟るわけではありません。

 真我実現には一秒かかるだけだ。
しかしこの一秒間にマインドから他の全ての思考を取り除くための非常な努力
が必要だ。
この一秒間に全てを取り除いて、
この一秒と一緒にいることを許しなさい。
この一秒間につま先で立ち上がって、こぶしを握って
「この一秒に自由になる」と叫びなさい。

 自由へのそのような極端な欲望を持つことは非常にまれだ。
このような活動と強さを持つと、神でさえやって来てあなたにひざまずく。
ひ弱な肉体ではできない、強靭な肉体とマインドと意図が必要だ。

 そのときこの一秒が働く。
あなたはやらなければならない。
メニューを見ているだけではだめだ、食べ物を食べなさい。
愚かなマインドを打ち負かしなさい。

 自由になるための決定するのはマインドではない。
決心したらマインドは存在しない。
マインドを制御して奴隷のように使いなさい。
しかしここでは自由になるためにはマインドは必要ない。
(´・(ェ)・`)つ

707鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/23(火) 21:48:39 ID:1d4drIFg0
気付くことには一秒しかいらないのじゃ。
一瞬で理解が及び、厭離が起こるのじゃ。
今まで自分思っていたものが自分ではなかったと気付くのじゃ。
自分とか他人という観念さえ幻想と気付くには一秒でよいのじゃ。

708避難民のマジレスさん:2019/07/23(火) 23:51:11 ID:LC3de7YgO
>>706
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第5章 内在する「自由」への徴候 ☆Part2

平和と苦しみの識別

   識別というのは、知性が、何が一時的か・何が永遠かを訊ねて、見極めるこ
とだ。
   識別とは、真我の至福と感覚の快楽、平和と混乱、そのどちらを取るかだ。

  識別で本当のものを選びなさい。
   さもないとあなたは間違いを犯すことになる。
   賢く生きるということは本物と偽物、歓喜と苦しみを見分けることだ。
   そしてあなたでないものは拒絶しない。
   識別が対象物の一時的で幻想的な本質を明らかにし、それに対する執着を破
壊する。

  あなたは真我にいつも注目していなさい。
   真我だけが本当で、他の全ては偽物だ。
   マインドでこれをしっかりと理解することが重要だ。
   即座に見分ける:これはロープか蛇か?
   識別をあやまると牢獄だ。
   その中であなたは想像上の蛇の奴隷になる。

  ハムサは識別を象徴する伝説的な白鳥だ。
   ミルクと水の混合物からミルクだけを飲んで水を残す。

Q:失うことができないものをどうして失うのでしょうか?
    
これについて理解しなければならない。
見つけることも失うこともできない「それ」を見つけることだ。
識別していきなさい。
あなたの目的は何か? 何を得るべきか? 何を捨てるべきか? 何が真実で何が
真実でないか?
 識別していきなさい。

  識別しなさい、さもないと時間を無駄にすることになる。

「あなたの目的は何か?」これから始めなさい。
あなたに幸福を与えてくれるものを探し出すことだ。真理を知ることだ。
あなたは覚醒のためにここにいる。他の目的のためではない。
これはあなたの決定だ。

 それならあなたを騒がせるどんな思考も保持しないことだ。
いつも防衛態勢でいなさい。そうするとあなたは成功する。
あなたの決心を揺るがさないこと。負けを認めないこと。
手に刀を持った戦士であるべきだ。必要のない思考をその刀で切り捨てなさい。

Q:私はここで二つの状態を経験しました。
一つは平和で空間的で無限で何もない状態、もう一つは多くのエネルギーに包
まれて子宮の中にいるような状態です。
    
 誰がこの二つの状態を区別しているのか?
    
Q:私のマインドです。 
    
両方とも空想で真理ではない。
両方とも一時的なマインドの投映、つまりマインドそのものだ。
ある状態が好きで他の状態は嫌いだというのはマインドだ。

 誰がこれらの状態を体験し区別しているのか?
 誰がこの違いを創り出しているのか?
 一つは良くて他は良くない。
誰がこの変化を見ているのか?
 状態の全てが消えるところに戻りなさい。
そうするとあなたは平和、絶対的な平和に入っていくことができる。

 マインドが区別そのものだ。
どこにこのマインドの源泉があるのか?
 この二元性がどこからやって来るのか?
 そこに行きなさい。
そうするとその源泉の中に、絶対的な沈黙の中に居ることになる。
違いが起こる前のところに行きなさい。

 今ここで、それをやりなさい、そこへ行きなさい。
しかしどんな意図も、努力も持って行かないこと。
そうするとそれを見つけることができる。さあ今やりなさい!!

Q: 簡単に全てが消えてしまいました。     
そうだ「ここ」では何も起こってはいない。
何もない。
「ここ」では二元性は起こってこない。
これが自由だ。
これがあなた自身の本質だ。
あなたの本質だ!!
これを認めて、これと一体になりなさい。
この中に流れこんでいきなさい。

 その時全ての様相はこの意識のただ中にあるということがわかるだろう。
全てがあなたのものだ。
あなたは全てになる。
状態はない、「私はこれらの全てだ。」
ここから踊って行きなさい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

709鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/24(水) 22:42:21 ID:1d4drIFg0
何か観念による幻影があるならばそれは魔であると知るがよいのじゃ。
無であることを認識するものさえない無の境地こそ最後の境地なのじゃ。
観念が無いから全て無なのじゃ。
語ることも考えることも認識する事も無い境地に行くのじゃ。

710避難民のマジレスさん:2019/07/25(木) 00:09:00 ID:LC3de7YgO
>>708
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第5章 内在する「自由」への徴候 ☆Part2 (つづき)


Q:バナラシの火葬場を訪れて以来、あなたの近くにいたい、私の真我といた
いという欲望が強く燃えています。
    
肉体が火葬されるのを見たのなら、ほんの数オンスの灰が残ったのを見たに
違いない。
この数オンスの灰が、あなたが執着している肉体だ。これが火葬場での識別だ。
そこに行くと全ての人がこの識別を得るがすぐに忘れてしまう。

  永久にこの識別を憶えているべきだ。
   この肉体はやがて灰になる。
   だから灰になる前に肉体をもって生まれて来た目的を果しなさい。
   そうすると肉体が燃え去ってもあなたは幸福のままでいられる。

真実ではない思考の後を追いかけて、平和をあきらめないように。
思考は来させなさい。そして行かせなさい。何も問題はない。
平和の中に永久にいなさい。

 何億年もの間、混乱の中で生きて来たのだ。
一度平和を見つけたらどうして混乱の中に帰っていくことができるのか? 

 これを理解しなさい。何があなたに平和を与えるのか?
 何があなたを騒がせ苦しめるのか? あなたにとって良いことに従いなさい。

Q:思考や感情は真実でないと聞いて混乱しています。
それらは悪いもので意味のないものですか?
    
全ての思考や感情は真実ではない。それらは波のようなものだ。
数秒間、数分間、海の表面で踊って、又波が起こって来た所に戻っていく。
その時、波は波でない。波は海だ。
どれくらい波は自立した個性としての形を保っていられる?

   名前と形は真実ではない。
   それらが現れる基盤を見なさい。
   それが真実だ。
   それは決して変わらない。

マインドに思考が起こって来る以前に、思考が快楽を求めて感覚の対象物
に向かっていく前に、それが起こって来る基盤を見なさい。
それを見たら、あなたはもう無知ではないのだからそこから起こる思考や感情
を楽しむことができる。波や泡は無知だ。
それらは名前と形を楽しんでいるだけだ。

  形は一時的なものだ。
   形に執着すると混乱することになる。
   思考、欲望、感情、情緒、物体、
   すべて起こって来るものは苦しみを与える。
   世界中で誰もこれを避けることができない。
   楽しむ人も、楽しまれたものも両方押し流されてしまう。

  しかし、賢者は真実と真実でないものを見分ける
   賢者は真理を知っているので
   思考や感情が起こって来るのを許す。
   全ては一つで同じだということを知っている。
   このように識別すると、苦しむことはない。

Q:ポーランドの草原を歩いているとき、世界の現実性を完全に壊してしまう
程の強烈な体験をしました。私は明確に全てがマインドによって組み立てられ
たものだということを知りました。
しかし、二週間後にはこの経験はゆっくりと消えてゆきましたが、私はこの経
験で私は一体誰かわからなくなって恐怖に怯えました。
私が誰かという以前の身元確認が完全に壊れてしまいました。
    
 全てがマインドで構成されていると見たことは、人が経験することができる
最高の経験だ。
なぜ恐れたのか? 全ては心の構築だ。マインドが存在しないと、触れたり、
見たり、実現するものは何もない。何もない眠りの状態のようなものだ。

 これが目覚めの状態の中で起こったということは、その人は、その人の功徳
と熱望の報酬を刈りとっているということだ。この経験はどこでも起こりえる。
草原、森の中、目覚めていようが眠っていようが、それは問題ではない。

 しかし、あなたがそれについて疑ったためにそれが消えてしまったのだ。

 これが起こったなら「私は誰か」と知る必要はない。
「私は誰か?」と訊ねるときは主体、質問、対象がある。
しかし、あなたが言うように全てが幻想なら、主体も対象もまた幻想だ。
何も存在しない。これが真理だ。
    
Q:この経験の後で多くの友人が心理学者に見てもらうべきだと助言したの
でそうしました。
医者から「私は気違いだ」と言われる代わりに、私はそれを期待していたので
すが、彼は、「私のグルを探す時だ」と言ったのです。
私は信じられなかったのですが、その後すぐにあなたのことを聞いて、それで
今、私はここにいるのです。
    
恩寵が全ての人をここに連れて来る、内なる神の恩寵だ。
恩寵があなたをここに連れて来た。あなたの疑いを明らかにし、あなたの旅を
終わりにするためだ。再び苦しむために子宮に投げ返されないように、この人
間としての誕生を最大限に利用しなければならない。
(´・(ェ)・`)つ

711鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/25(木) 22:21:22 ID:1d4drIFg0
一時的な気付きにより忘我になったのじゃな。
それで自分が無いと恐れてしまってもとに戻ってしまったのじゃ。
更に進めば自分という観念は不要であったと気付く筈であったがのう。
稀な機会を捉えて無我にまで進むのは恐れを乗り越えていくときだけなのじゃ。

712避難民のマジレスさん:2019/07/26(金) 00:44:00 ID:LC3de7YgO
>>710
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
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第5章 内在する「自由」への徴候 ☆Part3

冷静さ:一時的なものへの無執着:放棄

  自由というのは理解を超えたもの、
   マインドの動きを超えたものだ。
   だが知的な把握というのは大変重要だ。
   それはどんな対象も
   心の平和を与えることはできないと知ることだ。
   もし、これを知っていたら、
   一時的な対象物に魅力を感じることはない。
   これが冷静さ、放棄だ。

  識別とは真実と真実でないものを見分けることだ。
   自由への欲望は真理への熱情だ。
   放棄は真理でないものへの冷静さだ。
   それは全ての感覚、快楽に対する執着の放棄だ。
   それらが悪いという理由からではない。
   それらは本来一時的、刹那的で幻想だからだ。
   それらはあなたの表面上の踊りにすぎない。

  マインドを放棄しない限り、他の放棄は役に立たない。
   あなたが放棄できる全てのものはマインドで放棄する、
   しかし真我はマインドそのものを放棄する、思考に対して完全に無執着だ、
   真我はあなたを苦しめる全ての思考を放棄する。
   快楽は永続しないと識別することによって放棄が起こる。
   賢人は平和のために全ての思考を拒絶する。

Q:私は自由への道を歩いています。もし、私が全ての執着を絶ったら私は自
由になれるのですか?
私の血縁関係も捨てる必要があるのですか?
    
あなたがこれらの執着や関係以外のものを望むとき、それらは自然に落ちてい
くだろう。
あなたが捨てるのではなく、砂の壁のようにそれ自体で崩れていく。

全ての関係は子どもが浜辺で作る砂の壁のようなものだ。
あなた自身の真我との関係に比べたらそれ以上値打ちのある関係は存在しない

「それ」との関係は決して捨てることはできない。
真我を見つけ出すのを妨害する関係は永久に拒絶することだ。

事実を言えば、執着というのは存在しない。
眠りに落ちるとき、どのようにして執着が落ちていくか見てごらん。
そこには執着している両親も牧師も教会も何もない。

このようにあなたが真理を探究し始めると、全ての関係は元々存在しないのだ
からそれ自体で落ちていくものだ。
あなたが関係から何かを必要としているので、それは存在しているかのように
見えるだけだ。
あなたは確かに興味がある。
そうして関係を創りだすのだ。
壊れることのない唯一の関係を持ちたいのならあなた自身の真我と恋に落ちる
ことだ。

これがどのようにして平和を見つけるかだ。
あなたはいつも平和に生きているのに、執着のために他の事に巻き込まれ、何
が足元にあるのか見ようともしなかった。
感覚は場所や対象物や人を追いかけて、決してこの空間にやって来ることはな
かった。

そう、親愛なる友よ、今が前進するときだ。
あなたはここサットサンガにいる。
全ての関係性があなたを騙して来た。
「ここ」はあなたを騙したりしない最も相応しい場所だ。

Q:真理はいつも存在しているのなら、どうして真理の認識に時間がかかるの
でしょうか?
    
いいや、真理の認識には時間がかからない。
真理の認識に時間がかかるのは真理でないものを探しているためだ。
真理に出会うための真剣で正直な欲望が欠けているためだ。
  
 真理はあなたの前、後、上、下、どこにでも存在する。
しかし、あなたは他の何かが欲しい。
他の人や物が欲しい。
  
 あなたがこれらの他のものを見ない時、一体何を見るのかね?
即座に「あなたが真理そのものだ」ということを見るだろう。
(´・(ェ)・`)つ

713鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/26(金) 23:34:14 ID:1d4drIFg0
一つ一つの執着を全て捨てる必要は無いのじゃ。
修行の妨げになる執着だけを捨てるが善いのじゃ。
残りの執着は悟りを得れば自然に無くなるのじゃ。
すべてである真理そのものと気付けば一切の執着も必要のないものとして消えていくのじゃ。

714避難民のマジレスさん:2019/07/27(土) 20:04:06 ID:LC3de7YgO
>>712
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
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第5章 内在する「自由」への徴候 ☆Part3 (つづき)

Q:過去におこったことにコントロールされている自分に飽き飽きしています。
私は自由でありたい、いつもそよ風のようにありたい。
    
そよ風の本質は決して一つの場所に留まらないということだ。
彼女はいつも流れている。
彼女がバラの咲き乱れた庭に行ってもその美しさに執着しない。
彼女は「私はここにいましょう」とは言わない。

彼女の性質は流れ続けることだ。次に行く場所は豚のいるゴミ貯め場だ。
彼女は空間を流れていく。拒否することもなく、受け入れることもなく、執着
することもなく、無執着に執着することもない。

これが彼女の本質だ。この本質は私達が自由になるのを助けてくれる。
あなたの前にやって来るものに執着することもなく、無執着することもない。
ただ、流れ続ける。

さて問題は、我々が一つの場所に執着してしまったということだ。
その場所とは、関係性。特にあなた自身の肉体との関係だ。
あなたは自分の肉体に非常に執着している。

しかし、これはそよ風の本質ではない。だから全ての人が苦しんでいるのだ。
もし「これは美しい肉体、個性、私はいつもこの肉体に留まっていたい」とい
うなら、あなたは肉体と同一化したことになる。

しかし、これは起こりそうにないので、あなたを幸福にする特別な場所、一人
の人、教育に代わりを見つけ出す。
しかし、これらもあなたを本当に幸福にすることはできない。

 幸福な人とは流れ続けて行く人、特別な場所や人や物に執着しない人。
これが、そよ風がいつも幸福な理由だ。
 
昔、グルを見つけようと努力していた人がいた。彼はそよ風を見て言った、
「あなたは私のグルだ。あなたは一箇所に留まらないようにと教えてくれた。
私もあなたのように振舞います。私はあなたに降参します。」
このようにあなたが出会う全てのものがグルだ。

あるとき、彼はある少女に出会った。彼女の家に未来の父や母になる人が訪ね
てきた。彼女の両親は出かけていて、彼女が彼らのために料理しなければなら
なかった。

彼女の家は貧しくてほとんど食べるものがなかったが、彼女はそのことを彼
らに知られたくなかった。
水田から刈ってきた米の籾殻を取り除き始めたら、手首にはめている腕輪が音
を立てた。

籾殻つきの米をついているということを、印度ではそれは貧乏の確実な証拠
だから、彼らに知られたくなかったので、賢明にも彼女はひとつの腕輪だけを
残して全てを手首から取り除いた。

音はしなくなった。グルを探しているこの男はこのいきさつを見ていて、幸福
であるためには一人でいなければならないとこの少女から学んだ。

このように彼はあらゆるものをグルとして受け入れた。大地も彼に教えた。
あなたは大地になんでもすることができるが彼女は気にしない。
汚物で汚そうが花を植えようが同じだ。

彼女は全てを受け入れる。彼は「大地は私のグルだ」といった。
このようにあなたが本当に学びたいのなら、全てのものから学ぶことができる。

あなた自身独立していない限り、他人とひりひりして時間を無駄にするものだ。
あなたはあなたの真我と親密であらねばならない。
この話の意図はあなたを台無しにする同伴者を持たないこと、時間を無駄にし
ないこと。
あなたは一人でいる時間を持ち何にも執着しないことだ。

あなたが自由になるまで、一人で静かにしていなさい。
あなたの真我のために少しでもよいから時間を見つけなさい。
いつも社会の中にいる必要はない。社会とはあなたの時間を無駄にする場所と
いう意味だ。
 
 「全てのものから学びなさい」,これがあなたには十分な教えになるだろう。

Q:神に会う前に全ての問題や心配を取り除く必要がありますか?

それらをまず取り除いて、そして行くということはできない。
まず輝かなければならない、そうすると物事は解放される。
まっすぐに行きなさい、全ては解放されるだろう。

まっすぐに家に帰りなさい、そうすると全てがあなたの面倒をみる。
これもあれも取り除かねばならないと考えないことだ。
それは不可能で、そのために何世も費やさねばならない。

「私は自由にならねばならない」とこれだけを考えて直進しなさい。
さもないと采配しなければならないことは多すぎるし、それらすべての面倒見
るには今世は短すぎる。

時が過ぎていく。急いで家に帰りなさい。自由のことだけを考えていると、マ
インドは「今」この瞬間ノーマインドだか
ら全てが解放される。他に何も考え
ないことだ。真我を愛しなさい。
(´・(ェ)・`)つ

715鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/27(土) 23:49:29 ID:1d4drIFg0
悟る前に全ての問題や心配を取り除くことは出来ないのじゃ。
老病死もまたその一つであるからのう。
悟れば全ての問題も心配もなくなるのじゃ。
それらが観念であったと気付くからなのじゃ。
幻影である自我があると思われている時だけそれらもあると思うのじゃ。

716避難民のマジレスさん:2019/07/28(日) 00:40:26 ID:LC3de7YgO
>>714
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第5章 内在する「自由」への徴候 ☆Part4

神聖さ:無垢と純粋性

   真理は神聖な人を誉め讃える。だから美しく、純粋で、汚点なしでいなさい。
   *1ヴァーサナが取り除かれた時、思考がない時、あなたは神聖だ。

  あなたが神聖なら、あなたは価値がある。しかし、価値があることだけ
では十分ではない
 価値があるということは、誰かが見つけねばならない。
   そして価値があることと価値がないこと、両方から自由でありなさい。
   死者が「私は死んだ」と言えないように、価値がある人は「私は価値がある」とは言わない。

   静寂は絶対に必要だ。それは内側に向かう心だ。
   心が内側に向かうと感覚や思考や概念から自由になる。
   静かにしていなさい。心が快楽に向かって外に出るとサンサーラ、サン
サーラにいる心は苦しみと死と誕生のサイクルを生み出す。

   外側の環境、即ち交際、肉体、心の浄化は重要だ。
   自由への燃える欲望が内側を洗い清める。

 サトヴィック、純粋で調和のとれたマインドは真我探求へと導く。正しい規
律にのった生活様式と食事療法が推薦される。  
 
 ラジャスやタマス状態のマインドには真我探求は起こらない。
ラジャス、活動的なマインドは怒りと活動的訓練に導く。
それはモンキーマインドで、本質を見ることはできない。

 タマス、鈍感でだるいマインドは眠け、疑い、恐れへと導びく。鈍いマイン
ドはグルの言葉に耳を傾けない。
 
 マインドが何かで占有されてないときはグルの一言で十分だ。これがサトビ
ックマインドだ。

  自由への燃えるような欲望、
   持続的な瞑想、真我探求、快楽を捨てること、
   静かにしていること、何も考えないこと、努力をしないこと、
   このような神聖な人が真理を得るのだ。
   神聖さは大切な条件だ。

Q:神聖さを持ちたいという強い欲望があります。
    
この神聖さは自由でありたい人には絶対必要だ。あなたは神聖であらねばならない。
「それ」は神聖な人に姿を現し、自由以外のものを望む人には姿を現さないか
らだ。

   神聖さがあなた自身の真我と恋に落ちるのだ。
   これが神への愛だ、献身だ。
   これは愛と何の違いもない。
   あなたは愛するものに献身する。
   あなたが献身するものをあなたは愛する。

  この愛が対象を持たず、どこにも行かず、
   それ自身に向かっていく時、
   「それ」があなたにそれ自身の姿を現す、
   あなたの望む形で、あるいは無形で現われる。
    もし、あなたがこの愛を望むなら、
   特定の誰かを愛そうとしないことだ。
   この愛には個性がない、形がない、名前がない。
   神がこの愛だ。

Q:昨夜、私のために時間をさいて下さってありがとうございます。
それ以来、全ての私の問題は朝日で消えていく霞のように消え去ってしまいま
した。
 
すばらしい、この即効はあなたが正直な人だということを意味している。

      正直な人だけがやり遂げることができる。
     真理は神聖な人を高揚するからだ。
     神聖な人が真理のハートに何の困難もなくはいって行ける。

    誰が神聖な人か?
     目を閉じて見てごらん。
     私は神聖か? 神に触れるに十分神聖か?
     神と神を見たいと望む人の間には何の違いもない。

Q: 私はまだ完全に純粋だとはいえません。それが内なる炎を見るのを遠ざ
けています。私は透明になって消えてしまいたい。

あなたは純粋だが、純粋でない何かがあると感じている限り炎を見ることは
できない。
この不純さは他の誰かに対する執着があるために違いない。

あなたの真我の炎を見たいのなら誰にも執着しないことだ。他の誰かに執着し
ているということはその執着している人の中に炎、美、愛を見ていることだ。

あなたはまず最初にあなた自身の美しさを見なければならない。そうすると、
全ての存在の中に美を見ることができる。透明さと言うのはマインドに思考が
ないことだ。
そのときあなたは透明になる。そう、しばらくの間、思考なしでいなさい。
考えないこと、そのときあなたは透明になる。

用語解説
*1ヴァーサナ 心の潜在的傾向
(´・(ェ)・`)
(つづく)

717鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/28(日) 22:08:27 ID:1d4drIFg0
無思考であり、何の条件付けも無い時、人は神聖であると言うのじゃ。
それは瞑想によって達成できるものじゃ。
そのような状態の時には観察もうまくできるのじゃ。
それがサットヴァが優勢であるサトビックマインドなのじゃ。

718避難民のマジレスさん:2019/07/29(月) 00:08:54 ID:LC3de7YgO
>>716
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第5章 内在する「自由」への徴候 ☆Part4(つづき)

Q:どのようにして自分自身を清め、美しくなることができますか?
    
美しくなるためには時間はかからない。それは皮膚の美しさではない。
それは真理がもてはやすその美しさを言うのだ。マインドの中にどんな思考も
ないとき、あなたは美しい。
マインドに思考がある時、あなたは醜い。思考がない時、毛穴から内なる光が
輝き、あなたは全世界を美しくする。
  
  私の言う美しさは内なる美だ。
   思考がない時、あなたは美しい。

Q:どうか神を見せて下さい。
    
 これが、質問の中の質問だ。たくさんの質問があるが、これが尋ねることが
できる最高のものだ。

 ある話を思いだした。それはこれと同じ願い、同じ探索だ。

8才の少女が私の所にやって来て、神をみせてくれと頼んだ。
私は彼女に今日は学校に行くように、明日、神を見せてあげようと告げた。
そして、明日がやって来た。彼女は再び「神様を見せて」と頼んだ。

私は彼女に「運転手が君を学校に連れて行くために待っているから、今日は学
校に行って、明日、神を見せてあげよう」と言った。
彼女は、「毎日、明日、明日と言っている。今日は学校には行かない。今日こ
そ見せてほしい」と言った。

私は、「O・K、この小さな部屋で神様を見せてあげよう。
神様に会うためには何かあげなくてはいけない。何をあげるのかね。」
 「ママが昼食にくれたチョコレートをあげるよ」と、彼女は答えた。

私は「チョコレートをあげたら、神様がやって来るのだよ」と言った。
 「でもどこに神様がいるの。チョコレートをあげたいのに。」と彼女は尋ね
た。

「チョコレートを先ずあげなさい。そうすると神様がやって来る。あなたが手
を差し伸べてチョコレートを差し出さない限り、神様はやって来ないよ。」と
私は答えた。

彼女は子供で何の疑いもないので彼女は手を差し伸べた。
その時、部屋で大きな物音がしたので、彼女の母親が入って来て、「何があっ
たの」と尋ねた。

「ママ、神様にチョコレートをあげたら全部取って私に半分も残してくれなか
ったの。だから、神様の顔をぶってやったの。ママ、神様を見なかったの? 
私は見たよ、パパジも見たよ。」

母親は、娘の言うことに決して同意しなかったので、少女は彼女の見た神の絵
を描いた。それは私が今までに見たこともない非常に美しい神の絵であった。

少女は私と一緒に外出し、散歩し、一緒に瞑想したものだ。
私がどこにも行かないように、私の足をロープで結んでそのロープをつかんで
眠ったものだ。

私が言いたいことは、その無垢についてだ。
神はいたるところに存在する。
無垢でない人は、神を見ることはできない。
利口さは必要ない、それは問題を起こすだけだ。
神はどこにでもいるからあなたは神をどこにでも見ることができる。

なぜ神を見ることができないのかね。
もし疑いがあるなら、見ることはできない。
あなたと神の間の仕切りは「神は見ることができない」という疑いだけだ。
ヒマラヤの洞窟で長期間苦行した後に神を見ることが出来ると信じているのだ。
さて、あなたは今、何を見ているのかね?
    
Q:何も見えません。 
    
疑わないようにと言っただろう。
「見えません」というのは疑いだ!!疑いを取り除きなさい!
もう一度疑いなしに何が見えるかね?
「見えない」は疑いだ。もう一度言ってごらん。疑いを持たないこと。何が見
えるかね?
    
Q:神が見えます!!
(´・(ェ)・`)つ

719鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/29(月) 22:51:21 ID:1d4drIFg0
疑わなければ神が見えるというのじゃ。
それは本当なのじゃ。
強い信仰があればそれは見えるのじゃ。
暗示とも言うのじゃ。
それに囚われなければ役には立つのじゃ。

720避難民のマジレスさん:2019/07/30(火) 06:56:05 ID:LC3de7YgO
>>718
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第5章 内在する「自由」への徴候 ☆Part5

信念と信頼

Q:あなたの愛と恩寵を快く受け入れたいのですが、信頼がないのです。
どうか助言してください。
    
私を信頼しないのなら、私の教えを受けることはできない。
100%私を信頼しなければならない。
その時のみ、教えがあなたのハートに届く。

信頼不足は神経症だ。
あなたがまだ子宮にいる頃、両親が不仲で喧嘩をしていたためにこの病気に罹
ったのだ。
小さなテニスボールのようにあなたは両側から打たれた。

ここではみんなあなたを愛している。
ここにやって来たことはとても幸運だ。
だからただ真理に降伏しなさい。
過去の習癖や両親や親戚は忘れてしまいなさい。

今あなたの親戚はここにいる。
ここでは兄弟、姉妹があなたを快く受け入れる。
これがあなたの家族だ。
あなたの両親や国のことは忘れなさい。
ここで生まれて、ここから始めなさい。

   ただ静かにしていなさい。
   そうすると、隠れているあなたの内なる光があなたに貴重な贈りものを
与える。
   過去に起こったことを心配する必要はない。
   いつもこの瞬間から始めることがあなたの責任に目覚めることだ。

世界が泣き叫び続けても、笑って微笑んでいきなさい。
真理を言葉なしに伝えなさい。
信頼について話してあげよう。

私はグルを探してインド中を旅した。
当時私は軍隊にいたので優越感があった。(くすくす笑い)
グルを見つけて彼が私に神を見せてくれるかどうか訊ねるつもりであった。

私が訪ねた全てのグルの弟子達は私を見て、彼らのグルといた50年間に伸び
た長い髭を示して、「我々は何十年と修業しているがいまだに神を見つけるこ
とはできない。靴をはいたままここに来て、神をすぐに見ることができると思
ったら大間違いだ。」と言って、私を追放した。

どうしたものか?
しかし、それを見つけるまで、食物も喉に通らないほど、真剣に何かを探し求
めているなら、欲しいものは手に入るものだ。

さてこの話はラマナ・マハルシの足元で終わりになる。
私は彼に訊ねた、

 「私に神を見せてくれますか?」

マハルシ言わく、

 「いいえ、神を見ることはできない。神は見ることができる感覚の対象では
ありません。」

私はこれに仰天して、彼は次に何を言うのか不思議に思った。
そして彼は言った、

 「あなたが神なのだから神を見ることはできない。どのようにしてあなたで
ある『それ』を探すことができるのですか?」

この瞬間、「私が神である」と完全に信頼した。
そしてこの信頼は決して揺るがなかったし、いまだにそのままだ。
あなたはあなたであるところのものを信頼しなさい。
そうすると疑うべき何があるというのか? もう一度言おう。

  私を信頼しなさい、私を完全に信頼しなさい。
  私が言っていることを信頼しないのならあなたは間違った場所にいると
いうことになる。

良いカルマと無暴力

   宇宙の法に従った生活とは
   良いカルマをもたらす正しい行動をするということだ。
   これは最初の段階では重要なことだ。
   そうするとあなたのマインドが悪いカルマの結果によって騒がされることはない。
   
   マインドが純粋になるかどうかはカルマによっている。
   純粋なマインドと「自由」は同じことだ。
   純粋なマインドはいつも瞑想的で
   無垢な人が最初に「それ」を手に入れる。
(´・(ェ)・`)つ

721鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/30(火) 23:22:18 ID:1d4drIFg0
完全な信頼が無ければグルの恩寵を受けることは出来ないのじゃ。
最後には自分も認識も失ってしまうのであるからその恐れを克服するのには信頼が要るのじゃ。
自らの観念の世界から抜けられない弟子を引き出すには、信頼の一打が要るのじゃ。
しかし、完全な信頼があるならばただ一言だけでも悟りに導くには十分なのじゃ。

722避難民のマジレスさん:2019/07/31(水) 20:19:50 ID:LC3de7YgO
>>720
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
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第5章 内在する「自由」への徴候 ☆Part5 (つづき)

Q:私の自由への探求は20年前無暴力の思想から始まりました。害を及ぼさ
ないことと健康について話して下さいますか?
    
自由に向かっている人の最初の戒律は無暴力だ。「私は肉体的にも思考によ
っても誰にも害を与えない。」

内も外も潔癖であるべきだ。
身体を清潔に保ち、真実を話し、盗みや他の人に害を及ぼすことはしないよう
に。
自由が欲しいならこれが立つべき基盤だ。
内側の潔癖さとは他人の欠点について考えないことだ。
考えるなら全ての人の長所について考えなさい。

朝、最初に口にする言葉は、

「全ての存在が幸福でありますように。地球の全ての生き物、天国の全ての生
き物、地獄の全ての生き物が幸福でありますように。どうか全ての存在に祝福
を!!」

 こうするとあなたの顔つきが変わるだろう。

Q:時々、私達が愛している人を傷つけて、その結果私は自由に価しないと感
じて、私を自由から遠ざけます。
    
誰も傷つけないこと。
言葉や行為、思考によってでさえ。
その理由はこれがその10倍にもなってあなたに跳ね返って来るからだ。
もし誰かがあなたを傷つけたなら、その人を赦して、慈愛をもってその人に向
かうべきだ。

そうするとあなたは平和を得る。
誰かを傷つけようと考えないことだ。
木や動物でさえ傷つけないことだ。
あなたは木の言葉を理解できないが、もし葉や花を摘み取って虐待したら、彼
女はあなたに幸せではなく、逆にあなたを虐待するかもしれない。

かって私はカルナータカ州のコーヒー園にいたことがある。
丘の高い所にある木造のバンガローに滞在していた。
朝、目がさめた時、農園の主人が料理人に朝食と昼食を用意させるために丘を
降りていった。

 私が外に出ると実をいっぱいつけたオレンジの木を見つけた。
私は木の所に行って
 「おはよう、お母さん。あなたは非常に幸運だ。こんなにたくさんの子供を
もって...。」

私はオレンジの実を沢山つけた彼女に感謝の気持ちでいっぱいだった。
実をとって食べる気など毛頭なかった。
丘を降りていこうとした時、突然12個のオレンジが一瞬にして地に落ちた。
私はまわりを見まわしたが風もないし鳥もいなかった。

それで私は木と話をした。
木を大変愛する人にはこれが可能だ。
彼女は私にこれをプレゼントしたのだからどうか受け取って下さいと言うのだ。

私は木の言葉を理解することができた。
私は木を抱きしめ、キスをしてこのオレンジを受け取った。
これがあなたにもして欲しいことだ。

内第5章 内在する「自由」の徴候 終了

(´・(∀)・`)つ

723避難民のマジレスさん:2019/07/31(水) 20:21:22 ID:LC3de7YgO
>>722
うむ。
実に良い話でありますね。
(´・(∀)・`)つ

724鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/07/31(水) 23:04:59 ID:1d4drIFg0
そうじゃ、樹にも石にも意識はあるものじゃ。
人間と全く同じ本質を持っているのじゃ。
観念によって違うものとか別のものと認識するだけなのじゃ。
意識も気もすべてと通じ合っているのじゃ。

725避難民のマジレスさん:2019/08/01(木) 06:48:33 ID:LC3de7YgO
>>722
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
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第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part1
   
   真我探求:私は誰か?
  
  真我探求はダイヤモンドだ、他に方法はない。
   これが傲慢な心を直接攻撃する方法だ。
   
   単に「私は真我、私は肉体ではない」と宣言し
   決して往ったり来たりしないもの、
誰が思考を動かしているのかを見つけだしなさい。
   
   この調査は何かを目撃することによってではなく、
   「あること」によってなされる。
   目撃することは主体と対象を創り出す。
   
   「あること」は内なるサットグルだ、
   常に「それ」に瞑想しなさい。
  常に遍在する真理に集中して
   あなたは「存在・意識・至福」だと完全に気づいていることだ。
   
   この真我探求は「存在」そのものに導く、
   だから「私は誰か」と問いなさい。
   これが苦しみに導かない唯一の質問だ、
   これが肉体-心-傲慢さのロープを切るからだ。
   これは心の交戦から心を引き戻して
   内なる家の庭にそれを植え付けることだ。
   真我探求は真我への愛だ。   
この「私-思考」は意識が意識に気づいていることだ。
しかし「私」に気づいているのは何か?
   何が「私」に気づいているのか?
   「私は誰か?」と尋ねなさい。
   基盤の意識はどこにあるのか見つけ出しなさい。
   誰が肉体意識を意識しているのか
   この顔を通して光り輝いているのは誰か?
   死が足早に近づいている、今を有効に使いなさい。
   心を動かさないこと、静かにしていなさい。
   常に変容する外側に面している窓を閉じなさい。
   そして、内なる無変化を見つけなさい。

  「私」という観念をぬぐい捨て、   存在・意識・至福の海へ飛び込みなさい。
  「私」という思考でさえ活動させないことだ。
   非活動的になろうとするエネルギーでさえ活動させないことだ。
   この瞑想に常にやむことなく時間を費やしなさい。     
   この新しい習慣を習得しなさい。
   座って、静かにしていなさい。
   啓示は「ここ」からやって来るだろう。
   最初に「それ」を経験しなさい、そうして初めて理解が伴うだろう。
   
   理解はメニューを読んでいるようなものだが、
   経験は食べ物を食べていることだ。
   啓示は愚かで傲慢な頭にではなく、至福のハートに入っていかねばならな
い。
   この啓示がやって来たらそれと一体になりなさい。
   宇宙の意識として一体になりなさい。
   絶対性と同一化し続けることが瞑想だ。
   精神を高揚させ、すべての障害を焼き尽くしなさい。
   絶対なるものと同一化しなさい。

  真理は非常に簡単だ、複雑にしないことだ。
   暗闇を見るためにはあなたは光の中にいるに違いない。
   ただあなた自身が光だと気づくだけでよい。
   この知識の火の中に飛び込みなさい。
   観念と習癖の衣服に何がおこるか気にする必要はない。
   この火は全てを燃やし尽くすのだから。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

726鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/01(木) 23:20:08 ID:1d4drIFg0
アートマンは認識主体なのじゃ。
それを求めて肉体から感覚や心の働きに至るまですべてを否定していくのじゃ。
すべてを否定しても消えないものが認識主体なのじゃ。
アートマンは認識できないから否定も出来ないのじゃ。

727避難民のマジレスさん:2019/08/01(木) 23:54:26 ID:LC3de7YgO
>>725
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
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第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part1(つづき)
  
  真我探求は静寂だ。
   静寂とは心を動かさないことだ、一秒間心を鎮めてあなたの顔を見てごらん。
   静寂とは達成、考察、意図、観念を全て投げ捨てることだ。
   ただ、静かにしていなさい。
   動かないこと、動かないこと、動かないこと。
   あなたは愛と美そのものだ。
   静かにしていなさい、そうすると、あなたがすべての存在の中に存在する真我だと知るだろう。
  
   真我探求は真の瞑想だ、気づきへの集中だ。
   この気づきが真理そのものを明らかにする:主体も対象も存在しない。
   
   「アートマンのみ実在する」という決定が瞑想だ。
   心が過去と未来に向くのをやめさせ、確固として「今、ここ」に留まら
せなさい、そして瞑想しなさい。
   瞑想しているのは誰かと瞑想しなさい。
   これが「全てが現れてくる源泉から見ている」ということだ。
   これが「あなたであるところのものに戻る」ということだ。
   瞑想とは努力をしないこと、思考を奮起させないこと。
   それは探索するという行為ではない、探索するとそれをなくすだけだ。
   
   瞑想とは、心を活動的にするそのエネルギーに
   努力なしに心を向けるということだ。
   この瞑想は<真我ー存在―一体>との同一化へと溶け込んでいくことだ。
   
   あなたはいつもこの瞑想の中にいる、
   サハジャの状態にいる。

   真の瞑想は自由だ、瞑想者が現われてくる源泉に留まっているというこ
とだ。
   
   他の瞑想は単なる何かに集中するという形をとったものだ。
   真の瞑想は始まることもなければ終わることもない。
   事実、瞑想の芸術は常に瞑想していることだ。
   到着すべき目的地はなく、なすべきことは何もない。
   瞑想とは単に「存在として」くつろいでいることだ。

  時間と瞑想は一緒に存在することはできない。
   瞑想が時間を破壊するように
   時間の観念は瞑想を破壊する。
   「私は瞑想しなければならない」という思考でさえ瞑想を騒がす。
   投げられた石が静かな湖を騒がすように。

  真我探求は特別な視覚だ。
   目を通して見るのではなく、真我を通して見るのだ。
   真我を見ているのは真我だ。
   目を閉じてもあなたの目はどこにあるのかがわかるように
   この視覚によってこの視覚はどこにあるのか知ることができる。
   これをやりなさい。
   どこから目の視覚がやって来るのか見つけなさい。
   この貯水池は視力で満ちている。
   目の後ろを見なさい。
  目の前を見たら対象を見る。
   目の後ろを見たら主体、「見ている人」を見るだろう。
   それがすべての源泉、愛と美の源泉だ。
   
   真我探求はあなたの人生の一瞬一瞬を通じて続けるべきだ、
   自然に呼吸をするように、最後の息が切れるまで。
   私のマスターは言われた、
   「探求者がいなくなるまで探求しなさい」
   マインドの習癖を壊すのは非常に難しい、だから探求を続けなければな
らない。
   
   長い間あなたは無知であったのだから
   真理を知ったときは真理としてしばらく留まりなさい。
  他に何が重要だというのか?
   あなたは強くなくてはならない。
   絶えず心をチェックしなさい。
   愚かさに二度と戻らないと決心しなさい。

   一度沈黙に入ったら、沈黙として沈黙していなさい。

(´・(ェ)・`)つ

728鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/02(金) 22:33:46 ID:1d4drIFg0
アートマンの探求は難しい道なのじゃ。
逃避や迷いのある者は途中で挫けてしまうことも多いのじゃ。
全ての観念を否定しなければならないと言う事は自分が最も大事にしている観念さえも捨てることであるからのう。
一切を捨てて観念の無い認識まで行かなければならないのじゃ。

729避難民のマジレスさん:2019/08/02(金) 23:31:23 ID:LC3de7YgO
>>727
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
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第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part2-a

グルによって導かれた真我探求

Q:静かにしていると、どこから始めたらよいのかわかりません。助けをいた
だけますか。

 私が話している沈黙は、瞑想することでも、静かに座っていることでもない。

 私が言っている沈黙は瞑想や話をしている・いないとは何の関係もない。
理由はマインドはどの時も絶えず、ここ・あそこ・いたるところを走りまわっ
ているからだ。

 私が言う沈黙とは、マインドから思考が起こるべきでないという意味だ。
マインドから思考が湧き上がらないのが沈黙だ。

Q:それは理解するこはできますが、私は何かをしなければないと感じていま
す。
 
 違う、あなたは何もする必要はない。単にマインドからどんな思考も起こっ
て来ないのを見ているだけだ。これは何かをするということではない。

 ただ静かに、マインドを見つめているということだ。あなたはそれをやった
ことがない。それを今やりなさい。ラクナウを立つ前に、これをやりとげるべ
きだ。

 思考を見なさい。今やりなさい。過去・未来に属さない思考を見つめなさい。

 どんな思考がやって来るかね?

Q:私は、あなたの前に座ってあなたを見つめている。

 これは思考ではなくてあなたの目が見ているものだ。
「私はあなたを見つめている」という思考でさえ、思考としてどこかから起こ
って来る。
この「私」、私を見ている「私」はどこからやって来るのか? これが私の意
味することだ。

Q:分かりません。

 それなら見つけようとしなさい。時間をかけて、この「私」がどこからやっ
て来るのか見てごらん。
努力しないこと、「私」のありかを突き止めるのに何も必要ない。どんな考え
も必要ない。ただ静かにして、どこから「私」がやって来るのか見つめなさい。

Q:自由とは何ですか? どのようにして手に入れるのですか?
 どのようにしていつも自由でいられますか?
 
 自由とは、心配のない時、疑いのない時、不幸がない時、恐れがない時だ。
山を登ることによってではなく、単に「ここ」に座っていることで手に入れる
ことができる。

 ただ「ここ」に座って、何も考えない、カそれが全てだ。静かにして、疑い
なく、恐れなしで「ここ」にいなさい。

Q:私は源泉と一つになりたい。

 光と命の源泉は、一億の太陽よりも明るい。あなたが「それ」そのもになり
たいと望むなら、それは突然起こって即座に全ての欲望と苦しみは終わりを告
げる。

 ただ「それ」を見なさい。質問しないで、光の中に溶けこんでゆきなさい。
太陽や月や星が昇らないところに、マインドや思考を越えたところに滞まりな
さい。
これが*1ギータの中で話されているクリシュナの住み家だ。
 
 あなたは100%絶対的注意深さが必要だ。何かが起こっている時、あなた
の前で起こっていることを完全に警戒して観察しなければならない。そうする
と「それ」がすぐに起こる。

 しかし、同じ鞘に二本の刀が入らないように、私は誰かという真我探求と一
緒にあなたの過去の習癖を持ちこむことはできない。一度に一つだ。もう一つ
は、あなたが何億年も試みてきたこと、それは人間として生まれて来ることだ。
 
 次は、もう少し高く飛んであなた自身の真我に飛び込みなさい。
そして、他の全てを捨てなさい。
捨てるということは、人生から逃げ出すということではない。

 あなたが誰かという探索だけに注意を払うということだ。
その時初めて全てと平和に暮らすことができる。
全ては「それ」から生まれて来るのだから。
 
 そうして、いわゆる現実とは呼ばれるものが本当の現実ではないということ
を知るだろう。
しかし、最初にこの経験をしなければならない。

 あなたは誰か、何が真理か、何が真理ではないのか見つけだしなさい。
そうすると、全てが「それ」そのものだと知るだろう。
他のどこからやって来ることができようか?

