したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

鬼和尚の仏教購読会 別館

260避難民のマジレスさん:2019/01/27(日) 10:22:03 ID:LC3de7YgO
>>258
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える
 より抜粋

呂祖師は言った。
観想なくしては何事も成しとげられない。
覚知することにより人は目標に到る。
内観によって反転させなければならないのは自意識をもったこころである。
万物を形つ゛くる精神が顕現してくる前の状態へとそれを導かなければならない

昨今の人々はたった一時間か二時間坐って瞑目し、ひたすら己の自我を見つめ
、それを内観と呼んでいる。
そのようなやり方でどうして何かを得ることができるだろう?
人は鼻の頭を見るべきである。
だがこれは、みずからの思念を 鼻の頭に固定させるという意味ではない。
またこれは、目で鼻の頭を見つめながら思念を「中心の黄色」に集中させると
いう意味でもない。
視線が向かうところに、こころも向かうものである。
どうしてそれを同時に上方と下方に向けることができるだろう?
こういったことはみな、月を指す指を月そのものと取り違えるようなものであ
る。
では、これは実際には何を意味するのか?
「鼻の頭」という表現はよく考えて選ばれたものだ。
鼻は視線の目安とならなければならない。
鼻に視線を向けていない場合 には、目を大きく開けて遠くを見ているため鼻が
見えないか、 あるいは目を閉じ過ぎていて鼻が見えない。
目を大きく開け過ぎると、視線を外に向けるという誤りを犯し、気が散りやす
くなる。
目を閉じすぎると、視線を内に向けるという誤りを犯し、夢を見るような空想
の状態に沈みこんでしまう。
ただ瞼まぶたを適度に半分ほど閉じると、ちょうどよい具合に 鼻の頭が見え
るようになる。
そのために鼻を目安にするのである。
大切なのは、瞼を適度に閉じて、意識を集中させて光を流れ込ませようとする
のではなく、光が自然に流れ込むようにすることである。
鼻の頭を見ることは、ひとえに内なる集中をはじめる際に役立つのであり、そ
うすることで視線が正しい方向に向かい目安が定まれば、後はそのまま放置す
ればよい。
これは大工が下げ振りをつるすにあたり、いったんそれをつるし終えると、絶
えずその糸を見ることにこだわらないようなものである。
両目で鼻の頭を見ながら、背筋を伸ばして楽な姿勢で坐り、こころを諸条件の
只なかにある中心にたもつ。
それは必ずしも頭の中心を指しているわけではない。
大切なのは、ただみずからの思念を両目の中間に定めることである。
そうすればすべては整う。
光ははなはだ動きやすい。
両目の中間に思念を定めると、光は自然に流れ込んでくる。
注意をことさら中心の宮殿に向ける必要はない。
大切なことはこの数語に要約されている。
「諸条件の只なかにある中心」というのは、ひじょうに 微妙な表現である。
中心は至るところにあり、いっさいのものが そのなかに含まれている。
それはあらゆる創造のプロセスが 解き放たれる点と結びついている。
一点を見つめ観想することが不可欠である。
この技法はすみやかに光明を得ることを保障する。
世俗の想念が浮かびあがってきたなら、そのままじっと坐りつつ゛けてはいけ
ない。
その想念はどこにあるのか、どこではじまり、どこへ消えてゆくのかを調べな
ければならない。
内省をどこまで押し進めても何も得られない。
この想念がどこから生まれてきたかを見ることでよしとし、その先を究めよう
としてはならない。
こころを探し求めても、とらえることはできない(意識によって意識の背後に
達することはできない)からだ。
人はみなこころを落ち着かせようとする。
これが正しい観想である。
これと矛盾するのは誤った観想であり、何も得るところがない。
雑念が果てしなくつつ゛いてゆくときには、立ち止まり、観想をはじめなけれ
ばならない。
観想したら、再び見つめる。
これがすみやかに光明を得るための二重の技法、つまり光を巡らせることであ
る。
巡らせるとは見つめることであり、光とは観想のことである。
観想せずに見つめるのは光のない循環であり、見つめずに観想するのは循環の
ない光である。
これに注意しなければならない!
(´・(ェ)・`)
(つづく)


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板