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web誌友会参考文献板

1トキ:2013/06/26(水) 09:56:44 ID:bcz1wXIA
web誌友会参考文献板 です。

 このスレッドは、同じ掲示板の「web誌友会」の参考になるような聖典やご高弟様の誤文章を
紹介するための専門の板です。原則として、web誌友会の指導講師や司会の方以外の方の投稿は
ご遠慮下さい。どうしても投稿を希望される場合は、事前に、場合によっては事後に、講師、司会
または管理人の許可を得て下さい。許可のない投稿は、他の適当な板へ移します。

 あらかじめご理解下さい。
 
 その他、御不明の点は、お気軽にお尋ね下さい。

管理人「トキ」 敬白

4復興G:2013/06/26(水) 15:06:56 ID:AB6RqYXc

合掌 ありがとうございます。

元生長の家本部講師 榎本恵吾先生(故人)の書かれた論文
『神癒の展開としての人類光明化運動―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―』 というのがあります。
53字×19行×1000頁 すなわち約100万字にもなる膨大な量のご文章です。

これは、榎本先生が宇治別格本山の神癒祈願部長をされていたとき、平成10年から11年(1998.7.1〜1999.11.29)に、毎日「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」で神想観・神癒祈願をされたあと、この論文を書かれたのだということです。論文といっても頭で考えた論文ではなく、祈りからほとばしり出た、内なる神の声と言ってもよいものでしょう。これは、平成10年大晦日の12月31日にも、11年元日の1月1日にも、1日も休みなく書かれております。

榎本先生はパソコンは使われず手書きで書かれる。それを職員がパソコンで打ち込み、プリントアウトしたものを、当時本部に設けられていた「光明化運動・21世紀を考える検討委員会」宛に送っておられたそうです。

検討委員会では、教化部長・本部役職者・本部講師の人たちから「提言書」を募集していたのですが、「優秀提言の選考と褒賞」の対象としては平成10年6月末で締め切ったので、7月以降に提出された榎本先生の論文は選考の対象とはならなかったようですが、これを読んだ担当者は、非常な感銘を受けたと漏れ承っています。

今、私はそれを保存されていたのをいただき読み返してみて、実に「今」――行き詰まり・分裂状態を呈している(と思われる)生長の家の運動を根本から考え直すために、用意されていた光明化運動論ではないかと、深い感銘を覚えます。

「web誌友会板」は、『生命の實相』をテキストとして生長の家の真理を深く学ぶことを目的にしていますが、この榎本先生のご文章は、『生命の實相』の神髄を理会するためにも、読めば非常に助けとなるものだと思います。

それで、ここに「web誌友会参考文献板」を開設していただきましたので、まずは

榎本恵吾先生を偲び、感謝をこめて、その
『神癒の展開としての人類光明化運動』 のご文章を掲示させていただきます。

最初に、すでに「web誌友会板」に掲示させて頂いたものをまとめて転写させて頂き、明日からは毎日、その続きを1日分ずつ、ここに謹写掲載させて頂きたいと思います。

ありがとうございます。 合掌

5復興G:2013/06/26(水) 15:08:15 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

          一

 生長の家の根本聖典である『生命の實相』には、あの「人類光明化運動発進の宣言」が載せられていないのは何故であるか、ということは、まことに厳かな意味で一考を要することではなかろうか。

 さて、そのことはひと先ず別にするとして、『生命の實相』第一巻、本論の冒頭には、高らかに、

   生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります。

とうたい上げられているのである。

 生長の家人類光明化運動の根本聖典の冒頭において「神癒」について書かれているということは、生長の家人類光明化運動が神癒の展開として発進していることを意味すると同時に、ここには、その神癒とは何であり、如何にしてそれが起こり得るのか、ということが示されていると拝察させて頂くのである。

 神癒(メタフィジカル・ヒーリング)とは、生命の實相の自性円満を自覚した時に起こるところの、よろこばしき、明るきなにものか、であるということである。

 さて、神癒祈願部というのは尊師によって純粋宗教部門として出発しているのであるが、純粋とは何であろうか。純乎として純なるものとは、神であり、完全なる實在の相(すがた)であると言わなければならないのである。このことは、神癒の展開としての生長の家人類光明化運動においては、この世界及び人間について、純一に、自性円満なる實相として観じられていなければならないことを意味するのであって、現象処理が大切であるという名のもとに、いくらかでも、實相独在をはなれて、現象を認めた上での人類光明化運動であってはならないことを意味しているのである。

 この運動は 「今起て!」 という啓示によって起った光明化運動であるが、その天の声は、

 「無いものは無いのだ。知れ! 實相のみがあるのだ!」 という極まった唯神實相の自覚がそこに現成した、そのところが 「今」 であり、そこに出発が成り立ったのであり、いささかも現象への妥協によってではなかったのであることをはっきりと確認しておかなければならないのである。そのことは唯神實相、實相独在、光明一元であり、救われていないものは一人もいないということであればこそ始まったところの運動であることを意味するのである。

 ひるがえって想えば、「人類光明化運動発進の宣言」は、現象世界の状況を認めた上での方便的宣言であると言わなければならないのではないか。こちらの方は、世界が不完全であればこそはじまった運動であるというところに方便的要素があると言うことである。これはつまり状況論であると言わなければならないのである。

 一方、『生命の實相』 の方は、たとえ、そのような状況が無くなったとしても、それを超えて、神がこの天地を必要性や状況への対処のために創造され給うたのではなく、神はすべてのすべてであり、完全であればこそ、その完全なる相(すがた)の自己展開として天地創造が行われ、神は今に至るも創造され、生長されつづけているという、その創造としての、久遠の創造のすがたとしての人類光明化運動であることがそこに顕われているといわなければならないのである。

 それ故、「人類光明化運動発進の宣言」 の方は、苦しみ悲しみがあればこそ起たざるを得なかったという方便的表現であり、『生命の實相』 の方は、うれしいからこそ起たざるを得なかった、ということになっているのである。

 このことは、世紀を超え、状況を超えた運動のあり様が謳われているということなのである。そこに 『生命の實相』 が根本聖典であるゆえんがあると拝察されるのである。ここに尊師谷口雅春先生が 『生命の實相』 に、「発進宣言」 を載せられなかったゆえんの一つがあるのではなかろうか、という想いに至らざるを得ないのである。(1998.7.1)

6復興G:2013/06/26(水) 15:08:58 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

          二

 二十一世紀を目前にして想うことは、二十二世紀を想うことである。

 当面の目前に迫った二十一世紀のことを考えることと並行して、百年をかけて二十二世紀を考えて行くこと、二十二世紀を迎えるための百年として、さまざまな実験的なことを行う百年と考えては如何なものであろうか。

 例えば、カトリックの世界公会議では、百年分の方針を決めるのである。百年単位で決定するのである。百年変更しないのである。そのために、たしか、十数年間くらい会議がつづけられるというようなことを読んだことがある。

 おそらく、百年かけて次の百年分を考えて行くということになっているのではないだろうか。

 さて、人類の歴史は、天動説を経て、地動説となっているが、やがてそれは心動説へと移って行くと想われて来るのであって、歴史の区分も、天動説時代、地動説時代、心動説時代という区分のしかたとなって行くと想われるのである。

 宇宙の動きの原因が天から地へとうつり、さらに心の中に近づくにしたがって、人類は遠くに到達するということになって来ているのであって、これは、心の内に宇宙を把握することの反影であると想われるのである。心の中にすべてがあることの反影であると観ることが出来ないであろうか。

 さて、吾々は時代を先取りするという観点からすれば次のようなことも浮かび上がって来るのではないか。

 つまり、医学が発達するということは如何に簡単に治し得るかということに帰するのであろう。そのことから考えると、神癒祈願に受付で申し込んだだけで治るということがあり、あるいは代理が申し込みに来て、受付で書類を書いて申し込みをするだけで、病気が消えてしまうというようなことが頻々と起きているというようなことになると、医学が如何に発達しても、受付で申し込むだけで治るというような時代は、果たして何百年後のことであるのだろうか。予想もつかないほどのはるか彼方の遠い先のことではないだろうか。そのはるか彼方を先取りしているのが生長の家であるということが出来るのではないかと想われるのであって、それを科学のレベルにおいて如何に説明し得るかということが重要な問題となって来るのである。

 さて、生長の家を如何にして新しい人に知らせるかということが根幹のテーマとなって来るのである。ここに 「伝わり方の研究」 ということが私のテーマとなって来ているのである。

 例えば、あの教えは“深い”とか、“崇(たか)い”とかというコトバはどのような時に、聴く人、あるいは読む人から、何を、どう受けとめたときに、自然と発せざるを得ないのであるか。

 あるいはまた、「ある時から、み教えが自分の心の内に入って来るようになった」 というコトバを発する人は、それは如何なる時にその言葉を発せざるを得ないのであるか。どのような時に、入って来るということが起きるのであろうか……等である。

 しかし、先ず心におくべきことは、『生命の實相』 の奇蹟的説法を永遠に古くなることのなきものとして参考にしなければならないことは、はっきりしているのである。何故ならば、生長の家は谷口雅春先生だけで他の全人類がすべて新しい人であった時に、感動を与え、病気さえ消えてしまうほど深く新しい人々に解せられることのできたすがたが、ここにあるからである。(1998.7.2)

7復興G:2013/06/26(水) 15:09:32 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

          三

 来たる世紀は 「心の時代」 であるとか、「宗教の時代」 であるとか言われて久しいが、その心で悩み抜いたのが谷口雅春先生であり、その心を超えたのが尊師であり、生長の家なのである。宗教も心によってあるのであるから、心を超えたということは宗教をも超えたと言えるのである。すべてを超えたのが生長の家なのである。すべてを超えて、はじめのはじめの一つなるものに還ったのが万教帰一ということなのである。万教帰一とは万物帰一ということなのである。一つであることがすべてのすべてであることなのである。

 「国際平和信仰運動」 ということにおいても、世界が一つである實相なるものの上に立ってのことであり、バラバラなるものを一つにするというのではなく、一つなるもののあらわれ又は展開としての世界平和あるいは世界調和ということであって、明るさと平安なるよろこびがその運動には満ち満ちているのである。

 それははじめのはじめが今ここに生きている明るさなのである。

 聖書の 「ヨハネ伝」 の冒頭に 「はじめに言葉あり」 と書かれているが、「はじめ」 とは英語で 「Very Beginning」 と書かれているのであり、これは 「はじめのはじめ」 ということであり、一つであることを意味しているのである。

 神癒祈願の申込書を前にして祈っていて、この 「五千名」 の人々の苦しみをいっぺんで消せないものだろうか、いや一度の祈りで全宇宙の苦しみを消せないものだろうか……、と想った時、谷口雅春先生がニコニコとした表情で神想観の中に観じられて、

「それをやったのが私だよ」

「それをやったのが生長の家だよ」

という言葉をたしかに私は聴いたのである。これこそが、はじめにあるコトバであり、はじめに帰ったすがたであると拝察されたのである。そのよろこびに満たされて出発したのが、生長の家人類光明化運動であり、国際平和信仰運動なのである。一つなるもの、完全なるもの、光明なるものとは、このはじめのはじめの意味するものなのである。即ち實相ということである。

 谷口雅春先生と縁のある人々は、本によってであろうと、同時代に生まれたというだけでも、縁を得たという魂はすでに、「それをやったのが私だよ。それをやったのが生長の家だよ」ということを知っているのであると想われるのである。このお言葉を私はどれだけ受けとめ得たかということは別として、なぜ私たちは生長の家でなければならなかったのか、ということの根本に、このお言葉の中身をその魂が知っているからなのだ、ということだけは、はっきりとしたことであるのである。生長の家にご縁をいただいているすべての魂に無限の敬意をもって接せずにはいられないのである。

 『生命の實相』 は永遠のベストセラーであると仰がれるゆえんは、bestなる世界において、bestなる著者が、bestなる読者を拝んで書かれたものであるからなのであって、一冊でもbest sellerベストセラーなのである。

 『生命の實相』 の本論が 「生命の實相の自性円満(そのままでえんまん)……」 ということからはじまっているということは、「これから生涯にわたって私の書くすべての説法は救うための本ではありません。ただただ祝福礼拝のための本であります」 ということの偉大にして荘厳きわまりなき宣言であると言わなければならないのである。bestとbestであればこそ通い合い、通じ合うということが現成しているのである。(伝わり方の研究) (1998.7.3)

8復興G:2013/06/26(水) 15:34:36 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四

 さて、今世紀最大の出来事はなんであったか。それは生長の家の出現であり、尊師谷口雅春先生が降誕されたこと、そしてご昇天されたことであると、私たち生長の家信徒は誰しもがうなずけることに違いないのである。

 「生長の家の出現は、宇宙はじまって以来の荘厳である!!」

 と思わず感嘆した人があったと聴くが、その人は、尊師の全宇宙の救済について、

 「それをやったのが私だよ」

 「それをやったのが生長の家だよ」

 というひびきの中身にふれた人であったのであろうと想われて、うらやましい限りである。

 さて、イエス・キリストの十字架上の昇天には色々の意味、解釈があってその違いによって宗派が別れているほどであるときくが、その一つであろうか。イエス・キリストは弟子の前で色々な奇蹟を起こされたのは、弟子たち一人一人の中に、神がましまし、そしてみ業(わざ)を為し給うのであり、「あなた方一人一人の中に神と神の国があるのである」 と弟子たち一人一人の内なるものを祝福し、拝み給うたのであった。

 しかし、弟子たちには、その師であるイエスがみ業をあらわせばあらわすほど、「あれは、イエスだからこそ出来るのである」 ということになってしまって、尊敬はするが自分のことではないことになってしまったのであるという。

 そこでイエスは、弟子たち(人類を含む)の前から、自分は一度は姿を消す必要がある。そして弟子たちが肉体上の自分(イエス)の方ばかりを向くのではなく、自分の内を向くようにとの願いをもって十字架につき給うたのである、という解釈である。

 これによると十字架のお姿そのものが、弟子たちの内なるものへの拝みであり、祝福であり、愛なるものの燦然たる輝きそのものであるということになるのである。

 さて、尊師谷口雅春先生は卒然として九十二歳でご昇天あそばされたのであった。そして肉体のお姿を消し給うたのであった。これは、

 「私の方ではない、皆様お一人お一人の中ですよ。自分の内を拝みなさい」

 との拝みのお姿であったのであると拝察するのである。最後に肉体をお消しになることによって、そのお消しになったそのことが、肉体を捧げるという姿において最大の拝みを成就され給うたのであるということである。

 自分の片腕を燃やして世界を明るく照らしたという御仏がいまし給うたという仏教の話があるが、尊師谷口雅春先生は、ご自分の肉体すべてを捧げ、お使いになって、それを消し給うということによって最後の拝みを成就し給うたのである。

 それはまことに燦然とした愛なるものの輝きそのものであったのである。そしてそれは今も尚、さらに私たちの中において輝きを増されつづけているのである。

 谷口雅宣先生が、そのご昇天の日、山の上に夕日が燦然と輝いているのを、たしか総本山に向かう車の中でごらんになられて、

 「尊師はあの山の上にいましたのである」

 という感慨をお述べになっておられるのを拝読させて頂いたことがあったが、まことに燦然たるものを尊師谷口雅春先生のご昇天のことの中に確かめられておられたのである、と拝察せずにはいられないのである。

 「すべてを為し終えた気がする」

 と、尊師谷口雅春先生は 『生命の實相』 を完結せられた時にお述べになっておられるが、その意味は、ただ単に 「私の役目を為し終えた」 というようなある部分としての役目を果たし終えたというようなことでは決してなくて、釈尊が

 「かつてすべてのものをして吾れと等しくしたいという願いを起こしたが、その願すでに満足せり」

 と宣(の)り給うたことを、尊師谷口雅春先生は全宇宙の一人の病むものなき救済について、

 「それをやったのが私だよ」

 「それをやったのが生長の家だよ」

 という中身をもって宣り給うたのであった。それが唯神實相、實相独在論の威厳であることを銘記しなければと想うのである。(1998.7.4)

          ○

 ――榎本恵吾先生もまた、自分の肉体すべてを捧げ、使い切って、肉体を捧げるという姿において、

 「皆様お一人お一人の中ですよ。自分の内を拝んでください」 という最大の拝みを成就されたと思われます。(復興G)

9復興G:2013/06/26(水) 15:35:19 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五

 例えば組織の問題であるか何の問題であるとかを問わず、問題そのもの、現象そのものを “無し” として解決しているのが生長の家なのである。

 “現象なし” “不完全なし” と全現象宇宙を斬り捨て、全現象を “無し” と完全に現象を処理し終えているのが生長の家なのである。

 この完璧なる解決の上に立って人類光明化運動が発進しているのである。それ故、あらゆる問題にあたっては、教えの中そのものに求めよ、ということなのであり、それは充分に用意されてはじまっているということなのである。晴れ渡って進んでいるのが生長の家人類光明化運動なのである。

 “現象処埋が大切” という言葉は、針の先ほども現象を相手とし、それを認めての言葉ではないのであって、全現象宇宙を “無し” と消し給い、処理し終えて “こと終われり” なのが生長の家なのである。そしてそこに一点の曇りなき、神そのもの、實在そのものとしての価値創造としての光明化運動が純粋に持続されているのである。それが 「住吉大神宇宙を浄め終りて天照大神出でましぬ」 ということなのである。

 ありとしあらゆるものが、今、天照大御神そのものとして拝まれているのが全存在であり、天照大御神が天照大御神しているのが、光明化運動の 「光明」 ということなのである。

 「光明とは何か」

 それは、はじめのはじめより、ありとしあらゆるものとして、平等に、すでに、今あるところの “よろこばしきさやけさ” ということである。

 光りとは神であり、神はすべてのすべてであり、神の外にあるものなしであり給えば、光りははじめからすべてのすべてなのである。その光りなるものの存在には、新しい者も古い者もないのである。

 この共通なるもの、しかもはじめからあり、完全なるものがあるということが 「伝わる」 ということの基なのである。

 それ故、あまりにも、新しい人とか外の人とかということをクッキリとしすぎて、相対的な運動になっては、勿体ないことになるのである。

 「神には、新しい人も、古い人もないのですよ」

 「神には、教えの内に居る人も外に居る人もないのですよ」

 「もしも神がいるとすれば、『信仰をしたものは生かすが、信仰をしないものは生かさない』 ということは不自然なことで、そんな神に対しては 『何故、神は、平等に信仰をするように生んでおかなかったのか!!』 という不平と裁きしか生まれないのです。生長の家が感謝の教えであるといわれていますが、それは、不平、裁きの起こらない神を発見しましたよ、ということであります」

 ということが、表現はその時、その人によって様々に展開されていくのであろうが、説法、表現の基礎になっていると拝察されて来るのである。

 あらゆることの前に 「生きとし生けるものを生かし給える御祖神」 と感謝して唱えるようになっていたり、また 『生命の實相』 の冒頭に 「生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)」という言葉があり、また谷口清超先生の第一論文である 『文化の本源としての神想観』 の中に、「宗教は要するに、そのまま仏であり、神であることを知らせることである」 という意味のお言葉があるのは、内と外とを分けず、新しいものと古いものとを分けない拝みに立脚していることが、そこに尊師と基を一つにして表現されていると拝察されて来るのである。(1998.7.5)

10復興G:2013/06/26(水) 15:36:08 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六

 合掌
 さまざまな説き方の一つの試みとして、ここに『無神』という冊子を別便にてお送りいたします。
(後注参照)

 これは私が宇治に転勤して参りまして少したったころ、練成をしながら、その興奮状態の中で書きとめておいたものでした。どうせ興奮状態の中で書かれたものだから、その内に整理をして、語調も整えてと想って、想いのままに綴っておいたものでした。

 ところが、後になって、いざ整理をしようと想いますと、どうしてもそのままでしかあり得ないような気がして来たのでありました。それで句切り句切りを独立させたように、詩のような姿にして並べることにしたのでした。

 「無我」という言葉は非常に人間にとって憧れざるを得ない中身を示しているように想えるのであります。人間は何故「無我」にあこがれるか。それは元の神が「無我」であり給うから、そこから生まれ出でた人間も「無我」に憧れざるを得ないのではないか。人間のレベルで言えば「無我」ということになるが、神のレベルでは「無神」ということであります。

 生長の家の教え自体も自分を消していると想われるのであります。

 例えば、聖歌『生長の家の歌』にしても、生長の家という言葉は、ただ題名にあるだけでありまして、ご存じのように、一番はキリスト教讃歌、二番は仏教讃歌、三番は古事記讃歌、四番はこれら三つが素晴らしいとなっている万教帰一讃歌となっており、生長の家という言葉は一つもないのでありまして、ただただ万教(即ち万物)を讃え、拝むのが生長の家であることが示されていると拝察されるのであります。

 『生命の實相』 という書物にしてからが、その中に 「物質無し」 と書かれているのでありまして、本自体が 「私は無いのです」 とみずから消えているという、そこに無我の聖なる輝きのみがあって、それ故に、この書物は聖典と呼ばれているとも想われて来るのであります。

 さて、「人類光明化運動指針」の第九条

  「生長の家大神―総裁・副総裁―御教」

 という、この中には、大聖師谷口雅春先生は姿を消しておられるのであります。この指針が出来た時、これを承認なされたのは当の、谷口雅春先生でありますから、先生ははじめから、このように消え給うことの承認であったと拝察されるのでありましてまことに聖なるきわみでありまして、まことに 「大聖」 なる師という中身をもって 「大聖師」 とお呼び申し上げざるを得ないのであります。

 ご存じのように 『無門関』 の第一則の 「趙州狗子」 の公案の中に、「仏に逢いては仏を殺し、師に逢いては師を殺し……」 という一節が出てまいりますが、ある時の神想観の中にニコヤカに観じられた尊師谷口雅春先生は、
「あのね。生長の家では仏に逢いては仏を殺し、師に逢いては師を殺す、などという血生臭いことはしないんだよ。私は無いんだよ」

 と師みずから消えておられたのであります。ここに、生長の家は、教団自体がみずから消えて、澄み切っていて、まことに、「生長の家は感謝の教え」 であると言える姿がそこに拝せられるのである。澄み切りの教え即ち感謝、礼拝の教えということだと想うのであります。再拝三拝合掌 (1998.7.6)

 (注。『無神』 という冊子の内容は、「榎本恵吾記念館」 サイト
http://homepage2.nifty.com/hanabira/
の 「文書館 Ⅱ」 に公開されていますので、ご覧ください――復興G)

11復興G:2013/06/26(水) 15:37:03 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七

 『聖使命菩薩讃偈』 には 「己れ未だ度(わた)らざる前(さき)に、一切衆生を度さん」 とするものが最上、最尊、甚深微妙(じんじんみみょう)不可思議と讃えられているのである。

 しかしながら 『生命の實相』 の中には、自分が先ず救われなければ、救われたという状態はどのような状態であるかが解らないから他を渡しようがなく、救いようがないのであるということを、「自分に深切であれ」 という教えの言葉が引用されて説かれているのである。

 また別のところで、あるキリスト教の牧師が “神様と約束した人数を集めることが出来なかったので、神様に申し訳ない” と言って神経衰弱にかかっているのを尊師がお聞きになって、こういう人は、数という外のものによって傷つけられるところのものが自分であると想っているからであり、外が崩れると自分も崩れてしまうような気持になるのであって、その点キリストは、右の頬を打つ者があったら左をも打たせよ、と言われ、十里の公役を強(し)いられたならば二十里を行け、と言われて外の形によって決して傷つくことのない實相の自分というものの自覚があったために、イエスは悩み給わなかったのである。というふうにお説きになっているのである。

 このように、自分が救われることが先であるとし、数は外であり、形であり、すなわち現象であるから、それは無いのであるという観方は現在ゆるされるのであろうか、ということである。

 即ち、神想観で 「吾れ今五官の世界を去って……」 と言った時、『自分も他人も、光明化運動も去って……』 ということであるとしてよいかどうか、ということである。

 五官の世界の説明において 「五官の世界は現象と言って、不完全もあれば完全に近いものもあり、貧乏もあれば金持ちもある。病人もあれば健康な人もある。戦争もあれば平和もある。そして、人類光明化運動の進んでいるところもあれば、遅れているところもある………」 と言ってしまってよいかどうかということである。

 『生命の實相』 の全読運動をおしすすめるということは、このように書かれていることを見逃さず、全面的に拝読せよ、ということになっているのだ、ということを銘記すべきである、と想うのである。

 また、かつて終戦直後、尊師谷口雅春先生は愛媛県の宇和島にご進講になられた時の話であるが、外を歩いている時、雨が降って来そうだったのでお伴をしていた河野初喜(こうのはつき)さんというご婦人に傘を、家まで取りに行ってもらった。少しして引っ返して来たそのご婦人は傘を持っていないのである。事情をきいてみると、「主人は雨はふらんよ、と言いましたので持って来ませんでした」 ということであった。

 そのことについて 「無病常楽の神示講義」 の中で、これでこそ本当の妻の生き方であり、主人に向かってこのご婦人がもしも 「あなたより偉い谷口先生がおっしゃっているのだから持っていく」 ということになると 「お前、どこの奥さんじゃ?」 ということになってしまってそれは生長の家ではない、と言われ、本当に愛していたらその人のいうようにしてあげたくなるのであると話されて、ご講習会に奥さんが行こうとしている時、主人は映画を見に行く、と言われたら一緒に行ってあげたくなるのが愛であって、 「あなたは映画に行きなさい。私はご講習会に行きます」 では、生長の家ではないことになるというお話である。尊師谷口雅春先生のご講義を聴きなさいということは、このようなお示しを素直に聴き入れなさい、ということなのである。(1998.7.7)

12復興G:2013/06/27(木) 06:02:13 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八

 「實相顕現」という言葉は、實相は円満完全であるから、みずから顕現する力をもっている、その實相がみずから顕現して来ることを意味しているのである。

 實相のほかに、それをあやつり、それを顕現させる別の何ものかが必要であるというのでは、實相は自性(そのままで)円満ではないということになるのである。顕れて来る力がみずからの内に円満されていないということになるのである。

 實相は完全であり、神であり、すべてのすべてであるから、實相とはなれたところで、それを観じたり、自覚したり、しなかったりというようなはなれたもののはたらきは要らないのである。

 それ故、五官によって、本を読むことによって、話を聴くことによって、心の中にイメージされたところから予想されるところのものはいくら尊げなものであっても、それは實相ではないのである。五官がなければ成り立たないもの、五官という外のものによって認められなければ存在しないもの、何ものかによって、観じられ、自覚せられ、みとめられなければならないものは決して實相ではないのである。それは實相ではなく、現象であり、無いものなのである。

 實相は観じられなければ、自覚されなければ無い、というようなものではなく、観る観ない、自覚するしないを超えてみずから在りて在るところのものなのである。

 實相は観る必要のないもの、自覚する必要のないもの、知る必要のないもの、みずから存在するものである。そのようなものとしてよろこぶことが、そしてそれが自分そのものであって、はなれていない、従って今ここに既にはじめのはじめから“それでよい”ところのものとして、よろこぶことが、尊師谷口雅春先生が 『生命の實相』 の中でお示し下さっている、「観ること」 であり、「自覚すること」 なのである。

 自覚するとは、自(みずか)ら覚めるという意味を表現した言葉なのである。

 自ら覚めるのであって、他から、五官を通して外から入って来たものによって覚めさせられるのは自覚ではなく他覚であると言わなければならないのである。

 實相なるもの、自性円満であるものが先ずあって、それが自(おの)ずから覚めて顕れ出て来て、本を読む姿となったり、話を聴く姿となって顕れて、自己展開しているのが 「自覚」 ということなのである。

 これが出龍宮顕斎殿(しゅつりゅうぐうけんさいでん)の建立が象徴しているものなのである。その建立の主旨として、「最早や人間の力では及ばない、神に直接お出まし願う」 ということが尊師谷口雅春先生のお言葉としてあるのであるが、即ち、神=實相には直接自分で顕現する力が備わっていると観じられているのである。

 人間の側の心によっていわゆる自覚や観ずることによって實相を引き出し、顕し出すということによってではなく、實相には自分で顕現し、展開する力が備わっているのであり、天照大御神は、天之岩戸(あまのいわと)を外の力によって開かれるというのではなく、外に居る神々も岩戸も高天原(たかあまはら)もすべては天照大御神が生み給い、生かし給うているのであるから、天之岩戸の内も外もすべては天照大御神そのものであるということであり、天照大御神はご自分の力で出(い)でまされたのであり、また、渾(すべ)ての渾てであり給う天照大御神は一度も隠れ給わず、露(ろ)堂々として全宇宙となって輝き出でましつづけであることを認めることが、あるべきものがあるべき姿にあること、浄まっていることなのである、と観じ、そして、はじめから 「天照大神出でましぬ」 となっていることを観じる時代(世紀)を迎えていることを象徴しているのが、出龍宮顕斎殿の建立なのであると拝察申し上げるのである。(1998.7.8)

13復興G:2013/06/28(金) 05:55:34 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         九

 エマーソンがどこかで 「引用」 について書いていたことを、内容は憶えていないが想い出した。

 生長の家では引用するもしないも、聖典自体が 「物質無し」 と自分で消えてしまっているのである。

 神誌などに盛んに、聖典からの転載があるが、たとえば、尊師谷口雅春先生が生きておられて、直接ごらんになったならば 「私はここには別のを載せたかった」 とおっしゃるかも知れないのである。善い悪いは別としてそこには編集者の心が載せられているのである。

 これらすべて、五官の世界の出来ごとである。物質なし、肉体なし、本なし、に徹して實在の實相に帰っているとき、すべては自分自身の世界であり、自分の展開としてそこにあるのである。

 尊師谷口雅春先生が 「万教帰一要典」 をつくられ、聖書、仏典の言葉を用いられても、それは借りものの引用であるとはどうしても想われないのはなぜであるか。そこに書物みずからの死に切り、消え切りがあり、そこに實在なるものの聖なる輝きそのものがあるからなのである。

 現象を超えて實相なるもの、いのちなるものがそこに満ち、輝いている時、それは価値そのものであり、借りものでは決してなくなっているのである。「宗教のデパート」 と言われても、そこには無限の価値なる實在の實相が生きている絶対価値がそこには輝いているのである。

 万教帰一ということにおいて、万教は何故一に帰ることが出来るのであるか。それは一つなるものから発しているからなのである。一つなるものとは、現象即ち五官の世界を超えたところの實在の實相なのである。そこに帰って、自己と本源とが一つである、一つなるものの展開としてそこにある姿が万教となっているのであり、そこに、引用があっても、常の引用ではなく、『引用これ引用に非ず、これを引用と言う』 態(てい)の姿、輝きとなっているのである。

 著者が死に切り、書物が死に切り、読むものの澄み切りとなっているのが、聖典拝誦と言われているものなのである。

 聖なるものとは何か、ということである。聖なるものとは 「ひじりなるもの」 であり、ひじりとは 「日がいちじるしく輝く」 ことなのである。日とは神であり、自我が死に切り、消え去っている姿こそが聖なるものなのである。「物質なし」 と書物自体が死に切り、消え切っている。生長の家の書物はまさしく聖典と拝まれるのが自然なことなのである。

 現象としての自分に対立しているものとして見ているかぎりにおいて引用はやはり借り物であることから逃れることは出来ない。そこに引用するものの創造性から来るところの姿ではないものが出て来るのである。引用した文章が自分と対立的に存在しており、そしてそれと取り組んでいるかぎりにおいて、それは創造性の姿ではなく、依存のすがた、うめ合わせの姿、求めている姿であって、そこには生長と創造の輝きはないのである。

 五官を去り、現象を超え、物質無し、現象無しと去って本源に還ることによって吾々は、見るものすべて、その世界から借り物として引用するのではなく、本源よりの創造のすがたとして、そこに自己展開の解放を味わうことが出来、神と偕(とも)に創造するよろこびを味わうことが出来るのである。ここでは引用ではなく創造そのもののすがたと変わるのである。(1998.7.9)

14復興G:2013/06/29(土) 08:31:32 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         十

 『真理』 第七巻の冒頭には、新体制が出来て 「聖使命」 会制度が出来て、はじめてのご講義と想われる、尊師のご講話からのご文章が載せられている。そこには人間が、神から生み出されたという、親が子を生むように神が人間を生んだというのは、哲学的思索の幼い人々に解りやすく説いたものであって、生んだものと生み出されたものとの相対関係のある見方からは、どこやらに許すものと許されるものとの対立があり、どこやらに人間そのものを神が審判するというような考えがひそんでいて、まだまだ本当ではないのであって、仏教の重無礙(じゅうむげ)の見方が正しいものであると説かれているのである。一つの鏡の前に百万の鏡を置けば、同時に百万のすがたが写るように神と人間とは同時、同一の存在であり、生むものと生み出されるものとの相対的な存在ではない観方を説かれているのである。

 尊師のこのような重無礙の説き方はそれまでもよくなされたことではあったが、神が人間を生んだという考えは本当ではない、という説き方をされたのは他にあまりなかったのではないかと想われるのであって、ここには、聖使命会制度の発進に当たって、はっきりとさせておかなければならないことをお想いになられたからであったと拝察するのである。それはちょうど 「発進宣言」 をなされた時に尊師がみずからに心定めをされた時のことと重なって想われていたのではないかと拝察申し上げるのである。

 即ち、人間は神そのものであって、神と人間とは、はなれた相対関係にあるのではないこと、会費によって神とくっついたり離れたりする存在ではないこと、そのことが聖なる存在たり得る唯一のすがたである、ということ、神は離れたところから、会費を沢山納めた者と、納め方の少ない者、納めない者を区別され給うというような考え方の起こることを懸念されたからではなかったかと拝察せずにはいられないのである。生きとし生けるものを平等に完全に生かし給えるみ親神は、生かすものと生かされるものとの離れたる相対関係ではないということを、はっきりとさせておかれたのではなかったか。「生かされている」ということは、決してはなれたる存在ではないことをよろこんでいる姿なのである。

 生かされるために聖使命会費を納めるのではないということである。神と人間とは一体不離、同体の存在であり、生かされていることは久遠の昔より久遠の未来に向かってつづいていることなのである。それでこそ聖なるものであり得るのであって、会費によって聖なる存在は買うことはできないのである。それ故に、聖経の 『四部経』 においては、「聖使命菩薩讃偈」 よりも先に、「招神歌」 が載せられているのである。

 「汝に面するものは誰ぞ!」 「山も川も草も木も国土も悉く仏である」 (『真理』第七巻) それは未来のことではないのである。一億七千万年後のことでは話にならない。今、現に成仏しているのである。今現に、山も川も草も木も有情非情(うじょうひじょう)皆聖なる命そのものである。先に度(わた)るものと後に度るものとの別はないのである。

 「己れ未だ度(わた)らざる前に他を度す」 というのはここでは、先なるものも後なるものも最高最尊なるものが、お互いに、「あなた様のお陰です」 と他を先に拝み合っている。その拝み合いの姿そのものが形にあらわれて 「聖使命会員」 の姿となっているのである。

 聖なるものとは何か。それは何ものによっても崩れることなく、汚れることなきものである。その崩れることなき切なるものの生きる姿が 「聖使命会活動」 ということなのである。聖になるための運動ではなく、聖なるものの運動なのである。聖なるものの運動が、よろこびなるものの運動であり、これが 「よろこびの光明化運動」 であり、このよろこびは神より来たった神であるよろこびなのである。(1998.7.10)

15復興G:2013/06/30(日) 07:20:18 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         十一

 運動の目標は数によって表現せられているが、そもそも目標数という数はどうして決められたのであるか。

 新体制をつくる時に、全国を組織化するに当たって、何を基準にするかという時に、信仰というものは全く各人それぞれの個中の消息であって、外から計量し、判別することは出来ない。そこで数というものに着目したというのである。これは、新体制の生みの親である山口悌治先生が常々話されていたことである。その数によって、あそこは発展しているとか、していないとかを判定することにしたのである。そして、その頃の国会を動かすためには、このくらいの数の国会議員をつくらなければならない、その国会議員を出すためには、この位の選挙の得票数がなければならない、その得票数を全国に割り当てるというようにしたのである。そして、たしか、その時に算定した数は全国で五百万の票の獲得数であったのである。このことが基準となって 「神誌」 や 「聖使命会員」 や 「ご講習会」 の目標数が各県に決められていったのである。要するに、目標数の数の根拠というものはそこにあったのである。

 果たして、これが人類光明化運動にふさわしい目標の決め方であったかどうか。政治をもとにしたということがふさわしかったかどうか、ということも省察してみる必要があるかも知れないと想われるのであって、今ごろになって根本聖典である 『生命の實相』 の全読をあらためて呼びかけなければならない、というような状況であってみれば尚更のことなのである。また、来たる二十一世紀は 「心の世紀」 「宗教の世紀」 と言われていることは、あるいは 「個中の消息を重んずる世紀」 ということになるのかも知れないということも想えて来るのである。

 この数の決め方と、谷口輝子先生が伏見の稲荷神社に参詣されて 『生長の家』 誌の誌友が一万名になったら、稲荷神社をつくりますとお誓いされた時の、この一万という数の決め方とはどこか違っているように想われるのである。これは政治的な状況というよりも、内から自然に湧き上がって来た願いとして表現されたお言葉としての誌数であったと拝察されるのであるということは、それは何ヵ年計画で、昭和何年に達成するとかという、年限をおっしやっていないことからもうなずけるのではないだろうか。この目標は、天からの天降りであり、内からの自然なもよおしとして生まれているのではないかということを心新たに想うのである。

「汝、誓う勿れ」 ということは必ずしも目標を立てるな、計画するな、ということではないにしても、 「吾が内に神が今ここに、そして天国は今ここにある」 という、宗教的個中の消息の雰囲気とはおのずと様相を異にしていることはたしかなことであるであろう。釈尊が 「天上天下唯我独尊」 と宣り給い、 「山川草木国土悉皆成仏、有情非情同時成道」 と宣り給うている偉大なる個中の消息のことも想い起こされるのである。天皇の六合照徹光明遍照も中心(偉大なる、あるいは絶対なる、すべてのすべてなる個)の消息と言わなければならないのではないか。神は偉大なる一人であり給い、 『古事記』 の独神(ひとりがみ)のことも想われて来るのであるが、これらはすべて幽の幽なる入龍宮不可思議の境涯の消息なのである。

 尊師谷口雅春先生は宗教は全くの個中の消息である、とお説きになられていることは周知の通りである。神想観は個中の消息、ということが出来るであろうし、 「三界唯心所現」 の理からしてもそれは肯けることであり、 『甘露の法雨』 の 「内にのみ神の国はあるなり」 とは個中なるものの妙々不可思議境なのである。そして、新体制を発案した山口悌治先生も、宗教は各々の個中の消息である、ということを認めた上での発案であったということだけははっきりとしており、あの組織の中に居られながら悠々と 『萬葉の世界と精神』 という和歌という個中の消息を追いつづけ、讃嘆をつづけることが出来られたのであった。ここには国を憂え、 「自未得度先度他」 の急迫したとも見える状況の中に、不思議なゆとりを生きている生命の妙々さを想わずには居られないのである。

 谷口家のある渋谷区がきわだって組織的な発展があったかどうかということも問題にならなければ、隣保班をあれほど強調された山ロ先生の住んでおられた目黒区の鷹番町がきわだって運動が発展したかどうかということが問題になったということもついぞ聴かれないのであり、それが自然なことに想われるのである。( 『弟子像』 ―私の中の山口悌治先生―参照) (1998.7.11)

16復興G:2013/07/01(月) 07:54:57 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         十二

 生長の家にいのち懸けとなるということは、 「……してから」 をいのち懸けで捨て切り、死に切ることにあるのである。そして、はじめのはじめのいのちを今ここに生きることなのである。

 實相、實在ははじめのはじめから、既に、完成せるものとして在りつづけなのである。それ故、 「自分が……してから」 というものは一切要らないのであり、一切入るスキ間は無いのである。自分そのものが要らないのである。如何に尊いと想えるものであっても、それを自分がしてから、ではないのである。

 すべてを捨てるのである。それこそ捨てて死ぬなら死んでもよいのである。神を信じてから、でもなければ、仏を信じてからでもないのである。先達が言ったように、捨てて無くなるような神であり、仏であれば、それははじめから神でもなければ、仏でもないのである。捨てれば捨てるほど生き生きと生きてくるのが、はじめのいのち即ち神であり、仏であるのである。捨てて捨てて死に切った時に生きて来るもの、自我の要らないものを、聖といい、光りというのである。

 私が以前、神癒祈願部に居た時のことである。それは大聖師谷口雅春先生が昇天されてから、七日目のことである。毎日の勤めの祈願の神想観中に、フッと想ったのである。

「谷口雅春先生は九十二歳で亡くなられたが、九十二年の間には一日ぐらいは曇った日もあったのではなかろうか……。いや、一日とは言わずとも半日くらいは、いや一時間くらいは……」

と、このような思いが浮かぶ反面、

「谷口雅春先生は、一時間でも曇ったらいやだ!!」

という思いも浮かぶのである。その曇りも 「もっと人類に役立ちたかった」 とか、あるいは 「もっともっと本を書きあらわしたかった」 とか、その崇高さにおいては自分とはくらべものにならないものではあるにしても、 「……したかった!!」 という悔いというか、心を曇らせるものがあったのではないか、と想った時であった。朝焼けのようなさえぎるものなき明るさの中に、満面笑みを浮かべて、尊師が観じられたといおうか、想われたといおうか、そのよろこばしさ、幸いなるものが私を包んだのである。そして、

「私は無いのだよ」

とおっしやったのである。細かい情景のようなものは憶えていないが、ただただ 「自分が無い」 ということはこんなにも嬉しいことなのかッ、ということだけがはっきりと想われたのであった。