用語解説

*1ギータ 戦場でクリシュナからアルジュナに与えられた教え。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

730鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/03(土) 23:05:49 ID:1d4drIFg0
名前や顔かたちなどの記憶が自分と認識している者も多いのじゃ。
それらは過去の習癖によるものであり、自分ではないのじゃ。
そのような観念の自分を超えて今ここにある主体を探すのじゃ。
認識できないそれからすべてが現われて消えることがわかれば観念の自分も滅するのじゃ。

731避難民のマジレスさん:2019/08/04(日) 07:09:05 ID:LC3de7YgO
>>729
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
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第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part2-a(つづき)

グルによって導かれた真我探求

  一体どこから、サンサーラの全体が、
  動物、植物、観念、木そして鳥、
  これら全てがやって来るのか?
  源泉は一つだ。
  そこにもどって、それと一体になりなさい。
  あなたといわゆる他人との間には何の違いもない。
  これを知って、全ての存在に話しかけなさい。
  岩、木、動物に同時に話しかけなさい。
  「ここ」では時間は存在しないから。

  時間は観念だ。
  過去、現在、未来はただの観念だ。
  だから真理を知るためには、時間からぬけだした一瞬を費やすだけでよい。
  
  そして、全てのこの現象は何か見つけなさい。
  あなた自身に尋ねなさい。
  100%注意深くしていなさい。
  そうすると、あなたは答を得るだろう、すべての源泉に行き着くだろう。

Q:真我探求して注意深くしていようと努力しますがマインドはローラーコー
スターのように動いています。
どうしたらよいでしょうか?
 肉体的にも精神的にもこれらの思考にいつも怯えています。
 
 過去10年間私はこれを解決しようとして来ました。
何百冊もの精神界の本を読みました。しかし何の役にもたっていません。
 
 O・K。この瞬間にあなたを困らせている思考の中から一つだけ選んで私に
言ってごらん。
マインドは思考の集まりだからこのようにして私達はマインドについて働きか
けていこう。

Q:「私」

 うまくやった。それで十分だ。
私達はこの「私」について解決していこう。
「私」はマインドにすぎないが、すべての様相の顕現に関係している。

 この「私」としばらく一緒にいなさい。
この「私」を見てそれがどこからやって来るのか言ってごらん。
この「私」に没頭しなさい。
この「私」よりも先にあって、もっと現存しているものを見つけなさい。
波が海から起こって個的な名前や形になるように、この「私」は、どの海から
やって来るのか?

Q:何もないところから。

 さて、あなたは「私」の源泉、何もないところ、無にいる。
ここでは「私」はなくなる。
「私」がいないときは、マインドもない。
マインドがないところには顕現もない。

 この無の中に何が見える?
 過去に執着しないこと!
この無は、無限界、無時間、ノーマインド、無状態だ。
無として、何が見える。

Q:何があるのか?

 それが「ある」ところのもの!
 そこでもない。ここでもない。単にそれが「ある」ところのもの!
 それがあるところのものはどんな本にも見つけることはできない。

 ほとんどの本は、読む価値はない。「もの知り」のプライドでエゴが増長す
るだけだ。
だから全てを投げ捨てなさい。全てのマインドの考え、エゴ、そして肉体。
 全ての観念を捨てて、何が残っているか言ってごらん。
「それ」でそれを見てごらん。

 どんな意図も、答えを見つけようとする意図でさえ、連れて行かないこと。
 あなたは弾丸を発射したのだ。その標的を探そう。あなたが標的だ。
弾丸は銃口にもどることはできない。 

 だから見つけてごらん、この無から何が起こって来ているかね?
 それはどのような感じかね?

Q:よい感じがしますが、思考がこの無の外側で待っていて,この無に入って
来て騒がそうとしています。

 内側からその思考を見つめなさい。
これらは外にいるただの犬達だ。
この犬達はあなたの古い友達でただあなたの所に戻ってキスをしたいだけだ。
しかし、ある犬はキスをして咬みつこうとしている。
だから犬達を見つめて犬から離れていなさい。あなたは犬ではない。
注意して犬を見てごらん。犬はどこにいるか言ってごらん。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

732鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/04(日) 22:33:25 ID:1d4drIFg0
全ての観念や全ての煩悩を滅する必要は無いのじゃ。
唯一つの観念が消えれば全て消えるのじゃ。
その観念が私なのじゃ。
私という観念からすべてが起こるのじゃ。
私が無ければ私の全ての世界も消えるのじゃ。

733避難民のマジレスさん:2019/08/04(日) 23:45:35 ID:LC3de7YgO
>>731
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
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第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part2-a

グルによって導かれた真我探求

Q:たった今わかったのですか、私がいつも家に入れる犬がいます。
それは「私はこれをするべきでない、私は心配なしでいるべきでない」という
犬です。

 この犬の所有者を見つけなさい。

Q:所有者は「私」です。

 「私」も又犬だ。無に留まりなさい。
今何が残っているか言ってごらん。

Q:残っているのは犬の言うことを聞こうとする誘惑と恐れです。
犬は私にこの無から去らせたい。

 O.K.無から離れるためには、無から立ち上がらねばならない。
そうだろう?
 無から一歩踏み出すには足を上げて無を通って足を動かして足が地に着くの
だ。
無から踏み出してあなたの足が着地するのはどこかね?

Q:「踏み出す」と言うのは、思考が起こるということですね。

 そうだ、このステップは思考だ、このステップはどこから踏み出すのか?
 どこを通って踏み出すのか、このステップはどこに着地するのか? 
 無から踏みだしたのなら、どこに着地するのか、どこに次のステップをおく
のか?
 あなたの後にあるものは何か、前にあるものは何か。側面には何があるか?
 ステップの上と下に何があるか?
 この無には境界がない、限界がない、思考がない、観念がない。
 それはまったく完璧だ。
私達は無を「何もないこと」と言うが考えることが何もないのでそう言われる
のだ。
だから、この無から踏みだそうとしてごらん、それから逃げ出そうとしてごら
ん。
さあ、無から逃げ出しなさい。
どのようにして逃げ出すのか言ってごらん。

Q:思考を掴むことによってです。

 それでは、あなたは、無という海の中にいる。
この海の中で何かを掴もうと手をのばしたら、何を掴むだろう?
 ヒマラヤ山脈か? 石か?

Q:いいえ、ただの水です。水を掴んでも又消え去ります。
 たぶん私がすべきことは…。

 「すべき」はない、水だけだ。来て、滞まって、去るのは水だけだ。
水から起こる波は水だ。
無から起こるものは何であろうと無そのものだ。
それは無であった、無である。
そして、これがあなたであるところのものだ。

 そのようにしていなさい、無としていなさい。さて、無として滞まって、周
りを見てごらん。
観察してごらん、そして、質問してごらん。

Q:肉体に残りかすのように何か感じがまだ残っています

 肉体はない。

Q:しかしまだセンセーションが…。

 これらのセンセーションが「私」だ、あなたはセンセーションと呼ぶが本当
はただの観念の「私」にすぎない。

 肉体という観念の創造でさえ観念、観念だ。
生まれたその日から、あなたは子供だと告げられた、この観念を信じすぎて、
あなた自身と子供を同一化してしまった。
 
 しかし、この「私は子供、私は肉体を持った人間」という観念を「私はただ
在る」という観念でうち消すことができる。

 この肉体とこのマインド、これら全ての観念が一体誰に属しているのか見つ
けだしなさい。

(´・(ェ)・`)
(つづく`)

734蓮恵:2019/08/05(月) 21:47:39 ID:wCfwUKq.0
>>732
鬼和尚様

>しかし、この「私は子供、私は肉体を持った人間」という観念を「私はただ
在る」という観念でうち消すことができる。

上記のただ在るというのは、
無為のままあるということなのでしょうか
それとも、観念を努力や観察によって滅するのでしょうか

"ただ"という言葉には深い意味があると思いますが

横から失礼しました

735鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/05(月) 22:05:07 ID:1d4drIFg0
それはまだ観念を滅するための観念なの゛ゃ。
それによって観念が消えれば本当にただあることにたどり着くのじゃ。
アートマンを呼び起こすための観念ともいえるのじゃ。
それにも囚われずに進むのじゃ。

736避難民のマジレスさん:2019/08/06(火) 00:02:44 ID:LC3de7YgO
>>733
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part2-a

グルによって導かれた真我探求

(この肉体とこのマインド、これら全ての観念が一体誰に属しているのか見つ
けだしなさい。)

Q:それらは「私」に属しています。

 そうだ、創造者、全ての神、天国、地獄、惑星、全てが「私」によって創り
出されたのだ。
最初に「私」が存在しない限り何も創り出されることはない。

 この「私」という観念がどこからやって来るのか今見つけなさい。

 今、あなたは目覚めの状態にいる。最終的には、眠りの状態に行きたいと決
めるだろう、 平安と休息を得ようと決めるだろう。だから、全てを拒絶し始
める。
最初にあなたの町、友達を拒否し、あなたの家に隠退する。
そして、家族、家庭を拒絶して、寝室に入ってゆく。

 そして、寝室を拒絶して、ベッドに行く。
そして、あなたの連れあいを拒絶して、肉体に入ってゆく。次に肉体を拒絶し
てマインドの中に入ってゆく。

 遂に、マインドと「犬」を拒絶して眠りにつく、平安に入っていく。
あなたが眠りについたのは、午後の11時だとしよう、10時59分59秒に
眠るためにあなたは何をした?

 この一秒間に何が起こるのか?
あなたの周りにいる犬は59分と59秒にいる。
この犬をどうするつもりだ。

Q:拒絶します。

そうだ、59秒目が終わった、犬は去っていった。
60秒目も又終わった。
この後の「時間」について話しなさい。
この後、あなたの手の中に何が残っているのか。
友達、マインド、肉体、何が残っているかね?

Q:全てが消えました。

すばらしい! 全てが消え去った、それを知るために残っているのは誰だ。

Q:誰もいません。

 眠っている時は誰もいないとあなたは言う。それでは誰が「誰もいない」こ
とを知って、目覚めているのかね?
あなたが眠っている間、誰もいなかったということを知って目覚めているこの
意識は何だ、眠りを楽しんでいるこの意識は何か。さて、これは何かね。

Q:ただの空間だ、空間!!

 すばらしい。眠りの状態があるこの空間と眠りの前と、眠りの後の目覚めの
状態がある空間との違いは何かね。夢の状態が起こっているこの空間は何かね。

 これらの空間は、それぞれどのように違うのかね。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

737避難民のマジレスさん:2019/08/06(火) 07:51:08 ID:LC3de7YgO
>>736
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part2-a(つづき)

グルによって導かれた真我探求

( 眠りの状態があるこの空間と眠りの前と、眠りの後の目覚めの状態がある空
間との違いは何かね。夢の状態が起こっているこの空間は何かね。

 これらの空間は、それぞれどのように違うのかね。)

Q:この三つの状態は、同じ空間にあるように思いますが…空間は同じだ!!

そうだ、空間は同じだ。この手の中の空間はあの手の中の空間と同じだ。
全ての人の手の中の空間と同じだ。手は違うかもしれないが空間は同じだ。

 あなたはそのスペースだ。あなたは目覚め、眠り、夢の状態が起こって消え
ていくその空間だ。
あなたは眠りの状態でさえも完全に意識している「それ」だ。
これら全ての状態とその状態のなかにあるすべては透明で汚れのないスクリー
ンに写しだされた映像だ。

 あなたは、このスクリーンだ。スクリーンには、対象も主体も存在しない。
このスクリーン、この空間はその中で主体化されることや対象化されることに
何の関心もない。ただあるがままだ。

 あなたはスクリーン。犬は吠える、あなたは影響されない。
苦しみや悲しみやロマンスや火や嵐をスクリーンに映写させなさい。
スクリーンは何にも影響されない。そのスクリーンがあなただ。

Q:(笑い出して)おお神様、サンキュー,サンキューベリーマッチ

 これはあなたの惑星だ、この惑星の上を歩きなさい。
これはあなたが達成したのでもなく、これを手に入れたのでもない。
今起こった全てのことは、思考が取り除かれて犬が去っただけのことだ。
全てが観念だ。

 もしこれを知ったならこの惑星は天国だ、ここでうまく生きることができる。
全てが非常に美しい。これを理解したら、全てはとても美しく愛に満ちている。
これを理解するだけでよい。エベレストの山に登るのではない、

 それは「ここ」、それは「今」、「今、ここ」にある。

 これが瞑想だ。ここから瞑想が始まる。
何にも騒がされないこの瞑想はいつも「あった」そしていつも「ある」のだか
ら、瞑想に入っていく必要も瞑想から出て来る必要もない

Q:(彼は大きく息をする)

 今あなたの呼吸は、初めて自由になった。
今あなたはマインドと完全な調和の中にいる。
マインドと呼吸が調和の中にあると、そこには平和がある。
唯一この平和と共に我々は自由になることができる。
もう理解する必要はない。理解は終わった。どこに立つ必要もない。理解を手
放しなさい。

Q:これ、これがいつも私からとても離れていましたが、今はもう違います。

 今、それはあなたの内にある、全ての惑星と他の全てのものがあなたの内に
ある。
これが意識で、全てが意識の内にある。

 この意識があなた自身の真我だ。
それはあなたとしてあなたの内にある。
そして、決してあなたから離れない。

Q:どうして努力なしで今、私のマインドは、こんなに静かなのでしょうか、
思寵のおかげですか。

 ノーマインドは、グルの思寵によって与えられた。
修練は肉体とマインドの動きを通して行なわれる。
この精神的活動の中でどうして平和でいられるのか?
 ノーマインドは活動なし、動きなし。これは努力なしで達成される。

 今ここでこの一瞬これを試してみなさい。
静かなマインドがほしいなら修練することでマインドを活動的にさせないこと
だ。
ただ努力しないで静かに座っていなさい。

(´・(ェ)・`)つ

738鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/06(火) 22:49:45 ID:1d4drIFg0
グルを強く信頼しているならば直ぐにでも気付きが得られるのじゃ。
お釈迦様に一言言われただけで阿羅漢になったという者も居るのじゃ。
強い信頼が心の飛躍を可能にするのじゃ。
自分が無くなる恐れや不安を信頼で乗り越えることが出来るのじゃ。

739避難民のマジレスさん:2019/08/06(火) 23:14:22 ID:LC3de7YgO
>>737
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part2-b

グルによって導かれた真我探求

Q:どのようにして、中断されない平和と幸福を達成することができるか明ら
かにして下さい。

 この質問はただ二言で答えられる。
Keep Quiet、静かにしていること。
 これはあなたの邪魔をすることはない。マインドを騒がせないことだ。

 あなたがやって来た「そこ」に静かに座っていなさい。
それはあなたを妨害しない。
欲望を果てしなく追いかけて動き続けるなら、今世で平和を得ることはない。

 だからあなたがやって来たところに戻って、「そこ」に滞まりなさい。
試しなさい。
もしそれでうまくいかないのなら、明日私の所に戻ってきなさい。

Q:静かにしようとしています。今朝3時に目がさめて、ガヤトリマントラを
唱えました。
そしてマインドを静かにするため深呼吸して、真我探求を始めました。そして…

 マインドを静かにするには深呼吸しなければならないと誰が言ったかのかね?
 私は言わなかった。

 マインドについて話している時は、マインドを静かにさせることはできない。
「マインド」という言葉を口にする時はそれを静かにすることはできない。
マインドは名前そのもの中に生きている。
さもなければ誰もかってそれを見たことはない。

 だから「マインド」という言葉を口にする時はすでにそれに巻きこまれてい
て、どうしてそれを静かにさせることができるのか?猿を静かに座らせるため
に猿のしっぽを掴んでいるようなものだ。

 猿のしっぽを掴まえて猿の反応を見てごらん。猿はあなたに向き直って指に
咬みつくだろう。
猿とマインドは同じものだ!!

Q:それなら知的に静かに「私は誰か」という質問をします。
そして肉体・マインドを私ではないと拒絶します。
私は100%これに確信があります。

 肉体・マインドを拒絶したら一体何が残って、何が話をしているのか?
もし「私は肉体ではない。 マインド、感覚、エゴ、知性ではない」というの
なら何が残っているのか?

Q:何もありません。

 この何もないことの中で、深呼吸しなければならないのかね?

Q:いいえ、私は努力なしで静かにして、観察者を観察し、見ている人を見よ
うとしています。

 努力しない時、あたなは静かだ。
静かにしている時は、観察者も、観察されるものも、観察も何もない。
静けさの中では、観察者、観察されるものはない。

 あなたが言っていることは、本当の体験なしの知的なゲームにすぎない。

 どのようにして見ている人を見るのだ?
 もし見ている人を見るなら見ている人は見られるべき対象になる。
誰も見ている人を見ることはできない。
真の見ている人は、主体と対象を超越しているからだ。

 あなたは対象物だけを見ることができる。
見ている人は対象物だけを見ていてその時、見ている人になる。
しかし見ている人そのものは、観察されたり見られたりすることはない。
もし見ている人を見られたら、見ている人は対象物になる。

Q:注意深くしていて、思考が起こって来たら蕾のうちに積みとるという意味
です。

 注意深くしている時は、思考は起こっては来ない。
注意深くしていなさい。
思考を見たらその思考は何か言いなさい。
注意深くしていなさい。
思考はやって来ない。
そこに思考がないのなら、注意深さは必要ない。
真我はいつも独りだ。
真我は見るべき対象を何も必要としない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

740鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/07(水) 22:54:46 ID:1d4drIFg0
ただ静かにしていることは難しいものじゃ。
人は静かにしようとしてもマントラを唱えたり、アートマンを追及しようとしたりするのじゃ。
静かにしていることがアートマンの追求なのじゃ。
静かにしているだけで自我の作り出す幻影は全て消えていくのじゃ。
そしてアートマンが自然に実現するのじゃ。

741避難民のマジレスさん:2019/08/07(水) 23:23:58 ID:LC3de7YgO
>>739
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part2-b

グルによって導かれた真我探求

Q:思考が強い時は、私は思考に無関心でいるようにしています。

 これはよい経験だ。
思考がそこにあっても無関心でいるとあなたを困らせることはない。
サットサンガババァン(サットサンガが行なわれている家)の外に立っていな
さい。

 そうすると、多くの車や人や動物があなたの前を横切っていく。
あなたは無関心だから、それらを来させて通過させる。
このように用心深く無関心でいなさい。
  
 もし思考がすばらしいとき、それを追いかけないこと。
もしすばらしくないとき、立ち去れとは言わないこと。
ほとんどの場合、人は思考の奴隷となり思考を追いかけてそのまま戻って来な
い。
これがどのように愚かな人が人生を無駄にしているかということだ。

何億年も旅をした後でやっと人間という形の中に入れたというのに。
 この人間としての形を、感覚の快楽のために無駄にするものではない。

 「あなたは一体誰か」ということを知るためにここにやって来たのだ。
この質問を解決しない限りルーレットのように地獄の苦しみの中を何度も何度
も回転することになるだろう。

 この肉体が地獄で、肉体を着ている人は決して幸福ではない。
王や首相でさえ暗殺されることを恐れて幸福ではない。
彼らは特別な何かになったので恐れがあり、防御が必要なのだ。

 我々はまったく違った目的でやって来た。
世界中に60億の人々がいるのになぜほんの少数の人しかサットサンガにやっ
て来ないのか。
世界にいる人々はサットサンガに来る値打ちがない。
彼らは苦しまねばならない。

 サットサンガのためにやって来るのは、そう簡単ではない。
なぜあなたはラクナウに来ることを選んだのか?
 ラクナウは、ここでサットサンガが始まるまでは地図にも載っていなかった。

 今ではLonlyplanet(旅行ガイドブック)にも載っている。
観光客さえやって来て、他のどこにも行かないとツアーをキャンセルしている。
彼らは、ここに居座ってしまった。

Q:直接体験が起こるまで待つべきでしょうか。

 NO! 待つということは今、ここにないということだ。
それを待つということは未来の日に延期して、今それを得るということではな
い。
今、ここにないものはまったくあなたの基本的な本質ではない。

 私は未来を待つようにとは言わない。
あなたは誰か今言ってみなさい。
もしあなたがすでにあなたであるものでないのなら、あたなは他の何かになる

もし他の何かになるなら、道に迷わなければならない。

 だからすでにここにないものを追いかけないことだ。
そう、誰が今ここにいるのか見つけ出しなさい。
過去にでもなく未来にでもない。
今ここに何があるのか?

Q:意識、何もありません。

 もし何もないのなら、なぜ明日を探し続けるのかね。
それは、マインドが未来に走っているという意味だ。
マインドは過去を意味する。
マインドが働いている時は、現在に滞まらないで過去という墓を掘っているのだ。

 過去、マインド、思考、時間の間には何の違いもない。
それらは全て同じだ。
時間について話すことは、今ではなく、一分前のことを話すことだ。

 この「今」がサットサンガで、あなたがここに座ったまさにその最初の瞬間
に起こるべきだ。
それは起こるに違いない。
もし起こったなら、それはあなたの上にアートマンの思寵が下ったのだ。

 もしこの瞬間にそれが起こらないなら、あなたはアートマンによって拒絶さ
れたのだ。
幸福でない人、自由でない人、悟ってない人、これら全ての人は光そのものに
よって拒絶されたのだ。
誰が彼らを救うことができる?

 あなたは、今すぐ真我に直面しなさい。延延期の賜物だ。
さもなければどこに宇宙がある?
 あなたは永遠でないものと遊んでいるにすぎない。

用語解説

*1アシュラム 森の中の隠遁所、聖人やヨギとその弟子達の住居。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

742鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/08(木) 22:54:04 ID:1d4drIFg0
アートマンを探求するのは明日にしようとか、悟道を待とうとか考えて人は悟りから逃げ続けるのじゃ。
自分が消える恐れから逃避しているからなのじゃ。
今ここですべてを捨てて悟りを求める決意を強く持てば悟りもやってくるのじゃ。
今ここにしか悟りは無いのじゃ。

743避難民のマジレスさん:2019/08/08(木) 23:21:15 ID:LC3de7YgO
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part2-b(つづき)

グルによって導かれた真我探求

Q:私は源泉への正しい路線にいるのでしょうか。

 まだ疑っている。一つの場所から場所へ動くには路線が必要だ。
マレーシアからインドにやって来るには路線が必要だ。

 しかし、真我を知るには、何マイル旅しなければならないかね。
真我にたどり着くのにどの方角に行くのかね?
 飛行機か汽車か、車が必要かね? 

 どんな乗り物もいらない。
 なぜなら、あなたが探しているものは今ここにあるからだ。
これを今理解しなければならない。
ただ理解するだけで何もする必要はない。

 真我は永遠でいつもここにあるということを理解しなさい。
ここからどこかへ動いても真我は動かない。
真我はいつもあなたの内にいて動きまわっているのはあなただ。

 真我はハートの中に住んでいる。
ハートの洞窟に住んでいる。
真我は不動で全てがその中に存在する。
これを今理解しなさい。
「私は動かない、努力しない、考えない」。
そうするとそれはそれ自身でそれ自身に姿を現すだろう。

Q:どのようにして?

 努力をしないことによってだ。
私が意味することが分かるかね。努力をしないこと。
この「どのようにして」というのは、「他・の・何・か」を得るための方法が
ほしいということだ。

「どのようにしてそこに到達できるでしょうか」あなたは地図が欲しい。
だから、どのようにと尋ねる。
この「どのようにして」は、ある所からある所へ動く時に、使われる。

 あなたは、35億年も地図を使って来た。
しかし今あなたはサットサンガにいる。
あなたは山の頂上にいる。
地図を持つ必要はない。

 私があなたに言っていることは、*1アシュラムでは、聞けないだろう。
アシュラムは金もうけの場所になってしまったからだ。
二人の人が出会う時、興味、ビジネス、取引がある。

 人々がサットサンガのために出会っているのを見たことがない。
彼らは取引のため、お金のために出会っている。
夫婦の間でさえも駆け引きがある。
世界中で駆け引きなしに話す人はどこにいるのか。
 
 サットサンガでは、我々は一つの家族でお互いを食いものにする興味はない。
私達はお互いに愛し合っている。
国の人や近隣や両親を愛するよりももっと愛し合っている。
それで私達はここに定着したのだ。

Q:私は自由でありたい、どうか私に助言を下さい。

 あなたのマインドを外科手術してその中に何が入っているか見つけ出しなさ
い。
マインドを開いて、その中に何が入っているか見つけ出しなさい。

 外科医は、何も考えないで手術だけに集中しているように、マインドの実体
は何か見つけだしなさい。
どんな病気で、腫瘍はあるかないか見つけ出しなさい。
マインドを見つめることによってマインドを手術しなさい。

 マインドはただの思考の集まりだ。
だから思考を見なさい。
思考を見ているのが「私」という思考、だから「私」を手術しなければならな
い。

「私」は、どこからやって来たか調べなさい。 

 これが助言だ。
全力を投球してそれに到らねばならない。
そうすると成功するだろう。

用語解説

*1アシュラム 森の中の隠遁所、聖人やヨギとその弟子達の住居。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

744鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/09(金) 22:26:14 ID:1d4drIFg0
疑いは世間では必要だったじゃろう。
騙されて金をとられないためには疑うしかないのじゃ。
しかし、アシュラムでは必要は無いのじゃ。
世間とは逆に信じることが大事なのじゃ。
世間の習慣に慣れてしまったものには難しいことに思えるじゃろう。
全ての疑いを捨ててこそ速やかに悟りもやってくるのじゃ。

745避難民のマジレスさん:2019/08/10(土) 11:00:17 ID:LC3de7YgO
>>743
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part2-b(つづき)

グルによって導かれた真我探求

Q:この手術をするのにどうしたら静かになれますか。

 誰が静かになるか、その人の目から私は分かる。
ある人は猿のような目をしているし、ある人は神の目をしている。
神の目を持った人が静かにしていることができる。

 糸口は、あなたの活動を止めることだ。
マインドが感覚に執着するとトラブ
ルを起こすが、感覚に執着しないマインドは自由だ。だからこれで十分だ。

 そして、サットサンガでは、このマインドがどこに走り出すか見ていなさい。
警戒していなさい。
何億年もマインドがあなたをコントロールして来たのだから時間がかかるかも
しれない。

 しかし今度はあなたの番だ。
ただマインドの活動に注意深く警戒していなさい。
これが静けさと自由の結果をもたらすだろう。
  
  難しいことは何もない。単に見ていなさい。
  努力しないで、何も考えない。
  注意深くしていると、何も起こって来ないのが分かるだろう。
  これがどのようにしてマインドを静かにさせるかという秘密だ。
  自由はいつもここにあるのだから時間はかからない。
  ただ見ていなさい。どこからマインドがやって来るのか?
  どこから思考がやって来るのか?
  この思考の源泉は何か?
  始まった所へ、その源泉へ、マインドと一緒に飛びこみなさい。
  そうすると、あなたはいつも自由であったと
  全てが夢であったということが分かるだろう。

  自分自身をまだ見つけていない人は、眠っているのだ。
  感覚に執着しない人が目覚めている。
  この目覚めの中では、目覚め-眠り-夢は存在しない。
  これが生まれても来ないし、死にもしないアートマンだ。
  これが理解することができない「それ」だ。
  あなたは「それそのもの」!!
  束縛された、束縛されると考えることは、
  恐れをもてなしているにすぎない。
  この恐れをサットサンガで取り除きなさい。
  あなたは決して生まれてこなかったのだから
  生と死から自由だと知りなさい。
 
 苦しみは本当ではない。
それは眠りの中では消えて、目覚めと夢の中に再び現われるからだ。
主体、対象、マインドがない眠りの状態では、苦しみがない。
関係性がある所には苦しみがある。

 「私は肉体だ」という思考に触れないことだ。
ただ何も考えないこと。
そうするとあなた自身の究極の至福の本質に着陸するだろう。
時間とマインドは同じ物だ。マインドを止めるとあなた自身の至福に満ちた自
由と恋に落ちるだろう。

 静かにしていなさい。努力しないこと。

Q:静けさの邪魔をする「私」を本当にどのように手放したらよいのでしょうか。

 毎日サットサンガでこれをやっているのだ。
過去三年間毎日我々は唯一この事について解決しようとしているのだ。
どのようにして「私」を手放すか? 

 「私」が起こって来る時、どこからか起こって来るに違いない。
生まれて以来この言葉「私」を使って来たのだから確かに肉体を意味して来た。
「私はそこに行きます」「私はここに来ます」「私は苦しんでいる」「私は死
んでいく」この「私」は名前と形を持った肉体を意味した。

 もし「私」を手放したら「真の私」、「意識」を見つけるだろう。
どのようにして手放すのか?
 どこからやって来るのか見つけ出すことによってだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

746鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/10(土) 22:20:20 ID:1d4drIFg0
私という観念も記憶から起こるものじゃ。
それが見られれば厭離が起こるのじゃ。
厭離が起きて自分が無くなれば意識があると気付くのじゃ。
記憶による観念でしかない私を捨てて、永遠の意識に参入するのじゃ。

747避難民のマジレスさん:2019/08/11(日) 01:35:35 ID:LC3de7YgO
>>745
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part2-b(つづき)

グルによって導かれた真我探求

Q:それは「私」を持てなしているのではないのですか。
その「私は誰か」と尋ねることは「私」を創り出すことにはならないのですか。

 そうではない。どこからやって来るのか見つけ出しなさい。
どこからやって来るか見つけだしたらあなたは静かで、これが「私」を手放す
ことだ。

 やりなさい。まだ理解していないと顔つきから分かる。
どこからやって来るのか見つけ出しなさい。答えなさい。
眼鏡から、耳から、足から、シャツから、パンツからかね。どこからやって来
るのかね。それはあなたの内からやって来るに違いない。

Q:エゴからやって来ます。

 エゴは肉体にすぎない。肉体がない時、エゴはない。
生まれて来る前にはエゴはなかった。
そして60年後死に出会う時にはエゴはなくなるだろう。

 だから「私は肉体だ」と知るようになってエゴがやって来たのだ。
そうして、物があなたに属し始め、あなたは他の人に属する。
これがエゴと呼ばれる。
 
 このエゴは、休息、平和、愛をあなたに与えることはできない。
肉体が消えるとエゴも消えるのだから、いつかエゴも終わるだろう。
今世で終っても、満たされなかった欲望のためにそれは又戻って来るだろう。
このエゴはあなたの欲望を満たすためにふさわしい場所に生まれかわって来る。

 そしてこれが終わることなく何億年と続くのだ。
これを終わりにするためには、どこからこの「私」が起こって来るのか自問し
て、注意深く警戒していることだ。
  
 前には向かなかったどこかにあなたの顔が向いたようだ。
普通は、人や、物や、場所に顔が向くものだ。
しかしこれらはいつか失くしてしまう。だから永遠なものを探し出しなさい。

 どうやって探すのか?「私」の源泉を探しなさい。
さもないと感覚は外側を探している。今、内を見なさい。執着している人なし
、場所なし、物なし、これを一秒間にやらなければならない。

 この一秒間、内にいて次の質問が起こるなら質問しなさい。
理解しようとするのでもなく、山を持ちあげようとするのでもない、努力する
のでもなく、考えようとさえしないことだ。

Q:努力なしでこの質問をするとはどういうことですか?
それが私の問題です。

 努力をするというのは200ポンド頭に乗せて、インディラナガルからハザ
ラトガンジまで運ぶことだ。
しかし、私はどんな重荷もあなたに与えない。
私は単に静かにしていなさいと言っているだけだ。
静かにするのに努力がいるかね。

 何かを話そうとする時、努力がいる、過去に戻って記憶から何かを選ばなけ
ればならないから、努力がいる。
話しをせず単に静かにしているのに、何の努力も必要ない。

Q:知的にはわかります。しばらくそれをやっていたのですから。

 しばらくやっていたとあなたは言った。
私はやるなといっているのだ。
「しばらくやっていた」というのは過去を意味する。
マインドは過去だ。知性も過去だ。全てが過ぎ去る。
あなたが話す全ての言葉も含めて。 どの関係も過去に属する。

どこからこの「私」がやって来るのか見つけ出しなさい!!
他のどこかに探しに行くというのではない。
内から何の思考も起こって来ない所を見るのだ。

 全ての思考は過去に属するのだから過去に属さない何かを考えることができ
るかね?
過去と関係のない何かを話してくれるかね?
 それはできない!!
 私は一瞬の間過去について何も考えないように忠告する。

Q:(彼は、微笑んで、静かに座っている)

 これがその瞬間だ。
これがあなたが見失っていたその瞬間だとあなたの顔つきから分かる。
過去とマインドと知性と感覚と関係がないとき、微笑んでいることができるの
だ。
それが違いだ。これが輪廻からの解放だ。
あなたが微笑んだときをノーマインドの状態という。
マインドがないとき、あなたは幸福だ。

(´・(ェ)・`)つ

748鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/11(日) 22:01:34 ID:1d4drIFg0
私が本当に観られた時に私は無くなるのじゃ。
観念として自分を見ていた者は本当は自分を見ていなかったのじゃ。
観念を認識していただけなのじゃ。
本当に私が観られればそれが観念と気付いて厭離が自然に起こるのじゃ。

749避難民のマジレスさん:2019/08/11(日) 23:13:00 ID:LC3de7YgO
>>747
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part2-c

グルによって導かれた真我探求

Q:*1Atma Vicaraに私を案内してくれますか。

 
Atma Vicaraの言葉の意味は、「あなた自身のatmanについてい
つもトータルに考えている」ということだ。このVichar(真我探求)を
導いている内なるatmanをトータルに考えていなさい。

 Vicaraのことについては考えないで、どこからVicaraが起こって来
るのかそれを考えなさい。
どこからVicaraが起こって来るのか?
 そこに何があるのか?
 誰がこの質問をしているのか?

Q:エゴが質問しているのです。

 そうだ。このVicaraはエゴのみだ。
何かしなければならない、何かを得なければならないというのはエゴだけだ。
しかし、このエゴはどこからやって来るのかな。

Q:真我から。

 それでは、あなたはエゴか真我か?

Q:真我です。

 そう、真我から。海から波が起こり落ちていく。波は海、真我以外の何もの
でもない。もしあなたが真我なら何であろうと起こるものは起こらせなさい。
気にしないことだ。関心を示さないことだ。

「私は真我(Aham Atman)」それが全てだ。真我には姿がない。
主体でも対象でもない。すべてを超越している、すでに存在している、だから
それになるのではない。
真我探求、方法、マントラは必要ない。なぜなら「私は真我!」

 この「真我だ」という信頼がそこにあるべきだ。全ての人が真我ではなくエ
ゴを信頼している。
あなたのあるがままでいるというのは非常に簡単だ。他の何かになろうとする
と問題に巻きこまれる。「私は存在」「私は真我」ということを100%信頼
しなければならない。

Q:真我を信頼するのは難しい。

 しかしあなたはいとも簡単にエゴを信頼している。どれ位この信頼が続くかね?
 エゴというのは「私は肉体」そうだね? どれ位この信頼が続くかね?
80年以上、90年かね?

それでは90年間信頼するとしよう、その半分は眠りでとられてしまう、残
りは、学校に行くことや妻を持って、子供を育てることに使われる。
これがあなたの信頼でその結果は何か?

同じ信頼するなら、あなたに何か役に立つものを信頼すべきだ。
真我はいつも存在する。「それ」を信頼しなさい。
サットサンガに出席する人々にとっては、この完全な信頼が必要だ。

「私は肉体ではない。マインドではない、対象ではない、感覚ではない」
こうしてサットサンガが始まるのだ。まず最初に永遠でないものを取り除きなさい。

Q:落着きのなさはどうしたものでしょうか。

 落着きのなさの根底には、私があなたに話した休息がある。
落着きがないと感じる時は、その根底に一秒ごとに現われる休息がある。
 
しかし、誰も気にかけないのだ。ホテルで誰かがチェックアウトして、次の
誰かがチェックインする間に何があるかな?

Q:空室です。
 
これが休息と呼ばれるのだ。全ての間隙に、休息がある。しかし誰もそれに注
意を払わない。
呼く息と吸う息の間に何がある?

Q:休息。
 
そうだ。誰もそれを説明できない。誰もそれを知らない。
もし、あなたがこれに気づいたなら、真我として居ることができる。
「私は二つの思考の間にある」「私は呼吸、吸う・呼くの間だ」これを憶えて
いたら努力する必要はない。

 「私は二つの間のそのギャップだ」と注目するだけでよい。
そこには死や不満は入ることはできない。
死や不幸は入ることはできない。これが簡単な指導手引だ。

 誰でも静かにしていることはできるが、本当に沈黙の経験をしない限り違い
は起こらないだろう。

用語解説

*1 Atma Vicara 真我探求
(´・(ェ)・`)
(つづく)

750鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/12(月) 22:56:04 ID:1d4drIFg0
人は自我を認識し、依存して信頼しているのじゃ。
それが自分であると認識して疑わないことが信頼なのじゃ。
自我への疑いからアートマンの追求は始まるのじゃ。
自分ではない肉体や心の働きを次々に否定して、否定できない主体がアートマンなのじゃ。
もはや否定という観念も無いから否定できないのじゃ。

751避難民のマジレスさん:2019/08/12(月) 23:59:25 ID:LC3de7YgO
>>749
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part2-c(つづき)

グルによって導かれた真我探求

Q:「私」のない沈黙ですか?

 なぜ「私」について話すのか?
 それは努力によって達成できないものだ。
ただ静かにしていなさい。マインドが以前の執着に戻っていかないようにする
には、努力が必要だが、私が話していることには努力をする必要はない。沈黙に
対してでさえ。

 それが何であろうと努力しないことだ。努力しないこと、そうするとこの経験
が起こる。努力によって幸福になることはできないのだから努力しないこと。
沈黙への妨害は、過去の執着からやって来るのだ。

Q:かつて、リシケシの大きなアシュラムにいたとき、この平和を感じたこと
があります。

 これは、アシュラムのために起こったのでなくあなたの真面目さによって起
こったのだ。
どこででも平和を持つことができる。ヨガや他の事について話すこれらのアシュ
ラムはあなたを混乱させるだけだ。

 1942年に私もその同じアシラムに行ったことがある。彼らは、ヨガやマン
トラについて話しているが真我探求(Atma Vichar)については何も話していない。

 全てのアシュラムで、あなたの人生と時間を無駄にしただけだ。長時間の滞在
なしでこれらの疑問が明らかにされるサットサンガに出席した方がよい。

どんなアシュラムからどんな利益も得られないだろう。彼らはただ瞑想して、
本を読んでいるだけで静かにしてはいない。彼らは昼も夜も勉強して、この勉強
はあなたの助けにはならないだろう。

 そう、静かにしていなさい、どのようにして? 私が教えよう! 努力をしな
いことだ。
これにどんな害があるのか。努力の結果は、誰でも知っている。単に静かにして
いなさい。この一瞬にこの結果を得るだろう。その時、この一瞬があなたと恋に
落ちるだろう。

 あなたが平和と恋に落ちるのではなく、平和があなたと恋に落ちるのだ。
あなたが平和を感じないのは、至高の平和があなたを拒絶したのだ。
You have no chance!
あなたは来世を待たねばならないだろう。
人間になるか、ロバになるか。しかし、それはこんなに簡単なのだから、今世
を最高に活用しなさい。

Q:私はマインドと同一化したくありません。
観念や混乱にのめり込むのをやめるように助けて下さい。

 マインドと同一化したくないなら、マインドとは何か知らなければならない。
マインドを見てごらん。あなたがマインドとの同一化を確立しているのだ。
あなたがマインドの欲しいものを供給しているのだ。

 だからまずマインドとは何か見つけ出しなさい。そうするとそれと同一化でき
るか、できないかが分かるだろう。マインドを理解することができなくても思考
を理解することはできるだろう。思考がどこからやってこるのか見つけなさい。

今やりなさい。

Q:思考はどことも知れないところからやって来ます。

 もしどこからともなくやって来るならどうしてそれが何かであり得るのか?
何かはどこからかやって来るに違いない。このように思考がどこにもない所か
らやって来るのならそれは全く実体のないものだ。何もないものだけがどこにも
ない所からやって来るのだから。
実に簡単だ!!

Q:(彼は理解する)私は今あなたと居て深い平和を感じています。他に何も
たずねることはありません。

 あなたが「ここ」にいる時はただ静かに座っていなさい。
質問する必要はない。もし質問がやって来たらすぐにこの質問はどこからやっ
て来るのか見つけ出しなさい。そうすると静かに座っていることができる。
質問が起こって来る源泉が平和と静寂が存在する場所だからだ。
    
  質問によって道から外れないことだ。なぜならそれらは全て過去に属するか
らだ。そしてそれらはあなたの苦しみの原因となる。もし平和でいたいなら、今
起こっている質問はどこからやって来るのか見つけ出しなさい。
  質問が起こって来る直前の場所を見なさい。これを今ここで体験に置き換え
なさい。そうすると、どのようにして静かに座るかが分かるだろう。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

752鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/13(火) 20:57:14 ID:1d4drIFg0
場所によって心が静まることは無いのじゃ。
全て自らの意志によって実践すれば静まるのじゃ。
そのためには知識さえも時には不要になるのじゃ。
要らない知識が多すぎれば迷いが生じて実践も疎かになるのじゃ。
ただひたすらに実践あるのみなのじゃ。

753避難民のマジレスさん:2019/08/13(火) 22:28:19 ID:LC3de7YgO
>>751
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part2-c(つづき)

グルによって導かれた真我探求

Q:どのようにして内側を見て、源泉に戻っていくのですか?

  源泉に戻っていく方法は非常に簡単だ。 

  外側への執着は静かに座っていることや瞑想を許さない。
  だからしばらくの間外側への執着を全て避けなさい。
  眠りに入って非常に平和な夜をすごすように昼間にこれを練習しなさい。

  外側への執着を全て忘れたその瞬間に膨大な愛と幸福を味わう。
  そうすると自然と外側を見るのを止めるだろう。
  外側と内側が同じになって、両方とも存在しなくなるだろう。

 この家の内側と外側の区別はほんの2インチのドアだ。
もしドアがない時は外側も内側もない。このドアがマインドだ。
マインドがその欲望を満たすために外側に向かっていく。
このようにして、内側も又創られたのだ。

 マインドが静かな時は、ノーマインドであなた自身の真我だ。
その時、以前には決して味わったことのない幸福を味わうだろう。
しかし、あなたはそれを愛するけれども何があなたにこのマインドの平和と至
福を与えてくれたのか知らない。

 だから以前の環境を忘れて、今いる環境(サットサンガ)に滞まるなら、あ
なたは至福に溶け込んで至福そのものになるだろう。実に簡単な方法だ。

Q:もし私がドアを見つけたら簡単かもしれない。

 この「もし」がドアだ。
「もし」を使わない時何が起こるだろう?

Q:「私がドアを見つける」、いいえドアはないのだ!
内側も外側もない! これが全てだ!全てがこれだ!

 そうだ!そうだ!全てがこれだ。

Q:疑いはなくなって、静寂なマインドと真我の間の関連を見ています。
しかしマインドを静かにするのが難しく、静かにしていても、背後に何か見知
らぬものが潜んでいるような感じです。
これは真我ですか? 又は、マインドのトリックですか?

 あなたが言っていることはすべてマインドのトリックだ。
理由は、あなたはマインドとは何か理解していない。
理解していない時はいつもマインドがあなたを困らせる。
それはトリックを使って「何か」として現れる。

 あなたはそれを見て、それが本当だと思う。
あなたの前に真実として反映される全ては真実ではない。
すべてがマインドのトリックだ。
マインドに騙されないために唯一しなければならないことは、ただ静かにして
、努力をしないことだ。

 あなたが言っていることは、努力するということと同じだが、ここでは、努
力をしないこと、静かにしていることが要求される。
どのようにしてと尋ねるなら考えないようにと頼む。
どのようにして考えないでいられるのかと尋ねるなら、どこから思考がやって
来るか見つけだしなさいと助言する。

 顔を「それ」に向けなさい。
マインドの対象を見るのではなく、マインドがやって来る場所を見るのだ。
 
 マインドと思考の間には何の違いもない。
マインドは思考の集まりで「私」と思考の間には何の違いもない。
「私」がやって来ると、思考がやって来る。
思考がやって来ると、感覚がやって来る。
感覚がやって来ると、各感覚器が受けいれる対象がやって来る。
 見るための目、花の臭いをかぐための鼻、音楽を聞くための耳、味わうため
の舌、触れるための手。
感覚と対象は同じだ。感覚があるとき、対象がある。

 さて、どこから感覚がやって来たか、そこへゆっくりと戻って行きなさい。
それらはマインドからやって来た。
対象-感覚-マインド。マインドはどこからやって来るのか?
エゴ! マインドとエゴの間には何の違いもない。

 どこからエゴがやって来るのか?
これについてあなたは述べていない。
どこから「私」がやって来るのか?その場所に向って見てごらん。

 これを理解すると、あなたは「私」がやって来て消えていくその場所に溶け
込むだろう。
このことを誰も述べていない。
教師によっても、説教師によっても、宗教の本の中にも仏陀の経典の中にもの
べられていない。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

754鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/14(水) 22:00:26 ID:1d4drIFg0
何か語れるようなことや、認識出来る事があるならばそれはまだ観念の内なのじゃ。
まだアートマンを実現していないのじゃ。
もはや何も語れず、認識するものもされるものもないならばそれがアートマンの実現なのじゃ。
そこまで至れば師匠に聞くことも無要と知れるのじゃ。
何も聞くことも答えることも無いからのう。

755避難民のマジレスさん:2019/08/15(木) 00:14:17 ID:LC3de7YgO
>>753
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
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第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part2-c(つづき)

グルによって導かれた真我探求

Q:「私」とマインドの源泉を見つけるようにといいますが、どれ位、探求を
続けるべきでしょうか?

