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鬼和尚の仏教購読会 別館

320避難民のマジレスさん:2019/02/17(日) 07:59:57 ID:LC3de7YgO
>>318
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

ヨーガの呼吸法、プラーナーヤーマでやるような 特定のリズムを実修する必要
はない。
人はそれぞれ 自分に合った方法を見いださねばならないからだ。
肉体が違い、心理構造マインドが違うのだから、 あなたがたの呼吸も同じもの
ではありえない。
あなたは徐々に自分に合った方法 を見つけてゆかなければならない。
ひとつ忘れてはならないことがある。
呼吸は穏やかで、静かで、音楽的なものに なってゆかなければいけない。
(p255)
このためには、とりわけ耳の光が必要である。
ここで呂祖はまた別の手ほどきをする。彼は言う―
光は目から入って、そこを出入りするように、耳からも入って、そこを出入り
する、と。
光が耳から出たり入ったりするのを見ることはできないから、これは不思議な
言明だ。
だが、現代の物理学者に尋ねてみるといい。彼らは、音とは電気、電気の作用
に他ならないと言う。音は電気だ。
呂祖が古代の言語で「光」と呼んでいるのはまさにそれだ。
音は耳から入り、耳から出てゆく。
目が肉体の男性的な部分であるように、耳は肉体の女性的な部分だ。
目が外向的であるように、耳は内向的だ。
それゆえに、世界には二種類の瞑想がある。
目のエネルギーに関わる瞑想と、耳のエネルギーに関わる瞑想だ。
耳のエネルギーに関わる瞑想は女性的な瞑想であり、受動的だ―あなたは何も
せずに、ただ耳を傾ける。
鳥の声、松林を通り抜ける風の音、あるいは音楽や、往来の騒音に耳を傾ける。
何もせずに、ただ耳を傾ける。
すると深い静けさが訪れて、大きな安らぎが降り注ぎ、あなたを包みはじめる。
それは目よりも、耳を通してやるほうがやさしい。
耳を通してやるほうがやさしいのは、耳が受動的で、攻撃的ではないからだ。
耳は<存在>に対して何もすることができない。
ものごとを起こるにまかせるだけだ。
耳は扉であり、ただ受け容れる。

目の光があるように、耳の光がある。
目の光は外界にある 太陽と月が合体したものである。
それは外向的だ。

耳の光とは内なる太陽と月が合体して生まれる種子である。
それは内向的だ。

ゆえに種子とは光が結晶化したものである。
いずれも同じ起源をもち、名前が異なっているだけだ。
光と音は名前が違うだけだ。
インドには物語がある―実話かもしれない。いずれ科学がその正しさを証明す
るときがくるだろう。
インドの物語によれば、ある種の旋律メロディには火を生みだす力があるとい
う。
音楽家の前に火のともっていない蝋燭ろうそくを置き、音楽家がある旋律、あ
るラーガを演奏すると、突然、蝋燭に火がつく。
さあ、そんなことはありえないようだし、ただの物語にすぎないように思える。
おそらく神話か、譬たとえ話にすぎないだろう。
だが、音が電気だとしたら、ある種のパターンを形成した波動は火をつくりだ
すことができる。
今や実験が行なわれている。
私が思うに、遅かれ早かれ、科学的にそれを再現することが可能になるだろう。
これはよく知られている事実だが、軍隊が橋を通過するとき、兵隊たちは必ず
リズムを崩すように命じられる。
彼らはふつうは左、右、左、右、左、右といった具合に、一定のリズムを取り
ながら歩いている。
軍隊があるリズムをとって通過してゆくと橋が壊れてしまうということがよく
起こった。
だから、橋を渡るとき、軍隊は右、左のリズムを崩さなければならない。
今ではこれが周知の事実となっている。
ある種の波動が橋にとっては危険なのだ。
カナダでは、植物と音楽との関わりを調べる実験が行なわれた。
ささやかな実験だが、計り知れないほどの意義がある。
同じ季節の花が、同じ時期に、同じ肥料で、二か所に植えられ、同じ庭師がそ
れらの面倒を見た―
それぞれの区画は何から何までまったく同じだった。が、一方の区画には、
ラヴィ・シャンカールのシタールのレコードが用意され、絶えずその音楽が流
されていた。
そしてもう一方の区画には、ポップ・ミュージックが流された。
それはひじょうに示唆に富んだ現象だった。
(´・(ェ)・`)
(つづく)


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