 私が曇るも曇らぬもない。私そのものが無いのである。何年何月に自分が生まれて、その自分が悟って、光明化運動をはじめて、これだけの聖典を著して、これだけ人々によろこびを与えて、役だって………というものを捨てて、捨てて、死んで死んで死に切って素っ裸になって、はじめのはじめなるいのちがそこに在し給うたのであった。

 私はここに、光明という光明、よろこびというよろこびというものに包まれたのを、私の魂は観じたのであろう。一週間くらいの間、うれしくてうれしくて、まるで宙に浮いているような感じを味わったのである。

 自分がこうしたから、ああしたからを全く捨てて捨てて、超えて超えて、死に切って、全宇宙を無しと死に切って、はじめなるが故に、今であり、久遠であり、渾(すべ)ての渾てなるもの、それこそ自分のいのちと引き替えに、久遠の甦りそのものとして尊師は立ち給うたのであり、光明化運動も立ったのであった。(1998.7.12)

17復興G:2013/07/02(火) 06:46:41 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         十三

「数は力なり」 というのは唯物論である、と言った人があったが、それは数を集めるためには時間がかかるからであり、時間のかかるものは完全ではなく、實在ではなく、 「現象無し」 の宣言によって、吹き消されているものであることを知ったいのちの言葉であったのだと信ずるのである。

 数はそれを使ってよろこばしさを顕わすためのものであって、それのあるなしによって、こちらの価値なるものが上がったり、下がったりするものではないのである。

 また、生長の家は、集める教えではなく、すべてのものの、そのままの相(すがた)を拝みに出て行く教えなのである。そして、全宇宙をそっくりそのまま生長の家であるとして拝んでいる教えなのである。

 ○○学会が十万人も集めてマスゲームを神宮外苑で挙行したことがあって、その十日も経たないうちに、私たち学生がお山の谷口雅春先生宅で座談会をしていただいて、ご指導に浴したことがあった。その時、一人の学生が尊師に、

「生長の家は世界一の教えであるのに、なぜ、○○学会のように集まらないんですか?」

とお尋ねしたのである。幸いに満ちたよろこばしさの雰囲気の中に、尊師は

「今のうちにあのように集める練習をしておいて貰って、そのうちにこちらが話しに行くようになるのです」

 と言われたのであった。それからもう三十年近くもたっているが、天地一切礼拝感謝の教えである生長の家は、集める教えではなく、そのままの完全な相(すがた)を拝みに行く教えであり、それであればこそ、全宇宙組織がそのまま生長の家の組織であると、そっくりそのまま置き換えることの出来る教えである、と尊師がお示し下さっていたのであると、日に日に新たに想えて来るのである。

 ここに、 「ある狭い範囲は多勢(即ち数)で救えるが、全宇宙の救いは一人によらなければならない」 という命題に逢着せざるを得ないのである。

 釈尊の 「山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)、有情非情同時成道(うじょうひじょうどうじじょうどう)」 もキリストの 「Kingdom of heaven is at hand」 も、個々の魂を救って行くのは、自分一人だけ救われればよいという声聞縁覚(しょうもんえんがく)に比べればやや上乗なれども 「佛の正覚(しょうがく)は全宇宙の成佛を一度に観る」 (谷口雅春先生著 『天皇絶體論とその影響』 ―謹序―)という尊師のお言葉、これらはすべて、一が渾(すべ)ての渾てである消息なのである。聖経 『甘露の法雨』 には 「悟れば忽ち此の世界は光明楽土となり、人間は光明生命なる實相を顕現せん」 と唱われているのである。

 これらはすべて、神はあるか否かということに帰着するのである。不完全があれば神は無いのであり、神があれば不完全は無いのである。それ故、如何なる種類のものであれ、不完全は無いのである。ただただこのことによってのみ、即ち、神は極楽そのものであり給うが故に、今ここに世界には救われていないものは一人もいない、ということはあり得るのである。それは多数の人間が集まって決めることでもなければ、造り出すものでもないのである。ただただ 「神は完全である」 というこの厳かなる真実がそれ自体で在りて在るのみなのである。

 天皇の六合照徹(りくごうしょうてつ)光明遍照の世界が 「今ここ」 に在るという 「今ここ」 が 「今上(きんじょう)」 ということなのである。天地(あめつち)の創り主なる、渾(すべ)ての渾てであり給うことが拝せられるのである。天皇は絶対にましまして、天皇によって救われていないものは一人もなき世界の統べみ親(すめらみこと)にましますのである。(1998.7.13)

18復興G:2013/07/03(水) 05:44:52 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         十四

 誰が言い出したものか、生長の家の説く真理には、縦の真理と横の真理とがあるということを言われるのを時々ではなく、生長の家の常識のように聴く場合が多いのである。

 横の真理を説くということは、心の法則を説くことであり、いわゆる三界唯心所現を説くことであり、現在意識や潜在意識の話などもこれに当たっており、しかし、これは現象世界のことなのであるが、一応現象の法則として、現象を認めた上での話である、というのである。

 これに対して、縦の真理とは現象無しを説き、そして、實相の独在を説くことであるということになっているのではなかろうか。

「あの人は縦の真理を説く人である」

とか

「あの人は横の真理を説いた」

と云う場合は、この分け方をしていることになっているのではないかと想われるのである。しかしながら、尊師谷口雅春先生が 『生命の實相』 においてお示しになっていられるのは多少趣きを異にしているのに気づかされたのである。

 なるほど、生長の家の説く真理には縦の真理と横の真理とがある、ということは同じであるが、その説明は、尊師は縦の真理と横の真理とがあると言われたのであるから、その説明の順序としては、縦の真理からはじめられるのが順当であると想われるのであるが、ここでは違っていて 「横の真理とは」 と、横の真理の説明が先にされているのである。( 『生命の實相』 第十七巻の 「はしがき」 など)

 その説明によれば、横の真理とは三界は唯心の所現ということ、即ち、現象無しと悟ることである、と 「現象無し」 が横の真理であると説明されているのである。

 そして、縦の真理とは、人間は久遠不滅の神のいのちそのままである、と悟ることであると説明されているのである。即ち實相の独在を悟ることが縦の真理である、と説明されているのである。

 つまり、横の真理は 「現象無し」 であり、縦の真理は 「實相独在」 ということなのであって、現象を多少でも認められた部分は縦横の説き方の中には入っていないということなのである。 「現象無し」 「實相独在」 で縦横がつくされているということであって、私たちは通常 「現象無し、實相独在」 という順序で受けとっているのであるから、この通常の順序にしたがって、横の真理すなわち 「現象無し」 から先に説明されたものと拝察されるのである。

 それにしても、 『生命の實相』 の中には、私たちが通常よく耳にするほどにはひんぱんには縦横ということが説かれていないことを 『生命の實相』 を全読した方ならば気づかれるにちがいないのであるが、ひとたびご説明されるとこのようにはっきりとご説明下さっていることに心を新たにするのである。

「現象無し。實相独在」 で縦横がつくされているということは、これ以外に生長の家は無いということなのである。これこそが生長の家の人類光明化運動が神癒の展開として出発していることの根拠であると拝察させて頂くのである。

 現象無しと現象を超えた時にのみ、神=實相独在があり、そこに自性(じしょう)円満の生命の實相を認めた時にあらわれるメタフィジカル・ヒーリング(神癒)が認められるのであって、現象を何らかの意味において、横の真理として認めたところには、神なく、實相なく、したがって神癒は無く、そこには神なき迷妄の展開があるのみなのである。(1998.7.14)

19復興G:2013/07/04(木) 09:32:29 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         十五  (1日1文ずつ謹写掲示。cf.>>4

 講師として講話をする時、誰しも一度は、 「自分が話しているところは、自分の都合のよいところを話しているのではなかろうか……」 という反省の想いにさそわれるのではないだろうか。

 ここに常に、尊師谷口雅春先生の悩みは何であったのか。そして、何によって、どのように道が開け給うたのであるか、ということを心新たに確かめつつ歩ませて頂きたいものとの念願が起こるのである。

 常に常にここに還りつつ、いのちをここより汲みつつ進みたいものである。

 お悟りになった、啓示を受けられたところの最後のところは、 「自分もまた明治26年の11月22日に母の胎内から生まれたのではなかった」 のであり、そして

「今はじめて悟ったのでもなく、久遠の昔より、そして今このまま久遠の仏そのものであった」 というよろこびで結ばれているのである。

 これは父母未生以前の自己の発見であったと拝察するのである。

 一切を超えられたお姿がここにあるのである。自分自身をも超えられたのである。

 神は何ものにも依らない、在りて在り給うそのいのちのよろこびをご自分自身に体現せられたのであった。

 それ故、組織のど真ん中にあっても次の言葉はゆるされる筈である。

「三正行すなわち、聖典を拝読すること、神想観をすること、そして愛行をすることは尊いことの極みではあるが、それをやってから私は生まれて来たのではない。」

 このことは、いつ如何なる時にも発せられることのゆるされている言葉であり、この言葉を発せられることが、よろこびということなのである。これは因縁を超えたる円相的自由ということなのである。このよろこびを以て進められるのが、いわゆる 「よろこびの光明化運動」 というものなのである。宇宙いっぱいの自由、神なる自由ということなのである。

「常に神なら如何にあり給うかを想え」 ということこそ、よろこびのもとなのである。それは決して、神のなし給うことを参考にして生きよ、ということではないのである。何故ならば、神は何ものにも依り給わない存在であり給うからである。それ故、神なら如何にあり給うか、とは何ものも参考として依ることの要らない姿として今ここにあれ、ということなのである。

「吾れ神の内にあり、神吾れの内にあり」 である。神に祈ると言えども、神吾れの内にありである。この上に立っての 「御祖神(みおやがみ)」 である。

「實相を成就せしめ給え」 との祈りは、實相が成り就(な)りひびくことであり、純粋なる實相なるもの、完成なるものの持続を、實相なる神の子が宣(の)りごとしているのである。

 ここには實相は現象に現れなければ何にもならぬ、もしくは、實相は現象に顕れはするが、しかし現象に顕れなければ値打ちがないというような、現象に価値づけして貰わなければならないというものでは決してないのである。
 もしそのようなものであれば、神もまた全宇宙的に實相を完全には顕してはおられないのであるから、神もまた完全全能ではないということになるのである。

 人生の目的は、實相を現象に投影し出すというような、影の創造ではないのであって、實相の成就すなわち、實在が實在し、實相が實相するのであって、尊師谷口雅春先生がお示し下さった 「愛行はむなしからず」 とは、影のための人生ではないことをお示し下さっているのである。諸行は無常ではないのである。諸行は實在にして常恒なのである。(1998.7.15)

20復興G:2013/07/05(金) 08:15:55 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―         榎 本 恵 吾 

         十六

 ここに 「光明一元」 であり、 「實相独在」 であり、 「救われていないものは一人もいない世界のみがある」 という世界において、何故、光明化運動というものが必要であるのかという問題になって来ざるを得ないのである。

 神想観において 「吾れ今五官の世界を去って實相の世界に入る」 と言ったとき、すでに五官の世界のすべては消えているのである。光明化運動のひろがっている世界もひろがっていない世界もないのである。現象を針の先ほどでも認めるということは、 “神はない” ということなのである。神のない光明化運動というものは有り得ないのである。

 神は天地創造を何の必要があってなされたもうたのであろうか。神は必要性のために天地を創造せられたのではないのである。神の前に、神より先に “必要性” というものが存在するとか、神以前に何かがあり、神がそれに従わなければならないということは決してないのである。神はただただ嬉しくて、よろこびで、創造したいから創造せられ給うたのである。

 人間は神の子であって完全であるのに何故迷うのか。それは神が人間に自由を与え給うたからである。神は強制され給うことはない。自由のないところには価値がないからである。迷う自由がありながら、自由性の中に迷わないところに善があるのである。一応この説明は方便説としては説かれているところではある。

 しかし、それならば聖経 『甘露の法雨』 の中の 「罪を犯さんと欲するも罪を犯すこと能わず」 ということはどうなるのであるか。

 神の前に、神がしたがわなくてはならないという法則などはないのである。 「自由のあるところにのみ善がある」 というような法則が神より先にあって、神はその法則に従って創造をしなければならないなどということは有り得ないことなのである。神は神のコトバの発し給う通りでよいのである。

 それ故、神は、迷う自由を無くして、しかもそこに善があり、無限のよろこびがあるという相に人間を創造したもうたのが本当の相なのである。

 人間は未だかつて迷ったことはないのである。迷う自由は無いのである。此の世もまた一度も不完全であったことも、暗であったことも、迷いのあったこともないのが真実の相なのである。

 ここに不完全であるからこそ救済しなければならない、という姿は消えてしまったのである。不完全を、暗をもとにする光明化運動ではなくなったのである。
『未だかつて、一度も一人も救ったことはない』 ということが光明化運動の本当のすがたなのである。
 ただただ、光明が光明し、實相が實相し、光明一元だからこそ、實相円満完全であり、迷うもの一人もなく、迷いそのもの、暗そのもの不完全そのものが存在しないからこそ、光明であり、光明化運動があるのである、ということが真実の運動のすがたなのである。

 唯神實相、光明一元であれば、なぜ運動の必要があるのか、ということの説明において、現象というものを針の先ほども持ち込まないで説明し得るか、ということは、二十一世紀の百年をかけて研究されてもされ尽くすことの出来ない、美しいテーマであろうと想われるのである。(1998.7.16)

21復興G:2013/07/06(土) 06:58:59 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         十七

 實相は今すでに、はじめのはじめから完全円満なのである。これに引きかえ現象は時間をかけて徐々に良くなって行く存在である。それ故、時間をかけて、これから浄まって行くという、現在意識によって左右されるところの潜在意識というものは現象であって、無いのである。現象無しと言った時、潜在意識は無いのであり、それだからこそ實相はそのままで円満完全であるということが出来るのである。

 それ故に、實相円満完全という言葉は、事実なのであって、これを潜在意識にたたき込むためのものとしてしまってはならないのである。潜在意識を認めている以上は、實相の円満完全は實在の相ではなくなってしまっているのである。實相円満完全は真実、今ここに “ある” ものであるからこそ實相円満完全なのである。

 生長の家の説く實相円満完全論をすべて潜在意識のためのものとして、潜在意識のレベルにダウンさせてしまってはならないのである。生長の家の説くところは、潜在意識を超えて、読者の實在の實相の完全円満、自性円満を礼拝して説かれているのである。それは現象を認めての激励のものではないのである。

 あれほど沢山の本やご諧話によってもたらされた唯神實相の偉大なる説法も、潜在意識にたたき込むために聴き、受けとめていては、話す方と受け取る方とに食いちがいが生じていると言わなければならないのである。

 なるほど見えないものの存在の説明に潜在意識を持ち出すことは大変便利なように一見見えるのではあるが、潜在意識という現象を認めてしまうことになってしまっては、永遠にそれを超えた實相に超入することは出来ないのであって、遠まわりになってしまうどころではなくなってしまうのである。

 聖経 『甘露の法雨』 には 「罪は不完全なるが故に實在にあらず」 と歌われているのである。それ故 「潜在意識は不完全なるが故に實在に非ず」 ということなのである。

 ひるがえって想ってみれば、練成会で行われている浄心行は、この潜在意識を相手とする行事の最たるものではなかろうか。しかも、ともすればこれが練成会の最重要行事のようにさえ思われているということもなきにしもあらずなのではないだろうか。

 しかも、聖経 『甘露の法雨』 の一斉読誦のうちに焼却が行われるのである。聖経に鳴り響いている實相讃嘆のひびきと、本来具有している参加者本人の内なる實相円満とがひびきあって、實相がおのずから顕れて不完全が消えるということを想わないで、説明で聴いた潜在意識に、真理をたたき込んだが故に不完全が消えたと錯覚してしまうということが無きにしもあらずなのである。それでは生長の家の結論である唯神實相の説かれている聖経 『甘露の法雨』 の中身から遠ざかっていること、はなはだしいといわなければならないのである。

 なるほど聖典 『生命の實相』 には潜在意識という言葉は使われているところも確かにあるのである。しかし、それを超えることは現象はないこと、潜在意識は不完全なるが故に實在には非ざることを知ることによってのみなのである。潜在意識に實相の完全円満なる想いを注入するといえども、その中身は、潜在意識という現象は無い、ということを知ることにほかならないのである。 「現象無し」 が、 「實相のみ在り」 が生長の家である。知らぬ間に現象あり、したがって實相無しの中身にすり替わっていることのなきよう心すべき事とみずからに言いきかせているのである。(1998.7.17)

22復興G:2013/07/07(日) 03:29:41 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         十八

 人間は新しさを求めるということは、それ自体が創造、生長が人間の本質であることをあらわしているのである。

 善い意味において、人間は自分も驚きたいのであり、またすべての人々に驚きを与えたいのである。ロマン派というのも常に形を破って、古い形式を超えよう超えようとしているかに見えるのである。

 ベートーヴェンの音楽を胎児に聴かせようと私が想わなかったのは、きっとそこに、どこかでスキあらば形を破って人を驚かせようという気配が、どんなに静かで、落ち着いた、安定したものを表現しようとしている部分についてもそれを感じていたからなのではないかと想われるのである。

 人はこの驚かせたいという願いをつきつめて行けば、神を驚かせたいのである。神に驚いて感動してもらいたいということになるのである。

 しかしながら、全知全能の神が、今さら驚いて感動するなどということがあってよいものだろうか。

 驚いてよいのである。神のご性質のうちで最初に来るのが、この驚き感動する無限の能力であるということなのである。それ故に、神は創造そのものであり、感動そのものであり、感謝そのものであり給うということが出来るのである。

 人間の為すことの一つ一つが神にとって、この世のどこにもなかった全く新しいことの誕生の連続なのである。一呼吸といえどもすべて、全く新しい出来ごとなのである。

 それ故、神の子人間の為すすべては、ペンを持つことであろうと、一文字を書くことであろうと、愛行のために歩く一歩一歩だろうと、すべてこの世のどこにも存在しなかった全く新しいことの誕生であって、神すなわち全宇宙を驚かせる内容をもって生まれているのであって、決して虚(むな)しいことではあり得ないのである。神すなわち全宇宙が知り給うところの出来ごとなのである。 「さすが吾が生みの子よ」 と讃えられ、 「さすが吾が教え子よ」 と尊師に讃えられ、 「さすがわが子よ」 と両親にたたえられ、天地万物一切にあがめられ感謝され、讃嘆されているのが、神の一人子人間の今、今、今なのである。神の無限のおどろきという極まりなき厳かさの内容をもって満たされているのが人間の生活の一歩一歩なのである。

 例えば、芸術家が腕を磨く過程としての練習と見ゆるその一コマ一コマも無限荘厳華厳なる尊さの、純粋なる、完成なるものの、神のおどろきの内容となっているのである。まして、人類光明化運動の内容においてをやである。

 いのちには練習というものはなく、限りもなき尊さ、完成なるもの、本番なるものの今、今、今があるのみなのである。草の一本にしても、花にしても、木の芽を出した姿にも、そこには練習でやっているものは一つもないのである。

 神が天地創造にあたって、リハーサルをされ給うたということは有り得るだろうか。神の子の創造もまた、神の天地創造の世嗣ぎとしてあるのである。今、今、今、絶対なるもの、完成なるものの歩みがあるのみなのである。

 神想観練習というのがあるが、祈りには練習はないのである。祈りとは命が宣べることであり、いのちは神であるからである。

 人類光明化運動練習というものは無いのである。荘厳なる今、今、今があるのみである。その荘厳なる今、今、今を光明というのである。(1998.7.18)

23復興G:2013/07/08(月) 07:45:21 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         十九

「与える生活を生きよ」 とは、求めることの要らない存在である相(すがた)を祝福した言葉なのである。それは、既に、内に、すべてが満足、自足している存在、即ち神と同じ相である、實在の實相の自性円満を祝福した言葉なのである。

 神は求め給わない。神は外という因縁を、自分が自分である原因なるものを求める必要のない、みずから在りて在るご存在にましますのである。

 求める必要のない存在でなければ、与えるということは成り立たないのである。

 宗教に求める必要なく、行に求める必要なく、人に求める必要なく、心に求める必要なく、一切の外界、一切の現象無しと斬ったそこに輝く、内なるものの展開あるのみの生活、即ち 「与える」 生活がここにあるのである。

 それ故、感謝を表現する 「ありがとうございます」 の 「ありがとう」 という言葉は、貰う言葉ではなく、与える生活とは矛盾しない言葉でなければならないのである。古来より、言霊の解釈によれば、 「アリガトウ」 の 「ア」 は天照大御神の 「ア」 であり、 「リ」 とは、その天照大御神のいのちのひかりがすべてを貫いて、六合照徹し給う、鋭利の 「リ」 であり、 「ガ」 とは真我のことであり、 「ト」 は止まることを意味し、 「ウ」 は生み出すこと、創造、生長を表現しているのである。即ち 「アリガトウ」 とは、天照大御神が我れとなって止まり、そこより無限の生み出しが行われて行くことを意味しているのである。これは天照大御神が、我が内にましますことを意味しているのであり、神は何ものをも求め給わないのであり、したがって 「アリガトウ」 の言葉には、求めること、外から与えられたものに対する要素は、どこにもないのである。

「住吉大神宇宙浄化を祈る神想観」 に於いて、 「住吉大神すべてを浄め終りて天照大神出でましぬ」 と、完了形になっていることは、既に、今ここに、すべてとなって天照大御神が顕れ給うている世界に変貌していることが讃えられているのである。明るく丸い 「高天原(たかあまはら)」 そのものである、天照大御神―生長の家が、ここに全面的にあらわれていること、全宇宙が生長の家であることが明らかにされている宣ごとなのである。

 生長の家の根本は感謝である、ということは、 「ありがとう」 が本体であり、 「ありがとう」 とは天照大御神のおすがたそのものであるから、 「天照大神出でましぬ」 とは、天地一切万物として、 「ありがとう」 = 「感謝」 が輝き顕れていることを讃えていることになっているのである。

 二十世紀のうちに、この宣り言(のりごと)が発せられたということは、来るべき新しき世紀は、万物の中に 「天照大御神」 即ち 「ありがとう」 即ち 「生長の家」 が、既にそこに顕れ輝いていることを観じ礼拝し、祝福し、讃嘆して行く世紀の幕開けを象徴していると拝察されるのである。

「与えよ、さらば与えられん」 という言葉において、あくまでも 「与えよ」 が先になっているところ、与えるべき、貰う必要のない存在が先に拝まれていることに、深々妙々なる厳粛さがこもっているのである。これは何も、 「栄える会」 専用の言葉ではないのであって、富だけのことではなく、人間は人間ではなく、神である、求める必要のない絶対的存在なる實相の礼拝の極致の言葉であると拝察されるのである。(1998.7.19)

24復興G:2013/07/09(火) 04:50:01 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         二十

 神は何故、光りであり、聖であり給うのであるか。

 光りとは、それのみ渾(すべ)ての渾てであるよろこびであるからであり、聖もまた、それのみ渾ての渾てであり、その外にあるものなしなるよろこびであるからである。

 光りとは絶対に暗くならないものであり、聖とは絶対に汚れることなきものなのである。

 暗きこととは渾ての渾てでないことであり、汚れるとは渾ての渾てでないことなのである。光りとは“よろこび”ということである。それ以外ない宇宙いっぱいの自由をよろこびというのである。 「よろこびの光明化運動」 とは、この光りに起因し、このよろこびに起因するのである。

 聖とは、ひじりであり、ひじりとは 「日がいちじるしく輝く」 ということであり、日は神をあらわし、渾ての渾てである。そして渾ての渾てであることにおいて、神と光りと聖とはひとつなのである。

 聖と光りとは渾ての渾てなるが故に、はじめのはじめから在るところの存在なのである。それ故、光明化運動ははじめのはじめから在り、聖なる使命を生きる、聖使命なるものもはじめのはじめより、天地とともに窮まりなき存在なのである。

 神の子ははじめのはじめから聖そのものであり、世の光りそのものでありつづけているのが實相なのである。實相ということはそれのみすべてのすべてである神なのである。

 それ故、神の子人間は、神そのものであり、外より貰う必要のない存在であり、存在そのものが今、今、今、与えっ放しの存在であるのであるから、聖使命会への入会をすすめるにあたっては、

「あなたは日ごろ与えていないのだから、聖使命会に入会して、与える生活をしなさいよ」

 といって、説明する場合もあるが、それよりはむしろ、

「あなたは神の子であって、はじめのはじめから与えている存在があなたの本性なのですから、与えることが一番ふさわしいのですね。あなたこそ、聖使命会入会がふさわしいのです」

 という、すすめ方の方が新しい世紀、即ち、 「天照大神出でましぬ」 の世界観からすれば、この方が自然なすすめ方になるのではないかと拝察されるのである。

 与えていないことを前提としてしまえば、日ごろ与えていなくて、悩み多い人ばかりにすすめて行くようになり、悩みのある人、マイナスのところにいる人ばかりの集団となりかねないということはないであろうか。

 プラスなる存在を観て、プラスなる人にさらにプラスになっていただくということに生長ということの意味がある、ということに着目すれば、生長の家の光明化運動のすすめ方も、はじめからあるプラスなるものを先ず認め観じて、プラスが集まるというすがたにして行くことが出来るということになるのではないか。

 どこかにマイナスを認めて、世界についても、人についても、それをもとにすすめて行くという運動は、光明一元だからこそ、實相独在だからこそ、すべては完全だからこそ、もう救われていないものは一人もいない世界であればこそ、はじまった、プラスのよろこびの光明化運動とどこかにくいちかいがあるように想え、この僅かなくいちがいが、“天地はるかにへだたる”というようなものとして想えても来るのである。(1998.7.20)

25復興G:2013/07/10(水) 06:04:06 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         二十一

「光りは東方より」 ということは、 「光りは当方より」 ということである。

 全存在の発するところは吾が内にましますのである。自分は無いのである。当方のみが渾(すべ)ての渾てなのである。すべては内より出でて内に還るのである。

 時間も空間も、したがって二十一世紀も 「当方より」 ということなのである。いのちなるものは、二十一世紀という時間の流れの枠組みの中に規制されて生くるのではないのである。また、組織という空間的枠組みの中に部分として組み込まれているのでもないのである。時間空間と心とを組み合わせ、それを織りなしている創造的主体者として生かされているのである。組織人とは当方より組織を発しているいのちのことなのである。

 神癒の社・入龍宮幽斎殿に於ける神想観の中で、

「われ今、此処、龍宮界の龍宮城に坐して住吉大神より龍宮無量寿のいのちにて全身全霊浄めらる……」

 と念ずる。この 「全身」 とは 「全ての全てなる身」 ということであり、 「全霊」 とは 「全ての全てなる霊身」 ということである。吾れ今此処ということにおいて、自己のいのちが 「全身」 であり、 「全霊」 である。住吉之大神の祝福によりその本来の相に還ることが、“浄めらる” ということなのである。それが 「わが全身如意宝珠なり」 という言葉となって行くのである。

 即ち、全存在なる 「当方」 に帰ることが 「全身全霊浄めらる」 ということなのである。宇宙の中の部分である自分一人が浄めらるということは有り得ないことである。全宇宙と一つでないことが浄まっていないことであり、現象界の妄想即ち汚れなのである。一つなるもの、全ての全てなるものに還っていることのほかには浄まっている相(すがた)はないのである。全宇宙と偕(とも)に一つとなって浄まっていると言ってもよいかも知れない。一つが一つすることが浄まっていることなのである。

「吾ら現象界の妄想悉く浄められて本来の如意自在の實相顕わる、わが全身如意宝珠なり、一切の宝、吾が掌中にあり……」

 と唱えるのである。 「本来の如意自在の實相」 とは、渾ての渾てであることに他ならず、 「わが全身如意宝珠なり」 とは全ての全てなる身即ち如意宝珠即ち全宇宙にほかならず、 「一切の宝、吾が掌中にあり」 とは全ての全てにほかならず、吾れそのものがそれであることが浄まっている相(すがた)、本来の相なのである。それが荘厳の極みなる自己の自己なるものであり、内そのものであり、当方そのものなのである。

 吾が内の展開としての天地であり、組織であるのである。内が神であり、神が内である。 「神よ」 と呼ぶ時、それはすべてであるのである。神に祈りの成就を求める必要はないのである。渾(すべ)ての渾てであり、神は成就そのものであり給うのである。世界の平和を祈る時、 「神」 と言った時、成就そのものを呼んでいるのである。神が為し給うとは、成就そのものが為し給うているのである。

「神よ、二十一世紀を御心のままに」 と祈る時、御心は成就そのものなのである。祈りそのもの、願いそのものが、内なる神、内なる渾ての渾て、内なる成就そのもの、成就が展開して祈りとなっているのである。すべてが当方であり、当方が渾ての渾てなのである。これが如(にょ)であり、如意自在であり、今であり、天国浄土そのものなのである。願いとその成就が分裂していないのである。それが實在の實相なのである。ただただこのことの成り就りひびきがあるのみなのである。(1998.7.21)

26復興G:2013/07/11(木) 02:24:36 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         二十二

「住吉大神宇宙を浄め終りて天照大神出でましぬ」

 と宣(の)りごとした時、コトバは神であり、渾(すべ)ての渾てであり、成就そのものなのである。決して、未来にそのようになるための何かとしてそこにあるのではないのである。それはハッタリでも、無いものをコトバによって造り出すためのものでもないのである。内なる渾ての渾てなる神、成就そのものである神がみずから鳴り鳴り響いている大實在の大事実なのである。

 無の門関に坐しての、無の無の無。 「無し」 と言葉で言えるすべてを 「無し」 と宣言した時、おのずと内の内より、 「無し」 と言えば言うほど輝き出づる大神。實在みずからがコトバとなって鳴り出ずる消息である。真空妙有であり、無一物中無尽蔵なる妙有實相、入龍宮不可思議なる消息である。

 新しき世紀における人々の発する言葉は斯くの如きものなのである。

 願いの中に成就そのものが實在し、成就が願いとなっているという願い即ちコトバなのである。

 願いは何処より来る――願いは成就より来る、である。成就のない願いは無いのである。成就のないのは願いではなかったのである。何故、“斯くの如き有り得べき”。ただ一つなること、神はコトバにして、コトバは渾ての渾てなり、との “そのままよりぞ” ということである。

 愛行は空しからず、成就即ち中身が先であるからである。あるいは 「ありがとうございます」 と唱え、あるいは 「實相円満完全」 と唱えること、空しからず。 「ありがたい」 中身が先であり、 「實相円満完全」 の中身が先であり、中身がみずから顕れて、唱えたくなったのである。

 先祖供養も大切中の大切であるが、たまには、これまでの自分の歩みを供養し、讃嘆することが尊いことの一つなのである。

 一冊の本を愛行のために持って歩いたその姿の中に無限の中身があったのであり、神が内實してい給うたのであり、久遠不滅の光りがそこにとどまりつづけているのである。

 あるいは受講券を持っておとずれたその家が留守であったとしても、その中身は神であり給い、その光りはその家に永遠久遠にとどまり、その輝きはその家をひき包み、その輝きはいのちであるが故に、その光りは生長しているのであり、何千年後においても観るべき眼のあるものにはそれが拝されるのである。

 神は既にある成就そのものである今そのものである。はじめのはじめから吾れの吾れなるものとしてここに在し給うのである。

「……してから」 ということではないのである。 「感謝してから」 「我を消してから」 「潜在意識を浄めてから」 「教えを実践してから」 あるいは 「実感してから」 「愛行してから」 「徳を積んでから」 「ゆるしてから」 「懺悔をしてから」 「實相を観じてから」 「神の子を自覚してから」 「与えてから」 等々。これを一所懸命やることが生長の家に命をかけていることであると想い、これによって神に近づこうとしていたのではないのであって、 「神」 がこれを為し給うていたのである。 「神」 は常に、はじめのはじめから、こちら側に在し給うているから、一瞬の愛行といえども無限なのである。ここのところをはずせば 「一体、どこまでやれと言うのか<」 という嘆きに終わらないとも限らないのである。

「よろこびの光明化運動」 とは、今よろこんでよい、ということの発見から来ている祝福の言葉であり、目標を達成し、行を達成したよろこびとは別なのである。神が今、今よろこびであるが故に、神の子もまた今よろこびそのものである、というよろこびなのである。感謝せよ、とは、よろこび、よろこべということなのであった。(1998.7.22)

27復興G:2013/07/12(金) 07:20:08 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         二十三

 神はみずからの消えきりであり給うのである。

 無の門関において、無の門関であることにおいて、幽斎殿はみずからの消え切りであり、門関それ自体がみずからの消え切りである。

 現象はみずからの死に切りである。肉体はみづからの消え切りであり、物質はみずからの消え切りであり、實相はみずからの消え切りであり、神想観はみずからの消え切りであり、祈りはみずからの消え切りであり、コトバはみずからの消え切りである。

 五蘊(ごうん)はみずからの消え切りである。そして、“現象無し”がみずからの消え切りであり、“五蘊皆空”がみずからの消え切りであるのであった。

 集団神癒祈願の祈りのことばの中に、 「病を消し、罪を消し、迷いを消し、死を消して……」 とあるのは、現象を去った實相世界の中での言葉としてはふさわしくないのではないかとの一抹の想いがあったが、今日の神想観において、 「祈りのコトバ」 全体がみずからの消え切りであった。

 すべてみずからの死に切り、消え切りであるとは、すべてのすべてが 「私は無いのである」 とみずから、おのずから、はじめから、澄み切りの聖なる輝きであったということである。

 そして更に、その、みずからの消え切りも、みずからの消え切りも、みずから、おのずからの消え切りなのである。

 宇宙はみずからの消え切りであり、みずからの脱落であった。時間も空間もみずからの消え切りであり、世紀なるものもまた、みずからの消え切りであった。

 イエス・キリストの架かり給うた十字架は、肉体みずからの死に切りであり、イエスみずからの死に切りであったのである。 『新約聖書』 の最初の 「マタイ伝」 の冒頭にあるアブラハムより、イエスの父親に至るまでの系譜はどこまでも父親の生まれる系譜であってイエスとは全く関係ないのである。何故ならば、イエスは処女マリアから生まれたからである。これは、系譜みずからの消え切りであり、因縁みずからの消え切りをあらわしているのである。みずからの消え切りこそ、 「聖」 なるものの輝きなのである。それ故の 『聖書』 なのである。

『維摩経』 の 「是の身は虹の如し、虹は久しく立つ能はず、須叟(しゅゆ)にして消ゆ」 とは、此の身みずからの死に切りであり、消え切りを表現しているのである。

 ここに、イエスはマリアの処女より生まれ出でたとあるが、それでは、処女という肉体だけは必要であったのか、という問題が残るのである。しかし、尊師谷口雅春先生が啓示を受けられてお悟りになった時 「私は明治二十六年の十一月二十二日に母の胎内から生まれたのではなかった」 と宣り給うているのである。この時、尊師は処女なるもの、子宮なるもののみずからの死に切りの消え切りの澄み切りをごらんになったのであった。

 このことをイエス自身は 「アブラハムの生まれぬ前より吾れは在るなり」 と、アブラハムから父親に至るまでの系譜のみずからの消え切りを拝んでい給うのである。系譜を書き録(しる)したのは、マタイの文学的表現である。

 釈尊が 「吾れ実に成仏してよりこのかた百千万億那由他劫(なゆたこう)なり」 と宣(の)り給うた時、 「百千万億那由他劫」 のみずからの消え切りをよろこび給うていたのである。

 幽斎殿の幽は、“幽の幽” の “幽” であり、隠り身の “隠る” ことを意味しているのである。

 天地(あめつち)の初めの時、高天原に鳴りませる七柱の神は、それぞれ独神(ひとりがみ)〈絶対神〉にして、身(みみ)を隠し給うているのである。

 この幽の幽なる神の詰まります高天原そのものが、みずから幽(かく)りそのものであり、消え切りであり澄み切りの輝きそのものであり給うのである。ここに龍宮不可思議の消息があり、知る必要のない澄み切りの真空なる妙有なる領域があるのである。(1998.7.23)

28復興G:2013/07/12(金) 07:30:12 ID:AB6RqYXc

今日は、榎本恵吾先生が

「多くの人々に魂の救いを与え

平成17年7月12日に卒然として天界へ旅立たれた」

その日からちょうど8年目の、祥月命日の日であります。

榎本先生に深甚の感謝を捧げ、聖経を読誦させていただきます。

ありがとうございます。

29復興G:2013/07/13(土) 04:51:43 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

          二十四

 幽の幽なる、身(みみ)を隠し給える、元の元より発し給うている、イザナギの大神が禊(みそ)ぎ祓(はら)い給うということは、消え切りの澄み切りのあるべき姿に還り給うことを意味しているのである。 「伊勢神宮の神前に於ける神想観」 において唱える言葉の一節に、

「畏くも宇宙の大神イザナギの命(みこと)筑紫の日向(ひむか)の光明遍照の實相の世界にみそぎ祓いたまう。

 その宇宙浄化の御はたらき現われて住吉の大神となり給う」

という言葉がある。住吉の大神が宇宙を浄め給うとは、宇宙がみずから消え切りの、澄み切りである、聖なるまことの相(すがた)を観じ給い、祝福し、その本来のまことの相がますます輝きを増すことを意味していると言わなければならないのである。

 かつて、幽斎殿において神癒祈願のための神想観中に、それは尊師が昇天されて一週間たった日のことであるが、ふと心の中に湧き上がった想いがあったのである。それは、

「尊師は九十二歳で卒然として昇天され給うたが、九十二年の間には、一日ぐらい、いや半日ぐらい、いや一時間くらいは曇った日もおありになったのではなかろうか……。その曇りが、もっと人類の役に立ちたかったとか、もっともっと聖典を著したかった、というような、とてつもなく崇い崇いことではあっても!」

 という想いであった。

 するとその時、私は、観たというか感じたというか、朝焼けのような光明遍照の中に、限りもないニコヤカさで、幸いに満ちた、さえぎるものなき、ただただ、在るものだけが在るのみというほかはない、宇宙いっぱいの自由とでもいわざるを得ない雰囲気で尊師のお顔があらわれられて、

「あのね。私は無いんだよ」

とおっしやったのである。

 そこには尊師御みずからの消え切りの、澄み切りの聖なる輝きがあるばかりであって、そのよろこばしさの中に私は浴しているのを味わったのである。

 そこには、何年何月何日に自分が生まれて、そして修行して悟って、その悟りを弘めるためにこれだけの本を書いて、そしてこれだけの人類への貢献をしてというような、ご自分をかかげておられる相は無かったのである。

 自分がやったということになれば、どれだけやっても 「それだけか」 ということになるのであろうが、そもそもそれが出来たか否かということに悩む自分そのものが無かったのであり、自分が要らなかったのだと消え切りの澄み切りに輝いておられたのであった。

 その時、私は自分が無いということはそんなにも嬉しいことであるのか、ということを想わされたのであった。自分は、このよろこびを味わう自分があるということは自分が消えていないことなのではないか、と想っていたが、自分がないということはそこに悦びがあることなのである。悦びがなければ自分が消えていないことなのだ。よろこぶ自分があるということと、自分が無いということとは矛盾しないのだということに目を開かされたのであった。

『無門関』 に、 「師に逢うては師を殺し、仏に逢うては仏を殺し」 という言葉がある。

 しかし生長の家はそんな血生臭い、大立ち回りはしないんだよ。私は無いんだよ」

 と師の方がみずからの消え切りの澄み切りの聖なる輝きそのものであることを拝ませて頂くのである。

『聖使命菩薩讃偈』 には、 「応化(おうげ)して仮りに聖姿を顕じ、広大の慈門を開き給えり、名づけて生長の家と謂う」 と書かれているのである。これは生長の家でさえ仮に顕じられたものであること、生長の家みずからの消え切り、澄み切りを意味しているのである。

 生長の家が無我即ち感謝礼拝の教えである所以である。(1998.7.24)

30復興G:2013/07/14(日) 07:04:39 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         二十五

 入龍宮不可思議とは、入龍宮が不可思議であるということである。不可思議とは、思議そのものが不可すなわち無いことを意味し、これは思議そのもの、心そのものが、みずから 「私は無いのです」 との無我であり、消え切りの澄み切りの法悦そのものであるということなのである。これはいわゆる非思量底を思量する、ということである。非思量とは思量そのものが 「私はないのです」 とみずからの死に切りであり、消え切りであり、澄み切りの法悦であることを意味しているのである。

 私が味わった 「自分が無いということはそんなにも法悦そのものなのか<」 と感動せずにはいられなかったその尊師のお姿の輝きが、今日は、すべてのものに輝いていることを想ったのである。

 天地一切万物の一つ一つが 「私は無いのです」 とのみずからの消え切りの、死に切りの、澄み切りの法悦そのものであるのであった。太陽の如く明るく丸く、満面法悦そのものであるすがたにおいて輝いているのであった。

 山も川も草も木も、全身の細胞の一つ一つも、存在するものすべてが 「私は無いのです」 の法悦そのものであったのである。

「無の門関」 とは門関みずからの消え切りの、死に切りの、澄み切りの法悦そのものであり、 「無の門関」 とは 「法悦の門関」 であることを感じたのである。

 天地一切に感謝し、礼拝するとはこの法悦を拝することにほかならなかったのである。その法悦の輝きに包まれること、浴することが感謝であることを知らされたのである。

 神想観そのものも消えているし、思念も消えているし、気合いも消えているのであった。

「菩薩は来たって来たるところなく、去って去る所なし。過去、現在、未来に非ず」 とは、時間、空間そのものの、みずからの消え切りの法悦の充満の世界であったのである。自分を取り巻くすべてのものが、消え切りの、澄み切りの法悦であることが、自分を取り巻く全てが観世音菩薩のお姿であることなのであった。その法悦の輝きが尽十方にひろがっている様そのものが、そのまま尽十方無礙光如来の姿そのものであったのである。