 探求は続けるべきだ。
歩いている時も寝ている時も、目覚めている時も夢を見ている時もそれがあな
たの一部となるまで続けるべきだ。
この探求の源泉に入っていくにつれて、海に近づいていくのだ。
この探求を続けなさい。

 そうすると努力なしで眠っている時でさえそれが続いているということに気
がつくだろう。
ほとんどの人が探求は、瞑想するために座った時から始めて、立ちあがった時
終わるものだと誤解している。これはそうではない。

 むしろ、あなたが完全に恋に落ちて、いつもその人の事を考え続けているよ
うに、探求し続けるべきだ。
探求は、何をしていようとも一日中、頭痛や、歯痛が続くように続けられねば
ならない。

 この痛みは、会社にいようが人と話をしていようが努力なしで続いていく。
このように、寝ても起きても、考えている時でも探求を続けなさい。
 
Q:覚醒が起こるためにはマインドが完全に破壊されなければならないのですか。

 マインドが破壊されない限り悟りは不可能だ。
最もあなたに親密なものを諦めることによってマインドを静めなさい。
それらのものはマインドを騒がせる原因になるからだ。

 もし、平和が次第に消えていくならマインドを掴んでいる何かがあるに違い
ない。
それを見極めることによってマインドを静めなさい。本当か偽ものか? 永遠
か一時的か? 本当に時間をかける価値があるかどうか? 
 
 たとえあなたに最愛の人がいるとしても、真実は唯一あなたの真我ゆえにそ
の人を愛しているのだ。
グルと一緒にいることによって、真我を常に瞑想することによって、マイン
ドを静めなさい。
歓喜も又マインドを破壊することができる。
しかし、一度マインドを埋葬したら、二度と掘り返さないことだ。
 
 対象に対する執着を取り除かねばならない。
マインドの静寂は真我への執着を除いて全ての執着を棄てることからやって来る。
一時的な対象に執着すると問題がやって来る。
だから、これらの一時的な対象や世界に対しては、眠っていて、真我に対して
、目覚めていなさい。

 探求をしないと、サンサーラにいることになる。
対象に目覚めていて、真我に眠っている。
探求とは真我に目覚めることであり、感覚に眠っていることだ。
探求は自由に導く。
思考は太陽を隠す一時的な雲のようなものだ。
「私」という思考でさえ雲だ。

 マインドそのものである雲に気をつけなさい。
このマインドはこれやあれがほしいという欲望だ。
思考は、「私」という思考でさえも、ただ雲が漂っているようなものだと知っ
たなら、それに影響されることはない。

 マインドの静寂があるところに、マインドはない。
その時あなたは本当に目覚めている。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

756鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/15(木) 22:13:03 ID:1d4drIFg0
マインドとは思考や感情を作り出す観念の働きなのじゃ。
それがあるかぎり悟りは訪れないのじゃ。
それが自分だと思うから捨てることも難しいのじゃ。
自分だと思っていたものが観念でしかないと気づくことが観照なのじゃ。
そして無我になるのじゃ。

757避難民のマジレスさん:2019/08/16(金) 00:03:06 ID:LC3de7YgO
>>755
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
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第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part2-c(つづき)

グルによって導かれた真我探求


Q:昨夜、夜中にほんの瞬間、何もなかった。それが「それ」ですか。
それが真我ですか。そしてマインドが戻って来ました。

 どうしてマインドが戻って来たのか? 
この無の中でマインドはどこにいたのか?

 あなたのポケットに何もない時、この空のポケットから何ドル取り出すこと
ができるのか?
無から何がやって来ることができるのか?
  一度ハートが静かになったら、
  一度それが空になったら、
  二度と戻って来ることはできない。

 だから、もう一度やってごらん。
無の中に入っていって、戻って来ることは考えないこと。
そうすると、あなたが見ている全てのものは無の中にあるだろう。

Q:度々私はそれをするには怠けすぎて、かわりに気晴らしを探し求めます。

 あなたは怠け者ではないが、あなたは最高に怠け者であるべきだ。
という意味は怠けすぎて考えることができないということだ。
もし怠け者でないと考えるなら、あなたは活動的だ。

 もしマインドを使わないときは、マインドがあなたから去っていく。
だから、非常に怠け者になるか、非常に活動的になるかだ。

Q:私はそれができると信じられないだけです。

 どうして? 信じなければいけない!

「私は成し遂げることができる。私はやらねばならない。」と決心しなさい。
 あなたが「ここ」にいると、マインドはいない。マインドが「ここ」にいる
とあなたはいない!「あなたは誰か」「あなたは一体誰か」言ってごらん!!

Q:(彼女は静かに座って微笑んでいる。)「あなたは誰か」と言われたとき
、私のマインドが突然とまってしまいました。
思考はなくて、幸福だけ、私はそれができるということに驚いています。

 そうだ。疑いなくそれはできる。
「私は誰か」という思考以外にどんな思考も持たないことだ。
この思考が、あなたを思考や観念や人や対象のないところ、無だけがあるとこ
ろに連れていく。

 これが失われたあなたの究極の本質だ。
あなたが執着してしまった世界の対象を楽しみたいがためにそれを失くしてし
まったのだ。

 執着のためにあなたに平和を与える時間が、あなた自身の本当の愛を知る時
間がなかったのだ。
この平和を見つけて、カビールの言うようにしなさい。

  ほんの一秒の半分 聖者と一緒にいなさい。
  ほんの半秒の半分 ほんのその半分聖者と一緒にいなさい。
あなたを束縛するものが自然と解き放されるだろう

  グルの恩寵によって、あなたは誰かを知ることができる。
  この恩寵は、あなたが蓄積した数々の罪を燃やし尽くす火の玉だ。
  全ての罪が燃えつきたら、あなたは蓮の花
  ハートとマインドが開いてしまった蓮の花

「今」が全ての人が何億年もの間待っていたその時なのだ。
 これ以上無駄にしないことだ。今それを手に入れなさい。
(´・(ェ)・`)つ

758鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/16(金) 22:57:35 ID:1d4drIFg0
修行を実践していれば気付きは何度も訪れるじゃろう。
恐れてしまえばそれは消えていくのじゃ。
何度も味わって少しずつ進んでいくとよいのじゃ。
それが恐ろしいものではなく、身をゆだねるべきものと知れば悟りもやってるのじゃ。

759避難民のマジレスさん:2019/08/17(土) 02:43:07 ID:LC3de7YgO
>>757
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
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第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part2-d

グルによって導かれた真我探求

Q:私は私自身を知りたい。

 全てを忘れなさい、そうするとあなたの真我を知るだろう。覚えていると苦しま
なければならない、全てを忘れなさい。全ての欲望を溶かしなさい、そうすると全
てを得ることになる。

Q:欲望や思考が起こってくると、誰に起こってくるのかと尋ねて、答えは「私に
」と返ってきます。そして次の質問は・・・・

 なぜ次の質問に飛び込むのか?なぜ最初の質問を理解しないのか? 内を見ると
何が見えるかね?

Q:無の空間。

 誰が無の空間を見ているのかね?

Q:わかりません。

 思考を見つめると消えてしまう。思考が消え去るその瞬間に見える「それ」があ
なただ。

 それは両岸に囲まれた河のようだ。両岸に制限された水が河だ。しかし水が海に
出会うとその河の性質をなくして海になる。河はなくなって海になる。

 これが探求の意味していることだ。繰り返してやるようなものではない、一度そ
れをやるだけでよい。

 尋ねる-待つー発見するー「それ」そのものになる。
 他の人や他のことについて尋ねないこと:「あなたはだれですか?」「あれはなん
ですか?」

     あなたは意識だ。
     無意識になることはできない。
     考えないこと、マインドなしに自発的に行動しなさい。 

     あなたの在るがままにいなさい、何が起こるだろうかと考えないこと。
     恐れや疑いを持たないこと。

Q:ジョークの意味を理解することなしに笑いたい。

 それならあなたのハートの中で笑っているのは誰か知りなさい。この笑いだけを
聞きなさい。これが最後の経験になるだろう。なぜなら常に幸福で至福と愛に満ち
ているのは誰か見つけ出すからだ。

Q:他の人の行為に対する自己敗北という反応について質問があります。特に不愉
快な反応を調査する代わりにエゴの結果としてそれを単に受け入れるべきだとあな
たは言われるのですか?

 調査するものが何であろうと、それはエゴを通じてなされるのだ。全ての調査は
エゴからやってくる。私の助言がほしいのなら、ただ静かにしていなさい、どんな
調査も始めないことだ。

 結局、120億年の世界を調査するのに何ができるかね? どのように理解するのか
ね? 最高100歳まで生きられるとしてもこの120億年の世界に何を寄付することがで
きるかね? 
 ただ静かにしていなさい。あなたの目の前で事を起こらせなさい。どんな努力も
しないこと、何も考えないこと。そうするとあなたは誰かわかるだろう。

Q:このために私はここにやってきたのです。「私」以前にある「知られえないも
の」を見つけるためにここにやって来ました。

 あなたはここにやってきた目的を理解した。

     あなたの目的は平和でいること、     全ての生き物を愛すること、あなたは誰か知ること。
     これが人生の目的だ。
     ゆっくりとこのことを理解し終えるだろう。

Q:平和とは何ですか?

 心を開いてものを見なさい、そうすると平和、愛、美とは何か分かるだろう。そ
の瞬間、全てを忘れてしまう。聖人カビールのことを聴いたことがあるかね? 

 彼が言うには、「一瞬、あるいはその半分、あるいはその半分の半分、静かにす
ることができたら、全世界があなたを追いかける。」

 あなたが静かにしているとそれほどの魅力を得るのだ。あなたは全宇宙でもっと
も美しい、宇宙がマインドの平和を求めてあなたを追いかける。あなたは「それ」
になる。難しいことは何もない。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

760鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/17(土) 21:27:23 ID:1d4drIFg0
道元も言っていたのじゃ。
仏道とは自己を習うものであると。
それには自己を忘れることじゃと。
観念の自己が忘れられた時、アートマンは実現するのじゃ。
その時、聖人の言葉や経典の教えが全て明らかになるのじゃ。

761避難民のマジレスさん:2019/08/18(日) 01:36:21 ID:LC3de7YgO
>>759
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
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第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part2-d(つづき)

グルによって導かれた真我探求

Q:「それ」を見せてくれますか? その平和、真我を見せてくれますか?

 真我は膜の後ろのハートに住んでいる。ドアーをノックするのではなく、ゆっく
りと歩み寄ることで真我に会える。あるメシアはドアーをノックすれば開くと言っ
ているがこれは誤解している。真実はドアーがないのだから。

 静かにゆっくりと進みなさい。考えることでさえ大きな騒音となる。「最愛の人
」に会うための条件は静かにしていること。だから考えないでいると初めて「最愛
の人」に会うことができる。

 さて、静かにしていなさい、「最愛の人」に会えないのなら言ってごらん。

Q:会えません。(そして彼は目を閉じる)

 私は静かにしているようにと言ったのだが理解していないようだ。目を閉じるこ
とで膜を作ってしまったのだ。これは誰の間違いかね? 目を閉じないで開けてい
なさい。あなたと一緒に誰も連れて行かないこと。一人で行きなさい。これは非常
に貴重なことだ。

Q:一人で行けと言われたとき、恐怖が起こりました。
     
 「最愛の人」に近づきたくないので恐怖が起こったのだ。「それ」に触れると不
滅になる。この蜜を見るだけであなたを不滅にする。この「私」は毒だ。

 「私」を連れて行かないことだ、一人で行きなさい。なぜ「私」を連れて行くの
か? それは恐怖ー分離ー肉体ー死を意味する。この「私」は厄介者だ。

 一緒に連れて行かないで一人で行きなさい。「あなた」なし、「彼」なし、「彼
女」なし。

Q:(彼は微笑んで静かにしている)

 今あなたは理解した。あなたの顔つきからそれが分かる。私が言っていることを
味わっている。宇宙の隅々を探しまわったが「最愛の人」はいつも「ここ」にいる
。行き着く道がわからなかったがこれがその道だ。
    
Q:真我探求して、誰が真我探求しているのか見つけようとしていますが、その人
を見つけることがで来ません。

 まさにその通りだ。よくやった。見つけることができないその人が「それ」だ。
見つけることができないその人を見つけなければならない。誰も「それ」を見つけ
たことがないので、探求は諦めなさい。

 もし、それを見つけることができないというなら、それは問題ではない。それを
探そうとしないことだ。あなたが着ているコートを探すのは止めなさい。

 探求を止めたら、その時、その結果は何か、あなたは注意深くあらねばならない
。それは大変よい質問だが、答えを見つけ出すかどうかはあなた次第だ。

 見つけることができない「それ」を行かせなさい。この探求という観念さえ諦め
なさい。見つけることができない「それ」を探求するのを止めたら、あなたはどこに立つ?

(´・(ェ)・`つ
(´・(ェ)・`)

762鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/18(日) 22:05:12 ID:1d4drIFg0
本当にアートマンに近づけば恐れが起こるじゃろう。
今自分と思っている観念が消えるのであるからのう。
それをも乗り越えていけば安らぎが待っているのじゃ。
自分が忘れ去られ、無いところにアートマンはあるのじゃ。

763避難民のマジレスさん:2019/08/19(月) 09:32:15 ID:LC3de7YgO
>>761
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part2-d(つづき)

グルによって導かれた真我探求

( 見つけることができない「それ」を行かせなさい。この探求という観念さえ諦め
なさい。見つけることができない「それ」を探求するのを止めたら、あなたはどこに立つ?)

Q:わかりません。

 わからないのなら、単に静かにしていなさい。静かにしているとこの質問がそれ
自体で答えを示すだろう。あなたは静かにしていなければならない。

 そうすると、静けさがあなたに話しかけてくる。思考の川が始まる所にいなさい。そこから答えがやって来る。その場所があなたのいる所だ。

Q:*1ラマナ・マハルシは、彼が悟る前“私は誰か”と尋ねて何年も費やした。私もこのようにしなければならないのですか。悟りには段階があるのですか。

 ラマナ・マハルシがこの質問を何度もしたというのは正しくない。
彼は、*2ティルヴァンナマライに来る前に、たった一度それを尋ねた。彼は学校に
行く前に彼は死んでいくのを感じた。

 その時この質問が起こったのだ。「誰が死んでいくのか? 私は誰か?」

 そしてこの若者は学校に行く前に答えを見つけた。彼は、肉体、感覚、マインド
、知性ではないと。たとえこれらが死んでも彼は死なないと悟ったのだ。

 その後彼は*3アルナーチャラに行って、彼の最後の一息まで沈黙の中に滞まった
。彼が言うには、その沈黙が全ての人の本質だ。この質問をしたら、彼らも又沈黙
になるだろう。

 悟りには段階はないが、接近のしかたにはレベルがある。真剣な接近、普通の接
近、三番目は年を老いてからの接近。

 この少年ラマナがそれを見つけた時、彼はまっすぐにシヴァ神の住み家と言われ
る聖なる山に行って彼の古い環境に戻ることはなかった。レベルは、決定のレベル
だけだ。

 これらのレベルはエゴのため、悟りのためではない。
光はそこにある。もし目を半分しか開けていないのなら太陽を見ることができない。

 太陽はいつもそこにある。地球に背を向けたりしない。地球が太陽に背を向けるのだ。その結果が夜だ。太陽には夜もレベルもない。
意識には、レベルはない。あなた自身の光と知恵は、あなたを待っている。

 しかし、あなたが何億年も延期しているのだ。又、訓練は必要ない。大昔には、人々は洞窟に住んで、狼のように隠れていたものだが、あなたに洞窟は必要ない。あなたは人間だ。

 あなたは、質問するために「ここ」にいる。だから答を見つけなさい。努力しなで、何も考えないこと、思考の源泉を見つけなさい。さて、今が、あなたがどれ位真剣かを見つけ出す時だ。

用語解説

*1 ラマナ・マハルシ (1879-1950) パパジのグル、現代の最も重要な聖人の一人。アルナーチャラの山麓で生涯を過ごし、彼の革新的自問の方法を求めて世界中の探求者がやってきた。
*2 ティルヴァンナマライ 南インドの町、アルナーチャラがある所
*3 アルナーチャラ 南インドの聖なる山、シヴァ神が顕現したといわれている山、ラマナのグル。
(´・(ェ)・`)つ

764鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/19(月) 22:34:29 ID:1d4drIFg0
マハリシは死に行く自分を見て一日で悟りを得たのじゃ。
何日もかかったのではないのじゃ。
真剣に死を超えようとしたならばそれも可能なのじゃ。
やる気がすべてなのじゃ。

765避難民のマジレスさん:2019/08/20(火) 02:04:11 ID:LC3de7YgO
>>763
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-a

真我探求についての疑問を取り除く

  過去や思考によって押し流されない為には非常な努力と決断が要求される。
  さもないとマインドは不純性と災いの中に後ずさりすることになる。
  この自己努力なしには何もありえない。
  この非常な努力は簡単だ。それは努力でないからだ。
  ヴァーサナに適した環境がやって来ると眠っているヴァーサナも又目覚めてしまう。
  だから、熱心な自己努力で真我に献身しなさい。
  神への信頼が唯一あなたを助けることができる、海に飛び込みなさい。
  神に降伏しなさい、そうすると内なる救いがやって来る。
  
  「私」というのは真我探求で破壊される幻想だ。
  何をしていようとも、いつも自然と「私」という思考に注目しなさい。
  いつも正しい方向を見ていなさい。
  「それ」に入るには、半歩必要なだけだ。
  完全に一歩踏みだしたら活動になる。
  雲が太陽を隠してしまうように「私」思考は真我を隠してしまう。
  だから、真我探求で、この思考の源泉を見つけなさい。
  真我探求をしている間、他のことは何も考えないこと
  「私」という思考でさえも起こさないこと。
  
  他の物事に没頭するのをやめるとそれが見える。
  いつも注意深くマインドの傾向を調べなさい。
  あなたが考えるものにあなたは同一化するのだから、
  思考なしに行いなさい。
  そうするとあなたの自然な状態に戻ることができる。
  思考から切り離された自然な状態に留まりなさい。
  
  「警戒する」ということは、何がマインドの家に入って来るのか注意深く見守
っているということだ。
  起こって来る思考と戦わないこと、ただ見守りなさい。
  マインドを騒がせず分割しないこと。
  しかし、この「見守ること」もマインドを通してだ。
  だから、「誰がこの思考を見守っているのか?」
  探求して幻想の根元を断ち切ることだ。
  さもないと、観察者としての「やり手」が生き残る。
  これはマインドだ。
  同じように、マインドを殺そうとする欲望は単に「殺し屋」を創り出すだけだ。
  それらは努力や活動を通して行われるので、それはマインドそのものだ。
  だから、静かにしていなさい、ただ静かにしていなさい。
  「私」という考えの重荷を背負おうと努力しないことだ。
    
  絶え間なく「何もなし」と一緒にいなさい。
  これより他によいパートナーはいない。
  活動に巻き込まれない「それ」と友達になりなさい。
  一時的な、取るに足らない快楽を切望するのではなく、
  去っていかない「それ」を切望しなさい。
  警戒と注意深さが習癖にならねばならない。
  起こってくる思考はサンサーラ、
  しかしこの思考が起こってくるのを見ていることはニルヴァーナ。
  これは「それ」との美しいダンス、ロマンスだ。
  「それ」がそれ自体で現われてこないのは、
  一時的なものを愛する習癖を持った「私」がそれを隠しているからだ。
  この無知を取り除くと真理はそれ自体で現われてくる。
  肉体とマインドはあなたに属さない。
  賢明でありなさい、あなたに属すものだけ保持しなさい。
  未知なるもの、あなたの最愛の人から逃げ出さないことだ。

    執着している対象に向かって外に向かおうとする傾向を阻止すること
が、幻想から幻想性を取り除くことだ。
  対象に向かおうとする根強い傾向から身を引いて、源泉に戻りなさい。
  沈黙から離れようとする全てを見つめて警戒していなさい。
  そして、努力をしないこと。

    思考と対象は限界だ、無限界に接触しなさい。
  好き・嫌いは表面的だ、好き・嫌いの真ん中を見なさい。
  思考に占有されたマインドの奴隷にならないことだ。
  過去に向かうとあなたを見失う。
  マインドが飢えているなら一日24時間、真我探求という食べ物を与えなさ
い。
  そして真我に、愛に直面しなさい。
  
  「私は誰か?」と調査しなさい。
  忍耐強く、賢明に、正直に調査しなさい。
  顔を内なる気づきに向けなさい。
  真我と顔を突き合わせたなら、ただ静かにしていなさい。
  この静けさが永遠の住家だ。
(´・(ェ)・`)つ

766鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/20(火) 22:02:30 ID:1d4drIFg0
思考をなくそうとすることも思考を起こすことになるのじゃ。
感情も認識もまた同じなのじゃ。
何が起きても何もしないで居ることで心も鎮まるのじゃ。
心が鎮まれば自分が居なくなるような恐れが起こることもあるじゃろう。
その恐れを乗り越えて何もしないで居ればアートマンも実現するのじゃ。

767避難民のマジレスさん:2019/08/21(水) 07:21:56 ID:LC3de7YgO
>>765
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
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第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-b

真我探求についての疑問を取り除く

Q:私にはマインドから何度もやってくるいくつかの質問があります。それらはマインドから、マインドの源である無からやってくると分かっているのですが質問する必要があると思います。

 マインドの源は無だといった。この経験をしたのかね? 質問からマインドへ、マインドからマインドの源へ帰っていく。そのように旅をしたのかね?

汽車が停車する目的地に着いたのなら、汽車の中に留まるかね? 座り続けても目的地に着いたので汽車は動かない。このように無が目的地だ。そこで何が起こったのかね?

 汽車は止まった、ということは思考が止まったということだ。そう、まだ汽車に座り続けるのかね、それとも汽車を先に押すのかね?

Q:私が思うに・・・

 (怒って)まず理解しなさい!時間を無駄にするな! 無に戻ったとあなたは言うが、そこで何が見えるかね? そこで探求するのかね? そこに何がある?

Q:何もありません。

 単に質問するものではない。質問の中にマインドが隠れている。あなたは何が欲しいか真剣に考えて質問しなさい。あちこちから質問を拾い上げて質問をするのは時間の無駄だ。

 目的地である無に着いたなら、この無の中には質問者も含めて何も存在しない。誰がそこにいるのかね? 質問がどこからやってくるのか見つけたなら、質問は窒息死する。だから「しかし」・「いつ」・「もし」を取り除きなさい。

Q:ただこれらの質問が何度もやってくるのです。

 無の中で私に質問しなさい!

Q:パパジ、静かにしていて、思考がやって来たら、見つめていて、それが去った後、静かにしているということですか。

 そうだ、それが私が言っていることで、あなたはそれについて何を言いたいのかね。

Q:あなたが言っていることは理解できますが…

 理解は必要ない、それ以上の何かが必要だ。

 あなたがニューヨークにいて、私があなたにデリー行きの飛行機に乗り、デリーから他の飛行機でラクナウに行くようにと指示を与えるなら、何を理解することがある?

この理解は十分でない。あなたは飛行機に乗らなければならない。飛行機があなたを運ぶのだ。

Q:私はそれをやっているのです。
 
する必要はない。飛行機の上で何をするのかね。飛行機を押すのかね?(笑う)ただ静かにしていなさい。飛行機の中でさえこれが言われている。「座って、シートベルトを締めて下さい。」それだけだ。

 飛行機を押すのかね? ただ静かにしていなさい。ひとりでにそれは動いて、食事でさえ運ばれて来る。これが私の意味するところだ。努力しないこと。

 あなたを連れていくのはパイロットで、あなたはパイロットに助言したりできないし、操縦室に入ることさえ許されない。

 静かにしているということは、どこから思考がやって来るのか見ているということだ。この観察が日本語に訳されて、「私は誰か」になる。マインドの内側で「私は誰か」たずねなさい。これも又、観察だ。

 「私」の源を見つけることと、どこから思考がやって来るか見つけることには違いがない。ただ観察すること、警戒していなさい、努力しないこと。

Q:静かにしているときでも、まだ、個別な「私」という感覚があります。

 静かにしているとき、静かにしている「誰か」を見つける。この「私」が観察されねばならない。どこからやって来るのか?

 どこからこの個的な「私」がやって来るのか? 見なさい。何が見えるか言ってごらん。これは非常によい質問で理解ではなく経験が必要だ。だから、「私」を見つめて、それがどこからやって来るか見つけなさい。

 何が見えるか言ってごらん? 観察者や観察されるものは見えないはずだ。個人という個別性が「どこから」やって来るのか集中して見なさい。何が見えるかね?

Q:今はなにも見えませんが、何かが飛び上がろうと待っているような感じです。

 もう一度、何が飛び上がろうと待っているのか観察しなければならない。再び「私」。もう一度それを観察しなさい。やりなさい。すぐにやりなさい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

768鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/21(水) 22:35:05 ID:1d4drIFg0
本当に思考の源にまで達したならば無ということはないのじゃ。
そこにアートマンはあるじゃろう。
アートマンがあればブラフマンもあり全てが在るのじゃ。
それがわからないならば実際に達しては居ないのじゃ。
推測で観念遊戯をしているだけなのじゃ。
実践がすべてなのじゃ。

769避難民のマジレスさん:2019/08/22(木) 02:44:46 ID:LC3de7YgO
>>767
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
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第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-b

真我探求についての疑問を取り除く

Q:努力なしで観察するようにあなたは言いますが、観察するのを忘れないように
努力しなければなりません。さもないと、私の思考の中で再び見失ってしまいます。

 あなたの鼻を見るのにどんな努力がいるかね。大変近くにあるものを見るのに努
力は必要ない。遠い所にあるものを見るには努力が必要だ。

 さて、問題は、あなたは自分自身を、あなた自身のハートを、あなた自身の美を
、探すことだ。それは、あなたの目の網膜を探しているようなものだ。あなたの網
膜を見るのにどんな努力がいるのかね。

Q:不可能です。

 不可能、そうだ。網膜でさえ離れていく。「それ」は網膜の以前にある。これが
網膜が見ることを可能にする。だから、網膜が「それ」を見るのは不可能だという
ことだ。

 それでは、私は静かにしていなさいと言おう。 「それ」を通して見たり、聞い
たりすることができる「それ」を見るために何ができると言うのか。「それ」は見
ることができない。 ただ意識としてありなさい。どんな努力が必要かね?

海の中では波であらねばならない。波を立たせなさい。波はまだ海の一部だ。波
が立つとき、波は海からどれくらい遠くに離れているかね? 波は海の一部だ。海
があるなら、波があるはずだ。

 あなたが質問する前に私は話したくないから、他の質問があるなら質問しなさい。

Q:私がやっている禅の訓練で、静かにすることができますが私の内と、私の周り
に何が起こっているか、気がつくに従って、頭と心臓に、ひどい圧迫感が感じられ
ます。

 しかし、禅の修業での観察者はどうなったのか? 私は観察者を観察しなさいと
いっているのだ!!観察者が観察されねばならない。今、私は観察者を観察するよ
うに言っているが、これをするのにどんな努力が必要かね?
 観察者を観察したらどんな報酬が得られるか? その結果は何か?

 これをするには、あなたの顔を内側にむけて観察者を対象にして超意識にこの観察
者を見てもらおう。たとえこれを理解しようとしてもこの理解は「それ」を理解す
ることはできない。
これは決して理解できない。理解は主体と対象との間に起こるものだ。マインドか
ら対象を消してしまったら何を理解することができるかね。どうするのかね。

 修業するということは、いつも対象と関わりあっているということで、これはど
んな成果もえられないだろう。だから、静かにしていなさいと言っているのだ。そ
れはひとりでに明らかになる。ただ思考が通過するのを見て、それがどこからやっ
て来て、どこへ行くのか見ていなさい。

 あなたは証人として残る、単なる証人、何が起こっても証人として見ていなさい。
どんな状況も良きにつけ悪しきにつけ、やって来て、去って行く、決して滞まらな
い。

 ただ観察していなさい。良い状況がやって来ても滞まって去って行く。やっても
来ないし、去ることもないのが証人だ。それをどうして見るのかね。どのようにし
て証人を目撃するのかね。どのようにして観察者を観察するのかね。

Q:意識として居るだけです。
 
 そうだ、それでよいのだ。私はカビールの話を思い出した。

 カビールが家から出たとたん、二人の男が争っているのを見た。警察がやって来
て、二人を逮捕した。1人の男は「彼が先に私を襲ったのだ」と語り、他の男も同
じことを言った。それで二人とも裁判にかけられた。しかし、裁判所は証人なしで
は判決を下すことはできない。

 その時警官は言った。「カビールだけがそこにいて、この男が他の男の腕を切っ
たのを見ていた。」カビールは裁判所に呼ばれ、裁判長はカビールにたずねた。
 
 「あなたはそこに居たのか?」
 「はい、私はそこに居ました。」 
 「何を見たのかね、誰が誰を先に攻撃したのかね。」
 
 カビールはこう言った、「見たそれは、話すことができず、話すそれは、見るこ
とができません。」

 どういう意味か裁判長は困った、それは一体どういう意味なのか、目は見たが目
は話すことができない。舌は話すが見ることはできない。(くすくす笑い)このよ
うに目は証人として話すことはできない。

 一方、舌は話すけれども見なかったので、舌の言うことを信じることはできない。
裁判長は非常に困って二人とも釈放した。

 このように、あなたは証人だが話すことはできない。

Q:(笑って)考えることもできない。

 そうだ、あなたが見る時、あなたが証人となるが見たことを話す事ができない。
これは本当に冗談だね。
(´・(ェ)・`)つ

770鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/22(木) 23:21:10 ID:1d4drIFg0
禅は集中の瞑想であるから観察が無いのじゃ。
観察によって人は悟りを得るのじゃ。
自然に観察できるまで待つのでは稀にしか悟れないのじゃ。
集中と観察を習って速やかに悟りにいたれるのじゃ。

771避難民のマジレスさん:2019/08/23(金) 05:32:00 ID:LC3de7YgO
>>769
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第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-c

真我探求についての疑問を取り除く

Q:私は障害を取り除きたい。
真我に降伏したい。
私はエゴの為に謙虚ではありません。
どうか、あなたの火で私の蝋燭に火を付けて下さい。
 
 あなたはエゴについて話している。
全ての人がエゴが好きだが、あなたはそれを失くそうとし始めた。
あなたは一生懸命努力した。

 しかし、これは、エゴをマッサージしているようなものだ。
人が行う全てのことはエゴを大きくするだけだ。
しかし、これは、幸福である為のやり方ではない。

 幸福というのは、あなたの平和を危険にさらすものから遠ざかっていくとい
うことだ。
だから、私は毎日みんなに、ただ、どこから思考がやって来るか見つけだしな
さいと言っているのだ。
 
 「私がこれを、又は、この人を手に入れたら幸福になるだろう」これはエゴ
のごまかしだ。
この世界では誰もあなたに幸福を与えることはできない。

 幸福である為には、静かにしていることだ。
どんな関係もあなたに幸福を与えることはできない。
愛する人でさえもあなたに幸福を与えることはできない。
彼らはあなたの血を吸って生き、血がなくなるとあなたを見ることもない。
これが世界のありようだ。

 この人生でそれに気づくなら自由を勝ち得るチャンスがある。
この為にここにやって来たのだ。
ついに、あなたはここにやって来た。
サットサンガに参加できる幸運と知性を持った人間としてついにここにやって
来た。

 あなたがしなければならないことは、エゴがやって来たらその根を断ち切っ
て静かにしていることだと明確に理解することだ。
今、それを求めてそれをするのだ。
挫けないこと。

 何が起こっているかただ見ていること、誰が永遠にあなたのそばにいて逃げ
出さないか見分けなさい。
あなたの周りの人はみんな逃げ出すだろう。

Q:私がリシケシにいるとき、多くの人からあなたのことを聞きました。
それでラクナウにやって来ました。
最初のサットサンガで人々がどんな経験をしているのか、知って驚きました。
真我探求が思考と感情に同一化するのを止めることができると知ったからです。
 
 そうだ、毎日彼らは彼らの経験について話している。
驚くことはない。
何か新鮮で新しいものを最初に見た時は経験であるに違いない。
結婚式の後の夜は経験ではないかね?

 しかし、あなたの顔つき、目つき、話からして、あなたはこの経験をしたこ
とがないのを示している。
あなたの顔を見てごらん。

 この経験はその人の全存在を、内も外も変えてしまうので声や肉体でさえも
その人の経験の状態を示すものだ。
いつかあなたも又これを味わうだろう。

 あなたの宿題が終わり質問がなくなったとき、この経験が起こる。

Q:思考と感情に同一化するのを止める方法を教えて下さい。
 
 もう一度言おう。
真我探求によってだ。全てが止まる。
「私は誰か」と真我探求すると全てが止まる。
ただ静かにしていなさい。瞑想をやめて、瞑想者を見つけなさい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

772鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/23(金) 22:16:46 ID:1d4drIFg0
純粋にひたすらにアートマンを追求するのがアートマンの法なのじゃ。
その他のことはアートマンの法には必要ないのじゃ。
アートマンが実現すれば全ての厭離は達成されるのじゃ。
大きな樹の幹を切れば、全ての枝も地面に落ちるようなものじゃ。
瑣末な技は捨てて本道を進むが善いのじゃ。

773避難民のマジレスさん:2019/08/28(水) 22:54:13 ID:LC3de7YgO
>>771
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第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-c(つづき)

真我探求についての疑問を取り除く

Q:静かにしていなさいと言われたとき、すぐにマインドはどのようにしてと
尋ねます。
 
 ここではあなたは何もしないのだ。
単に静かにして問題があるなら私に尋ねなさい。
何もしないこと。何も考えないこと。ほんの一瞬何もしないこと。

 考えること全ては、過去に属し、どんな利益も得ることはできない。
それは役にたたない。
だからマインドを過去に行かせないことだ。マインドは過去を意味する。

 もし何かが起こるならそれはこの瞬間に起こるだろう。
過去ではない。マインドが過去にさ迷うのをストップさせなさい、そうすると
、あなたは静かだと分かる。

 全ての人がいつも過去について考えている。
だから、いつもトラブルの中にいる。
私は過去について考えないようにと助言する。

Q:私のマインドは壁を頭で突き続ける頑固な山羊のようですが、思考と思考
の間には平和があります。
 
 二つの思考の間にあるこの空間を見ることがすぐに自由を得る為のもう一つ
の方法だ。
同じ事が呼吸の間にも言える。
息を吸って、息を吐く、この呼吸の間には時間がない。
これは1分間に16回起こる。
全ての思考は、この無の空間からやって来るに違いない。
この息の吸入はどこから起こって来るのかな。

Q:どこからともなく起こります。
 
 そうだ、思考の場合も同じことが言える。
この思考は無からやって来るに違いない。
考える前は、あなたは考えていない。
だからどこから思考がやって来るのかその場所に行くとしたら、真我探求(私
は誰か?)も同じ所に行き着くということだ。

 しかし、それは説明されていない。
それは説明されるべきだ。
この真我探求はどこからやって来るのか?
無から!
思考の前、真我探求の前、呼吸の前。

 「私」という思考は、そのどこにもない。
それは「どことも知れないところ」からやって来て、その「どことも知れない
ところ」があなたで、あなたは思考ではないと私が言ったなら、「私」という
思考は消え失せるに違いない。

 これが私が何度も言っていることだ。
これを尊重しなければならない。
あなたの源泉、どこからあなたがやって来たか、これを尊重しなければなら
ない。

 そうするとあなたはかって消えたことがないし、いつもここに居たというこ
とが、全てがあなたに属するということが分かるだろう。
すべてがあなた、あなた自身の真我だ。
これをただ理解するだけでよい。
修練はいらない。

 私はどんな修練も信じない。
「私はそれだ」と感じなければならない。
これは修練によっては得られない。あなたがあなた自身になるのに修業する必
要はない。
あなたはすでに「それ」なのだから。

 このように、この「それ」には限界がなく、国境はない。
この「それ」はいつも存在していて永遠だ。
だから「それ」になるのではなく、「それ」であらねばならない。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

774鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/29(木) 22:22:36 ID:1d4drIFg0
何の修練も無く静かにしていることで人は悟れるというのじゃ。
何かになろうとするのではなく、それであることで悟りも訪れるのじゃ。
既に存在している意識に気付くだけで善いのじゃ。
それがすべてを悟らせてくれるのじゃ。

775避難民のマジレスさん:2019/08/29(木) 22:42:43 ID:LC3de7YgO
>>773
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)

〜SRI H.W.L.POONJA

第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-c(つづき)

真我探求についての疑問を取り除く

Q:瞑想者を探し出して「それ」になろうと何年も努力していますが、「それ
」を探し出すことができません。
 
 それなら、それを見つけようとしないことだ。
それなら、あなたの探求をあきらめなさい。
疲れたのなら探求をやめて「長い間探求してきた。いまだに見つけることがで
きないとしたら一体何があるのだろうか?」と尋ねなさい。

 さて、助けを求めて誰かを探さないこと、すべてをあきらめなさい。
瞑想と探求をあきらめなさい。
さて何が残っている?

Q:パパジ、私は完全に理解したわけではありません。
しかし、恩寵が差し迫っているのを感じます。
 
 なぜ未来に延期するのかね?
 それはあなたが静かでないということだ。
静かにしていることが最終的な経験だ。
これ以上何も必要ない。未来に延期して何かをしようとするならあなたは静か
でないということだ。

 静寂とは内なる静寂だ。
唇ではなくマインドが静かでなければならない。
そう、内なる静けさを保つように勤めなさい。
思考がやってくると静かにしていることはできないので思考を起こさないこと。

 静かにしているのに努力は要らない。
努力しないこと、どこからも思考が
起こるのを許さないこと。
これが静けさと呼ばれる。
これに成功したならあなたは終わりだ。
これ以上何もすることはない。

Q:マインドが「それ」そのものに向かっていく課程を説明することができま
すか。
 
 マインドの向きを変えなさい。
何が起こるか見てみよう。

 マインドが今いる状況から、型にはまって動きが取れない状況からマインド
の向きを変えなさい。
対象から、対象のないところに向きを変えなさい。
対象がないかぎり、マインドはマインドでありえない。
「ボール」がない時「バット」には何の意味もない。

 マインドの向きを変えなさい。
そうすると対象に触れることはできない。
その時何が起こるか?
マインドの向きを変えて対象から離れたそのときのマインドの状況は何か、説
明しなさい。

 私はあなたのマインドの向きを変えることはできない。
あなた自身でやらなければならない。
眠りに入るとき、毎夜、マインドの向きを変えている。
あなたのマインドを内に向けると、どんな感じがするかね。
あなたが眠るときマインドは内に向けられる。
これをどのように説明するかね。
 
 もしマインドを内に向けたなら、あなたの顔つきが変わるものだ。
もし何かを説明することができるのなら、マインドはまだ作用していて、向き
を変えていないということだ。

 マインドの向きを変えたら、ノーマインドだ。
説明者なし、説明なし、説明するものは何もない。
これがマインドを内に向けた後の状況だ。
やりなさい。やりますと言っているだけではだめだ。

 真我探求は非常に簡単だ。
あなたの好きな所ですることができる。
家で、会社で、街中で。ただ、この思考「私は誰か」をいつも持っていて理解
しようとしなさい。

 「この全てはいったい何なのか?」
「どこからこの世界がやって来るのか?」
「誰が苦しんでいるのか?」「どのようにして苦しみを取り除くのか?」

 「私は誰か?」探求しなさい。どこへ行こうともこれをするのにたいした努
力はいらない。
いつかサットサンガに出席して、探求は終わりになるだろう。
毎日、人々は2-3時間ここにやって来て恩寵を得て、彼らの国へ帰っていく。
(´・(ェ)・`)つ

776鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/30(金) 22:54:48 ID:1d4drIFg0
自分を観る努力しすぎることで見えないことも在るのじゃ。
観るという努力がその主体を遠ざけるのじゃ。
前ばかり向いて走っていては後ろが見えなくなるようなものじゃ。
その探求が無意味である訳ではないのじゃ。
一休みして振り向けば自分を観る助けになったことを知るじゃろう。

777避難民のマジレスさん:2019/08/31(土) 00:05:32 ID:LC3de7YgO
>>775
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
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第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-d

Q:「私は誰か」と言うこの質問をすると、静かにしていることができません。
疑いが起こってきます。でも心の平安を望んでいます。
 
 あなたが静かでないということは、この質問が正しくなされなかったということ
だ。
マインドそのものにこの質問をしなければならない。
この思考(私は誰か)の源にこの質問をしなさい。

 「私は誰か」という質問はどこからやってくるのかまず理解しなさい。
壁から? 本から? この「誰」はどこからやってくるのか?
 この質問をこの「誰」に尋ねなさい。

 静かにできないと話すこと自体が静寂からあなたを連れ戻す。
探求はあなたを家に連れ戻すことだ。外に連れ戻すべきでない。
 
 さて「誰」がどこからやって来るのか尋ねなさい。顔を後ろに向けなさい。
人々のマインドは前向きに働いているので問題がおこる。逆方向に働かねばならな
い。
逆戻りして「誰」がどこからやってくるか見つけなさい。

Q:源泉を見つけることができません。
 
  「誰」の以前に何がある? 何もすることはない。(パパジはテーブルの上に
ある水の入ったカップを持ち上げて)このカップはどこからやってくるのか?
 このカップはテーブルからやってくる。このように単に見つけ出しなさい。
そう、もう一度、この質問はどこからやって来るのか?

Q:それを見つけることができません。
 
 それを見つけることができないこの「私」は何か?

Q:私のマインド。
 
 マインドと「私」は同じものだ。マインドの以前に何がある?
 「私」が起こってくるとき、それはどこからか起こってくるに違いない。
どこから起こってくるのかね?

Q:わかりません。
 
 対象を捜しだすには見る人が必要だが対象には触れてもらいたくはない。後ろを
向いて欲しいのだ。
「私」が起こってくる源をただ見なさい。あなた方は対象を見ることに慣れてしま
ったが、私たちが話している「これ」は対象ではないので対象化することはできな
い。

 対象ではない「それ」にマインドを逆戻りさせなさい。対象は現われて消え去る。
あなたの肉体は対象で、「それ」は対象ではない。

Q:それを感じることができません
 
 「それ」は「私」以前にあるので、もちろん「私」はそれを知覚することはでき
ない。
だからこの「私」には触れないこと。「私」はマインド、思考だ。

 それに触れないこと。「私」に触れないで答えて欲しい。

Q:私にはできません。
 
 「私」に触れるなと言っただろ!!

Q:この真我探求をいつもし続けるのですか
 
 真我探求をいつも続けてする必要はない。それをやる必要があるのは、一度
だけだ。繰り返す必要はない。

 「私は誰か」見つけ出すだけでよい。
そして、その答えは「今」見つかるだろう。尋ねなさい!
「私は誰か」耳を傾けて聞きなさい!それについて考えないこと!ただ一度だ
け尋ねなさい。
それについて考えないこと、答えを見つけようと努力しないこと。
私が言っていることが分かるかね?
 
 どんな思考もマインドの中に保たないこと。
真我探求でさえも保たないこと。
真我探求も又思考だ。
そして、努力をしないこと。
この真我探求を維持したいというのは傲慢さだ。
一度だけ尋ねなさい、そうすると答えはそれ自身で現われる。
あなたは命令することも、要求することもできない。
 
 それが、自然と現われるのを時間をかけて待ちなさい。
それは対象でもないし、主体でもない。
どんな対象もマインドの中に保たないこと。
なぜこれが起こって来るのを、黙示を、この真実を強制するのか?
それにあなたの世話をさせなさい。
ただこの真理に降伏して、静かにしていなさい。
 
 静かにしてそれが現われるのを待ちなさい。
あなたが静かでないとその黙示は起こらない。
それは自然と現われる。
それは見せ物ではない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

778鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/08/31(土) 22:58:39 ID:1d4drIFg0
探している者が探されている目標のものである時、探求は困難になるのじゃ。
そのように探求している主体こそ見られるべきものなのじゃ。
それに気づくのはむしろ探求を休んでいる時が多いものじゃ。
蝉の声とか鳥の音とかの何かのきっかけで気付く時が来るのじゃ。
探求の努力も無意味であった訳ではないのじゃ。
そこに至るまでの集中の努力が効果をもたらしたのじゃ。

779避難民のマジレスさん:2019/09/01(日) 08:36:50 ID:LC3de7YgO
>>777
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-d(つづき)

Q:それは存在のようです。
 
 何であろうとも。「存在するもの」は黙示だ。
この「存在するもの」に無理やり何かをさせることはできない。
静かにしていると,この「存在するもの」がそれ自身で現れる。

 その名は「存在するもの」だ。
「存在していた」でもなく、「存在するだろう」でもなく、いつも「存在して
いる」。

Q:あなたが言っていることをするには努力が必要だと思いますが…。
 
 何かが落ちるのにどんな努力が必要かね?
頭にやって来る対象をただ振るい落とすだけだ!!

