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鬼和尚の仏教購読会 別館
727
:
避難民のマジレスさん
:2019/08/01(木) 23:54:26 ID:LC3de7YgO
>>725
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part1(つづき)
真我探求は静寂だ。
静寂とは心を動かさないことだ、一秒間心を鎮めてあなたの顔を見てごらん。
静寂とは達成、考察、意図、観念を全て投げ捨てることだ。
ただ、静かにしていなさい。
動かないこと、動かないこと、動かないこと。
あなたは愛と美そのものだ。
静かにしていなさい、そうすると、あなたがすべての存在の中に存在する真我だと知るだろう。
真我探求は真の瞑想だ、気づきへの集中だ。
この気づきが真理そのものを明らかにする:主体も対象も存在しない。
「アートマンのみ実在する」という決定が瞑想だ。
心が過去と未来に向くのをやめさせ、確固として「今、ここ」に留まら
せなさい、そして瞑想しなさい。
瞑想しているのは誰かと瞑想しなさい。
これが「全てが現れてくる源泉から見ている」ということだ。
これが「あなたであるところのものに戻る」ということだ。
瞑想とは努力をしないこと、思考を奮起させないこと。
それは探索するという行為ではない、探索するとそれをなくすだけだ。
瞑想とは、心を活動的にするそのエネルギーに
努力なしに心を向けるということだ。
この瞑想は<真我ー存在―一体>との同一化へと溶け込んでいくことだ。
あなたはいつもこの瞑想の中にいる、
サハジャの状態にいる。
真の瞑想は自由だ、瞑想者が現われてくる源泉に留まっているというこ
とだ。
他の瞑想は単なる何かに集中するという形をとったものだ。
真の瞑想は始まることもなければ終わることもない。
事実、瞑想の芸術は常に瞑想していることだ。
到着すべき目的地はなく、なすべきことは何もない。
瞑想とは単に「存在として」くつろいでいることだ。
時間と瞑想は一緒に存在することはできない。
瞑想が時間を破壊するように
時間の観念は瞑想を破壊する。
「私は瞑想しなければならない」という思考でさえ瞑想を騒がす。
投げられた石が静かな湖を騒がすように。
真我探求は特別な視覚だ。
目を通して見るのではなく、真我を通して見るのだ。
真我を見ているのは真我だ。
目を閉じてもあなたの目はどこにあるのかがわかるように
この視覚によってこの視覚はどこにあるのか知ることができる。
これをやりなさい。
どこから目の視覚がやって来るのか見つけなさい。
この貯水池は視力で満ちている。
目の後ろを見なさい。
目の前を見たら対象を見る。
目の後ろを見たら主体、「見ている人」を見るだろう。
それがすべての源泉、愛と美の源泉だ。
真我探求はあなたの人生の一瞬一瞬を通じて続けるべきだ、
自然に呼吸をするように、最後の息が切れるまで。
私のマスターは言われた、
「探求者がいなくなるまで探求しなさい」
マインドの習癖を壊すのは非常に難しい、だから探求を続けなければな
らない。
長い間あなたは無知であったのだから
真理を知ったときは真理としてしばらく留まりなさい。
他に何が重要だというのか?
あなたは強くなくてはならない。
絶えず心をチェックしなさい。
愚かさに二度と戻らないと決心しなさい。
一度沈黙に入ったら、沈黙として沈黙していなさい。
(´・(ェ)・`)つ
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