したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

鬼和尚の仏教購読会 別館

272避難民のマジレスさん:2019/01/30(水) 23:51:00 ID:LC3de7YgO
>>269
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

覚知することにより人は目標に到る。
自分自身から一歩たりとも踏み出してはならない。
神はすでにあなたのなかにいるからだ。
神は既成の事実だからだ。
それはあなたの内奥にある中核だ。
神は天上に、空のどこかにいるわけではない。
神はあなたの内側に、もはや思考によってかき乱されないところにいる。
沈黙がみなぎり、何ひとつ映し出していない、中身のない意識があるところに

そのとき、あなたは自分自身の味をはじめて体験し、みずからの実存のかぐわ
しい香りに包まれる。
黄金の華が開く。
(p200)
内観によって反転させなければならないのは自意識 をもったこころである。
万物を形つ゛くる精神 が顕現してくる前の状態へとそれを導かなければならな
い。
思考は顕れたものであり、無思考は顕れていないものだ。
自分が見ている風景が思考だけで成り立っているとしたら、エゴ自我以上のも
のは何もわからないだろう。
自我は「自意識をもったこころ」と呼ばれている。
あなたは思考のかたまり以外の何ものでもない。
その思考のかたまりのせいで、あなたは「私はある」という自意識をもつよう
になる。
近代西洋哲学の父であるデカルトは「我思うゆえに我在り」と言う。
彼は瞑想者ではないから、まったく別のことを言おうとしているのだが、その
言明そのものは美しい ―
まったく異なる文脈のなかに置くなら美しい。
私はそれに別の意味を与える。
そう、私は私が考えるときにのみ存在する。
思考が消えれば、私も消え失せる。
「我思うゆえに我在り」 ― この私の感覚、この「自意識をもったこころ」と
は連続する思考に他ならない。
それは本当は実体がなく、偽物であり、幻覚だ。
手に松明たいまつをもってぐるぐるまわしてゆくと、現実にはない火の輪が見
える。
だが、松明の動きがすばやいために、まぼろしの火の輪が生み出されている。
それは火の輪の幻覚を生じさせる。
それはそこにはない。
思考の動きがあまりに速いので、私という観念がつくりだされる。

呂祖は言う ― 人は「自意識をもったこころ」から"自意識をもたないこころ"
へと移らなければならない、と。
人は自我から無我の状態へと移らなければならない。
人は自己から無自己へと移らなければならない。
自己は顕現している部分であり、ちっぽけで、ひじょうに小さく、粗雑だ。
無我は顕現していない部分であり、果てしがなく、永遠だ。
自己はつかのまの現象であり、いつか生まれて、いつか死ななければならない

無我 ― 仏陀は「アナッター」、無自己と呼んでいる ― は永遠の一部であり
、生まれることもなく、死ぬこともない。
それはいつまでもとどまる。

六尺の身体の内に、天地が未だ現れる前にあった形を求め、努力しなければな
らない。
そしてあなたの六尺の身体のなかでは、その本質が、天地がつくられる前から
あったその本質が、今もなお息つ゛き、鼓動している。

禅の人々はそれを「本来の面目」と呼んでいる ―天も地も、何ひとつ生まれず
、いっさいのものが姿を現さず、沈黙だけがそこにあり、物音ひとつ立たなか
ったとき……形がなく、すべて無相であり、あらゆるものが種子の状態であっ
たときにそこにあったもの。
その本来の静寂があなたの内側にある。
ヒンドゥー教徒はそれを「アナハトナッド」と呼ぶ。
仏教徒たちは「隻手せきしゅの音声おんじょう」
という特有の表現をする。
それはあなたの内側にある。
それはあなたの真の姿だ。
それを味わえば、あなたは不死になる。
それを味わえば、あなたは黄金になる。
そうなったら塵ちりは変容して神々しいものになる。
錬金術はみな、卑金属を黄金に変容させることを目指している。
(´・(ェ)・`)
(つづき)


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板