 暑い夏の盛りに、ある男が頭の上に100kgの岩を乗せて運んでいた。
彼はある人の所にいって助けを求めた。
その人が言うには「10kgの鉄を持っていきなさい、鉄は岩より値打ちがあ
る。」そう、今110kg。

 他の人は銅を与えた。「それは鉄より値打ちがある」しかし、今度は120
kgが頭の上にある。
このように、あなたがどこかに行く度に、彼らはあなたの頭に、あなたのマイ
ンドに、重荷を果せる。

 頭の上にどんな重荷も載せない教師は誰か?
彼らは、「この本を読見なさい」「この練習をしなさい」と、あなたのマイ
ンドに重荷を加える。
重荷とは、思考、練習、ビパサナ、ウパサナ・・これらを与える教師を受け入
れないことだ。教師としないことだ。

 本当の教師はどんな重荷も果せない。
説教師だけが重荷を果す。
あなたは以前に説教師といたに違いない。
 
 ただ静かにしていなさい。
生まれて来る前、あなたは靜かであった。
死んだ後もあなたは静かになる。
そう、なぜ今静かにできないのかね。
本当の休息は静かにしていることだ。

 苦しみがあると考えるとき、リラックスすることはできない。
リラックスして幸福であるときは、あなたは何も考えていない。
あなたの幸福は欲望の対象物を手に入れることからやって来るのではない。

 幸福は対象への欲望がなくなったときにやって来るのだ。
欲望がなくなると、思考がなくなり、幸福がある。

 ほとんどの人は、思考でさえ気がつかない。
そして、思考の流れに押し流されてしまう。
警戒していなさい。いつでも思考がやって来るときはそれを見つめなさい。
そうすると、思考は消えていく。

 考えること無しに人生の日課を終えていくとき、唯一あなたはそれを本当に
楽しんでいるのだ。
来るものは来させなさい、行くものは行かせなさい。
あなたはただ見ているだけだ。
 
   瞑想とはマインドが思考を掴まえず、自由な状態の事だ。
   思考を往来させて後を追いかけていかないことだ。
   街を歩いている誰かに顔を向けて見たらあなたは見失ったことになる。
   
   ただ行かせるのがよい。
   これが人生の幸福への道だ。
   プラットホームに汽車は行ったり来たりするが、
   あなたの目的地に行く汽車に乗りなさい。
   乗りつぎの待合室で友達を作らないこと。
   彼らはあなたが行く所には行かないのだから心が乱されるだけだ。
   この世界は人々の乗りつぎ待合所だ。
   マインドは思考の乗りつぎ場所で永遠のホームではない。
   だから、行ってしまう人々と友達にならないことだ。
   あなたと同じフライトで旅する人と友達になりなさい。
   「それ」と友達になりなさい。
(´・(ェ)・`)つ

780鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/01(日) 21:28:55 ID:1d4drIFg0
知識や思考が多いほど不安や苦も増えるものじゃ。
不幸なことが何でも起こる可能性があると思うからのう。
知識や思考が無い時、幸福も在るのじゃ。
今ここにあることが出来るからなのじゃ。
今ここには不安も苦も無いのじゃ。

781避難民のマジレスさん:2019/09/02(月) 08:10:43 ID:LC3de7YgO
>>779
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-e

Q:私は幸福に踊り続けていたいのですが、マインドとハートが戦うのを避け
ることができません。
 
 この戦いは不可能だ。戦いが起こるのはマインドがあるときだ。
ハートがそこにあるとき、マインドは存在しないので戦いはない。
あなた自身の真我と関係をもたないとき、戦いが起こる。
その時、思考の軍隊の指揮官はマインドだ。
ハートをもう一度見てごらん。

Q:ハートを見ようとするといとも簡単に感覚機能に取り付かれて捕まってし
まいます。
ハートだけを見る為に完全にマインドの働きを止めることができません。
  
 感覚の役目とは、五感の一つを通じて、対象を観察するということだ。
感覚を通じて、対象を見るとき、誰が感覚に気づいているのか?
これをやるべきだった。誰が感覚に気づいているのか?
それを知性と呼んでもよい。知性は感覚の役目を知っている。
誰が知性に気づいているのか?

 マインドは決定力のある知性に気づいている。
そうして、感覚、そうして対象がやって来る。
誰がマインドに気づいているのか?
それを「私」と呼んでもよい。

「私」がマインドに気づいている。
マインドは知性に気づいている。
知性は感覚に気づいている。
感覚は対象に気づいている。
誰が「私」に気づいているのか?

 今、あなたは思考のない所へ、沈黙へと、平和へと、源泉へと、戻っていく。

 これが全ての働きをとめる方法だ。
どこからエネルギーがやって来るのか見つけなさい。
いつも平和であるものは何か、決して騒がされないものは何か見つけ出しなさ
い。

 あなたが気づいているということを、どうして知っているのかね?
「私」が気づいているとどうして知っているのかね?
 「私」という思考よりももっと深いところに行かねばならない。

「私」よりも以前にあるものは何か?
あなたが「私」だと誰が決めているのか?

 あなたは5ステップ感覚より後にいる。
そこが平和の源泉だ。
あなたのホーム、自由とも、意識とも言われている。
 もう一歩後ろに、意識以前に下がることもできる。
これが思考を止める方法だ。

 あなたの源泉に向かって行きなさい。
どこに行くのか、場所はどこか、見つけ出しなさい。
これがあなたを静かにさせる。
感覚、マインド、知性、「私」を越えてあるものは何か見つけ出しなさい。
「私」を越えたものが意識だ。

Q:マインドを超えてこの意識、ハートを見つけるために、私自身にいつも「
私は誰か」と尋ねています。

 「いつも」とはどういう意味だ?
 毎日食べるようなものではない。この質問は一度だけするべきもので、そし
て、そのとき答えを見つけるのだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

782鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/02(月) 21:53:59 ID:1d4drIFg0
日頃から何度も何度も私は誰かと尋ねていたら、それは習慣になり、同じ答えが繰り返されるだけになるじゃろう。
記憶による観念遊戯になってしまうのじゃ。
気付くという作用が出来にくくなってしまうのじゃ。
ただ一度だけに全ての注意力を集中して私は誰かという探求をするとよいのじゃ。

783避難民のマジレスさん:2019/09/02(月) 22:57:53 ID:UlsENQx60
鬼和尚、皆さま、くまネット環境の都合でしばらくの間、バパジの講読会を休止いたします。
1ヶ月以内の再開を目指します。
宜しくお願いします。
( ̄(工) ̄)つ

784鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/09/03(火) 23:20:55 ID:1d4drIFg0
ご苦労さんなのじゃ。
ゆっくり休んで続けると善いのじゃ。
パパジも貴重な教えを説いているのじゃ。

785避難民のマジレスさん:2020/07/03(金) 21:39:35 ID:jevFIdqw0
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 3 のつづき。
https://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/
>>596 から一休さん の詩。

111
僧問岩頭、古帆未掛時如何。 僧 岩頭に問ふていはく、古はん未だ掛けざる時いかん。
頭云、小魚呑大魚。     頭いはく、小魚大魚を呑む。     
僧云、掛後如何。      僧いはく、掛けて後如何。
頭云、後園驢喫草。     頭いはく、ごえんのろくさを喫す。

寒温苦楽愧慙時 寒温苦楽慙愧の時
耳朶元來両片皮 じだ元来両片ぴ
一二三兮三二一 一二三 三二一
南泉信手斬猫兒 南泉手にまかせてみょうじを斬る

肝冷斎先生訳(岩頭古帆の話の部分)
「古い帆を掛けるその前は、どんな状態だったんでしょう?」
古い帆さえまだ掛けられていない時期、というのは要するに何ものもまだ始まっていない、分別以前の世界
とはどういうものなのか、と質問したのであります。
「小さい魚が大きな魚を呑み込んでいたんじゃ」
と教え諭してくれました。

くま訳
修行僧が岩頭に問う。古い帆が、まだ掛けられる前(思慮分別が始まる前)はどうなのでしょうか?
岩頭いわく、小魚が大魚を飲み込むのである。(93の詩 参)
修行僧、更に問う。では、掛けた後(思慮分別が始まった後)はどなのですか?
岩頭いわく、それは、裏庭のロバが草を食むようなものである。

寒い、暑いという事実があり、それを苦しい、楽しいと、分別するようになり、更にそのことを恥ずかしいと思ったりもするのである。
聞く事は、口先のことに過ぎない。
123 321だ。あたりまえのことである。
南泉和尚にこの質問をしたら、猫の子の首をちょん切るだろう。

*岩頭:岩頭全豁(がんとう・ぜんかつ。828〜887 95の詩 参)
*後園驢喫草:当然のことを当然にする何の不思議も無いこと。
*耳朶:耳 *両片皮:口
*南泉和尚猫を切る(碧巌録):弟子たちが猫に仏性があるかを激論している、そのバカバカしさに腹を立て、
 子猫を切り殺したらしい。

一休の解説:寒温→帆を掛ける前からある事実
      苦楽、慙愧→掛けた後生じる分別・感情・思い
ここでは、事実と観念の説明に重点を置き、小魚大魚の件(分別以前の世界)は、スルーしたようである。(93の詩 参)           
(´・(ェ)・`)つ

786うんこまん:2020/07/04(土) 00:21:56 ID:b/R.LjPg0
.
      //
    / .人
    /  (__) パカ
   / ∩(____)    やぁ!
   / .|( ・∀・)_
  // |   ヽ/
  " ̄ ̄ ̄"∪

787鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/04(土) 00:38:17 ID:1d4drIFg0
古い帆がかかる前には小魚が大魚を呑み込んでいたというのじゃ。
小魚が大きな魚を呑める筈も無いのじゃ。
それは小さな存在が、全ての存在と同一であったという比喩なのじゃ。
個人の肉体が全ての宇宙を呑み込んでいたとも言えるのじゃ。
梵我一如とも言えるのじゃ。
帆がかけられたら智慧をも失い、ロバのように小さな世界の僅かな草を食べて生きるしかないのじゃ。

788避難民のマジレスさん:2020/07/04(土) 20:04:57 ID:z51mdFvw0
112
松源和尚三轉語 1/3       の三転語
大力量人甚擡脚不起     甚(なに)によってか脚をもたげ起こさるるか

商量鬼窟黒山禪 きくつこくざんの禅商量して
神力金剛現目前 しんりきの  目前にげんず
普天之下是王土 普天のもと是 
擡脚句中公案圓 脚をもたぐる    まどかなり。

くま訳
松源和尚の三転語(迷いを転じて悟りに至らしめる言葉)
(松源の禅風は看話と黙照の対峙を越えたものといわれるらしい)

大力量の人が、どのようにして脚をあげる(立ち上がる)のか。(黙照禅)

考えて言葉で答えを出そうとするのは外道の禅である。
最上の仏の力は、目前にあるのだ。
世界は全て王土なのだ。
脚をもたげると言う転語で語られる考案は、欠けるところのない良くできたもの(黙照禅の説明)である。

*転語:迷いを転じて悟りに至らしめる言葉
*黒山鬼窟(こくさんきくつ): 不浄な苦悩に満ちた山やおそろしい鬼などの住むほらあな。転じて、蒙昧
な外道(げどう)の世界のたとえ。仏道以外の邪悪な世界。
*松源崇岳(しょうげんすうがく<1132〜1202年>)南宋時代
*松源は、禅宗の看話禅及び默照禅に存在した不正行為を正すため、座禅の方法を改革した。その中で一番
影響力があって後の人に高く評価されたのが「松源二転語」。つまり、「開口不在舌頭上(口を開いて物を
言うことは単に口先だけのことではない)」、「大力量人,因甚抬脚不起(力の強い人が、なぜ足を上げな
いでいるのか)」という二つの転語(てんご)から、看話禅と默照禅をそれぞれ見た。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

789鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/04(土) 23:29:04 ID:1d4drIFg0
大力量の人がなぜ脚をあげることもできないのか、一休が答えを書いたのじゃ。
神力金剛は既に目前にあると言うのじゃ。
天の下は全て既に仏国土であるというのじゃ。
つまり既に大力量の人が足を上げているからそれ以上上げられないのじゃ。
衆生基より仏陀であるということじゃな。

790避難民のマジレスさん:2020/07/04(土) 23:54:45 ID:X/mJjzWc0
>>788 訂正
甚(なに)によってか脚をもたげ起こさるるか→起こさるざるか
どのようにして脚をあげる(立ち上がる)のか→どうすて立ち上がらないのか
>>788
鬼和尚、くまにも分かる解説をありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ

791避難民のマジレスさん:2020/07/05(日) 18:29:57 ID:JXZBdWr60
113
松源和尚三轉語 2/3
開口因甚不在舌頭上 口を開く、なにによってかぜっとう上にあらざる

三寸舌頭開禍門   の  か門を開く
河沙諸佛轉多言 がしゃの  うたたごん
夜來百勞五更目 やらい   五こうの
不柰聲聲崇夢魂 いかんともせずせいせいむこんにたたることを

ものを言う事は、口先だけ(言葉・観念に拘る)ことではない。(看話禅)

口先のおしゃべりは禍をまねく
あまたの諸仏は内実のある話をたくさんしている
(それを考えて)徹夜明けの明け方の目疲れには百労のつぼが効くのである
いろんな人たちの言うことが異なり、夢にたたられるようだ。

うむ。Kの言う所の、ありのままを見て、記憶と照合せずに得る、何かのことででありましょう。
d(´・(ェ)・`)b

792鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/05(日) 23:18:31 ID:1d4drIFg0
>>790 どういたしまして、またおいでなさい。

793鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/05(日) 23:26:40 ID:1d4drIFg0
口を開くのは舌先だけのことではないというのじゃな。
行いを伴わない言葉は災いを招くのみなのじゃ。
自ら実践して人に説くことが大事なのじゃ。
お釈迦様も自ら瞑想して人に説いたのじゃ。

794避難民のマジレスさん:2020/07/06(月) 20:45:13 ID:SI43rZr.0
114
松源和尚三轉語 3/3 
明眼衲僧因甚   みょうげんののうそうなにによってか
脚跟下紅絲線不断 きゃくこんかこうしせん不断なる

二三四七諸禪師 にさんししつしょ
領衆匡徒心乱絲 衆を領じ徒をただして心しをみだす
因銭有癖是和嶠 ぜにによってへきあるはこれ和けつ
娘生脚下血淋漓 にょうじょうきゃっかちりんり

くま訳
道理を良くわきまえている修行者が、
何で、子供の着物の裾上げの糸を切り取らないようなことをするのか。(何で言葉に囚われるのか)

達磨や六祖慧能は、
弟子たちを指導し導いて、心の糸を乱した
お金(言葉)の使い方に癖があるのは、和嶠のように倹約家を通り越してけちなのだ。
そのうち、娘が成長して初潮をむかえ、足元に鮮血がながれる。
(子供服の糸(言葉)に拘るのは、糸をほぐすのがもったいないというけちな癖みたいなものだなのだ。)

*二三四七諸禪師 六祖慧能と達磨をさすらしい。(理由はわからず)
*和嶠(わけつ):後漢末期から三国時代の魏にかけての人物。慎み深く典雅な重々しさがあり、名家で王
公にも擬せられるほど豊かだったが、倹約家を通り越し吝嗇な人代表。
(´・(ェ)・`)つ

795鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/06(月) 23:03:10 ID:1d4drIFg0
目利きの僧がなぜ足の下の赤いほつれの糸を切らないのかというのじゃ。
一休はそのような言辞は心を乱すのみというのじゃ。
目利きの僧が糸を切らないならばそれは糸ではないからというのじゃ。
朽ち縄が蛇ではないと気付くようなものじゃな。

796避難民のマジレスさん:2020/07/06(月) 23:46:10 ID:mFdeOFCE0
>>795
おぉぉぉ!!いつもありがとうであります。
目利きの僧は、錯覚しないのでありますね。
くまの訳だと、目利きの僧が、錯覚を強いてることになってしまうでありますね。間違いでありました。
(´・(ェ)・`)b

797避難民のマジレスさん:2020/07/07(火) 20:25:55 ID:3XBcSUME0
一休さん15歳、吟壇デビュー
115
春衣宿花    春衣して花に宿る
吟行客袖幾詩情 吟行の客袖幾ばくの詩情ぞ、  
開落百花天地清 開落百花、天地清し   
枕上香風寐耶寤 ちん上の香風、びか寤ごか、   
一場春夢不分明 一場の春夢、分明ならず。 

*寐(び):  ねる
*寤(ご):  目がさめる

二橋進先生訳
春衣して花に宿る
花見の晴れ着を着て、桜が満開のこの地を歩くと、詩情があふれ出す。
あちこちで 桜が花びらを舞い散らしている光景は、すがすがしい。
花の下に伏すと、その香に 包まれる。
うっとりとして、夢の中で見ているのか現でか、もう分からなくなっ た。

関西吟詩文化協会HP訳
花の香りのもとで、たのしみをつくした一時の思いにふける。
あっという間に散った百花の情。
家に帰って寝ころんでみたものの、
夢かうつつか、 まだ瞼に消えず、枕もとにかけられた衣から、その香りがただよってくる。

くま訳
お洒落をして、桜の下を歩くと詩情があふれ出す。
咲いて散る、桜舞う天地の清々しさ
枕辺の残り香は、眠りの中か、目覚めているのか
夢か現かわからない。

一休さんが建仁寺における修行時代の15歳の時につくった艶詩。笹倉秀夫先生によると、洛中で愛吟され
たそうである。
15歳にして人気作家である。
(´・(ェ)・`)つ

798鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/07(火) 22:49:10 ID:1d4drIFg0
>>795 そうじゃ、このような公案は気付くことを教えているのじゃ。
 気付きが多くなればいつか自分にも気付くことが出来るからのう。
 座る自分に気付くのじゃ。
 公案を案ずる自分に気付くのじゃ。
 そして無我に至るのじゃ。

799避難民のマジレスさん:2020/07/08(水) 20:23:56 ID:0cl365bM0
一休さんによる、師家養成講座
116
経巻拭不浄 三首 1/3 経巻不浄を拭ふ
経巻元除不浄牋 経巻は元より不浄を除く紙、
龍宮海蔵弄言詮 竜宮、海蔵、言詮を弄す。
看看百則碧岩集 看よ看よ百則碧眼集
狼藉乳峰風月前 狼藉たり乳峰風月の前

くま訳
経巻は元来不浄を拭い去るための書物・紙に過ぎない。
龍宮の書庫の宝物であるといった言説を弄して有り難がるべきものではない。
見て見て、百則、碧眼録に書いてあるよと、得意がっていても何もならん
むしろ、そのようなことは、碧眼録を残してくれた雪竇禪師に対する狼藉である。

*碧眼録:雲門宗の雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)が、唐代の禅者の伝記の中から百則の問答を選んだ
それぞれに頌のこと。宗旨を込めた漢詩をつけた『雪竇百則頌古』(せっちょうひゃくそくじゅこ)に圜悟
克勤(えんごこくごん)が前文と批評を加えたもの(1125年)
*乳峰:雪竇山の別名

うむ。一休さんは、経を詠んでも理解できない人のことを、心底残念に思っているようであります。
(´・(ェ)・`)つ

800鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/08(水) 23:33:37 ID:1d4drIFg0
経は心の不浄を除くための法が書いて在るのじゃ。
それを読んで心の不浄を払うことが大事なのじゃ。
徒に言辞をあれこれと解釈しても何の意味も無いのじゃ。
そのようなことは先達に対する狼藉ともいうべきことなのじゃ。

801避難民のマジレスさん:2020/07/09(木) 20:37:20 ID:4q82KXfA0
117
経巻拭不浄 三首 2/3
弓影客盃多断腸   かく盃多くはらをたつ
夜来新病入膏盲     かうくわうに入る
愧慙我不及禽獣 きざんす 我禽獣に及ばざるを、
狗尿栴檀古佛堂 くはねうす栴檀の

くま訳
古い書を読み誤ることが多いのはなんとも残念なことである。
夜来容易に直らない新たな病気を患っている。
畜生にも及ばない我が身の不徳を深く恥じ入り反省している。
犬が小便をする所になってしまった寺院である。

*杯弓蛇影: 杯中の蛇影 疑心暗鬼 して周章狼狽するたとえ。語源;酒杯に映った弓を蛇の影と 思い、恐ろ
しさのあまり病みついた人物の故事による。
*断腸:晉の武将、桓温が三峡を旅した時、従者が猿の子を捕えた。母猿は悲しんで岸を追うこと百余里、
ついに船にとびうつることができたが、そのまま息絶えた。その腹をさいて見ると、腸がずたずたに断ち
切れていたという故事
*膏肓(こう こう ・かうくわう):「膏」は心臓の下、「肓」は横隔膜の上。膏と肓の間に病気がはいり込む
と治療しにくく、容易に治らないという所。 → 病(やまい)膏肓に入る
*栴檀林(せんだんりん):寺院の異称。仏教寺院における僧侶の養成機関、仏教宗派の学問所

うむ。一休さんは、その誤解を解いてやれない、自分の師家としての力量不足を嘆いているのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

802鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/09(木) 23:47:28 ID:1d4drIFg0
病が多く慈悲が示せないことを嘆いているようじゃのう。
子を思って断腸した畜生にも及ばないというのであるからのう。
道場も荒れ果てたというのじゃ。
乱世でもあったからのう。

803避難民のマジレスさん:2020/07/10(金) 00:03:25 ID:4q82KXfA0
うむ。凄惨な情景が目に浮かぶであります。
(´-(ェ)-`)

804避難民のマジレスさん:2020/07/10(金) 20:53:08 ID:y27lq8Yo0
118
経巻拭不浄三首 3/3
信手拈來除不浄 手にまかせねんじ来たって不浄を除く
作家面目露堂堂 
南山雲起北山雨 南山雲起こり北山は雨
一夜落花流水香       かんばし

手にまかせねんじ来たって不浄を除く
作家面目露堂々
南山雲起こり北山は雨
      かんばし

自然にちょぴっと捻れば、不浄を除くことが出来るのである。
それが師家の面目を堂々とあらわすところであろう
南山に雲が出れば、北山に雨が降る(と雲門は)言うのだ。
一夜にして花を散らせた雨により花の香りでそこらじゅうが充たされる(と雪寶は)言うのだ。

*南山雲起北山雨:雲門露柱・・因縁を無分別心により見極める喩え。
*一夜落花流水香:宋の禅僧、雪寶智鑑(せっちょうちかん) 1105〜1192・道元の法祖父)の 「世尊有密
語,迦葉不覆藏。一夜落花雨,満城流水香」。『正法眼蔵』四十五「密語」世尊に密語有り,迦葉覆藏せず。
一夜落花の雨,満城流水香(かん)ばし。世尊(釈迦)には言葉にあらわしきれない教えがあった,それを
理解した迦葉は隠すことなく衆生に伝えた。ちょうどそれは一夜の雨が花をすっかり落とし,その水の流れ
によって花の香りが街じゅうに満ちるのと同じだ。(新ミュンヘン娘先生解説より)

うむ。一休さんは、師家の師家でありますね。
(´・(ェ)・`)つ

805鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/10(金) 22:55:03 ID:1d4drIFg0
迦葉が華を捻ったお釈迦様の真意を悟って教えを伝えたというのじゃ。
禅は迦葉を二代目教祖として広まったというのじゃ。
それを華が落ちて流れて香りが広まったと表現しているのじゃ。
風流なのじゃ。

806避難民のマジレスさん:2020/07/11(土) 19:15:20 ID:j5h71ERU0
一休堂々の弥勒宣言
119
擧靈山徹翁和尚末後之垂示以示徒。 霊山徹翁和尚のまつごのすいじをこして、もって徒に示す。
其垂示云。正法眼藏無付人。    其の垂示にいはく、正法眼藏に付する無し、
自荷擔至彌勒下生噫。       自らかたんして 彌勒下生に至る。ああ

古佛靈山名不虚      名虚しからず
當來彌勒是同居 当来の   是れ同ご
兒孫一箇狂雲子 児孫一個の狂雲し
邪法大興殃有餘    大いに興ってわざわひ余り有り


霊山徹翁和尚が最後の教えを弟子たちに説いた。
其の教えにいわく、正法眼蔵に付け加えることはない。
自ら引き受けて、弥勒菩薩の下生に、今すぐから備えなければならない。ああ〜

古仏霊山の名も虚しくない。
到来するといわれる彌勒は、実は既に一緒にいるのだ。
子孫の一人がこの狂雲なのだ。
邪法が幅をきかせて、わざわいがあまた起こりたいへんなのだ。

* 徹翁義亨てっとうぎこう1295―1369大徳寺1世
*下生信仰:勒如来の下生が(56億7千万年などの)遠い未来ではなく現に「今」なされるからそれに備えな
ければならないという信仰。戦国時代に、弥勒仏がこの世に出現するという信仰が流行し、「弥勒仏の世」
の現世への出現が期待された。
*噫(ああ):①強く感動したり、驚いたりしたときに発する語。 ②肯定・承諾の意を表す語。ええ。 ③
人に呼びかける語。④あいづちを打ったり、生返事をしたりするときに発する語。 ⑤おくび、げっぷ
*同居(どうご)居を同じくすること。凡夫も聖者も共に住むこと。また、その国土。浄・穢 (え) の二土
があり、西方極楽は同居の浄土、娑婆 (しゃば) 世界は同居の穢土とされる。
(´・(ェ)・`)つ

807鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/11(土) 23:47:31 ID:1d4drIFg0
一休は宗派には拘らないのじゃ。
正法眼藏に付する無しという遺言もよいものだというのじゃ。
既に弥勒は現われているというのじゃ。
悟りを得た如来は既に世に出て、一休もその一人というのじゃ。
ただ衆生が悟りを求めていなければ何の意味もないのじゃ。
邪法に惑わされて災いを招くのみなのじゃ。

808避難民のマジレスさん:2020/07/12(日) 21:22:27 ID:0xIm3.lY0
前スレhttps://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/ >>708 50〜59の詩 参
>>717 で言及した、徹翁義亨(大徳寺1世)の法語(くま訳なし)の後に、本日の詩。

(靈山徹翁和尚示榮衒徒法語)

凡参禪学道之輩須日用清浄。不可日用不浄。
所謂日用清浄者。究明一則因縁到無理會田地。
畫夜工夫不怠。時今截断根源。佛魔難窮處。
分明坐断往々埋名蔵迹。山林樹下。挙場一則因縁
時無難純一矣。謂之日用清浄人也。然而称善知識
擎杖拂集衆説法。魔魅入家男女。心良名利招学者於室中。
道悟玄旨。使参者相似模様。閑言語使教者。
片箇情也。這輩輩非人也。寔日用不浄者也。
似佛法爲度世之謀。是世上榮衒之徒也。凡有身無不着。
有口無不食。若知此理。豈衒於世哉。豈諛於官家哉。
如是之徒。三年六十劫。入餓鬼入畜生。可無出期。
或生人間。受癩病苦。不聞佛法名字。可懼可懼。

右靈山徹翁和尚示榮衒徒法語題其後云

(靈山徹翁和尚示榮衒徒法語)

およそ参禪学道のともがらは、すべからく日用しょう浄なるべし、日用不浄なるべからず。
いわゆる日用清浄とは、一則の因縁を究明して、無理えの田地に到って、
昼夜工夫を怠らず、時々に根源を切断して、仏魔もうかがい難きところ、
分明に坐断して、往々に名を埋め跡をかくし、山林樹下に、一則の因縁をこ揚し、
時に無雑純一なり、これを日用清浄の人というなり。然り而してわれは善知識と称して
杖ほつをささげ、衆を集めて法を説き、人家のなんにょを魔みし、心に名利を好んで学者を室ちゅうに招き、
玄旨を悟らしめんといふ。参ぜしむる者、相似模様の関言語、教へしむる者、
片個の情なり。しゃはんのともがらは非人なり、まことに日用不浄のものなり。
仏法を以って渡世のはかりごとと為す、これ世上の栄げんの徒なり。およそ身あれば着ずということ無く、
口あればくらはずといふなし。若しこの理を知らば、あに世にてらわはんや、あに官けにへつらはんや。
かくのごときの徒は、三しょう六十ごう、餓鬼に入り、畜生に入りて、出ご無かるべし。
或いは人間に生るるも、らい病の苦を受け、仏法の名字を聞かず。おそるべし、おそるべし。

右靈山徹翁和尚、榮衒の徒に示すの法語、其後に題すと云ふ

* 徹翁義亨てっとうぎこう1295―1369大徳寺1世の法語
仏法を以って渡世のはかりごとと為す(仏法を名利追求の道具にする)者のことを、「日用不浄の者」というとし、
餓鬼畜生に落ちるか、「受癩病苦」・・・という

120
工夫不是涅槃堂     これ涅槃堂にあらずんば
名利輝前心念忙   前に輝いて  忙し
信道人間食籍定 いふことを信ず    の定
羊糜一椀橘皮湯  羊び一椀きっぴとう

くま訳
仏道修行は、涅槃へ行くためのもの、死を見据えたものでなければ、
利害や名誉が前に出て、心がみだされてしまう。
人間の食籍(食って行けるか)は前世から定まってると信じるのだ。
一椀の粥と漢方薬をとってっれば充分生きてゆけるのだ。
(´・(ェ)・`)つ

809鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/12(日) 21:37:54 ID:1d4drIFg0
霊山もなかなかよいことを言うのう。
名利を好んで学者を招いて玄旨を悟らしめんというのは、不浄であり人でなしとまでいうのじゃ。
昔もそのような学者の言葉を信じている者が居たのじゃな。
己の心の内に因縁を究明することが清浄というのじや。

810避難民のマジレスさん:2020/07/13(月) 20:36:54 ID:I6SFs6uk0
121
元正      げんしょう
現成公案任天眞   の  天真に任す
鳳暦開元世界春 ほう暦げんを開く世界の春
今日山僧換却眼 こんにちさんぞうまなこをかんきゃくす
堂中古佛面門新        あらたなり

くま訳
元旦
現成公案とは、は天真(諸法の本然の姿)に任せるということである。
元旦である。世界の春である。
今日、山寺の僧は、ありのままを見て悟りを開くのである。
お堂の古仏の顔も新しいように見えるのである。

*現成公案:現象界のすべてそのままが悟りの現れ=仏道
*眼睛換却:正法眼蔵第六十四巻優曇華「瞬目とは、樹下に打坐して明星に眼睛を換却せしときなり」
*元正:元旦
*鳳暦開元:元旦
*天真独朗:無相の一念に悟入すれば、生死の別を離れ宇宙朗然とし、凡身そのままに大覚の域に達すると
いうこと。天真とは諸法の本然のすがた
 「寶鏡三昧」「天眞而妙 不屬迷悟」 天眞は天然自然と云う意味にして、純一無雑なる境界を云う。
(´・(ェ)・`)つ

811鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/13(月) 22:52:13 ID:1d4drIFg0
一休の悟りの境地じゃな。
現生公案とは本来の意識に還ることだったのじゃ。
それに拠って全ては開かれた春が訪れたのじゃ。
自らの意識が変わることで古仏の面目も一新されたのじゃ。
それも大悟して法を理解したからなのじゃ。

812避難民のマジレスさん:2020/07/14(火) 21:16:43 ID:Q5SRQyNQ0
おまけとして、坐禅儀。
122
警念起所      念の起所をいましむ
公案工夫暮与朝     ぼとちょうと  
山堂夜々雨蕭々     あめせうせうたり 
地獄猛火百万劫    みょうくわびゃくまんごふ
満腹詩情幾日消   の  幾にちかしょうせん
 
Didier, DAVIN訳
一日中公案の事を考えても、
詩を作りたい気持ちが治まらない。
そのせいで地獄に落ちる。地獄の火は百万劫も続くが、
心にある詩情は何日燃え続くのであろうか。

くま訳
思念の起こるところ
明けても暮れても公案の工夫  
山堂には毎晩雨が寂しくシトシトと降る   
(なのに)地獄の猛火はいつ迄も燃え  
胸一杯の詩情はいつ消えることやら

*警念起所:参) 坐禅儀
寛放臍腹      寛(ひろ)く臍腹(せいふく)を放ち
一切善悪 都莫思量 一切の善意すべて思量することなかれ。 
念起即覚 覚之即失 念の起こらば即ち覚せよ、これを覚すれば即ち失す。 
久久忘縁 自成一片 久々にして縁を忘ずれば自ずから一片となる。
此坐禅之要術也   これ坐禅の要術なり。

リンク集 Hp名不明 訳
下腹をゆったりさせて、およそ善悪というものを思慮しないことだ。
念が起こったら、直ちに目覚めよ。目覚めれば、直ぐに念はなくなる。
久しく精神を統一して、外縁を忘れていくと主観と外観とが一つになって「禅定三昧」になる。
これが坐禅のもっとも大切な方法である。

垣堺玄了老師解説
「念起即覚ねんきそくかく、覚即失かくそくしつ」とそのまま読めば、念の起こるその者が覚者、悟るもの
であり、覚というのは即ち捨てること、失であると読めます。つまり、昨日もだめ今日もだめという念の起
こるその人が覚者だぞ、その念が去った時そのまま覚者だということです。これは理屈のように聞こえるか
もしれませんが念の起こるその者が仏だから修行が成就するのです。

くま訳
臍のちょぴっと下辺りをゆったりとさせるようにして、
一切の善悪等、分別思量しないこと。
思いが生じたら、それに即気づけ、気づいたら即消えるのである(ここまで「止」の行)
ある程度の時間集中して、雑念が消え、忘我からサマディ-の境地に至る。(三昧の境地へ到達)
これが、坐禅の法である。

うむ。一休さんは、念が起これば、それを詩文に起こして、昇華させるのでありますね。
これは、ある意味、起こった念を、明確に意識して、消し去る方法とも言えるでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

813鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/14(火) 23:48:00 ID:1d4drIFg0
↑そうかもしれん。
誰にでもできる法ではないがのう。
詩の才能がなければ無理なのじゃ。
一休は稀に見る詩才があったのじゃ。

814避難民のマジレスさん:2020/07/15(水) 19:30:29 ID:7v7pGZw.0
123
一休さん、悟った時の思い出。
聞鴉有省      あを聞いて省あり
豪機瞋恚識情心   しんい識情の心 
二十年前在即今    ぜん即こんにあり
鴉笑出塵羅漢果 あはわらふしゅつじんのらかんか     
奈何日影玉顔吟 にちえい玉顔の吟をいかんせん 
 
くま訳
カラスの声を聞いて大悟した件に付き省みる
傲慢な思いや怒り、迷情に苦しんだ
二十年前が、つい今し方のようである。
カラスのカーという笑い声を聞き、目覚めてみれば、穢れは消え去り、阿羅漢の悟りをえたのだ
輝く朝日のなかにいるような、晴々しい思いいっぱいの詩を、さて、どうしたものか。

一休さん悟後の修業もおわり、大悟徹底して、悟ったこともどうでも良くなった心境でありましょうか。
前スレhttps://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/ >>887 84の詩とほとんど同じである

*識情;事物を識別することと感情。総じて迷情による心のはたらきをさす。
(´・(ェ)・`)つ

815避難民のマジレスさん:2020/07/15(水) 19:33:10 ID:7v7pGZw.0
訂正
カラスの声を聞いて大悟した→悟った
(´・(ェ)・`)b

816鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/15(水) 23:50:09 ID:1d4drIFg0
カラスの声を聞いてかえりみることできたというのじゃ。
かえりみるということが自分を見ることなのじゃ。
一休はカラスの声をきいたことがきっかけで自らをかえりみることができたのじゃ。
省みることは自らに気付くことなのじゃ。

817避難民のマジレスさん:2020/07/16(木) 20:00:33 ID:y0myHUlI0
一休さん大悟徹底の心境か?
124
少年道心老來失 二首 1/2 少年の  ろうらいしつす
五十年前大道心    ぜん大道心
來生未隔巳忘今 らいしょういまだ隔てず すでにこんを忘ず
朝得夕死立地佛 あしたに得て夕に死すとも立地ぶつ
一旦廻心百煉金  心を廻らせば百れんの金

少年の頃の道心は、老いて失った
50年前、真理を見極めよう、悟ろうと志をたてた。
未来(来世)は今と隔てがない。そして、今は既に忘れ去られる過去の中にある。
朝真理を聞くことができれば、その日の夕方に死んでも悔いはない(と思った)。
日常的な心のありようを翻せば、真の心の宝とも言える価値を見出せるのだ。

*朝聞道夕死可矣(参):あしたにみちをきかばゆうべにしすともかなり
*廻心(えしん):日常的な心のありようを大きくひるがえし宗教的な真実へと方向を変えること。
(´・(ェ)・`)つ

818鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/16(木) 23:00:39 ID:1d4drIFg0
昔は堅固な道心をもっていたというのじゃ。
もはやなくなったというのじゃ。
朝に悟れば夕べに死んでも善いとさえ思ったのじゃ。
そして一旦心を外から内に廻らせば悟りはそこにあったのじゃ。

819避難民のマジレスさん:2020/07/17(金) 20:31:23 ID:.xUJoNTU0
125
少年道心老來失 二首 2/2
失卻悟徹捴閑事 悟徹を 失却して総て閑事
去劫來劫又如此 きょごうらいごう又かくのごとし
金鍮正邪佛難分 きんちゅうしょうじゃぶつもわかちがたし
聞説佛魔隔一紙 聞くならくぶつ魔いっしを隔つ

くま訳
大悟徹底するとことを忘れると、総てが無用なこととなる
悠久のときの中、全てはありのままだ。
真鍮か金か、正か邪か、仏も区別できない
聞くところによると、仏と魔は紙一重の違いだそうだ。

*失却:ものをなくすこと。また、忘れること。

*閑事:( 無門関第十九則)↓参照
春に百花あり、秋に月あり、夏に涼風あり、冬に雪あり、
若もし閑事かんじの心頭しんとうに掛かかる無くんば、
便すなわち是れ人間じんかんの好時節   
  
曹洞宗   京都 亀岡 曹洞宗HP 解説
春には花が咲き、秋には明月が天にかがやく、暑い夏には涼しい風が吹き、冬には雪がさえざえとしている。
春夏秋冬いつでも好時節である。「閑事の心頭に挂る無き」とは、晴れわたった大空のような本来清浄な心
境をいう。

人間のくだらない考えを差しはさまなければいつも好時節です。「ありのまま」「そのまま」の心が「平常
心」だといっても、妄想や分別心を払いのけ、閑事すなわち実生活に役立たぬ事を断ち切ることが条件です。
すなわち仏道とは容易なものではない。

820鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/17(金) 22:53:49 ID:1d4drIFg0
もはや悟りも忘れてしまったというのじゃ。
忘中の忘、悟中の悟なのじゃ。
弓の名人が弓を忘れたようなものじゃ。
行くことも去ることも無い如来なのじゃ。
差別無ければ無為なのじゃ。
傲慢に拠って天魔に陥ることも無いのじゃ。

821うんこまん:2020/07/18(土) 09:29:22 ID:b/R.LjPg0
      //
    / .人
    /  (__) パカ
   / ∩(____)    やぁ!
   / .|( ・∀・)_
  // |   ヽ/
  " ̄ ̄ ̄"∪

822避難民のマジレスさん:2020/07/18(土) 15:39:49 ID:U9p6ScNE0
126
山中得南江書  山中に南江の書を得
孤峰頂上草菴居 孤峰頂上草菴の居
三要印消功未盧 三要印消して功夫だ盧(むな)しからず
不意玄中有玄路 意はざりき玄中に玄路有らんとは
萬行裏涙一封書 万行涙を裏(つつ)む一封の書

野毛孝彦先生 解説
ある時、南江から寄せられた一通の手紙を見、相国寺の首座和尚の地位を捨て、還俗後、孤峰の頂上の草庵
に寓した彼が、自分も知らない「玄」(玄妙なる真理)の中の「玄路」「深奥の玄」の境に更に達した事を
知って賛嘆し、その人となりに思いを通わす一行ごとの文に涙をもって読むと詠じたもの

くま訳
山中で南江からの手紙を受取った
孤高の道を歩み、草庵に住まう。
還俗して寺の修行法を離れたが、境地はますます深まっている。
わしも知らない、玄妙なる真理、深奥の玄の境地に達していることを知り、
手紙の全ての言葉に、涙があふれる。

*南江宗沅(なんこう そうげん)1387-1463僧,五山文学者。一休を師として参禅に励むかたわら、堺で
ともに遊んだ。
*孤峰: 徒党を組まずに一人で独自の道を歩むすぐれた人。
*三要印:臨済宗為人の機関。第1,2,3要、第1,2,3玄
     機関禪:「機(=学人の能力)に対して関を設ける禅」修行僧達を悟りに導く手段を段
         階的に定めたものであり、段階性を強い形で示されるもの。(道元は、批判・
         否定しているらしい。)
(´・(ェ)・`)つ

823鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/18(土) 22:55:20 ID:1d4drIFg0
一休にも還俗した仲間が居たのじゃな。
そして共に大悟徹底の境地に邁進したというのじゃ。
実に稀有なことじゃ。
観念遊戯と化した三要印等は捨ててよかったというのじゃ。

824避難民のマジレスさん:2020/07/19(日) 21:50:08 ID:lyY6c8gM0
127
楽中苦
此是瞿曇曾所経 これはこれぐどんのかつて経し所
麻衣草座六年情 まえそうざ  の情
一朝點檢将來看 一朝点検し、もち来たって看れば
寂莫霊山身後名 せきばくたり りょうぜんしんごの名

くま訳
楽中苦
これは、悟りを開く前の釈迦(ゴータマ)が、通ったてきた道である。
(菩提樹の根元で)坐禅する前の苦行六年のことである。
坐禅して、一朝大悟したのである
霊鷲山は釈迦説法の地として、寂寞として、其の名を今に残すのである。

*瞿曇〔梵 Gautama〕仏教の開祖釈迦の姓。ゴータマ。悟りを開く前の釈迦。瞿曇弥(くどんみ)。
*霊山:霊鷲山(りょうじゅせん)の略称。釈迦仏が『無量寿経』や『法華経』を説いたとされる山
(´・(ェ)・`)つ

825鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/19(日) 22:56:33 ID:1d4drIFg0
修行の道はかつてお釈迦様も通ってきた道であると言うのじゃ。
苦行をやめて座り続けて悟ったのじゃ。
そして二千五百年も名を残したのじゃ。
というような意味じゃな。

826避難民のマジレスさん:2020/07/20(月) 22:51:14 ID:uLoVuJFE0
128
祝聖         祝しん
海内太平便現前 海だい太平即ち現前
清風明月碧雲天     へき雲の天
萬年七百高祖行   しち百高祖の行
看看天龍正覚禪  看よ看よ天龍しょうがくの禪

くま訳
祝聖
天下太平であれ、ありのままの全て。
清風明月碧雲天
七百年前に高祖から伝えられた禪はこれから万年も受け継がれてゆくであろう。
看よ!天龍に守られ、仏の悟りをもたらす禪を

*祝聖(しゅくしん)祝聖 禅宗の寺院で、天皇の寿命無窮を祝い祈ること。天皇誕生日および毎月の1日
と15日に行う。
*七百高祖行:達磨が中国に禪を伝えたのが5―6世紀、日本に伝来したのが13世紀頃らしいので、700
年かなと愚考した。
(´・(ェ)・`)つ

827避難民のマジレスさん:2020/07/21(火) 19:56:59 ID:hp0r5VXk0
129
東坡山谷同㡧   とうばさんこく同たう
海内文章汝面前 海だいの  汝が
誰知鍛煉獨天然 たれか知る鍛錬独り天然
説法上堂法堂上 説法上堂はつたうの上
如來禪與祖師禪 如来禅と祖師禅と

くま訳
東坡、山谷の書画が、一幅の掛軸にある。
天下の名文が、目前にあるのだ。
誰も知らないのだ、鍛錬とは独りでするのが当たり前であることを。
説法は法堂(はっとう)の上で行うが、法堂の上には法があるのだ。
如来禅と祖師禅の法があるのだ。

*東坡(とうば):蘇軾東坡1036‐1101年  北宋の詩人、政治家
*山谷(さんこく):黄庭堅 1045‐1105年  北宋時代の書家・詩人・文学者
 不遇の役人生活をしながら、参禅に、芸術にいそしみ、詩文のやり取りをとおして思想、心境を深めて 
 いった。二人は一休さんの心の師匠かも。
*同㡧:(同とう)2人の詩人の書画が一幀(ちょう・・装丁)の内にあること。
*如来禅:①如来が実践する禅法。楞伽経(りようがきよう)に説かれる四種禅の一。(大辞林)
 ②達磨だるまの伝えた正系の禅。圭峰宗密(けいほうしゆうみつ)が分類した五種の禅のうち、最上のも 
 の。のちの禅宗では自己の禅を祖師禅と呼び、不十分な禅の蔑称として如来禅の語を用いた。如来清浄禅
*祖師禅:達磨だるまの禅宗のこと。また、六祖の慧能の系統の禅(南宗禅)をいう。(大辞林)
*この辺の分類は、論者により、まちまちである。どうでもよいよいのでありましょう。
 一休さんは、黙照禪よりも、悟りに導く修行法として優れているのは、説法や公案指導など、師家の指導
 による風流な禪(看話禪?)であるとしている詩が、147・148 で詠まれているのである。お楽しみに 
(´・(ェ)・`)b 

*おまけ;三聖吸酸:儒教の蘇軾、仏教の仏印、道教の山谷(黄庭堅)・・酢が酸っぱいという事実は皆同
 じであり、儒教、仏教、道教など、宗教や思想が異なっているとしても、真理は一つであるという意味。

828鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/22(水) 00:38:51 ID:1d4drIFg0
犀の角のように独りで歩めとお釈迦様も言っているのじゃ。
独りでいてこそ自分の本心が自分に現われるのじゃ。
他人が居ては仮面を被るからのう。
犀の角のように独り歩むのじゃ。

829避難民のマジレスさん:2020/07/22(水) 20:20:43 ID:dinx1qu20
130
再來隔生即忘    かくしゃうそくばう
講経大士喚爲誰 かうきんのだいしよんでたれとか為す
弥勒當來之導師   たうらいの
爈鞴鈍鐵出生鐵 ろはい鈍鉄しゃう鉄を出だす
利劍鈍刀鐵不知     鉄知らず

くま訳
生れ変れば前世のことは全て忘れてしまうのである。
経を講じたのは誰であるとかとなす。
弥勒菩薩が到来して衆生を導くというのか。
師家がなまくらなら、鈍らな鉄しか生れない。
法の力を及ぼせる真の師家であるか、鈍ら坊主であるかを、修行者は知らないのだ。
(鋭利な刀剣になるか、鈍ら刀になるかは、師家次第である)

*大士:① 菩薩の異称。論主(ろんじゅ)② 如来を敬っていう語。③ 大菩提心をおこした人。道心堅固
な僧を敬っていう語。
*爐鞴(ろはい):鍛冶屋、師家の室内(碧巌録・信心銘)
*利剣:鋭利な刀剣。煩悩(ぼんのう)や悪魔を打ち破る仏法の力の意
*鈍刀:なまくら刀
(´・(ェ)・`)つ

830避難民のマジレスさん:2020/07/23(木) 00:32:56 ID:b/R.LjPg0
>>828
おい!猿!

