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鬼和尚の仏教購読会 別館

839避難民のマジレスさん:2020/07/24(金) 21:09:37 ID:zr.JxX7M0
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岐岳和尚龍寶山住院時、     ぎがく和尚龍宝山住院の時、
請御所喝食、          御前喝じきを請ひ、
於看雲亭夜夜酒宴。       看雲亭に於ひて夜々酒宴す。
因一休和尚相看、        因みに一休和尚相看す、
岐岳、問一休和尚曰、      岐岳、一休和尚に問うて曰く、
汝於老僧境界知耶不知。     汝老僧が境界に於いて知るや知らずや。
答曰知。            答へて曰く、知る。
問曰、試挙看。         問うて曰く、試みにこせよ看ん。
答曰、茂陵多病後。猶愛卓文君。 答へて曰く、もりょう多病ののち、猶ほたくぶん君を愛するがごとし。
岳大笑絶倒、随後打曰。     岳大笑絶倒して、しりへに随って打って曰く、
請為老僧題無住榜。       請ふ老僧が為に無住ぼうを題せよ。
休便題曰、           休即ち題して曰く、

龍寶禪翁活眼睛  龍宝の禅翁活眼睛
孤明歴歴磊苴名  孤みょう歴々らその名
黄金詞賦文君恨  黄金の詞賦文君が恨み
師笑茂陵空薄情  師は笑ふもりょうくうはくの情

柳田聖山先生 解説・訳
岐岳和尚、夜々酒盛りをする
応永三十一年(1424)、一休、三十一才の時の事である。
大徳寺二十一世岐岳妙周にまつわる次のような話が伝わっている。
岐岳和尚は崇福寺四十三世のとき、大応国師(南浦紹明)が残していた杖を持って大徳寺にのぼり、大応の後身を自任していた。
竜宝山の住職になると、毎夜のように、方丈の南東にあった看雲亭で若い衆を呼び寄せて酒盛りをしていた。
ある時、一休が呼ばれた。和尚は一休に尋ねた。「おまえはこの老僧の心境が判るか」。一休は答えた。
「判ります」。すると「ためしに言ってみろ」と和尚は問いかけた。「前漢の詩人司馬相如は多年病に悩ん
でいましたが、妻卓文君だけは手放そうとはしませんでした」と一休は応じた。和尚は満足げに笑った。
そこで和尚は一休に、頂相(禅僧の画像)に添え書きの賛を所望した。そこで、一休は次のように書きとどめた。

さすがに大徳寺の老僧の目はきらきらと輝く。
竜宝山歴代の評判は偏に武骨で有名ですが、
黄金百斤を貰って詩文で皇后の失寵を詰るとは
老師も御存じ、相如は粋ではありませんか。

くま訳
龍宝山住院の目が輝く
個々が光り輝き、ごろごろと石の詰まった袋のような人だ
皇后から頼まれて、黄金百斤で、武帝に対する恨みの詩を書いた詩人の話を
聞いて、老師も笑う、武帝は墓に入っても、きっと薄情な人のままであろう。

*孤明歴々:個々それぞれが輝くという意味
*磊(ライ):石がごろごろしているさま。「磊塊」 ②心が大きいさま。おおらか。
*詩賦(しふ)中国の韻文
*茂陵(もりょう)前漢の武帝の墓
*司馬相如(前179-117)は、前漢の文人で、「子虚賦」が機縁で武帝に召されて宮廷詩人として仕えた。富豪の娘卓文
 君との恋愛話は著名である。
 相如が武帝の皇后陳氏より黄金百斤を貰って、帝の失寵を怨む長門譜を書いた。陳氏は、黄金とともに、 
 相如夫妻に酒を贈ったと伝えられている。

実は、そのころ一休は、画賛を依頼され、何がしかの生活費を稼いでいたとも言われている。
一休さんはこの岐岳の酒宴に集まる僧たちを軽蔑していたのである。明日の詩でそれを詠んでいる。
(´・(ェ)・`)つ


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