 神癒祈願の名簿そのものが、斯くの如き観世音菩薩なるものの名簿であったのである。申込者の一人一人が、みずからの消え切りの、澄み切りの法悦そのものの尽十方充満の姿そのものであったのである。

「私は無いのです」 ということが、何故そのような法悦であるのか。それは私には解らないが、神の子人間は限りなく、無我であることに憧れを持たざるを得ないのは、親様である神が無神であり給うからに違いないのである。

「高天原に神詰まり坐(ま)す」 とは、幽の幽なることにおいて、隠り身の消息において、神はみずからの消え切りの澄み切りの法悦であることにおいて、 「高天原に神詰まり坐す」 とは 「高天原に法悦詰まり坐す」 ということであったのであり、生長の家が高天原それ自体であることにおいて生長の家人類光明化運動がみずからの消え切りの、澄み切りの法悦そのものであることなのである。それが 「よろこびの光明化運動」 ということの基礎であること、その基礎が高天原にあるということは、まことにすがすがしくも、さやけくもありけるかなというほかはないのである。 「あなさやけ、おけ」 と歌いつつ、踊りつつ、また新しきよろこびの装いをして生長の家の人類光明化運動が新しき世紀となって天降るのを見るのである。(1998.7.25)

31復興G:2013/07/15(月) 04:46:32 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         二十六

「迷いなし、罪なし、病なし。これが生長の家の根本真理であります。……」

 これが尊師谷口雅春先生の最後のお言葉であったのである。

 それまでは周知のように、生長の家の根本は 「人間神の子」 の五文字であるという表現であったのである。中身は同じであるか、表現はこのようなものであったのである。

 これはご昇天に際して、尊師ご自身がいのちが解放されて感謝が湧き起こったその時のことを直接表現されたのであろうと拝察されるのである。

 先生は心がもとであって、いわゆる心仏衆生三無差別(しんぶつしゅじょうさんむしゃべつ)の想いで生活されたが、この心が浄まらないので困り抜かれたのであった。心がもとであり、日ごろの心がけが大切であることは解っている、しかし、その心が想うように行かない時は、その心が却って恐怖の種になるのである。このなげきのお姿は、人類を代表してのお悩みのお姿であったのである。

 私の三番目の娘が、幼稚園の終わりころだったと記憶するが、私と二人で 「日本の昔話」 をテレビで見ていた時のことである。一組のおじいちゃんとおばあちゃんは幸せになって行き、隣のおじいちゃんとおばあちゃんは惨々な目にあって終わったのである。これを見ている娘の姿を見ると、日ごろの心がけが大切であるということは幼稚園の子供にも解るのだなあー、と想ったことである。その話が終わった時、娘が私に向かって、

「お父さん、うつくしい心にはじめから生んでもらって幸せになった、おじいちゃんとおばあちゃんはいい。どうして神さまは隣のおじいちゃんとおばあちゃんもうつくしい心に生んでおかなかったの?!! 隣のおじいちゃんとおばあちゃんがかわいそう」

 というのである。その時この子の目に涙が光っていたのを憶えてはいるが、何と私はこたえたかは憶えていない。しかし、尊師谷口雅春先生のお悩みがこのお悩みであったのではなかろうか、と想うようになったのである。

 社会主義者は富の平等を追求するが、尊師は、そのもとである心の平等を追求されたのではなかったろうか。

「心がもとだというが、神はどうして心を平等に生み給わなかったのか」

 ということであり、そして、平等に生めなかった、差別をして生かす神を赦せなかったのであり、そしてその不平等なる神を審かざるを得なかったのだと拝察するのである。そして神は無いと断罪したのが小説 『神を審判(さば)く』 ではなかったかと想われるのである。

 つまり、このどうにもならない汚れた心を持って、閻魔(えんま)大王の前に立たされて、お前は心が汚れているから地獄行きだ、と言われた時、 「誰れがこのような心に生んだのか<」 と逆に訴訟をしたことになっているのである。

 とどのつまりは、改心して、懺悔して心をきれいにしてからでないと救われないのなら、自分は救われることは出来ない、

 「改心しないそのままで救ってくれる神が私は欲しいのです」

 と悲痛な声を上げなければならなかった尊師が、不完全を造らない神、改心しないそのままで救っていて下さる神を発見され、實相なるものとの出逢いによって、はじめて審いていた神を赦すことが出来給うたのであり、ここに感謝が湧出されたのであった。この時のよろこびを直接表現されたのが

「迷いなし、罪なし、病なし。これが生長の家の根本真理であります」

 というお言葉になられたのではないかと拝察するのである。そういうことから拝察すれば、生長の家の結論と言われる聖経 『甘露の法雨』 は、綿密さを尽くして 「罪なし」 が説かれているのである。

 新しい世紀には、尊師の 『神を審判く』 という小説に対して、尊師のみ心を表した 『神を赦す』 という小説が生まれるのを期待せずにはいられないのである。

 また閻魔大王は何を罪として審いておられるのか。生長の家から見れば、完全円満の實相を包んでしまって、それをよろこぶことを遠慮したところの、包みが罪である、ということから見れば、

「なぜお前は、そのまま円満完全の實相をよろこぶことを遠慮したのか<」

 といってよろこび方の足りなかったことを審いておられるということになるのである。

 地獄、極楽に関係のある閻魔大王の役目について、生長の家の實相哲学から見た新しい時代の小説が出現してほしいものである。

 また、ここから発してあるいは 『どこまで自分を赦せるか』 というような小説も、きっと現れるにちがいないと想われて来るのである。(1998.7.26)

32復興G:2013/07/15(月) 23:33:13 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         二十七

 「迷い無し、罪無し、病無し」 とは、迷いみずから、罪みずから、病みずからの 「私は無いのです」 との、消えきりであり、澄み切りの、よろこびの輝きそのものであるのである。文字そのものが 「私は無いのです」 と消え切りの、澄み切りの、よろこびそのものなのである。

 「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」 とは、煩悩みずからの 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りのよろこびの輝きそのものなのである。そのよろこびそのものが菩提なのである。

 「娑婆即寂光土(しゃばそくじゃっこうど)」 ということも、娑婆そのものが 「私は無いのです」 との、娑婆みずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものなのである。このよろこびの輝きそのものを寂光というのである。あまりにもよろこびの輝きが強烈すぎるので、親しみやすく、それをやわらげて 「寂光」 という文字を使ったのである。

 かつて、総裁谷口清超先生に質問して、

 「如意宝珠(にょいほうじゅ)観の中で、“欲(ほっ)するもの好ましきもの自(おのず)から集り来たり、欲せざるもの好ましからざるもの自から去る”と唱えますが、實相の世界には、善ばかりで、欲せざるもの、好ましからざるものは無いのではないでしょうか?」 といわれた方があって、自分もそのように想わないではなかったナと、それを聴いていて想ったことであったが、しかし、そのお言葉そのもの、ご文字そのものが

 「あのね。私は無いんですよ」

 とみずからの消え切りであり、澄み切りであり、よろこびの充満そのものであることが解って来たのである。

 「大調和の神示」 においても、 「神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」 とあるにもかかわらず、いざ感謝するところになると、 「皇恩」 即ち天照大御神の生かす力に感謝せよ、ということからはじまっているのである。

 また、神は何故、感謝できるものと出来ないものを差別して生み、差別して生かすのか? というようなこと等々……。

 しかし、この神示そのものが 「私は無いのである」 とみずからの消え切りであり、澄み切りの、よろこびの輝きそのものなのであったのである。

 聖経 『甘露の法雨』 の中で、 「光明」 という字も尊ければ、 「無明」 という字も尊いかぎりなのである。それを差別している人はいないであろう。それは、聖経自体、文字自体が 「私は無いのである」 との、みずからの消え切りであり、澄み切りであり、よろこびの輝きそのものであるからである。

 光明一元であるにもかかわらず、暗との相対関係によって表現がなされているような論理的に矛盾していると一見みゆるものも、方便として自然なことなのであるが、その自然というのは、すべて、説法、文字、矛盾がみずからの消え切りであり、澄み切りであり、よろこびの輝きそのものであるのが、聖典の聖典たる所以であると拝察するのである。

 ここに論理みずからの消え切り、澄み切りのよろこびの輝きを想うのであり、釈尊が 「山川草木国土悉皆成仏、有情非情同時成道」 と宣り給うた時、 「論理の成仏」 ということが既に拝まれていたことを想うのである。

 新しき時代の言葉は 「論理の成仏」 ということを基礎に発せられるにちがいないのである。(1998.7.27)

33復興G:2013/07/17(水) 10:35:04 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         二十八

 姦淫の罪を犯したマグダラのマリアを石にて打ち殺そうとした群衆に向かってイエス・キリストは

「汝らの内、罪なき者まず石を擲(なげう)て」

と言い給いて、群衆が二人去り、二人去り、ついに一人も残らなかった。そこでマリアに

「われも汝を罪せじ、往け、この後ふたたび罪を犯すな」
 とイエスは言い給うたのであった。

 役人たちがイエスを法に背いているとして捕らえようとしていたのである。マリアに対するイエスの見解を示せと迫ったのである。罪はないと言えば法に背いたことになり、罪ありと応えれば、自分の信仰に背いたことになるのである。この時イエスは黙して、ただ地面に何かを書いてい給うたということである。

 聖書には何を書き給うていたかはたしか書かれていないと記憶する。尊師谷口雅春先生は戯曲 『イエスは十字架に架かり給わず』 の中では、 「大調和、大調和」 とお書きになったと描かれているのである。

 大調和の 「大」 とは、神によってそうあることなのである。人間が自分で作ったものではなく、神の責任において、はじめのはじめから神と偕(とも)にあるもの、神そのものが 「大」 ということであり、したがって、万人に同時にあるものであり、はじめのはじめから在る以上は永遠に消えることのない相(すがた)が 「大」 ということなのである。

 それ故 「大調和の神示」 は神によって、はじめのはじめから在りつづけている調和の相(すがた)を祝福した神示なのである。それ故聖経 『甘露の法雨』 を開けば、先ずはじめに 「招神歌」 が載せられているのである。即ち 「生きとし生けるものを生かし給える御祖神(みおやがみ)」 からはじまるものであり、生くるも、為すもすべて神によってであるところの大人生、大生活というものが示されているのである。そして、その後に 「大調和の神示」 が出て来るのである。生きとし生けるものが生かされていること、もの皆が自分で生きているのではないことが 「大調和」 なのである。

 さて、イエスは 「汝らの内、罪なき者まず石を擲(なげう)て」 と言い給うた、その 「内」 とは、イエスみずから 「神の国は汝らの内にあり」 と言い給うた 「内」 であり、聖経 『甘露の法雨』 の 「 『汝らの内』 にのみ神の国はあるなり」 と録(しる)されている 「内」 のことなのである。この 「内」 は生きとし生けるもの、もの皆すべてに拝まれている 「内」 なのである。群衆にもマリアにもある 「内」 なのである。

 「内」 なる神の国には罪はありようがないのである。それ故、この罪なきものばかりがそこに立っていたのであり、そしてその罪なきものが罪を打ったのである。即ち

 「罪は無い<」

 と罪を打ち消したのである。そして、罪は無に帰したのである。その結果、罪なき状態が顕れたのである。この時全人類の罪は打たれて無に帰したのである。この時、人類の罪に対する贖(あがな)いの歴史は終わったのであった。

 「われも汝を罪せじ」

 と言ったのは、神がすべてを罪せじである故に、私もまた罪せじなのである。ただ単に自分のことを考えれば他人のことは言えないというようなものでは、結局は罪はゆるされていないのであり、罪はマリアにも群衆にもありつづけなのである。

 そうではなく、本当に罪なき大調和なる内なるものがあったればこそ、その罪なき姿があらわれたのである。マリアにも群衆にもそれは同じであったのである。
<つづく>

34復興G:2013/07/17(水) 10:35:40 ID:AB6RqYXc

<つづき>

 この事件は、マリアにだけあったのではないのであって、群衆にも罪なき事件であったのである。内なる神性を拝まれ救われたのは、マリアだけではないのである。群衆も救われたのである。マリアは救われたが、群衆は救われない、という片手落ちなことをイエス・キリストは満足され給うであろうか。生きとし生けるものの、救われずみの實相なるもの、大調和なるものがそこに拝まれていたのである。

 現象界は、やったらやり返される世界であり、蒔いた種は刈り取らなければならず、一つの苦しみを与えた罪は一つのその同じ苦しみによって贖(あがな)わなければ消えない世界である。それは大地を打つ槌がはずれても、この法則からはずれることは出来ないのである。

 しかし、ここにやっていない世界、やっていない自分があるとしたならば、世界は贖いの歴史は要らないのであり、人間は贖いの人生は必要ではなくなるのである。

 そのやっていない世界、やっていない神の子なる人間、實相なる世界、實相なる人間を発見したのが生長の家であり、永遠に、世界から贖いの歴史を終わりにさせたのが生長の家なのである。

 いくら新しい種を蒔こうとしても、既に過去において犯された罪によって汚染されてしまっていて、永遠に新しい、けがれなき、贖いの必要のない種を蒔くことは出来ず、たえず、過去をひきずり、過去にひきずられていた歴史は終わりとなったのである。

 戦争によって民族的な罪を贖おうとするといわれる、その戦争はまことに必要がなくなったのである。

 二十一世紀は、まことの戦争の終わりの世紀のはじまりとしたいものである。(1998.7.28)

35復興G:2013/07/18(木) 07:29:17 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         二十九

 住吉の大神とは 「澄み切り」 を吉(よし)と實相を讃えることによって、本来のすがたを益々輝かせる大神という意味でもあるであろう。

 「伊勢神宮の神前に於ける神想観」 の中で唱えられる言葉

 「畏くも宇宙の大神イザナギの命(ミコト)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相の世界にみそぎ祓(はら)いたまう。その宇宙浄化の御はたらき現われて住吉の大神となり給う」

 において、既に、實相の世界に居たまうイザナギの命が、これから浄めなければならないものを観給うということは有り得ないことなのであるから、そのみそぎ祓い、浄め給うはたらきが住吉の大神であるということは、住吉大神は、實相がそれみずから 「私は無いのです」 との澄み切りの輝きをますます祝福することを意味しているのである。實相みずからのますますの消え切りの澄み切りの輝きを輝かせる御はたらきが住吉の大神の御はたらきなのである。

 イザナギの命(ミコト)が禊(みそ)ぎ祓(はら)い給うということは、イザナギの大神が、はじめのはじめに還ることを意味しているのである。そのはじめのはじめとは、高天原(たかあまはら)であり、神詰まります神、即ち、七柱(ななはしら)の身(みみ)」を隠し給う、幽の幽なる神の御姿に還ることを意味しているのである。イザナギの命が 「私は無いのです」 と澄み切りになる御はたらき、 「無い、無い、無い」 と、そして、その 「無い」 も 「無い」 と澄み切りの澄み切りに澄み切る御はたらき、そしてそこに澄み切るよろこびが輝き顕れる、それが天照大御神の出でましているお姿なのであると拝察されるのである。

 天之岩戸(あまのいわと)隠れに際して、神々が咲(わら)いに咲った時に、出でまされたことは、天照大御神さまは、よろこびそのものであり給うことをあらわしているのである。

 その 「無い無い」 との澄み切りのはたらきが住吉の大神の御はたらきであるからこそ、 「無い無いずくしの教え」 と言われている生長の家の大神が住吉の大御神であり給うということになっているのである。そして、その 「無い無い」 の象徴として建立されたのが 「無の門関」 であるところの入龍宮幽斎殿となっているのである。

 ここにおいて、現象のみずからの消え切りは勿論、神御みずから、實相みずから、龍宮みずからもまた 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りの澄み切りの輝きそのものを意味することとなるのである。

 この故にこそ、實相と現象は渾然(こんぜん)一体なのであり、 「大日本神国観(だいにっぽんしんこくかん)」 において、 「實相・現象渾然一体、實相・現象渾然一体……」 と唱えられるのである。

 即ち、 「實相」 もみずからの 「私は無い」 との消え切りの澄み切りのよろこびそのものであり、 「現象」 もみずからの 「私は無い」 との消え切りの澄み切りのよろこびであり、このよろこびの無限の輝きであることにおいて、ひとつのすがたであるのである。

 私は尊師の 「私は無いんですよ」 との澄み切りのお声の中に、お声と尊師とよろこびとの不可思議なるひとつなる幸いに包まれていた時、私は天照大御神(あまてらすおおみかみ)のよろこびの袖(そで)にふれていたのであることを、今日もまた、入龍宮幽斎殿に於ける神想観実修中に、畏(かしこ)みて想わされたのであった。

 まことに 「住み吉(よ)き世界に、住み吉きいのちとして生くる」 とは、 「私は無いのです」 との限りなき、みずからの消え切り、澄み切りに浴して生かされていることであったのである。

 この住み吉き世界の到来である新しき世紀の到来こそ、もっとも美(うま)し世紀の到来なのである。そして、それは常に、常に、 『今』 即ち自分なのである。この 『今』 の中から、世紀が展開しているのである。この 『今』 は澄み切りの 『今』 であり、久遠の 『今』 なのである。(1998.7.29)

36復興G:2013/07/19(金) 07:58:47 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         三十

 「無我」 ということについてどのように受けとり、生くるかということは宗教上の大きなテーマであるであろう。 「諸法無我」 という言葉もあって、あるいは、 「無一物中無尽蔵」 という言葉もあり、 「無限」 という言葉、あるいはただ単に 「無」 という一字が揮毫されている場合もあり、 「無常」 という言葉は 「無常観」 という言葉と共に仏教を特徴づけている言葉となっていると言っても過言ではないであろう。

 これらはすべて、 「私は無いのです」 とみずから死に切りの、消え切りの澄み切りのよろこびの、輝きそのものがそこに鳴り満ちている姿そのものなのである。

 例えば、 「無我」 ということは 「我」 そのものが、みずから 「私は無いのです」 と消え切りであることであり、澄み切りのよろこびの輝きがそこに鳴っていることなのである。

 斯くして、 「諸法無我」 とは、諸々の現象及び、實相は、それ自体、みずから 「私は無いのです」 と消え切りの澄み切りのよろこびの輝きの鳴り響きそのものであることなのである。

「無一物中無尽蔵」 とは、一物も残さずして、それ自体が 「私は無いのです」 と消え切り、それ自体の中に尽きることそのことが 「私は無いのです」 と消えていること、澄み切りのよろこびそのものが蔵されていることを表現しているのである。

「無」 とは無自体が、みずから 「私は無いそのものです」 とみずからの消え切りの、澄み切りそのものなのである。

「無常」 とは、常なるもの、實在なるもの、常恒なるものですら、 「私は無いのです」 との消え切りの澄み切りであり、 「無常観」 とは、常恒なるものを観ることそのことが 「私は無いのです」 と消え切りの澄み切りなのである。生長の家で言えば、神想観それ自体が 「私は無いのです」 と消え切りの澄み切りであることなのである。

「無常迅速」 という言葉が想い浮かんで来たが、これは、常なるもの、そして迅速なるものそれ自体が、 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りの、よろこびそのものの鳴り響きなのである。

「無限」 ということは、限りなるもの、我なるものが、それみずから 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りの、よろこびの鳴りひびきなのである。

『般苦心経』 に出て来る 「無――」 という言葉、それ自体が、みずから、 「私は無いのです」 と消え切りの、澄み切りなのである。例えば 「無眼耳鼻舌身意(む げん に び ぜつ しん い)」 とは、眼耳鼻舌身意がそれ自体、みずから 「私は無いのです」 との、消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きの鳴り響きであり、観自在菩薩は自在にそれを観じ、味わって、よろこびのひびきをもって、よろこびの輝きのひろがりとして、照見なるものがそこに現成しているのである。即ち、 「五蘊(ごうん)即ち現象は無かったのだー<」 と、そこに、五蘊即ち現象みずからの 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りのよろこびをよろこび給うたのが観自在菩薩(かんじざいぼさつ)であり給うのである。

 この観自在菩薩は尽十方無礙光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)であり 「無礙(むげ)」 は礙(こ)り自体が 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きであり、それが 「無礙光」 なのであり、そのよろこびの輝きが、尽十方世界そのものとなっていることであり、 「五蘊皆空(ごうんかいくう)と照見(しょうけん)する」 とは、それはそのまま天照大御神(あまてらすおおみかみ)の照り輝きそのものを意味しているのである。

 しかも観自在菩薩は観自在の故に、みずからも 「私は無いのです」 と消えること自在、澄み切ること自在であり、自在のよろこびそのものなのである。

<つづくき>

37復興G:2013/07/19(金) 07:59:22 ID:AB6RqYXc

<つづき>

 天照大御神は、隠れること自在であり、天の岩戸にお隠れになったとは、まことには 「身(みみ)を隠し給いき」 を意味しているのである。何故ならば、岩戸も、外の神々もすべては天照大御神が生み給うているのであり、天照大御神そのものであり給うからなのである。

 尊師谷口雅春先生の戯曲 『イエスは十字架に架かり給わず』 とは斯くして、 「天照大御神は岩戸に隠れ給わず」 ということをお示し下さったことと拝察させられるのである。即ち神の子人間・天照大御神のいのちなる、實相なる当方なるものは未だ一度も隠れたることなしであることへの祝福の 「事記」 なのである。

 しかも天照大御神は 「私は無いのです」 との消え切りの、隠れ切りの、澄み切りのよろこびそのものにましますのである。高天原(たかあまはら)に詰まります幽の幽なる神、七柱の独り神が、身(みみ)を隠し給うのであれば……である。(1998.7.30)

38復興G:2013/07/20(土) 09:47:35 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         三十一

 はじめは、生長の家本部だけに神癒祈願部があり、そのうちに宇治別格本山でも開設することになり、神癒の社である入龍宮幽斎殿に祈願部を置くことになり、その初代の部長を勤められたのが、尊師谷口雅春先生と大層親交のあった、教化部長を歴任されたあと宇治に来られていた、故小嶋博先生であった。

 私が本部から転任して来た時には、すでに個人指導部長をして居られた。私は練成部におり、小嶋先生は個人指導部だったが、部屋が同じだった関係もあって、この先生から尊師谷口雅春先生のエピソードなど、沢山お聴きすることが出来たのである。私は根ほり葉ほりして、一年ほどつきまとっていたような気がする。そして、二年たったある日のこと、私は感動して、

「小嶋先生のような人は、まさに谷ロ雅春先生の直弟子ですね」

 と思わず言ったのである。すると小嶋先生は感慨深げに、静まった雰囲気がただよって

「いや、先生は僕らのことを弟子だと想っておられないよ」

 と言われたのである。一呼吸あって、いぶかしがる私を見て、

「神だと想っているよ」

 と言われたのである。もう少しで小嶋先生の眼には涙が出そうな様子だった。

「本当に先生の拝みは大変なもんだよーッ」

 と慨嘆されたのであった。

 この人はよく、観世音菩薩の観世音とは 「完全音」 だと言っておられたが、生長の家の本尊は観世音菩薩であり、尽十方無礙光如来であり、その輝きに包まれながら、今私の前に居られるのだ、と想うと

 私には、この人の尊師谷口雅春先生より浴している恩というものは 「完全恩」 なのだな、と想わせて頂いて、私もまた合掌したい気持になったのであった。

「生命の實相の自性円満を自覚すれば……」

 からはじまる聖典 『生命の實相』 は、自性円満なる読者の實相生命を礼拝して書きはじめられていることを意味しているのであり、尊師ご自身

 「私は自分自身が罪の子ではなく、神の子であると解った時、すべての人も同じ罪なきものであることを拝みたくなった。しかし、いちいち拝みに行く訳には行かないので、本で拝んだのである」

 という意味のことが、その著 『美しき生活』 の中には書かれているのであり、気がついてみると自分も、すべての人から拝まれていたのであるとも書かれているのである。

 さて、総裁谷口清超先生は、大聖師谷口雅春先生より法燈を継承され給うたのであるが、 「何を継承されたのであるか」 ということは、いつも心あらたに想わしめられることである。

 結局のところ、ここまで書きとめて来たことは、何を継承されたのであるかということが根本テーマとなっているのではないかと想われて来るのであり、そのためには、そも大聖師谷口雅春先生が如何なるお方であり給うたのか、生長の家とは如何なるものなのであるか、ということから、はじめさせられていたのではないか、と今朝、早朝行事の中で想ったことであった。

 そのような意味において、大聖師のいのちに、先達がどのようにふれておられたかということは、私にとって、そのエピソード、話は宝物となっているのである。(1998.7.31)

39復興G:2013/07/21(日) 07:10:48 ID:AB6RqYXc

 合掌 ありがとうございます。

 ここに謹写掲示を続けさせて頂いている 元生長の家本部講師 榎本恵吾先生(故人)の書かれた論文
『神癒の展開としての人類光明化運動―「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―』 というのは、53字×19行×1000頁 すなわち約100万字にもなる膨大な量のご文章です。

 これは、榎本先生が宇治別格本山の神癒祈願部長をされていたとき、平成10年から11年(1998.7.1〜1999.11.29)に、毎日 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 で神想観・神癒祈願をされたあと、この論文を書かれたのだということです。論文といっても頭で考えた論文ではなく、祈りからほとばしり出た、内なる神の声と言ってもよいものでしょう。これは、平成10年大晦日の12月31日にも、11年元日の1月1日にも、1日も休みなく書かれております。

 榎本先生はパソコンは使われず手書きで書かれる。それを職員がパソコンで打ち込み、プリントアウトしたものを、当時本部に設けられていた 「光明化運動・21世紀を考える検討委員会」 宛に送っておられたそうです。

 検討委員会では、教化部長・本部役職者・本部講師の人たちから 「提言書」 を募集していたのですが、「優秀提言の選考と褒賞」 の対象としては平成10年6月末で締め切ったので、7月以降に提出された榎本先生の論文は選考の対象とはならなかったようですが、これを読んだ担当者は、非常な感銘を受けたと漏れ承っています。

 今、私はそれを保存されていたのをいただき読み返してみて、実に 「今」 ――行き詰まり・分裂状態を呈している(と思われる)生長の家の運動を根本から考え直すために、用意されていた光明化運動論ではないかと、深い感銘を覚えます。

 「web誌友会板」 は、『生命の實相』 をテキストとして生長の家の真理を深く学ぶことを目的にしていますが、この榎本先生のご文章は、『生命の實相』 の神髄を理会するためにも、読めば非常に助けとなるものだと思います。

 それで、「web誌友会参考文献板」 を開設していただきましたので、ここに

榎本恵吾先生を偲び、感謝をこめて、その
『神癒の展開としての人類光明化運動』 のご文章を掲示させていただいております。

 ご愛読くださいまして、皆さま神の子としての光明生活に、一層の輝きが、喜びが、いや増しますことをお祈り申し上げます。

 ご感想や、疑問の点がありましたら、どうぞ web誌友会板 の方へ、ご投稿ください。

ありがとうございます。 合掌

41復興G:2013/07/21(日) 07:15:23 ID:AENtSm/U

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         三十二

 一切を放てば一切が手の平の上に乗る、ということばがあり、尊師谷口雅春先生は、 「一切を放てば實在宇宙が手の平の上に乗る」 とおっしやっているのである。放つとは 「無し」 と捨てることである。

 一切を捨てれば却って一切が手の平の上に乗るという、この一切の中には、實相も入っており、實相を 「無し」 と切った時、實相宇宙が手の平の上に乗るということであったのだと今朝、無の門関である人龍宮幽斎殿での神想観の中で感じさせられたことである。

 この一切ということは限りもなく広いことになっており、 「一切」 という文字にしてからが、 「一(ひ)ト切れ」 と見えているままに、そのままに 「すべて」 ということであることを人間が納得しているということは、一即多、多即一の妙々のいのちのあり方をいのちが知っていることなのである。

  「天地一切」 は 「天地の一卜切れ」 であると同時に 「天地である一ト切れ」 ということなのである。天地の万物ことごとくは一ト切れと見えているままに天地であり、すべてのすべてであるということなのである。

 そこに天地なる一切なる、すべてのすべてなるものを認めること、観ずること、想うことが礼拝であり、感謝であると想われて来るのである。

  「一切」 とは 「一つ」 が 「切る」 ということである。一つとは絶対を意味するのであり、絶対なるいのちがそこに立って、 「無い」 と天地を一切(ひときり)するということが 「天地一切」 ということでもあるのであって、 『般苦心経』 において、先ずはじめに、観自在菩薩が光明燦然たるお相(すがた)で登場され 「五蘊皆空(ごうんかいくう)」 と照見され給うのである。照見とは照らし見るということであるから、 「五蘊皆空」 「現象無し」 というこの文字は、観自在菩薩の光りのひろがり、展開としてあるのであって、何もない空々漠々たることではなく、光りなる内実のひろがりなのである。また 「現象は無かったのだ!!」 というよろこびの輝きのひろがりであると見ることも出来るのである。

  「一切」 とは一つなるもの、絶対なるものが切るということであると仮に言うのであるが、絶対なるものには切るべき相手はあり得ないのであって、ただただ自らが自らすること以外にはあり得ないのであるから、絶対なるものは、切るべき相手を知らないというべきであるから、すべては、みずからおのずから 「私は無い」 のであると消え切りの、澄み切りのよろこびである、そのよろこびのみがあるということなのである。

 一切を放った時、一切は手の平の上に乗る、とは、しかし、すべては自分でみずから 「私は無いのです」 と消え切りであり、澄み切りのよろこびであることなのである。絶対なるもの、實相なるものもまた 「私は無いのです」 とのみずからの消え切りであり、澄み切りのよろこびそのものなのである。

 道元禅師が 「一切衆生悉有佛性」 ということを、それまでは 「一切衆生は悉く佛性を有す」 というふうに読まれていたのを、 「一切衆生悉有は佛性」 とお読みになられたのであった。仏性がすべてであり、有るものはすべて仏性である、と読まれたのであった。

 生長の家では 「一切衆生悉有佛性」 について、 「衆生悉有佛性」 を一切してしまったのである。ただただ一なるもののみの独在であり、 「衆生」 も 「悉有」 も 「佛性」 もことごとく一ト切りにしてしまったのである。そして、一のみとなったのである。

 今朝の 「無の門関」 である幽斎殿での神想観中に想いに浮んだことであったが、 「一切衆生悉有佛性」 この言葉そのものが 「私は無いのです」 とみずからの消え切りであり、澄み切りのよろこびそのものであったのである。釈尊も道元も 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りであり給うのである。

  「生長の家人類光明化運動」 も 「私は無いのです」 とのみずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびなる天照大御神の輝きそのものである、聖の聖なる照り渡りそのものであることを感謝したのである。

 消えている、澄み切りの、手あかのつかない運動がここにあるのである。(1998.8.1)

43復興G:2013/07/22(月) 07:11:10 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         三十三

  『生長の家の歌』 はその題名にのみ “生長の家” という名前があって、四番までの歌詞には一ヵ所も “生長の家” という名前は出て来ないのである。

 即ち、ここには、自分をどこにもかかげていない、消え切りの、澄み切りがあるのみなのである。

  「生長の家人類光明化運動よ。汝は何処(いずこ)より来たれるや?」

 何処よりも来たらず。来たって来たるところなく、去って去るところなし、過去、現在未来に非ず、である。三界に身を現わすことなき、生長の家人類光明化運動である。

 来たらずして来たり、去らずして去る。姿形なき、はじまりなきはじめのはじめなる、今なる、肉によらずして生まれたる、浄まり切りたる、聖(ひじり)の聖なる人類光明化運動の姿が今や、その姿を顕わそうとしているのである。

 尊師谷口雅春先生が 「自分もまた、明治二十六年十一月二十二日に母の肉体より誕生したのではなかった」 とのよろこびに帰った時、人類光明化運動も、はじめなきはじめなる久遠の、肉によらざる浄まれる運動として誕生していたのである。

 それは世界的状況という、現象の必要性、肉の状況にさそわれて出発した運動ではなかったのである。

 宇治別格本山の新練成道場が出来、多目的ホールに 「實相」 額を置くことになり、それまで長い間、幽斎殿に置いてあった 「實相」 をもって来て、壁にはめ込みの額に入れることになったのである。

 その時、もとの額縁(がくぶち)が要らなくなったので私はそれを貰い受けて、素晴らしいその額縁に、私の描いた絵を表装屋に出して、入れてもらったのである。

 その絵には 「東雲燦然神霊遍満」 と揮毫しており、総本山の東雲台から眺めた朝焼けの雲に乗ったようにして神霊が合掌の姿で天降りつつあるその光景であり、それぞれが合掌してい給うのである。この絵は今、幽斎殿の私の “祈りの間” の 「實相」 軸と向かい合って、私の背中の方の壁に立てかけて置いているのである。

 この額には、数十年おさまっていた大聖師の 「實相」 の字は既にないのであるが、 「實相」 の文字そのものが、 「私は無いのです」 との、みずからの消え切りの、澄み切りであることを知らされた今、その象徴として、額から 「實相」 の字は姿を消して、そこには、万物礼拝の澄み切りの合掌がそこに輝いている大聖師のお姿があり、完全円満なるものを礼拝し祝福する運動であるところの汚れなき生長の家の人類光明化運動のすがたがそこに輝いていて下さっているのであると拝察させて頂いているのである。

 姿、形なくして、吾れも知らず、他も知らず、全地上が澄み切りの、聖なる光に覆われているのである。そして、それがますます輝きを増し、生長して行くのである。 「世界平和の祈り」 はこのような内実を持ったものであることに心を新たにしたのである。このような光りは、誰も、何ものも反対することは出来ないのである。(1998.8.2)

44復興G:2013/07/23(火) 06:03:44 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         三十四

 今まで、神は解らない、解らない、と言っていた人が

  「なぜ神が解らないかが解ったんです!」

 と言って来た。その人は女性であったが、目には涙を浮かべていた。

  「神と一度もはなれたことがなかったからですね」

 と言われるのであった。私はとても感銘を憶え、その後、時々この話を皆さんにお話しさせて頂いている。

 今朝の早朝行事の時、

  「神は澄み切りであられるから解らなかったんですね」

 と言っているようなその方の表情が浮かんだのであった。

 離れたとか離れていないとか、また、澄んでいるとか澄んでいないとか、という言葉は、現象界のものをもとにした表現であり、この表現そのものも現象であり、しかし、その言葉自体が 「私は無いのです」 と消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものなのである。

  「猫の子は猫であり、牛の子は牛であり、犬の子は犬であるから、神の子は神なのである」

 という表現をするのであるが、しかし、まことには、猫の子は猫でなくとも、牛の子は牛でなくとも、犬の子は犬でなくとも、神の子は神なのである。神の子人間は、猫や牛や犬の真似をする必要はないのである。

 神の子人間は、現象の真似をする必要はないのである。

 神癒祈願を申し込んで来た人の中に、自分の娘の大学合格祈願に、 「首席合格」 と書かれており、よく見ると、私自身の娘の受ける大学と同じ大学であった。そして私自身も娘の 「首席合格」 という願いを持っているのであった。

 このような時の 「願い」 とそれに対する 「祈り」 というものは、果たしてゆるされるのであろうか。既にそれは實相において実現しているからこそ願いが起こって来たのである、ということもまた私の中から湧き上がって来る想いでもあった。

 現象的、あらわれから見れば、首席は一人であり、試合においても優勝は一つである。

 しかし、實相においては、首席は無限にあり、優勝も無限にあるのである。妙々の、一即多、多即一なる一切が無限にそなわり、満足されているのが實相の世界なのである。

 實相から出て来た願いを、現象に合わせて、願いを下げてはならない、ということである。現象の真似をする必要はないのであった。そう気がついて、私は両方の願いを祈ることにしたのであった。

 そうしたら、その 『祈り』 の結果はどうなるのであるか。それはこちらが聞きたいのであって、それから先が奇蹟ということになるのである。

 奇蹟とは何か。それは自分が全くそれに関して必要でなかった、ということの度合いが奇蹟的な度合いなのである。それ故、奇蹟は生かされている感謝になるのである。感謝の起こり得る度合いが奇蹟の度合いであるのである。

 自分が要らない度合いとは、既に一切が現成、充満され、完成されている、成就そのものである實相の妙有を観ずることにあるのである。實相が妙々の奇蹟そのものなのである。

 實相は当たり前の、神そのままであるから、奇蹟としては特に言う必要はないのである。実現しないことが却って奇蹟的なことと言われているのである。神が成就そのものであり、實相が成就そのものであり、自分が要らないことにおいて、奇蹟そのものなのである。

 地上天国建設の願いもまた、現象に合わせた、現象のあり方の真似をした姿ではじまっているのではないのである。 (1998.8.3)

45復興G:2013/07/24(水) 07:51:19 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         三十五

 今日、よく見ると、入龍宮幽斎殿に於ける神想観の唱える言葉の 無の門関 は “無の門関” になっていると想っていたが、 「“無” の門関」 となって 無 に “ ” がついていた。

  「無の門関は透過すべし」 とよく言われる場合は、無の門関として、あくまでも通過すべきものとして受け取ればよいのであるが、 「無より一切を生ず」 とか 「無一物中無尽蔵」 ということになって来ると、この “無” は通過すべきものではなく、行きつくべき堂奥または、一切が発して来る本源とでも言うべきものであると拝察されて来るのである。

 この場合の “無” は、有に対する相対の無ではなく、絶対の無、一切がそこより発生する、一切がそこに巻き納められているところの “無” であると言われているのである。 “絶対無” あるいは、“真空妙有” の “真空” にあたる言葉なのである。

 この絶対無は、龍宮さえも 「私は無いのです」 と消え切りの、澄み切りの、よろこびなる天照大御神なるものの輝きを輝くところの一切生み出しの本源なのである。

 一切の元である 「如(にょ)」 なるものも 「口」 が書かれてあり、創造の本源なる 「龍宮」 の 「宮」 も、口が二つ連ねてあって、これは、真空なること、絶対無なることを表わしていると想われるのである。

 大聖師谷口雅春先生のご揮毫に 「自性空(じしょうくう)」 というのがあるが、自性なる空とは、自分みずからが 「私は無いのです」 そのものなること、即ちみずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびそのものであることなのであり、この言葉、文字そのものも 「私は無いのです」 との、消え切りの澄み切りなのである。實相の世界が 「無限の歓喜の海」 であるとは、このみずからの消え切りの、澄み切りの 『無限のよろこびの海』 であることなのである。

 宇宙の大神であるイザナギの大神か、光明遍照の實相の世界において、浄(勢<きよ>)めのおはたらきをされている、そのはたらきが住吉の大神であり、その住吉の大神の霊光燦然として全宇宙を引きつつみ、全宇宙に流れ入り、宇宙そのものとなり給うているのである。そして、その全宇宙が、みずから消え切りの澄み切りの、よろこびなる天照大御神そのものであり給うのである。それ故、イザナギの大神とひとつなるものであり給うのである。そのすがたが、 「光明思念の歌」 となって、

  「天照(あまてら)す御親(みおや)の神の大調和(みすまる)の生命(いのち)射照(いてら)し宇宙(くに)静かなり」

 となっているのである。

  「静かなり」 とは、あるべきものがあるべき姿にあることであり、宇宙=天照大御神は、消え切りの澄み切りのそのままに、無限の創造をしている、あるべき姿にあることを意味しているのである。

 例えば、心臓は静かなる時が一番大活躍をしているのであり、音をたてて動悸が打っている時は、異常なる心臓であって、異常なる心臓は本来の心臓ではないのであって、本来のはたらきをしていないのである。

 それ故 「宇宙(くに)静かなり」 は何の創造もしない、静寂な、死滅した、静止の意味ではないのである。 「私は無いのです」 との無限の調和とよろこびなる創造そのものの宇宙の姿、天照大御神そのものなのである。

 これは。無の門関を通過した “無” そ のもの、“絶対無” の消息なのである。(1998.8.4)

46復興G:2013/07/25(木) 07:24:33 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         三十六

 故藤原敏之先生の話によると、大聖師谷口雅春先生のご講習を二回目に、尾道の道場で受けられた時のことであるが、その時は、谷口輝子先生もご一緒で、椅子に坐っておられる輝子先生のお姿を見ただけで泣けて泣けて、涙が滂沱と流れるのをどうしようもなかったそうである。

 やがて、輝子先生が先ず演壇に立たれて、前講のようにお話され、日常の大聖師のお姿を讃えて讃えてお話しされて話を終えられたのである。

 その後、すぐに大聖師が演壇に立たれたかと思うと、いきなりマイクを両手でつかんで

  「僕はそんな立派な人間じゃないんだー!!」

 と言って号泣されたのである。

 「人間で、自分の今までやって来たことによって、これでよいと言える人が果たしているでしょうかッ」

 と言われてまたお泣きになったそうである。

 それで尊師は、その日のご講習はとりやめにされたかというと、そうではないのであって、何とそのお姿を想うとき、輝きに満ちていられることであろう。何十年たっても、藤原先生の中ではその尊師のお姿はますます輝きを増しつつ、その日のご講演が想い出され、甦るのを感じていられるようであった。

 私は吉田國太郎先生に、十八歳の時に本部で個人指導を受けたことがあったが、革表紙の 『生命の實相』 を、まるで輝く宝物を持つように、抱きかかえるようにして個人指導室に入って来られた。しばらくして、

  「本当に生長の家やりたいんだったら、魂の底からすべてをぶちまけられる先生を一人でいいからつくりなさいよ」

 と言って下さったのであった。

 生長の家では、大聖師の方が先ず、

  「私は、心を自分の力で、改心してからでないと救われないのだったら、私は到底救われない。改心しないままで救って下さる神が、私は欲しいのです」

 と、人類の心を代表して、ぶちまけられているのである。

 そして、その神を発見されたよろこびが、

  「生きとし生けるものを生かし給える御祖神(みおやがみ)……」
 という感謝の歌となったのである。

 そして、荘厳きわまりなき、ご臨終の際の

 「迷いなし、罪なし、病なし。これが生長の家の根本真理であります……」

 というお言葉となったのである。

 浄心行において、心の底の底なるものをぶちまける、書いて消すといっても、この大聖師の言われたほどにまで、はっきりとぶちまけた人はあるであろうか。

 吉田先生もおそらく、尊師谷口雅春先生にいのちの底からすべてをぶちまけて、そして、そっくりそのまま受けとめていただけた有り難さというものを昧わった弟子の一人であったのであろう。