阿頼耶識の件、またまた瞬殺されて逃走か?

wwwww

831鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/23(木) 00:33:27 ID:1d4drIFg0
再生したら全て忘れてしまうのに弥勒を待っていても仕方が無いというのじゃ。
遠い未来にしか来ないのであるからのう。
とはいえぼろい炉からはよい鉄が出来ないように、師匠が駄目なら弟子もものにならないというのじゃ。
鉄がよい剣になれるかどうか知らないように、弟子も善い師匠の導きがなければ迷うばかりなのじゃ。

832避難民のマジレスさん:2020/07/23(木) 00:35:04 ID:b/R.LjPg0
>>831
おい!猿!

阿頼耶識の件、またまた瞬殺されて逃走か?

wwwww

833避難民のマジレスさん:2020/07/23(木) 00:37:30 ID:b/R.LjPg0
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馬鹿じゃねーの?
                       頭悪そうwwww
  心療内科逝けよwwwww
                     生きてて楽しい?
    知育障害?
                        恥ずかしーwww     

まじキモ―!    ,, -──- 、._    智慧の声が聞こえた?
        .-"´         \.
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        :/   o゚((●)) ((●))゚oヽ: 
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      :` 、       `ー'     /:   仏教向いてないよ、お前w 
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834避難民のマジレスさん:2020/07/23(木) 21:18:14 ID:tjv95wwU0
一休さん、動乱を予言?
131
題密庵和尚病起上堂後 密たん和尚病き上堂の後に題す
江山富貴是樵漁    かうざんの富貴これせうぎょ   
風雨吟身一草廬        一さうろ
七顛八倒衆生苦        衆生の苦
不耐小魚呑大魚    耐へず小魚大魚を呑む     

くま訳
密たん和尚が病が治り上堂後と題して、
国の富貴は、海山、様々な仕事をする人たちにより支えられている。
風雨を詩に詠み暮すわしは粗末な庵に住む。
衆生の暮らしは七顛八倒、大変苦しいものである。
苦しみに耐えられず、小魚大魚を呑むことが、実際に起こることもあるのである。

*病起:病から起きて・病が癒えて後
*密庵咸傑(みったんかんけつ):1118-1186南宋の臨済宗揚岐派の高僧。法語『密庵咸傑墨跡』 (国宝)  
 が日本に請来され,大徳寺の竜光院に伝わる。この掛幅のために,その茶室密庵席に密庵床が設けられた。
 墨跡の内容は、修行する上での心得を説き「長く修行を続けることができれば、夢にさえ見たことのない
 素晴らしい境涯が開ける」と記されてるとのこと。
*江山:川と山,国土,国家,国の支配権
*樵漁(ショウギョ):木を切ることと魚を捕ること。木こりと漁師。転じて、庶民。隠者の意味で使うこ
 ともある
*草廬(そうろ): 草ぶきの粗末な家。 自分の住居をへりくだっていう語。
(´・(ェ)・`)つ

835避難民のマジレスさん:2020/07/23(木) 22:19:36 ID:b/R.LjPg0
1.漢文
 是無覆無記 触等亦如是
2.読み下し文
 是無覆無記なり。触等も亦た是の如し。
3.翻訳(中公文庫版71p)
 その(アーラヤ識)と一体になって存在している感情は、全く平静(なる感情)(捨)であって(楽でもなく苦でもなく)、
 そうしてその(アーラヤ識そのもの)は(倫理的に)無性であってかつ(根本無知などにも)覆われていないのである。

漢文の文章は非常に短くとも様々な意味がその中に含意されているんですよ。
さて、

>一体となっている感情が
 阿頼耶識が所縁によって見分と相分に分析されて感情になるって事で、両者の関係は非異非同って事です。

>全く平静(なる感情)(捨)であって(楽でもなく苦でもなく)、
 その所縁によって種子から現ぜられた相分である感情が、平静と見分されているんです。
 平静、つまり楽でもなく苦でもなくって事ですが、これは分別をしていない見分が現じられている、則ちこれが現量でしょ?

ここで、現量の定義と照らし合わせると

  直接知覚。現前にある対象の非言語的な認識。
  任運にして無分別なり
  諸分別の行解を離れて任運の境の事相に敵う
  境に任せてこれを縁ずる

上記とまさに合致してると思いますけどね。

上記を要約すると、境に任せてこれを縁じて無分別にして事相に敵うとなるでしょが、阿頼耶識が境に任せて、つまり所縁に依って見分と相分に分析されて、無分別、平静(楽でもなく苦でもなく)であると。

836鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/23(木) 23:18:15 ID:1d4drIFg0
>>835 おい!猿!

阿頼耶識の件、またまた瞬殺されて逃走か?

wwwww


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馬鹿じゃねーの?
                       頭悪そうwwww
  心療内科逝けよwwwww
                     生きてて楽しい?
    知育障害?
                        恥ずかしーwww     

まじキモ―!    ,, -──- 、._    智慧の声が聞こえた?
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837鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/23(木) 23:20:02 ID:1d4drIFg0
>>834 そうかもしれん。
 すでに戦国時代になる前からいろいろ騒乱は起きていたからのう。
 宗派の闘争などもあったのじゃ。

838避難民のマジレスさん:2020/07/23(木) 23:40:09 ID:b/R.LjPg0
>>836
あーあーww

壊れて自問自答か…

839避難民のマジレスさん:2020/07/24(金) 21:09:37 ID:zr.JxX7M0
132   1/2
岐岳和尚龍寶山住院時、     ぎがく和尚龍宝山住院の時、
請御所喝食、          御前喝じきを請ひ、
於看雲亭夜夜酒宴。       看雲亭に於ひて夜々酒宴す。
因一休和尚相看、        因みに一休和尚相看す、
岐岳、問一休和尚曰、      岐岳、一休和尚に問うて曰く、
汝於老僧境界知耶不知。     汝老僧が境界に於いて知るや知らずや。
答曰知。            答へて曰く、知る。
問曰、試挙看。         問うて曰く、試みにこせよ看ん。
答曰、茂陵多病後。猶愛卓文君。 答へて曰く、もりょう多病ののち、猶ほたくぶん君を愛するがごとし。
岳大笑絶倒、随後打曰。     岳大笑絶倒して、しりへに随って打って曰く、
請為老僧題無住榜。       請ふ老僧が為に無住ぼうを題せよ。
休便題曰、           休即ち題して曰く、

龍寶禪翁活眼睛  龍宝の禅翁活眼睛
孤明歴歴磊苴名  孤みょう歴々らその名
黄金詞賦文君恨  黄金の詞賦文君が恨み
師笑茂陵空薄情  師は笑ふもりょうくうはくの情

柳田聖山先生 解説・訳
岐岳和尚、夜々酒盛りをする
応永三十一年(1424)、一休、三十一才の時の事である。
大徳寺二十一世岐岳妙周にまつわる次のような話が伝わっている。
岐岳和尚は崇福寺四十三世のとき、大応国師(南浦紹明)が残していた杖を持って大徳寺にのぼり、大応の後身を自任していた。
竜宝山の住職になると、毎夜のように、方丈の南東にあった看雲亭で若い衆を呼び寄せて酒盛りをしていた。
ある時、一休が呼ばれた。和尚は一休に尋ねた。「おまえはこの老僧の心境が判るか」。一休は答えた。
「判ります」。すると「ためしに言ってみろ」と和尚は問いかけた。「前漢の詩人司馬相如は多年病に悩ん
でいましたが、妻卓文君だけは手放そうとはしませんでした」と一休は応じた。和尚は満足げに笑った。
そこで和尚は一休に、頂相(禅僧の画像)に添え書きの賛を所望した。そこで、一休は次のように書きとどめた。

さすがに大徳寺の老僧の目はきらきらと輝く。
竜宝山歴代の評判は偏に武骨で有名ですが、
黄金百斤を貰って詩文で皇后の失寵を詰るとは
老師も御存じ、相如は粋ではありませんか。

くま訳
龍宝山住院の目が輝く
個々が光り輝き、ごろごろと石の詰まった袋のような人だ
皇后から頼まれて、黄金百斤で、武帝に対する恨みの詩を書いた詩人の話を
聞いて、老師も笑う、武帝は墓に入っても、きっと薄情な人のままであろう。

*孤明歴々:個々それぞれが輝くという意味
*磊(ライ):石がごろごろしているさま。「磊塊」 ②心が大きいさま。おおらか。
*詩賦(しふ)中国の韻文
*茂陵(もりょう)前漢の武帝の墓
*司馬相如(前179-117)は、前漢の文人で、「子虚賦」が機縁で武帝に召されて宮廷詩人として仕えた。富豪の娘卓文
 君との恋愛話は著名である。
 相如が武帝の皇后陳氏より黄金百斤を貰って、帝の失寵を怨む長門譜を書いた。陳氏は、黄金とともに、 
 相如夫妻に酒を贈ったと伝えられている。

実は、そのころ一休は、画賛を依頼され、何がしかの生活費を稼いでいたとも言われている。
一休さんはこの岐岳の酒宴に集まる僧たちを軽蔑していたのである。明日の詩でそれを詠んでいる。
(´・(ェ)・`)つ

840鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/24(金) 23:02:06 ID:1d4drIFg0
当時の坊主は普通に酒盛りをしていたようじゃのう。
乱世とはいえ酷いものじゃ。
信長に焼かれるのは当然なのじゃ。
今も葬式で金を受け取る破戒僧ばかりであるがのう。

841避難民のマジレスさん:2020/07/25(土) 17:41:11 ID:b/R.LjPg0
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馬鹿じゃねーの?
                       頭悪そうwwww
  心療内科逝けよwwwww
                     生きてて楽しい?
    知育障害?
                        恥ずかしーwww     

まじキモ―!    ,, -──- 、._    智慧の声が聞こえた?
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842避難民のマジレスさん:2020/07/25(土) 18:31:33 ID:9oI8Iaow0
133   2/2
高亭膓斷夜参僧 かうてい腸断すや参の僧
歌舞花前酒若澠 花前に歌舞して酒びんのごとし
長老雲門塔下逆       の逆
眞前雲雨五更燈 しんぜんの雲雨五更のともしび

くま訳
看雲亭に夜毎集まる僧たちは、真に残念な者たちである。
花見をしながら歌い舞い、酒に溺れる。
岐岳長老の下に集まる僧は大燈國師の真逆である
雲門庵のまん前でまぐわう、明け方の灯

*澠(びん):川の水、→酒量が多いこと
*大徳寺・雲門庵:大燈國師の墓所

134
偶作
餓鬼苦多也畜生    多しまた
人家魔魅長凡情 じんか  凡情を長ず
飢渇病苦五噎患 きかつ  五いつの患
邪師知識野狐精   の  やこ精

くま訳
たまたま出来た詩
餓鬼の苦が多い、又畜生の苦
人をたぶらかし、下衆な感情を助長する。
飢え渇き、病に苦しみ、呼吸器の病を患う。
邪師の知識は、野狐の魂によるものだろう。

*餓鬼:六道の1つ。常に飢えと乾きに苦しみ、決して満たされることがない。
*畜生道:六道の1つ。悪業の報いとして死後に生まれ変わる世界。人間として許し難い行為・生き方や、 
 肉親間の色情を意味する
*魔魅(まみ):人をたぶらかす魔物。また、邪悪な人のたとえ。
*五噎患:噎气、忧噎、食噎、劳噎、思噎(中国語翻訳サイトより)
 噎气:息が詰まり、話せないこと
 忧噎:心臓、手、足の下でズキズキし、悪寒を
 食噎:食物が喉をふさいだり、食道の最初の狭い部分に詰まったり、誤って気管に入ったりして呼吸窒息 
 を引き起こすことを指します。
 劳噎:陰と陽の不調和、怒りが原因。胸部の完全な詰まり、背中の痛み。
 思噎:考えること、心臓がドキドキすること、忘れること、見ること(目)これはすべて不安と怒りであ
 り、胸部の寒さによっても引き起こされます
 (´・(ェ)・`)つ

843鬼和尚:2020/07/25(土) 23:59:19 ID:1d4drIFg0
邪師の知識は、野狐の魂によるもの
一休の言うとおりなのじゃ。
臨在坊主のいかれた有様は>>841 で自ら表現しているのじゃ。
今に続く邪師の伝統なのじゃ。

844避難民のマジレスさん:2020/07/26(日) 00:08:34 ID:b/R.LjPg0
>>843
で、僧侶じゃないのになんで僧侶って嘘つくの?

845避難民のマジレスさん:2020/07/26(日) 00:43:25 ID:SI43rZr.0
>>843
841くんは、ただの粘着荒し君ではありますまいか?
やめられずに苦しんでいるのでありますまいか?
坊主どころか、仏教徒でもありますまい。
むしろ、アンチ臨済でありましょう。

841くん、心を鎮めるのである。
自分の思いを見つめるのである。
全書き込みを読み返すのである。
人に天に羞じずに生きるのだよ。
(´・(ェ)・`)b

846避難民のマジレスさん:2020/07/26(日) 18:10:48 ID:6kL7WP160
大切なことを言っている、けど、最後に一言言いたい一休さん
135
白居易問鳥窠和尚、     白居易ていくわ和尚に問ふ、
如何是佛法大意。      如何が是れ仏法の大意。
窠曰、諸悪莫作、衆善奉行。 くわ曰く、諸悪莫作、衆善奉行。
白曰、三歳孩兒也解恁麼道。 はく曰く、三歳のがい児もまたいんもにいうことを解す。 
窠曰、三歳孩兒雖道得、   窠曰、三歳の孩兒もいいうると雖も、
八十老人行不得。      八十の老人も行ふことを得ずと。
霊山和尚毎曰、       りょうぜん和尚つねに曰く、
若無鳥窠一語、       若し鳥窠(ちょうか)の一語無くんば、
我徒盡泥乎本來無一物、   我が徒ことごとく本來無一物、
及不思善不思悪善悪不二、  及び不思善不思悪、善悪不二、
邪正一如等語。       邪正一如等の語になずんで、
以撥無因果。        以って因果をはつむし、
而世多日用不浄之邪師也。  而して世多く日に不浄の邪師を用ひん。 
故余作此偈以示衆云     故に余此のげを作り、以って衆に示すと云ふ。

學者撥無因果沈       学者因果をはつむして沈まん、
老禪一句價千金       老禅の一句値千金、
諸悪莫作善奉行       諸悪莫作善奉行、
須在先生醉裏吟       須らく先生酔りの吟に在るべし。

くま訳
白居易がちょうか和尚に質問した。
「仏法の大意とは何ですか」
鳥窠が言う「諸々の悪を為さず、善い事をすることです。」
白居易が言う「三歳の稚児でも分かりそうなことですね。」
鳥窠が言う「三歳の稚児でも分かることだが、八十の老人でも実践できないことです。」
霊山和尚が常に言っていたことがある。
「鳥窠のこの一語が無ければ、
私の弟子たちは、本來無一物、
及び、不思善不思悪、善悪不二、
邪正一如等の語に囚われてしまい、
結果的に世に多くの邪師を送り出してしまっただろう」と。
それで、わしは、此の偈を作り、皆に示すのである。

修行者が因果の道理を否定したら、地獄に沈む。
老禪師の一句は価千金である。曰く
諸悪莫作善奉行
当然のこととして、白居易先生の酔裏の詩にも詠まれているはずである。
(くま調べでは、来世も仏教を修めたいという詩等が見つかった。)

*泥む(なずむ):1そのことに心がとらわれる。こだわる。執着する。2 物事がはかばかしく進まない
 でいる。進むのに難渋する。とどこおる。3 なじむ。なれ親しむ。4 悩み苦しむ。病む。5 植物がし
 おれる。生気がなくなる。6 ひたむきに思いを寄せる。執心する。
*撥無(はつむ):払いのけて信じないこと。否定して排除すること
*白居易(白楽天):772-846唐代の詩人。酒の詩多数。『酔吟先生伝』という自伝を67歳のとき書いた。
(´・(ェ)・`)つ

847鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/26(日) 22:15:15 ID:1d4drIFg0
>>844 臨済宗の者が僧侶で無いのに僧侶と嘘をつくのは金のためじゃろう。
 葬式商売で儲けてうはうはなのじゃ。

>>845 そうじゃろう。
 本当はわしに認められたくて執着しているのじゃ。
 対面があるから認めたくないのじゃ。
 哀れな者じゃ。

848鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/26(日) 22:20:19 ID:1d4drIFg0
悪い事をせずに、善い事をするのが仏法だというのじゃ。
三歳の子でもわかるが八十の老人でも実践は難しいというのじゃ。
人はどうしても攻撃欲に囚われてしまうからのう。
観念を打破するための善悪不二という言葉に囚われて、この言葉を忘れてしまうならば邪師になるのじゃ。
お釈迦様もそのように説く六師外道を論破したのじゃ。

849避難民のマジレスさん:2020/07/27(月) 13:49:56 ID:b/R.LjPg0
>>848
で、僧侶じゃないのになんで僧侶って嘘つくの?

850避難民のマジレスさん:2020/07/27(月) 20:17:51 ID:hdQ2/nGg0
136
漁父
學道参禪失本心     は本心を失す
漁歌一曲價千金   の一曲
湘江暮雨楚雲月 しゃかうのぼう楚山の月
無限風流夜夜吟  限り無き風流夜々の吟

くま訳
仏道修行、参禅は、本心を失わせる。
漁歌(漁夫の辞)は価千金である。
(屈原が入水自殺をした)湘江の夕暮れの雨、楚山の月を思うと
限り無く風流で夜々詩情が湧く

*おまけ:漁父辞 屈原
屈原曰挙世皆濁我独清     屈原曰はく、世を挙げて皆濁れるに、我独り清(す)めり。
衆人皆酔我独醒是以見放。   衆人皆酔へるに、我独り醒めたり。是を以て放たる。と。  
漁父曰    漁父曰はく、
聖人不凝滞於物、而能与世推移 聖人は物に凝滞せずして、よく世と推移す。  
世人皆濁、何不淈其泥、而揚其波。世人皆濁らば、何ぞ其の泥をにごして、其の波を揚げざる。
衆人皆酔、何不餔其糟、而歠其醨。衆人皆酔はば、何ぞ其のかすをくらひて、其のしるをすすらざる。
何故深思高挙、自令放為。 何の故に深く思ひ高く挙がり、自ら放たしむるを為すや。と。
屈原曰、吾聞之 屈原曰はく、吾之を聞けり。
新沐者必弾冠、新浴者必振衣 新たに沐する者は必ず冠を弾き、新たに浴する者は必ず衣を振るふ。と。
安能以身之察察、受物汶汶者乎。 いづくんぞ能く身の察察たるを以て、物のもんもんたる者を受けんや。
寧赴湘流、葬於江魚之腹中、 むしろしやう流に赴きて、江魚の腹中に葬らるとも、
安能以皓皓之白、        いづくんぞ能くかうかうの白きを以てして、
而蒙世俗之塵埃乎。       世俗のぢんあいを蒙らん。と。
漁父莞爾而笑、鼓枻而去。    漁父くわんじとして笑ひ、えいを鼓して去る。
乃歌曰、            乃ち歌ひて曰はく、

滄浪之水清兮 可以濯吾纓    さうらうの水清まば 以て吾がえいをあらふべし
滄浪之水濁兮 可以濯吾足    滄浪の水濁らば 以て吾が足を濯ふべし  

遂去不復与言。 遂に去りてまたともに言はず。

マナペディアHP訳
屈原は言いました。
世の中の人々すべて(の心)が濁っている中で、私一人だけが清らかです。そして人々がみな酔っている中
で、私一人だけが醒めています。だから追放されたのです。と。
漁師は言いました。
聖人というものは、物事にこだわらずに世の中と一緒に移り変わります。世の中の人々(の心)が濁ってい
るならば、どうして一緒にその泥をかき混ぜて、波を立てないのですか。人々が酔っているならば、どうし
てその酒かすを口にして、その薄い酒を飲もうとしないのですか。どういった理由で深く考え、お高くと
まって、自分から追放されるようなことをしたのですか。」と。
屈原は言いました。
私はこういうことを聞いたことがあります。『髪を洗ったばかりの者は必ず(冠についた)よごれを払い、
入浴したばかりの者は、必ず衣服のほこりをふるってはらう』と。どうして清廉潔白なこの身に、(世俗
の)汚れたものを受け入れることができましょうか、いやできません。むしろ湘江に行って魚のエサになろ
うとも、どうして清廉潔白なこの身を世俗の埃の中にまみれされることができましょうか、いやできませ
ん。」と。
漁師はにっこりと笑って、(出航するために)船の縁を叩いて行ってしまった。そしてそのとき、次のよう
な歌を詠んだ。
滄浪の水が澄んでいるのなら、私の冠の紐を洗おう。
滄浪の水が濁っているのなら、私の足を洗おう。

とうとうそのまま去ってしまい、2人はもう2度と語り合うことがありませんでした。
(´・(ェ)・`)つ

851鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/28(火) 00:05:10 ID:1d4drIFg0
おぬしが僧侶じゃないのに僧侶とうそつくのは金のためじゃろう。
何でもお見通しなのじゃ。

852鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/28(火) 00:05:49 ID:1d4drIFg0
>>849 おぬしが僧侶じゃないのに僧侶とうそつくのは金のためじゃろう。
何でもお見通しなのじゃ。

853鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/28(火) 00:08:40 ID:1d4drIFg0
道を学び、参禅するのは却って本心を失うというのじゃ。
屈原に漁夫が説いたとおりなのじゃ。
一休は詩情に任せて吟ずることこそ自らの本心というのじゃ。

854避難民のマジレスさん:2020/07/28(火) 20:42:26 ID:9Bjm15Z60
137
紹鵷蔵主規地卜居 紹ゑん蔵す地を規して居をぼくす
家徒四壁立    いへいたずらに四壁立つ
扁曰土菴     扁して土あんと曰ふ
作偈以爲證云   偈を作つて以て證と為すと云ふ

夏巢冬穴一身康  夏巣冬穴一身康し
帯水拖泥萬念忙  帯水だでい萬念いそがはし
稼檣艱難若領略  稼しょく艱難若し領略せば
梅檀佛寺名利塲  栴檀の佛寺名利の場   

柳田聖山先生訳
紹鵷蔵主が、土地を探して、居を構えた。
その家は四方に壁があるだけの、粗末なもので、
土庵という額を掲げている。
そこで偈をつくって、タネ明しをしてやる。

夏は樹上に巣をつくり、冬は穴にもぐる鳥や虫は、身一つでさばさばしているが、
泥水をひきずって生きる人間は、あれやこれやと気疲れが多い。
畑仕事の苦労を身につけさえすれば、
栴檀造りの大寺院など、単なる名刹の場所にすぎまい。  

くま訳
紹えん蔵すが、あれこれと土地を占って居所を決めた。
家の四方には無駄に土壁を建て
土庵という扁額を掲げている。
偈を作つて、証としてやるのだ。

夏は巣を作り、冬は穴を掘って住めば気楽でよいのだ。
苦にまみれている人たちを救う為に、共に泥にまみれて生きることは、気ぜわしいであろうが、
土の働きをよく知り、農作業の苦労を身につけさえすれば、
栴檀の寺院など、名利を追う場に過ぎないことが分かるだろう。

*蔵主(ぞうす):禅寺の経蔵を管理する僧職。
*卜する(ボクスル):うらなう。うらなって、よしあしを判断する。
*領略:物事の意味を理解すること。さとること。
*帯水拖泥(たいすいだでい):苦しみにまみれている人を、慈悲の心を持って共に生活することで救済す 
 ること。
*稼檣(かしょく):東洋医学の五行論でいう、土にある”種まきと収穫”という農業上の働きのこと。

僭越ながら、柳田先生が、粗末な家としたところを、土壁に囲まれた豪華な家に読み替えてみた。
(´・(ェ)・`)つ

855鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/29(水) 00:10:32 ID:1d4drIFg0
寺などは名利のための場所に過ぎないと一休は詠うのじや。
家などはぼろでよいのじゃ。
畑仕事をしていれば気苦労も無いのじゃ。
隠遁生活が一番なのじゃ。

856避難民のマジレスさん:2020/07/29(水) 21:54:20 ID:IdZpVTSU0
138
賛臨済和尚     を賛す
喝喝喝喝喝 喝々々々々
當機得殺活 機に当たって殺活を得
悪魔鬼眼睛
明明如日月 明々としてじつげつの如し

くま訳
臨済和尚を賞賛する
喝々々々々
臨機応変殺活自在
人を見抜く悪魔のような鋭い洞察眼
明らかなること日月の如しである。

139
讀碧岩集序   碧岩集の序を読む
來山言教價千金 かつ山のごん教
一炬看來救古今 一きょみ来たれば古今を救ふ
休向寒灰成議論 寒かいに向かって議論を成すをやめよ
宗乗滅却老婆心 宗乗滅却す

くま訳
碧厳録の序を読む
來山善会の説き示されたことは価千金である。
一つのかがり火のような言説が、古今の人々を救う。
心の働きを鎮める為にと言って、議論するのはやめるのだ。
必要以上の親切心は、禅の極意を台無しにしてしまうのだ

*夾山:夾山善会(805〜881)。曹洞禅の法系
*一炬(イッキョ,いっこ): 一つのかがり火。 いっぺんに焼くこと
*寒灰(かんかい):火が燃え尽きたあとの灰。つめたい灰。転じて、心の働きがなくなった様子の形容。
*宗乗:自宗の教義。禅門の宗義や禅の極致をいった語。他の教えを余乗といって区別した。
(´・(ェ)・`)つ

857鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/30(木) 00:09:27 ID:1d4drIFg0
言葉はいくら集めても悟りには至らないのじゃ。
無駄な議論はやめて実践あるのみと一休も詠うのじゃ。
実践あるのみなのじや。

858避難民のマジレスさん:2020/07/30(木) 19:45:19 ID:mNk/2S8Y0
140
示衆
割截難禁忍辱仙 かつせつたへ難しにんにく仙
捨身諸佛舊因縁 しゃ身は諸仏の旧因縁
千歳聲名断碑雨 千ざい声名断碑の雨
髑髏識盡北邙前 髑髏識尽く北ぼうの前

くま訳
釈迦の前世における忍辱仙人の修業のように、身体を切断されることは堪え難い、
他の生命を救うために身を捨てた前世の因縁で仏になったのだ。
千年前からの名声を伝える石碑も壊れて雨に濡れている。
髑髏は識り尽くしてるのだ。墓場の前にて。

*示衆:師家が学人に対して説法し指導すること
*忍辱仙人:釈迦の前世が暴虐な歌利王に四肢や耳・鼻を削がれながらも、怒り恨むことなく耐え忍び、 
 最後に国王を改心させるという説話あり。(三宝絵・忍辱波羅蜜)
*割截(かっせつ):ちきること。切りさくこと。
*捨身(しゃしん):命を捨てること。大乗の修行者が他の人あるいは生き物を救う為にみずからの生命を
 なげうつことは,重要なものとして評価された。
*北邙(ほくぼう):北邙山が、後漢以来王侯公卿の墓地として知られるところから、墓地、埋葬場。
(´・(ェ)・`)つ

859鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/30(木) 23:01:08 ID:1d4drIFg0
無常の詩なのじゃ。
諸仏は自らの身を捨てて悟りを得たのじゃ。
いずれは朽ち果てる身ならば悟りを得るために捨てたらよいのじゃ。
身を捨てて悟りを得るのじゃ。

860避難民のマジレスさん:2020/07/31(金) 19:20:28 ID:D8qZy99Q0
一休さん47歳、華叟13回忌、途中退席事件
141  1/2
華叟老師掩光             光をおほふて
而後既洎二十餘稔也   而して後既に二十余年におよぶ
壬申秋敕諡大機弘宗禪師 壬申の秋勅して大機弘宗禪師とおくりなす。
仍製禪詩        よって禪詩を製して、
呈寄大用養叟和尚    大ゆう養叟和尚に呈寄す
且陳賀忱云       且つ賀しんをのぶと云ふ。
     
曾謝塵寰五十年 かつてじんかんを謝す五十年  
芳聲美譽是何禪 芳声美誉是何の禪ぞ
子胥晩日倒行去 ししょ日暮れて倒行し去る
覿面辱屍三百鞭  てき面屍を辱かしむ三百べん

くま訳   
華叟和尚の下で光に包まれて(悟りを得て、)
その後、二十余年が経った。
壬申の秋に、華叟は、天皇から大機弘宗禪師というおくり名を下賜された。
そこで、禪詩を作り、
養叟和尚に贈呈した。
真心からのおよろこびを述べるのである。
      
かつて、俗世間を離れて五十年を生きた(華叟)
俗世の名声、名誉が華叟の禪と何の関係があるのか
伍子胥(養叟)は日暮れて道遠い為、(華叟の禪に)逆らっているのか。
(華叟への)恨みを晴らすために、屍に三百回の鞭打ちをして辱めるているようなものだ。

*賀忱(がしん):真心からの賀詞
*塵寰(じんかん):俗世間。塵界。
*謝す:去る。謝罪する。感謝する。(恨みなどを)晴らす。たち切る。
*芳声美誉: 誉れ高い名声。よい評判。
*覿面(テキメン): 面と向かうこと。また、そのさま。まのあたり。目前。効果・結果・報いなどが即 
 座に現れること。また、そのさま。
*子胥:次の(おまけ)の詩 参
*倒行:さからって物事を処すること。
(´・(ェ)・`)つ

861避難民のマジレスさん:2020/07/31(金) 19:28:45 ID:D8qZy99Q0
おまけ 『史記』伍子胥(ゴシショ)列伝
八重樫一先生解説

春秋時代後期、伍子胥は楚の平王に父と兄を殺され、その復讐を心に誓いました。
以前楚にいたころ、伍子胥は申包胥(シンホウショ)と付き合っていました。
伍子胥が呉に逃亡する時、申包胥に次のように言った。
「自分はきっと楚を滅ぼしてみせる」と。
申包胥は言った。
「自分はきっと楚を保たせよう」と。

呉に亡命してから十四年、ついに伍子胥は祖国楚に戻ってきました。復讐すべき平王は、すでにこの世の人
ではなく、息子の昭王を捜させた。しかし昭王はすでに逃げ去った後であった。
しかたなく、平王の墓を掘り返し、死体を掘り出した。
(伍子胥は死体に)300回鞭打ちをして、やっと気が済んだ。
このとき申包胥は山中に逃れていたが、(その話を聞き)伍子胥に人を遣(や)って伝えた。
君の仇討ちは、酷いものだ。死屍(シシ)に鞭(むち)打つ、とは。
君は、もともと亡き平王の臣下であったではないか。
親しく仕えておきながら、今になって君王の死骸を辱めるとは。
天道を蔑(ないがし)ろにする極みではないか。
これに対して、伍子胥は(その使いの者に)言った。

為我謝申包胥曰、  我が為に申包胥に謝して曰(い)へ
吾日莫(暮)途遠、  吾れ日莫(く)れて途遠し、
吾故倒行而逆施之。 吾故に倒行して之を逆施(ゲキシ)せり、と。

私の為に申包胥に伝えてくれ
私はもう日が暮れているのに、行く道の遠い思いである。
私はだから、あわて急いで、道理に逆らうことをしたのだ、と。

*華叟の遷化に當り、養叟は、大德寺中に大用庵を新營し、華叟の塔を建て、且つ奏請して、大機弘宗禪師 
 の追諡を得た。(龍寶山大德寺世譜)後花園天皇其道譽を聞き、勅旨して文安二年八月大德寺に入らしめ、
 其第二十六世となつた。
(´・(ェ)・`)つ

862鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/01(土) 00:30:23 ID:1d4drIFg0
華叟和尚に死後の名声等はいらんというのじゃ。
それはむしろ死者に鞭打つようなものというのじゃ。
本人が欲しがっている筈もないものであるからのう。
押し付けはいらんのじゃ。

863避難民のマジレスさん:2020/08/01(土) 11:28:11 ID:C5vz/wP.0
142    2/2
懶瓚辭詔也何似 らいさんみことのりを辞すまた何ぞ似ん
煨芋烟鎖竹爐裏 わいうえんさす竹ろの裏
大用現前眞衲僧 大ゆう現前真のなふ僧
先師頭面潑悪水 先じのづ面に悪水を注ぐ

くま訳
懶瓚が天子の招きを辞退する話も、またどこか似ているのである。
焼き芋を焼く煙に包まれる、竹炉の裏(天子の招請を辞退した)の話は、
事に応じて活殺自在である、真の禅僧の面目の現れである。
(朝廷に奏請して追諡(ついし)を得るなどは、)先師の頭から汚水を浴びせるようなものである。

*懶瓚(らいさん・あだ名):明瓚(みょうさん・実名)は世間のわずらわしさから逃れ、山奥に隠居し、 
 残飯を食べて懶(なま)け者のように暮らしていたことから、懶瓚(らいさん)とあだ名で呼ばれていた
*竹爐(炉):携帯用の炉
*大用 :大いなる作用・働き。殺活自在の働き
*衲僧(のうそう)破れた僧衣を纏って修行する僧侶のこと。禅僧の通称
(´・(ェ)・`)つ

864避難民のマジレスさん:2020/08/01(土) 11:52:42 ID:C5vz/wP.0
おまけ:「懶瓉煨芋」らさん芋を焼く。
懒瓚和尚隐居衡山石室中
唐德宗闻其名
遣使召之 使者至其室宣言
「天子有詔 尊者常起谢恩」
瓒方撥牛糞火 尋煨芋而食
寒涕垂颐 未嘗答
使者笑曰「且勸尊者拭涕」
瓚曰「我豈有工夫為俗人拭涕耶」
竟不起

(一財)東洋文化資料館 青山讃頌舎HP訳
懶瓚(らさん)和尚は衡山(こうざん)の石室の中に隠居していました。 唐の徳宗は其の名を聞いて、
使を遣わし之れを召します。
使者は其の石室にやって来て宣言します。
「天子の詔である、尊者はすぐに都に行って恩に応えよ」
瓚和尚はまさに牛糞の火をはらって、焼芋を掘り出して食べようとしているところで、
鼻水を顎まで垂らしたまま何も答えようとしません。
使者は笑って言います。「ともかく、尊者、鼻を拭ってはどうですか」
瓚和尚は答えて、「何でわしがわざわざ俗人の為に鼻を拭うような手間を掛けねばならんのかね」
と言って、ついにお召しに応じませんでした。
(´・(ェ)・`)つ

865鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/02(日) 00:38:39 ID:1d4drIFg0
天子からの招待を断った禅僧もいたというのじゃ。
俗世の名声等は出家とは無関係なものじゃ。
そのような俗世の名声を捨てるのが出家であるからのう。
死後の名声を重ねようとするのは無意味なのじゃ。

866避難民のマジレスさん:2020/08/02(日) 15:59:07 ID:gYSke2Sc0
143 男一休ここにあり!

瞎驢不受霊山記 かつろは受けず霊山の記
四七二三須愧慙 ししちにさん須らくぎざんすべし
豈堕在光影邊事 あに光やう辺のじにだ在せんや
銅睛鐡眼是同参 銅ぜい鉄眼これ同参

石黒吉次郎先生解説
これは盲目の者でも、銅や鉄のような優れた眼を持っていて、仏法を会得することを説いたもの
碧厳録八十八則の玄沙三種病の話に基づく

水上勉先生訳
達磨も六祖も瞎驢に傀じるべきだ。
瞎驢は霊山の記をうけてはおらぬ。
だが、その境地は、有相の仏や浄土の光影など糞くらえ。そんな分別に堕ちてはいない。
森女がそうである。仏も、色も、光も、影もみておらぬ。一休の瞎驢は観念上のめくらだったが、森女にめ
ぐりあって、そこに本物がいることに眼を瞠っている

くま訳

盲目の驢馬(一休と森)は、霊山から将来仏になると約束されたものではないのだ。
釈迦から達磨までの28代の祖師、達磨から慧能までの6代の祖師たちは皆、過ちを恥じるべきである。
決して、光影などの分別に陥ることはなく、
優れた眼力をもつ(森と一休は)、同学の仲間なのだ。

*受記:授記とは、仏が修行者に対して将来必ず仏となることを予言し保証を与えることをいう。仏の側か
 らは「授記」であり、修行者の側から言えば「受記」となる。
*四七二三:禅宗に於ける伝灯の仏祖を数で表したもの。
 二三は東土二三(かけ算する)で6代の祖師を意味し、菩提達磨尊者から六祖慧能までの中国の祖師方を 
 意味する。四七は西天四七で28代の祖師を意味し、インドで釈尊から正法眼蔵を附法された摩訶迦葉尊 
 者から菩提達磨尊者までの祖師方を意味する。
*電光影裏:人生は束の間であるが、人生を悟った者は永久に滅びることがなく、存在するというたとえ。
*同参:禅宗で、同一の師について参学すること。また、その同学の仲間。同学。
*銅睛鐡:すぐれた眼力を譬える言葉
*35「唖」の詩 参  前スレ https://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/567-n >>663
(´・(ェ)・`)つ

867鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/02(日) 22:37:25 ID:1d4drIFg0
法華経にはお釈迦様が阿羅漢以下すべての弟子に如来になることを受記したとあるのじゃ。
それも創作であるがのう。
世間にもよく修行して悟りに近いものも居るといいたいのじゃな。
眼が見えなくとも修行の妨げにはならないのじゃ。

868避難民のマジレスさん:2020/08/03(月) 20:14:26 ID:hkn8ohjE0
模擬テスト
145
不偸盗戒
鵝鳥呑珠刑罰辛 がちょう珠を呑んで刑罰からし
分明曲直僞兼眞 分別曲直偽と真と  
翠巖老漢眉毛話 すい岩老漢びもうのわ
保福豈非家裏人 保福あにかりの人にあらざらんや

くま訳
珠を飲み込んだガチョウと、それをかばった比丘は厳しく罰せられた。
明らかなことである。正不正、真と偽と。
翠巌の眉毛の話、
保福は、きっと翠巌の身内にちがいない。

*鵝珠(がしゅ):鵝鳥の飲み込んだ珠、の意。宝玉をみがいていた珠師が、乞食の比丘のために食を取り
 に行っている間に、鵝鳥が玉を呑んだ。比丘は鳥が殺されるのを哀れんで、事実を言わなかったので、玉
 のないのに驚いた珠師は、比丘を疑って責め打ち、その血を飲みに来た鵝鳥をも怒りにまかせて殺した。 
 比丘は鳥の死によって、鳥に代わって死んでもよいと決意したことも無意味になったと告げ、珠師は鳥の
 腹から出た玉を見て、泣いて懺悔したという「大荘厳論経」の話。
*翠巌令参:唐時代の禪師。
*保福従展:
*家裏(かり): 家の中。自分の家。また、家族。
*翠巖眉毛:碧巖錄第八則:翠嵒夏末示眾云:大燈が大応から与えられ、解くのに三年かかった公案(その
「関・かん」の字を見よ!・・「雲門の関」)。解いて印可を受けた。
おまけの詩↓ 参
(´・(ェ)・`)つ

869避難民のマジレスさん:2020/08/03(月) 20:21:40 ID:hkn8ohjE0
おまけ:翠巖眉毛
 一夏以來,
 為兄弟說話,
 看翠嵒眉毛在麼
 保福云作賊人心虛
 長慶云生也
 雲門云關

 野狐禅RRPG HP訳
 夏安居に入って以来、諸君のために説法をしてきた。
 誤った説法をすると眉毛が抜け落ちるといわれているが、わしの眉毛は残っているか?
 保福が言った。泥棒は、うしろめたくてビクビクする
 長慶が言った。今、眉毛が生えそろったぞ。
 雲門が言った。関門だ。

 禅と悟りHP訳
 翠巌和尚は90日の夏安居の終りの日に大衆(修行僧達)に言った、
 「この夏安居の間諸君達のために仏法をくどすぎるほど説いた
 (昔から仏法は言説を超えたものであり、仏法をしゃべり過ぎると眉毛が落ちると言われる。
 もしかして、わしは仏法をしゃべり過ぎて眉毛が落ちたのではないだろうか)。
 どうじゃな、わしの眉毛は落ちてはおらんかな?
 (言説に頼れば仏法を誹謗することになるので)」。
 保福は言った、
 「ヤイこの盗人め、ビクビクするない」。
 長慶は言った、
 「眉毛はチャンと生えているじゃないか」。
 最後に雲門が言った、
 「ピシャリ(門は閉められたぞ。ここが通れるか)」。

師家が、「わしはしゃべり過ぎたか?」と、弟子に尋ねる時点で、師家としてお粗末な気がするであります
が、泥棒とまで指摘できるのは、よっぽど親しい身内なのだろうと言うのでありますね。
心の中には関所はなく、どんな嘘でも、でたらめでも、信じさせてしまえば、まかり通ってしまうものであ
りますから、聞き手が、自分で真理をしっかりと見極める関所を身につけなければなりますまい。 

大燈國師は、『関の字を見よ』という公案に、何と答えて合格したのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

870避難民のマジレスさん:2020/08/03(月) 22:36:44 ID:hkn8ohjE0
くま訳 訂正①132の詩、:「茂陵空薄情」・・茂陵で司馬相如が卓文君を思い詩を詠んだときの情のことと思われ、
くま訳の、「武帝は墓に入っても、きっと薄情な人のままであろう」誤りと思われる。薄情の意味をどのように解す
か迷うところでありますが、ここは、柳田聖山先生訳の通り、「 相如は粋ではありませんか」と訳さないと、一休の
思いは伝わらないでありましょう。
くま訳 訂正②137の詩、:「家徒四壁立」・・一休さんがよく言及する司馬相如が、卓文君と駆け落ちした後、成都
での生活は困難を極め「家は只,四つの壁の立つのみ」とのこと、これを、引用しているものと思われ、柳田聖山先生
訳の通り、「その家は四方に壁があるだけの、粗末なもので、」とすべきでありましょう。そもそも、家徒四壁は、窮
めて貧しいことの譬えをあらわす四字熟語でありました。
真に僭越で有りました。
(´・(ェ)・`)つ

871鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/03(月) 23:53:41 ID:1d4drIFg0
>>869 投機の偈で答えたのじゃ。
 それには既に雲関を透得し終わったと書いて在るのじゃ。
 関といわれれば誰もが関の外に出ていると思うのじゃ。
 どのようにして関の中に入ろうとか思って悩むのじゃ。

 実は既に内に入っているのじゃ。
 一休はそれを詩にしたのじゃ。
 保福豈非家裏人というのじゃ。

872避難民のマジレスさん:2020/08/04(火) 01:30:52 ID:ytDvJ4Pw0
>>871
鬼和尚、ありがとうであります。
「家裏人」が、関の内側の意味とは読み取れなかったであります。
精進するであります。

宗峰妙超禅師 (大灯国師)投機の偈
一回透得雲関了  一回〈ひとたび〉雲関を透得し了(おわ)って
南北東西活路通  南北東西 活路通ず
夕処朝遊没賓主  夕処朝遊 賓主を没し
脚頭脚底起清風  脚頭脚底 清風を起す

承福寺HP訳
ひとたび雲門の関を透過し終わってみると、四方八方何のとらわれるもの無いの
自由自在の境地である。立つも座るも寝るも起きるも朝夕へだつことなく、客だ、
亭主だといった賓主なく、迷いだ悟りだの区別もない。もう頭のてっぺんから足の
先まで一点の塵穢れなく清風がかけぬけるようなすがすがしさだ。
(´・(ェ)・`)つ

873避難民のマジレスさん:2020/08/04(火) 20:02:23 ID:fO1sW.K20
一休さんの辞世の詩の一つ・やっぱり森が好き!
144
辭世
今宵拭涙涅槃堂  今宵涙を拭う涅槃堂  
技倆尽時前後忘  技倆尽くる時前後忘ず  
誰奏還郷真一曲  誰か奏すげんきょう真の一曲   
緑珠吹恨笛声長 りょくしゅ恨みを吹いててきせい長し

*緑珠伝(楽史(910〜1007)宋初の歴史家。西晋の大富豪として有名な石崇の寵姫緑珠の物語。笛・舞
の名手であった美妓の緑珠が、主人に純愛を捧げ通して自決するまでの物語。

柳田聖山先生 訳
今宵かぎりと涙を拭きとる涅槃堂
根も気力も使い果たして前後不覚
誰が冥土に至るまで一曲を奏でる
緑珠が恨みをこめた笛の音を聞く

くま訳
今宵涙を拭う涅槃堂
生きる為の修業も治療もやり尽くし、ちょぴっと油断したのである。
誰が吹く、故郷涅槃へ還るために必要な真の一曲
笛の名手緑珠が吹く、心残りの笛の音のようだ。(森が帰郷の為の心の準備を思い出させてくれている。)
(´・(ェ)・`)つ

874鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/04(火) 23:38:40 ID:1d4drIFg0
>>872 そうじゃ、あに家の裏の人ならんやというのじゃ。
 家の裏に居る人であることがあるだろうかという否定疑問文なのじゃ。
 つまり既に家の中に居る人なのじゃ。

 投機の偈とは鍵を投げる音を聞いて気付いたから付けた題名なのじゃ。
 鍵を投げるのはいらないからなのじゃ。
 なぜいらないかといえば既に家に入っていたからなのじゃ。
 その音を聞いて己も既に雲関をとおっていたと気づいたのじゃ。

