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鬼和尚の仏教購読会 別館
267
:
避難民のマジレスさん
:2019/01/28(月) 23:02:53 ID:LC3de7YgO
>>264
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
より抜粋
龍潭のもとを徳山が訪ねた。
龍潭は師であり、徳山は弟子だ。
外が真っ暗なのを見て、弟子は師に言った「真っ暗です」 師は蝋燭に火をとも
すと、それを弟子に差し出した。
弟子が受け取ろうとしたそのとき、師は火を吹き消した。
突然、闇がもどってきた。
闇は一段と深さを増した。
不意に蝋燭を吹き消されたことが、予期せぬ一撃になったにちがいない。
しばらくのあいだ、弟子は二つの思考のはざまに落ちていったにちがいない。
しばらくのあいだ、思考が消え失せ、観想が起こった。
しばらくのあいだ、完全な沈黙があった。
その沈黙のなかで彼は大切なことをつかむことができた。
翌日、彼はもっていた経典をすべて燃やしてしまった。
もはやそれらは必要ではなかった。
彼はみずからの体験を通して真理を知ったからだ。
ごくわずかの体験でも、山のような知識よりも価値がある。
太陽や月やすべての星々よりも、たった二つの小さな目のほうが価値がある。
大切なのは、宗教とは体験であるということだ。
それは推測ではない。
絶え間ない分析ではない。
それは洞察だ。
(p196)
さて、経文だ。
これらの経文にはここのうえもない価値がある。
なぜなら、それは最も簡潔な表現で手法を授けて いるからだ。
あなたが複雑なものにしようとしないかぎり、この手法は実に単純だ。
こころマインドはいつも単純なものごとを複雑なものに変えてしまう。
それに気をつきなさい。
なぜなら、心は単純なものとは共存できないからだ。
それは必要とされない。
もしものごとがごく単純で あれば、心の出る幕はない。
ものごとが複雑であってはじめて心が必要になってくる。
そうなったら、あなたは心に頼らざるをえなくなる。
心が謎を解く道を見いだしてくれるからだ。
だが、謎がなければ、心はまったく無用だ。
あなたは心を捨てることができる。
だから、心はものごとを複雑にしてしまう。
これらの経文は実に単純であることを覚えておきなさい。
真理はつねに単純だ、まったく単純だ。
呂祖師は言った。
観想なくしては何事も成しとげられない。
観想とは何か?無思考の瞬間だ。
「観想contemplation」という言葉には、ディヤーナの正しい意味が含まれていない。
英語には「ディヤーナ」という言葉に当たる適切な訳語がない。
使えそうな言葉が三つある。
ひとつは「集中concentration」
だが、この言葉はひどくかけ離れている。
集中とは努力、緊張を意味している。
それは強いられた状態であって、無碍むげ自在に流れている状態ではない。
ところが、ディヤーナとは無碍自在に流れている状態だ。
そこには緊張がない。
だから「集中」という言葉は訳語としてはふさわしくない。
次は「観想contemplation」という言葉だが、観想には思考の含みがある。
誰かが観想していると言えば、何かについて考えているということになる。
三番目の言葉は「瞑想meditation」だが、これもやはり 考えること、何かにつ
いて瞑想することを意味する。
この三つの言葉にはどれもディヤーナの意味が含まれていない。
ディヤーナとは無思考の状態、沈黙の状態、意識的でありながら中身がない状
態を意味する。
鏡がそこにあるが、何も映し出していない、まったく 何も映し出していない。
ちょうどその鏡のように、意識がそこにあるが、何もそれをふさいでいない。
その何も占められていない醒めた意識がディヤーナだ。
道家の人々は「ディヤーナ」の訳語として「観想」を使っている。
いずれにせよ何らかの言葉を使わざるをえないからだ。
だから、その意味を覚えておきなさい ― それは辞書に記された意味ではない。
辞書を調べると、まったく違った観想の概念 ― 『黄金の華の秘密』が「誤っ
た観想」と呼んでいるものが載っている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
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