 尊師もまた、終戦の直前に、巡講先の旅館で、吉田先生に、

  「このままでは、日本は敗ける」

 ということをはじめて、涙ながらに話されたそうである。 「皇軍必勝」 の短冊を二万枚もお書きになられて出征する人々を送り出されて、言葉の力をもって必勝を念じつづけられたお方が、はじめて語られたお言葉であったという。

 しかし、そこには師の中に飛び込んでしまっている先達の姿を想い、うらやましさを憶えるのである。(1998.8.5)

47復興G:2013/07/26(金) 07:31:16 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         三十七

 聖典 『生命の實相』 の全読ということについて。

 これは全巻にわたって拝読するということは勿論のことであるか、必ずしもその回数ではないのであって全きものとして拝読、拝誦するという意味なのである。

  『生命の實相』 は自性円満(そのままでえんまんなこと)を讃えんがために、即ち全きもののために、全きものによって書かれたもの、即ち、聖なるものが聖なるもののために書かれたものであるが故に、これは聖典とお呼び申し上げ奉るのである。

 尊師谷口雅春先生が原稿をお書きになっているお姿を霊視出来た青年のことが 『生命の實相』 の第一巻に書かれていることは周知の通りである。光りの中で光りがお書きになっているということは、著者である尊師が読者を如何に観ておられるかということをあらわしているのであって、もしも、迷っているものを相手に、罪、けがれを相手に、それを打ち消すために、書いておられるのであれば、尊師は迷いや罪けがれの暗の中に居給わなければならない筈である。そこには、ただただ光りの中で光りとして坐されてお書きになっている姿しかなかったのである。

 これは、全きものが、全き世界の中に居て、全きものを讃嘆し、祝福、礼拝され給うて聖典 『生命の實相』 が誕生しているということを意味しているというほかはないのである。

 それをそのままのお姿で拝受し、拝読させて頂くところに全読ということの荘厳なる意味があることを想うのである。

  『生命の實相』 自体が、“物質無し” とみずから 「私は無いのです」 と、消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものなのであれば、読者もまた 「私は無いのです」 とみずからの消え切りの、澄み切りのよろこびそのものとしてそこにあり、ともに澄み切りであるのであって、ここに全きもの、自分の要らないものの姿としての全読なるものの姿があると言わなければならないのである。

 斯くの如きことの如何にして起こり得べきか。今、ハイと、はじめのはじめなる、そのままのいのちをよろこぶことによって忽然(こつねん)として起こるのである。

 常に時は今である。この 「ハイ」 を生きることによって、物質の、インクと紙との集合にすぎないものとして見ゆるものが、全きものへの無限の祝福なる神の愛の輝きそのもの、霊なるものと変貌するのである。まことの、甘露なるものの法雨と化するのである。

 手にした 『生命の實相』 を愛の霊なる光りとするか、物質のかたまりとするかは、はじめのはじめなる全きいのちを 「今」、ハイと受けるか否かに掛かっていると言わなければならないのである。

  「七回読め」 と言われたことがあったか、これは七即ち完成なるもの、完全なるものの展開の姿として聖典拝誦の姿があることを意味しているのである。

 このような全きものの消息においては、聖典の中の、 「暗(やみ)」 という文字も 「光り」 という文字も、光りそのものなのである。その文字の配列から来る意味以前の問題として、聖典を手にするだけで、既に聖なる光りに浴しているのである。もはや聖典は文章の意味以外において光りの聖典であると拝察されてくるのである。(1998.8.6)

48復興G:2013/07/27(土) 02:02:42 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         三十八

 聖典 『生命の實相』 の中には、現在行われている練成についての注による説明はあるが、この聖典全四〇巻が完成した時点では、いわゆる現在のような練成道場もなく、練成もなかったのである。 「『いのちのゆには』 の神示」 というのにもとづく集まりとしては、ご講習会や誌友会や花嫁学校や学生寮の生活などがあったのが、この神示に沿ったものであったのである。そして、生長の家は燎原の火のように広がって行くという表現がなされるほどの勢いをもってひろがって行ったのである。

 多くの人々は、聖典 『生命の實相』 に直接汲む以外はなかったというに近い状況であったがために、却って、尊師谷口雅春先生のお示し下さる真理に直接ふれるという度合いが強かったということが言えるのではないかと拝察するのである。

 練成というのは手っ取り早く入信していただく方法ではあるが、そこに指導者なるものを通している点において、直接 『生命の實相』 を読んで得るものとはおのずと異なったものが出て来るということにもなるのであって、そこは仲々複雑な問題を含んでいると想われるが、長い将来を見渡すと一考するだけのことはあるのではないかと想われるのである。

 神想観練習も 『詳説神想観』 がテキストに行われていることが多いと想われるのであるが、これはあくまでも便利的に出来ているものであって、やはり抜粋されているものは、もとのところにあった状態で読まれるのがよいのであって、抜粋された文章がはじめあった場所に帰りたがっているような気がしてならないのである。自然ないのちの流れの中で神想観が語られ、説明されているのであって、 『生命の實相』 では第八巻目に出て来るということは自然な美しい順序になっていると想われるのである。

 おおよそ、どなたからはじめられたのかは解りかねることではあるが、 「罪」 や 「神」 のことについてなど、ただ単に言葉の出て来たところを抜き出して並べれば、それが身につくであろうという期待と方法は、聖典なるものに対しての自然なあり方であるかどうかも一考してみる必要があるのではなかろうか。

 ある箇所について、そこに対しての自分の得た感動を表現するためや自分なりに受けとめるための掘り下げ方をするために引用するということは、ただ単に並べているのとはおのずから異なっていることは勿論のことであるであろう。

 抜粋集も、一度元のものを拝読している人にとっては全体の流れの中で昧わえることになるから、それはそれでよいのかも知れないが、大宗教になればなるほど、矛盾した表現が平気で一つの聖典におさめられているというぐらいのものであるから、微妙なニュアンスのちがいなど、切り取りの抜粋では汲み取りにくいものがあるにちがいないのである。

 とにかく、われも知らず、他(ひと)も知らず、ただただ便利だからと言ってそれに頼るような傾向が今後もつづいて行くならば、あまりにも勿体ないことになってしまうのではないかと懸念するのである。

 練成というものも、ある意味で、全生活上の抜粋であると言えるのであろうから、自然な生活の中で、聖典に直接汲みなから自ずと生活の中に光りを生かし込んで行くという姿とはまた異なったものが出て来るということもあるにちがいないのである。

 私自身も長年練成にたずさわって来たものであるが、一つの感慨として今、このような想いが浮かぶのである。

 練成会に依ることもさることなから、より一層直接聖典に汲め、という態度を涵養することか、特に著書による表現を特徴とする生長の家にとって自然であり且つ長い眼で見る時、結局は實(みのり)の多いものとなることなのではなかろうかと想えて来るのである。

 本が神殿であるということは、本そのものが道場そのものであることなのである。(1998.8.7)

49復興G:2013/07/28(日) 01:04:48 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         三十九

 生長の家は 「ねばならぬのない」 教えであるということは、 「ねばならぬ」 が無いことであって、 「ねばならぬのない」 とはどういう意味であるとか、こういう意味であるとかではなく、 「ねばならぬ」 そのものが非実在であるということなのである。無いということは、あっても大丈夫ということなのである。

  「ねばならぬ」 それ自体が 「私は無いのです」 とみずからの消え切りであり、澄み切りの輝きそのものであることなのである。

 また、 「不思善悪(ふしぜんあく)」 という言葉もあるが、これは、善悪そのものが無いこと、それを思うことも無いことであり、善悪も思いもそれ自体が 「私は無いのです」 とみずからの消え切りの澄み切りのよろこびの輝きそのものであるということである。

  『無量光』 という言葉があり、 「無辺光」 という言葉がある。これは 「量光」 が無いことであり、 「辺光」 が無いことであり、 「量光」 「辺光」 それ自体が 「私は無いのです」 との死に切りの、消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものであることなのである。

  「ねばならぬ」 と自分の願いに固執するのではなく 「み心の如くならせ給え」 と祈ることについては、イエス・キリストの 『ゲッセマネの祈り』 が典型的な祈りとされているのである。即ち、

  「若(も)し得(う)べくばこの杯を吾れより過ぎ去り給え。されど吾が意(こころ)を為さんとにはあらず、み心の如くならせ給え」

 との祈りである。

 イエスは 「吾が意」 には非ずであるけれども 「み心の如くならせ給え」 であったのである。即ち 「み心の如くならせ給え」 とは、

 「神よ、あなたの心と同じ心とならせ給え」

 ということであったのである。 「ねばならぬ」 という私心は、はじめから 「私は無いのです」 と消え切りであり、澄み切りであったのである。ただただみ心、神の心のみかすべてのすべてであったのである。神の子は神そのものであるのである。

  「私は神である」

 ということは、 「私は無い」 のであり、神のみであり、神のみ渾(すべ)ての渾てであり、有るのはただただ神のみであったということなのである。

  「ねばならぬ」 は無いのである。み心のみ、神のみがあるのである。 「ねばならぬ」 はみずからの、消え切りであり、澄み切りのよろこびの輝きそのものなのである。その死に切りの、消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものが、神であり給うのである。

 現象はみずからの消え切りであり、不完全はみずからの消え切りであり、實相もまたみずからの消え切りである。

 不思善悪とは、善すなわち實相と悪すなわち不完全即ち現象とを相対させ、対立させるということ自体が 『私は無いのです」 とみずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものであることを表現しているのである。

 総裁谷口清超先生御著の 『正法眼蔵を読む』 の中で紹介されているが、 「無仏性」 という言葉がある。これが 「不思善悪」 で「不思實相現象」 の意味における、 「無實相」 ということにあたるのである。

  「無仏性」 とは仏性みずから 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものである姿なのである。

 實相現象渾然一体にして 「私は無いのです」 とのみずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものなのである。(1998.8.8)

50復興G:2013/07/29(月) 07:26:37 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十

 パウロは 「コリント人への手紙一の中で言っているのである。
 tたとえ山を動かすほどの信仰があっても愛なくば空しい。嗚るドラの如し。
 たとえ他のためにすべての財産を擲(なげう)っても愛なくば空しい。たとえ、
 他のために火に焼かるるとも愛なくば空しい」
と。
 これは、 「たとえ人類のために十字架に架かるとも愛なくば空しい」 と言っているのである。
 しかし、イエス・キリストが十字架に架かり給うたことには 「空しい」 とは言っていないことは確かであろう。
 何故、そこに愛があると拝まれているのであるか。愛には証明も説明も要らないのである。そして、まことに愛なるものがそこにある時、言葉は必要ではないのである。愛は一つであることであり、一つであるということは完全なる理解なるものそのものの現成であるからである。

  「愛行は空しからず」 と私たちの内なる實在なる愛なるものを拝んで下さっているのが生長の家であり、尊師谷口雅春先生であるのであった。
  「神は愛なり」 である。今ここに神が在(いま)してこそ愛ということは有り得るのである。今ここに完全なる神と實相を認めること、拝むことが出来る教えであってこそ 「愛」 ということは言い得るのである。愛は人間の力では有り得ないのである。

 「實相独在」 であってこそ 「愛独在」 なのである。
 それは、形からは来ないのである。形を超え、現象を超えたところに宇宙一パイに、存在一パイに成就しているものなのである。即ち、神はすべてのすべてであり、愛はすべてのすべてなのである。
 神は 「今」 である。 「今」 そのものである。それ故に愛もまた 「今」 でなければならないのである。 「今」 「すでに」 「はじめのはじめより」 ということでなければ、神でなく愛ではないのである。
 生長の家人類光明化運勁には、この愛が拝まれ、祝福されているのである。まことの光明即ち愛が拝まれているのである。それは形によって拝まれている以前の問題なのである。あるいは
  「愛があるからこそ山をも動かすことか出来るのである。山を動かすことの出来るのは愛がある証拠である」
  「愛があるからこそ、全財産を献資することが出来るのである。全財産を出し得るのは愛がある証拠である」
  『愛があるからこ他のために、火の中に飛び込むことが出来るのである。火の中に飛び込むことが出来るのは愛がある証拠である」
また
  「愛があるからこそ、赦すことが出来るのである。赦すことが出来るのは愛がある証拠である」
 ……等々。
 しかし、パウロは愛がなくともそれは出来る、と言っているのであり、それは愛がある証拠にはならない、と言っているのである。
 それは 「愛」 を行おうとしているからである。
 一たん一切の形(現象)を超えたとき、神が渾(すべ)ての渾てであり、自分が要らなくなり、愛がすべてのすべてであるのである。愛が神であり、愛がすべてを為し給うのである。神と愛と吾れとは別ではないのである。
  「愛」 が行っている姿がここにあるのである。生長の家で拝まれている 「愛行」 である。(1998.8.9)

51復興G:2013/07/30(火) 00:01:19 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書 ―
             榎 本 恵 吾 

         四十一

  「畏くも宇宙の大神イザナギの命(みこと)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相の世界にみそぎ祓(はら)いたまう」

 と 「伊勢神宮の神前に於ける神想観」 では唱えられているのである。

  「光明遍照實相の世界」 においては汚れは無いのであるから、禊(みそ)ぎ祓いは必要ではないのではないか、なぜそれが必要なのか、ということは、ちょうど 「光明一元」 であり 「唯神(ゆいしん)實相」 であり、 「實相独在」 であるのに、そこには暗(やみ)はないはずなのに何故 「人類光明化運動」 が必要なのか、 「人類救済の運動」 は必要ではないはずではないか、というのと基を同じくした疑問であると想われるのである。

 ここには、完全・完成なるものは創造してはいけないか、生長してはいけないか、というテーマが出て来るのである。

 完全なるもの、完成なるもの、すべてのすべてなるもの、即ち神は生長し、創造そのものであるというのが生長の家の観方なのである。

 完全だからこそ生長し創造するのである。その生長は無限の生長であり、永遠久遠の創造そのものなのである。

 完全であって、しかも無限の生長、創造が満足されている、まことの妙々なる相(すがた)こそが實相なのである。それ故、生長そのものが教えの名前となっており、聖経 『甘露の法雨』 の天使(てんのつかい)の歌い給う、はじまりが 「創造の神は」 という言葉ではじまっているのである。

  『創造の神』 とは、創造し給うた神であり、創造する神であり、久遠に、無限に創造しつづく神であることを意味しているのである。

 それ故、宇宙の大神イザナギの命(みこと)が實相の世界において禊ぎ祓い給うとは、完全なる神が、みずから生長し、創造し、自己展開することであり、脱皮を行うことであると拝察せられるのである。

 脱皮するというと、皮に当たる部分が不完全なる部分と解せられないこともないであろうが、實相においては不完全はなく、完全のみの純粋なる創造的持続あるのみなのであるから、皮もまた完全であり、光りであるのである。

 皮そのものが 「私は無いのです」 とのみずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものなのである。

 實在の、實相の世界における生長とは過去を否定することではないのである。あくまでも完成なるもの、完全なるものが生長するのであり、創造するのであるから、マイナスなるものはどこにも認められないのである。

  「宇宙の大神イザナギの命」 は未だかつて一度も汚れたることなしと、大神ご自身がご自分をよろこぶことが禊ぎであり、脱皮であり給うのである。

 蚕(かいこ)が繭(まゆ)を食い破って羽化登仙(うかとうせん)する、と言えども、蚕も繭も光りそのものなのである。蚕も繭も 「私は無いのです」 との、みずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものなのである。

  「宇宙の大神イザナギの命」 も畏くも禊ぎ祓いをされ、脱皮され、生長され給い、 「生長の家人類光明化運動」 もまたみずから、おのずから禊ぎ祓いし、脱皮し、大いなる生長をする荘厳きわまりなき時を迎えているのであり、それを新しき世紀を迎えるという一つの節目が誘(いざな)っているのではないかと拝察されるのである。(1998.8.10)

52復興G:2013/07/31(水) 06:51:34 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十二

『住吉大神宇宙浄化を折る神想硯』 において

  住吉大神(すみのえのおおかみ)出でまして宇宙を浄め給う
  あー、おー、うー、えー、いー、
  住吉大神わが日の本を浄め給う
  あー、おー、うー、えー、いー、
  住吉大神ここにあつまれるすべての人々の生命(いのち)を浄め給う
  あー、おー、うー、えー、いー

 と唱えるのである。 「宇宙」 と 「日の本」 と 「一人一人のいのち」 とはひとつであり、同じことの中身を別の表現をして唱えているのである。

 浄まるとは、元(はじめ)の元(はじめ)に還り、一つであることにほかならないのである。また、

 住吉大神すべて(又は宇宙)を浄め終りて
 天照大神出でましぬ。

 と唱えるのであるが、 「天照大神」 と 「住吉大神」 と 「全宇宙」 とはひとつなのである。ひとつであることが浄まっていることなのである。ひとつであって、多として展開しているのであるが、やはり一つなのである。

 入龍宮幽斎殿における神想観において、

  天照大御神(十回繰り返す)
  住吉大御神(  〃   )
  塩椎大御神(  〃   )

 と唱えるのであるが、 「天照大御神」 も 「住吉御大神」 も 「塩椎御大神にもひとつなのである。そして 「龍宮海」 も 「龍宮城」 も 「吾れ」 もひとつなのである。ひとつに還っていることが全身全霊が浄まっていることなのである。

 さらに、 「神の無限の智慧の海」 も 「神の無限の愛の海」 も 「神の無限の生命の海」 も 「神の無限の供給の海」 も 「神の無限の歓喜の海」 も 「神の無限の調和の海」 もひとつなのである。一つであることが 「如(にょ)」 であり、 「如意宝珠(にょいほうじゅ)」 なのである。それが如意自在のいのちなのである。

  「わが全身如意宝珠なり」 とは自分のいのちが 「天照大御神」 であり、 「住吉大御神」 であり、 「塩椎大御神」 であり、 「龍宮海」 であり、 「龍宮城」 であり、 「一切の宝 即ち全宇宙」 であることであるのである。
 聖典 『生命の實相』 に出て来る 「あるのである」 とは 「實在(ある)ので實在(ある)」 ということなのである。實在即ち 「渾(すべ)ての渾て」 が 「渾ての渾て」 しているところのひとつなるものの、浄まり切りたるものの、天国なるものの純粋なる創造的持続を表現しているのである。

 尊師谷口雅春先生は、よろこびの余り、 「……であるのである……」 と 「ある」 を無限に並べて、続け給いたかったのであろう。そして最小限の複数として止められたのであると拝察するのである。

 聖典 『生命の實相』 はひとつなる、絶対なるものの純粋なる創造的持続として文字が配列されており、一文字が、渾ての渾てであることの、浄まり切りたる聖なるものの鳴りひびきであるのである。(1998.8.11)

53復興G:2013/08/01(木) 08:00:40 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十三

  『神癒の展開としての人類光明化運動』 であるということは、その 「運動論」 、その 「運動方針」 を読むだけで神癒がもたらされる、ということを意味しているのでなければならないのである。

 その試みの第一歩として 『試論・波状光明化への道―わが内なる神に捧ぐるレポート―』 を試みたのである。

  「神癒」 とは如何なるものであるか。 「生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)」 を自覚したときに起こるところの 「よろこばしき何か」 であることを再びここで確認しておきたいのである。

 ここに全宇宙の神癒の現成(げんじょう)をすすめる運動である以上、全宇宙的 自性(じしょう)円満性を祝福礼拝出来る運動であることがその出発点でなければ、神の運動、すべてのすべてなるものの運動という訳には行かなくなるのであり、神癒の 「神」 が成り立たないことになるのである。

 尊師は 「既に神はすべてを救い給うたのである」 と言っておられるのであり、神ご自身は「はじめのはじめから癒やさなければならない世界は創造(つく)っていないのである」 と世界をあがめ給うているのであり、これが実相なのである。

 ここにまた再び、それならば何故に、 「人類光明化運動」 即ち 「地上天国建設運動」 が必要なのであるか、ということになるのである。むしろ、現象は無いのであれば 「地上」 もなく、したがって地上に天国を建設する運動も無いのではないか、ということになるのである。

 それはまことにその通り以上なのである。どのような姿であれ、無いものは無いのであり、無いものを無いとしたところに、実在があるのであり、自性円満の實相があるのであり、これは永劫に変わらざる真理なのである。

 それ故、實相の自性円満からのみ 「運動」 の意義は拝まれなければ、遂に 「神癒の展開」 即ち神なるものの運動とはならないことになるのである。

 そこに 「人類光明化運動」 「地上天国建設運動」 のみずからなる消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きを拝まなければならないのである。

  「人類光明化運動」 は、 「地上天国建設運動」 は “私は無いのです” との、みずからの消え切りであり、澄み切りの、よろこびの輝きそのものである、その聖なる姿に、相(あい)まみえなければならないのである。

 ここに 「人類光明化運動」 の、 「地上天国建設運動」 の 「筑紫(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相世界」 に於ける禊(みそ)ぎ祓(はら)いの姿を硯るのである。

 ここに 「人類光明化運動、人類光明化運動に非ず、是(これ)を人類光明化運動という」 「地上天国建設運動、地上天国建設運動に非ず、是を地上天国建設運動という」 態(てい)の、全宇宙的、全地上的神癒なるもの、神なる癒しそのものである、甦りそのものである運動の姿を先ず認めて出発することが出来るのである。

  『人類光明化運動』 という言葉、 「地上天国建設運動」 という言葉そのものが神であり天国であることを拝むのである。

 神癒は、ここに見よ、彼処(かしこ)に見よと、外に求めるものではないのである。白分が神癒そのものであり、世界が神癒そのものであり、 「人類光明化運動」 が神癒そのものであり、 「地上天国建設運動」 そのものが神癒そのものであるのである。

 それが生命の實相の自性円満を拝む、生長の家のあらゆる運動の、はじめであり終わりであり、すべてのすべてなのである。(1998.8.12)

54復興G:2013/08/02(金) 03:46:22 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十四

 光明にして光明なるもの。今にして今なるもの。此処(ここ)にして此処なるもの。はじめにしてはじめなるもの。渾(すべ)てにして渾てなるもの。在(あ)りて在るもの。

 暗(やみ)の要(い)らないもの。自分の要らないもの。限りそのものの無いもの。宇宙一パイの自由なるもの。

 神は今である。今でないものは神ではないのである。天国とは今である。今でない天国はないのである。完全とは今である。今でない完全はないのである。實在は今である。今でない實在はないのである。

 常に、常に、神は今ここ渾ての渾てである。

 神は癒しそのものである。神とは實相である。神とは 「現象無し」 である。

 今、幸せでない神は無いのである。

 神は今すべてのすべてであるが故に、神とは吾れの吾れなるものであり給うのである。

 聖経 『甘露の法雨』 にある 「されど如何に相(すがた)を現ずるとも……」 とは、如何に善と見える相を現ずるとも、今完全でないものは、それが宇宙的なまでの尊さの相に見えようとも 「仮相(かりのすがた)は永遠に仮相(かそう)にして実在となることを得ず」 なのである。

 今、完全がないということは神は無いということである。今ここに癒され切った世界が無いということは神は無いということである。

  「生長の家人類光明化運動」 は、神がおはじめになり、神が為し給うている運動である。完全なる癒しのみがあり、絶対の癒し、すべてのすべてなる癒しなるものそのもの即ち神が運動をおはじめになりて、癒しそのものが運動をしているのである。それ故、この運動は永遠久遠の運動なのである。永遠久遠なるものがおはじめになり、永遠久遠なるものが為し給うているのである。

  「元(はじ)めを元めとして、元めの元めに入る」 という古来からの言葉がある。元めが渾てなのである。元めとは神ということである。そして今ということである。なぜならば、神は渾ての渾てであり、神は今であるからである。

 神にはやり直しということは有り得ないのである。やり直しのない出発が 「生長の家の人類光明叱運動」 なのである。

 やり直しがないとは、神であり、實相ということである。

 神は 「そのままでよい!!」 と宣言されているのである。 「生長の家人類光明化運動の発進宣言」 とは、 「そのままでよい!!」 との神の宣言ただ一つなのである。

 「そのままでよい!!」 とは、まことの光りということである。

 「神、光りあれと言い給いければ光りありき」

 これが 「生長の家人類光明化運動」 の発進の宣言であり給うのである。それ故、生長の家は久遠の昔から在り、 「生長の家人類光明化運動」 も久遠の昔から在りつづけなのであり、天地(あめつち)と偕(とも)に窮(きわ)まりなかるべし、なのである。

 神には練習は有り給わないのである。神が 「光りあれ」 という練習をされ給うたであろうか。神が天地創造をされるに当たって、リハーサルをされ給うたということは有り得ないであろう。

 それ故、神の 「光りあれ!!」 との宣言によって発進した 「生長の家人類光明化運動」 には練習はないのである。ただただ偉大なる本番のみの純粋なる持続、完全の持続、天国の持続、完全なる癒しそのものの持続があるのみなのである。絶対の癒し、みずから癒しそのもの、みずから甦りそのものである 「人類光明化運動」 があるのみなのである。

 神には試行錯誤はあり給わない。それ故、神の宣言によって発進した 「生長の家人類光明化運動」 には試行錯誤は有り得ないのである。

 神は完全であり満点そのもの、天国そのものとして、前進し給うているのである。それ故、神によって発進した 「生長の家人類光明化運動の歴史」 は、満点の卒業の歴史であったということが出来るのである。斯く言い得るものこそ、まことにも、仮相(かりのすがた)に非ざる 「生長の家人類光明化運動」 なのである。(1998.8.13)

55復興G:2013/08/03(土) 04:58:25 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十五

 イエス・キリストが 「吾れは神の一人児(ひとりご)である」 と宣(の)り給うてはばからなかったのは、 「子」 であるのは自分お一人であって、自分を取り巻く、天地一切万物ことごとくが親様であるということを知ってい給うたからなのである。

 そこに親を観ずることの出来ることが、和解であり、調和であり、感謝であるのである。生長の家では 「神に感謝しても父母(ちちはは)に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」 と『神示』が天降(あまくだ)っているのである。

 父母は神の愛のあらわれそのものであり、神そのものであり給うのであるから、父母に感謝し得ないことは、神に感謝し得ないことと “ひとつ” ことであるから、神の心にかなわないのは当然以上の自然なことなのである。

 尊師がお悟りになった時 「明治二十六年十一月二十二日に母の肉体より誕生したのではなかった。そして、現在の今はじめて悟ったのでもなかったのである」 と、因縁上の母の胎内即ち母親そのものを否定され、何ものにも因(よ)ることのない、神なるものそのもののまことの自分に還られたのであった。

 そして 「神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」 と言い出されたのであって、父母が神よりも尊いものであると言い出したことになっているのである。

 そして、その時こそ、神が 「わが意を得たり」 と手を打って讃えられる、神ご自身のよろこびを感じられ、はじめて自分が神の心にかなったことを味われたのであった。

 それ故、その意味において、生長の家は宇宙最高の教えであり、ただ一つの教え(ひとり児)であることをよろこんではばからないのである。即ち、その宇宙最高という意味は、 「生長の家が宇宙一、父母をはじめ天地一切万物のそのままの、神の神なる尊さを知っている」 ということにおいてという意味なのである。

 釈尊の 「天上天下唯我独尊(ゆいがどくそん)」 ということにおいても、釈尊は 「山川草木国土(さんせんそうもくこくど)、有情非情(うじょうひじょう)」 の悉くのものの尊さを知っていることにおいて自分以上のものは有り得ないのである、という、はばからないよろこびがそこに表現せられているのである。

 それ故に、生まれてすぐに七歩あるいて 「天上天下唯我独尊」 と宣(の)り給うたお方が、その最高のよろこびの時の表現として 「山川草木国土 悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)、有情非情 同時成道(しっかいじょうぶつ)」 と言い給うているのであって、何故に、何において、どのような姿において 「独尊」 であるかがここにうかがわれるのである。

 その世界、そのいのち、そのよろこびをそのまま拈華微笑(ねんげみしょう)によって継承したのが迦葉であったのである。

 大勢いる弟子たちの中で、釈尊の拈(ねん)じた蓮華を見て、たった一人迦葉(かしょう)のみがその真意を解したのであった。

 しかしながら、これはこれでよいとしても、釈尊ともあろうお方が、たった一人しか悟らせることが出来なかったのであろうか。これでは釈尊の教化力が疑われることになりはしないであろうか。

 しかしながら、迦葉は釈尊の 「山川草木国土悉皆成仏、有情非情同時成道」 そのものの世界をそっくりそのまま受けとってしまったのである。それ故に迦葉にとっては、自分の周囲に居る弟子たちも山も川もすべてのすべてが仏であるその世界をそっくり受けとってしまったのであれば、まことに、迦葉一人で充分である、 “ひとつ” なる世界、中心がすべてのすべてである世界、天皇の六合照徹(りくごうしょうてつ)の世界を拝み奉り、その世界を生きた姿が拈華微笑の消息であったということが出来るのであり、たった一人で必要且つ充分であったということが出来るのである。

 イエス・キリストに言わせれば、迦葉は釈迦の 「一人児(ひとりご)」 であったのである。 「子」 は迦葉一人であり、迦葉をとりまく天地万物ことごとくが釈迦であり、仏であり、親様であったのである。

 この世界こそが 「ハイ」 の消息であり、それ故、迦葉に 「ハイ」 とこたえた阿難(あなん)は、 「それでよし!!」 とされたのである。

 ここに中心帰一の極みの姿があるのである。

 即ち、中心に帰一したならば、自分が中心となっているということである。それ故、 「中心帰一せよ」 とは無限の祝福として聴こえなければならないのである。

 何故、中心帰一が可能であるのか。自分のいのちが、中心より出でて、中心でありつづけているからなのである。そのことを 「ハイ」 と受けることこそ 「そのままの心を大切にする」 ことなのである。(2013.8.14)

56復興G:2013/08/04(日) 05:42:26 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十六

 釈尊より 「實相無相微妙(みみょう)の法門」 を伝えられたのが迦葉(かしょう)であったのである。その悟っている筈の迦葉が、いよいよ釈尊が入寂(にゅうじゃく)され給う時、床に伏している釈尊に、

「あなたは日頃、仏身の金剛不壊(こんごうふえ)なることをお説きになりますが、私にはただ病んで死のうとしているあなたしか見えません」

 という意味のことを言っているのである。

 そこで、釈尊は、月が山の端に隠れて見えなくなっても月は本当に無くなったのではない、そのごとく肉体が消滅して見えなくなっても、實相の自分は永遠不滅なのであるという 「月喩品(げつゆほん)」 をお説きになられたのである。

 この様子では、迦葉の悟りは大したものではなかったということになりはしないだろうか。それとも迦葉は、衆生の心を代表して質問しているのだろうか。

 生長の家の人なら、入信して間もない人でも 「ああ、釈尊は實相のことをお説きになっているのだな」 と解って、迦葉のような言葉は発しないであろう。

 釈尊ご自身にしてからが、お生まれになってすぐに七歩あるき給うて 「天上天下唯我独尊(ゆいがどくそん)」 と最高のお悟りのお姿であられたかと想うと、成人して 「生老病死」 について悩まれて、妻子を捨てて出家され給い、六年間苦行されたが悟りが開かれ給わず、 「苦行は悟りの因に非ず」 と苦行林を出られ乙女のさしだす一杯の牛乳を飲んだ時に、悟りが開かれ給うたということになっているのである。

 「天上天下唯我独尊」 と悟られたお方がどうしてあらためて出家する必要があったのであろうか。

 釈尊も、イエス・キリストも文章は書いておられないのである。生きるお姿そのもので道を説き示されたのである。
 それ故、釈尊は、もう一度、衆生にはじめから、悩んだ姿から、道を味わい直させようとされ給うたと拝察されるのである。

 イエス・キリストご自身も、 「ゲッセマネの祈り」 において、 「もし得べくば、この苦(にが)き杯(さかずき)を吾れより過ぎ去り給え、されど我が意(こころ)をなさんとに非ず、み心のままに為さしめ給え」 と最大の光りの姿を現し給うたかと想うと、十字架の最後に 「神よ、神よ、何ぞ、吾れを見捨て給うや」 と号泣し給うたのであった。しかも、それを超えて、三日目に甦り給うて、生かされていることを示されたのであった。

 このお二人に比べると、大聖師は沢山(たくさん)文章をお書きになっていられるのである。しかしながら、ある日私の神想観の中に拝された大聖師は

 「私は無いんだよ」

 と、みずからの消え切りの、澄み切りの、聖なるよろこびの輝きそのものであり給うたのであった。

 尊師は一行(ぎょう)もお書きにならなかったどころか、肉体を持って生まれ給うて修行され給うた姿もなかったのであった。著書みずからもその中に 「物質なし」 と書かれており、著書みずから消え切りの澄み切りであり給うたのである。

 一物も残さず、全くの消え切りの、澄み切りであり給うているのである。

 この尊師のお姿、この御著書のお姿そのものが、消え切りの、澄み切りの、聖なる輝きそのものの現成そのものであり、生まれるものなくして生まれ給い、示すものなくして示し給い、説くものなくして説き、聴くものなくして聴いているご講習会の聖なる姿をここに拝むのである。(2013.8.15)

57復興G:2013/08/05(月) 07:29:34 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十七

 聖典 『生命の實相』 の完結したころまでは、 「練成会」 も 「組織」 も 「聖使命会」 という言葉も全く使われていないのである。勿論 「聖使命菩薩讃偈(せいしめいぼさつさんげ)」 もなかったのである。勿論、政治運動もなかったのである。

 その時、その時において、表現の仕方が異なって来るのは当然のことなのである。根本の教えは不変のものであっても、時代が変化すると変化してみ教えがそこに写し出されると言うことであろう。

 さて、 「聖使命菩薩讃偈」 には 「己れ未だ度(わた)らざる前(さき)に、一切衆生を度(わた)さんと発願(ほつがん)修行する」 ところの菩薩のすがたが最上、最尊、甚深微妙(じんじんみみょう)と讃偈されているのである。

 自分が救われてから、他(ひと)を救うのではないのである。自分は救われていなくとも、他を救うことが運動の出発点とさえ想われて来たのである。自分が悟ってからではなく、他を先に悟らせる、ということである。

 しかし、 『生命の實相』 には、自分が先ず救われて、救われたとはどんな状態であるかが解らなければ、他(ひと)を救われた状態に導くことは出来ないのであって、めくらの手引きでは多勢を河に落としてしまうことになるのであり、生長の家の 「智慧の言葉」 に 「自分に深切であれ」 というのがあると、お説きになっていられるのである。

 さて、新しき世紀には、また新しき説き方というものが生み出される、ということは自然な流れであろう。

 その時代には、 「解っていないけれども伝える」 のではなく、神の子ははじめのはじめから完全であり、神そのものの相(すがた)であり、悟りそのものであり、救われていることそのものであるから、生長の家のみ教えと波長が合ってふれることが出来たのであり、解っているからこそ生長の家にふれることが出来たのであり、 『生命の實相』 が自分の中にあればこそ 『生命の實相』 にふれることが出来たのである。生長の家にふれるという運命さえ内なる、實相なるものが生み出したのである、という解釈から説いて行くということになって行くのではなかろうか。

 先ず頭で 『生命の實相』 を受け取り、それから胸のあたりで受けとめ、それから潜在意識の奥底で受けとり、いのちのどん底で実感して行くという順序は誰が決めたのであろうか。

 それは反対の順序であって、先ず、いのちのどん底にあるからこそ 『生命の實相』 なのであり、そのどん底にあるからこそ、それを讃えるために 『生命の實相』 があとから、その素晴らしさを映し出して呉れているのであるから、いのちのどん底のどん底なるものが先で、それが出て来て、最後に手で開いて頭で読むという姿が開花しているのである。

 チューリップが咲いているのを、もう一度球根にたたき込んで、もどさなければならないということは不自然なことである。それと同じことを生命の自然な花開きに対してもやってはならないのである。

 いのちのどん底のどん底とは、はじめのはじめということであり、神であり、實相ということである。實相を説いているのが生長の家であれば、解っているからこそふれられたのであり、どん底のどん底のいのちが先ずさきであって、聖典を開くということは、はじめのはじめなる、自分ではない神なるものの自己展開としてすべてはあるのであるという観方、讃え方で新しい人を迎えて行くという相(すがた)が新しい時代には展開されるのではなかろうか。

 解っているから教えに触れられたのであり、解っているから、運動をするのである。というよろこび方が基(もとい)になっての運動である。(2013.8.16)

58復興G:2013/08/05(月) 21:12:28 ID:AB6RqYXc

 訂正です。

>>55>>56>>57 の末尾の日付で、
(2013. ) とあるのは (1998. ) の誤りでした。
訂正し、お詫びいたします。

59復興G:2013/08/06(火) 06:04:07 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十八

 釈尊は 『発句経(ほっくきょう)』 の中で、

  「恨み心は恨み心では解くことは出来ない。恨みなき心のみが恨み心を解くことが出来る。これは永劫(えいごう)に変わらざる真理である」

 と説法され給うたと書かれているのである。

 しかしながら、 「お釈迦さんは、すぐに恨みなき心になれるからいいよ。その恨みなき心になれないから困っているのではないか」

 というのが多くの場合の受けとり方となっているのではあるまいか。

 そもそも 「恨みなき心」 というが、その 「恨みなき心」 なるものがあるのかどうか。また 「永劫に変わらざる真理である」 というが、そもそも 「永劫」 なるものがあるのかどうか、ということであるかも知れない。

 この問題は、實相ということが解らなければ、それこそ永遠に解くことの有り得ない問題なのである。

 「暗(やみ)を消すためには光りをつけることによってのみである。これは永劫に変わらざる真理である」

 しかしながら、人類は、暗を消してからでなければ、光りをつけること、お光りを頂くことは出来ない、という暗示にかかっていたのではなかろうか。

 そして、その暗(罪・迷い)を消すためにこそ宗教が必要である、というようなことになっていたのではなかろうか。しかし、それは、暗を袋につめて運び出して暗を減らそうとしているようなものであり、暗は一向に減らず、疲れはてて気がついてみると、袋の分だけ暗が増えている、ということになってしまっていたのではなかろうか。

 袋を開ける方法がわからなかったからである。また暗の中で、暗を入れた袋を開けて見ても、開けたという姿さえ見えないのである。

 そこに大聖師が出で給うたのである。そして、神は完全にして、はじめのはじめより今に至るも光りであり給い、よろこびであり給うのであるから、神の子もまた、はじめのはじめより、光りそのものであり、よろこびそのものであってよいのである、という大真理、を説かれ出したのである。そして、その真理そのものが、すべてのものの中にあったが故に、共鳴して、その本来の光りが光りし、よろこびがよろこびを輝いて、ここにいわゆる人類に恨み無き心のある生活というもの、光りを生きる生活が開かれたのである。

 総本山の落慶のとき、大聖師谷口雅春先生が 「如意宝珠観(にょいほうじゅかん)」 を先導され給い、その神想観中の説明の中で、

  「如意宝珠というのは、意の如く何でも顕わすことの出来る自在な神のいのちを珠(たま)にたとえたのであり、それを得たりということであるが、恨み心や、憎む心があったら、それが邪魔をして、それが出て来れないのです」

 と言われたのである。その時、私は 「その恨み、憎む心がとれなくて困って、最早(もはや)、人間の力では及ばないから、神(實相)に直接お出まし頂こうということで、その象徴として出龍宮顕斎殿を建立したのではないか。この説明では何も変わっていないではないか」 と想った時である。大聖師が、

「しかし、皆さん、今日からは、その恨み憎む心も、神様が除(と)って下さるのです」

 と言われたのであった。

 自分というものは無いのであった。神のみ、恨み無き、憎みなきもののみがあったのである。光りをつけるのも神がなし給うのであった。暗そのもの、憎み恨む心そのものが無かったのである。 “私は無いのです” とそれらみずからの消え切りのよろこびのみがあったのである。

 光明化の運動も神がなし給うのであった。世界の恨み、憎み心も神がとりさり給うのであった。(1998.8.17)

60復興G:2013/08/07(水) 06:18:49 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十九

 これから何をするとか、しないとかの前に、人間の存在そのものが、神であり、光明そのものであるという、人間存在の根本を決定したのが生長の家である。

 それ故、光明なるものと自分とがはなれていず、光明化運動と自分とははなれていない存在なのである。自分が世の光りそのものであり、自分が光明化運動そのものであるという生活が生長の家人の生活なのである。

 それ故に、一日の生活においても、この部分は光明化運動であるが、この部分はそれ以外である、というような、生活の中に光明化運動からはみ出た部分がないのである。それが 「聖使命菩薩」 の生活なのである。

「聖使命菩薩」 の 「聖」 とは 「ひじり」 であり、 「ひじり」 とは 「日がいちじるしく輝く」 という意味なのである。それは、何ものをもって来ても曇らせることの出来ない、日そのものであるのであって、一日の生活の変化によっては、わざわいされないところの、輝きっ放しの存在であることを讃嘆して付けられたのが 「聖使命菩薩」 という言葉なのである。

 一日の内に様々な姿をあらわして聖なるいのちは輝くのである。すべての人々のすべての姿は観世音菩薩であるとは、すべての人々の姿はそのままに尽十方無碍光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)にましますということである。無碍なる光りをさまたげる何ものもないのであるから、聖使命菩薩の一日の生活の中で、その輝きをさえぎるものは何ものもないのである。