875避難民のマジレスさん:2020/08/05(水) 00:36:01 ID:loidiCpM0
>>874
鬼和尚、いつもありがとうであります。
鍵を投げた音で悟り、それを詩に詠み、「投機の偈」と題名をつけたのは、誰でありますか?
ググってみたのでありますが、ヒットしませんでした。
(´・(ェ)・`)つ

876避難民のマジレスさん:2020/08/05(水) 20:08:41 ID:88HzfH7Q0
娘生(にょじょう)とは、娘のことではなく、女から生れた子、母親から生れた自分、世俗の我、仮我、自
我、と言う意味でありました。「娘生の面目」と言い、「本来の面目」に対する用いられ方をするらしい。
又、くまのテキストには、[にゃうじゃう]と振り仮名されているが、検索すると、[じょうしょう ]とでてくる。
誤っていたので、以下の二首のくま訳を訂正するのである。
108は、https://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/567-n>>972
114は、当スレの >>794
くま訳 訂正①108:(当初訳)少女が見性者を見ても見分けがつかない様なものである。
         →(今回訳)本来の面目を知らないままでは、何も見えないのだ。
くま訳 訂正②114:鬼和尚に説明をいただいた点も踏まえて、大幅に直してみた。
          (当初訳a.) 道理を良くわきまえている修行者が、何で、子供の着物の裾上げの糸を 
                切り取らないようなことをするのか。(何で言葉に囚われるのか)
          (今回訳a) 目利きの僧がなぜ足の下の赤いほつれの糸を切らないのじゃ。   
                (そのような言辞は心を乱すのみなのじゃ。)
           (当初訳b) 弟子たちを指導し導いて、心の糸を乱した
    (今回訳b) 弟子たちを指導して、心の糸の乱れを正した。
           (当初訳c) そのうち、娘が成長して初潮をむかえ、足元に鮮血がながれる。
       (今回訳c)本来の面目を知らないままでは、その内、絡まりついた、足下の赤 
                い糸に締め上げられて、流血して苦しむだろう。

自分自身の足下、自分自身の心の中を良く見て、縄を蛇と見誤るようなことが無いようにせよせよ、という
ことでありましょうか。
紅絲線について一休さんは、世間との諸々のしがらみを言うような意味で使ってるようであります。  
(´・(ェ)・`)つ

877避難民のマジレスさん:2020/08/05(水) 21:07:20 ID:88HzfH7Q0
落ちこぼれを出さないように腐心する一休禅師
151
示久参徒    久参の徒に示す
看経看教無間業 看きん看教無げんの業
應庵但許白浄業 応庵ただ許すびゃく浄業
参禪学道閑話頭 参禪学道閑話とう
可懼身口意三業 おそるべししんくいの三業

くま訳
長く修業を続けているもの達に示す
意味を理解して経や教を読み、地獄に落ちる五つの悪業を知れ。(或いは、看経看教を絶え間なく続けろ)
應庵曇華は清らかな功徳を求めて坐ることのみを認めている。
坐禅を組み、仏道修行を行い、静かに公案に取り組む。
おそるべし、身口意の三業(実践の積み重ねが大切である。)

*看経(カンキン):古教照心。意味がわかるように経を読む事。尽十方界真実の実践。成仏行。
*五無間業(ごむけんごう):無間(むけん)地獄に落ちる5種の悪業。
*応庵曇華:南宋時代禅師:現成公案、只管打坐を強調 
*白浄:「菩提心は則ち良田なり、衆生の白浄の法を長養するが故に。」(華厳経 )
     さとりを求める心(菩提心)は、たとえば良質で豊かな田地です。なぜなら、それは、生きとし
     生けるものの清らかな功徳を養い育てるのですから。大谷大学HPより
*身口意の三業:人間の行為を身・口・意志の三種に分類したもの。業とは行為・造作の義で、善悪にわた
 る行為そのものだけでなく、その行為の余力としての習慣力が含ふくまれる。人の行為経験は、いかなる 
 ものでもそのまま消滅めつすることなく必ずその余力を残し、それは知能・性格などの素質として保存・ 
 蓄積ちくせきされる。
(´・(ェ)・`)つ

878鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/05(水) 22:41:01 ID:1d4drIFg0
>>875 自分でつけたのじゃろう。
 大体漢詩の題名は自分で付けるのであるからのう。
 鍵を投げて悟ったということを知る者は自分一人なのじゃ。

>>876 そうじゃろう。
 自ら観察して気付くことが大事なのじゃ。
 それだけが真の修行なのじゃ。

879鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/05(水) 22:43:23 ID:1d4drIFg0
>>877 経を読んだり、教えを聞くだけでは無間地獄への業となるというのじゃ。
 実際に座禅をして道を学ぶことが大事というのじゃ。
 気をつけねば成らんのじゃ。

880避難民のマジレスさん:2020/08/05(水) 23:28:37 ID:88HzfH7Q0
>>879
鬼和尚、ありがとうであります。
151の詩、くま訳修正
看経看教無間業
意味を理解して経や教を読み、地獄に落ちる五つの悪業を知れ。(或いは、看経看教を絶え間なく続けろ)
→経、教を詠だけでは、無間地獄へ入ってしまうのである。
(´・(ェ)・`)つ

881避難民のマジレスさん:2020/08/06(木) 19:08:05 ID:24iU9Zco0
句中玄の応用と実践・贋艶詩創作講座
251
圓悟大病 1/4
涅槃堂裡絶言詮 涅槃堂うら言詮を絶す
棒喝機關法座禪 棒喝機關法座の禪
睡裏花顔猶醉眼 睡裏の花顔猶ほ酔眼のごとし
春風断膓海棠前 春風はらわたを断つ海棠の前

蔭木英雄先生部分訳
涅槃堂裡絶言詮・・禪寺の病室で園悟は言語詩文を超絶して悟った

くま訳
涅槃堂において圓悟は、言葉・観念の世界を超えたのである。悟ったのである。
棒喝、弟子の能力に合わせて関門を与え、説法で導く禪
花のように美しい寝顔を見る、まだ酔い覚めやらぬようだ、とは、
春風の心地よさに、たまらなく興趣を誘われる、カイドウの花の前での創作である。

*圜悟克勤(えんご こくごん1063-1135):宋代の禅僧。諡は真覚大師。五祖法演の法嗣。『碧巌録』の 
 著者。
*機関禅:(天神九十五先生解説抜粋)「機(=学人の能力)に対して関を設ける禅」臨済の四料簡・四照 
 用、雲門の三句、洞山の三路・五位等を挙げて仏道修行の標準としている。
 「機関」とは「理致」と対する言葉であり、前者は公案などがその例、事象を義や理によって理解せずに 
 「事象を端的に掴む」ための方便であり、後者は経典・論書の道理を使って修行僧を指導することをいい 
 ます。・・・道元禅師は、「機関・理致」という対立を超えたところをもって、仏道参究の標準とされま 
 すので、身心を究めることの他に、何が必要であろうかと批判・・・夢窓国師なんかは「若し本分を論ぜ
 ば、理致となづけ機関となづくべき法門なし。」とされます
*法座:①説法をする人の着く座席。②説法の行われる集会。法席。法筵(ほうえん)
*海棠(カイドウ):1 バラ科の落葉小高木。枝は紫色で垂れ下がり、葉は楕円形。4月ごろ、紅色の花
 が下向きに咲き、実は丸く、黄褐色に熟す。
*悟りをあらわす言葉色々:言亡慮絶、意路不到、心言路絶、絶言絶思、名言道断、言語道断心行処滅、  
 言詮不及、意路不到

法演も雁艶詩を弟子にすすめていたらしい(小艶詩提)。雁艶詩は、伝統ある「機関」だったのでありますね。
句中玄の応用実践という理解でよいでありましょうか?

三玄三要;89の詩 参 前スレ https://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/567-n >>906
(´・(ェ)・`)つ

882鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/06(木) 22:19:00 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃろう。
機関でも修行者の本心に関していたならば己を極める役に立つのじゃ。
悟ってしまえば一緒なのじゃ。
梵我一如なのじゃ。

883避難民のマジレスさん:2020/08/07(金) 20:46:39 ID:nELsQgfM0
句中玄の事例
252
圓悟大病 2/4
巫山夜々夢難驚 ふざんやや夢驚き難し
艶簡題詩對鐵檠 艶簡詩を題して鉄けんに対す
只爲檀郎呼小玉 只檀郎が為に小ぎょくを呼ぶ
風流可愛美人情 風流愛すべし美人の情

蔭木英雄先生 訳・解説
夜ごとの巫山の(神女と契った)夢は覚めがたく
恋文に詩を書きつけて鉄の燭台に向かう 
それはただ愛する男性に(自分の存在を知らせようと、侍女の)小玉を呼ぶようなもので 
風流な美人の心情は愛すべきである。

小艶詩に依拠する転句は、己事究明・見性成仏を自証させる為に、手段として文字言語を援用するという喩
えである。それは月と指の関係である。月(真理・仏性・美人)を相手(修行者・檀郎)に見つけさせる為
には、指(文字言語・小玉を呼ぶ声)が必要である。故に結句の“美人の情”とは、檀郎つまり修行者に、
自己の内なる仏性を自証させる慈悲心なのである。このように考えると、艶詩を吟ずる事は、一休宗純に
とっては、薫化衆生の大乗仏教精神である。

くま訳
巫山の夜毎の逢瀬の夢は、覚め難い。
恋文の詩を書く為に、鉄の燭台に向かう、
ただ、愛しい人に気づいてもらいたい一心で、侍女の小玉を呼ぶ、
その風流な思いを愛すべし。美人が思いを募らせている切ない思いを。

*巫山之夢:楚の懐王が高唐に遊んだ際、疲れて昼寝していると、夢の中に「巫山の女(むすめ)」と名乗 
 る女が現れて王の寵愛を受けた。彼女は立ち去る際、王に「私は巫山の南の、険しい峰の頂に住んでおり  
 ます。朝は雲となり、べは雨となり(旦為朝雲、暮為行雨)、朝な夕な、この楼台のもとに参るでしょ 
 う」と告げた。という故事。168の詩参:
*驚く:1 意外なことに出くわして、心に衝撃を受ける。びっくりする。感嘆する。2 はっと気がつく。
 3 目が覚める。
*小玉:五祖法演が陳提刑(圓悟も聞いていた)に提唱した小艶詩に依っている。『大慧武庫(一休さんの 
 愛読書らしい)』(おまけの詩 参)
*巫山之夢:168参:巫山の雲雨と同義:楚の懐王が高唐に遊んだ際、疲れて昼寝していると、夢の中に 
 「巫山の女(むすめ)」と名乗る女が現れて王の寵愛を受けた。彼女は立ち去る際、王に「私は巫山の南 
 の、険しい峰の頂に住んでおります。朝は雲となり、べは雨となり(旦為朝雲、暮為行雨)、朝な夕な、 
 この楼台のもとに参るでしょう」と告げた。という故事
*檠(けい、きょう、ぎょう、ともしび):、ともしび/灯台/矯める/ゆだめ
*檀郎:女性からみて、男性の恋人。「愛しいあのお方」。詩詞では、普通名詞として使われる。
(´・(ェ)・`)つ

884避難民のマジレスさん:2020/08/07(金) 20:51:28 ID:nELsQgfM0

*おまけ:小艶詩 (カメ法師先生HP・解説)
一段風光畵不成 一段の風光、画けども成らず
洞房深處説予情 洞房深き処、予情を説く
頻呼小玉元無事 頻りに小玉を呼ぶも元より事無し
只要檀郎認得聲 只檀郎が声を認得せんことを要す

この第三句は、禅門での「無門関第十七則・國師三喚」の考案の著語としてしばしば用いられる。
小玉という侍女を女が頻りに呼んではいるが、これと言った用事があるわけでもない。という意味。
頻りと呼んでいるのは、第四句にあるように、窓外の意中の君(檀郎)に私はここにいますよ、ということ
を知らせたいがため。次女を呼んでいる真意は、次女に用があるのではなく別のところにあるというもの。

くま訳
素晴らしい景色は、描こうとしても描き切れない、私の思いも言葉に現しきれない
遊郭の奥の部屋で我が思いを述べる、
頻りに侍女の小玉を呼ぶが、元より用事などないのだ。
ただ、恋しい檀那さんに気づいてく欲しいのだ。
(´・(ェ)・`)つ

885鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/07(金) 23:04:40 ID:1d4drIFg0
巫山の女子の夢を夜毎に見るのは驚くべきことでもないという意味じゃな。
何ゆえ用も無いのに小間使いを呼ぶのかという謎掛けじゃな。
それもまた公案といえるじゃろう。
仏の名を唱えるのは仏を呼びたいからではなく、己が仏になるためなのじゃ。

886避難民のマジレスさん:2020/08/08(土) 19:39:02 ID:QIfaqeEk0
句中玄模擬テスト
253
圓悟大病 3/4
狭路慈明色欲淫 狭路の慈明色欲の淫
庭前柏樹祖師心 てい前の柏樹祖師の心
悪魔臨済正傳境 悪魔臨済正傳の境
雲暗姮娥落玉簪 雲暗してこうが玉さんを落とす

くま訳
慈明禪詩の方法は、狭い道である。(股に錐を刺して)情欲は抑えることは、誰にでもできることではない
のだ。
心境一如が、趙州和尚の悟った心である、
悪魔のように鋭い洞察眼をもつて、対象観察をするが臨済正伝のわしの境涯である、
雲天暗くて、姮娥が玉かんざしを落とすのである。(禅宗の現状は暗雲たちこめ、それを艶詩で伝えるよう
としているのだ。)

*庭前柏樹子『無門関』第三十七則・『趙州録』(細川景一先生解説抜粋)
 「如何なるか是れ祖師(達磨大師)西来意」。趙州和尚、「庭前の柏樹」 
 僧が続けてたずねます。「和尚、境を将って人に示すこと莫かれ――私は禅とは何かと聞いているのです。
 境、即ち心の外の物で答えないで下さい」というのです。
 趙州和尚云く、「我れ境を将て人に示さず――私は決して心の外の物で答えてはいない」。
 この僧は心と境とを対立的に見ての問いです。趙州和尚の消息は、心と境と一体一枚、心境一如、禅師 
 の心には境など存在しないのです。庭前の柏樹子、ただただ、庭前の柏樹子です。・・・祖師西来意だの、
 ・・・小理屈は捨て切って・・柏樹子に成り切った絶対的な境涯を趙州和尚は示そうとしているのです。
 この消息は・・・徹底的な「無心」の心です。
 その辺を後に、妙心寺の開山、関山国師は、・・この公案には恐ろしい盗賊のような働きがあって、私達
 が今まで営々として築いて来た名誉財産はいうに及ばず、執着分別心、煩悩妄想を、根こそぎ奪い去らず
 にはおかない機略があるというわけです。
 後日談があります。
 ・・隠元禅師は江戸時代、明より渡来し、日本の禅道場に法戦を挑んで各地を遍参した・・その折、京都
 の妙心寺にも上山し当時の山主、愚堂和尚と問答に及びます。
 「開山、関山国師の語録を拝見したい」 「開山さまには語録はありません」 「語録なくして、何で開 
 山と云えるか」「開山さまには語録はないが、ただ『柏樹子の話に賊機有り』という言句があります」
 隠元禅師、この一語を聞いて身震いし、「この一語、百千万巻の語録に勝る」と云ってうやうやしく礼拝 
 したと伝えられています。
*慈明石霜楚円禅師:夜坐睡らんと欲すれば、錐を引いて自ら刺す。
*境:6種の知覚器官 (六識 ) によって知覚される対象のこと
*姮娥(コウガ・ごうが):西王母の仙薬を盗んで月へ逃げたという仙女の名。月の異称。(おまけ 参)

うむ。こう言われたら、何も問えないでありますね。問が無意味だということでありましょう。楽にはなれ
るような気はするのである。
確かに、「賊機」ありである。
(´・(ェ)・`)つ

887避難民のマジレスさん:2020/08/08(土) 19:44:53 ID:QIfaqeEk0
*おまけ: ↓「姮娥」「玉簪」で検索して、中国サイトで見つかった詩。
昨夜三更后,昨夜三更の後
姮娥堕玉簪 ごうが玉さんを落す
馮夷不敢受,ヒョウイ敢えて受けず
捧出碧波心 棒出すへきは心

くま訳
昨日の深夜
ゴウガ仙女が、玉かんざしを落とした
雨の神様ヒョウイは、それに気づいたが、敢えて、拾わなかった、
それでゴウガの、千々に乱れる心を引き出した

*王禹偁(おううしょう)作:954-1001、北宋(ほくそう)の詩人。低い身分から、科挙を経て官僚となっ 
 た。五言は杜甫(とほ)を学び、七言は白居易を学んで、平静淡泊ななかに知性と社会批判とを盛り込ん
で、 宋詩の風気の先駆けとなった。『小畜集』
*馮夷(ひょうい・ふうい):中国古代の神話に登場する川の神。雲車を御して空中を飛び回るこの神は、 
 また下界に雨をもたらす雨師であったとされる。こ
*捧出(ささげいだす):かつぎ出す,担出す,担ぎ出す
*碧波心:海を駆け巡る波は、時に荒々しい姿をみせる。
 『白雲深處金龍躍 白雲深きところ金龍おどり 
  碧波心裏玉兎驚 へきはしんりぎょくとおどろく』と、言う言葉が碧眼集にあるらしいが見つからな 
  かった。
*檐角・簷角(えんかく):のきさき
*江戸時代後期の詩にの一節に、
 家家檐角挂冰柱 家家のえんかく氷柱をかく  
 知是抛来幾玉簪 知る是れ抛ち来る幾玉さん

 山口旬先生 訳・解説より
 家々の軒先には氷柱(つらら)がかかっている。
 わかった、これは彼女たちが、天から投げ捨てた幾つものだ玉の簪(かんざし)なのだ。

 ↑と、いうのがあるので、玉かんざしを落として、霜(雨)をかからせ、降らせてて、恋人に思いを伝え 
 ようとする女心を、「堕(落)玉簪」に譬えているのでありましょう。
(´・(ェ)・`)つ

888鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/08(土) 23:01:28 ID:1d4drIFg0
仏道修行は色欲を抑制して実践するものじゃ。
それは狭い道というのじゃ。
臨済宗の正伝禅ではむしろ色欲をも利用して悟りに向かうというのじゃ。
芸術とか風流の道なのじゃ。

889避難民のマジレスさん:2020/08/09(日) 17:43:25 ID:tQxP6Xgs0
一休さんの艶詩提唱
254
圓悟大病 4/4
娘生佛果已圓成 にょうしゃう佛果すでに円じゃう
大病苦中無識情 大病苦中識情無し
小艶詩情人不會 小艶詩情ひとゑせず
雞聲茅店月三更 けい声ばう店月三更

蔭木英雄先生訳・解説
圓悟仏果禅師が生れつき持っている無上正等覚(仏果)はすでに成就し
金山で大病に苦しんでも、知識情念に執らわれなかった
小艶詩の心を人々は会得しなかったが、
圓悟禪師は鶏の声を聞いて大悟し、その時、夜中の月が宿屋を照らしていた

起句の仏果は、園悟克勤の禅師号と無上正等覚の意を懸けている。
転句で、”小艶の詩情 人は会せず”と吟ずるのは、裏がえすと、”圓悟禪師は小艶詩の心をきちんと会得
し、衲(わし)も理会して艶詩を吟じ続けるのだ”という宣言と受け取れるのである。なお、結句は、『三
体詩』温庭筠「商店早行」の、”鶏声茅店月”の名句と、園悟大悟の鶏鳴とに拠っており、心憎いほど巧妙
な作句である。

くま訳
圓悟仏果禅師は、生来の仏の境地(悟り)を既に成就している
大病で苦しんでいる時も迷情無し
小艶詩の心を人は理解しなかったが、
鶏の声、木賃宿のかやぶき屋根を照らす有明月

*圜悟仏果:北宋の徽宗から張商英仏果の号を賜った。
*鶏声茅店月:おまけ① 参
*おまけ② 圓悟投機の偈 訂正

この詩の蔭木先生訳を読んで、「娘生」のくま訳間違えに気付き 訂正>>876したのである。  
(´・(ェ)・`)つ

890避難民のマジレスさん:2020/08/09(日) 17:57:05 ID:OIJS2RiY0
おまけ①
商山早行 温庭筠  商山のそうこう おんていいん (Web漢文大系HPより)

晨起動征鐸 あしたに起きて 征鐸を動かす
客行悲故郷 かくこう 故郷を悲しむ
雞聲茅店月 鶏声 ぼうてんの月
人迹板橋霜 じんせき ばんきょうの霜
槲葉落山路 こくよう 山路に落ち
枳花明驛牆 きか 駅しょうに明らかなり
因思杜陵夢 因りて思う 杜陵の夢
鳧雁滿迴塘 ふがん かいとうに満つ

くま訳
早朝に、旅立つ
故郷を離れるのは悲しい
木賃宿の萱葺き屋根を照らす有明月の光を見て鶏が鳴く
足跡が橋におりた霜につく
かしわの落葉が、春が近づくのをしらせる
駅舎の土塀のからたちの花を見れば、春到来は明らかだ
それで思うのは、長安の杜陵の景色である
野鴨や雁が湾曲した池たくさんいるのである。

『三体詩』、『全唐詩』巻581、五言律詩。
*商山:漢代の初めに、四人の隠士が乱を避けて隠れ住んだことで有名。四人とも鬚ひげや眉が皓白こうは
 く(真っ白)の老人であったので、「商山の四し皓こう」と呼ばれた。
*早行:早朝に旅立つこと。
*温庭筠(おんていいん): 812〜?。晩唐の詩人。

*晨:朝早く。早朝。
*征鐸:旅の車の鈴。馬の首につけた鈴。「征」は旅行くこと。「鐸」は大きな鈴。
*動:出発の合図に鈴を鳴らすこと。あるいは鈴を鳴らしつつ車を進めることか。
*客行*故郷を離れ、旅路にあること。旅する身。
*故郷:都長安を指す。
*鶏声:鶏の鳴き声。
*茅店:茅かや葺ぶき屋根の宿屋。「店」は粗末な旅館。木賃宿。
*人迹:人の足あと。人が行き来したあと。
*板橋:木の板を渡しただけの粗末な橋。通常は石橋。
*槲葉:かしわの葉。落葉樹であるが、冬の間は枝についたままで、春の新芽が出るときに落ちる。
*枳花:からたちの花。春に白い花が咲く。
*駅牆:駅舎の土塀。
*因思:そこでふと思い起こされる。それがきっかけとなって思い出される。
*杜陵:長安城の東南の郊外にある高台。当時有名な行楽地であった。
*鳧雁:野鴨と雁。
*迴塘:回るように湾曲した池。「塘」は池の堤。または堤に囲まれた池。曲江を指すと思われる。
*迴: 『三体詩』では「回」に作る。同義。
(´・(ェ)・`)

891避難民のマジレスさん:2020/08/09(日) 18:35:09 ID:MIbXhRL60
おまけ②
圓悟は五祖法演の小艶詩提唱を聴いたあと、鶏が欄干に上って鳴くのを聞いて大悟した。
その開悟偶は 83 でとりあげたのでありますが、最後の一節、の文字が、蔭木英雄先生の論文のものと、
くま使用のテキストのと違っておりました。消 → 銷 ・ 只許  →祇評
83の詩https://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/567-n >>879
そこで、再度くま訳を修正してみるのである。又、前スレ>>893の訳は投機の偈として意訳も訂正する。。

*叢;群がり集まる。多くのものの集まり と言う意味もあり
*祇:ただ〜だけ、まさに〜、という助詞として用いられる
*銷(ショウ):1 金属をとかす。とける。2 消える。消す

金鴨香銷錦繍幃 金おう香しょうす錦しゅうのとばり 
笙歌叢裡酔扶帰 しょう歌そうり酔うてたすかって帰る
少年一段風流事 少年一段風流の事
祇評佳人独自知 ただ評す佳人独り自ら知る
 
新くま訳
輝く渡り鳥のような貴方の香は、錦の刺繍のほどこされた帳の内に溶け入り、
貴方の笙歌を大勢の中でも、聞き分けられるのだ。酒に酔ったので、やっと帰ることができる。
恋におちた若者の風流な思いのことは、
ただあの美しい人だけが知っている。

元のくま訳83のままだと。遊里で岡惚れしたおやじがが、酔っ払って帰るときに、意中の女性を風流な青
年に持っていかれて、草むらに隠れて、ストーカーをしているような情景になってしまうのである。
本日の修正で、多少[投機の偈 」らしくなったでありましょう。
けど。圓悟和尚は、悟りの世界と、現世を行き来してるようであります。

新くま超訳(前スレ879)
悟りの世界へと、溶け入った、
小艶詩に誘われ、迷いの中から脱して、故郷に帰りついたのだ、
恋焦がれた悟りである、
ただ悟った人のみが、私の悟境を知ることができる。
(´・(ェ)・`)

892避難民のマジレスさん:2020/08/09(日) 18:42:42 ID:SBsaneBs0
>>891
けど。圓悟和尚は、悟りの世界と、現世を行き来してるようであります。→削除
新くま訳。新超くま訳のように解すれば行き来することにはならないでありましょう。
(´・(ェ)・`)b

893鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/10(月) 00:09:43 ID:1d4drIFg0
園悟は大病でも情を知らなかったというのじゃ。
小艶詩の情を人は得なかったというのじゃ。
情けにかけているのじゃな。
大病でも無かった情が詩にはあったが人はそれを得なかったというのじゃ。

894避難民のマジレスさん:2020/08/10(月) 20:34:07 ID:2/995q.60
アンチ洞山、欽山
146
賛欽山禪師  1/4     を賛す
佳名勦絶利貪稠    そう絶利貪しげし
茶店美人誰好仇  さ店の美人誰かかうきゅう
爭識洞山下尊宿  いかでかしらんとうざん下の尊宿
慈明狭路好風流  慈明の狭路好風流

くま訳
欽山禪師(曹洞宗)の評価
名声を根絶され、名利を貪る禅になってしまったのである。
遊里の美人の様な僧のことを誰が好い仲間といえようか。
洞山良价禅師の法嗣に、高徳の僧がいることをわしは知らんのだ。
慈明禅師(臨済宗)の法系は、峻厳で道狭く、又風流なのである。

*欽山文邃(ぶんすい):岩頭、雪峰と三人連れだって行脚し逸話を残している。曹洞宗の高祖である洞山
 良价禅師の法を嗣いだ。一鏃破三関 (いちぞくさんかんをやぶる)公案が有名。
 岩頭全豁(ぜんかつ)828-887 と 雪峰義存(ぎぞん)822- 908 は徳山宣鑑(せんかん)禅師の法嗣。
*慈明禅師:石霜楚円(986-1039)臨済下七世、
*勦絶(そうぜつ)滅ぼしつくすこと。根絶やしにすること。皆殺しにすること。 
*佳名:名声、いい評判
*貪利(ドンリ たんり):欲深く利益を求めること
*稠(チュウ・ チョウ おおい・ しげる・ こい)
*好仇(こうきゅう):良い相手。良い仲間。好匹
*尊宿:老年で徳の高い僧侶

五味の禅を挙揚していた欽山は、趙州和尚にも、小知見であると見限られていた(趙州録開莚普説)ようで
あります。当て馬のように評価されているようでありますが、それはそれで、必要であることには、違い
ないでありましょう。
一休さんは、アンチ曹洞宗、欽山和尚みたいでありますが、欽山和尚は悟ってなかったのではありましょう
か?(´・(ェ)・`)つ

895避難民のマジレスさん:2020/08/10(月) 20:59:42 ID:2/995q.60
おまけ:碧眼録 第五十六則 欽山、一鏃もて三關を破る(禅と悟り HPの現代語訳のみ)

垂示
ブッダ始め諸仏はこの世に出世していないし、また人に与える一法もない。
祖師達磨はインドから来て直指人心見性成仏の道を伝えたというが、
彼によって始めて「心」が伝えられたわけでもない。
「心」は諸仏の出世や祖師達磨の西来などの歴史に関係なく、
昔からあり、人々が全て具足している。
この表現は「本来の面目」は諸仏の出世や達磨の西来などの歴史的事実に関係なく、
昔から人々が皆具有しているという真理を強調するための禅特有の表現である。
世間の人々はその道理を理解しないで、外に向って追い求めるがそれは間違いだ。
殊に自己本来の面目(自己脚跟下の一段の大事因縁)は
どんな尊い聖人でも自分に代わって見性してくれる訳にはいかない。
自分で体験するほかないのだ。
本来の面目は見ようとしても見えず、聞こうとしても聞こえず、説こうとしても説けず、
知ろうとしても知ることができない。
一体どこから得たら良いのだろうか。
すべての存在が真実の相であるならば、得ようもないではないか。
もし未だそこが分からなければ、次の実例を参究してみよう。

*自己脚跟下の一段の大事因縁:自己の「本来の面目」を明らかにするという禅の根本問題。
*一鏃破三関:一本の矢(鏃)で三つの関所を打ち抜く。「一超直入如来地」の頓悟のこと。

本則:
巨良禅師が欽山に問うた、「私は一本の矢で三関を打ち抜いてしまいました。どうでしょうか?」。
欽山は云った、「そうか、それなら関中の主人公(本来の面目)を射止めたはずだ。それをここに出してみ
よ」。
巨良は云った、いや、関中の主人公(本来の面目)は射損じました。もう一度やり直します」。
欽山は云った、「待つことはできん。今すぐやれ」。
巨良は「いい矢を放ったのに、それが何処を射たか分からんような人には、何と言っても無駄ですな」。こ
う憎まれ口を叩いて巨良は出て行った。
欽山は云った、「おい、待たんか」。
 巨良は何事だろうと振り返った。
欽山は、巨良の胸倉を掴んで言った、「一鏃破三関など出来もせんホラは吹かず、まあ一矢射てみろ」。
巨良はここで行きづまってしまった。欽山は彼を手にした竹箆で七、八回打って言った、「まあ今日はこれ
位で勘弁してやろう。お前さん、このぶんでは、一鏃破三関に至るには三十年くらい修行せんとだめじゃ
な」。

頌:
さあ諸君(修行者)のため関中の主(本来の面目)を出して見せよう。
矢を射る人はおおざっぱではだめだ。関中の主を射損じないよう真剣に射なければならない。
関中の主(本来の面目)は懸命に見ようと眼に集中すれば耳は聞こえなくなる。
耳に捉われるのがいけないといって耳を忘れようと耳に集中すれば
今度は目が見えなくなる(それが関中の主の性質だ)。
一鏃で一挙に三関を突破して関中の主(本来の面目)に会えた時箭の通った路は明らかに見える。
これについて玄沙師備禅師は言った、
「関中の主(本来の面目)に見(まみ)えた大丈夫は 天より先に心の祖(おや)になる」と
(´・(ェ)・`)つ

896鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/10(月) 23:24:26 ID:1d4drIFg0
>>894 悟っていたのじゃ。
 弟子に主体を問うていたのじゃ。
 それだけが大事なのじゃ。
 言葉にも誤魔化されなかったのじゃ。

897避難民のマジレスさん:2020/08/11(火) 19:49:59 ID:veA84P7c0
黙照禪(曹洞宗)批判
147
賛欽山禪師  2/4
上堂茶話作家禪   のさ話さくけの禪
點檢将來新婦禪 点検しもち来れば新婦の禪
錦帳香囊風起臭 きんちゃうかうなう風起こって臭し
洞山佛法是何禪 洞山仏法の是何の禪ぞ

くま訳
欽山禪師批評
寺院における、説法や公案指導などは、師家の指導による禅である。
繊細な点検を伴う黙照禅は、新婚の若妻の禅である。
錦のとばりに吊るされたにおい袋の香りが流れてきて臭いのである。
洞山の仏法のどこが禅なのか

*上堂:①法堂の法座に上り、説法すること。古来は毎日朝晩行われていたが、現代ではほとんどが、一生 
 に一度晋山上堂?を行うばかりである。②僧堂内の上間の別名。
*茶話:禅宗寺院で行われる説法や指導は、様々な形態があるが、随時に行われる、説法や教訓・家訓のこ 
 とを茶話といい、これは特に、茶を飲みながら行う場合を指す。
*錦帳(きんちょう):錦(にしき)で織った垂れ布。にしきのとばり。
*香囊(こうのう)①室内や牛車ぎつしや内につるす、あるいは腰に下げる毬香炉まりごうろ。②匂い袋。

一休さんは、曹洞宗が嫌いなようでありますめね。
(´・(ェ)・`)つ

898避難民のマジレスさん:2020/08/11(火) 21:59:44 ID:PGnztOo20
おまけ:一休さんは25歳の時に洞山三頓の棒の公案を解いて、一休になったのである。
『年譜』
師年二十五歳。一日聞瞽者演妓王失寵落飾之事。
忽於雲門放洞山三頓棒因縁投機。
華叟師一日書一休二大字。與師爲號

*瞽者(こしゃ):盲目の人
*妓王失寵落飾之事:琵琶法師による平家物語「祇王失寵」の段の語り

師25歳。ある日盲目の琵琶法師が、平家物語の祇王失寵の段を語るのを聞いていた時、
洞山三頓の棒の公案で悟るところがあった。
そのときの、一休の詩、
「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」
この詩により、華叟師から「一日書一休二大字」、「一休」の道号をもらったらしいのである。
(´・(ェ)・`)

899鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/11(火) 22:50:57 ID:1d4drIFg0
>>897 そうかもしれん。
 錦の帳や臭い袋がなぜ必要なのかというのじゃ。
 曹洞宗ではそのようなものを使っていたのじゃろう。
 禅は自分を見極めればよいだけなのじゃ。

900避難民のマジレスさん:2020/08/12(水) 20:59:36 ID:v1Uimsho0
一休禅師の指導方針
148   3/4
賛欽山禪師  
濟家純老機生銕 濟家の純老機しょう鉄
一條活路途與轍 一條の活路途と轍と
雪峰岩頭無眼睛 雪峰岩頭眼睛無し
千歳達磨宗敗闕 千歳達磨宗の敗闕

くま訳
欽山禪師批評
臨済宗の一休爺の禅機をもって、修行者を鍛えるのである。
一筋の活路、道理があるのである。
雪峰や岩頭は黙照禅では悟れなかったとのである。
千年続く達磨宗の欠点である

*濟家の純老:臨済宗家の一休
*機:はたらきの意。 禅の修行によって得られた力の発現。修行者の指導にあたって、師が説明や対話な
 どではなく、相手の心の奥底に直接響くような短句や動作などを用いること。
*生鉄(ナマガネ せいてつ)よく鍛えていない鉄。
*途轍:すじみち。道理。
*敗闕(はいけつ)きずつきこわれること。また、欠けていること。欠点があること。

面壁九年の達磨さんは、黙照禪の代表なのでありましょうか?
公案指導を取り入れた閑話禪は革新派にして、より優れた指導法と一休さんは考えているようでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

901鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/12(水) 22:52:26 ID:1d4drIFg0
↑一休はそう思っていたのじゃろう。
本当は臨済宗の祖師でもあるがのう。
新しい公案の禅がすごいといいたいのじゃな。
それで無ければ悟れ無かった者もいるというからのう。

902避難民のマジレスさん:2020/08/13(木) 20:54:47 ID:xWDZfxlg0
主看客 賓中主 の事例
149  4/4
賛欽山禪師  
尿床鬼子大難心 尿床の鬼す大難の心
定老當機恩力深 じょう老当機恩力深し
夜雨燈前渾即忘 夜雨燈前すべて即忘す
風流茶店旧時吟 風流のさ店旧時の吟

くま訳
欽山禪師批評
寝小便たれ小僧(欽山)が窮地に陥った
定上座の相手の能力に応じて導く力、大恩は深いのであるが、
雨降る夜の灯火の下、全てを忘れてしまうのだ
風流な遊里で作った昔の詩である

*定上座:臨済義玄の優れた弟子の一人
*当機(とうき):相手の能力素質に応じた導き方をすること。

愛知学院大学 禅研究所HP解説抜粋
「赤肉団上に一無位の真人有り、常に汝等面門より出入す。いまだあきらめざる者は、看よ。看よ」という
臨済義玄の上堂語・・・無位の真人とは、知解分別では捉えられない真の自己とも、仏性、仏心ともいい得
るが、臨済がそのように表現しなかったのは、門人が仏心を固定概念化してしまうことを避けた・・・。 
我々が見る、聞く、触るなどの知覚感覚で外世界を認識することを示しているのであり、今の私自身の存在
がそのまま仏であることを了得させたい臨済の意図・・・
 臨済の弟子とされる定上座が、師に「いかなるかこれ仏法の大意」と問ったところ、・・・臨済にいきな
り一掌(ビンタ)をくらった。・・・(定上座は)茫然としたまま無我の境地で礼拝せんとした刹那、仏と
は自身にほかならないと悟入した。
 後に、この定上座が、行脚中の巌頭全后、雪峰義存、欽山文邃の3人と出会い、巌頭に乞われて無位の真
人を臨済に代わって説示した。
 巌頭、雪峰の2人は臨済の意図を把握して驚嘆したが、若い欽山は「なぜ臨済に問ったその僧は非無位の
真人と返答しなかったのか」とつぶやいた。これを聞き逃さなかった定上座は欽山の胸ぐらをつかみ、無
位の真人と非無位の真人と何が違うのかいってみろと迫った。臨済の意図は、仏とは自分自身のことを指
すのだと示す点にあるから、表現としては無位に限定する必要はないのであるが、知解を離れて自身の真
実を自ら把捉することを意図した言葉であるから、「無位」を分別で捉えてはならないのである。
 無位の立場は、宏智がいうように「初心にして、いまだ自己をあきらかにしていない(未証拠)者」
へのことばで、ひたすら修行を継続する(往相)立場であり、一方、非無位は、達悟した者が此岸に回帰
(還相)して、人々を化導する立場にあたる。
 欽山の客気は巌頭、雪峰の2人が取りなして事なきを得たが、欽山は果たしてここで「真の自己」を掴
み得たであろうか、乾尿橛のままであったであろうか、などとこの話を楽しむのは早計である。
 この話が加えられた意図は、欽山に「非無位」を語らせることが目的であり、臨済が「看よ」と云った
ことを受けて、「看了」したなら「非無位」でなくてはならないと補ったのである。単に後日談と軽んじ
たなら、「無眼子」と罵られるであろう。公案はすべてに抜け目ないのである。
(´・(ェ)・`)つ

903避難民のマジレスさん:2020/08/13(木) 21:06:35 ID:xWDZfxlg0
一休さんも、小僧時代に師匠から厳しく指導されることがあり、気づくことがあったので
ありますかね。
(´・(ェ)・`)b

904鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/13(木) 22:39:08 ID:1d4drIFg0
そうかもしれん。
真の自己などないのじゃ。
そもそも自己という概念が間違いなのじゃ。
全て一つなのじゃ。
それが無位の真人なのじゃ。

905避難民のマジレスさん:2020/08/13(木) 23:01:52 ID:/igPDOOk0
うむ。
梵我一如:アートマン=ブラフマン・・全ては一つ=無位の真人
臨済はアートマンを理解してたのでありますね。
(´・(ェ)・`)b

906避難民のマジレスさん:2020/08/14(金) 19:57:42 ID:87zFCRkc0
「か」行関連の詩がまだ140首ほどあるが、「あ」行の詩がいくつか見つかったので、
取り上げるのである。
尚、詩の番号は、あくまでもくまの整理番号である。

一休さん推奨偈
292
見識明心
憶得寒山見月題 憶ひ得たり寒山月を見るの題
眼睛落地衆生迷 眼睛地に落ちて衆生迷ふ
洛陽三月貴遊客 洛陽三げつ貴遊の客
閃爍紅旗残照西 せんじゃくたる紅旗残照の西

くま訳
物事の本質をとらえる悟り
思い出すのは、寒山が詠んだ月の詩である
視線を地に落すと、衆生は迷ってしまう、
洛陽では三月になると貴族が花に誘われあつまるように、、
仏道を求めるものにとっては、寒山の詩は、閃きを与えてくれる、機鋒が、今でも鮮烈にあるのだ。

*見識:物事を深く見通し、本質をとらえる、すぐれた判断力。ある物事に対する確かな考えや意見。識見。
*明心(あかきこころ・みょうしん): 誠実な、偽りのない心。まごころ。清き心。心を明らかにするこ 
 と。さとりを開くこと。また、明らかな心、さとりの心。
*寒山:天台の国清寺の僧、豊干(ぶかん)が拾った、拾得と、拾得の友達、寒山。豊干によると、拾得は、
 実は、普賢、寒山は、実は文殊と評している。豊干自身には実は神通力があるらしい。
 究極の狂風の逸話、禪画多数あり。一休さんの重要な師匠に含まれるでありましょう。詩は真面目に書い
 ているのである。(おまけの詩 参)
*閃爍(せんじゃく):ひらめき輝くこと。
*紅旗閃燦:厳しく機鋒が峭峻であり、矛先のように鋭いこと、37の詩 参
*国訳禪学大成脚注:朗月の天にある、月光の地にある、此れ皆見性の種子なり、洛陽三月酒旗の点頭に翻 
 るも又同斷
(´・(ェ)・`)つ

907避難民のマジレスさん:2020/08/14(金) 20:01:04 ID:87zFCRkc0
おまけ:一休さん推奨・寒山の詩①
吾心似秋月 (寒山詩)
吾心似秋月 吾が心 秋月に似たり
碧潭清皎潔 碧潭清うして皎潔(こうけつ)
無物堪比倫 物の比倫に堪えたるは無し
教我如何説 我をして如何が説かしめん

恵林寺 HP訳・訳・解説抜粋
自分自身に向き合い、心の奥底に見入るとき、その凛として澄み切った清らかさは、まるで
秋の月のようだ
碧に見える湖の水面を覗き込むならば、その湖底は、あくまでも清らかに澄んでいるのです
その透き通った有り様は、実は秋の名月の比ではない...はるかに素晴らしいものなのだ
わたしたちめいめいの心の本当の姿を、この世界の、どのような素晴 らしいものにたとえ
ようとしても、とてもたとえることなどできない

おまけ:一休さん推奨・寒山の詩②
指月歌《寒山偈》寒山
岩前獨靜坐 巌前に独り静坐すれば 
圓月當天耀 円月 天に当って輝き
萬象影現中 万象 影中に現わる
一輪本無照 一輪 本(もと)照らすなし
廓然神自清 廓然として 神(しん)自から清く
含虚洞玄妙 虚を含みて洞として玄妙なり
因指見其月 指に因って其の月を見れば
月是心枢要 月は是れ 心の枢要なり 

くま訳
岩前で独り坐禅をしていると
満月が天に輝きだして
万象が闇の中に現れた
月は、本来、何かを照らそうとしいない
わだかまりなく心晴れ渡っているので、自ずから清く
虚無をも含む、全てを見通せる、奥深く、優れた境地である
指差す先の月を見れば
(見ている)月は、心そのもの、月と心と別にないのだ。
(´・(ェ)・`)b

908鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/14(金) 21:18:00 ID:1d4drIFg0
>>905 そうじゃ、一つなのじゃ。
個我なくして無位の真人があるのじゃ。
それを理解しているのじゃ。

909鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/14(金) 21:21:25 ID:1d4drIFg0
月をさす指とは法なのじゃ。
法に拠って心を観れば空虚であるが玄妙な働きをするのじゃ。
それは全てを映し出す心の要なのじゃ。

910避難民のマジレスさん:2020/08/15(土) 21:20:18 ID:dnNbHAY60
291
長禄庚辰庚辰八月晦日 長禄庚辰八月かいじつ
大風洪水衆人皆憂   おおかぜ洪水あり衆人皆憂う
夜有遊宴歌吹之客   夜遊宴かすいのかく有り 
不忍聞之       これを聞くに忍びず 
作偈以慰云      偈を作って以って慰むと云う  
七言絶句

大風洪水万民憂 大風洪水万民憂う
歌舞管弦誰夜遊 歌舞管弦誰か夜遊ぶ    
法有興衰劫増減 法にこうすい有りこうに増減あり 
任他明月下西楼 さもあらば他あれ明月西楼を下る 

ある男の残日HP 宇野直人先生訳・解説
長禄4年(1460年)は8月末に台風洪水があり、民衆はとても心配した。
夜、宴会の客があり歌を歌っているが
とても聞くに堪えない。
禅の韻文を作って、心を静めた。

暴風に洪水に民衆は苦しんでいる
歌舞管弦誰か夜遊ぶ   
仏法に盛衰があり天変地異もそれに応じて増減する
明月が西の高楼に沈むなどどうでもいいことだ

長禄4年(1460年)、8月末の台風と洪水をきっかけとして、無策の幕府や為政者を批判している。

くま訳
台風洪水に、民衆は愁う
歌ったり踊ったり楽器演奏したりして、誰が夜遊びできるか。
仏法に盛衰があり、悠久の時の流れも増減するのか
であるのか、ではないのか、いずれにしても、月は西楼に沈むのだ。

仏法に盛衰なく、時間などなく今だけ、ありのままだ。

*劫:仏教などインド哲学の用語、極めて長い宇宙論的な時間の単位。サンスクリット語カルパ の音写文 
 字「劫波(劫簸)」を省略。 循環宇宙論の中で、1つの宇宙(あるいは世界)が誕生し消滅するまでの 
 期間と言われる。また、ブラフマー(仏教では梵天)の1日(半日とする説もある)に等しい。西洋では、
 まれにイーオン (aeon) と意訳される。1劫 = 43億2000万年である。
(´・(ェ)・`)つ

911鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/16(日) 00:25:20 ID:1d4drIFg0
月が沈むのに喩えて幕府ももう終わりじゃと嘆いているのじゃ。
洪水で民が苦しんでいるのに幕府の高官は夜遊びをしていたのじゃろう。
そんな幕府はもう長くはないというのじゃ。
実際に乱世になってしまったのじゃ。

