したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

鬼和尚の仏教購読会 別館

247避難民のマジレスさん:2019/01/22(火) 00:23:48 ID:LC3de7YgO
>>245
19黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁3
 より抜粋
通常、人々は最小限の生き方をしている。
人々がやり続けていることはみな最小限の力で行なうことができる。
それはただの習慣、身についた日々の決まりきった仕事にすぎないからだ。
それらの仕事は意識から、身体の自動的に機能し続けるロボットの部分に伝達
されている。
言うなれば、車の運転の仕方を覚えてしまったようなものだ。
習いはじめは危ないので、あなたはひじょうに敏感で、すき がない。
何が起こるかわからないから、目が離せない。
色々 なものに気を配り続けなければならない。
ハンドル、道路、 クラッチ、ギア、アクセル、ブレーキなど、気を配らねば な
らないもの、目を離せないものがたくさんある。
そして 行き交う車の流れ、傍らを通り過ぎてゆく人々、傍らを通り過ぎてゆく
車、だが、運転を覚えてしまうと、その知識は身体のロボットの部分に伝達さ
れてしまう。
そうなったら気を配る必要はない。
友達と話したり、歌を 歌ったり、タバコを吸ったり、ラジオを聴いたりしてもい
い。
身体が運転を続けてゆく。
まれな時を除けば、目を見張っている必要はない。
事故が起こりそうになると、あなたは一瞬のあいだ目覚める。
あまりに大きな危険が身に迫り、頭が真っ白になってしまうので、ロボットの
部分が対処できないからだ。
そんな ことは一度も起こったことがない、まったく新しいことだ。
普通の生活は機械的で型にはまったものになり、人は最小限の力で生きるよう
になる。
最大限に燃えあがることはけっしてない。
創造性を発揮することで人は燃えあがる。
これが私のサニヤシンに対するメッセージのひとつだ ―創造的でありなさい。
創造的であることが礼拝になるからだ。
創造的であることが祈りであり、創造的であることが瞑想だ。
創造的であることは神の近くにあることだ。
カーバ(メッカにあるイスラム教の聖殿)へ行く必要はない。
神はカーバと同じようにここにもいるからだ。
ヒマラヤに行く必要はない。
神はどこでも等しく手を差し延べているからだ。
だが、その手を取ることができるのは最大限に 生きている者たち、生命の炎が
くすんでいない者たち 、すべてのエネルギーをそれに注いでいる者たちだけだ。
そしてそれは創造性を通してはじめて起こる。
だから私のサニヤシンの定義は、感受性を失い、死んだように坐っている古い
タイプの聖者の定義とは異なっている。
サニヤシンの定義は創造的であることだ。
踊ったり、歌ったり、音楽や絵や彫刻を創作したり、あるいは何でもやりたい
ことをやりなさい。
最も深い喜びとなるものを見つけだし、それをやりなさい!
そして行為とは目に見えないものを見えるものにするということだ。
行為とは夢をこの世にもたらすということだ。
夢を実現させなさい。
潜在能力を発揮させなさい。
それにまさる喜びはない。
未知なるものを知りうる世界へともたらすことができたとき、創作し、創造し
、夢を現実にすることができたとき、神に手を貸したとき、そのときはじめて
真の至福が得られる。
何らかのやり方で、自分なりのやり方で世界をもう少し美しくしたとき、 世界
の喜びを増したとき、そのときあなたはサニヤシンだ。
この道に、あなたの内なる生に気つ゛くことは、自分が不死であることを知る
助けになる。
ひとたび潜在能力を完全に発揮している自分の姿を知ったなら、 内なる松明た
いまつが両側からめらめらと燃えているときの自分の姿を知ったなら、 死など
存在しないことがわかるだろう。
力が最大限に発揮されると、 第三の目が働きはじめる― 最大限に発揮された
ときはじめて。
だから、だらだらとした生き方をしてはいけない。
生が重荷でもあるかのような、果たさねばならない義務であるかのような生き
方をしてはいけない。
生を踊りにしなさい。生を祝祭にしなさい。
(p179)
不死はこのなかにあり、また世間の超克もこのなかにある。
生の炎が第三の目に到達するのをそのままにしておけたら、死など存在しない
ことがわかる。
そしてふと気つ゛くと、もはやあなたは世間に執着していない。

(´・(ェ)・`)
(つづく)


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板