 様々の姿をとって一日の生活を送るということは、その様々の姿そのものが、観世音菩薩の説法であり、方便説法であるということである。

 イザナギの命(みこと)が筑紫(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相の世界に禊(みそ)ぎ祓(はら)いをせられ給うたというのも、方便自在の説法であり、表現であるとみることが出来るのである。

 方便の方便たる所以(ゆえん)は、方便を表すものも、方便の姿も、言葉も、 「私は無いのである」 とのみずからの消え切りであり、澄み切りのよろこびの聖なる輝きそのものであるということである。

 説法者が消え切り、説法そのものが消え切り、言葉が消え切り、文章が消え切り、話を聴くものも消え切りであり、澄み切りの中に、忽念(こつねん)として生ずるよろこびの輝きの鳴りひびきが方便自在説法なのである。

 説くものなくして説き、聴くものなくして聴く、澄み切りの真空の中に妙有(みょうう)している姿こそが、智慧方便自在説法の現成なのである。

 イザナギの大神が禊ぎ祓いをされるはたらきが住吉の大神としてあらわれ給うていることは、如何にイザナギの大神が消え切りの、澄み切りのお姿の輝きであり給うかを表現しているのである。

 『古事記』 そのものが、方便的表現そのものであり、此の現象世界そのものが實相世界の方便的表現そのものであるのである。そして、 「私は無いのです」 とみずからの消え切りであり、澄み切りであり、よろこびの輝きそのものなのである。

 かつて、兵庫県の教化部(八祥(はっしょう)道場)を訪れた時、大聖師の初期のご揮毫(きごう)と拝察される横長の大きな御額を拝見したことがあったが、そこには

 「智慧方便自在説法」

 と書かれていたのである。

 ここに想われて来ることは 「生長の家人類光明化運動」 そのものが智慧方便の自在なる展開として出発しているのである、ということである。 「聖使命菩薩讃偈」 には、 「応化(おうげ)して仮りに聖姿を顕じ、広大の慈門を開き給えり、名づけて生長の家と謂う(い)」 と書かれていることは既に覚え書きした通りである。ここに 「聖の聖なる方便」 ということを拝ませていただくのである。(1998.8.18)

61復興G:2013/08/07(水) 06:26:49 ID:AB6RqYXc

訂正です。
× 名づけて生長の家と謂う(い)
            ↓
○ 名づけて生長の家と謂(い)う

62復興G:2013/08/08(木) 06:42:24 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十

「空中遊歩の神人」 とは、 「生長の家人類光明化運動」 の人格化した表現である。

 説くものなくして説かれ、伝えるものなくして伝えられ、聴くものなくして聴かれ、伝えられるのなくして伝えられる、消え切りの、澄み切りの、聖なる消息である。

 来たって来(きた)るところなく、去って去るところなく、過去、現在、未来にあらず、伝道はどの時点において行われるのであるか。

 過去・現在・未来に依らず、自によらず、他によらず、伝道はみずから伝道であるのである。在りて在る伝道。時空超脱(じくう ちょうだつ)、自他超脱の久遠の今。渾(すべ)ての渾てなる今ここに、みずから、おのずから鳴っている、輝いている伝道があるのである。

 自も無く、他も無く、時間なく、空間なく、伝道みずから消え切りの、澄み切りの聖なる輝きそのものである 「光明」 なるものの消息である。

 消え切りの、澄み切りであるが故に、久遠不滅なる 「光明」 がここにあるのである。

 ゼノンの運動の否定に依るまでもなく、運動自体が 「私は無いのです」 と、みずからの消え切りであり、澄み切りの聖なるよろこびの輝きのみがある 「空中遊歩の神運動」 が 「生長の家の人類光明化運動」 なのである。

 如何にして、ものが移動出来るか。運動が可能であるか。 『神誌』 は如何にして、こちらから相手に渡るのか。受講券は如何にして、自分から相手に移動し得るのであるか。

 ゼノンの “飛矢は飛ばず” ということから言えば、 『神誌』 は移動せず、 「受講券」 も相手に渡らず、ということになるであろう。

 五官の世界はみずから消え切りであり、時間も空間もみずからの消え切りである、實相の妙有(みょうう)において、一切がそこに巻きおさめられている 「久遠の今」 において、一時一切時、一処一切処、一仏一切仏、一即多、多即一、中心帰一の渾(すべ)ての渾てなる一より自在に放射し、顕わし得るところの真空妙有なるいのちの消息において、自と他とを結ぶ運動は運動として自在に成立するのである。時空超脱の實相、久遠の今においてのみ運動の成立は説明し得るのである。

 斯(か)くして、運動は成り立つことも自在であり、成り立たないことも自在であり、まことの意味において、運動自体が 「私は無いのです」 とみずからの消え切りであり、澄み切りの、聖なるよろこびの妙有なのである。

 神の運動であるということは、實相の運動である、ということである。その運動は實相においてのみ説明し得るということは極めて自然なことであるであろう。

 運動に参加することにおいて、

「吾れ神を選びしに非ず、神吾れを選び給いしなり」

 ということは、自分というものがあって、その自分を神が選びとられた、ということではないのであって、自分は無いということであり、神のみ渾ての渾てであるということでなければ、何の意味もないことである。そこにあるのはただ単なる激励の言葉があるのみなのである。實相生命に対して激励は不要である。ただ拝みのみがあるのみである。

 自分は無いということは、全現象界が無いということであり、實相のみ独在ということであり、神のみ在(いま)すということである。

 そもそも、 「神吾れを……」 という、その神が、神と言える神であり給うかどうか、ということである。全現象界(自分)の、みずからの消え切りなくしては、實相は無く、神もまた、神ならざる神となってしまっているのである。(1998.8.19)

63復興G:2013/08/09(金) 07:05:58 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十一

  「便所に宿る神」 ではなく 「便所が神なのである」 と大聖師のお言葉があった。

  「生長の家人類光明化運動」 は神が導き給うのではないのである。 「生長の家人類光明化運動」 が神なのである。

 また、 「生長の家人類光明化運動」 という言葉、文字そのものが神なのである。

 神は自己展開あるのみであり給うから、 「生長の家人類光明化運動」 そのものが生きものであり、みずから、おのずから自己展開するのである。

 神すなわち實相は、みずから顕れる力をみずからに蔵しているのである。

  「生長の家人類光明化運動」 のどこにも人間力は要らないのである。

 しかも 「生長の家人類光明化運動」 自体が 「私は無いのです」 との消え切りの澄み切りなのである。 「魚行きて水濁らず」 なのである。

 神社に神を祀るのではないのである。神社そのものが草木一本一本に至るまで神なのである。

 偶像崇拝とは、神でないものを神として拝むのであって、まことに神であるから神であるというのである。

  「生長の家人類光明化運動」 の運動方針そのものが神なのである。それが書いてある印刷物が神であり、一字一字が神であり、實在宇宙なのである。そして、それみずからが 「私は無いのであるしとの消え切りの、澄み切りなのである。

 「實相」 という御額そのものが神なのである。實相という字が實相であり、神なのである。實相という字は、實相を指し示す、シンボルではないのである。實相という字が、實相そのものであり、神そのものなのである。

 「生長の家人類光明化運動」 が神そのものであるということにおいて、 「吾れ神を選びしに非ず、神吾れを選び給いしなり」 ということは、 『吾れ 「生長の家人類光明化運動」 を選びしに非ず、 「生長の家人類光明化運動」 吾れを選び給いしなり』 ということなのである。

 自分というものはどこにも存在しないのである。自分はどこにも要らないのである。自分の要らない運動を聖なる運動といい、神なる運動というのである。

 「運動のみ渾(すべ)ての渾て」 と言い得るものであってこそ神の運動なのである。

 「神の外にあるもの無し」 とは 「運動の外にあるもの無し」 ということでなければならないのである。運動以外に自分というものが要るというのは神の運動、神なる運動ではないのである。

 運動と自分との分裂ということは有り得ないことである。運動が神であり、自分というものは無いからである。

 「神と偕(とも)に生くる」 とは、神のみが渾ての渾てであって、自分というものは無いということなのである。

 「無一物中無尽蔵(むいちぶつちゅうむじんぞう)」 とは、自分が無いということである。 「無一物」 の一物とは自分のことなのである。

 「生長の家人類光明化運動」 という言葉は、 「南無妙法蓮華経」 という言葉と同じように、言葉そのものが、神であり、渾ての渾てなのである。

 渾ての渾てなるものが渾ての渾てしている、完成なるものの純粋なる創造的持続が 「生長の家人類光明化運動」 なのである。

 それ故、達成されない 「目標」 というものは無いのである。 「目標」 そのものが神であり、渾ての渾てであり、 「目標」 以外にあるもの無しであるからなのである。 「願い」 そのものが神であり、神は渾ての渾てであり給い、成就そのものであり給うのである。(1998.8.20)

64復興G:2013/08/10(土) 02:53:37 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十二

 流産児用の霊牌(れいはい)は 『實相妙楽宮(じっそうみょうらくぐう)地蔵○○童子』 となっていて、○○のところに名前を書くことになっているのは周知の通りである。

 さて、○○に関して、男か女か解らない場合はどうしたらよいか。命日の解らないのはどうすればよいか。あるいは、血の塊が下りたが、あれは流産児であったか、どう判断すればよいか。あるいはブドウ児でも流産児となるのであるか。また、霊牌は何枚書くのがよいのか。という質問はあるが、この 「實相妙楽宮地蔵」 というのは、どなたが付けられ、またどのような意味であるのか、ということを質問に来た人に未だかつて一度も私は出逢ったことがないということは、まことに残念なことにすら想われて来るのである。

 祀り方についての悩みはすべて、祀られる人を神と観ていないところから来るということである。神であるという實相を観ないが故に、やり方によって、相手が迷うのではないか、あるいは救いを求めて、まつわりついて来るのではないか、というようなことにもなりかねないのである。

 聖経 『甘露の法雨』 を読誦すること自体が罪なき實相、すなわち 「犯されたる罪もなく報いらるべき罪もなきこと」 を読誦しているのであって、それ以外のことは何も書かれていないのである。

 現象的に見るならば、堕胎児は何故、堕(お)ろされる運命となったのか、前世で自分自身が堕ろしていた、その因果応報で堕ろされる運命となったということになるのである。同じ親に宿りながら、一方は生んで育てられ、一方は堕ろされるという、運命の差はどこにあるか、ということになると、現象(因果)を認めている限りは、前世に差があったからだということにならざるを得ないのである。

 それ故、親が、現象を認めて、自分が悪かった、悪かったと言っているだけでは、因果の流れから超出することは永遠に出来ないのであって、ただただ、悪いものどうしが親子となって波長が合って、お互いに 「すまない。すまない」 と雲と雲とがあやまり合って雲の生活を永遠につづけてゆく以外は有り得ないのである。永遠に青空太陽としての新しい出発は出来ないのである。

 今ここに神の造り給うた、殺し合いの永遠に有り得ない、罪を犯せていない、青空、太陽から出発するのが、聖経 『甘露の法雨』 の中に説かれている、真理の供養ということになっているのである 『實相妙楽宮地蔵』 という見方である。

 實相から観れば、殺した親もなければ、殺された子も無いのである。それ故、妙楽宮の 「宮」 は親の子宮とみることが出来るのである。現象を観れば、屠殺場であり、地獄であるはずのところが 「妙楽宮」 すなわち 「極楽の宮」 となって、針の先ほども汚れていない實相が拝まれているのである。また、地蔵とは、如来であり、大仏であり、前世で罪を犯したという不完全は、完全に払拭されているのである。

 ここに聖経 『甘露の法雨』 の中身と同じすがたが拝まれているのであり、そのために聖経 『甘露の法雨』 が誦(あ)げられるのであり、それでこそ、聖経とよばざるを得ないのである。

 すべてに今あてはまらない真理というものは有り得ないのである。何の問題をもって来ても、唯神實相への堅信はゆらいでいないのが、尊師のお姿であり、生長の家人の道なのである。(1998.8.21)

65復興G:2013/08/11(日) 07:09:29 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十三

 ある理事が大聖師谷口雅春先生に、堕胎児(だたいじ)のある母親で、罪の意識に圧倒されてノイローゼ状態になっている人が多々あるので、その人たちに対して、 「あまり執われることはないのです。むしろ、水子は観世音菩薩であって、こちらを守護して下さっているのですよ、という風に指導しているが、これでよいでしょうか」 という意味の質問をしたところ、大聖師は烈火の如くお怒りになった語調で、

「あなたは男らしくない。本当のことを認めないで、誤魔化して、事実を事実としてはっきりと認めないでいる。本当のことを知らないのならばノイローゼのままでいて苦しむ方がよいのです。本当のことを知らないのなら救わない方がよいのです!!」

 という意味のご返事であったことは、知る人ぞ知るところの有名なる大聖師と弟子とのメモの往復の事実である。

 しかしながら、 「本当のこと」 とは現象的な、 「堕(お)ろした」 ということなのであろうか。このメモの往復の中には、 「實相」 という言葉は一度も出て来ないのである。

 ここで大聖師がこのようなお言葉を吐かれざるを得なかったのは、この質問の中に 「實相」 という言葉が出て来ないことにあるのであると拝察するのである。

 現象無しであればこそ、實相独在であればこその 「罪なし」 なのである。ここに言われている 「本当のこと」 とは 「實相」 ということなのである。その 「現象無し」 を通さずに 「罪なし」 ということは絶対に有り得ないことなのである。

 なるほど、子供を十人、二十人堕ろした人でも、笑いの練習をし、神想観で 「もはや吾れ生くるにあらず、神のいのちここにありて生くるなり」 と感謝し、聖経 『甘露の法雨』 では 「犯されたる罪も無く報いらるべき罪もなきことを教えよ」 という言葉さえ頂くのである。

 しかしながら、これはすべて 「本当のこと」 を知ったからこそなのである。この 「本当のこと」 すなわち實相なるものを知らないままで、 「罪を犯しているけれども、気にしないで喜ぶ」 ということは絶対に有り得ないのである。なぜなら 「罪を犯せていない」 というその感じが 「喜び」 であり、 「感謝」 のもとであるからなのである。

 それ故に、 「本当のことを知らないのなら救わない方がよいのである」 「その方が早く本当のことに目覚める機会を与えたことになるのである」 と言われているのは自然なことなのである。

 「生長の家の偉大なる唯神(ゆいしん)實相の教えにより、實相は未だかつて、犯された罪もなく、報いらるべき罪もなき本当のことを知らされた私たちは、どのような人が現れても 『罪なし』 と言えることがどんなに、光栄なことであるか……」

 という感謝、礼拝の心をもって、指導させて頂けていることを先ず、述べるべきであったと私には想えるのである。

 尊師は實相抜きの話に対しては、實相抜きの話で応対されているのであり、弟子としては、自分の心だけの答えを頂いたというべきであろう。現象ありの質問に対しては、現象ありの答えしか帰って来ないのは自然なことであろう。もし 「實相」 ということにおいて、ということになれば、 「よし」 とのお答えに相まみゆることが出来たはずなのである。

 なぜならば、大聖師みずからが、

 『實相妙楽宮地蔵○○童子』

 として、拝み給うているからである。

 まことに、本当のこと(實相)を知らないままで救われるということの有り得ないことは永劫に変わらざる自然の自然なることなのである。(1998.8.22)

66復興G:2013/08/12(月) 08:06:03 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十四

 「『迷(まよい)』 は捉われの相(すがた)にして苦患(くげん)多し」 である。それは 「迷」 のことであって、實在なる吾れの吾れなるものとは全く関わりの無いことである。

 「迷」 それ自身で 「私は無い」 とみずからの消え切りであり、澄み切りの、よろこびの輝きそのものなのである。

 ただただ實在は實在であり、迷は迷である。ただそれだけのことである。それが 「そのまま」 なのである。

 神であり、實在である光明化運動は未だかつて、一度も迷と相撲をとったことも、罪、暗(やみ)と関わったこともないのである。それ自身、ただただ光りであるのみなのである。

 「光りは闇に照る。されど闇は光りを知らざりき」

 と聖書には録(しる)されている。闇は 「光りを知らざりき」 であるが、光りもまた 「闇を知らざりき」 なのである。

 なぜならば、闇は、みずからの消え切りであり、澄み切りであり、よろこびの輝きそのものであるから、ただただあるのは光りばかりであり、光りは光りを知るのみなのである。ただただ光りが光りしている光りの自己展開があるのみなのである。

「光明化運動は光りを知って暗きを知らず」 である。暗を知らないものを光明というのである。

 神が 「光りあれ」 と宣(の)り給うた時、暗の世界に向かって、暗の中で斯くコトバされ給うたのではないのである。暗も無い、その無しもない、ただただ神のみすべてのすべてなるその、在るものがただただ在るのみなる中で神は 「光りあれ」 と宣り給うたのである。神が光りを生み得たのは、神が光りであり給うたからなのである。はじめから在りて在るものを光りというのである。

 「神 光りあれ」 と言い給いて、発進したところの 「生長の家人類光明化運動」 は、そのコトバなる源より発して、光りの清水の澄み切りの大河となって今ここに自分のすべてとなって流れているのである。未だかつて一度も汚染されたることもなければ、せき止められたることも、よどんだこともなき、聖流の大河なのである。

 その本当の姿を、はっきりと観つつたしかめ、拝まなければならないのである。 「久遠を流るるいのち」 とはこのことなのである。大河のあるのを忘れて、細い溝のようなところに水を求めてさまよう必要はないのである。ただただ大河が今ここに、自分となって久遠に流れつづけていることを讃えなければならないのである。

 何かしら、大きなダムに満々と水がたたえられて、いつでも発電が可能な状態でありながら、そのダムの下で、手動の発電機をまわして電気を起こそうとしている姿はこっけいであり、勿体(もったい)ないことであると想わざるを得ないのである。

 満々とたたえられた水が 『生命の實相』 であるのに、それをそのまま電気に変えられるのを待っているのに、すでにすべては完成され用意されているのに、なにか、どこかで、手動の発電をまわしているような無駄で、勿体ないことをしてしまっているのではないか、というようなことが想われてならないのであるが、どのようなことがそれに相当しているのかは解らないにもかかわらず、やはりその想いは、有りつづけているのである。

 二十年も以前のこと、全国代表者会議にオブザーバーで出席したことがあったが、その年度の運動方針の前文の冒頭に 「新天新地の神示」 の冒頭が引用されていた。 「見よ、われ既に天地を新たならしめたのである」 という部分である。そして、世界の危機的状況が次に述べられていて、この重大なる時期に吾々の為すべきことは……という文章であったが、この重大な時というのが 「既に天地が新たになった」 から重大な時期なのか、世界が危機的状態であるから重大な時期なのか、ということを質問すべきであったか、と後で想ったことであったが、今も時々想うことである。何かダムの喩えの話と関係がありそうな気がしてならないのである。

 この 「覚え書き」 もまた 「私は無いのです」 との、みずからの消え切りの、澄み切りのよろこびの輝きの中で生まれ出ているのである。それ故、この 「覚え書き」 を書くものも、またお読み下さる方もこの輝きを味わいながら、であってほしいものである。

 「この覚え書きは無い」 と十回以上は心の内に唱えるようにした上で読んでいただきたいものである。そして、読まれている途中でも、なるべく、そのように心の内に唱えていただき、 「覚え書き」 みずからの 「私は無いのです」 という、消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きに浴していただきたいと念願するものである。

<つづく>

67復興G:2013/08/12(月) 08:06:49 ID:AB6RqYXc

<つづき>

 『試論・波状光明化への道』 の注釈書のようなものがあって、十年ぶりぐらいに読みはじめたところ、やはり、はじめに、

 「ここに書いていることは、私のとらえた生長の家であり、尊師であり、日本であり、天皇であって、それがそれそのものであるということは永遠に言えないことなのである。ここのところを 『生命の實相』 は 「物質なし」 と本みずから死に切って、自分の立場、とらえるものの側という一つの立場を死に切っているのである」

 と書いている。

 私は、この注釈書のはじめに、 「この本は無い」 と十回くらいは唱えてから読んで下さい、ということを書こうと想って原稿には書いたのだったが、どういう訳か、その頃はそれをはぶいている。やはり時期ではなかったのであろう。最近この 「覚え書き」 をするようになって、この注釈書を読みはじめたところで、もう一度考えてみようと想っているところである。

 「行(ぎょう)ありて、願(がん)なきは仏の魔事(まじ)なり」 という言葉があるが、 「願い」 とは、自分が無くなって、澄み切りたいという 「願い」 が最も深いところにあるのではなかろうか。そしてそのあらわれとして 「感謝がしたい」 という 「願い」 となっているのではなかろうか。

 練成を受けに来た人に参加の動機を書いて貰ったり、聴かせて貰うと、色々と述べられるのであるが、しかし、究極の 「願い」 は 「感謝がしたい」 ということであり、それが参加の動機であるということは間違いのないことであると信じているものである。

 感謝がしたくないものは一人も居ないのである。しかし、それに心がこもらないので困っているのである、ということになっているのではないかと想うのである。

 ここでいう心とは “まこと” ということである。 “まこと” とは 「丸ごと」 であり、 「全て」 であり、 「無限」 であり、神ということである。神であるということは、自分は無いということである。自分が要らないことである。

 無限力を発揮するというが、それは為した量によって言うのではないのであって、自分は無く、神のみ渾ての渾てであり、神がここに生きてい給うという、その神が無限なのである。無限とは限りとしての自分というものが無いことなのである。

 無限なるもの、神なるものが為し給うているが故に、形は有限、微少であっても、無限なるもの、自分なきもの、神なるものが生き給うているが故に、 「無限力」 なのであり、 「無限」 の尊さの中身があるのである。

 この 「無限」 「丸ごと」 「神なること」 「完全なること」 が 「まことがこもること」 即ち 「心がこもること」 なのである。

 「まこと」 と 「自分なきこと」 と 「心がこもること」 とは一つのことであって、現象無し、我無し、完全なる實相のみあり、即ち神のみ在(いま)すことである。このことを “こらえ” たり、我慢しないで求めつづけよ、ということこそ仏の魔事にならない道なのである。

 こらえたり、我慢するなということは 「神であること」 「自分無き澄み切りであること」 の 「願い」 をこらえるな、我慢するなという意味であると拝察されて来るのである。(1998.8.23)

68復興G:2013/08/13(火) 05:04:07 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十五

 「タバコを吸う」 ということは不自然なことである、ということは、物質なる外なるものに頼っているというところにあると想われる。しかしながら、 『生命の實相』 という、本という物質に頼ることもまた、同じように生命にとって不自然なことである、ということになるであろう。

 あるご婦人が 「薬を飲まなくても 『生命の實相』 を読んでいれば治る、と言われて、薬をやめて、読んでいますが 一向(いっこう)に治りません」

 ということであった。そのとき私は、 「あなたは薬は飲んでいないといいますが、 『生命の實相』 という本を飲んでいるのではありませんか」 と話したことであった。

 生命とは何か。それは、外からの助けをからず、内から展開、生長する智慧と力を備えているもの、ということが出来るであろう。草や木を見ても、外から教えた訳ではないのに、芽を出し、葉を出し、花を咲かせ、実を稔らせるのであって、内からの働きがここにあるのである。

 新幹線は大きな働きをするが、これは機械であるから、電線が一本切れれば死んだことになってしまうのである。

 これに反して、赤ちゃんは、母親から外に出て、臍(へそ)の緒を切って、外に何もつながらなくなった時 “おめでとう” となって、誕生したことになり、生命が出発すること、生命が生きることになっているのである。

 機械が外から助けられなければならないように、赤ちゃんも母親からお乳を貰わなければ生きて行けないではないか、と言うことになるかも知れないが、機械は、電気やガソリンを消化して、生かすことも全部外からの智慧によらなければならないのである。

 しかし、赤ちゃんは、どのように呼吸するか、どのようにしてお乳を吸えばよいか。それをどのように消化して栄養にするか、そして、それを適当に配分して、脳髄や内臓を形成してゆくか、この智慧と力は外から来たものではないのであって、百万人のお医者さんがよっても、本当の血液は製造することが出来ないかも知れないその智慧と力がはじめから備わっているのである。

 ただこれだけの話では、生まれつき不完全な働きしか出来ない赤ちゃんもあるから、その生命が完全なものであり、それが神のはたらきであるとは言えないのであるが、 「ある大いなる智慧と力」 がここには、はじめから備わってはたらいているということは言えるのである。

 もしも、神が完全であるならば、神は外から教えられるということのない存在であり、そこから生まれ出でている神の子の生命もまたはじめから完全である、ということは、事例、体験という一現象からは証明することは出来ないのである。体験というものは、過去の実験範囲内では、そうであったということにとどまるのであり、未来も永遠に必ずそうなるか、ということは保証してくれないのである。それ故、体験という現象に頼るということも、外のものに頼る不自然なことであるということであり、このような様々な生命に対する観方だからこそ、生命が生命として自然な姿で生きられなくなっているところに現代世界のストレスの根本があるのであって、その根本は、生命はみずから立っているという自然な姿をよろこぶことを忘れたところに原因しているのであると言えるのである。そこのところをはっきりと拝み得ているのが生長の家なのである。

 なるほど 「生命の實相は未だかつて、生まれたことも、タバコを吸ったこともないのである」 と 『生命の實相』 には書かれている。しかし、その實相が實相たるためには、 「生命の實相は未だかつて物質なる 『生命の實相』 という本を読んだことはないのである」 と言い得て、はじめて實相なのである。そこのところをはっきりしないと、どこかにタバコの煙のようなモヤモヤとした生命の出すくみがはじまるのである。(1998.8.24)

69復興G:2013/08/14(水) 05:34:02 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十六

 「本もの」 と吾々はよく、この言葉を使わざるを得ない時があるものであるが、それはどのような時に使いたくなるのであるか。また 「この教えは深い」 とか 「この教えは崇(たか)い」 とかいう言葉が思わず出て来るのはどのような時なのであるか。ということはいつもいつも私の中で繰り返している想いである。

 それはどのような時に人は発するのであるかの研究は別として、 「本もの」 であるとか、 「深い」 とか 「崇い」 とかということは、限りもなく、自分もそうでありたいと願わずにはおれないことであるということだけははっきりとしているのである。

 生長の家のみ教えについて 「本もの」 「深い」 「崇い」 ということは自然に出て来る想いであり、谷口雅春先生を 「大聖師」 とお呼びすることが自然なことであることも、まことにうれしいことであるにちがいないのである。

 本もの、とは實在するものでなければならず、實相そのものであることであり、既にはじめのはじめから在るものということであるであろう。

 そして、それは、はじめのはじめから在りて在るものであるが故に、自分というものの要らないものであるであろう。

 つまり、自分というものの要らないもの、自分というものの消えているもの、はじめのはじめだけがすべてのすべてであるもの、自分の無いものこそ 「本もの」 ということなのである。

 「深い」 とか 「崇い」 とかということは、如何に、はじめのはじめから、神が渾(すべ)ての渾てであり、それ以外にあるものなきこと、自分の要らないこと、自分は無いということを今、ここに味わい得せしめ得るか否かということにかかっているのである。本ものとは今ここにあるところのものでなければならないのであり、今ここにないものを 「深い」 とか 「崇い」 とか呼ぶことも不自然なことであり、有り得ないことである。

 神が渾ての渾てであり、神のみ在(いま)すのであるから、自分が無いのが自然であり、天然であり、法然であり、当然である。この自然、天然、法然、当然が、本ものなのである。

 「本もの」 とは 「本(もと)もの」 ということである。本とは、はじめのはじめであり、 「素(もと)もの」 であり、 「素のまま」 であり、 「神のまま」 である。

 「神のまま」 は 「今のまま」 である。 「今」 とは 「久遠の今」 であり、 「今なる久遠」 ということであり、渾ての渾てということである。

 それ故、迦葉(かしょう)が釈尊より 「本もの」 のいのちを受けとった時、渾ての渾てを受けとったすがたであったのである。それ故、迦葉一人でよかったのである。

 それ故また、 「本もの」 と言った時、そこに渾ての渾てなるもの、一つも残さずして、世界を込めて 「それでよい」 「そのままでよい」 という、はっきりとした、割り切れたものをいのちが感じた時なのである。神は渾ての渾てなる 「本もの」 にましますが故に、お一人でよいのであり、それを独神(ひとりがみ)と呼び奉るのである。

 天皇は 「本もの」 にましまし、お一人でよいのであり、それを中心と呼び奉るのである。(1998.8.25)

70復興G:2013/08/15(木) 08:10:47 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十七

 「神に隠るるもの」 という題名が心に湧き起こり、それを想って出て来た言葉をしばらくの間、書きつづけたことがあった。今再び 「神に隠るるもの」 という言葉がフトしたことから新たに想いにのぼって来たのである。

 「神に隠るる」 と言えども、神は天地のはじめのはじめより 「身(みみ)を隠し給いき」 であり給うのである。それ故 「神に隠るる」 とは、神はすでに身(みみ)を隠したまいて、みずからの消え切りであり、澄み切りであり給うのであるから、 「神に隠るる」 とは 「澄み切りに隠るる」 ことなのであり、澄み切りの澄み切りにあずかることなのである。

 澄み切りの澄み切りにあずかるとは、 「澄み切りも無い」 ということを受くることなのである。澄み切りみずからが 「私は無いのです」 と鳴りひびいているその鳴りひびきにあずかることなのである。あずかる自分もまた 「私は無いのです」 との消え切りの消え切りなのである。

 どこまでも、どこまでも、消え切りの消え切りであり、澄み切りの澄み切りなのである。

  朝みどり澄み渡りたる大空の
     広きをおのが心ともがな(明治天皇御製)

 大空が広いのではないのである。澄み切りが広いのである。澄み切りの澄み切りこそ広さの広さなのである。はじめのはじめであり、渾ての渾てなのである。

 何故 『聖使命菩薩讃偈(せいしめいぼさつさんげ)』 に、生長の家が 「広大の慈門(じもん)」 と録(しる)されているのであるか。 「広大の慈門」 とは 「澄み切りの慈門」 であるからである。 「光明化運動」 が 「私は無いのです」 とのみずからの、消え切りの、澄み切りであるからである。

 形のある澄み切りということは有り得ないのである。ここからここまでという区切りのある澄み切りということは有り得ないのである。

 「生長の家人類光明化運動」 は 「神に隠るる運動」 であり、 「澄み切りの澄み切りなる運動」 なのである。

 身(みみ)を隠す、澄み切りの澄み切りは、独神(ひとりがみ)の絶対の真性なのである。それ故、澄み切りの澄み切りなる 「生長の家人類光明化運動」 は 「絶対の運動」 なのである。

 絶対なるもの、澄み切りの澄み切りなるものを 「光明」 というのである。

 絶対なるものとは、完成なるものであるから、 「絶対の運動」 である 「生長の家人類光明化運動」 は 「完成なる運動」 であるということが言えるのである。

 それ故、生長の家の大神は 「完成(ななつ)の燈台の点燈者」 であり給うのである。 「完成の燈台の点燈」 としての運動が 「生長の家人類光明化運動」 なのである。

 「点燈」 とは如何なることであるか。すべてのものが 「完成なるもの」 であることへの祝福礼拝なのである。祝福するものなくして祝福し、祝福されるものなくして祝福されるのである。礼拝するものなくして礼拝し、礼拝されるものなくして礼拝される。ともに消え切りの消え切りであり、澄み切りの澄み切りである。澄み切りの澄み切りが、澄み善し、であり、住吉である。生長の家人類光明化運動は住吉の大神の運動なのである。

 自分をとりまく天地一切万物万象ことごとくが観世音菩薩である。観世音菩薩は尽十方無碍光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)であり、生長の家の大神にましますのである。即ち、天地一切万物万象ことごとくが生長の家の大神であるということである。このことを教えているのが生長の家であり、祝福礼拝ということの中身なのである。 「神に隠るるもの」 とは、すべてが生長の家大神であることをよろこぶもの、という意味なのである。(1998.8.26)

71復興G:2013/08/16(金) 00:10:48 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十八

 再び 「光明とは何か」 について。

 光明とは絶対に暗くならないものということである。五感で見ゆるものはすべて、点滅、消滅常なきものであるが故に、光明とは五感を超えた實相ということである。

 實相とは神であり、はじめのはじめから在りて在るものそのものなのである。

 外国に指導に行った講師の話によると、神想観の指導で、光りかがやく 「智慧の海、……」 と唱えることを話しても、 「どうして、海でなければならないのか?」 と言う人あり、 「自分は海を見たことがないから海と言われてもそれは出来ない」 という人あり、 「自分の知っている海は、大西洋の荒い波の海であり、それしか知らない」 という人ありで、仲々神想観に念ずる言葉を納得して貰うということだけでも至難なことであるらしいのである。

 そもそも、しかしながら、私たちは神想観をしてから生まれて来たのではないのである。はじめのはじめから、生きとし生けるものとして生かされて、生長しているのである。このはじめからあるところの 「生かす力」 を “ひかり” というのである。

 この光りは、 「神光りあれと言い給いければ光りありき」 の光りであり、神によってある光りであり、人間が念じて、観じて造り出すものではないのである。

 はじめのはじめから生かされていてよいのであり、生かされていることをよろこんでいると、そこによろこばしき明るきものがここに生まれて来るのである。

 光り、光り、神はひかりであり、すべては光りである。はじめのはじめから光りである。祈ってからでもなく、生まれてからでもなく、はじめのはじめから生かされていてよいのだということを想っている時、その時、 「人間は神の子であり、光りであり、神そのものである」 と言いたくなるのであり、その言葉の通りを受け取ることになるのである。 「ひかりですよ」 と言われて 「その通りである」 とはじめのはじめからあるところの内なるものが共鳴するのである。

 光りははじめからあるのである。神によりてはじめのはじめからあるのである。光りとは “ひとごと” ではなく、自分のことなのである。天地のはじめよりあるものを光りというのである。今、すでにあるものを光りというのである。

 それ故に、その人のいのちのはじめのはじめを礼拝し、祝福することによって、はじめなる、内なる光りが共鳴するのである。

 神想観は観法である。 「観る」 とは既にあるからこそ成り立つのである。既に、はじめのはじめより在るものとは神によりてあるものである。それ故、観は 「生かされている」 という感謝のよろこびがその中身なのである。すでにはじめより在り、生かされていたということのよろこびが光りなのである。

 「光りは東方より」 とは 「光りは当方より」 である。内なる、はじめのはじめよりあるものを当方と言うのであり、当方なるものを光りと言うのである。

 「招神歌(かみよびうた)」 で 「生きとし生けるものを生かし給える御祖神(みおやがみ)」 と言ったとき.すでに、はじめなる、当方なる光りで祝福されているのである。それは、念想によって描く以前のすがたなのである。生かされていることが先で、それを観じ、感謝するのが神想観であり、生かす力が光りであり、光りになるための神想観ではないのである。 「なるための」 というものは、永遠に光りであることは出来ないのである。(1998.8.27)

72復興G:2013/08/17(土) 00:36:21 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十九

「光明化運動」 は、運動それみずからが光りなのである。運動の成果以前において、それみずからが価値であるのである。

 生長の家の生き方は、生長の家そのものが光りであり、宇宙そのもの、即ち全存在である故に、 「生長の家の」 と言った時、既にそこに渾(すべ)ての渾てがあるのである。

 神の子人間は神そのものであり、生長の家そのものであるのが 「そのまま」 なのである。 「そのままは零(れい)なり、一切なり、○(まる)なり」 と 「 『生長の家』 信徒行持要目」 に解説せられているのである。

 今ここに渾ての渾て、なのが實相生命なのであれば、これからどう生くべきか、どう進むべきかの前に、今ここに渾てが満了されているのが本当の相(すがた)、即ち實在の實相なのである。これが 「今を生きる」 ということなのである。

 「今を生きる」 のが生長の家の生き方であり、 「未来を生きる」 ということは、そもそも有り得ないのである。生きるとは 「今」 しかないのである。今が生きているということが、生きることのはじめである。

 「天地(あめつち)は今をはじめとする理(ことわり)あり」 という。この 「はじめ」 とは、 「終わり」 に対する 「はじめ」 ではないのである。今、在(あ)ることのすべてのすべてを 「はじめ」 というのである。

 「はじめ」 「終わり」 を超越した、 「絶対のはじめ」 「絶対なるはじめ」 ということである。
とも
 「光明化運動」 の 「光明」 とは渾(すべ)ての渾てである、というのは、 「はじめにコトバあり。コトバは神と偕(とも)にあり。コトバは神なりき」 という、はじめとコトバと神とひとつであり、一切であることが光りであるからである。この光明が渾ての渾てであるということは、光明の中に渾ての渾てがあり、 「光明化運動」 の中に渾ての渾てがあることを意味していると言わなければならないのである。

 すべてに向かって 「光明化運動」 をするのではなく、 「光明化運動」 の中にすべてがあるのである。

 「神光りあれ、と言い給いければ、光りありき」 ということは、神と光りとコトバとはひとつであることを意味しているのである。神は渾ての渾てであり給うということは、コトバであり、光りであることを意味しているのである。その光りこそが 「光明化運動」 の 「光明」 ということなのである。

 「光明化運動」 というコトバそのものが神であり、渾ての渾てである以上は 「光明化運動」 は自分であり、自分そのものであり、自分と 「光明化運動」 とは離れていないのである。それ故、自分が存在すること自体が 「光明化運動」 そのものであり、生活において、 「光明化運動」 と、 「光明化運動」 でない部分との分裂はないのである。 「光明化運動」 が渾ての渾てであり、自分であり、それ以外に在るものなし、であるからである。

 今ここに渾ての渾てがあるのである。渾ての渾てがあるのを 「今」 といい、 「光明」 というのである。

 分裂は無いのである。分裂は非存在なのである。神の子は、生活において 「光明化運動」 からはみ出るということは有り得ないのである。自分と 「光明化運動」 とはひとつであり、 「光明化運動」 なるものの内に、世界があり、生活があり、渾ての渾てがあるのである。(1998.8.28)

73復興G:2013/08/18(日) 06:44:45 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十

 「住吉大神宇宙を浄め給う」 というと言えども、住吉大御神も宇宙も 「吾が内なる神の国」 として、吾が内にあり給うのである。

 「高天原(たかあまはら)に神詰まり坐(ま)す」 と言えども、高天原も、神もすべて吾が内にあるのである。

 「畏(かしこ)くも宇宙の大神イザナギの命(みこと)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相の世界にみそぎ祓いたまう」 と言えども、イザナギの命も筑紫の日向の光明遍照の實相の世界もすべてのすべては吾が内に在り給うのである。

 絶対なるもの、無限なるものが吾が内に在るのである。

 「絶対を吾が内に握っている」 というのが、まことの自分の自分なるものなのである。

 絶対無限なるものが吾が内にあると同時に、龍宮無限なる龍宮城の中に吾れが坐しているのである。

 神は吾が内に坐(ま)し坐すと同時に、その内なる神に抱かれているのが自分なのである。

 至大にして、至小同時現成實相妙有である。

 「神が私を生み給うたと同時に、私が神を生んだのである」 と言うものがまことの自分の自分なるものなのである。

「天地の創造(つく)り主(ぬし)にましまし、吾が生みのみ親に坐(ま)します神よ」 ということは天地の創造主であり、私を生んだところの、み親に坐します神よ、ということと同時に、天地の創造主にましまし、私が生んだところのみ親にまします神よ、ということなのである。

 親なる神を生んだのが妙有實相なる自分の自分なるものであるのである。これが妙々實相不可思議の境涯なのである。

 「如意宝珠観(にょいほうじゅかん)」 なる神想観において、 「龍宮城が近づいて来て、すっぽりと自分の中に入ってきて、そして、その龍宮城の中に自分が坐している」 と観ぜよ、とは、まことに入龍宮不可思議である。

 それ故、 「十方世界光明遍照、わが全身光明遍照……」 と繰り返して唱えているのは、吾が全身は勿論のこと十方世界も自分なのであるということなのである。

 十方世界も吾れであり、吾が全身も吾れであるならば、吾れは渾(すべ)ての渾てであるということなのである。吾れが渾ての渾てであるということは、対立なきものであり、相対にあらざるものであるが故に、無我ということなのである。

 「私は無いのである」 と消えて、澄み切っているというよろこびは、渾ての渾てであるよろこびということなのである。吾れが渾ての渾てであるということは、対立なきものであり、相対にあらざるものであるが故に、無我ということなのである。 「私は無いのである」 と消えて、澄み切っているというよろこびは、渾ての渾てであるよろこびであったのである。

 まさしく、無我ということが無限ということであり、無限ということが無我ということであるとはこのような中身を言っていたのである。

 「すべてを放(はな)ったとき、全實在宇宙は掌の上に乗る」 と大聖師がお示し下さっているということは、全存在、すべてのすべては手の内にあること、即ち、吾が内にあることを表現されているのであると拝察させて頂くのである。

 放つとは如何なることであるか。自分の要らない、はじめのはじめ、既にあるもの、即ち内なるものを受くることなのである。自分がこうした、ああしたということの全く要らない、自分そのものの要らない、はじめのはじめを受くることである。

 自分が為したという過去の成績という外を無しとして、内のみ渾ての渾てとして、今、ここに、はじめのはじめを受くることなのである。放つということは、はじめに帰るということなのである。はじめのはじめなるものが、はじめのはじめに帰ることが放つということなのである。(1998.8.29)

74復興G:2013/08/19(月) 06:52:11 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十一

 無限、絶対なるもの、即ち神が自分の内にあり給うとは、無限よりも、絶対なるものよりも大きいものが自分であるということは、まことに矛盾したことにはちがいないが、それが何ら矛盾なく、澄み切りであるということが入龍宮不可思議なのである。

 それ故、吾れの吾れなるものは、外から見られている存在ではないということである。監視されているということは、生命にとってはまことに不自然きわまりなきことなのである。すべては自分の内にあり、自分の自分なるものは、全存在すべてを生み、創造し、それを見護っている方なのである。

 たえず、たえず、視られているという感じは、生命が不自然すなわち浄まっていないこと、汚れていることであり、解放、生長の反対なる拘束であり、後退であり、萎縮となるのである。