912避難民のマジレスさん:2020/08/16(日) 17:27:17 ID:MddoNkts0
293
愛念盟 1/2
婆子侍慈明老師 婆子慈明老師の侍す
婚姻脚下結紅絲 婚姻脚下紅絲を結ぶ
驪山春色三生睡 り山の春色三生のねむり
千歳海棠花一枝 せん歳海棠の花一枝

くま訳
男女の愛の誓い
老婆が慈明禪師に仕える
婚姻は足下の赤い糸の結びつきである
りさんは春の色に染まり、始皇帝と麗姫が三生の誓いの下眠っている
これからも千年つづくカイドウの花一枝の思いである。

*慈明石霜楚円禅師:一休さんが、自分で生前作った墓を慈揚塔と名づけるくらいに 、敬愛していた。
 身寄りの無い老婆を世話していた。
*愛念:1 非常にいとしく思うこと。深く愛する気持ち。2 男女の愛情。
*盟:ちかいをたてること。また、そのちかい。
*驪山(りさん):秦始皇帝の陵(墓)兵馬俑坑(ようこう)

294
愛念盟  2/2
恩愛紅塵誰人掃 恩愛の紅塵誰人かはらはん
娘生赤肉父子道 にょうじょうの赤肉父子の道
羅睺羅箇歡喜丸 らごらこの歓喜丸
携來直授釋迦老 携へ来たって直に釋迦老に授く

くま訳
恩愛を、俗世の煩わしさだといい誰が払いさると言うのだ
母から生れたこの身体もつ人間の、親子の、あるべき道があるのだ。
ラーフラは、仏の功徳を見聞きして,信心を得て歓喜した釋迦の子である
連れてきて直接お釈迦様が教えを伝授したのだ。

*紅塵:1 赤茶けて見える土ぼこり。市街地に立つ土ぼこりなどにもいう。2 俗人の住む世の中。また、 
 俗世の煩わしさ。俗塵。
*羅睺羅(らごら、梵・ ラーフラ)は、仏教の開祖たる釈迦の実子であり、またその弟子の一人
*歓喜:説法を聞いたり,仏の功徳を見たりして,信心を得て非常によろこぶこと。

一休さんにも息子がいた。:岐翁紹偵((きおう・しょうてい) 。偉大すぎる一休パパの子は苦労したことでありましょう。
(´・(ェ)・`)つ

913鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/16(日) 22:19:28 ID:1d4drIFg0
中国の伝説では赤い糸は男女の足首に結び付けられるというのじゃ。
お釈迦様にもラーフラという子があったというのじゃ。
男女の愛も悪いものではないというのじゃ。

914避難民のマジレスさん:2020/08/17(月) 21:50:47 ID:1yezVXyg0
295
末後涅槃堂懺悔1/2
風音気象頌兼詩 風いん  じゅとしと
乗興邪慢吟撚髭 興に乗ずる邪慢吟じて をひねる
悪魔内外託吾筆   内げ我筆に託す
猛火獄中無出期 みょうか  しゅつご無し

蔭木英雄先生訳
風の音や天気によって頬や詩を作り  
興に悪のりして髭をひねって詩を吟ずる  
悪魔外からも内からもワシの筆に乗り移って 
猛火の地獄から脱出する時がないわい

*邪慢じゃまん:間違った行いをしても、正しいことをしたと言い張り、徳が無いのに有ると思うこと。
*悪魔:仏道修行においては、かならず魔の障難がそなわっている。仏道をこころざし、真実に目覚めるこ
 とを「我がいのち」と選び取った者だけに、「そのいのち」を奪おうとして悪魔は現れてくる。

296
末後涅槃堂懺悔2/2
艶簡艶詩三十年  
虚名天沢正伝禅  
吟身半夜与灯痩  
雪月風流白髪前

蔭木英雄先生訳
恋文や艶詩を三十年作り続けたワシは 
虚堂(天沢庵主)正伝の禅者といっても、それは虚しい名声じゃ  
艶詩を苦吟する身体は灯火が薄れるのと一しょに痩せ  
雪じゃ月じゃと風流にうつつをぬかしてい
る間に白髪になってしもうたわい

(´・(ェ)・`)つ

915鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/18(火) 00:39:56 ID:1d4drIFg0
わしは三十年も艶詩を詠って来たと誇っているようでもあるのう。
悟りの道はお香くさいものばかりではなく、こんな道もあると言いたいのじゃな。
自然に親しむのもよいものじゃ。
詩も極めれば道になるものじゃ。

916避難民のマジレスさん:2020/08/18(火) 21:27:14 ID:7OJSsgOo0
一休さん、たとえば話で世情分析(富子の陰謀説)
154
因亂      乱に因って
韓信昔年雲夢殃       のわざはひ
人心眞僞自然彰   真偽じねんにあらはる
安危不定箇時節   定まらずこの時節
人畜難分剕棘墻   分かち難しけいきょくのしゃう

*韓信(かん しん):秦末から前漢初期にかけての武将。劉邦の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を 
 決定付けた三傑の一人。
*荊棘墻(けいきょくのしょう):いばらの垣根。
(´・(ェ)・`)つ
武田 鏡村先生訳・解説抜粋
漢の武将の韓信は信じていた高祖(劉邦)に、雲夢の地に旅をするといってダマされて捕らわれた。
人の心のウソか真かは自然にハッキリするものだ。
安全か危険かハッキリしない今日この頃では、
いくら棘の垣根で分けておいたとしても、人と畜生とは見分けがつきにくいものだ。

一休は韓信を応仁の乱に登場した人物の誰に比定したかはわからないが、韓信が高祖の夫人である呂后の 
陰謀によって殺害されていたことを考え合わせると、応仁の乱の背後に女性の存在があることを早くも感
じとっていたようである。その女性とは、今参局を死に追いやり、日野重子亡きあと、将軍義政を思いの
ままに操ろうとする人物、すなわち日野富子であったことは、以下の数多くの一休の詩からうかがうこと
ができる。・・・(79の詩 前スレhttps://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/  >>831
「美色傾城」参)・・一休は、これら国を傾けた中国の女性たちを詩に詠みながら、じつは乱を引きおこし
国を亡ぼしても、その栄華を貪欲に求めて飽くことを知らない日野富子の姿を読み込んでいる。・・らしい。

くま訳
韓信、昔年、雲夢禍の故事にあるように、
人の心の真偽は自ずと明らかになるが、
安全か危険か定まらない昨今では、
いばらの垣根でも、人畜分け難いのである。

917避難民のマジレスさん:2020/08/18(火) 22:33:17 ID:C90TsP.U0
狂雲集、上下巻の詩、偈頌、法語を数えてみたら
560首であった。
その内、ネットで訳が見つかるのがI〜2割である。
狂雲集、全現代語訳、ネット版を目指すのである。

最初は、漢詩にチャレンジする予定ではなかったのであるが、ハマってしまったのである。
(´・(ェ)・`)b

918鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/18(火) 22:54:32 ID:1d4drIFg0
誰か偉い人が死んだようじゃのう。
真偽は自然に現われるというのじゃ。
時節が不安定で人も畜生も見分けがつかないというのじゃ。
もはや乱世なのじゃ。

919避難民のマジレスさん:2020/08/19(水) 23:16:19 ID:227hnK8M0
名居士紹介
150
龐居士製竹漉籬圖 ほう居士ちくろくりを製するの絵を見て
河裏捨來十万銭  かり捨て来る十万銭   
庫中終没半文銭  庫中終に半文銭なし
眞箇簸箕門下客  真こひき門下のかく
笟籬賣不直多銭  さうり売って多銭にあたらず

くま訳
ほう居士竹かごを作るの絵
浄土への路の絵(維摩図)を見ようと、十万銭を寄進する人も居たそうだ。
わしの蔵の中には終にお金が無くなったのだ。
仏道を生きるために、ざるを売って生活した龐居士の絵を見るために客が集まる。
ざるを売って暮らし、儲けようとはしなかった清貧の居士である。

*龐居士(ほうこじ)?‐815。唐代の仏教者。馬祖と石頭に参禅して,印可を得るが,出家せず。東土の
 維摩とよばれる。禅僧との問答が多く,その偈頌(げじゆ)300首とあわせて,早くより語録としてまと
 められた。
*第2句:瓦棺寺(364年建立、顧愷之(こがいし)が描いた維摩図が三絶とよばれて有名。また天台大 
 師智顗(ちぎ)がここで講説した。)が、建立にあたつて、寄進をもとめた際、画家の顧榿之は百万と記
 帳した。その日頃の貧しさを知る人々は大言だと思ったが、一ヶ月余にして維摩像一躯を描きあげ、第一
 日に観る者は十万銭を施さんと宣言してその通りになった。との故事から、
*漉籬・簸箕・笟籬(ろくり・ひき・さいり): ざる。
*真個(しんこ)真実であること。まこと。真実であるさま。本当に。真に。
(´・(ェ)・`)つ

920避難民のマジレスさん:2020/08/20(木) 19:11:10 ID:lVkxHBd60
いたずらのオチ
297

異類行中是我曾 異類かう中是れ我かつてせり
能依境也境依能 能は境に依りまた境は能に依る
出生忘却來時路 出生忘却す來時の路
不識當年誰氏僧 識らず当年たがうじの僧

くま訳
菩薩が死後も涅槃にとどまらず、六道輪廻に身を転じつつ、衆生を救うということを、我(老牛)かつて行ったのである。
境界は認識能力によって境界としてあり、認識能力も境界を認識する事でなりたっているのである
転生する時には、前世のことは全て忘れてしまうのだ。
現世でなんと言う名の僧になるかは誰もわからないのである。

おまけ:年譜・永亨四年(1432年39歳)
師年三十九歳冬携沅子遊泉 時有女子名彭(ほう)自殺 其夫請師秉炬(ひんこ)
其語曰 手裡吹毛 能死能活 小姑彭耶 一刀兩割擲火炬於背後赴荼毘會者
火星點衣 師一日入檀家 欄有老牛戯書一偈掛其角端云 
異類行中是我會 能依境也境依能 出生忘却來時路 不識前身誰氏僧

其夜牛斃矣 
翌日 牛主戯師 頌殺吾牛
師一咲

くま訳
一休師39歳、南江くんと、泉に遊びに行ったときに、ホウという女子が自殺をした。その夫に火葬の儀を頼まれた。
一休師は、お安い御用と引受けた。「よく生きて死んだホウよ」といって、サッとたいまつを投げ込んで、火葬の儀を
取り仕切った。
精進落しに一休師が檀家のところへ行ったところ、囲いの中に老牛が居たので、そのその角の端にいたずらで頌を書いた
・・297の詩

その晩老牛は死んだ。
翌日、牛の持ち主が一休師に戯れて言った。「一休さんの詩が、私の牛を殺した。」
一休師は、笑った。

うむ。一休さんは、泉の街の人から信頼され、愛されていたようである。」

*沅子:南江宗沅(なんこう そうげん)のことでありましょう。1387-1463五山文学者。一休に傾倒。永 
 享4年一休とともに和泉(いずみ)にいき,晩年は在俗にちかい生活をおくった。
*秉炬(ひんこ)火葬の儀
*火炬(たいまつ)
*欄: 木を横に渡した囲い
*南泉普願(なんせんふがん748〜835)南泉水牯牛
*潙山霊祐(いさんれいゆう771〜853)潙山水牯牛
*異類行中:仏果位以外の菩薩や衆生などの六道に生きる者をいう。異類中行は、異類の中を行く意味であ 
 り、発願利生する菩薩が成仏した後も涅槃にとどまらずに六道の衆生を救うことである。71の詩 参
 https://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/589-n   >>762

水牯牛はバラモン教のなごりでありましょう。
(´・(ェ)・`)つ

921鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/20(木) 23:29:53 ID:1d4drIFg0
今は畜生に生まれたが来世は善いところに生まれよという意味じゃな。
死は必ずしも悲しむべきことでもないというのじゃ。
女子も牛も善事を重ねていれば善い所に生まれるのじゃ。
今の生まれは関係ないのじゃ。

922避難民のマジレスさん:2020/08/21(金) 20:33:57 ID:OIJS2RiY0
大燈が世界一
298
賛大燈國師   大燈國師を賛す
畫出面門無覆蔵 ゑがきいだす面門ふ蔵無し
須彌百億露堂堂 須彌百億露堂堂
徳山臨済若入室 徳山臨済若し室に入らば
螢火應須遇太陽 螢火まさに須らく太陽にあふべし

大燈國師を賛す
ゑがきいだす面門ふ蔵無し
須彌百億露堂堂
徳山臨済若し室に入らば
螢火まさに須らく太陽にあふべし

くま訳
頂相に描かれてるところに、包み隠すところ無く全てがあらわれている。
全世界に対して、威風堂堂たるものである。
徳山や臨済も、もし大燈の教を受けていれば
螢の光が太陽のように輝いたであろう。

*腹蔵・覆蔵(ふくぞう):心の中に秘め隠すこと。
*頂相(ちんぞう):禅僧の肖像画

299
音と悟りに付いての一考察
風鈴   1/2
静時無響動時鳴 じょうの時は響き無く動の時は鳴る
鈴有聲耶風有聲 鈴に聲あるか風に聲有るか
驚起老僧白晝睡 老僧が白昼の睡りを驚起す
何須日午打三更 何ぞもちひん日午の三更を打すを

柳田聖山先生訳
風が止むと声をたてず、風が起こると鳴るのは、
鈴が音をたてているのか、風が音をたてているのか。
昼寝を妨げるなら、
正午に夜半の時を知らせてくれるには及ばない。

くま訳
風が静かな時は響かず、風がおきると鳴る
鈴に音があるのか、風に音があるのか、
音に驚き起こされるのである、
わしが昼寝してるときに、
何で昼に夜警のような鐘を鳴ら必要があるのだろう。

うむ。ありのままの観察をしてるのでありますね。
カラスの声で悟った一休さんによる、音と悟りについての考察は、明日もつづく。
(´・(ェ)・`)つ

923鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/21(金) 22:59:12 ID:1d4drIFg0
↑そうかもしれん。
風鈴が鳴るのは風に音があるからなのか、鈴に音があるからなのか。
公案のようじゃのう。
縁に拠って起こるものと答えておくかのう。

924避難民のマジレスさん:2020/08/22(土) 14:23:26 ID:QXTWiZ2M0
300
風鈴   2/2
見聞境界太無端 見もんの境界はなはだたん無し
好是淸聲隠隠寒 好し是れせいせいいんいん寒し
普化老漢活手段 普け老漢の活手段
和風塔在玉欄干 風にかして塔在す玉欄干

柳田聖山先生 訳
見聞きの相手は、些か気が散りすぎる、
ちょうどよいのは爽やかでそれとは見えぬところだろう。
普化老人の腕の見せ所も、
風ぐるみでは玉のおばしまにひっかけた感じだ。

くま訳
聞聲悟道 見色明心の道は極めて偶然に起こるのである。 
静かなことは好ましいが、静けさは清らかさの中に覆い隠してしまうのである。
普化老漢の、悟りへ導く為の手段なのである(本人が予期しない音をたてることは)
和やかな春風〈悟り)が寝室(心)のわずかに開けた窓から欄干に流れるのを感じるのである。(予期せぬ音で、
我が起こる瞬間に気づき、無我を悟るのである)

*見聞:聞聲悟道 見色明心 93の詩 参  
             https://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/589-n >>924
*端無:何のきっかけもなく事が起こるさま。思いがけなく。偶然。
*寒い:貧しい・貧弱である・寒い
*普化(ふけ)和尚:瑞雲院法話のページより抜粋。
 奇僧として知られる唐代の人。生没年、生地、俗名などすべて不詳、馬祖大師の法嗣の盤山宝積(ばんざ
 ん・ほうしゃく)禅師に師事し法を密受したが、常に狂をよそおいその発言は尋常ではなかった。
 ・・・普化和尚は人の耳のそばで鐸を振り、あるいは鐸で人の背を打ち、そして相手が振り返ると言った。
 「我れに一銭供養せよ」。このようにおよそ人を見れば、相手の高下にかかわらず鐸を振ること一声した 
 ことから普化(普遍の教化)と号したという。
 唐の咸通(かんつう。860〜873)年間の初めごろ、滅を示すべく市に入り人々に言った。「我れに衣を

 枚供養せよ」。ところが人々が衣を与えても受けとらなかった。そこで臨済和尚が人をつかわして棺桶を 
 一つ与えると、普化はそれを受けとって言った。「臨済の小僧は饒舌だ」。そして皆に別れを告げて言っ
 た。「明日、東門へ行って遷化する」
 翌日、人々が連れ立って見送りに行くと普化は言った。「今日は日が悪い。二日後に南門で遷化する」。 
 人々が南門へ行くとまた言った。「明日、西門から出発するのが吉だ」。ところがその日も遷化せず、見 
 送る人がようやく少なくなってきた。そして四度目には北門へ行き、門の外に棺桶をかつぎ出すと鐸を振
 りながら自ら棺桶に入って亡くなった。それを聞いた人々が競って北門へ走り棺桶のふたを開けると、そ 
 こに和尚の姿はなくただ遠ざかる鐸の声を聞くのみであった。
 普化和尚を宗祖とする日本の普化宗は虚無僧(こむそう)の宗派である。
 ・・・普化和尚はいつも鈴鐸を持ち、これを鳴らしながら「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打、四方八面来旋
 風打、虚空来連架打」と唱えて歩いていた。この偈を普化四打話とか普化鈴鐸偈という。

*和風塔在玉欄干:徐仲雅「宮詞」知恵袋・おうえつ 先生訳
 内人曉起怯春寒
 輕掲珠簾看牡丹
 一把柳絲收不得
 和風搭在玉欄杆 風に和して搭ざいす玉欄杆

 知恵袋・おうえつ 先生訳
 妻が朝起きて春の寒さに耐えなかったから、
 すだれを少し掲げて牡丹の花を見た。
 側の柳の垂れた枝を一束手に入れることができなかった。
 春風が玉の手すりから掠める。

(´・(ェ)・`)つ

925鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/23(日) 01:14:30 ID:1d4drIFg0
忠言は耳にいたしというのじゃ。
どんなに善い言葉も人には寒々しいのじゃ。
一休の布教も蛇足というのじゃ。
塔に玉の欄干があるがごとしなのじゃ。

926避難民のマジレスさん:2020/08/23(日) 03:01:29 ID:/74Q.gck0
>>925
鬼和尚、ありがとうであります。
なおしてみたであります。
300(修)
相手に気づかせるように見聞きさせることは、はなはだ難しいのである。
好いこと伝えても、反応は薄く、寒々しいのである。
普化老僧の教化法(鐸を振り、一声する)も、わしの話も、
玉欄干が邪魔をして、何も手に入れられなくしているようなものなのである。
(´・(ェ)・`)b

927避難民のマジレスさん:2020/08/23(日) 17:21:01 ID:cvVqWIyM0
266
井    1/2 
高下互看打氷輪 高下互ひに看る氷輪を打するを
衲僧轆々轉機輪 衲僧ろくろく機輪を転ず
安禪出定淸華暁 安禪出じょう淸華の暁
汲盡天邊月一輪 汲み尽くす天辺月一輪

くま訳

天空と井の中に冷たく輝く月が見る
禅僧は強烈な禅機を働かせる
一心に坐禅をして、本來あるべき所に戻り、
天に輝く月一つを汲み尽くすのだ

*氷輪(ヒョウリン):氷のように冷たく輝く月。
*安禅:いっさいの動揺を去り、身心安楽になるところから一心に坐禅を行なうこと。坐禅。
*淸華:栄華・ 権力や財力を得て、はなやかに栄えること。
*淸華家の略・公卿の家格の一。七家。九清華
(´・(ェ)・`)つ

928鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/24(月) 00:26:39 ID:1d4drIFg0
水車が回るように日々倦まずに精進すると成果も出るのじゃ。
安禅は清い華の如く暁を出だすというのじゃ。
そして天の月も汲みつくすと言うのじゃ。
月を映す水が無ければ月も映らないのじゃ。

929避難民のマジレスさん:2020/08/24(月) 20:20:34 ID:fBHCYJXA0
152
洛陽火後
寒灰充寒洛陽城 寒くわい充そくす洛陽城
二月和花春草生 二月花にくわして春草生ず
黄金宮殿依然在 黄金の宮殿依然として在り
勅下千秋萬國清 勅下って千秋万国清し

柳田聖山先生訳
京都炎上
寒々とした灰に包まれた洛北の街は
二月を迎えて早春の草花が生えだし
天子の在す御所のみが火災を免れて
日本は勅命により国家は安泰である 

くま訳
冷たい灰塵に埋もれた冬の京都の町
二月になり、春の花が咲く
皇居は依然として健在だ
天子の、御心とともに、いつまでも安泰であれと願う心が清いのだ。

*洛陽火:190年、後漢の洛陽に董卓火をかけ、戦乱が始まった 。1467年応仁の乱:大徳寺炎上。
*千秋萬(万):千年も万年もいつまでも健康であるようにと言う意
(´・(ェ)・`)つ

930鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/24(月) 22:34:19 ID:1d4drIFg0
応仁の乱では京都も焼け野原になったというのう。
皇居だけは焼けなかったというのじゃ。
それもみんなが消火に励んだからじゃろう。
そのように安泰を願う気持ちが尊いのだというのじゃ。

931避難民のマジレスさん:2020/08/25(火) 21:42:02 ID:peDpOx2g0
涅槃堂でも笑いをとりたい、一休さん。
153
涅槃堂
眼光落地涅槃堂
自悔自愧螃蠏湯 自ら悔い自ら愧ずほうかいのとう
七手八脚萬劫苦 しちしゅ    の苦
無常刹鬼火車忙 無常の    忙はし

くま訳
死を迎える場所である涅槃堂
後悔して、恥かしく思うのは、蟹汁を食すなどの贅沢をしたことだ。
多くの人が寄ってたかって、世話を焼きに来るのが、なんともも心苦しいことである。
悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を奪うとされる妖怪も忙しいことであろう。

*螃蠏(ほうかい):蟹
*七手八脚:多くの人が一斉に慌ただしく動き回る,皆が寄ってたかってやる.
*劫苦:長い期間続く苦しみのこと
*殺鬼:万物をほろぼし去る無常をたとえていう語
*火車/化車(かしゃ):悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を奪うとされる日本の妖怪
(´・(ェ)・`)つ

932鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/25(火) 22:46:53 ID:1d4drIFg0
人が死ぬ時には自ら悔い愧じるものじゃ。
それを閻魔の裁きと解釈したりするのじゃ。
死に際には湯に落ちた蟹の如く手足をばたばたさせて苦しむのじゃ。
禅語では蟹の如く手足をばたばたさせる様を七手八脚といったりするのじゃ。
無常の羅刹鬼が乗る火車も忙しく走り回るのじゃ。
生きている内に善事をつむと善いのじゃ。

933避難民のマジレスさん:2020/08/25(火) 23:32:49 ID:peDpOx2g0
>>932
鬼和尚、ありがとうであります。
あらためて検索したら、出てきたであります。
柳田聖山先生著・禅語の発掘(キャッシュ)より
『無関門』の第三十五に、倩女離魂の公案がある。もと、唐代の伝奇小説『離魂記』からとったもので、こ
の相い寄る魂のものがたりは、よほど人々の関心をひいたものとみえ、元代には、別に雑劇の一つにもなっ
ている。
ところで、無門はこの公案の説明のうちに、「驀然として地水火風の一散するとき、湯に落ちたる螃蟹のご
とくに七手八脚ならん」といっている。断末の際、肉体を構成する四つの要素が空にかえるとき、われわれ
はあたかも熱湯の中におとされたカニのように、もがきくるしむほかはないとういう意味である。螃蟹はカ
ニの俗称、七手八脚は手足をバタバタさせる形容である。カニのたとえは、じつは雲門の説法からきている。

忽ち一日、眼光の地に落つるとき、前頭に什麼を将って抵擬せん。湯に落ちたる螃蟹に似て、手忙しく脚乱
るること莫かれ。你が掠虚に大話を説く処無からん。(『伝燈録』巻十九)

これで明らかなように、「七手八脚」は手忙しく脚乱るる様子である。『五燈会元』の仏照徳光の説法にも、
「七手八脚、三頭両面、耳は聴くも聞えず、眼は覷るも見えず」とある。この場合は、カニではなくて人間
のことである。せっぱつまると、人間でも手足が八本、顔が二個あることになるらしい。
(´・(ェ)・`)b

934避難民のマジレスさん:2020/08/26(水) 00:29:14 ID:peDpOx2g0
153修正くま訳
修正くま訳
死を迎える場所である涅槃堂では、
悔い、愧じて、湯に投ぜられた蟹のようにもがくものなのだ。
手足をばたつかせて永遠の苦しみのように感じるのだ。
悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を奪うとされる妖怪も忙しいことであろう。
(´・(ェ)・`)b

935避難民のマジレスさん:2020/08/26(水) 19:41:44 ID:5PNHw7hQ0
師家養成講座 譬喩の使い方
155   1/2
倭國以譬喩作實 倭国比喩を以って実となす 
勘辨入邪毒気深 勘弁邪に入って毒気深し
元非君子小人心 元君子に非ず小じんの心
暗認譬喩作實會 暗に比喩をとめて実ゑをなす
苔衣雲帯楽天吟 たいえ雲帯楽天が吟

くま訳
日本では、遠まわしな比喩で、物事を伝えようとする。
修行者の力量を測るのに間違った方法をとれば、毒になってしまう。
元々学識の深い人格者ではなく未熟な相手には、
遠まわしな比喩を使い、実際の指導効果をもたらすのである。
山の景観について、苔むした岩は衣の様であり、山肌にまとわる白雲は帯の様であると、謡曲白楽天に詠ま
れているような感じに、比喩を使うのである。

*譬喩:教説の意味内容を理解しやすくするために、実例や寓話などを用いて説明すること。釈尊は説法に

 際して譬喩を巧みに用い、大乗・小乗を通じて諸経論に多くの譬喩が説かれている。
*勘辨:禅宗で、修行者の力量や素質を試験することにいう。
*邪:心がねじ曲がって正しくないこと。また、その人。よこしま。不正。
*君子:学識・人格ともにすぐれた、りっぱな人
*苔衣:僧・隠者などの着る粗末な衣服。こけごろも。こけのたもと。こけのきぬ。

しかる時には比喩は使わない一休さん
156    2/2
今時日用誰人道 こんじ日用たれ人かいふ
超越佛祖是野老 仏祖を超越す是れや老
這般輩法中畜生 しゃ般のともがらほっ中のしゅくさん
胸襟愚不鋤荒草 胸襟愚にしてくわうさうをすかず

くま訳
今時、日常の振る舞いに付いて誰が指摘するだろうか。
仏祖をも超越する一休爺さんくらいなものである。
今時の輩は僧であっても畜生である。
心うちが愚であり、心中迷いの中にあり、目もあてられぬ有様である。

*法中(ほっちゅう・ホウジュウ)多くの僧をさしていう。僧の仲間。
*荒草曾て鋤かず:臨済録の「上堂」にある、言葉。「心中の迷いの茫々たり。目もあてられぬむさむさし
さ」
(´・(ェ)・`)つ

936鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/26(水) 21:40:40 ID:1d4drIFg0
>>933 そうじゃ、禅語では世間の言葉と違う用法をするから気をつけなければならんのじゃ。
 後ろ禅と追加して検索すると善いのじゃ。

937鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/26(水) 21:43:38 ID:1d4drIFg0
もはや乱世になって誰が道を行くのかとと嘆いているのじゃ。
ただこのじいさんだけというのじゃ。
僧と名乗るものでも畜生に等しいのじゃ。
本心には触れもせずほったらかしでは修行にもならないのじゃ。

938避難民のマジレスさん:2020/08/27(木) 20:18:06 ID:cj1chvzQ0

自分の正しさが理解されずに、嘆いてみせる一休さん
158
示禮佛組禱福力僧 仏祖を礼(らい)し福力を祈る僧に示す
覊客恨多天地人  きかく恨み多し
愚哉鬼窟舊精神  愚なる哉鬼窟の旧精神
元來諸法従縁起  元來諸法縁によって起こる
風月沈吟一箇貪  風月沈吟一個の貧

くま訳
仏を拝んでご利益を祈る僧に示す
束縛の多い人生行脚、恨みが多いこの世である。
愚かなことである、ものの道理に暗い、古い物事の考え方
元來諸法は縁起によって起こる。
風月をめでて、作詩に耽るのも、三毒の一つ貪であるというのだ。

羈客:旅客
羈絆(きはん):牛馬をつなぎとめるものの意。行動する者の妨げになるものや事
福力:福徳の力。財に富んで勢力のあること。また、その人。
鬼窟:知識が開けないで、ものの道理にくらいこと。また、そういう所や仲間。転じて、くだらないことの
意にもいう。

名僧紹介
159
賛慈恩窺基法師 じおんきき法師を賛す
窺基三昧獨天眞 きき三昧独り天眞
酒肉諸経又美人
座主眼睛猶若此 ざすの眼睛かくの如し
宗門唯有箇宗純    個の宗純有り

くま訳
慈恩大師を讃える
慈恩大師は独り三昧に入り、諸法の本然の姿を知っている。
酒肉を食らい、諸経を修め、又美人を愛す。
一山首席の僧の真実を見抜く力とは、かくの如きものである。
大徳寺宗門では、独り宗純のみがそれを持つのである。

*慈恩窺基法師:慈恩大師・(632-682)唐代、法相宗を起した。玄奘三蔵に師事『成唯識論』を注釈して
 『成唯識論述記』『成唯識論掌中枢要』を著し、『唯識三十頌釈』中の護法の釈論を中心に据えて、真諦
 (しんだい)訳を中心としたそれまでの唯識説を批判し、新唯識説を打ち立てた。
 出家するにあたって、師の玄奘に、女色と酒肉を断たないことを条件として要求し、僧となってからは酒
 、女、そして経典をのせる三つの車を率いたという逸話から、三車法師というあだ名がつけられたという。 
 しかし、「宋高僧伝」における玄奘と基とのエピソードは学術的には信頼性に欠けるものとされ、この逸
 話を記載する「宋高僧伝」自身も、基自らが「自序」において語る来歴との齟齬から、もし基が事実を述
 べているとするなら、誹謗中傷の説であると述べている。
*座主(ざす):住職最上位の別称
(´・(ェ)・`)つ

939鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/27(木) 22:29:27 ID:1d4drIFg0
酒色を嗜む自分を同じく嗜む慈恩の宗門と詠っているのじゃな。
真の悟りを得ればもはや酒色も囚われずに嗜むのじゃ。
それが出来るのは自分と慈恩のみというのじゃ。

940避難民のマジレスさん:2020/08/28(金) 20:57:42 ID:RoJ3t8Ms0
うむ。寺経営は難しいのでありましょう。
157
行脚
咸陽金玉幾楼臺 咸陽の金ぎょく幾楼台
方寸封彊歸去来 方寸のほうきょう帰へんなんいざ
一箇出頭天外看  一個天外に出頭して看れば  
須彌百億草蛙埃 しゅみ百億草あいのちり

くま訳
咸陽の黄金と宝玉を散りばめ幾重もの楼台に囲まれた阿房宮(如意庵)を出て
狭いどての庵に帰るぞ!いざ!
迷妄の雲を 突き破って悟り、天の外に 飛び出せば、
須彌山(世界)が百億あっても、そんなものは、草履の塵にに過ぎないと分かるのだ。

*封彊(ほうきょう):どて
*帰去来(ききょ らい):陶淵明(とうえんめい)「帰去来辞」より。故郷に帰るために,官職をやめてそ
 の地を去ること。「かえりなんいざ」と訓読されてきた。
*出頭天外看 :迷妄の雲を 突き破って 天の外に 飛び出してみなさい
(´・(ェ)・`)つ

941鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/28(金) 22:45:06 ID:1d4drIFg0
なかなか壮大な詩なのじゃ。
黄金や宝玉をちりばめた楼台より、狭い我が家に帰るほうがよいというのじゃ。
天の外まで頭を突き出せば、チョモランマも草履の塵なのじゃ。
それは観念ではなく実感なのじゃ。
ブラフマンの法なのじゃ。

942避難民のマジレスさん:2020/08/28(金) 23:17:01 ID:RoJ3t8Ms0
>>941
鬼和尚、ありがとうであります。
明日取り上げる詩が、明確に如意庵脱出の際の詩なので、それに引き寄せられて、狭く解釈
してしまったであります。
気宇壮大な悟りの詩と解釈したほうが、良いで有りますね。
くま訳の(如意庵)を削除するであります。
(´・(ェ)・`)b

943避難民のマジレスさん:2020/08/29(土) 18:24:05 ID:hDzlT5kk0
如意庵脱出大作戦
160
将入山中      将に山中に入らんとして  
一偈書屋壁以示衆去 一偈を屋壁に書し以って衆に示して去る  
愧慚禍起自蕭墻   愧慚す禍のせうしゃうより起こるを    
我見折人如劍鋩   我見人をひしいでけんぼうの如し
從此空山幽谷路   此れより空山幽谷の路
誰人來踏板橋霜   たれ人か来ってはんけうの霜を踏まん

くま訳
これより寺を出て、山に入ろうとするに際して
偈を一首、屋壁に書き残し、皆に示した
残念で愧ずべきなのは、寺内の内輪もめにより禍が起こったことである。
我見、相手を圧し潰す、剣の切先のような偈を書き残した。
これより、空山幽谷へ旅立つ
一体誰が、訪ねてきて、板橋の霜を踏むというのか。

*偈(げ、サンスクリット語: gāthā)とは、仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文
 の形式で述べたもの。「偈陀(げだ)」「伽陀(かだ)」とも音写し、意訳して「偈頌(げじゅ)」とい 
 う。対して散文部分を「長行」という。中国日本の偈禅僧などが悟境を韻文の体裁で述べたものを「偈」
 と呼ぶ。中国の偈は押韻しているのが普通であるが、日本人の詩偈と呼ぶ儀式に使用される法語には破格 
 のものも多い。

*蕭牆の患い(しょうようのうれい):一族の内輪もめ。内乱。「蕭牆」は君臣の会見所に設けた屏風。
*我見:①自分だけの狭くかたよった意見や見方。② 「我執(がしゆう)」に同じ。
*折ぐ・拉の異字体(ひしぐヒサグ)押しつぶす。ひしぐ。押されてつぶれる。ひしゃげる。
*剣鋩・剣芒(けんぼう):つるぎのきっさき。剣鋒

一休さん47歳 大徳寺で華叟和尚の十三回忌があり、放浪中の一休さんも参加。大徳寺の人の要請で山内の
如意庵に住むが、嫌気して十日で出ていってしまった。そのときの偈↓ くま訳は後日

住庵十日意忙忙
脚下紅絲線甚長
他日君來如問我
魚行酒肆又淫坊
(´・(ェ)・`)つ

944鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/29(土) 22:32:40 ID:1d4drIFg0
>>942 そうじゃ、一休も全てになったのじゃ。
 全てが全ての境地なのじゃ。

945鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/29(土) 22:34:30 ID:1d4drIFg0
寺に内輪もめが起きて捨てたというのじゃ。
出家の出家なのじゃ。
もはや誰も来ないところに行くというのじゃ。
しかしやはり戻ったりするのじゃ。

946避難民のマジレスさん:2020/08/30(日) 13:10:00 ID:GUs4LvF60
手紙の書き方講座(近況・お礼・用件・励まして、締め)
161
示山中典座   山中典座に示す
皈宗一味日興餘 きすの一味にっきょうの余
典座山中功不虚 典座山中功虚しからず
休覓浄名香積飯 浄名のこうしゃくのはんをもとむるをやめよ
何時饍有美雙魚 何れの時か膳に美双魚あらん

くま訳
如意庵の典座に示す
わしは、帰宗の一味禅のように、余計な事に囚われずに、本来の修行生活に戻り、日々興じているよ。
典座の如意庵における功績は、大であった。
ただ、在家の富豪の信者に豪華な食事の提供を求めるのはやめなさい。
そのうち、良い便りがあるさ。

*典座(てんぞ)禅宗用語。禅林において座具,炊飯,料理を司る僧侶の役職名。重要な役なので高潔の僧 
 が選ばれる。
*歸宗:帰宗智常・馬祖の弟子
*浄名:維摩詰(ゆいまきつ)」。漢訳して「浄名」「無垢称」〕 古代インドの毘舎離(びしやり)城の
 富豪で、釈迦の弟子となり在家のまま大乗仏教の奥義に達したと伝えられる人物
*香積飯(こうしゃくはん):「維摩経‐下・香積品」香積如来の食べるご飯。転じて、僧の食べる物を
 敬っていう。
 香積如来:この世界の上方にある、すべてが香気を放つという衆香世界の仏。
*双魚・:遠来の客が置いていった2匹の鯉 (こい) の腹中に手紙があったという「古楽府 (こがふ) 」  
 の故事から、手紙のこと。
(´・(ェ)・`)つ

947鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/30(日) 22:05:26 ID:1d4drIFg0
出家でも名声や美食を求める者が居たのじゃな。
そのようなものを求めるのは止めよというのじゃ。
全ての世を捨てるのが出家であるからのう。
真の喜びは自らの心の中にのみあるのじゃ。

948避難民のマジレスさん:2020/08/31(月) 20:00:47 ID:1yezVXyg0
宮沢賢治憧れの菩薩紹介(けど、一休さんは、黙ってない)
162
禮常不軽菩薩  常不きょう菩薩をらいす
記得昔年常不軽 記どくす昔年の常不軽
可惶血気衆生情 おそるべし血気衆生の情
看看火宅脚跟下 看よ看よ火宅脚こん下
滿目無間獄大城 満目無間獄の大城

くま訳
常不軽菩薩を礼拝する。
昔覚えた常不軽菩薩。
おそるべし、旺盛な活力、生きとし生けるものの心の働き。
見よ足元の、煩悩、苦に満ちた娑婆世界を
見渡す限り無間地獄の大城だ

*常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ、梵:Sadāparibhūta):法華経に登場する菩薩である。釈尊の前世の
 姿であったとされる。常不軽菩薩は自身が誹謗され迫害されても、他人を迫害するどころか、仏法に対す 
 る怨敵などと誹謗し返さなかった。この精神や言動は、宗派を問わず教理を越えて、仏教徒としての原理 
 的な行動・言動の規範としてよく紹介引用される。
 宮沢賢治は、この菩薩のように生きたいと手帳に書いて常に持ち歩いていた。
*血気:旺盛な活力、気力
*火宅:煩悩、苦に満ちた此の世、娑婆世界
*無間獄:無間地獄:八大地獄の一つで、八熱地獄の八番目、最下底の地獄。「五逆」と「謗法ほうぼう
 (仏法を誹謗ひぼうすること)」の大罪を犯した者が落ちて、絶え間なくきびしい責め苦を受ける所とさ 
 れる。
(´・(ェ)・`)つ

949鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/31(月) 22:21:50 ID:1d4drIFg0
もはや乱世も近く血気盛んな若衆もいたのじゃろう。
傍若無人な者を見ては世も末であると嘆いていたのじゃろう。
一切皆苦の火宅に喜びはないのじゃ。
火宅から無間地獄に行かないように謙虚に生きるのじゃ。

950避難民のマジレスさん:2020/09/01(火) 20:16:53 ID:CccXjOcY0
事件であります
163   1/2
前年辱賜大燈國師頂相 前年大燈國師の頂相を賜ふことをかたじけなうす
予今更衣入浄土宗   予今えを改めて浄土宗に入る
故茲奉還栖雲老和尚  故にここにせい雲老和尚に還し奉る 

離却禪門最上乗    禅門最上乗を離却して
更衣浄土一宗僧    えをかふ浄土一宗の僧
妄成如意霊山宗    みだりに如意霊山の衆と成って
嘆息多年晦大燈    嘆息す多年大燈をくらますことを

くま訳
前年大燈國士の肖像画を頂いたことを、かたじけなく思います。
私はこれから、僧衣を改めて、浄土宗に改宗します。
故に、ここに、栖雲老和尚に対して、画を返還し奉る。

禅門最上の達磨の禅を離却して、
僧衣をかえて、浄土宗の僧になります。
今まで無分別にに、如意庵や徳禅寺で僧となり、
嘆き、苦しんでいます。長年大燈國師の法灯をたぶらかしてきました。

*頂相(ちんぞう・ちんそう・ちょうそう)または頂像は、禅僧の肖像画、または肖像彫刻のこと。
*最上乗禅:達磨の系統の禅をいったもの(この上ない乗り物としての禅の意)。中国唐代の宗密が、禅に
 外道禅・凡夫禅・小乗禅・大乗禅・最上乗禅があるとしたのによる。

結局、最後には大徳寺住持になり、今やその墓所は宮内庁管理下でありますから、臨済宗と浄土宗で、一休
さんの取り合いでありましょうが、本人にとってはどうでも良い事なのでありましょう。
(´・(ェ)・`)つ

951鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/01(火) 22:48:32 ID:1d4drIFg0
そうじゃ、もはや宗派などどうでもよいのじゃ。
どこにでも行ったりきたりするのじゃ。
自在なのじゃ。
今までこんなに自由だった者はいなかったじゃろう。
これからもいないじゃろう。
それが一休が愛される理由なのじゃ。

952避難民のマジレスさん:2020/09/01(火) 22:57:32 ID:BDVNOiQA0
うむ。で、ありますね。
すっかり、とりこのくまであります。
(´・(ェ)・`)b

953避難民のマジレスさん:2020/09/02(水) 13:45:30 ID:tKAk9nHE0
鬼和尚さま

2才半になる子どもを育てているのですが、食べむらや偏食があり、栄養が心配なのでアドバイスお願いします。

具体的には、小食で、バナナや甘い物ばかり食べたがり、野菜は、カレーやミートソースなど、みじん切りかペースト状のものしか食べません。
お好み焼き、麺類はほとんど食べません。
ご飯は食べず、バナナ牛乳だけ飲むなんてことも多いです。
カレーやミートソースも頻繁だと飽きて食べなくなります。
野菜類がうまく食事でとれない時は、野菜ジュースを飲んで貰うようにしてます。
野菜ジュースは、スーパーで200円代で売ってる果物入りの物です。
西式健康法の本を読んだことがあるので、野菜は野菜ジュースでとれればいいかと思っていたのですが、果物入りで甘く、鮮度も良くないでしょうし、体に良いのか心配になりました。
もし、市販品で良いものがあれば教えていただけないでしょうか。

また、ナッツ系にアレルギーがあります。
甘い物の食べすぎでアレルギーになってしまったのでしょうか?

