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鬼和尚の仏教購読会 別館

553避難民のマジレスさん:2019/05/19(日) 00:00:58 ID:LC3de7YgO
>>552
黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)

王様は言う「おまえよりも足がのろいやつじゃ、"ダレモイナイ"は。でなけり
ゃとっくに着いておるはずじゃ。わしは何度も何度も同じ知らせを聞いておる。
たくさんの者がここに着いたが、みんな口をそろえて"ダレモイナイ"と言う。
なのにまだダレモイナイは到着していない!おまえよりも足がのろいやつじゃ
、ダレモイナイは」
当然アリスは「王様は何を言ってらっしゃるのだろう?私より足がのろい人は
誰もいないですって?」と考えて、こう言い返した。
「誰もいないわ、私よりも足が速い人」アリスは気分を害していた。
すると王様は言った。
「ダレモイナイは、おまえより足が速いのか?ではなぜそいつはまだ着かんの
じゃ?」
話がこんがらがったわけに気つ゛いたアリスは、
「王様、ダレモイナイなんて人は誰もいないんです」と言った。
すると王様は言った。「もちろんじゃ。ダレモイナイはダレモイナイに決まっ
ておる。だが、そいつはどこにおるのかね?」
こうして話は延々とつつ゛いていった。
空でさえものになってしまいかねない。
仏教哲学で起こったのはそれだ。
哲学者はあたかも空が神であるかのように、空が生の本質そのものであるかの
ように、空について語りはじめる。
彼らはあたかも無が何ものかであるかのように、無のことを語りはじめる。
無は言葉にすぎない。
自然のなかにはノーは存在していない。
ノーは人間が発明したものだ。
自然のなかでは、すべてがイエスだ。
自然のなかには、肯定的なものだけが存在している。
否定的なものは人間がこしらえたものだ。
例えば、この椅子はただの椅子だ。
自然のなかでは椅子は椅子でしかない――それがありのままの姿だ―― だが、
言葉では 「これはテーブルではない、これは馬ではない、これは人間ではない」
と言うことができる。
これらの言明はすべて正しい。
椅子はテーブルではないし、馬ではないし、人間ではないからだ。
だが、これらは否定的な言語表現にすぎない。
自然のなかでは椅子はただの椅子でしかない。
自然のなかに否定的なものはなく、 ただ肯定的なものだけがある。
だが、言語のなかには否定形が存在し、その否定形ゆえに大いなる哲学が生ま
れてきた。
無そのものがひとつの事物になってしまう。
不在がある種の存在であるかのように語られる。
だから、それに注意しなさい。
あなたに注意をうながすために、呂祖師は言う。
いいかね、空は紛れもなく空であるが、仮象も空であり…… 幻影(仮象)は少
なくとも 幻影としては実在する と考えはじめてはいけない。
幻影もまた空であり、 そこには何もない。
例えば縄を蛇だと錯覚するとしよう。
見ると蛇がそこにいるが、明かりをもってくると消えてしまう。
そうなると「蛇はどこへ消えたのだろう?蛇はどこからやって来たのだろう?」
という疑問が湧いてくる。
蛇は一度も現れたこともなければ、消え去りもしなかった。
それは存在しなかったのだ。
実のところ、縄はいつも縄だった。
それはあなたの錯覚だった。
あなたが蛇をつくりだし、それを投影した。
それは妄想マインドの産物 にすぎなかった。
いいかね、空は空であり、
仮象も空であり、
中心も空である。
これが仏陀のなす最大の貢献だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)


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