 さて、組織を形成し、数の概念を導入して、運動の進展の状況を測定し、統一するための価値基準とすることに対して、何かそこに違和感が発生せざるを得ないということがもしあるとすれば、それは、組織内にいるものが、たえず、監視され、測定されているという感じを持たざるを得ないのであり、そこに生命の本質である開放と生長の反対なるものを観じざるを得ないからであると言わなければならないのである。

 だんだんと冷え冷えとしたものを自分にも周囲にも感じはじめた時、 「あの入信当時のよろこびはどこに行ったのか」 とつぶやきはじめるが、監視の目を感じてそれを言おうと想っても、それを言えなくなっているのに気がつくのである。

 しかし、生長の家は、現象無し、五官の世界なしの宣言の時から、すべては取り払われているのである。このようなものを取り払ったところから生長の家は出発しているのである。そのような怯(おび)えさせ、そしてその故にちぢこまらなければならない幽霊なるものはどこにもなかったのである。

 『生命の實相』 の中に、ある熱心なキリスト教の牧師が、神様に約束した人数の聴衆を集めることが出来なかったので、神様に申し訳ないと言って、ノイローゼになっているという話に対して、それは数という外(現象)の成績に頼っているからであって、イエスは、外に頼らなかったところに偉大さがある、ということが説かれているのである。

 このことから拝察しても、生長の家は祝福礼拝こそあれ、監視したり、恐怖させるものの影におびえなければならないなどということはどこにも教えていないのである。

 知らず知らずの内に、この亡霊即ち監視の目なるものが現れていたのである。そしてそれを後生大事にその前に拝脆(はいき)していたのではなかったか。

 そして、自分の中のあるものに、それを納得させようとして、それに理由を申し上げて頭を下げて、納得してもらおうとしていたのではなかったか。

 そんなものは無いのである。納得するものもなければ、納得してもらわなければならないようなものなど、何一つなかったのである。

 「天地(あめつち)の創造主(つくりぬし)であり給う神」 を生んだのが自分であり、斯く言えば、わが内にありて神が手を打って 「さすがわが世嗣ぎよ!!」 と賞(め)で給う荘厳きわまりなき神の大愛の中に浴しているのが生長の家人なのである。

 神の子が 「生みの親」 となる時、これを成人した、というのである。 「稚心(ちしん)を去る」 とは、このことであったのである。それがまことの 「今起て!!」 の御声として大聖師は聴き給うたお姿であったと拝察するのである。

 二十一世紀を 「生長の家人類光明化運動」 の成人の時としたいものである。稚心をはなれて独り立ちする時が来ているのである。(1998.8.30)

75復興G:2013/08/20(火) 03:45:04 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十二

 再び 「畏(かしこ)くも宇宙の大神イザナギの命(みこと)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相の世界にみそぎ祓(はら)いたまう」 ということについて。

 實相の世界には禊(みそ)ぎ祓わなければならないような汚(けが)れは無いのではないか、というのは、やはり不完全が實在していると見る習慣にわざわいされているのである。そして、イザナギの命(みこと)ご自身もまた汚れているのではないかとの見方によるのである。

 それはちょうど、完全円満な實相には生長というものはないのではないか、ということとも似ている問いであると想われるのである。

 完全円満なる實相にも、禊ぎ祓いはあり、生長もあるのである。

 無いものを無いとするのが浄めであり、禊(みそ)ぎ祓(はら)いなのである。それ故、 「實相の世界にみそぎ祓いたまう」 とは 「實相も無い」 ということを宣言することなのである。そしてその 「實相は無い、ということも無い」 と、どこまでもどこまでも放(はな)って行くことが禊ぎ祓いなのである。

「實相、實相」 と實相さえも把(つか)んではならないという、最も深く、崇(たか)い放ちをされている故に 「畏(かしこ)き」 ということであり、この禊ぎ祓いは 「畏き禊ぎ祓い」 なのである。

 どこまでもどこまでも放ち、捨てて行くことに、 「畏さ」 があり、 「崇さ」 があるのである。

 宇宙自体もまた、自分で自分を放ち、捨て、 「私は無いのである」 と、みずからの消え切りの澄み切りであるのであって、それが 「畏き宇宙」 ということなのである。そこにあるのは 「畏き生長」 であり、 「崇き生長」 なのである。

 「有るものは皆吹払(ふきはら)え大空の、無きこそ元の住みかなりけれ」

 との黒住宗忠の歌がある。そして、

 無きこそ元の住家なる、その

 「無きものも皆吹き払え大空の無きの無きこそ元の元なれ」 (榎本)

 と、どこどこまでも、元に帰る生長というものこそイザナギの命(みこと)の禊ぎ祓いであり、生長であり給うのである。元の元こそ生長の本体なのである。そこに 「そのまま」 があるのである。

「そのまま」 とは 「素のまま」 であり 「もとのまま」 であり 「元のまま」 即ち 「神のまま」 なのである。神は無限創造であり、無限生長であり給うのである。

 完全円満なる實相それ自身の展開としての禊ぎ祓いということである。

 完全円満なる唯神實相独在の世界に何故、 「光明化運動」 が必要なのであるか。それは光明それ自身の展開としての運動であるのである。この 「化」 というのは 「展開」 ということなのである。實相は無限の創造であり、生長であり、展開なのである。

 「光明化運動」 は単なる、實相をこの世に写し出す、影を生み出す運動ではないのである。光明すなわち實在それ自体の自己展開、価値創造として存在するのである。

 實在であることは、神であることであり、それ自体で不滅の久遠の自己展開そのものであるということであり、 「光明化運動」 は久遠不滅の自己展開それ自体である “生きもの” であるということなのである。

 斯くの如き、生長、創造それ自体であるものを光明というのである。 「光明化運動」 がみずから 「光明化運動」 を実現するのである。自分というものはどこにも要らないのである。(1998.8.31)

76復興G:2013/08/21(水) 09:08:20 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十三

 光明遍照の實相世界においてのイザナギの命(みこと)が光明であれば、禊(みそ)ぎ祓(はら)いの水も光明であるのである。光明が光明する暗(やみ)なき禊ぎ祓いなのである。

 すなわち、暗(やみ)を知らない 「光明化運動」 なのである。 「光明化運動」 は未だかつて一度も暗と出会ったことはないのである。

 「化」 は 「人」 と 「ヒ」 であり、 「人」 は 「日止(ひと)」 であり 「日」 そのもの光りそのものであり、 「ヒ」 は 「日」 であり光明そのものなのである。

 「暗」 もまた実は 「日」 と 「音」 であり、 「日」 は光明そのものであり、. 「音」 は 「立っている日」 であり、光明そのものであり、そこには 「光明」 しかないのである。 「光明」 のみがあるのが本当なのである。 「やみ」 があるという目で見るから 「やみ」 があるように見えて来ているだけなのである。 「やみ」 とは 「無い」 ということの別名にすぎないのであって、 「無い」 ものは 「無い」 のである。

 むしろ 「暗」 という字は 「日」 が二つも輝いているに反して 「明」 という字は 「日」 は一つしかないのであって、どんなに 「くらい」 と見ゆるものも、倍した明るさがあるということなのである。

 これは 「暗(やみ)」 は夜明けを暗示するものであるとの見方とは違うのであって、 「暗」 そのものが 「明」 の二倍の明るさそのものである、 「今」 というものを表現しているのである。

 これはまた 「やみ」 によって引き立てられるところの相対の 「光明」 ではないということである。ただただそこには光明のみがみずから立っているのみなのである。

 「やみ」 があって、はじめて意義をもつという 「光明化運動」 ではないのである。 「光明化運動」 はみずから立っている 「光明化運動」 なのであり、どこにも 「やみ」 を必要としないのである。 「光明化運動」 そのものが神そのものであるからである。

 神は何故光明であり給うのか。光明であるから光明なのである。理由づけされる必要はないのである。原因、理由というものによってささえられる必要なく、みずから在(あ)りて在るからこそ光明なのである。

 「光明化運動」 は原因、理由は要らず、意義づけも何も要らずして、みずから在りて在る、みずから立って在る、みずから立っている運動なのである。

 「今」 立っているのであって、原因、理由が先にあってその後に生まれるということではない、みずから立っている光明なるものが立ったのが 「今立つ!!」 ということであったのである。それは 「光明化運動」 みずから立ったことなのである。大聖師谷口雅春先生の御いのちそのものが 「光明化運動」 であり給うたのである。

 「神光りあれ」 と言われた後、ある時間の経過の後に光りが生まれたのではないのである。そこに時間は無いのである。

 時間の無いのを 「今」 というのである。神も光りも 「今」 なのである。神に原因されての光りではないのである。神が 「今」 光りそのものなのである。存在するということと神であるということとは實在においては一つなのである。そこには時空のへだたりは存在しないのである。

 神であるからこそ光りであり、光りであるからこその神なのであり、生むものと生み出されるものとの相対関係はないのである。相対そのものが光りではないのである。絶対なるもの、みずからすべてのすべてなるものを光りというのである。それ故、 「光明化運動」 は渾ての渾てなのである。即ち神なのである。(1998.9.1)

77復興G:2013/08/22(木) 00:05:33 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十四

 「写経」 というのがあり、入龍宮幽斎殿に於いて聖経の筆写が行われているのであるが、生命の本当の姿の鳴りひびきを筆写され給うた、その第一、最大の写経なるものが、聖典 『生命の實相』 であり、聖経 『甘露の法雨』 ほかの生長の家の聖典であると言わなければならないのである。

 それ故、この筆写なるものと出逢う時、こちらもまた写経したくなるのである。聖典、聖経は、他人(ひと)ごとではなく、自分自身そのものであるからなのである。

 生きとし生けるものとして生かされてあることが先であって、その生かされている姿を写し給うて歌われたのが 「招神歌(かみよびうた)」 なのである。事実が先であって、それが写されるのである。

 雨が降るから傘をさすのである。傘をさすから雨が降るのではないのである。雨にもよおされて傘が開くのである。完全円満平等遍満の實相生命がはじめのはじめから、既に、今ここに輝いているのが先であって、それを讃え給うているのが聖典聖経なのである。

 呼吸も、久遠の流れ入りがありつづけているから吸うのである。流れ入るから吸うのであって、吸うから流れ入るのではないのである。 「神の無限の生かす力吾が内に流れ入るのを観(み)つめ観送る」 ということは、自分ならざる、はじめのはじめからありつづけている流れ入りの相(すがた)の消息なのである。

 神想観は観法なのである。観(かん)ずることの出来るのは、既に在るからなのである。在るのは、はじめのはじめより神によりて在るのである。即ち、すべては生かされて在るのである。それ故に、観法は感謝なのである。神想観の結論は感謝である、ということは、観法であることの意味をもつのである。

 その感謝から、よろこびに満ち、光りに満ちて、コトバを創造的に発する時、 「祈り」 即ち 「命宣(いのり)」 となるのである。その故に、神想観は 「観法」 であると同時に 「祈り」 であると言われているのである。

 感謝はすでに在(あ)るものを味わうこと観ずることによってのみ起こるのであるから、ノイローゼは感謝が出来た時、既に無いのである。ノイローゼは本来無いものを相手にする姿であるから、感謝が起きたとき、在るものにふれ、地に足がついたことになるからである。

 即ち、 「生長の家人類光明化運動」 は、實相なるものの上に立った 「観」 なるものを基(もとい)としていることによって、ただ単なる世界の時勢への取り越し苦労ではなく、一瞬一瞬みのりのある歩を進めているところの荘厳な相(すがた)となっているのである。 「愛行は虚(むな)しからず」 ということである。

 斯くの如く、 「観」 なるものを基としないとき、その行は、釈尊の宣り給うた如く、 「諸行無常(しょぎょうむじょう)」 の行となってしまうのである。生長の家では 「招神歌」 を唱える時、すでに實(じつ)のある真行となっているのである。

 生長の家の観からすれば、中身なる實相(まこと)が先にあって、實相(まこと)が、みずからおのずから顕れ出て来て行となっているのである。

 「實相円満完全」 と唱える時、實在なる實相の円満完全なる中身が先であり、その円満完全なる實相がみずから、おのずから顕れて 「實相円満完全」 と鳴りひびいて輝いているのである。

 如何にすれば、行(ぎょう)にそして人類光明化運動に 「まこと」 がこもるかということは、まことに尊くもある重大なる、且(か)つ厳粛なるテーマであると言わなければならないのである。(1998.9.2)

78復興G:2013/08/23(金) 07:02:27 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十五

 「生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚する」 とは、自性(じしょう)円満なるもの、そのままえんまんなるものにとっては、そこにある 「自覚」 とは、自性円満なるものの中にすでにあるものの自己展開したものでなければならないのである。

「自発的」 という場合の 「自発」 なるものは、自性円満なるものの、自(みずか)らの展開ということでなければならないのである。

 ひと昔、後に本部理事長をされた山口悌治(やすはる)先生は 「自発的活動態勢」 という言葉をよく使われたものであった。

 この 「自発」 というものが生命の實相の 「自性(じしょう)」 ということであったのである。その自性円満を自覚するところに神癒なるものが存するのであれば、 「自発的活動態勢」 と仮に言うとすれば、それは神癒の展開としての人類光明化運動から出て来た言葉であったと言うことになるのである。

 自発なるものは、求めるのではなく与える相(すがた)なのである。与える生活ということの根本は、外に求めることの要らない存在、ということが根拠となっているのである。ここに奉仕ということの根拠があるのである。自性円満なるものこそ与えるということそのものの相(すがた)なのである。

 これから何をするしないの前に、今、存在していること自体が与えている存在なのが自性円満ということなのである。

 「光明化運動」 的に表現すれば、存在していること自体が “世の光り” であるということなのである。いわゆる 「聖使命」 の 「聖」 なる存在、 「ひじり」 即ち 「日がいちじるしく輝いている相(すがた)」 なのである。そのいのちを拝んでつけられたのが 「聖使命」 なのである。それが實相であり、實相のみの世界なのである。

 そのいのちは、神からさえ求める必要のない存在なのである。吾が内に神あり、神の内に吾れ在り、吾れはすべてのすべてであるところの存在なのである。

 「如意宝珠観(にょいほうじゅかん)」 なる龍宮観において、創造の本源世界、龍宮海の龍宮城が自分の内にすっぽりと入っていることを観ずる場所である入龍宮幽斎殿的見方をすれば、宇治というのは宇宙を治めるということではなく、 “宇宙が既に、自分の内に治(おさ)まっている” ということを観ずるところが、宇治別格本山の入龍宮幽斎殿であるということなのである。創造とは与えることそのものである。その本源が自分の中にすっぽりと治まっているのである。

 至大無外、至小無内なる全實在宇宙が吾が内に在(あ)りというものこそ、聖なるものであり、与えるものであり、自立なるものであり、自足なるものであり、奉仕なるものなのである。それが自発の自発なるものなのである。

 「自覚」 とは、自(おの)ずから覚める、と書かれているのである。自性円満、そのままでえんまんなるものが、みずから覚めるとは、自己展開することである。それ故、自性円満なるものが自覚そのものなのである。

 自覚とは時間を要する遠いところにあるのではないのである。みずからの自性円満の實相こそが自覚そのものなのである。

 イザナギの命(みこと)が實相の世界で禊ぎ祓いをされ給うたというのは、自性円満の實相そのものを自覚し給うたこと、即ち、自性円満の實相なるものがみずから展開したことを意味しているのである。

 イザナギの命の自性円満なる實相が自己展開して天照大御神となり、住吉大御神となり、塩椎大御神となり、 「生長の家人類光明化運動」 となっているのであり、これらは一つの相(すがた)なのである。

これらはすべて自性円満なる實相の自覚の相(すがた)、すなわち神癒なるものの相なのである。自分自身のことなのである。これすべて、入龍宮出龍宮不可思議(にゅうりゅうぐうしゅつりゅうぐうふかしぎ)の境涯なのである。(1998.9.3)

79復興G:2013/08/24(土) 08:14:18 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十六

「天地(あめつち)の創造主(つくりぬし)にましまし、吾が生みのみ親にまします神よ。只今神癒祈願(しんゆきがん)申し込み中の方々に、生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚せしめ給いて、神癒を実現せしめ給え」

 と、自分は神癒を祈る時に唱えることにしている。

 それは 『生命の實相』 第一巻の本論の冒頭に

「生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります」

 と書かれているからである。あらゆる神の癒しという癒しはすべて、生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚することによって実現しているのである。

 自性円満の自覚によるのであって、不完全の自覚、罪の自覚によってではないのである。

 神癒の展開として生長の家人類光明化運動がある以上は、生命の自性円満の自覚運動であるのがこの運動なのである。

 そのままでえんまんなこと(自性円満)の自覚のひろまることが、光明化運動(自性円満)がひろまることなのである。

 實相の自性円満はそのままでえんまんなことにおいて、自ら目覚めて自覚となって展開し、一切の光明化運動の相(すがた)となって花咲いているのである。

 自性円満の自覚と言えども、その自覚も神が為し給うのである。實相の自性円満とは神であり給うことである故に、人間力の入る余地はいずこにもないのである。

 神自(みずか)らの目覚めとしての自覚として神癒があり、人類光明化運動がありつづけているのである。その自覚は久遠の昔から在りつづけている久遠の自覚なのである。

 久遠を流るるいのちの自覚こそ久遠の生長の家人類光明化運動なのである。神がおはじめになった運動とはこのことである。神は渾(すべ)ての渾てにましますが故に、自分の全く要(い)らないのが、神がおはじめになった運動なのである。

 既に完成している實相なるものの運動である時、はじめて、はじめのはじめから自分というものは消えている運動となっているのである。

 自分がいて、自分が支えてやらなければならない、というような運動は、我(が)の運動であって、神の運動、感謝の運動ではないのである。それはもともと無い運動だったのである。そんな運動であったためしのないのが生長の家人類光明化運動なのである。いのちが久遠に流るる運動なのである。

 生長の家の運動は感謝の運動であるということは、神がすべてのすべてであり給う運動であるということなのである。

 それはまた、神癒の運動であるということにおいて、神が癒しそのものである運動であって、ここにもまた自分の必要はどこにもないのである。

 自分なるものは未(いま)だかつて生長の家の運動をしたことは一度もなかったのである。自分そのものが無いからである。

生長の家の人類光明化運動は、天地(あめつち)の初発(はじめ)の時のまま、 「今」 をはじめとする天地(あめつち)のはじめに、神と偕(とも)にあったそのままの相(すがた)で、今ここに輝きつづけ、広がりつづけなのである。

 久遠を流るるいのちの 久遠を流るる人類光明化運動よ。(1998.9.4)

80復興G:2013/08/25(日) 07:25:16 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十七

 大調和という時、あるいは大懺悔(だいざんげ)、あるいは大祭(たいさい)等々という時、 「大」 とは何を意味しているのであるか。

 それは神が為し給う、神によりて在(あ)り給うところの自分の要(い)らない消息を意味しているのである。それ故、はじめのはじめから在るものであり、途中から決して無くなることのないことを意味しているのである。

 神によりて在るところの懺悔とは如何なるものであるか。神は罪を犯し給わない故に、暗(やみ)なる罪を消すという意味での懺悔というものはあり得ないことであるが故に、大懺悔とは、光りが光りすることでしか有り得ないのである。それを仏教では 「無罪相(むざいそう)懺悔」 ともいい、また 「荘厳(そうごん)懺悔」 とも言い、 「破壊心識(はえしんしき)」 ともよんでいるのである。

 「罪は無い」 ということが無罪相懺悔なのである。罪自身が 「私は無いのです」 とみずからの消え切りの、澄み切りであり、そこにはただただ神のみが渾(すべ)ての渾てなる荘厳なる相(すがた)があるばかりであるが故に、 「荘厳懺悔」 と言うのである。

 「破壊心識」 とは、心識すなわち自我意識がみずから無いと、みずからを破壊して、消え切りの澄み切りであり、神のみ渾ての渾てである相(すがた)である。即ち、これ大なるもの神なるもののみであるが故に、大懺悔と言うのである。

 「畏(かしこ)くも宇宙の大神イザナギの命(みこと)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相の世界にみそぎ祓(はら)いたまう」 とは、大懺悔中の大懺悔であり、全宇宙そのものの大懺悔であると言えるのである。

 その大懺悔のはたらきが住吉大神となってあらわれて、神癒の展開としての生長の家人類光明化運動となっているのである。それ故、生長の家人類光明化運動は宇宙みずからの大懺悔運動であると言わなければならないのである。

 「住吉大神宇宙浄化を祈る神想観」 とは大宇宙みずから、住吉大御神みずからが為し給う祈りであり、みずから為し給う大懺悔であり、大宇宙みずからの輝く鳴りひびきとして 「アーオーウーエーイー」 が唱えられているのである。

 「住吉大神宇宙を浄め給う」 と唱えている時、住吉大御神ご自身が自分となり、この声となって鳴りひびいてい給うということなのである。

 「生長の家人類光明化運動」 は生長の家の大神、それ自体のみずからおのずからなる自己展開として輝き、ひろがっているのである。

 「宇宙を浄め給う」 と言えども、大宇宙みずからの大懺悔であり、大宇宙みずからの禊ぎ祓いなのである。それ故 「住吉大神宇宙を浄め終りて天照大神出(い)でましぬ」 であり、大宇宙それ自体が天照大御神それ自体の相(すがた)となっているのである。大宇宙それ自体の天照大御神的甦りのはたらきが、住吉大御神の宇宙浄めの御はたらきとなっているのである。

 宇宙の大神イザナギの命(みこと)と天照大御神と住吉大御神は三つの呼び方による一つなる神にましますのである。

 これらは斯(か)く書きたくなったというだけのことであって、なにか内から覚めるようにして湧いて来る想いなのである。覚え書きというのは、外のものを覚えるためのメモであると同時に、内なるものの目覚めとして書きたくなったもの、というほどの意味合いなのかと想いつつ書きつらねている次第であって、あまり深い理由、証拠というものによって書いているのではないのである。(1998.9.5)

81復興G:2013/08/26(月) 07:31:58 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十八

 「大光明」 という言葉はあるであろう。 「大光明」 とは神である光明ということである。 「神 光りあれと言い給いければ光りありき」 と何故神は言葉したくなられ給うたのであるか。神が光りであり給うからなのである。光りである神の自己展開としてその言葉はあるのである。

 神が 「光りあれ」 と宣(の)り給うまでは、それまでは光りは存在しなかった、ということはどうしても想えないのである。何故ならば、はじめのはじめから在りて在るものを光りと言っているからである。はじめのはじめを光りと言っているからであり、神を光りと言っているからである。

 これは光り自体が 「私は無いのである」 と光りみずからの消え切りの澄み切りの、神のみ渾(すべ)ての渾てであるが故に光りであることの表現なのである。光りみずからが死に切っており、また、この聖書の言葉を書いたものも死に切って、神のみ渾ての渾てなることを表現しているのである。

 それ故 「大光明」 とは 「光明」 みずからの消え切りであるが故に、 「大」 のみ渾ての渾てであり、その意味において 「大光明」 とは神そのものなのである。

 「神は光りであり、光りは神である」 という場合は 「大光明」 のことを意味しているのである。

 これは光りみずからの禊(みそ)ぎ祓(はら)いということが出来るのである。生長の家人類光明化運動も 「神、今起て!! と言い給いければ、生長の家人類光明化運動ありき」 という時は、生長の家人類光明化運動のみずからの消え切り、澄み切りの、よろこびの輝きの充満を意味しているのであり、生長の家人類光明化運動みずからの禊ぎ祓いを意味しているのである。

 「今起て!!」 とは 「今なる汝よ、起て!!」 ということであったのである。この今は久遠(くおん)の今であり、渾ての渾てなる、はじめのはじめなる今であるが故に、大聖師谷口雅春先生は今そのものであり給い、その今なるものに天降った言葉であったのである。

 今はすべてのすべてであるが故に、生長の家人類光明化運動もまた今そのものであり、 「今なる生長の家人類光明化運動よ、起て!!」 ということであったのである。今と大聖師と生長の家人類光明化運動とはひとつであるのである。吾れと今とこことがひとつである久遠の今において、大聖師と生長の家人類光明化運動と自分とはひとつなのである。

 無の門関に坐して、時空超脱(じくうちょうだつ)の目無堅間(めなしかつま)の小船(おぶね)に乗るとはこのことなのである。

 生長の家に天降(あまくだ)った 「神示」 は数多くあって、これを拝誦(はいしょう)することはまことに尊いことであるが、 「神示」 は神が直接示したもうているのだから一番、神に近いのであるという見方だけで、他の聖典と区別して、近道を行くというようなことはまことに勿体(もったい)ないことなのである。

 生長の家の 「神示」 の尊いゆえんは、その神が自分である、ということが言い切れるところにあるのである。

 時空超脱、久遠の今なる實相において、神とひとつであることを説いて下さっているのが 『生命の實相』 その他の聖典、聖経なのである。久遠の今において、 「神示」 も聖典も聖経もひとつなのである。唯神(ゆいしん)實相の哲学によって、ひとつなることが解き明かされているのである。聖典も聖経もまた神に導かれて書かれたものであり、神が書き給うたことにおいて 「神示」 なのであり、大聖師そのものも久遠の今として立ち給うているのである。

 また、大聖師は、自分を取りまく天地一切、山も川も草も木も、風の音も山の色も有情非情(うじょうひじょう)すべては観世音菩薩すなわち尽十方無碍光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)の説法であると説示されているのである。それ故、吾れを取り巻く天地一切万物の姿そのものが 「神示」 そのものであるということが出来るのである。天地一切万物が大光明であるということである。(1998.9.6)

82復興G:2013/08/27(火) 06:14:12 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十九

 「蓮華日宝王地観(れんげにっぽうおうじかん)」 なる神想観において、 「吾れ観世音菩薩、五蘊皆空(ごうんかいくう)と照見(しようけん)し、一切の苦厄(くやく)を度(ど)す」 と唱えたあと、

 「虚空(こくう)中に宇宙大の大日輪(だいにちりん)浮ぶ。光明遍照(こうみょうへんじょう)實相世界ここなり 〈と念じ大日輪が宇宙一杯に充満せる有様を観じ更にその大日輪中に千葉(せんよう)の蓮華(れんげ)が開花せる姿を観じ〉ここ蓮華蔵(れんげぞう)世界なり 〈と念じて、その花の中心上に観世音菩薩の坐っている姿を心に描き〉 この菩薩は自分自身なり」

 と念ずるのである。この菩薩がだんだんと近づいて来て自分とひとつに重なることを観ずることが大切であると書かれているのである。

 この宇宙大の大日輪(だいにちりん)の中心に蓮華の中心に坐している観世音菩薩は天地万物一切のことごとくの一つ一つのものであり、それがそのまま尽十方無碍光如来なのである。

 観世音菩薩は斯くの如きすがたにおいて観世音菩薩なのである。観世音菩薩は祝福礼拝の姿にましますのである。

 神に対して反省させてやろうという事件は有り得ないのである。どのようにして祝福し礼拝しようかという事件しか有り得ないのである。それ故、自分を取り巻くすべてが観世音菩薩にましますということは、神の子たる實相身に対しては祝福礼拝のための姿であることしか有り得ないということなのである。

 神癒祈願をする私に対して、申込者はすべて観世音菩薩であり、宇宙の中心坐に在(ま)します尽十方無碍光如来にましますのである。神癒祈願申込者の名簿は、尽十方無碍光如来の名簿であるということなのである。

 このように観じさせて頂くとき、申込者からの悪念波を受けるなどということは決して有り得ないことなのである。

 人類を光明化するという時、すべてのものは観世音菩薩であり、尽十方無碍光如来にましますのであるから、 「異類中行」 ではなく、光における、 「同類中行」 であり、同類どころではなく光りなる “ひとつ” なるすがたを生くるのみなのである。


  人間は光の子にして常に光の中にあれば
  暗きを知らず、
  躓き(つまず)を知らず、
  罣礙(さわり)を知らず、
  かの天人が天界を遊行するが如く
  また海魚が水中を游泳するが如く
  光の世界に光に満たされ法悦に満たされて遊行す。

 と聖経 『甘露の法雨』 には書かれているのである。

 天地万物のすべては宇宙の中心に坐する重無礙(じゅうむげ)の存在であり、中心とは渾(すべ)ての渾てなることを意味しているのである。

 斯くの如く観ずる時、そこにすべてが坐(ま)しますのであるから、最早(もは)や吾れが彼に対して光明化運動をするという相対的な姿ではなくなっているのである。このようなすがたを光りのすがたといい、光明化運動の光明とはこの “ひかり” のことを意味しているのである。

 この宇宙大の大日輪は自分の内にあり、同時にその宇宙大の大日輪の中心に観世音菩薩が坐し給い、その観世音菩薩の中にまた宇宙大の大日輪があるのである。重限無礙(むげ)同時現成なのである。

 全宇宙を光明化すると言えども、その全宇宙は自分の内にあるのである。自分と宇宙との分裂相対は無いのである。

 畏(かしこ)くも宇宙の大神イザナギの命(みこと)が光明遍照の實相の世界に禊ぎ祓い給いて、その宇宙浄化の御はたらき顕れて住吉大御神となり給い、宇宙浄め終りて天照大御神出でましぬ、と言えども、これすべて吾が内なる神の国の消息なのである。

 吾が内なる神の国とは高天原(たかあまはら)のことであり、全宇宙も、イザナギの命(みこと)も、住吉大御神も、天照大御神もすべて吾が内なる實相世界のことなのである。しかも同時に、その内の内に自分があるのである。同時現成なのである。この實相の消息の上に立って行なわれるのが道元禅師の言われた 「証上(しょうじょう)の修(しゅう)」 ということなのである。生長の家の人類光明化運動もまた、証上の修の姿として輝いているのである。(1998.9.7)

83復興G:2013/08/28(水) 03:53:33 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十

 生長の家の出現は宇宙はじまって以来の荘厳である、と想わず心に叫んだ人があった。まことに羨(うらや)ましい限りである。

 この人は、宇宙はじまる以前、宇宙以前を言ったのであろう。宇宙を宇宙たらしめているもの、創造なるものの根源なるもの、即ち神を神たらしめたのが生長の家の唯神(ゆいしん)實相哲学であることをかい間観たにちがいないのである。この人の眼は実に、観るべからざるものを観てしまった、幽の幽なるものは観ること能わざるものにちがいないのに、それを観てしまった、神が神であるその全荘厳をのぞいてしまったという眼をしておられたのを想い出すのである。

 イザナギの命(みこと)が、イザナミの命の姿を見てはならないという言葉に反して見てしまった、その、のぞくべからざるものをのぞいてしまった時の眼はどのようなものであっただろうという想いに誘っていくその人の眼であった。そして、その眼は、暗(やみ)をのぞいたのではなく、光りの光りをのぞいてしまった眼であったのである。

 「今という不思議の光りを観た」 とその人は言っていた。

 過去、現在、未来、因縁、時空超脱の 「久遠の今」 こそ今という今なのである。

 今即久遠(いまそくくおん)、久遠即今(くおんそくいま)である。今という光りは久遠なる光りであり、光りである久遠であり、渾(すべ)ての渾てなる光りであったのである。

 その人の言った 「不思議の光り」 というこの不思議とは 「入龍宮不可思議(にゅうりゅうぐうふかしぎ)」 の不可思議である。この久遠の今、今という不思議の光りなる生長の家の哲学によって多くの奇蹟的治癒がその人の周囲にもたらされたことは 『生命の實相』 にあまりにも有名である。そのことによって純粋宗教の部門として生長の家本部に 「神癒祈願部」 が開設された時の初代の部長となられたのであった。

 今という不思議の光りが、どのようにかかわって人々に神癒をもたらしたか、そのメカニズムははかり知り難いが、時空超脱(じくうちょうだつ)の今が實相であり、神そのものであること、その光りを伝えることによってもたらされた癒しは、まことに神癒と言える神癒であったことだけは疑いようのないことだと言えるのである。

 「今なる不思議の光り」 によって神癒がもたらされたということは、大聖師谷口雅春先生が 「今起て!!」 という不思議の御声によってはじまった生長の家の人類光明化運動であることを想えば、それに救われ、共鳴されたこの人が 「今という不思議の光り」 によって癒しをもたらして行ったということはまことに生長の家人として自然きわまりないことであると言わざるを得ないであろう。

 時間未(いま)だ発せず、空間未だ発せず、一切万象(ばんしょう)発生の枢機(すうき)を把(にぎ)る久遠の今、創造の本源世界を説き給うたのが 「入龍宮不可思議境涯録」 という名前がつけられたこ文章で聖典の中におさめられているのである。そして、

 生長の家の哲学の中で最も重要な哲学が 「今の哲学」 であるとも説かれているのである。神癒の部門である純粋宗教部門が 「今の哲学」 によってはじまっているということは、 「今」 という不思議の光りこそが純粋ということの本体であるということを意味していると拝察させて頂くのである。

http://www.youtube.com/watch?v=e2ol5ztA3z8
http://www.youtube.com/watch?v=lDSwsxbLfes

 一方、生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)の自覚によって神癒がもたらされるのであれば、生命の實相とは 「久遠の今」 ということであるということになるのである。

 神癒の展開としての人類光明化運動が 「今起て!!」 ということによって、 「今」 なるものが起(た)ったことであることの不思議を想うのである。(その人とは服部仁郎先生のことであり、この弟子のことは 「弟子像Ⅰ」 として拙著 『弟子像』 中に書きとめてあり)(1998.9.8)

84復興G:2013/08/29(木) 07:08:05 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十一

 神想観において、神の無限の生かす力が光り輝くものとなって吾が内に流れ入り、満ち満つることを観つめ観送(みおく)るように観(かん)ずることが教えられているのである。これは自分は全く要(い)らない、それみずから實在する實相であるから可能なのである。観送(みおく)るとはもはや自分でない自分、観るものなくして観じ、吸うものなくして流れ入るところの自我不要の消息なのである。

 人類光明化運動の進展を観ずるのも、これと同じすがたでなければならないということである。観つめ、観送ることの出来る久遠の昔より在りつづけ、進みつづけの實在なる實相なる生長の家人類光明化運動なるものとして観じ得なければならないのである。

 それは、呼吸みずからの呼吸である。それは運動みずからの運動である。生きものとしての呼吸であり、生きものとしての運動である。

 「今、光明燦然(こうみょうさんぜん)として人類光明化運動の聖旗は輝きながら我等の前を進み行くのである。……」

 という大聖師から発せられた言葉は、言葉それ自体が實在の實体を有して、それみずからが進展する生きものであり、神であるのである。

 大聖師には厳然として、この人類光明化運動の實在なる進展のすがたが観つめ、観送られ、拝まれているのである。それが神がおはじめになった、神の運動であり、神なる運動の相(すがた)なのである。豊雲野神(とよくもぬのかみ)の相(すがた)として、進展、拡大きわまりなき、豊かなる進展の相として観つめ観送られているのである。それは観送るものなくして観送るところの、運動それみずからの観送られている相(すがた)であるが故に、澄み切りの相、浄まり切りの相なのである。

 大聖師は澄み切りの生活を、無色透明の生活と表現され給うことがあるが、この観つめ観送られるところの人類光明化運動とは無色透明の人類光明化運動なのである。

 それは真空にして妙有(みょうう)なる運動なのである。真空にして尽十方無礙(じんじっぽうむげ)なる相(すがた)を展開するところの妙々不可思議のはたらきなのである。忽然(こつねん)として生まれ出でるところの展開の相(すがた)なのである。

 忽然といえども神にとっては無限時間の余裕のあるすがたなのである。そのような相として神の中に神によって観つめ観送られているのが生長の家の人類光明化運動の姿なのである。

 「生命は生を知って死を知らず」 と聖経 『甘露の法雨』 には録(しる)されているのである。生長の家の人類光明化運動なるものは、生長を知って後退を知らないのである。進展伸展あるのみなのである。このことが神によって観つめ観送られているのである。

 神想観は、神を想い観ると同時に、神が想い観じ給うのである。生長の家人類光明化運動は生長の家なるものそのものが運動し給うのである。それ故、神とは何か、生長の家とは何かということがすべてのすべてとなって来るのである。

 渾(すべ)ての渾てなるものを神と言い、渾ての渾てなるものを生長の家というのである。それ故、生長の家は 「完成の教え」 となっているのである。 「完成の教え」 とは 「完成なる教え」 ということである。完成を教えるのではなく、完成そのもの、渾ての渾てであるのが生長の家なのである。

 生長の家人類光明化運動とは、完成なるものの、渾ての渾てなるものの運動であればこそ、澄み切りの澄み切りに明るいのである。(1998.9.9)

85復興G:2013/08/30(金) 07:33:00 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十二

 練成会では、神想観練習というのがある。しかし、練習と本番との境はどこにあるのであろうか。祈りには一体練習というものがあるのであろうか。

 生命から見れば、練習というものはないのである。そこには厳粛きわまりなき、神なるいのちが輝き、持続しているばかりである。

 練習で咲いている花はあるだろうか。練習で動いている心臓はあるであろうか。神は天地創造をするにあたってリハーサルをされたとはどうしても想えないのであって、いのちの宣べる 「命宣(いのり)」 には練習はないと言わざるを得ないであろう。

 さて、それでは、練習と本番(実修)とはどう違うのであるか。それはやはりコトバによる宣言にあるということになるであろう。

 司会が出て来て、

 「只今から神想観の練習をします」

 と宣言すれば、それは練習なのであり、

 「只今から、神想観の實修をいたします」

 と宣言すればそれは實修(本番)なのである。

 すべて、自分ではないということである。實修は書かれた字の通り、實修の實は實相ということであり、神ということなのである。即ち神・實相はまことであり、本番そのものであり.完成そのものなのである。

 神によって生かされているということは、本番が生きているということなのである。

 「實修します」

 という言葉が天降った時、はじめての人だろうが、練習中の人だろうが、その時知っていること、出来ることが、そのまま本番なのである。はじめての人が他のやっていることを見よう見まねをしようが、それ以上知りすぎても、出来すぎてもいけないのであって、本番とは神によってあるということであって、自分で選んで、自分で行っているのではないのである。

 すべて自分ではないのである。練成でも、 「こんなに素晴らしいのだったら、もっと早く来ればよかった」 と言ってよろこんで下さる方が居るということは有り難いことであるが、しかし、自分で選んで来たのではないのである。一秒早くても、一秒遅くてもいけないのであって、神なる本番に生かされて、本番が来られたのである。

 また、集まりにおいても、司会が、

 「ただ今から、はじめます」

 と宣言したならば、その時点において、一人多くても、一人少なくてもいけないのであって、人間が選んだものではない、そこに本番そのものが天降っているということなのである。ただただ、神、渾(すべ)ての渾て、本番がそこにあるのであって、未来への手段、過程としての姿ではないということなのである。ここに生長の家の集まりが今、明るいもの、感謝に満ちているすがたがあるのである。

 「新しい世紀は祈りの世紀」 という言葉を神想観中に聴いたような気がしたが、ここまで書いて来たことは、結局 「祈ってもよいのだ」 「神想観してもよいのだ」 「聖典をよんでもよいのだ」 「愛行(あいぎょう)してもよいのだ」 ということであったのではないか。今、ここにすべてのすべてがある、ということである。本番そのものである、ということである。

 自分は要らないのである。神のみなのである。神はすべてのすべてであって、分裂はないのである。神想観していても、聖典読誦していても、愛行していても、部分をやっているのではないということである。それは決して、他を後にして自分が先に渡ろうとしている姿ではないということである。

 「吾が内に神が今ここに、そして天国が今ここにある」 (『日々読誦(にちにちとくじゅ)三十章経』)

 ととなえるのが最大最高の祈りであるとされているゆえんである。(1998.9.10)

86復興G:2013/08/31(土) 07:07:17 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十三

 「最早(もは)や人間の力では及ばぬ。神に直接お出まし願う」

 ということが主旨主願となって建立されたのが龍宮住吉本宮であった。

 神、實相は円満完全であるが故に、ご自分みずからに顕現する権能(ちから)を具有(ぐゆう)してい給うという。もっともはじめにして最大の神への尊敬、全托(ぜんたく)の美しさを顕わす象徴として建立されたと拝察されるのである。

 宇宙の大神イザナギの命(みこと)の宇宙浄化の御はたらきが住吉大御神となってあらわれられたそのままの霊なる働きが生長の家人類光明化運動となっているのである。そこには人間の力はどこにも無いのである。中身は、宇宙の本体であるイザナギの命であり給い、住吉大御神であるのが、生長の家人類光明化運動なのである。

 生長の家人類光明化運動と書いて、イザナギの大御神と読んでもよく、住吉大御神と読んでもよいのである。

 またそのことを潜在意識にたたき込むという必要はないのである。潜在意識は無い、と浄め終わったのが生長の家なのである。

 實相が自己展開して、教えとなり、諸々の行となっているのであって、自己展開には相手はいらないのである。

 實相の円満完全を自分の心に納得させるとか、潜在意識を相手にたたき込みをやるとかいうことの全く要らないのが、實相ということであり、それであればこそ、まことに實相は円満完全と言えるのである、というこのことは、まことに何度繰り返しても繰り返し足りない嬉しさであるのである。

 嬉しさとは如何に自分が要らないか、ということなのである。 「最早や吾れ生くるに非ず、生長の家人類光明化運動ここに在りて生き給うなり」 というのが、 「よろこびの光明化運動」 ということの中身なのである。

 生長の家人類光明化運動が神そのものであるということは、 「生長の家人類光明化運動よ、あなたのみ心の如く生かし給え」 ということでなければならないのである。

 神は渾(すべ)ての渾て、生長の家人類光明化運動は渾ての渾てということである。光明化運動は自己展開あるのみなのである。

 斯くの如きことを今私は自分の潜在意識にたたき込んでいるのではないのである。生長の家人類光明化運動が今ペンとなって輝いて顕(あらわ)れて動いているのである。光明化運動が全身となり、呼吸となって輝いているのである。

