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鬼和尚の仏教購読会 別館
332
:
避難民のマジレスさん
:2019/02/21(木) 20:17:26 ID:LC3de7YgO
>>331
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき)
より抜粋
人間は盲目のまま宗教をつくりあげてきた。
しかもひとつではなく無数の宗教を。
盲目の目には<一なるもの>が見えないからだ。
盲目の目は多くのものを信じることしかできない。
それゆえにこれほど多くの宗教がある―この小さな地球に三百前後の宗教がある
― そしてそれぞれの宗教がこう主張している。
「私の真理が唯一の真理だ」、
「私の 神が唯一の神だ」、
「他の神はすべて偽物だ」、
「他の真理はすべてでっちあげだ」 、
「他の道はすべて荒野に行き着くだけだ―私の道だけが天国に通じている」
この三百の宗教は絶えず闘い合っている。
どの宗教も現実に気つ゛いて いない。
どの宗教も現実を真正面からのぞいていない。
彼らは信じている。
これらの宗教は宗教ではなく形骸化した伝統だ。
彼らは耳で聞き―いつの時代 にも耳で聞き―そして信じてきた。
信じることは安易であり、探索することには 危険がともなうからだ。
鸚鵡おうむのようにくり返すことは何の苦もない。
冒険に満ちた発見の旅にでかけるためには生命を賭けなければ ならない。
それは危険だ。
探索することは危険だ。
信じることは、 手軽で、慰めになる。
あなたはどこにも赴かなくてすむ。
それは 既製品としてあなたに与えられる。
だが、それには手垢がついている。
そして手垢にまみれた神とともに生きる人間は悲惨だ。
神は新しいものでしかありえないからだ。
体験はどこまでもあなた自身のものでなければならない。
他人の体験は真実の生の基盤となりえない。
仏陀は見たかもしれないが、仏教徒になることは助け にならない。
仏陀は仏教徒ではなかった―それは確かだ。
イエスは見て、直面し、了解したかもしれないが、キリスト 教徒になることは
まったく愚かしい。
キリストにならないかぎり 、けっして神を知ることはない。
真に宗教的な人は形骸化した伝統を避ける。
真に宗教的な人は手垢にまみれた神を避ける。
信仰を避け、自分を開いたままにして、 いつ真理が立ち現れても応じる姿勢
でいる。
もちろん彼は働きかける―働きかけるのは宗教的な人だけだ ―信者たちはけっ
して自分に働きかけたりしない。
信者たちは自分に働きかける必要がない。
真理を探索し、探求し、探し求める者は自分自身に懸命に働きかける。
なぜなら、落とさなければならないものがたくさんあるからだ。
落とさなければならない不純なものがたくさんあるし、 溶かさねばならない障
害物や障壁がたくさんあるからだ。
目を開けて、耳をふさいでいるものをはずし、 ハートの感受性を取りもどさな
ければならない。
人は存在とリズムを合わせなければならない。
<存在>と完全にリズムが合っていれば、 目が開いて、そこではじめて見る こ
とができるようになる。
その見ることが変容になる。
その見ることがあなたを根こそぎ変える。
その見ることが新しい洞察力、新しい生命、 新しいもののとらえ方になる。
あなたは もはや肉体に閉じ込められてはいない。
もはや想念に閉じ込められてはいない。
もはや何にも閉じ込められてはいない。
あなたは解き放たれていて、無限であり、永遠だ。
そしてあなたのなかを流れるこの永遠を感じる ことが、神を知ることだ。
永遠の過去と永遠の未来へと延び広がっている この無限を見ることが神を見る
ことだ。
あなたの実存のなかに宿る神性を感じる ことが、神を知ることだ。
これは手垢にまみれることがない。
キリスト教徒やヒンドゥー教徒やジャイナ教徒やイスラム教徒を見る と、そこ
には手垢にまみれた人々がいる。
あなたは街で履きふるされた 靴など買いたくない。
街で他人が使った古着など買いたくない。
だったらなぜ魂のために手垢のついた信仰を、使い古され、 ぼろぼろになって
いる、汚く醜い中古の靴や着物を買うのだろう。
そして自分の人生を美しく飾ったつもりになるなんて。
あなたは自分の魂を侮辱している。
あなたは自分自身の人間性をおとしめている。
キリスト教徒になったり、仏教徒になることは、 自分自身の人間性をおとしめ
ることだ。
探求は独りで行なうべきものだ。
探求はどこまでも個的なものでなければならない。
多数決によって真理を決めるわけにはゆかない。
真理はどこまでも個的であり、かつ私的なものだからだ。
それは客観的な現象ではない。
あなたは私の肉体を見ることができる。それは客観的な現象だ。
私の肉体が存在するかどうかを他人は簡単に判別することができる。
だが、私が光明を得ているか どうかを他人が判別することはできない ―まし
てや多数決で決めることなどできない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
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