よろしくお願いします。

954避難民のマジレスさん:2020/09/02(水) 13:47:02 ID:tKAk9nHE0
953です。
すみません。
書くところを間違えました。
相談のところに書きます。

955避難民のマジレスさん:2020/09/02(水) 20:37:07 ID:giq2kMYI0
164    
前年辱賜大燈國師頂相 2/2 
狂雲大徳下波旬 狂雲大徳下のはじゅん
會裡修羅勝負嗔 えりの修羅勝負いかる
古則話頭何用處 古則話頭何の用じょぞ
幾多辛苦數他珍 幾多の辛苦他の珍を数ふ

くま訳
狂雲は大徳寺の悪魔のような奴らと、
一休会下の醜い争いに怒っているのである。
古人が残した手本や公案を用いるような場合ではないのだ。
幾多の辛苦を経ることにより、他の者が滑稽な誤りを犯していることに気づけるようになるのだ。

*波旬:サンスクリット語のパーピーヤス、パーリ語のパーピマントの音写で、悪意(パーパ)ある者の意。
仏や仏弟子を悩ます悪魔、魔王として登場し、しばしば魔波旬(マーラ・パーピマント)とよばれる。魔
(マーラ)は殺す者の意。個人心理的には安定(悟り)に対する不安定(煩悩(ぼんのう))の、集団心理的
には新勢力(仏教)に対する旧勢力(バラモン教)の象徴と考えられる。
*修羅:阿修羅(あしゅら、梵, 巴)六道の一つであり、戦闘をこととする鬼類。
(´・(ェ)・`)つ

956鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/03(木) 00:25:02 ID:1d4drIFg0
わしは悪魔じゃとかいうのじゃ。
修行は阿修羅が怒りて勝負する如しなのじゃ。
いにしえの手本など通用しないのじゃ。
さんざん苦労して修行してこそ真に尊いものを知ることが出来るのじゃというのじゃ。

957避難民のマジレスさん:2020/09/03(木) 00:49:17 ID:iMRndr5k0
>>956
鬼和尚、ありがとうであります。
くま訳改
狂雲は大徳寺の悪魔である
一休会下の者たちは、阿修羅の如く修行せよ。
古則考案等も修行のために使わなければ無意味である。
幾多の辛苦を乗り越えてこそ、真に尊いものに出会えるのだ。
(´・(ェ)・`)b

958鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/03(木) 22:39:00 ID:1d4drIFg0
↑そのような感じじゃな。
なかなか厳しいことをいうのじゃ。
修行も命がけでやらなければ意味がないというのじゃな。
昔は徹夜で座禅するのもあたりまえだったというのじゃ。
真摯に悟りを熱望すれば悟道も向こうからやってくるのじゃ。

959避難民のマジレスさん:2020/09/03(木) 22:51:30 ID:U//D.ckI0
一休さん、宣戦布告!
165
自山中昄市中  山中より市中に帰る
狂雲誰識属強風 狂雲たれかしらん強風に属するを
朝在山中暮市中 あしたに山中に在り暮には市中
我若當機行棒喝 我若し機に当たって棒喝を行ぜば
徳山臨済面通紅 徳山臨済面通こう

くま訳
山(譲羽山)から(京都)市中へ帰るのだ
狂雲が、実は狂風だとは誰も知るまい。
朝、山中に居たと思ったら、夕方には市中に居るのだ。
わしが、臨機応変に、棒喝を駆使したら、臨済や徳山でも、ビビッて赤面するであろう。

*山:譲羽山
*風狂:中国の仏教、特に禅宗において重要視される、仏教本来の常軌(戒律など)を逸した行動を、本来
 は破戒として否定的にとり得るものを、その悟りの境涯を現したものとして肯定的に評価した用語である。
*臨済の喝徳山の棒:「伝灯録」・臨済禅師はよく大喝を与え、徳山和尚はよく痛棒を加えたことから、  
 禅宗の修行のきびしさのたとえ。

一休さんの師家養成講座
166
竹幽齋
香厳多福主中賓 きゃう厳多福主中のひん
密密参禪到要津 密々参禪要津に到る
六六元來三十六 六六元來三十六
清風道處有佳人 清風動く処佳人有り

くま訳
竹幽斎
香厳は、とても幸運だった。師匠には力量が無かったが、本人に力があった。
独り緻密な瞑想に取組むことこそが、悟るための重要な手段なのである。(知識ではないのである)
六×六は三六。道理にかなった結果である。
清らかな風が吹くところには、美人が居るものである。

*竹幽斎:香厳智閑(きょうげん・ちかん。?〜898)道を掃除している時に、竹に小石が当たり、響いた
 音を聞いて(撃竹)を聞いて大悟す、故に之を云ふ
*佳人:美人。此の佳人、大悟底の因縁なり。
*要津:迷いの海を渡りさとりの彼岸に達するための重要な手段、方法。港
(´・(ェ)・`)つ

960避難民のマジレスさん:2020/09/03(木) 23:10:09 ID:U//D.ckI0
おまけ①:四賓守(飛不動HP解説)  
 四賓主は、賓と主、二人の能力の関係を四通りに分けたものです。賓は客、主は亭主。通常、客が修行者、
 主は師となります。
 ① 客看主 「客、主を看る」
  修行者が力量のある者で、師に力量がない=劣る場合。
 ② 主看客 「主、客を看る」
  師に力量があり、修行者に力量がない=劣る場合。
 ③ 主看主 「主、主を看る」
  師も修行者も、ともに優れた者の場合。
 ④ 客看客 「客、客を看る」
  師も修行者も、ともにまだ悟っていない力量不足者同志の場合。

以上は臨済宗の場合で、曹洞宗では、
 ①主中賓 ②賓中主 ③主中主 ④賓中賓 と表します。

 ① 修行者に見破られている状態。
 ② にわか住職に見破られている状態。
 ③ 共に悟りの眼があり、禅の話をして相通じる状態。
 ④ 共に悟りの眼がないので、お互い話がチンプンカンプンの状態。

おまけ②:四料簡 しりょうけん(飛不動HP解説) @前スレ31〜34の詩・参
こちらも臨済義玄禅師が提唱したもので、臨機応変に修行者を導くことを示した四種類の指導方法です。

1、奪人不奪境だつにんふだつきょう 
  修行者が自分を見つめることを否定して、現象とか環境に没入させる。
2、奪境不奪人だつきょうふだつにん 
  修行者が現象とか環境に没入することを否定して、自分のみ見つめさせる。
3、人境両倶奪にんきょうぐだつ 
  修行者を徹底的な無の境地に導く。
4、人境倶不奪にんきょうぐふだつ 
  修行者に、すべてありのままに受け止めさせて、何ものにも束縛されない境地に導く。

これも日常生活に置き換えてみることができると思います。

1、ある時は、自分を忘れて相手を生かす。
2、ある時は、相手を無視して自分だけで振舞う。
3、ある時は、自分も相手も忘れる。
4、ある時は、自分もあり、相手もある。"
(´・(ェ)・`)つ

961鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/05(土) 00:18:34 ID:1d4drIFg0
本人が強く悟りを求めていれば師匠がいなくても悟れるのじゃ。
マハリシのようにのう。
日々精進してこそ悟りもやってくるのじゃ。
六根六強の凡人も元来仏なのじゃ。
修行してきた者にのみわかる道理も在るのじゃ。

962避難民のマジレスさん:2020/09/05(土) 02:43:46 ID:0F70uATg0
>>961
鬼和尚、ありがとうであります。
くま訳改
香厳には、幸いなことに、本人に悟りを求める力があった。
独り緻密な瞑想に取組むことこそが、悟るための重要な手段なのである。
六根に囚われる凡人も、元来仏なのである。
形式に囚われず、ありのままに気づく修行を続ければ、悟りがおとずれるのである。

*六六:六根六強:六根「感覚や意識を生じ、またそれによって迷いを起こさせる原因となる六つの器官」に強 
 く囚われる。
*三十六:仏の「三十二相」を七言三十六句 (または四十句) の韻文にした声明の句数から「仏」のこと。
*清風道:清風動脩竹・『普燈録』上堂・・形式に囚われず本質をありのままにとらえること・・でありま 
 しょうか
(´・(ェ)・`)b

963鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/05(土) 22:27:53 ID:1d4drIFg0
六強は六境の間違いだったのじゃ。
変換間違いじゃな。
六根の認識対象なのじゃ。
色声香味触法なのじゃ。

964避難民のマジレスさん:2020/09/05(土) 23:37:53 ID:nenS2e0o0
>>963
鬼和尚、ありがとうでであります。
くま訳改改
感覚や意識とその認識対象を分別し、認識主体ありとする凡人も、本来仏なのだ。
(´・(ェ)・`)b

965避難民のマジレスさん:2020/09/05(土) 23:55:36 ID:nenS2e0o0
臨終に立ち会う際の心構え
167
我病不及良薬効験 我が病良薬の効験に及ばず
不及経呪霊験   経呪の霊験に及ばず
逐日窮困     日逐ふて窮困す
有我情識儞等諸人 我が情識有るときなんぢら諸人
縦雖刹那     たとひ刹那と雖も 
縦雖一念     たとひ一念と雖も
成真正工夫    真正の工夫を成し
窮決未了處    窮決未了の処
到着實處     実処に到着せば
諸魔障頓除    諸の魔障頓(とみ)に除いて
老懐如意耳    老懐如意ならんのみ
衆無對      衆こたへ無し

右霊山和尚因病示衆法語 右霊山和尚病に因って衆に示す法語
題其後云     其の後に題すと云ふ     

不須経呪亂心頭 経じゅの心頭を乱すことをもちひず
佛界伎窮魔界収 佛界伎窮まり魔界収まる
莫向愁人説愁意 愁人に向かって愁意を説く莫れ
相如雲雨渇望秋 相如が雲雨渇望の秋

くま訳
我が病は良薬の効果なく、
経呪を唱えてもご利益なし。
日をおって、悪化している。
我が心の迷いがあり、混乱しているとき汝等各人
仮に刹那であり、
仮に一念であっても、
真剣に、加持祈祷などの工夫をしてくれて、それでも、
最終的な解決法がもたらされないとき
現実の結果(死)が出れば、
(心をかき乱す)魔性はただちに取り除かれるものであるよ。
死を前にした年寄の願いはそれだけである。
修行僧たちは、一言も無かった

この霊山和尚病に因って修行僧に示した法語
其の後にと題して

経呪を唱えるなど、心を混乱させることする必要は無い。
仏界の智慧の技が窮まれば、魔界を鎮めることができる。
愁い悲しむ人に対して、愁い悲しみを説くことなかれ。
一緒に、エッチなことでもしに行きたくなる秋ですね。とでも言えば良いのである。

*情識:心。迷いの心。本能のままの心の作用
*工夫:参禅修行に励み、様々な努力を重ねる
*魔障:仏道の修行の妨げをなすもの。また、悪魔。
*相如(しゃうじょ): 性質や状態などが互いに匹敵する。
(´・(ェ)・`)つ

966鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/06(日) 22:45:36 ID:1d4drIFg0
経典も呪文も頭を乱すのみというのじゃ。
仏界も無く、魔もない究極の境地に行くのじゃ。
自己を持つものに自己を説いても無意味なのじゃ。
それは雲や雨が秋を渇望しているというようなものなのじゃ。
己を極めれば自然に悟りはやってくるのじゃ。

967避難民のマジレスさん:2020/09/07(月) 19:18:00 ID:RoJ3t8Ms0
>>966
鬼和尚、ありがとうであります。
くま訳改
経呪を唱えるなど、心を混乱させることしてはならない、
仏界の智慧の技を窮め、魔界を鎮めて、仏界、魔界の彼方へ行くのだ。
愁い悲しむ自我がある者に対しえ、愁い悲しむ自我を説くことは無意味である。
それは、雲や雨が秋を渇望しているようなものである。観念を追うのではなくて、ありのままをありのままに極めるのだ

*窮まる:①極限に達する。②この上なく…である、きわめて…であるなどの意を表す。
 ③(「谷まる」とも書く)行き詰まって困りはてる。④終わる。尽きる。⑤結論が出る。決まる
*収まる:取り入れる。 乱れがしずまる。2.おだやかに落ち着く
*愁い:①悪い状態になることを予想し心配すること。不安。②心中にいだくもの悲しい思い。憂愁。③災 
 い。難儀。
(´・(ェ)・`)b

968避難民のマジレスさん:2020/09/07(月) 19:22:12 ID:RoJ3t8Ms0
覚者の真の心境
168
人境懐古 1/2
境無心燈籠露柱 境は無心なり燈籠露柱
人辨別珠玉塊土 人は弁別す珠玉くわいど
一夜五十年前吟 一夜五十年ぜんの吟
青塚残月巫山雨 せいちょうの残月ぬざんの雨

くま訳
人里の思い出
感覚や意識の対象、その認識主体など無いのだ。ただ、ありのまま、燈籠やお堂の柱があるのみである。
人は宝玉と土塊を分別する。(が、本来何の違いも無い、従って、)
五十年前の一夜の吟
京都久津川青塚古墳に残月がかかる中、夢の中で契りを結んだ珠玉の思い出。(んなものに何の価値もないこ
とを、わしは知っておるのだ。)

*境:視覚 (眼) ,聴覚 (耳) ,嗅覚 (鼻) ,味覚 (舌) ,全身体的触覚 (身) ,心の感覚 (意) の6種の
 知覚器官 (六識 ) によって知覚される対象のことで,それぞれ,形 (色) ,音声 (声) ,匂い (香) ,
 味 (味) ,接触されるもの (触) ,考えられるもの (法) をいう (→六境 ) 。
*露柱:むきだしになった柱のことで、法堂や仏殿にある円柱のことを指す。瓦礫?や灯籠?などと同じよう 
 に、無情・非情な物の喩えに使われて、特に曹洞宗の宗乗では、この露柱こそが仏法を説いている無情説 
 法を会得せんとする。
*巫山の雲雨:楚の宋玉(屈原の弟子)の「高唐賦」序に楚の懐王が高唐に遊んだ際、疲れて昼寝している 
 と、夢の中に「巫山の女(むすめ)」と名乗る女が現れて王の寵愛を受けた、という記述がある。彼女は
 立ち去る際、王に「私は巫山の南の、険しい峰の頂に住んでおります。朝は雲となり、べは雨となり(旦
 為朝雲、暮為行雨)、朝な夕な、この楼台のもとに参るでしょう」と告げた。
 この故事から、「巫山の雲雨」あるいは「朝雲暮雨」は、男女が夢の中で契りを結ぶこと、あるいは男女
 の情交を意味する故事成語として用いられるようになった。
*懐王(かいおう、? - 紀元前296年)は戦国時代の楚の王
*青塚:京都久津川青塚古墳・報恩庵から歩いて1時間半
(´・(ェ)・`)つ

969鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/07(月) 22:03:00 ID:1d4drIFg0
六境無き心の灯篭は柱を露にするというのじゃ。
玉と土塊を分別するのは人なのじゃ。
一夜に五十年を前に吟唱するのじゃ。
青塚に月が残り、巫山に雨がふっていたのじゃ。

970避難民のマジレスさん:2020/09/08(火) 19:23:49 ID:1NnBepF.0
>>969
鬼和尚、いつもありがとうであります。
くま訳改
六境無き心の燈籠柱を露にする
珠玉と土塊を分別するのは人なのだ
一夜五十年前を吟じる
青塚に残月巫山に雨が降っていたのである

覚者の心境 その2
169    2/2
兩片皮復一具骨 両片ぴまた一具骨
島虫馬牛更魔佛 島虫馬牛更に魔佛
混沌未分暗昏昏 混沌未分暗昏昏
雲月知爲誰風物 雲月は知らぬ誰が為の風物ぞ

石井恭二先生訳
人には二つの耳たぶと、一そろいの骨が具わっている、
鳥虫馬牛、また魔仏と、さまざまだ。
天地が開けるまでは、すべては暗闇に包まれて混沌としていた、
雲や月は、誰かのための風物ではないことを知っている

くま訳
上下の唇、人体の骨
鳥虫馬牛更には仏魔
なにもかも混沌として、見分けがつかなくなる日暮れ時
雲月は誰かの為にあるわけではないのだ。
(´・(ェ)・`)つ

971鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/08(火) 22:53:58 ID:1d4drIFg0
両耳と頭蓋骨のある頭は一切衆生がもっているものじゃ。
鳥や虫や馬や牛や魔も仏さえも同じなのじゃ。
一切は混沌として分別できぬ同じものなのじゃ。
雲や月が風物とするのも人の分別なのじゃ。

972避難民のマジレスさん:2020/09/09(水) 20:29:03 ID:qC4HxYB20
>>971
鬼和尚、ありがとうであります。
くま訳改
両耳と頭蓋骨のある頭をもつ、
鳥虫馬牛、魔も仏も、
一切は衆生みな同じ。混沌として分別できないのでる
雲月を風物とするのも人の分別なのである。

ありがとう、達磨さん
170
渡江達磨    渡江の達磨 
脚下苦哉平地波 足下苦なるかな平地の波
誰人梁魏定聱訛 たれ人か梁魏にがうぐわを定む
西來莫道大難意 西来いふなかれ大難の意
河廣傳聞一葦過 かこう伝へ聞く一ゐ過ぐと

くま訳
達磨が梁から北魏に移る時、葦を折ってそれに乗り、揚子江を渡ったという伝説あり。
予想外の事が起こり、足下が苦しかったであろう。
だれが、梁と魏との複雑な関係を治めることができただろう。
インド、中国を経て仏教が伝わるのは大変困難であると言うなかれ。
確かに隔てる河は広かったが、既に達磨を乗せた小船が通り過ぎて行ったと聞いたのである。わしが、達磨
の正伝を説くのである。

*平地風波(へいちのふうは):予想外の出来事や事件のたとえ。または、自ら争いを起こすことのたとえ。
 穏やかなところに波風が立つという意味から。
*誵訛・聱訛(ごうか):「いりくんで、むつかしきこと」
*いちゐ(一葦):一葦とは小舟のこと。一葦とは一束のこと、一束の葦を浮べれば、これを桴〈いかだ〉 
 として渡ることを得るといふことから、一葦は小舟を指すことになる。
(´・(ェ)・`)つ

973鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/09(水) 22:51:15 ID:1d4drIFg0
達磨の渡江にかけて仏道の伝道を鼓舞しているのじゃな。
足の下には平地でも波があり、国境もあって伝道が困難じゃというのじゃな。
伝道にいろいろ苦難が有るという意味じゃな。
それでも伝道が困難とは言うべきではない、達磨は葦の船で大河を渡ってきたではないかというのじゃ。

974避難民のマジレスさん:2020/09/10(木) 19:31:39 ID:tQxP6Xgs0
>>973
鬼和尚、ありがとうであります。
くま訳改
脚下は苦労が絶えない、
誰が梁魏の国境を超えていくのか、、
それでも、伝道は困難であると言ってはならない。
既に達磨は、葦の船で大河を渡ってきたのである




森羅万象我が思い(唯識)
171
不嫌念起所 1/2
平生贏得蠚苴名 平ぜいかちえたりらその名
信口言詮群集驚 口にまかせてごんせんして群衆驚く
自讃毀他長情識 自讃毀他情識を長ず
乾坤江海我詩情 乾坤江海我が詩情

蔭木英雄先生訳
ふだん拙僧(一休は)嘉菖の名を頂戴しており
口まかせの言葉(艶詩や罵署雑言)に人々は驚いている 
自分をほめ他人をそしって情欲と小知を増長して
広い天地江海がそのままワシの詩情なのじゃ

くま訳
日ごろわしは放大胆であると評判なのだ。
口からでまかせの言葉が、群衆を驚かせているのである。
自分を誉めて、他人を貶すことは、自分の迷情を深めるのである。自他ありのままをとらえるのだ。
天地河海全てが我が詩情なのだ。森羅万象は我が思いの中にあるのだ。

*平生:1終生,一生,生涯,終身.2平素,日ごろ,日常,従来,これまで,ずっと.
*贏得(えいとく・かちえる):利益を得ること。獲得すること。
*蠚苴(らそ):放胆。荒々しい。
*信口:口から出任せに[しゃべる]
*言詮(ゲンセン):言葉で説明すること。また、その言葉。
(´・(ェ)・`)つ

975鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/10(木) 21:56:44 ID:1d4drIFg0
一休みは自らでまかせを言って民を驚かせていると自覚しているのじゃ。
自分をほめて他人を謗ると情の認識がよくなるというのじゃ。
自分を鼓舞しているのじゃな。
天地の全てが自分の詩じゃというのじゃ。

976避難民のマジレスさん:2020/09/11(金) 21:22:18 ID:sfCtiVOE0
172
不嫌念起所 2/2
脚下紅絲妻子盟 脚下の紅糸妻子の盟
驪山私語約三生 り山の私語三生を約す
良宵共愛夢閨月 良せう共に愛す夢けいの月
照看一聲望帝情 良せう共に愛す夢けいの月

くま訳
思いが起こる場面を、分け隔てしない
赤い糸で結ばれた妻女との堅い約束
驪山(華清宮)で湯浴みした楊貴妃のように美しい森と交わした三生の誓い
素晴らしい宵に、愛し合う夢のような閨(ねや)を照らす月
森は、声望の高い天子様の情を、照らし看ているのだ。

*驪山の麓にある、「華清宮」は楊貴妃が湯浴みしたことで有名
*閨:夜、寝るための部屋。寝間。寝室。特に、夫婦の寝室。
*声望:(せいぼう ばう):世間でのよい評判。名声と人望。
https://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/
前スレ>>647 21の詩看森美人午睡で森w楊貴妃にたとえている。
前スレ>>943 99の詩で、「皇孫であることや誉れ高い噂を聞いて、森公はぼくを密かに慕っていることを
知って、ぼくも愛おしく思っていたんだよ。」と詠っている
(´・(ェ)・`)つ

977鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/11(金) 22:34:57 ID:1d4drIFg0
大体そのような感じじゃな。
艶歌なのじゃ。
これもまた一休の民を驚かせる詩じゃろう。
悟った者はもはや恋愛などしないとか思われているからのう。
やろうとすれば何でも出来るのじゃ。

978避難民のマジレスさん:2020/09/12(土) 14:47:22 ID:IheNw6bk0
173    1/3
不邪淫戒 三首 
痛飲誰家楼上謳 痛飲たが家の楼上の歌ぞ
少年一曲亂心頭 少年の一曲心頭を乱る
阿難逆行淫坊暁 阿難逆ぎょう乱心の暁
妙解方便残月秋 妙げの方便残月の月

柳田聖山先生訳
大酒を飲んで楼上で歌っているのは何処の誰か 
いかにも男色の一節が心を取り乱すではないか 
弟子のアーナンダが婬坊で戒律に背いたその朝 
長者マンジュシリーが救済の思案する残月の秋

伊井暇幻先生訳・解説
痛飲した状態で歌が聞こえてきた。どの女郎屋で歌っているものだろうか。
若い声が歌う一曲に、心掻き乱される。
阿難でさえ女性の色香に執着してしまったという。私も女郎屋で夜明けを迎えている。
しかし、此れは妙解を得るための方便である。白んだ空に残月が浮かんでいる秋の夜明け

月を【夜/陰の存在/煩悩】とすれば、残月であるから、其れが白日の下に晒されていることになる。煩悩
を隠さず晒し、妙解の方便であると言い切る。一休独特の境地である。

くま訳
痛飲したのである。遊郭の歌声はどこから聞えるのだろう。
若者の一曲の歌声が、心を乱す。
阿難が、淫坊から逃げ出した暁
釈迦から、阿難救出を命じられた文殊菩薩が、作戦を練った有明の月の秋、
わしは、自分で妙解を得るために、遊里に遊ぶのだ。

*阿難(アーナンダ)が、女郎屋で、心神耗弱状態にされ犯されそうになった挿話を下敷きにしているらしい。
(大佛頂如来密因修證了義諸菩薩萬行首楞厳経)
この詩に於いても、男色説は却下である。
(´・(ェ)・`)b

979鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/12(土) 23:02:01 ID:1d4drIFg0
アナンダはお釈迦様が生きている時にはまだ悟っていなかったというからのう。
いろいろ創作されるのじゃ。
お釈迦様の死後に残された法を実践することで悟れたのじゃ。
お釈迦様が居なくとも欲があっても実践すれば悟れるのじゃ。

980避難民のマジレスさん:2020/09/13(日) 12:47:44 ID:b2BllLSc0
ありのまま。
174    2/3
逆行慈明婆子身 逆行の慈明婆しが身
紅絲脚下絆婚姻 こうし脚下婚姻を結ぶ
一曲楼頭綠珠笛 一曲楼頭綠珠の笛
可憐昔日趙王輪 あわれむべし昔日趙王の輪

柳田聖山先生訳
逆手をとった慈明は老婆を案じてのこと
脚に纏いついた紅糸が男と女の縁を結ぶ
一人楼上で笛を吹く緑珠にも夫はいたよ
戦国の趙王も夫のいる羅敷の絆を乱せず

伊井暇幻先生解説
慈明と婆は色っぽい関係だったわけではない。ただ、慈明和尚は説法をスッぽかして婆の家に入り浸ってい
たらしい。一休は「紅絲脚下絆婚姻」としているので、夫婦関係と見ているようだ。此の場合の「夫婦関
係」は現代流に性交を意味せず、ただ、【寄り添い合って生活する】ほどの意味だ。「薪を割って」「茶を
淹れて」と、呼び掛ければ反応がある、優しく温かく寛いだ空間を構成している。が、此処で話は一転し、
晋書に載す趙王倫の専横に繋がる。

趙王倫の配下 孫秀が妓女 緑珠に懸想した。しかし緑珠は崇季倫の愛人であった。孫は譲るように迫っ
たが、崇は拒否した。孫は趙を唆し、崇を罪した。緑珠は崇の目の前で楼から飛び降り自殺した。崇・母・
兄・妻子十五人が殺された。五十二歳であった。・・・このあと趙王司馬倫は恵帝を廃し簒位した。が、程
なく叛乱が起き司馬倫は殺され、恵帝が復位した。権勢を恣にし緑珠と崇季倫の仲を引き裂き殺した趙王倫
は、結局、命を失った。

一休は、前半で慈明・慈明婆のホノボノとした清廉な半同棲を羨み、後半で権力の亡者となった趙王倫の
末路を憐れんでいる。則ち一休は、水魚の如き自然な共存 恩愛を賞賛し、人々の愛を踏みにじり権力に執
着した趙王倫に憐憫の情を示しているのだ。単純な否定ではなく、憐憫である。ややもすれば、権力を求め
る人のココロを否定するのではなく、そんな煩悩を凝視し、自らも苦悩している。「現に小人は度し難い」
と突き放すのではなく、【悪人】へこそ大悲の心を向けているか。

くま訳
慈明和尚は、遊郭に出かけたりするのではなく、身寄りの無い老婆を案じて、
縁を大切にして、一緒に住んでいたのである。
楼上で笛を奏でた綠珠(愛人の目の前で楼上から飛び降り自殺をした)
憐れむべきは、綠珠を死に追いやった趙王である。因果はめぐり、臣下に殺害されたのである。
(´・(ェ)・`)つ

981鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/13(日) 22:48:28 ID:1d4drIFg0
昔の中国では足首に夫婦となる運命の赤い糸がつながっていると信じられていたのじゃ。
そのような正しい運命の恋愛ならば善いというのじゃ。
横恋慕して悪逆なことをすれば、身を滅ぼすというのじゃ。

982避難民のマジレスさん:2020/09/14(月) 19:09:11 ID:3QLePqvQ0
一休さんの主張 
175    3/3
沙門何事行邪淫 沙門何事ぞ邪淫を行ず
血気識情人我深 血気識情にん我深し
淫犯若能折情識 淫ぱん若しよく情識を折らば
乾坤忽變作黄金 乾坤たちまち変じて黄金とならん

柳田聖山訳
修業僧がどうして情欲をほしいままにする
向こう見ずに欲にかられて自分勝手に動く
愛欲を持て余しても情を抑制ができるなら
その時は天地は一挙に金色に変わるだろう

伊井暇幻先生訳
沙門よ、何故に邪淫を行うか、と人は問う。
確かに、人の姿や声や動作、肌の柔らかさ温かさ臭いを貪る欲が私は深いし、感情が動いてしまう。無我の
境地には遙か遠い。
しかし、人と交わり、且つ、煩悩を折伏することが出来れば、
対象への愛が深い分だけ大逆転して、黄金のような素晴らしい悟りの極致に達する

くま訳
修行者が邪淫を犯すとは何事か!と、叱られた、
確かに、わしは、血気盛んで、迷情、我執が深いのだ。
けど、交情しても、迷情を断つことが出来れば、
天下世界がたちまち、悟りの世界になるのである。

*人我(にんが・じんが):人間にあるとされた、常住不変の我(が)のこと。我執。
*血気: 向こう見ずで盛んな意気。客気。血の気(け)。
(´・(ェ)・`)つ

983鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/14(月) 22:13:00 ID:1d4drIFg0
僧になっても邪淫から離れられない者が多いというのじゃ。
血気は自我の深くに本能としてあるから離れ難いのじゃ。
もし邪淫を犯しても、執着しなければよいというのじゃ。
そうすれば世界は黄金の如くになるというのじゃ。

984避難民のマジレスさん:2020/09/15(火) 19:17:18 ID:Hg2uwcrw0
176
聞聲悟道    聞しょう
擊竹一朝忘所知 擊竹一朝所知を忘ず
聞鐘五夜絶多疑 聞鐘五夜多疑を絶す
古人立地皆成佛 古人立地皆成佛
淵明端的獨顰眉 淵明が端的獨り眉をひそむ

くま訳
瓦礫が竹にあたる音を聞いて、たちまち、今までのことを全て忘れて、悟りの境地を得た(香厳)
明け方、鐘の音を聞いて、今までの多くの疑問を絶して悟りを得た(天真毒峰善禪師)
古人は音を聞いて、即座に皆悟った。(一休さんもカラスがカーで悟った)
陶 淵明だけ、明らかに独り、眉を顰めた。
(下戸なのに、酒席に招かれ、一度は断わったが、付き合いで出席することにした。けど、現地に付いて、
たまたま鐘の音を聞いたら、ふと我に返り、眉を攅(あつ)めて、帰ってしまった。

*鐘の聲で悟ったので有名なのは、白隠さんであるが、年齢的に、毒峰善禅師。おまけ参
 
*陶淵明(とうえんめい365–427)文人
*慧遠(えおん334-416)念仏宗開祖 

音声が悟りか、悪感情か、どちらに結びつくかは、常日ごろの心構えに依るのでありましょうか。
(´・(ェ)・`)つ

985避難民のマジレスさん:2020/09/15(火) 19:22:33 ID:Hg2uwcrw0
おまけ①:香厳の詩(投機偈でありましょう)
香厳撃竹
一擊忘所知 更不假修持  一撃所知を忘ず  更に修治を仮らす
動容揚古路 不墮悄然機  動容に古路を揚く 悄然の機に堕せず
處處無蹤跡 聲色外威儀  処々蹤証跡無し  声色威儀を忘ず
諸方達道者 咸言上上機  諸法達道の者   みな言ふ上々の機

「禅と悟り」HP訳
石が飛んで竹を撃ちカチンという音が出た。その音を聞いたとたん、今まで覚えていたいろんなことが、ど
こかへ行ってしまった。 それは別に修行や鍛錬の結果ではない。本来そこにあったものだ。
手足を動かしても本来の古路を踏み外すことはない。 もう何か物寂しくなって気分がおちこむようなこと
はない。
その古路は空寂で、どこにも足跡のようなものは残っていない。(しかし、単に空寂なものではなく、その
中に働きがある。)五官や思慮はそのままで動いている。別にかれこれと威儀に囚われることではない。
そこに上々の働きがあるのだ。

おまけ②:毒峰善の投機の偈
間宮英宗先生訳・解説
毒峰善禅師は、鐘聲を聞いて忽ち宇宙の大機に投入せられました。其の時の偈に曰く、
沈沈寂寂絶施爲 觸著無端吼似雷 動地一聲消息盡 髑髏粉砕夢初回
「沈沈寂寂絶施爲」、と云ふは、坐も又禪、臥するも禪、言語するも亦禪で、考案三昧になり忘想分別も打
破る工夫三昧になりきった時の境涯である、此の時に、ゴーン、と一聲の鐘を聞いて忽ち大機に投じて見れ
ば、「 觸著無端吼似雷」で其の時の鐘は實に天地にひびき渡って、百雷の一時に落ちたような聲であった、
此の一聲は盡十方世界にひびき渡ってて居る、「 動地一聲消息盡」、で此の天地も動揺した程の鐘の一聲
は無字も如来も、宇宙の大眞理も云ひ盡くして居る、「髑髏粉砕夢初回」、即ち此の超音聲で、けがれたる
ガリガリの五尺の髑髏を粉微塵に打ち砕き、初めて眞に宇宙の大眞理を悟る事が出来た、と云ふ意味である。

沈沈寂寂絶施爲 沈沈寂寂施爲を絶す
觸著無端吼似雷 触著すれば端無く吼えて雷に似る
動地一聲消息盡 動地一声消息尽き
髑髏粉砕夢初回 髑髏粉砕して夢初めて回る

くま訳
深夜静寂の中、三昧に入っていると
全てが明らかになった。雷のよな轟音、鐘の音
地響きがするほどの一声の後、消息は尽きた
締め付けていた頭蓋が粉砕されたように、初めて夢から覚めたのである。

*天真毒峰善禪師:1419-1482(中国語サイト:人名規範資料庫)
 
これは、軍荼利明王降臨の表現でありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

986鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/15(火) 23:26:04 ID:1d4drIFg0
>>984 心構えと実践じゃな。
 悟りを得ようと強い意欲をもって、日々実践していれば音声にょって悟りも得られるのじゃ。
 そうでなければただ耳障りなだけなのじゃ。
 同じ音でも受け取る者に拠ってそれだけ違うのじゃ。

987避難民のマジレスさん:2020/09/16(水) 19:37:02 ID:5SfEipAk0
177
破譬喩示病僧  比喩を破して病僧に示す
弓影膏盲在酒中 弓影かうくわう酒中にあり
毒蛇影落客盃弓 毒蛇影落つかく盃のきゅう
楓林黄葉蜀江錦 ふう林の黄葉しょくかうのにしき
染得心頭満目紅 染め得たり心頭満目の紅

くま訳
比喩を論破して病僧に説き示す
盃に映る弓の影とは病のことであり、その病は身体の奥深いところに有る、
毒蛇の影と思い込んでいるのは、弓なのだ。
かえで林の紅葉を蜀江の錦・高級絹織物と見間違えるよなものだ。
染めてしまうことが出来るものなのだ、心、頭で思い込めば、一面何もかも紅一色に。

*膏肓(コウコウ): からだの奥深いところ。ここに病気が入ると治らないという。
*国訳禪学大成の解説
 病膏盲に入れば冶せず。
 盃中の弓影、毒蛇と観ずる、
 己に迷妄の裡あり、
 楓林の紅葉も見様にて蜀江の錦に同じ、
 病は心からである、之を無形に治せば、効有形に現る。
(´・(ェ)・`)つ

988鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/16(水) 21:32:36 ID:1d4drIFg0
病は気からとも言うのじゃ。
酒の水面に写った蛇の影を呑んで病にかかったと思ったものも居るのじゃ。
それは弓が写ったものだったというのじゃ。
紅葉の景色を錦と見るようなものじゃ。
心に病があれば肉体も病むのじゃ。

989避難民のマジレスさん:2020/09/17(木) 18:59:58 ID:7OJSsgOo0
178
渡江達磨    渡江の達磨
去々來々随意行 去去来来意に随って行く
乾坤萬里俗塵生 乾坤万里俗塵生ず
西天此土姓名重 西天し土姓名重し
脚底客頭藘葉軽 脚底客頭ろえふかろし

くま訳
何の囚われもなく、意のままに好きなところに行く。
確かに、天下地の果て何処へ行っても、浮世の煩わしさが生じる。
極楽浄土と現世の「法」のことを思うとき、達磨の存在は大変重いのであるが、
その言動は、徹底して軽やかであったのだ。

*去々来々:波が寄せては返す様子、これは一つのことにとらわれない姿、自由な様子。
*俗塵(ゾクジン):浮世のちり。俗世間の煩わしい事柄。
*西天(さいてん):西方浄土。極楽。天竺(てんじく)。インド。
*此土(シド):この世。現世 自分のいる所。この土地。
*蘆葉達磨(ろよう--):インドから中国に来て梁の武帝に法を説き、さらに洛陽を目ざし揚子江をのぼっ
 たが、その時、一葉の蘆(あし)の葉に乗って渡ったとの伝説を示す語。「蘆の葉に法の方便」

参)170 の詩 >>974 >>972
(´・(ェ)・`)つ

990鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/17(木) 21:37:21 ID:1d4drIFg0
達磨は去るのも来るのも自由だというのじゃ。
俗塵のあるところどこにでもいくのじゃ。
インドから中国までその名は重く語り継がれているのじゃ。
しかし、その身は脚底から頭の上まで葦の葉に乗って川をわたるほど軽いのじゃ。

991避難民のマジレスさん:2020/09/17(木) 22:09:39 ID:7OJSsgOo0
>>990
鬼和尚、いつもありがとうであります。
くま訳改
達磨は去来自在何所へでも行くのだ。
天下どんなに遠くても、俗世間のどこにでも行くのである。
インドから中国までその名は重く語り継がれているのである。
けど、頭の天辺から足の裏まで、葦の葉に乗って川をわたるほど身軽なのだ。
(´・(ェ)・`)b

992避難民のマジレスさん:2020/09/18(金) 19:10:12 ID:vvZ4Fpoo0
179
正工夫示久参徒 しょう工夫久参の徒に示す
機輪轉處實能幽 きりん転ずるところ実によく幽なり
臨済正傳名利謀 臨済の正伝名利のはかりごと
一枕春風鷄足暁 一ちんの春風鶏足の暁
三生夜雨馬嵬秋 三しょうに夜雨馬かいの秋

くま訳
正しい仏道修行の仕方を長く修行している者に示す
禅修行によってよく整えられた意識の働きは、実に奥深いのである。
臨済の正伝などと言っても、そんなものは名利を求めるはかりごとの結果に過ぎない。
一人寝の朝は、春風のように爽やかで、釈迦を継いだ迦葉(かしょう)が入滅した鶏足山の暁のようだ。
三生を誓った森と過ごす、雨の夜は、唐の玄宗皇帝が護衛兵の反乱により、やむなく寵愛した楊貴妃の殺害を命じた、馬嵬駅に居るようだ。

鶏足山の暁とは、我こそは仏教正伝であると言う自負でありましょうか。
馬嵬秋とは、80歳を過ぎて、いづれ死により愛する森と分かれなければならない一休さんの、惜別の念でありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

993避難民のマジレスさん:2020/09/18(金) 19:20:43 ID:vvZ4Fpoo0
*おまけ①:大燈国師が死に臨んで、その心境を吐露した詩
仏祖を截断し
吸毛常に磨す
機輪転ずる処
虚空牙を咬む

中村元先生訳 
わたしはこれまで仏や祖師たちをばさばさ切りたおし、
その都度吸毛剣(髪の毛をその刃の上に吹きつければスパリと切れるほどの見事な剣)を磨き続けてきた。
俊敏な禅のはたらきを発動するときには、
虚空もギリギリと歯ぎしりする。

くま訳
仏祖の言葉を裁断乗り越えるため、
その切れ味を研ぎ澄してきた。
その臨機応変な禅機の向かうところ
虚空に対してさえも牙をきしませるのである。

*おまけ②禅宗伝法祖師22祖の摩拏羅(まぬら)尊者の伝法の偈(げ)である。
心随万境転  心は万境に随って転ず
転処実能幽  転処実に能(よ)く幽なり
随流認得性  流れに随って性(しょう)を認得すれば
無喜亦無憂  喜びもなくまた憂いもなし

承福寺HP訳
人の心と言うものは、外界の現象に惑わされて揺れ動き移ろい変わりやすものである。
しかしその外界の現象に執着することなく、無心無自性であれば自由無碍であり、まさに幽玄なる心境にあ
るといえる。
たとえ外界はたえず揺れ動き、激しく変貌することがあっても、
心中においては常に平常であり喜びも、悲しみも時の流れのままに処して何のわだかまりもなく、随処に主
となるところの境地である。

悟りの証明HP訳
私たちの意識作用は周りのあらゆる物事に随って、その物事に転じる(その物事を映す)。
(その意識作用の)転じる様は実にありがたく奥深い。
(しかし)意識作用のハタラキそのものになって意識の本性(仏性)を体得すれば、
喜びも憂いもない(意識作用の世界は絶体無である)。

くま訳
心は外界の変化に応じて移ろう。
修行により、心を整え、転じれば、実に奥深い境地にに到れる。
移ろい行く心のあり様を見て、自分のありのままを捉えることが出来れば、
喜びも憂いも無く、苦も無い。
(´・(ェ)・`)b

994鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/18(金) 22:16:47 ID:1d4drIFg0
>>992 特に自負は無いようじゃ。
 ただ鶏足山にいるような爽やかさじゃといっているようじゃ。
 
 それも特定の女子ではなく、愛別離苦を詠っているようじゃ。
 独りで修行することを勧めているのじゃな。

995避難民のマジレスさん:2020/09/19(土) 17:13:12 ID:WIUog5qw0
>>994
鬼和尚、いつもありがとうであります。
くま訳改
第4句:三生を誓ほどの深い情愛は、玄宗皇帝がやむなく寵愛した楊貴妃の殺害を命じた、馬嵬駅に居るような苦をもたらすのだ。
(´・(ェ)・`)b

996避難民のマジレスさん:2020/09/19(土) 17:14:31 ID:WIUog5qw0
180      1/2
虚堂和尚十病 二首
 1.病在自信不及處 2.病在得失是非處    1.病は自信不及のところに在り
 3,病在我見偏執處 4,病在眼量窠白處                    3,げんりょうくわきう
 5,病在機境不脱處 6,病在得少為足處
 7,病在一師一友處 8,病在旁宗別泒處                    8,    別派
 9,病在位貌拘束處 10病在自大了一生小得處
 
是非元勝負修羅 是非は元勝負の修羅
傍出正傳人我多 傍出す正傳人我多し
近代邪師誇管見 近代の  管見に誇る
識情毒気任偏頗     偏頗に任す

 曹洞宗長泉禅寺 HP訳
 1,失敗からも成功からも学べていない
 2,感情に左右され、目先の報酬にとらわれる  
 3,自分の体験や知識なる偏見によって動けない
 4,かきゅうとは鳥の巣のことで、固定観念によって「こうあるべき」と決め込む
 5,心が自由に働かず、視点を変えられない
 6,小さな満足に甘んじてしまう
 7,交際や知識の範囲が狭い
 8,一つの理論に凝り固まる
 9,自他の地位や肩書きにとらわれる
 10,自分の慢心に気づかぬようでは生涯得られない

 つらつら日暮HP訳
 この「病」だが、学道の障害を指しており、これがあるために、学人は妙境を得られないという。
 1.自己本道中に在ることを信じられない場合に病になるという。
 2.思慮分別に立つことをいう。
 3.自分の見解に偏ってしまうことをいう。
 4・限られた型にはめ込んでしまうことをいう。
 5.特定の働きや対象から脱せられないことをいう。
 6.僅かの境涯を得ただけで満足することをいう。
 7.一人の師、一人の友だけと交わり、遍参しないことをいう。
 8.宗派の善し悪しを区別することをいう。
 9.地位や見た目にとらわれることをいう。
 10.自分が大事であって、僅かな見解を得ただけでそれ以上の向上心が無い状態をいう。

くま訳(詩の部分のみ)
分別することは、元々勝ち負けが生じることであり、修羅場になってしまう。2
傍流か主流・正伝かを問うのは、我執によるものである。3 4
昨今の邪視は、狭い視野の狭い考えを誇らしげに主張する8 9
迷情、悪意、により不公平な判断をする。

*管見(かんけん〕:狭い見識。視野の狭い考え方。 自分の知識・見解・意見をへりくだっていう語。
(´・(ェ)・`)つ

997鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/19(土) 21:36:03 ID:1d4drIFg0
↑そのような感じじゃな。
これが正しいとかあれが間違いとか分別していれば戦いになるというのじゃ。
論争とか宗派の争いもそれがもとなのじゃ。
それでまた見解も狭まり、考えも歪んでしまうのじゃ。
実践のみが仏道なのじゃ。

998避難民のマジレスさん:2020/09/20(日) 15:34:53 ID:Y9d16ak.0
いつもと違う一休さん、金持ちの娘に手を出して、詰められてるのでありましょうか?
     2/2
議論未休正與邪   未だ休せず正と邪と
無慙愧漢是天魔 無慙愧の漢これ天魔
狂雲臥病相如渇 狂雲が病は相如が渇
一枕秋風奈我何 一ちん秋風我をいかんせん

くま訳
正邪の議論がいつまでたってもやまない。
無反省で天に愧じることのない輩は、天魔である。
狂雲の病は、相如の病とおなじである。
一人寝の秋風、わしをどうしようと云うのだ。

*相如が渇:司馬相如(禅179-117)富豪卓王孫の娘分君を誘惑して駆け落ち。父は怒り財産はやらないと
決めたが、その後相除は病気(糖尿病らしい)を患う。それを見かねた周囲の嘆願により財産をもらえるこ
とになった。
(´・(ェ)・`)つ

999鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/20(日) 23:03:24 ID:1d4drIFg0
正邪の議論は無意味というのじゃ。
ただ慙愧するべき時にしなければ天魔だというのじゃ。
糖尿病は昔、消渇といったのじゃ。
相如と同じ病というのじゃ。
病で寝ていると秋風が沁みてくるというのじゃ。

1000避難民のマジレスさん:2020/09/21(月) 19:27:26 ID:9PoQw6NM0
鬼和尚、ありがとうであります。
くま訳改
正邪の議論は無意味である 
しかし、慚を知らない者は天魔である。 
狂雲の病は相如と同じ糖尿病である。 
病床では風が吹いても痛いのだ。

181    
示耽名僧 1/3 名に耽る僧に示す   
腹中地獄成   腹中に地獄成る
無量劫識情   無量劫の識情
野火焼不儘   やくわ焼けども尽きず
春風草又生  春風草又生ず

名利を求めてやまない僧に示す
胸中地獄になる
永遠の迷情
野火で焼けても、根絶えることは無い
春風吹く頃には、又生えるのだ

*腹中:1 腹の中。また、胃腸。2 心の中。胸中。3 度量。
*野火焼不盡:白居易の詩の一節。野火で焼けても根は絶えず、春風の吹く頃にはまた生えてくる。
(´・(ェ)・`)つ

1001避難民のマジレスさん:2020/09/21(月) 19:29:04 ID:9PoQw6NM0
*おまけ: 野火焼不盡(白居易の詩)

賦得古原草送別 「古原の草」を賦し得て、別れを送る 
離離原上草    離離(りり)たる 原上(げんじょう)の草、
一歳一枯栄    一歳(いっさい)に一たび枯栄(こえい)す。
野火焼不盡    野火(やか) 焼けども尽きず、
春風吹又生    春風 吹いて又生ず。
遠芳侵古道    遠芳(えんぽう) 古道を侵し、
晴翠接荒城    晴翠(せいすい) 荒城に接す。
又送王孫去    又王孫(おうそん)の去るを送る、
萋萋満別情    萋萋(せいせい)として別情(べつじょう)満つ。

ふさふさと垂れ下がった野原の草は、
一年に一度、枯れていたのがまた栄える。
野火で焼けても根は絶えず、
春風の吹く頃にはまた生えてくる。
はるか彼方、芳しい草は旧道の上に伸びひろがり、
緑の色も鮮やかに、荒れ果てた都の城壁につづいている。
こうしてまた、遠く旅立つあなたを送る。
あおあおと茂った草にも別れを惜しむ情が満ちみちている。

人間誰しも大きな失敗や、心が折れそうになる出来事を経験します。自分はもう終わりだ、取り返しがつか
ないことをした。そう思える瞬間もあるでしょう。しかし、若草山のように時が経てば必ず新しい青々とし
た芽が吹いてきます。
(´・(ェ)・`)b

1002鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/21(月) 22:50:24 ID:1d4drIFg0
名声に囚われてはいかんというのじゃ。
僧はもはや金とか権力とは無縁であるが、名声は得られるのじゃ。
名僧と呼ばれるために名声に囚われていては苦難が待っているのじゃ。
何度でも苦しむことになるのじゃ。

1003避難民のマジレスさん:2020/09/22(火) 21:40:54 ID:Lf8gaWYc0
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