 「自分が光明化運動をする」 ということは、要らないことであり、有り得ないことなのである。

 「生長の家人類光明化運動の運動方針」 の一字一字は、神の自己展開であり、延長であり、神そのものなのである。

 神癒祈願の人型の 「實相円満」 と書かれているのは、その言葉を潜在意識にたたき込むためのものではないのである。

 實相円満なるものが、みずから顕れてその文字となって輝いているのである。

 實相はみずから實相するのみである。 「實相を實相たらしめよ」 という、きわめて自然きわまりなき姿であり、そこには祈る方にも祈りを受ける方にも自分は要らないのである。

 それ故、ただただ實相円満の光りにあずかるのが神癒祈願であり、受ける人の過去の心の成績や、先祖の成績を調べるなどということはなく、ただただ實相のそのまま円満を受くるのみなのである。

 「生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)」 を自覚した時に神癒となるという、ただただ實相を實相たらしめよ、というみ教えのひろがりがあるのみなのである。これが實相の成就ということなのである。(1998.9.11)

87復興G:2013/09/01(日) 05:05:20 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十四

 「時間を生かせ」 という大切中の大切なる言葉がある。何故大切であるか。それはまことには私が時間を生かすのではなく、時間は神が私に与え給うた自己表現のための愛念そのものであって、時間が私を生かすのである。それ故に、時間を生かすことは、愛を受けて、神の愛によって生かされることにほかならないのである。

 時間を生かせということと同じ意味において、空間を生かすということは、空間が私を生かして下さる、その神の愛に包まれ、浴することにほかならなかったのである。

 時間というものは、こちらの都合で生かすも殺すも勝手次第というようなものではないのである。神の愛は久遠不滅であって、生かすほかはないのである。生かされるほかは無いのである。このように観ずることが 「時間を生かせ」 ということの第一歩なのである。

 「今を生かせ」 というのも同じ意味において尊いかぎりのことなのである。今が渾(すべ)ての渾てであり、渾ての渾てでないものは今ではないのである。これは久遠の今であり、今である久遠なのである。實在なる今ということである。

 そのように今なるものの展開として、今なるものによって在らしめられ、生かされているのであって、そのように観ずることが 「今を生かせ」 あるいは 「今を生きよ」 ということを生きる第一歩なのである。

 斯(か)くの如き意味、相(すがた)において、吾々によって生長の家人類光明化運動があるのではなく、生長の家人類光明化運動によって吾々があるのである。

 光明化運動を生かすも殺すもこちらの勝手次第というようなものでは決してないのである。光明化運動は神そのものであり、不滅であり、生かすほかはなく、吾々もまた生かされるほかは有り得ないのである。

 自分みずから在り、自分みずから顕れるのが光明化運動なのである。光明なるものがみずから運動しているのが光明化運動なのであり、吾々によって光明があるのではないのである。みずから在りて在るものを光明というのである。

 生長の家人類光明化運動に加わりたいとの願いが起こること自体が、既に、はじめのはじめより、久遠の昔より自分の内にある生長の家人類光明化運動なるものが、みずから現れ出て来て、その願いとなって輝いているのである。既に全宇宙、全實在に根をもった生きた芽が出て、その願いとなっているのである。

 これに反して、自分ではじめたという光明化運動は造花の芽のようなものであって、虚(むな)しいものなのである。

 全實在に根をもった生きた芽と、造花の芽との違いは、生きた芽の方は、 “忘れていても伸びている” ということである。

 生命の特徴はみずからの内に伸びる智慧と力とを備えているということである。

 そのような生きものとして生長の家人類光明化運動なるものはあるのである。生長の家人類光明化運動はみずから生長する力を円満具足しているということである。このように観ずることが光明化運動を自分の力でかつがなくなることなのである。

 これが我(が)の要(い)らない、感謝の当体(とうたい)としての生長の家人類光明化運動の輝きなのである。

 全托(ぜんたく)するとは、全てを托すことである。全宇宙を神に托すことが全托ということである。それは自分が要らないという相(すがた)でなければならないのである。全宇宙の光明化を生長の家人類光明化運動それ自身に全托することの出来る道がここにあるのである。(1998.9.12)

88復興G:2013/09/02(月) 07:10:13 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十五

 「最早(もは)や人間の力では及ばず。神に直接お出まし願う」 という主旨がうたわれて、龍宮住吉本宮のこ造営がはじまった時、生長の家人類光明化運動なるもの、そのものにみずから顕れて頂き、それみずからのはたらきによって人類を光明化して地上天国を顕現していただく、という観方の運動観が唱道された時であったのである。それが顕斎(けんさい)の時代に入ったことを意味していると言ってもよいであろう。

 「招神歌(かみよびうた)」 によって 「吾が生くるは吾が力ならず、天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の生命(いのち)」 と歌われた時から、既に、はじめより宣言(のりごと)されていたことであったが、このような建立によって、それが心新たにさせられたと拝察するのである。

 機械は外から智慧と力を貰わなければ作動しないから、外からのつながりを切った時が停止した時であるが、赤ちゃんは、臍(へそ)の緒(お)を切って、外とつながらなくなった時、誕生ということになって、生長がはじまるのである。すでに内にすべてが備わっているのが生命であるのである。

 それ故、 「あなたは生長の家に入らなければ救われませんよ」 という扱い方は、相手の人を機械として扱っているということになるのである。

 「あなたの中に全てがあって、あなたの中にはじめからある生長の家が出て来て、生長の家に来られたのですよ」

 という扱い方が、はじめからある生長の家人類光明化運動によって生かされている生命であるとして扱っていること、拝んでいることなのである。

 「他(ひと)からすすめられたように見えていても、すすめられる運命はやはり、あなたの中の生長の家人類光明化運動なるものがみずから展開しているのです」

 ということもまた、生長の家人類光明化運動にすべてを托した観じ方拝み方、祝福の仕方であると言えるのである。

 「宗教によらなければあなたは救われませんよ」

 という扱い方は、外からのものに頼ることであるから、機械として扱っているのであり、

 「あなたは宗教をやってから生まれて来たのではないでしょう。もしも神がいるとすれば、はじめから平等に、完全に生かして下さっているのが自然なことですよ。宗教をやったものは生かすが、宗教をやらないものは生かさないという神がいるとしたら、

 “何故、平等に生んで呉れなかったか” という、不満と裁きと恨みしか出て来ないのですよ。生長の家は感謝の教えであるということは、はじめから平等完全に生かして下さっている神を発見したからなのです。むしろ、今日から “私には宗教は要らなかった” と思っていただく方がうれしいのですよ」

 という表現は、はじめからある生長の家なるもの、人類光明化運動なるものの、みずからなる顕現としての、いのちを拝んでいるということになっているのである。

 解放する運動であるということは、はじめのはじめから在りて在るものが、みずから目覚めてはじまっているということを認めることが出発点となっていることを意味しているのである。

 「神のものは神に」 「生長の家人類光明化運動のものは生長の家人類光明化運動に」 ということである。

 今、生長の家人類光明化運動なるものそのものが、それみずからによってあるべき相(すがた)に甦る時を迎えているのである。(1998.9.13)

89復興G:2013/09/03(火) 06:14:09 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十六

 釈尊が 「山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)、有情非情同時成道(うじょうひじょうどうじじょうどう)」 と宣(の)り給うたのは 「運動の成仏」 ということでもあったのである。

 生長の家人類光明化運動はそのまま成仏の相(すがた)なのである。成仏とは成っている仏、鳴りひびいている仏、説法しつづけている仏ということであるから、生長の家人類光明化運動はそのまま仏であり、鳴りつづけであり、神そのものであるのである。

 人類光明化運動そのものに対する合掌の相(すがた)こそ最もふさわしい私たちの相であるということはまことに厳かな有り難さなのである。

 人の手によってはじめられた運動ではないということは、 「人事を尽くして天命を待つ」 ということ以前の運動であるということである。

 「今」 によって起こった運動であるとは、運動そのものが時空超脱であり、因縁を超えて立っている運動であるということなのである。何ものにも依らずして、みずから在りて在る運動であるということである。久遠の今なるものが立った運動であるということである。

 立教とは、教えなるものが自ら立ったということである。真理みずからが立っていることが立教ということなのである。そのまことの立教なるものを大聖師谷口雅春先生は自己の内に拝み給うたのである。

 「生長の家は久遠の昔からある」 ということは 「生長の家の立教は久遠の昔からある」 ということであり、 「生長の家人類光明化運動も久遠の昔から在りつづけである」 ということである。 「天地(あめつち)とともに窮(きわ)まりなかるべし」 とは生長の家人類光明化運動のことであるのである。 「窮まりなし」 とは時空みずからが超脱され、脱落していることなのである。

  人間は光の子にして常に光の中にあれば
  暗きを知らず、
  躓(つまず)きを知らず、
  罣礙(さわり)を知らず、
  かの天人が天界を遊行するが如く
  また、海魚が水中を游泳するが如く
  光の世界に光に満たされ法悦に満たされて遊行す。

 とは、生長の家人類光明化運動の遊行している相(すがた)そのものなのである。

 未(いま)だかつて生長の家人類光明化運動は、暗(やみ)と出逢ったことも、躓(つまず)いたことも、障礙(さわり)をされたことも無いのである。空中遊歩の神人(しんじん)なるものがこの運動なのである。空中とは真(まこと)の無、無の無の無なることそのことなのである。空(くう)なるものが空であるとき、真(まこと)なるものが真(まこと)なのである。真空にして妙有している運動が生長の家人類光明化運動なのである。

 尽十方無礙光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)の説法の充満そのものが生長の家人類光明化運動なのである。

 この運動は 「今」 起(た)った運動であり、すべてのすべてなるが故に、自分自身のいのちそのものなのである。

 今、ここ、吾れ ひとつに鳴っている久遠なる 「今」 こそ生長の家であり、人類光明化運動なのである。自分の生活において、この運動と自分との分離はどこにも存在しないということは、まことに厳かな事実なのである。神は渾(すべ)ての渾て。生長の家人類光明化運動も渾ての渾て。自分の自分なるものも渾ての渾て。久遠の今なるもの、中(みなか)なるもの、ひとつなるもの、大調和(みすまる)の宇宙(くに)なるものの澄み切りの實相の消息である。(1998.9.14)

90復興G:2013/09/04(水) 05:03:22 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十七

 生長の家人類光明化運動なるものの大實体に生かされている實在の価値創造が神の子の生活なのである。聖書の 「吾ら、つらつら手ざわりしところのものを語る」 というところの實在なる大賞体が生長の家であり、人類光明化運動なのである。

 住吉大御神は浄まりの当体であり給うのである。澄み切りの当体であり給うのである。宇宙浄化なるものの、浄なるものの大實体こそ生長の家人類光明化運動の、 「吾らつらつら手ざわりしところのもの」 なのである。

 無の門関において、すべてを放った時、大實在宇宙が手のひらの上に乗る、という大聖師のお言葉こそ、イザナギの大神=住吉大御神=大實在宇宙=生長の家人類光明化運動なるものの大實体を手ざわりし給うたお言葉であったのである。

 入龍宮幽斎殿における神想観において、龍宮本源において、「一切の宝、吾が掌中(しょうちゅう)にあり」 と感謝することは、如意宝珠(にょいほうじゅ)なる大宇宙大實在=生長の家人類光明化運動の大本体、創造の大實体を掌中に手ざわりしていることの観法となっているのである。

 神の子のいのちは、龍宮の創造の本源たる生長の家人類光明化運動なるものの中に坐すると同時に、創造の大實体なる生長の家人類光明化運動を如意宝珠として.わが掌中に持(じ)しているのである。同時現成なのである。これが 「十方世界光明遍照、わが全身光明遍照……」 の中身であり、生長の家人類光明化運動の光明の相(すがた)なのである。

 その光明化運動の大實体の大なるゆえんは、聖経 『甘露の法雨』 の

  真理
  光明
  智慧
  絶対の愛。

の真理、光明、智慧なる 「絶対の愛」 がこの運動の實体であるからである。絶対なるものを大というのである。

 絶対の愛とはみずから輝いている愛ということであり、在りて在る愛ということである。相手との相対関係によって成り立つ相対の愛ではないということである。みずから愛である愛ということである。

 吾れも知らず、他も知らず、三界(さんがい)に身を現さざるところの、渾(すべ)ての渾てなる澄み切りの絶対の愛が生長の家人類光明化運動の大實体なのである。

 ここに.対立するものなくして、全地上を覆(おお)うところの生長の家人類光明化運動の一つの相(すがた)を拝むのである。

 形にあらわれたるものによらざる光明化運動のひろがりというものをここに拝むのである。

 善悪は別として形によってその大いさを計量しようとすると、どれだけそれがあっても 「それだけか」 ということになってしまうかも知れないのであるが、そうならないのが 「絶対」 なるが故に、幽(ゆう)の幽なると同時に顕(けん)の顕なる、三界に身を現さざるが故に、渾ての渾てなる生長の家人類光明化運動の厳かさをここに拝ませて頂くのである。

 知らない内に、知られない内に、光明がすべてを覆い尽くしてしまっているという、姿、形なき、澄み切りの運動ということである。本当の断食とは、 「物質なし」 を知ることである。形で食物を断つことではないのである。大いに感謝して食するのである。そのように、姿、形なき運動とは、姿、形をとらないということではないのである。 「姿、形なし」 と知ることによって、 「姿これ姿に非ず、是を姿という」 ということであり、 「形これ形に非ず、是を形という」 ということである。(1998.9.15)

91復興G:2013/09/05(木) 05:55:49 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十八

 普通 「○○運動」 と言えば、目標を未来におき、それを達成してこそ価値を生ずるというものであるが、 「今」 そのものである生長の家人類光明化運動は 「今を生きる」 ことが運動であるのであり、 「今が生きる」 ことが運動そのものであり、価値それ自体が生きることであるのである。

 目的のための手段としての生活ではなく、 「今が渾(すべ)ての渾て」 であることそのことの成就、すなわち 「今」 なる實相が成り就(な)り生きている、完成なるものの純粋なる持続、天国なるものの純粋持続が生長の家であり、人類光明化運動なのである。

「今」 であるということは、神であり、渾ての渾てであるが故に、 「今」 である生長の家人類光明化運動は、吾が内において、

「私は渾ての渾てである」

 とみずから宣(の)り給うているのであり、

 「私は汝そのものである」

 と宣り給い、

 「汝は汝と顕れた私である」

 と宣り給うているのである。また、

 「私はみずから在りて在るものである」

 と宣り給うているのであり、

 「私は汝の内なる創造の本源そのものである」

 と宣り給い、

 「私は渾(すべ)ての渾てなるが故に、自己展開し、みずから顕れる力を円満しているのである」

 と宣り給うているのである。そして、

 「汝は私の生みの子であり、私の世嗣(よつ)ぎであり、渾ての世嗣ぎなのである」

 と宣り給うているのである。

 生長の家人類光明化運動のコトバ現れて一切万物万象となっているのである。生長の家人類光明化運動は實相であり、實相なるコトバ展開して實在の實相世界が展開しているのである。

 ここにおいて道元禅師の言われたごとく、

 「身も心も入れずして、仏の側から行われもてゆく」 ということは 「身も心も入れずして、光明化運動の方から行われもてゆく」 ということとなるのである。

 「身も心も入れずして」 とは、身も心も要らないことであり、身自身、心自身が 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りのよろこびの、安らかさの輝きに浴することなのである。

 また 「非思量底(ひしりょうてい)を思量する」 ということも、思量みずから 「私は無いのです」 との思量みずからの脱落であり、脱落中を遊歩しているいのちの消息なのである。脱落中を遊行(ゆぎょう)している生長の家人類光明化運動ということである。これは

 光りの中の光りの遊行であって、 「異類中行(いるいちゅうぎょう)」 ということではないのである。生長の家人類光明化運動は光りにおける 「同類中行」 なのであり、法悦(よろこび)の中を法悦が遊行しているのである。

 何故ならば、生長の家人類光明化運動は神であり、渾ての渾てであり 「それ以外にあるものなし」 なるものにとって、異類なるものは無いからである。ひとつなるものにとって異なるものは有り得ないからである。

 ここにおいて、光りにおける同類の集りである 「誌友会」 なるものが如何に尊くも素晴らしきものであるか、ということが心新たに想われて来ざるを得ないのである。

 光りとは何か。光りとははじめのはじめからあるところのよろこばしき全て、ということである。はじめのはじめからある光りなるものを生長の家人類光明化運動というのである。

 人々は光りとして、内在の生長の家人類光明化運動なるものそのものとして誌友会に 「行ってみよう」 という願いを起こすのである。それを、はじめての人にも、既に来ている人にも、すべての人々について拝んでいるのが 「誌友会」 なのである。( 『誌友会についての所感』 別冊子参照)(1998.9.16)

92復興G:2013/09/06(金) 06:31:37 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十九

 何が光明化運動であるか。どうすることが光明化運動となるのであるか。そう問う前に 「今」 「自分」 「生長の家人類光明化運動」 が “ひとつ” であるということである。自分なる存在そのものが光明化運動そのものであるのであるから、

 太陽が行けば、何処(どこ)も彼処(かしこ)も昼であるように、自分なるものが行けば何処も彼処も光明化運動ばかりなのである。

 「光明化運動とはあなたのことであり、あなたのすべてが光明化運動なのです」

 と言い切れているのがこのみ教えなのである。それ故、 「この運動に協力せよ」 ではないのである。

 「あなたがますます、あなたらしく」

 ということがあるばかりなのである。

 「光明化運動は光明化運動らしく」

 ということがあるのみでよいのである。

 神は神らしくあるそのままであり給うのである。ただただ、天然、法然、自然、当然、本然であり、忽然(こつねん)忽然現成(げんじょう)あるのみなのである。忽然とは無原因ということである。

 忽然なるものには歴史的背景などというものは無いのであり、要らないのである。

 忽然の 「忽」 とは 「心に勿(なか)れ」 と書かれているのであり、非思量底であり、心によって認識投影された時間空間無きこと、現象無きことが忽然ということなのである。

「忽然忽然光明現成」 が生長の家人類光明化運動なのである。目無堅間(めなしかつま)の小舟(おぶね)に乗って行われているのが生長の家人類光明化運動なのである。

 「未(いま)だかつて實相を観たものは無いのである」 と大聖師のおコトバは鳴り響いているのである。それは幽の幽なるものであり、不可思議の不可思議なるものであり、妙(みょう)の妙なるものであり、みずからの消え切りの澄み切りであるからである。そして、その相(すがた)なるが故に、観るものと観られるものとの分離はなく、目無堅間である故に、観るということそのことが無いのである。それは自分そのものであるからなのである。

 それと同じ意味において、 「未だかつて生長の家人類光明化運動そのものを観たものはないのである」 ということなのである。三界に身を現さざる澄み切りの光明であるからである。このような消息において、生長の家人類光明化運動はそれらしく、ということなのである。それ自身光明であるものにとっては、陰影も背景も要らないのである。

 観じられることによって現れるという 「観じる」 という前景も要らないのである。忽然現成なのである。忽然忽然現成の純粋なる創造的持続が光明化運動の 「運動」 というものなのである。

 これが 「生長の家人類光明化運動は生長の家人類光明化運動らしく」 という相(すがた)なのである。それはそれをそのまま生きている相(すがた)なのである。それを 「そのまま」 というのである。手段のための運動ではないということである。それ自身がそれ自身である運動ということである。

 「……のための」 ということから解放されたよろこびとしての光りの運動なるものの消息である。これは現象人間のよくする相(すがた)ではなく、現象運動のよくする運動ではないということである。 「天より天降った火だ!!」 と大聖師が宣(の)り給うている實相なるものとしての火であり、光明ということである。世の常ならぬ運動とはこのことである。

 「……のための運動」 ではなく 「運動それ自身」 の成就としての運動ということである。 「蕾(つぼみ)は花のためならず」 ということである。蕾が渾ての渾てなのであり、花はすべてのすべてなのである。渾ての渾てなるものの純粋なる持続あるのみである。(1998.9.17)

93復興G:2013/09/06(金) 23:44:43 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八十

 「神想観それ自体の神想観」 「聖経読誦それ自体の聖経読誦」 「光明化運動それ自体の光明化運動」 である。手段、目的のためのものではない相(すがた)である。

 神は目的、手段のための生活にはないのである。神はそのようには在(いま)し給わないからである。

 神は如何に在(あ)り給うか。神は 「今」 すべてのすべてであり給うのである。生長の家人類光明化運動も 「今」 すべてのすべてなのである。純一無雑(じゅんいつむざつ)、純乎(じゅんこ)として純なる光明なる運動とは目的と手段超脱の 「今」 である。

 運動方針を立てると言えども、その運動方針は 「私は無いのです」 とのみずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きであり、一切死に切りの、真空妙有なる無限充足の輝きとしてあるのである。 「運動方針これ運動方針に非ず。これを運動方針という」 である。運動方針の一文字一文字は神であり、神の国そのものであり、無限充足の天国そのものなのである。

 斯(か)くの如きが 「生長の家人類光明化運動」 の運動方針なるものなのである。それ自身がそれ自身でそれ自身を完了している 「今」 なのである。 「そのままは零(れい)なり、一切なり、○(まる)なり」 のそのままの一字一字なのである。ただただ零なのである。ただただ一切なのである。ただただ○なのである。

 黄檗(おうばく)禅師の 「衆について求めず、法について求めず、悟りについて求めず、ただただ礼拝することを為す」 との言葉が想い起こされるのである。

 ただただが 「光明」 である。ただただが 「化」 である。ただただが 「運動」 である。ただただが神である。ただただが充足である。ただただなる無限充足なるものの自己展開としての運動である。

 絶対の愛としての光明化運動とは、それみずからで成立している光明の相(すがた)であるから崩れることなき久遠そのものなる運動なのである。

 「数これ数に非(あら)ず、是(これ)を数という」 ということは、数に非ざる消息なのである。数という形そのままに、それはみずからの消え切りの脱落であり、澄み切りであるとは目的、手段のための数ではないということである。目的、手段と見ゆるままに、目的、手段は 「私は無いのです」 とみずからの消え切りであり、澄み切ってしまっている聖なる何かと出合っているところに 「今」 なる光明化運動は成り立っているのである。光明という光明のすがしさ、さやけさ、かそけさがここに満たされているのである。

 数が数字が黄金色燦然と輝いているのである。 「山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)、有情非情同時成道(うじょうひじょうどうじじょうどう)」 ということは、数の成仏ということなのである。

 総裁谷口清超先生がその御著 『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を読む』 の 「山水経の巻」 において、東山水上行(とうざんすいじょうぎょう)、西山常運歩(せいざんじょううんぼ)をお説きになられ、山も川も渓(たに)も水も空も自在に運歩している自在無碍(むげ)實相生命をお示しになって、教化の相(すがた)もこの運歩の相であるとお書きになっていられるのである。

 この自在のお姿がご講習会のおすがたであったのである。会場も人もその心もすべては大光明實相生命の運歩であり、菩薩の雲集(うんじゅう)をそこに拝み給うて、斯(か)くお示しになられたことと拝察申し上げるのである。

 「数は力」ではないのである。「数は神」 なのである。「数は渾(すべ)ての渾て」 なのである。「数は光り」 なのである。神でなく、渾ての渾てでなく、光でないものは「数」 ではないのである。(1998.9.18)

94復興G:2013/09/07(土) 06:12:03 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八十一

 「行(ぎょう)ありて願(がん)なきは仏の魔事(まじ)なり」 という仏典の “願” という言葉は、 “願い” という目的とその手段に引きすえられた生活とは違うのである。

 それは自我なき、神なる 「今」 なる “願い” なのである。今ここに完成そのものであるという “願い” なのである。

  “願い” は神であり、神が “願い” なのである。 “願い” は神であればこそ、 “願い” なきことは神なきことであり、魔事どころではなく全くの無なのである。

 「今」 を生きず、未来を生きようとすることが魔事なのである。神を生きず、自分を生きようとすることが魔事なのである。過去、現在、未来という無いものの上に立って生きようとすることが魔事なのである。神を生きること、 「今」 なるものを生きることが魔事でないことなのである。

 生長の家人類光明化運動が魔事でなく聖なる相(すがた)であるのは、生長の家人類光明化運動が神そのものであり、成仏そのものであるからなのである。

 神、仏の発したコトバが “願” なのである。天国、極楽なるものが発しているのが “願” なのである。神になりたい、仏になりたいと願うことそのことが既に神が、仏が為し給うているのである。

 まことの “願” とは、 「今」 神であること、仏であることであり、 「今」 .天国であることであり、極楽であることなのである。

 「吾れもと一切衆生をして吾れと等しくせんとの願を発せり。その願既に満足せり」 との釈尊の “願” なるものは、時空超脱の自分と同じくあらしめる願いであるから、釈尊の前には時間空間はないのである。それ故、願いを発してから、ある時間の経過の後に満足したという、願いと実現との間の時間はないのである。願いそのものが神であり仏であり、満足そのものであり、願いと成就との同時現成なのであり、これこそがまことの “願” なのである。

 吾れと彼、願いと成就との分離相対を超えてあることが釈尊が釈尊であることなのである。 「山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)、有情非情同時成道(うじょうひじょうどうじじょうどう)」 と拝み給うた時が、 “願” なるものの成仏を拝んだ時であり、まことの “願” なるものの成就であったのである。神(仏)=願=成就なのである。成就とは成り就(な)り輝くことであり、願いの成就とは願い即ち神(仏)の鳴り鳴り輝くことにほかならないのである。

 斯(か)くのごときまことの “願(がん)” なき行(ぎょう)はまことに魔事(まじ)であり、釈尊の観じられた 「諸行無常(しょぎょうむじょう)」 の行なのである。どこまでも実りはなく、 「いったいどこまでやれと言うのか!!」 とのなげきに終わるのである。

 これを超えたところから出発しているのが、生長の家人類光明化運動なのである。ただひとつ 「吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神(みおや)の生命(いのち)」 ということであるのである。

 自分ではないということである。自分は要(い)らないということである。既に完成している世界であるということである。

 まことにも 「完成(ななつ)の燈台」 とは自分の要らない燈台ということなのである。(1998.9.19)

95復興G:2013/09/07(土) 06:36:44 ID:AB6RqYXc

 榎本恵吾先生の 『神癒の展開としての人類光明化運動』 が、80回を超えました。

 上記の論文と申しますか、『「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書』 とされているご文章は、最初に書きましたように、(>>5

<<榎本先生が宇治別格本山の神癒祈願部長をされていたとき、平成10年7月1日から11年11月29日(1998.7.1〜1999.11.29)に、毎日 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 で神想観・神癒祈願をされたあと、この論文を書かれたのだということです。論文といっても頭で考えた論文ではなく、祈りからほとばしり出た、内なる神の声と言ってもよいものでしょう。これは、平成10年大晦日の12月31日にも、11年元日の1月1日にも、1日も休みなく書かれております。

榎本先生はパソコンは使われず手書きで書かれる。それを職員がパソコンで打ち込み、プリントアウトしたものを、当時本部に設けられていた 「光明化運動・21世紀を考える検討委員会」 宛に送っておられたそうです。>>

 というもので、ここまでに謹写掲載し終えたのは全体の1/30程度かと思います。まだ1年と数ヵ月続くのですが、ここでちょっと小休止し、これからしばらく、谷口雅春先生の御文章の謹写に変えさせて頂きたいと思います。

 ありがとうございます。合掌

96復興G:2013/09/07(土) 07:07:22 ID:AB6RqYXc

  人 生 の 秘 訣

(谷口雅春先生著 『無限供給の扉を開く』 より)

   ある傷痍軍人の實例

 ここで、今ちょっと思い出したのでありますが、戦争直後でしたが、あれは、多分、九州の福岡で講習がありましたときでした。傷痍軍人(しょういぐんじん=戦地で傷つき身体障害者となられた元軍人)の方で、脚に弾丸を受けて、傷は治ったが、その一方の脚が曲らないで、坐れないので脚を投げ出しておられた受講生がありました。

 そのときに、私は、高千穂(たかちほ)の峰(みね)に登った時の話をしたんです。あの高千穂の峰へ、日向(ひゅうが)の方から、霧島山を登って行きますと、頂上に天逆鉾(あまのさかほこ)というのが祀ってある。天から逆さまに宇宙を貫いて落ちてきた剣だとして祀ってあるのですが、そこへ達する少し前の所に、 “馬の背越え” という所があるんです。ちょっと馬の背中みたいな恰好(かっこう)に、土が高く盛り上がっていて、そこから坂が急になって登るんです。その “馬の背越え” という処に暫(しばら)く立って崖を俯瞰(ふかん)すると、その崖が、これは豪雨でもあったときに、山津波(やまつなみ)でも起こしてシャーッと山の一部が切断するように壊(くだ)けてズリ落ちて、その土の滑り落ちた跡が截(き)り立ったような垂直の壁面を山肌に作っているのです。それには速力の感じが出ていて、速力はやくサーッと画筆を名画家が墨痕淋漓(ぼっこんりんり)と走らせたような力の感じの美しさというものがその崖の壁面にあらわれていたんです。その光景を私は話して、

 「神様のお創造(つく)りになったものは全て美しい。そこには神の生命が動いておって、皆んな美しいんだ。この截(き)り立った山の肌は山の一部が崩れて落ちた跡で、謂(い)わば、これは山の傷痕(きずあと)である。此の山の傷痕でさえもこんなに美しいのである。

 それなのに、天皇陛下のために大東亜戦争で戦って、そして負傷した傷痕を、 “私はこんな見苦しい身体(からだ)になっている” と思って怨みに思っている人があるかしらんけれども、それを、みる眼で見たならば、此の山の肌の傷痕が美しいのと同じように、實に美しいのである。その傷痕にも、生命の動きがあらわれているのである。

 すべて生命の動きのあらわれているものには何でも、なんとも言えない美しさがあるんだ。それがわからないのは、観る眼がないからである」 ――というような話をしたんです。そしたら、その瞬間に、その脚を投出しておった人が、ちゃんと坐って、それから今まで跛(ちんば)ひかなければ歩けなかったその人が、講習が終ると、跛をひかないで、ちゃーんと歩けるようになって、礼を言ってお帰りになったので、受講生一同が大騒ぎでこの傷疲軍人を祝福したのでありました。

 この人が今まで、脚が硬直して曲らなかったのは、 “自分は、戦争のお蔭(かげ)でこんな目に遭(あ)わされて……” と思って、国家を怨(うら)んだり、軍を怨んだり、或いは敵のアメリカ兵を怨んだりしておったので、その硬直した心が、肉体にあらわれていたのでしょう。ところが私が、 「この山肌の、崖の崩れた傷痕でさえもこんなに美しい、いわんや天皇陛下の御いのちのために働いて傷ついたその傷痕というものは、決して見苦しいことはないのである。美しいんだ。それがわからないのは、吾々の心の眼が開かないからである」 ――という話をしたときに、

 “私は戦争のために傷ついた。自分は被害者だ” と考えて怨んだり憎んだりしていた今までの一切の怨みや憎しみが消えて、 “自分のいのち” が大いなる天皇の “大御(おおみ)いのち” の中に融け込んで、そしてこうして国家のために、天皇のために働いたお蔭でこうなったんだ。これは却(かえ)って有難いんだ、ここに私の忠誠のシルシがあるという、傷痕を祝福する気持が起ったらしいんです。そうすると、その脚が治って跛(ちんば)をひかないで起ち上がって当り前に歩けた、というのであります。だから肉体はまことに “心の影” であると、いうことがわかるのであります。
<つづく>

97復興G:2013/09/07(土) 22:01:14 ID:AB6RqYXc

>>95
>> 「ここまでに(『神癒の展開としての人類光明化運動』を)謹写掲載し終えたのは全体の1/30程度かと思います」<<

と書きましたのは勘違いで、「1/7程度」 の誤りでした。

98復興G:2013/09/07(土) 22:07:29 ID:AB6RqYXc

>>96 谷口雅春先生著 『無限供給の扉を開く』 より謹写 つづき>

    “無限” と “有限” との自己同一

 さて、 “永遠の生命(いのち)” が “今” “ここ” に生きているという “無限” と “有限” との自己同一、 “永遠” と “今” との自己同一を自覚しなければ、現象的には有限のいのちしか生きることのできない自分が “今、ここ” に “永遠の生命” を生きているということがわからないのであります。つまり、キリストが 「我はアブラハムの生れぬ前(さき)よりある者なり」 といったことや、釈尊(しゃくそん)が 「我れは五百塵点劫(じんてんこう)以前から生き通している自分だ」 といったことがわからないのであります。(中略)

   現象時間は存在しない、従って非存在の現象時間の中にある事物も存在しない

 (中略)

    “今” を生かせということ (過去の業を消す)

 私たちが 「“今” を生かせ」 といったり、或は又 「“今” に生きる」 といったりするその “今” というのは、そのような現象時間の流れの中にある “現在” というようなものを上手に生きようという簡単な意味じゃないのであって、その過去・現在・未来の一切がいまここに把(つか)まれているところの “久遠即今(くおんそくいま)” の生命(いのち)を生きよ であるのです。

 「これを握れば一点となり、これを開けば無窮となる」

 と聖経に書かれているところの、 “無窮” が常にあるところの “今” の一点であるのです。

 現象時間の流れの中で “無窮” を生きようと思うと、肉体の寿命は無窮には生きられないけれども、 “今” の一点に “久遠” の絶対時間を生きると、過去も現在も未来も今ここに一つに把(つか)まれてしまう、ということになるのであります。

 そうすると、吾々は今ここの自己の内に過去も現在も未来も把んでいるから、過現未が自分の掌中にあるのです。普通、過去は変化することが出来ないというけれども、過去も変化できる。そこから吾々は真理を自覚すれば過去の業(ごう)を消すことが出来るということがわかる。

 未来は無論、これから起るのだから変化できる。現象の流れの中にあるものは、全部こうして自分の内に “心のハンドル” をもって把(つか)んでいるんですから、吾々が欲(ほっ)して変化できぬものはない。

 吾々は、現象に対しては幻術師の立場にある。現象は仮(けげん)であって、心の現すところであるから、心によって自由に変化することが出来るのであります。

 さて、この 「 “今” を生きよ」 という “今” は、唯今説明いたしましたように、過去・現在・未来という現象時間の流れのうちの “現在” を生きよというような浅い意味での “今” ではないのであります。過去・現在・未来のすべての時間がその内に握られており、そこから過去・現在・未来が発して来るところの “本源の今”、 “源の今” “永遠を内に含む今” を自己の掌中に握ることであります。この “永遠を内に含む今” が “永遠の今” 、 “今即久遠(いまそくくおん)”、 “久遠即今”、 “未発の中(ちゅう)” というものなんです。

    “未発の中” に入ること

 何事でも本源に還って、本源の叡智(えいち)を受けてくることにしますと、する事為(な)す事、急所に中(あた)るのであります。この本源の中心を儒教では “未発の中(ちゅう)” といった。

 “未発の中” というのは、これは支那の 『中庸(ちゅうよう)』 という古書の中に書かれているところの 「喜怒哀楽(きどあいらく)未だ発せざるを “中(ちゅう)” という、発して節(せつ)に当る、これを “和” という」 と表現されているところの、あの一切のものが “未(いま)だ発せざる” 根元の 「中」、いまだ陰陽に剖判(ぼうはん)せざる未発の本源世界ということを意味するのであります。この本源の未発の “絶対無” (有無相対の無ではない) の中へ吾々が入っていくのが、神想観の 「吾れ今五官の世界を去って實相の世界に入る」 ということなんです。
<つづく>

99復興G:2013/09/07(土) 22:37:25 ID:AB6RqYXc

<谷口雅春先生著 『無限供給の扉を開く』 より謹写 つづき>

 これは、 『古事記』 に於いては 「無目堅間(めなしかつま)の小舟(おぶね)に乗る」 というように書かれているのであります。これは、日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)様が鉤(つりばり)を失われて、それは御兄の命(みこと)から借りた鉤であるから、それを返さなければならない、というときに、魚に鉤を取られていて、取り返す道がない。どうにも仕方がないので、自分の佩(は)いていられた剣(つるぎ)を鍛(う)ち直して、五百本の鉤をこしらえて、

 「これで我慢して下さーい」 と、御兄君のところへ持って行かれた。御兄の命(みこと)は 「そんな代用品をいくら持って来ても駄目だ。もとの鉤を返せ」 と言われる。

 もとの鉤といったって魚が食って行ったものを取戻しようがないのです。そこで日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)は仕方がないのでもう五百本新しい鉤をこしらえて、合計一千本にして 「これでどうぞ我慢して下さーい」 と持って行かれたけれども、御兄の命は 「もとの鉤を返せ」 と言われる。

 そこで日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)は途方にくれて、海辺に立って泣いておられた時に、住吉大神、別のお名前は塩椎神(しおつちのかみ)――この神様は龍宮の大神でありますが、その龍宮の大神が出て来られて、 「如何(いか)にぞ虚空津日高(そらつひだか)の、泣き患(うれ)いたまう所由(ゆえ)は?」 と言ってお訊きになった。

   万教帰一を象徴する “目無堅間(めなしかつま)の小舟(おぶね)”

 “虚空津日高(そらつひだか)の……” というのは、御空(みそら)から天降(あまくだ)って来られたところの、日の輝く日の本の嫡嗣子(ちゃくしし)――即ち天津皇位(あまつみくらい)を継ぎたまう皇太子にあらせられるところの 「日嗣(ひつ)ぎ御子(みこ)」 がお泣きになっておられるというのは、ただ事でない、一体何事がございましたんでございますか、と言ってお伺い申し上げたのであります。すると、

  「これこれ云云(しかじか)、魚に鉤(つりばり)を食われて鉤が行方不明になってしまったのに、兄命(あにみこと)の火照命(ほでりのみこと)が “もとの鉤を返せ” と言われるので困って泣いているんだ」 とお答えになるのでした。

 すると塩椎神(しおづちのかみ)さまは、 「私に善き謀(はかりごと)がございます。 “無目堅間(めなしかつま)の小舟(おぶね)” というのにお乗せ申し上げますから、八重(やえ)の汐路(しおじ)の中に一条の水路がございます。その汐の路(みち)に沿うてずっとこの舟に乗っておいでなさいましたならば、龍宮海(りゅうぐうかい)に達します。

 龍宮海は實相の世界、生みの底、一切のものを創(う)み出す “創造の根底世界” だから、何ものも失われたものはないのでございますから、そこへ御案内申し上げましょう」 と言って、塩椎神さまは 「無目堅間(めなしかつま)の小舟」 を拵(こしら)えて御案内申し上げた。

 その 「無目堅間の小舟」 が、この十字であります。(註。黒板に十を書く)。十字はこれ、キリストの十字架でもあるし、これが少し動き出すと佛教の卍(まんじ)にもなるし、もう一つはげしく動き出して回転すると日の丸になる。

 神佛耶(しんぶつや)、佛教もキリスト教も神道も、 「無目堅間の小舟」 に乗れば、一つになるのであります。

 佛教ではこれを 「如来(にょらい)の願船(がんせん)」 とも言う。 『旧約聖書』 では 「ノアの方舟(はこぶね)」 となっています。こののりものの中心――十字交叉(こうさ)の一点が “無の門関” です。

 禅宗の公案の本に 『無門關』 というのがある。私は、 『無門關解釋(むもんかんかいしゃく)』 という本を書いたが、この “無” の門関を超えて、時空を超越する境に達すれば、人間は自由を得る。図解を見て下さい。(黒板に縦横十字の線を描き)

 この縦の線は時間である。時間には目盛がある。時間の目盛のないのが “目無(めなし)” 即ち無時間――未(いま)だ時間発せずであります。

 それから横の線は、横ひろがりの世界、空間を表しているのであります。(掌を聴衆に向け、指をひらいて、指と指との間に空間を作って見せながら) 空間はこう開(あ)けると、空間ができますね、(次に指と指との間を堅く密着して示しながら) こうして堅く空間が詰まって空間が無くなったのが “堅間(かつま)” 即ち無空間で、未(いま)だ空間発せずの 「絶対無」 (未発の中 <みはつのちゅう>) であります。

 この十字交叉(こうさ)の中心の無空間・無時間の 「絶対無」 の一点に入るとき吾々は時間に捉われず、空間に捉われず、自由自在を得るのであります。
<つづく>

100復興G:2013/09/08(日) 00:52:06 ID:AB6RqYXc

<谷口雅春先生著 『無限供給の扉を開く』 より つづき>

 聖経に 「これを握れば一点となり」 と書かれているその一点が 「未発の中(みはつのちゅう)」 であって、一切が、その一点の中に掴(つか)まれている。ひろがりも長さもなにもない “無” である。現象としては何もないが、實相としては一切がそこにある。この “無” の関門を通ってですね、その奥に超入すると超時空の實相世界 (龍宮海) に達するのです。

   龍宮海――創造の本源世界へ入るには

 図解というものは時間空間面に描くので、その表面に現れているところはみな現象界だから、龍宮海(りゅうぐうかい)は図解の仕様がないのです。そこで “十” 字を描いた、この黒板の “十” 字の中心に穴をあけて、表面には現れていない奥へ入る――これが、一切のものを生み出すところの 「うみの底」 即ち龍宮海に入るということなのであります。

 すなわち 「無」 の門関から超入して 「入龍宮(にゅうりゅうぐう)不可思議境涯(ふかしぎきょうがい)」 になれば、そこに忽然(こつねん)として時間・空間以上の、超次元の世界を見出すのです。

 それが實相世界であり、龍宮海であり、七宝(しっぽう)が充満し、時間が無いから年老いず、空間がないから皮膚に皺(しわ)を生ぜず、病いなく、死なく、未だ何ものも失われることのないところの世界であります。

