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鬼和尚の仏教購読会 別館

274避難民のマジレスさん:2019/01/31(木) 12:09:15 ID:LC3de7YgO
>>272
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

昨今の人々はたった一時間か二時間坐って瞑目し、ひたすら己の自我を見つめ
、それを内観と呼んでいる。
そのようなやり方でどうして何かを得ることができるだろう?
坐って瞑想しながら、自分の自我エゴを見つめてばかりいるといったことにも
なりかねない。
人々が「観想」と呼んでいるものはそれだ。
彼らは自分たちの思考を見つめているが、見ている風景の焦点を変えてはいな
い。
彼らにそれしか起こらないのは、ふだんは実にたくさんのことに心を奪われて
いるので、思考を見つめることができないからだ。
瞑想のために特別に坐ると、しばしのあいだ世間を忘れ、思考がふだんよりも
鮮明になり、思考に対してより敏感になる。
これは哲学者の心境だ。哲学者はそのようにして考え、推測し、哲学を組み立
ててきた。
これは真の観想ではない。
そしてこのようなやり方では、自我を超え、死を超え、時間を超えてゆくこと
などできるはずがない。
だが、人間の目的はまさに超越にある。
くり返そう。
瞑想をしたければ、見ている風景の焦点を変えなければならない。
目を閉じて自我を見つめているだけでは役に立たない。
イギリスの偉大な哲学者、デービッド・ヒュームは書いている。
「偉大な教師マスターたちがそろって口にする
『汝自身を知れ、瞑想をせよ』という金言や助言を何度も何度も聞いたり読ん
だりしたので、私も瞑想をやってみた。だが、内側には思考、記憶、空想、夢
しかなかった。他には何も見つからなかった」
彼がそう言うのももっともだ。
彼は瞑想が何であるかを知らないからだ。
彼は哲学者、世界でもっとも才能ある哲学者のひとりだ。
その論理は実に鋭く、首尾一貫している。
が、彼は瞑想者ではなく、たんなる哲学者にすぎない。
その言葉通り、彼はやってみたにちがいない。
彼は内側をさまよっているたくさんの思考に出くわしたにちがいない。
そこで彼は言う。
「自己もなく、静寂もなく、神も存在していない。こんなことをしても虚しい
だけだ」
彼は取り逃がした。
まず見ている風景の焦点を変えねばならないということに気つ゛いていなかっ
たからだ。
思考を見つめる必要はなない。
すきまを求め、すきまをのぞき込まなければならない。
すきまを探し、そのすきまのなかに飛び込まなければならない。
すきまに飛び込んでいたなら、彼は思考が消え、夢が消え、記憶が消えてゆく
のを見ただろう。
あらゆるものが置き去りにされ、しだいにそれは遥か遠くに聞こえる物音にな
ってゆく。
そしてある瞬間がやって来る……それが すっかり消え失せると、あなたは超
越している。
あなたは向こう岸に到達している。
人は鼻の頭を見るべきである。

さあ、ここは経文のなかでも実践に役立つ箇所だ
― とても単純だが、正しく理解するように。
なぜなら、心マインドは単純なものごとですら曲解したがるからだ。
心とは曲解しようとするからくりだ。

人は鼻の頭を見るべきである。
なぜか、それが助けになるからだ。
そうすればあなたの意識は第三の目の延長線上にくるからだ。
両目が鼻の頭に向けられていると、たくさんのことが起こる。
基本的なことは、第三の目は鼻先と一直線上に ― 五、六センチ上だが同じ直
線上に ― 位置しているということだ。
ひとたび第三の目の延長線上にのれば、その第三の目の魅力、その第三の目の
吸引力、磁力があまりに大きいので、あなたは知らないうちに引きつけられて
しまう。
その線の上にのりさえすれば、第三の目の魅力、引力が作用しはじめる。
ひとたびその線の真上に来れば、努力をする必要はいっさいなくなる。
ふと気つ゛くと、世界の見え方が変わっている。
両目は二元的な世界や思考をつくりだし、両目のあいだにあるひとつの目はす
きまをつくりだすからだ。
これは見ている風景の焦点を変える単純な技法だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)


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