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鬼和尚の仏教購読会 別館

370避難民のマジレスさん:2019/03/08(金) 23:45:50 ID:LC3de7YgO
>>367
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

科学者は、科学者であるためには、 実験から完全に距離を置かなければならな
い。
科学者は実験に巻き込まれては いけない。
そこに感情をもち込んではいけない。
科学者はコンピュータのように まったく平然としていなければならない。
科学者は人間であってはならない。
そうなってはじめて人は真の科学者となり、科学で成果をあげることができる

さあ、詩人の技量はこれとはまったく違う。
詩人は巻き込まれる。
詩人は花を観察しながら、まわりで踊りはじめる。
詩人は身をもって参加する。
詩人はたんなる超然とした観察者ではない。
舞踏家のほうがもっと容易かもしれない。
舞踏家とその踊りは一体であり、踊りは内に深く根ざしているので、 舞踏家は
たやすく内なるスペースに入ってゆける。
それゆえに、古代の世界各地の神秘的なミステリー・スクールにおいて 舞踏は
秘められた技法のひとつだった。
舞踏はミステリー・スクールや寺院において進化した。
舞踏は最も宗教的な現象のひとつだ。
だが、それはその意味を完璧に失い、まったく正反対のものに成り果ててしま
った。
それは性的な現象になってしまった。
舞踏は霊的な次元を失ってしまった。
だが、いいかね、霊的なものはすべて堕落したら性的なものになってしまうし、
性的なものはすべて上昇すれば霊的なものになりうる。
霊性とセクシャリティは織り合わされている。
数学者よりも音楽家のほうが瞑想に入ってゆきやすい。
人が違えば、 得意な分野も違い、精神構造も違い、条件つ゛けも異なっている

例えば、キリスト教徒のほうが仏教徒よりも瞑想することがむずかしいかもし
れない。
仏教徒たちは二十五世紀ものあいだ瞑想を絶やさ なかったので、その門人たち
はある特定の質をそなえている。
仏教徒が私のもとへ来ると、ひじょうに簡単に瞑想に入ってゆける。
キリスト教徒がやって来ても、瞑想にはまるで馴染みがない。
キリスト教徒は瞑想を完全に忘れてしまっているからだ。
キリスト教が知っているのは祈りだけだ。
祈りはまったく異なる現象だ。
祈りのなかでは他者が必要とされる。
祈りはけっして自立したものではありえない。
祈りはむしろ愛に似ている。
祈りは対話だ。
瞑想は対話ではない。
それは愛に似たものではなく、 愛とはまったく逆のものだ。
瞑想のなかで、あなたは独りっきりになってしまう。
行く場所もなく、関わる相手もなく、対話もない。
他者がいないからだ。
あなたはどこまでも自分自身であり、自分自身以外の何ものでもない。
これはまったく異なる取り組み方だ。
だから、それはあなたが成長する途上で身につけた技能、精神構造、条件つ゛け
、 教育、宗教に左右される。
読んできた本、一緒に暮らしてきた人々、みずからの 内側にかもしだしてきた
波動に左右される。
それは千とひとつのものごとに、 あなたがどれだけ多くのものを吸収すること
ができるかどうかに左右される― が、それは必ず、確実にやって来る。
必要なのは忍耐、黙々と実践することであり、 辛抱強く働きかければ、集中が
生まれ、成熟が起こる。
実のところ、成熟した人と集中力のある人は同じ現象の両側面にすぎない。
だからこそ子供たちは精神を集中できない。
彼らは絶えず動きまわり、一か所に じっとしていられない。
あらゆるものが珍しい―車が通り過ぎてゆく、鳥が鳴き、誰 かが笑いはじめる
、隣の人がラジオをつけている。
蝶々が飛んでゆく―あらゆるもの が、全世界が魅了する。
彼らは次から次へと目移りしてゆく。
彼らは集中できない。
他のことを忘れてしまうほど、世界が存在しなくなるほど、 しっかり腰を据え
てひとつのことに取り組むことができない。
成熟するにつれ、集中力が生まれてくる。
成熟と集中力は言葉は違うが同じものを指している。
だが、まず覚えておかなければならないのは、 それは徐々にやって来るという
ことだ。
比較してはいけない。あわててはいけない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)


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