 その何ものも失われることがない龍宮海――創造の本源世界に入るための方法がこの “無目堅間(めなしかつま)の小舟(おぶね)に乗る” ということなのであります。

 それは、結局、神想観をして 「吾れ今五官の世界(時空の世界)を去って實相の世界に入る」 と、ズーッと、時間・空間の無い世界へ入って往くと、そこに一切のものを創造(う)み出すところの 「創造(うみ)の底」 の世界に達する。そこへ入ると、そこは一切のものを創造(う)み出す元ですから、何一つ失われていないのであります。

 それですから 『古事記』 の神話では日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)が “目無堅間の小舟” に乗って龍宮海においでになると、 「近頃、一尾(ぴき)の鯛(たい)がねえ、なんとかいう名の鯛が、 “喉(のど)が痛い、喉が痛い” といっているが、あれを呼んで来い」 ということになって、その鯛を呼んで来て、口を開かして喉を覗(のぞ)いてみると、ちゃんとそこに鉤が失われずに見出された、という風に書かれているのであります。

 皆さんは、紛失物を生じたとき、神想観をしてそれを探すと忽(たちま)ち見出した、というような体験を時々話されるのですが、それは、本来失われていない龍宮世界へ入って往くのだから、必要なものが見出されるわけであります。

 ある人は、泥棒に奪われとった財布が、一心に神想観をして 「何物も失われることはない。ここにその財布はある」 と念じたあと、屹度(きっと)あの財布は手許に還ると信じておったら、その泥棒が、自然に気持が変って、自分の盗んだ財布を今度は小包で送り返して来た――というような話をなさったのであります。

 そういうように神想観の功徳(くどく)というのは、現象界から功徳が出て来るんじゃなくって、實相世界の何物も失われていない境涯に入って往くことによって、そこから功徳を汲み出して来ることになるのであります。

101復興G:2013/09/08(日) 00:53:07 ID:AB6RqYXc

 上記は谷口雅春先生著 『無限供給の扉を開く』(谷口雅春著作集第8巻) からの謹写でありましたが、これは先生のご講義の音声と映像をもう一度拝聴・ご覧になっていただくと、いっそう魂にひびくと思われます。

谷口雅春先生ご講義
「久遠の今 上」
http://www.youtube.com/watch?v=e2ol5ztA3z8

「久遠の今 下」
http://www.youtube.com/watch?v=lDSwsxbLfes

この 「久遠の今」 こそ 「龍宮海であり、七宝(しっぽう)が充満し、時間が無いから年老いず、空間がないから皮膚に皺(しわ)を生ぜず、病いなく、死なく、未だ何ものも失われることのないところの世界」 であって、この中には過去も現在も未来も含まれているから、過去を変えることもできる(>>98

>>普通、過去は変化することが出来ないというけれども、過去も変化できる。そこから吾々は真理を自覚すれば過去の業(ごう)を消すことが出来るということがわかる。<<

とお教え頂いているのであります。

 「時間空間の中に生命が生れて来るのではなくして、生命が時間空間をつくるのである。時間空間は吾が心の中にある。時間空間は生命の掌中にあるのである。」(『叡智の断片』 p.213)

 「現象時間は(本来)存在しない、従って非存在の現象時間の中にある事物も存在しない」(『無限供給の扉を開く』 p.235)

――これが、「現象無し」 の意味だったのであります。
<つづく>

102復興G:2013/09/08(日) 16:24:18 ID:AB6RqYXc

<つづき>

 それですから、『無限供給の扉を開く』 p.250以下には、次のように結ばれているのであります。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

    真理を悟れば “業” は自ら消える

 ……生長の家では、

 「真理を知れば、人間はすべての業から解放される。人間は神の子であり、その實相は未(いま)だ嘗(かつ)て罪を犯したことはないのである。罪を犯したということは、それは迷いに過ぎないのであるから、實相の中へ跳入(ちょうにゅう)すれば、業も罪もない世界に出ることが出来る」

 というのです。……

    現象は “本来無し”

 「人間・神の子、本来罪なく、業(ごう)なく、病いなく、一切の悪はないのである」
 という實相の真理の中にとび込んでしまったときに、キリストが

 “汝は真理を知らざるべからず、真理は汝を自由ならしめん”

 と言ったように、完全に、 “業” とか “因果の法則” とかに縛られておった縛りが解けて、自由になれるというわけなのであります。

 その縛りが解けた状態が所謂(いわゆる) “解脱(げだつ)” である。 “解脱” 即ち一切の束縛を解き脱する。

 それですから、『涅槃経(ねはんぎょう)』 に 「解脱を以って佛となす」 と書いてあるように、一切の業や過去の罪から自由に解放された人間が、所謂佛陀であり、覚者であり、悟りを開いて解けてしまった者であるから、ホトケなのであります。

 こうして一切の束縛からホドケてしまったとき、人間は本来 “神の子” なる自由を恢復する。そしてすべての功徳があらわれることになるのであります。

 この真理を悟ることによって一切諸悪の根元が根本的に消えていくことになるのであります。

 この過去の原因たる業を少しずつ果しながら修行によって、業を減らして行くという 「自力の方法」 もあるのですけれども、現象界の自力の努力によって原因を減らして行く方法は五の原因があったのを三つだけ減らしたといっても、まだどこかに二つ借金が残っているというのでは、また別の形で報いが現(で)て来たりするのですから、それでは、まだ完全に救われたと言えないんです。それでは、まだ完全に罪から解放されているとは言えないんです。

 「罪」 というものは過去に 「積み」 てある――積み重ねてあるところの “業の集積” である。これが 「罪」 です。

 そういう「業の積み重ね」というものは、「現象は本来無」 であるという生長の家の哲学によってスカーッと戴断して切ってしまうとき、あしき現象はなくなり、罪は消え、一切の悪しき業因は消えてしまって、第一原因である一番最初の、本の、不滅の原因である 「人間は神の子である」 という人間存在の根本原因に対する善き結果のみが、ここにこう現れてきて、諸君の生活に、神の子たる實相にふさわしい永遠に祝福されたるすがたが實現してくると、いうことになるのであります。

   (『無限供給の扉を開く』 p.250〜p.254より抜粋謹写)

103復興G:2013/09/08(日) 16:27:41 ID:AB6RqYXc

 私はかつて 「本流対策室/4」 の >1062 に

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1349267312/1062

 と書いていたのを志恩様が探し出して下さり、「本流対策室/5」 の >2687 に

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1358853467/2687

>>今、「業本来無し」 の 「久遠の今」 に立ち還らねばならないと気がついたと申しますか、再確認致しました。

「久遠の今」 に立ち還れば、そこは 「業」 のない本源世界ですから。

そこは、既に一切が大調和している世界です。
そこから出発しなければならないと気がつきました。
ありがとうございます。

……まだまだこれからですから、希望を持って、生命をかけて精進してまいりたいと思います。<<

 と書いております。

 その 「業を消す道」 と言いますか、「業が自ずから消える道」 が、この 「久遠の今」 に立ち還るところにあったのであります。

 ここに業を超えた本源世界があり、「生長の家」 の原点があり、ここに立ち還る時、「和解」 は自ずから成る。いや、すでに成っているのですから、「和解せよ」 と叫ぶ必要もないのであります。

 これを讃えた歌が聖歌 「生長の家の歌」 であると思います。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

    生長の家の歌  谷口雅春先生作詞(聖歌)

  (一)基教讃歌

あまつくに いまここにあり
我(われ)ちちの みもとにゆけば
なんじらの うちにきたると
十字架に かかりしイエスは のたまいぬ
あわれ世のひと 十字架は
にくたいなしの しるしなり
此の肉体を クロスして
我神の子と さとりなば
久遠にいのちかがやかん
久遠にいのちかがやかん

  (二)仏教讃歌

衆生(しゅじょう)劫(こう) つきてこの世の
焼くときも 天人みつる
我が浄土 安穏なりと
釈迦牟尼の 宣(の)りたまいしは 現象の
この世かわるも 実相の
浄土はつねに 今ここに
久遠ほろびず 燦々(さんさん)と
まんだらげ降り 童子舞う
光輝く世界なり
光輝く世界なり

  (三)古事記讃歌

天津日子 火遠理(ほおり)の命(みこと)
現象の わなにかかりて
海幸(うみさち)を 我(が)の力にて 釣りたまう
されどつりばり 失いて
まがれる鉤(はり)に まようとき
しおづちの神 あらわれて
めなしかつまの み船にて
龍宮城に みちびきぬ
龍宮城は いま此処ぞ
龍宮城は いま此処ぞ

  (四)万教帰一讃歌

しおづちの うみのそここそ
創造の 本源世界
汝らの 内にありとて
キリストが のりたまいたる 神の国
この世焼くるも 亡びずと
法華経の説く 実相の
浄土 何(いず)れも ひとつなり
十字まんじと 異なれど
汝(な)のうちにある天国ぞ
汝のうちにある天国ぞ

104復興G:2013/09/11(水) 22:43:10 ID:AB6RqYXc

 さて、あとしばらく谷口雅春先生の御講話を謹写掲示させて頂きます。

 谷口雅春著作集第6巻は 『霊性の目覚め』 というタイトルです。この本に、谷口雅春先生が青年に期待される熱烈な御講話の記録が載っておりますので、その 「人生必勝の真理」 という章から、一部謹写させて頂きます。これは初出 「理想世界」 昭和37年8月に掲載されたものです。途中省略したところは、「……」と表示させて頂きます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

<谷口雅春先生著 『霊性の目覚め』 より
昭和37年5月5日 早稲田大学記念会堂における青年と学生のための講義>

     人生必勝の真理

   すべての人は無限の富者である

 ただ今ここでお話しになられましたのは僕の家内であります。(明るい笑いと拍手。奥様の著書『いのちの旅路』の最初のページをひらきながら)ここにその写真があるのであります。……この中に結婚当時の話がちょっと書いてあるのであります。(『いのちの旅路』を朗読される)

 「……私が谷口家に嫁いでしばらくした頃、實さんの母堂の言葉が私に伝わって来た。

 『輝子はんは、おぞいところへ嫁(ゆ)かしゃったそうや。可哀そうに』

 おぞいという言葉は、貧乏とかみすぼらしいとかいう意味の方言である。私はそれを聞いた時歯をくいしばった。

 ……おぞいという言葉の中には、あわれみと軽蔑の意味があった。しかしその頃の私は、あわれんで欲しくもなく、軽蔑はもとより受けたくはなかった。私は貧乏を恥かしいとは些も思っていなかったからであった。

 それからの三十年、幾山河を乗り越えながら、私は今この道を歩いている。生長の家の教えが伸び拡がって、世に広く知られて来た。富枝さんからでも聞かれたのか

 『輝子はんの旦那さんは偉い人やそうな』

 と母堂が言われたと聞いて私はおかしかった。私の夫は、三十年前も今も同じ人である。物質が豊かであろうと貧しかろうと、人間としての価値に変りはないからである。

 二十五歳の時も理想をもって貧しい人と結婚し、その理想の実現のために生ぬいて来た。六十歳をすぎた今も、理想のために生きつづけている私たちである……」

 と書いてあります。

 ここにある 『幸福はあなたの心で』 という本の著者のトラインという人は、自動車王のヘンリー・フオードに、

 「あなたは二十五年前は無一物だったそうですが、今は巨億の富をもっていらっしゃいます。どのようにしてあなたはそのような巨億の富を得ることができたのですか」

 と言って聞いたというのであります。そうしたらヘンリー・フォードが、

 「私が二十五年前は無一物だったとおっしゃるんですか。そうじゃないですよ。私は二十五年前から無限のものを自分の内に持っていたんですよ。いや、そうではない、すべての人は自分の内に無限を持っているんですよ」ということを言ったというのであります。

   無限のチャンネルに波長を合わすには

 私は今から約四十年前、家内と結婚する時にですねえ、――結婚してから家内になったんです、家内と結婚したんじゃない、お嬢さんと結婚して(明るい爆笑)それで家内になったんですね――その時に、

 「あんなおぞい谷口さんと結婚したらだちゃかーん」

 と言って警告してくれた人もあるんだそうですがねえ、「だちゃかん」というのは「埒(らち)あかん」という言葉の富山県の方言らしいですがね。「おぞい」というのはこの本にも書いてあるように、おぞましい、いじましい、きたならしい、貧乏たらしい、というような軽蔑した人を卑しんだ言葉であったわけなんです。

 その卑しく人に見えていたその時から、やっぱりこの谷口雅春には “無限” が自分の内にあったんだというわけで、今から四十年前も今の谷口雅春も、やっぱり同じことなんです。
<つづく>

105復興G:2013/09/12(木) 18:25:14 ID:AB6RqYXc

<谷口雅春先生著 『霊性の目覚め』 より 謹写つづき>

   第一流の仕事をするための源泉

 ここにこう書いてある。

 「宇宙にはただ一つの力の源泉がある。だからあなたがたとえ画家であろうと説教者であろうと音楽家であろうと著述家であろうと宗教家であろうと何であろうと、そのただ一つの力の源泉に皆さんが波長を合わせばいいのである。」

 そこに人生必勝の原理というものがあるわけです。

 「その力の秘密をとらえてわがものとするように、この真理を知らなければならないのである。あなたがこれに失敗するならば、あなたは万事について失敗するであろう。若(も)しあなたがこれを為すことに失敗すれば、あなたの仕事はそれが何であろうと第一流の仕事とはなり得ないで、たまには二流ぐらいは得られるかもしれないが、まあ多分三流四流に伍(ご)するにとどまり、決して絶対に斯界(しかい)の王者としてその王座を占めることはできないのである。」

 こう書かれているですねえ。それで皆さんは、この絶対なる無限の力のある神様と私とは一体だという自覚を得ること、これが人生必勝の原理であり、皆さんはそれを自覚しなければならない。それにはこういう詩を読むといいですね。
 (『幸福はあなたの心で』 219ページの詩朗読)

     *   *

  おお、神よ、わたしは永久にあなたと一体
  神と一体なる生命の光栄うけて天上の喇叭(らっぱ)がそれを吹奏するとき、
  大地はこだまして六種(りくしゅ)に震(ゆ)れる。

  不滅者の生命より受けし天賦(てんぷ)の権能(けんのう)を想うとき
  わが存在は薔薇(ばら)の蕾(つぼみ)のように花開き
  優雅なる香りは雲となって
  わが上にわがまわりにかぐよう。

  よろこびの栄えの讃歌を
  われは聴く魂の深き底にて
  その歌は天上にて奏でられける
  聖(きよ)くして明るき曲の天使のコーラス。

  かくてわが内に湧きたぎる力は
  恰(あたか)も聖胎(せいたい)に妊(やど)れる神の子の胎動か
  われは輝く聖雲にとりかこまれて
  地上より天上へと天翔(あまかけ)る。

    天国浄土はあなた自身がつくる

 こうして 「おお神よ、わたしは永遠にあなたと一体」 ――こういう自覚を、皆さんは常に持たなければならない。それは言葉の力によって常に唱えることですね。「おお永遠なる神と自分とは一体である」 ということを。電車にのっていても道を歩いていても、始終それを唱える。生長の家の宗教は決して死んでから極楽に行くと言うような、そういうまだるっこい “未来の幻想” のようなことを単に約束している宗教ではない。

 無論われわれが肉体を脱して霊魂だけになっても、その行く先は心の展開する世界であるから、この地上の世界に居る間に幸福になれる心を、どこに行っても自分が人生の勝利者となるところの心をもって、肉体を脱して霊界に行けば、霊界もやっぱり自分の心の支配するところである。現象界は今この世はどうにもならんけれども死んでから南無阿弥陀佛(なむあみだぶつ)と唱えたら魂だけは極楽へやってもらえるんだなんていうような、そんな下らない迷信みたいなことを信じておったんでは、本当に値打はない。

 今現にここに天国浄土をつくることができない心がどこへ行ったって天国浄土はつくられはしないのである。天国浄土というのは容(い)れ物ではないのである。天国浄土という容れ物があってそこへ入ったら極楽であると考えると間違いでありまして、天国浄土というものはそんな下らないものではないのであります。天国浄土は諸君自身の心でつくるものです。

 それではわれわれが必勝の生活を送るのには一体どうしたらいいのであるか。
<つづく>

106復興G:2013/09/12(木) 23:04:30 ID:AENtSm/U

<谷口雅春先生著 『霊性の目覚め』 より 謹写つづき>

 これは 『幸福はあなたの心で』 の第三章にこう書いてあります。

 「人間の生命――あなた方の生命も私たちの生命も引っくるめて――その最大の中心的真理は、吾々の生命は此の大生命と一体である、随(したが)って、私たちはこの真理を意識的に生き生きと自覚すれば、意識的に神の聖なる流れに充分完全に自分の心の窓を打ち開き得る筈であるということである。」

 われわれは神様の生命が宇宙に充満している、その中に住んでいる。ちょうど海原(うなばら)の中に海綿(かいめん)がいるようなものである。海綿は海の中にあるけれども、同時に海の中にあるところの自分が、海が又海綿の細胞の中に浸入して、そして自分は海の中にあり海が海綿の中にあるというように、こう一体になっているんですね。

 それで皆さんも、自分は神の大生命の中に居り、同時に神が自分の中に居るのであって、神と自分とは分ちがたく一つであるという、これを自覚しなければならないのであります。それにとって必要なのは、今まで人間というものは實につまらない小さい存在であると、このように思っておったが、この小さき罪あるところの人間が、罪の子が、本当の人間ではないことを知らなければならない。人間が罪の子であると考えることは、自分を自己処罰し、自縄自縛(じじょうじばく)してしまうということになるのであります。

   宇宙に充満するものと感応する

 この運動は一体誰が始めたのであるかと皆さん思っていますか。谷口雅春が始めたのであると思っていると間違いである。そんなおぞい、小さい、貧乏くさい谷口雅春が(>>104)始めたのではないのである。これは宇宙に充つるところの大神、實相の大神がですねえ、この世界浄土のためにこの教えをせられたのであって、その大いなる神がやっぱりすべての人間に宿っているのである。

 その自分の内部にあるところの神性佛性にちょっとネジを捻(ひね)ったらよい。ちょうどラジオのスイッチを捻るように、テレビのチャンネルのつまみをちょっとねじるようにですね。そうしたら、そこにスイッチが入ると宇宙に満ち充ちているところの大いなる力と感応するということになるわけなんです。

 それで今から四十年前には「おぞい、おぞい、あんなおぞい男と結婚したらだちゃかん」と、お嬢さんに進言した人がある、そのおぞい者がですね、ここでこうして講演をすると、こんなに一万人もの人が集まってくるというようになったのはこれは僕の力ではないのである。

 それは僕に宿っているところの神にスイッチを入れた、ちょっと撮(つま)みを捻(ひね)ったんです。皆さんも撮みを捻ればいいんです。撮みを捻ったら宇宙にみちている大いなる力がここにくるんです。ほんのちょっとしたことですよ、撮みを捻るのは。うゥーんと気張らなければならんことはない。神様の方がちゃんとやってくれる。
(中略)

   闘争精神は戦争の根源となる

 みな自己縮小してしまうんです、その自己縮小することが罪悪なんです。罪ということは、その語源を尋ねると、「ツツミ」ということである。本来 “無限の力” があるのを包んでいるのが、それが罪である。「ツツミ」のツが一つにつづまって、ツミ(罪)というわけなんです。自分のうちにある無限を自覚しないことが、それが罪なんですねえ。それを自覚すればよいわけです。

 この世界は先ず心によってつくられた、そして心によってつくられたものが形の世界に現れてくるのでありますから、心に闘争精神を立ち騰らせておいてそして闘争が具体化して、それが雨のように降ってこないことを願ってもそれは駄目である。闘争精神は肉眼に見えない、ちょうど水蒸気が蒸発するように、見えないけれども、それは或る条件のもとで結晶して水滴となって雨となって降ってくるということになる。

 それで争いの心、戦いの心、闘争の精神を始終立ちのぼらせておいたら、それは或る条件のもとにおいて具体化して、それが戦争となって雨降ってくる、原爆水爆となって雨降ってくる。その精神原理を知らないから、彼らは自分は平和運動の親玉のような顔をしてワッショワッショと行列して歩くのだけれども、彼等は結局世界の危機を精神界において積み上げているところの非常なる罪悪を犯しているものだと言わなければならないのです。

 この戦争の予言は『生命の實相』の第一巻に書いてある。……

 これの中に「心の世界における運命の形成」という一章があるんです。113ページです。これが分かればさっき言いましたように争いの心を起こしたらそれが形に現れてきて、そして戦いのもとになるんだということが分かるわけなんです。……
<つづく>

107復興G:2013/09/12(木) 23:14:27 ID:AB6RqYXc

<谷口雅春先生著 『霊性の目覚め』 より 謹写つづき>

   日本は無謀な戦争をしたのではない

 こうして高級霊の祈りによって戦争(第一次世界大戦)は中断され、あのヴェルサイユ平和条約以来、人類は十年ほど平和を楽しんだ。それから又ヒットラーが起ってきて、第二次世界戦争になったわけなんです。あの第二次世界戦争のときに日本はそれにまき込まれて、いわゆる大東亜戦争ということになって一年間は連戦連勝して南方へ殺到して行ったのであります。

 昨日は私は、あの戦争には日本の天皇には責任はないという話をしたが、日本の天皇は専制君主ではないから、御自分だけが戦争反対であっても、皆責任ある大ぜいの人が議決して、ふえてゆく日本の今後の人口問題ということを考えたら、どうしても満洲国から引っこめというアメリカのハル長官の言いがかりに “ハイ” とお辞儀するわけにはいかんのである。

 アメリカに負けてもいないのに、日露戦争をしてロシアが侵略してくることに対する防衛戦争をして勝ったために、当時の国際慣例に従って、負けた国が自分のもっている利権を賠償として提供するということは当り前のことであって、その利権をロシアから賠償として提供された満洲国に日本人が移住して行って、将来の日本の人口問題を解決し、今のように胎内の子供を殺さないでもいいようにしとこうと思って出来たところの満洲国を、ただアメリカに言いがかりをつけられただけで、日露戦争のときに明治のわれわれの祖先が血を流してやっと得たところの、将来の日本人口の解決の基礎であるところのその国を “ハイ” と言ってお辞儀をして抛棄して引っこむということは常識で考えても出来ない。いくら天皇陛下だけが戦争を反対と言ったって、それは出来ない、それで多数決でアメリカを叩いて蒋介石への武器の供給を絶とうと決定したのだという話をしたんです。

 今の池田首相は、日本は無謀な戦争をやったというようなことを、最近どっかで首相談話として発表しておったけれども、大変な間違いである。あれは決して無謀な戦争ではない。人間界で言っても無謀ではない。けれども霊界的に言いますと、心の世界から言うと、あるべきものがあるべくして現れてきたということができる。

 それは人類進化の上から言うと、どんな皮膚の色をしているものも、みんな神の子であって平等の神格をもっている。それが不平等のとりあつかいを受けて、その国の領土は属国となり植民地となり、人間は奴隷の如く踏みにじられているということは、これは人間が未だ目覚めていない間のことである。

 地上の人類が進化して魂の目覚めの時期が来たら、どうしても、いままで白色人種の属国となり植民地となり奴隷となっておった者は、自ら目覚めて民族精神をふるい立たせてそして独立するということは当然のことであってこれは人類進化の当然の順序である。

   アジア・アフリカ民族の独立をうながす

 しかしながら、南方の民族がその自覚を得るためには或る動機が与えられなければならない。それには日本の国が一度参戦して一年間は連戦連勝して、南方に殺到し、白色人種を駆逐(くちく)した實例を見せて、今まで有色人種の民族は白色人種にはとてもかなわんのだと諦めて、どんなに圧迫されてもお辞儀しておった南方諸国の民族に対して、「ああ日本民族は色がついた民族だけれどもよくやりおる、白色人種をあんなに圧倒するじゃないか、われわれも色がついておったってやっぱり人間神の子だ」 という自覚をよび起こさせてやる必要があった。

 これが地上の人類進化の過程として起るべきことが起ったので、どうしても日本はあの戦争に参戦しなければならなかった。これは地球上における人類進化の過程として当然のかくあるべくしてあの戦争は起ったのである。だから、そういう方面から考えても決して無謀の戦争ではなかったわけなんです。

 皆さんのお父さんが、或はお兄さんが、夫が参戦して戦死した人も、あれは犬死(いぬじに)をしたと思っている人があるかもしれないけれども、決して犬死をしたのではないのである。まことに偉大なる功業を為しとげたのです。即ち人類はすべて神の子であって平等の尊敬をもってとり扱わなければならないという真理に、すべての有色民族を目覚めしめるために、命を捨てたのである。
<つづく>

108復興G:2013/09/12(木) 23:15:37 ID:AB6RqYXc

<谷口雅春先生著 『霊性の目覚め』 より 謹写つづき>

 そして日本の国は一ぺんは十字架にかかって、彼は無謀の戦争をしたのである、その結果敗戦して占領されたのであると悪口を言われて、ちょうど、キリストが磔けになった時に、「あれを見よ、あれを見よ、あのキリストは、多くの病人を癒したり、いろいろのことをして人を救ったが、人を救いて自らを救い得ざる者よ」 と言って嗤った人があるけれども、それと同じように南方の民族をみんな独立させてやって、自分は占領されて、「他を救いて自らを救い得ざる者よ」 と嗤(わら)ったかもしれんけれども、しかしながら、これは日本の国が十字架を背負うて他の民族を救うたので、まことに日本民族はキリストの如き使命をもって出て来たところの民族であって、實に尊き民族だと知らねばならない。

   建国以来滅びざる国日本

 キリストは磔(はりつ)けにかかって三日にして甦ったが、日本もこうして十年前にサンフランシスコ条約が結ばれて、はっきりと占領軍は占領終了ということになったんですねえ。しかしながら、あれは占領終了であって、日本は独立して十年なんて言って新聞にも書き、池田首相談話として載ったりしていたけれども、あれも又大変な間違いである。日本は未だかつて滅びざる国である。皆さんはそれを知らなければならない。神武建国以来二千六百二十二年、未だかつて滅びざる国である。

 「だって占領軍に占領されたじゃないか」と言われているけれども、僕の家はまだ一ぺんも占領されたことはない。皆さんでも、一ぺんでも進駐軍に降伏した人がありますか。あったら手を挙げてごらんなさい。そんな人は一人も日本国民にはないのであります。何が降伏したかというとあれは日本の軍隊が降伏したのである。それはこの『秘められたる紳示』の中にはっきり書いておきましたから、それをみなさん読んでいただきたいのであります。

 ポッダム宣言の第七ヵ条には、日本の国を占領するということは書かれていないということを知らなければならないのであります。こう書いてあるですねえ。第六条には日本国の戦争遂行能力を破壊してそして民主主義化しなければならないということが書いてある、それを受けて第七条には、

 「右の如き新秩序が建設せられ、かつ日本国の戦争遂行能力が破砕せられたることの確証あるに到るまでは連合国の指定すべき日本国領域内の諸地点は、吾等のここに支持する基本的目的の達成を確保するため占領せらるべし」と書いてあるのです。日本の国土を占領するんじゃなくて、日本国領域内の諸地点です。英語の原文は、points即ちぽちぽちと点を占領するのである。点というものは幾何学的に言っても面積がないのであります。

 それで日本国に平和的な秩序ができ、戦争遂行の能力がなくなったということを確保するまで、それに必要な諸地点を、点をぽつぽつと占領するというのがポツダム宣言でありまして、日本国全土が占領されたなんて考えておる人がよっぽど錯覚にとらわれておったということなんでありますよ。ね、一度も日本国全土は占領されたことはない。みなさんの家だって占領されないでしょうが。

 それでポッダム宣言の第十三ヵ条には「吾らは日本国政府が直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、かつ右行動に於る同政府の誠意につき適当かつ充分なる保障を提供せんことを同政府に対し要求す」とある。この通り日本政府も降伏するんじゃないんですよ。日本国も降伏するんじゃない。いわんや日本国民も降伏するんじゃない。政府は厳然として存在し、その存在する政府が日本国軍隊の無条件降伏を宣言するというわけなんです。

 これがポツダム宣言であって、この宣言を受諾するかどうかという談判があったわけです。それからミズリー号の艦上に於いて昭和二十年九月二日、午前九時四分、日本国政府の名において、重光外務大臣が署名した降伏文書にも、日本が降伏したなんて書いてない。「下名は(下に名を連らねた人たちは)ここに日本帝国大本営並びにいずれの位置にあるを問わず、一切の日本国軍隊、日本国の支配下にある一切の軍隊の連合国に対する無条件降伏を布告す」と。ただこれだけのことである。

 無条件降伏したのは日本国の軍隊であって、決して日本国ではない。日本国は未だかつて占領されたこともなければ降伏したこともないのであって、二千六百二十二年未だ神武建国以来一度も滅びたることのないところの神聖なる国である――このことを是非みなさん知っていただきたい。それが先ず、日本人としての必勝の自覚の――人生必勝の自覚を得るための根本条件ですよ。
<つづく>

109復興G:2013/09/12(木) 23:16:24 ID:AB6RqYXc

<谷口雅春先生著 『霊性の目覚め』 より 謹写つづき>

   真の日本人は今なにを為すべきか?

 みなさんは学校で、日本は悪い国で、そして他国を侵略して、その罰が当って負けやがって、そういう悪い国に生れて、どうにもならない悪い国の国民の一人であるなんて、教えられたということである。教師からそんな事を教えられて劣等感を植えつけられておったら、必勝もへちまもありはしない。われわれ日本人は、未だかつて滅びざるところの偉大なる、古今無双の、世界中で一番神聖なる一番立派なる国に生れたのだ。

 そしてどんなときにも国民の身がわりになって、「私は絞首刑になってもいいから国民を助けてあげたい」と言われた、そういう立派な至仁至愛、無私の天皇をいただいて、未だ滅びざる日本の国の国民として生れている光栄というものを自覚していただきたい。そして、そこに生れた日本人が今なにを為すべきかだ。

 吾々日本人は、すでに大東亜戦争によって有色人種が白色人種の奴隷となっているのを、自ら敗戦という形をとって彼らを解放した。これはまことに偉大なる功業である。この次には何を為すべきか、いまや第三次世界戦争が始まろうとしている、それを皆さんは防ぐために世界平和の祈りをやるべき、そういう尊い使命をもっておられるんですぞ。
  〈初出 「理想世界」 昭和37年8月号〉

 <谷口雅春先生著 『霊性の目覚め』 より抜粋謹写〔完〕>

110一読者:2013/09/13(金) 00:40:00 ID:???
復興Gさまの
谷口雅春先生著 『霊性の目覚め』 より抜粋謹写
を読ませていただきまして、何故雅宣総裁がこの本を事実上絶版にしたのか
という事が解りました。

この聖典がきっかけとなり愛国書は次々に絶版とされたんですね・・・

111復興G:2013/09/13(金) 10:28:46 ID:AB6RqYXc

>>110 :一読者さま

ありがとうございます。

私は、今こそ 「世界平和の祈り」 を徹底して、2020年東京オリンピックを成功させ、「神の国」 の平和実現へのすばらしいチャンスにすべきではないかと思っています。

112復興G:2013/09/13(金) 21:20:20 ID:AB6RqYXc

 これからまた、榎本恵吾先生の 『神癒の展開としての人類光明化運動』 のつづきを謹写させていただきます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八十二

 「基本的神想観」 から 「入龍宮幽斎殿(にゅうりゅうぐうゆうさいでん)にての神想観」 まで、色々な神想観があるが、無の門関に坐する時、もはや神想観そのものも無いのである。

 肉体無く、物質なく、時間なく、空間なく、自他なく、一体なく、現象なく、實相なく、内も無く、堂奥(どうおう)もなく、その無しも無く、その無しの無しも無いのである。

 「無い」 と言えるところの全ての全てが無いのである。ただただその一筋が 「無の門関」 なのである。

 最早(もは)や生長の家人類光明化運動も無く、その無も、その無も無いのである。

 ただただ 「無い」 と言えないものだけが在るのである。 「無い」 と言えないものとは、知る必要の無いものなのである。

 「無い」 と言えないものが在るものである。当たり前のことである。天然、自然、法然である。これを實相というのである。 「實相これ實相に非ず。これを實相と言う」 である。この實相のおのずからなる展開として人類光明化運動が在るのである。天然、自然(じねん)、法然(ほうねん)、本然(ほんねん)のいのちの流れである。水が高きから低きに流れるが如く法さながらである。

 「久遠(くおん)を流るるいのち」 とは 「久遠なるものの久遠さながらの展開」 を言うのである。久遠という時間の枠の中をいのちが生くるのではないのである。久遠なるものといのちとはひとつなのである。

 この久遠なるものはみずから久遠なのであって、時間に計られて久遠なのではないのである。生長の家人類光明化運動が久遠を流るるいのちそのままであるというのは、この久遠なるものの流れを意味しているのである。

 久遠なるものは計ることは出来ないのである。なぜならば、計る自分は無いからである。

 無限を計ることは出来ないのである。なぜなら、計る自分そのものが無いからである。自分がないということを表しているのが 「無限」 という字なのである。 「限り」 とは自分ということであり、 「無限」 とは自分が無いことそのことなのである。 「無限」 とは自分は要らないということである。

 神は無限次元である實相の世界を三次元という現象世界に限定され給うたからこそ、表現としての現象世界が現れたのである。それ故、限定ということは必ずしも忌み嫌うべきものではないのである。大聖師谷口雅春先生も執筆とご講習会とに生活の殆どを限定され給うたが故に、奇蹟の聖典やみわざを現されたのである。

 それ故、神である生長の家人類光明化運動も、その展開の相(すがた)において、美しい限定というものがあらわれるのである。そこに 「出来るものは出来る」 とし、 「出来ないものは出来ない」 とし、時間的順序を追って徐々に展開実現して行くということが尊いこととなって来るのである。

しかしながら、これらはすべて 「無の門関」 を通って、 「無し」 と一切を放(はな)った上でのことであるから、美しい相(すがた)であり、輝く相として拝めて来るのである。

 限定は何故美しいか。限定そのものが成仏しているからである。ただただそこには成仏の輝く相(すがた)があるのみなのである。

 「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」 とか、 「不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)」 とかということは、すべて 「無の門関」 を通って、一切現象を放(はな)って放って、放ち切ったところに、天降(あまくだ)って来る風光(ふうこう)なのである。

 生長の家人類光明化運動の前には、ただただ光りのみなのである。(1998.9.20)

113復興G:2013/09/14(土) 22:23:07 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八十三

 身量無量(しんりょうむりょう)、音声無限(おんじょうむげん)、色像(しきぞう)無辺、芳香無限、光明無限なるみずみずしき生きものが生長の家人類光明化運動なるものの大實体なのである。 「生きものを把(つか)め」 という言葉を発した人は、生長の家人類光明化運動の大實体にふれた人であったのである。

 「よろこびの光明化運動」 とは、生長の家人類光明化運動なるものの大實体が歓喜、平安そのものであることを意味しているのである。

 「私はよろこびそのものである」

 と、生長の家人類光明化運動なるものは吾が内にありて、吾れとなり給うて、鳴りひびいてい給う神なのである。無限なる音声(おんじょう)を以て、無辺なる色像(しきぞう)を以て、無限なる芳香をもって輝き満ち尽し給うているのである。

 住吉大御神は、生長の家人類光明化運動の神格なる本体を表現しているのである。

 「私は住吉大御神である」

 と吾が内に在(いま)して、生長の家人類光明化運動なるものは、宣(の)り給うているのである。

 「住吉大神宇宙浄化を祈る神想観」 とは 「生長の家人類光明化運動宇宙浄化を祈る神想観」 ということなのである。生長の家人類光明化運動が出でまして宇宙を浄め給うのである。

 「住吉大神宇宙を浄め終りて天照大神(あまてらすおおみかみ)出(い)でましぬ」 とは、住吉大御神が天照大御神となってい給う、ということなのである。

 天照大御神は渾(すべ)ての渾てであり給うが故に、住吉大御神であり給うのである。

 この時から、住吉大御神は天照大御神となってい給うのである。生長の家人類光明化運動は実は天照大御神となってい給うのである。天照大御神は、生長の家人類光明化運動となって出でましているのである。至るところ、天照大御神のみなのである。

 宇宙創造の大本源神こそ、生長の家の大神であり給い、生長の家人類光明化運動そのものであり給うのである。観世音菩薩は尽十方無礙光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)であり給うとはこのことなのである。

 すべてを天照大御神のすがたとして観じ拝して行くのが、即ち、天照大御神が天地すべてをご自分のひろがりとして観じ、拝し給うように、生長の家人類光明化運動なるものが、ご自分の展開として、そこに天照大御神のひろがりを観じ、拝して行く時代の到来こそが新しき世紀の到来を意味していると拝察されて来るのである。

 「山川草木国土悉皆成仏、有情非情同時成道」 と拝まれ給うた時、釈尊は生長の家人類光明化運動そのものであり給い、天地万物一切に天照大御神のすがたを観じ拝まれ給うていた、と解する時の到来なのである。

 「天照(あまてら)す御親(みおや)の神の大調和(みすまる)の生命射照(いのちいてら)し宇宙(くに)静かなり」

 とは、全實在宇宙そのものが天照大御神の全身であり、天照大御神のみであり、渾ての渾てであり給うことそのことが大調和(ひとつ)であり、静かであることなのである。 「静か」 とは、絶対なるもの、ひとつなるものが、無限創造なるものが、それらしくあり給う、そのままを意味しているのである。

 渾ての渾てであり給うが故に、すがしさの極みであり、さやけさの極みであり、聖(きよ)けさの極みであり、安けさの極みであり、みずみずしさの極みであり、かそけさの極みであり、澄み切りの澄み切りであり給うのである。これが生長の家の人類光明化運動の大實体なのである。

 いよいよ生長の家人類光明化運動はその大實体を吾らの前にあらわしつつあると拝察されて来るのである。(1998.9.21)

114復興G:2013/09/15(日) 20:29:02 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八十四

 この世に悩むものが一人も居なくなったら生長の家人類光明化運動は終わりとなるということではないのである。神は永遠に久遠に今も休むことなく働き給うているのである。悩みに対する救済運動だけが、運動ではないのである。運動それみずからの運動こそが神であると言う運動なのである。

 生長の家人類光明化運動が神であるという意味は、完全である世界において、いよいよ完全のみの創造としての運動がいよいよ続くという意味なのである。創造することそのことが本性であるが故の創造ということである。

 神ははじめのはじめから不完全は見給わないのである。光りは光りするのみであり、暗(やみ)を知らないのである。それ以上に神である生長の家人類光明化運動は暗、不完全、救わなければならないものというものと出会っていないのである。

 神は天国そのものであるから、神である生長の家人類光明化運動も天国そのものなのであり、光明一元的展開があるのみなのである。

 「神は今に至るも働き給う」 ということは、働きそのものが神であり、生長の家人類光明化運動そのものが神であるということなのである。

 「完全のみの世界であるならば、何故、生長の家人類光明化運動が必要なのか」 という問題は、問題自体が 「私は無いのです」 とみずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびの聖なる輝きとなっているのである。

 久遠(くおん)生き通しのいのちを拝んでいるのが生長の家である。それ故に、生長の家人類光明化運動も久遠生き通しなのである。

 永遠の構図においての 「神と偕(とも)に創造する悦び」 とは、永遠久遠なるものとして構図し、久遠なるものとして創造することを意味しているのである。

 今は久遠であり、久遠は今なのである。時間の積み重ねに久遠があるのではないのである。今こそが實在であり、實在しない久遠というものは意味をなさないのである。

 「もしもすべての人々が救われてしまったならば……」 というような未来は無いのである。あるのはただ 「今、ここ、久遠」 のみなのである。

 「今に至るも神は働き給う」 とは、今のみ實在であり、永遠価値の創造は今にのみあり得ることを意味するのである。

 實在しない価値ということは有り得ないのである。今であるからこそ働きということは存在し得るのである。今のみが實在の渾(すべ)ての渾てであるからである。

 生長の家人類光明化運動には練習は無いのである。なぜならば、練習は本番という未来即ち無いものを相手にしているのであり、生長の家人類光明化運動は神であり、實在であり今であるからである。神は完成そのものであり給い、今、本番そのものの荘厳であり給うからである。

 生長の家人類光明化運動の荘厳は今なるものの荘厳にほかならないのである。

 「未来がなければ、運動方針も何も成り立たないではないか」 ということ勿(なか)れ。 「未来が本当にあるのか? あるのなら今ここに持って来て下さい」 という荘厳な問いが先であり、厳粛なる現実問題なのである。

 第二祖 慧可(えか)禅師が達磨(だるま)大師から 「その悩む心を持って来い」 と言われて、三日三晩、七転八倒して持って来ようとしたが 「終(つい)に得ず」 と言った。無いものを持って来ようがなかったのである。

 少なくとも、生長の家人類光明化運動は無いもののためにあるのではないのである。(1998.9.22)

115復興G:2013/09/17(火) 07:47:41 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八十五

 大聖師谷口雅春先生は、飛田給での練修生生活を終えた八人の者が本部に入る時、たまたま私の書いた論文をお読み下さり、

 「あなた方八人しか生長の家を知らないとしたら、どうするか。を考えなさい」

 とのお言葉を下さったのである。

 その時、私には 「あなた一人しか知らないとしてどうしますか」 との問答の問いのように想えたのであった。そして今でもそのテーマを片時も忘れたことはないのである。そのことから想うと、生長の家人類光明化運動のすべての責任は自分一人にあるのである、ということになると想う時、山口悌治(やすはる)先生が常に常に言われていた 「一切者の自覚」 ということが、今朝の神想観において心新たに想い浮かんだのであった。

 職場のことでもなんでも、本当は自分一人でやらなければならないことなのだ。すべてのすべて自分一人でやらなければならない筈のことなのであった。それを観世音菩薩が部員となって顕れ給いて、やって呉れているのだ、と想うと何か厳かな合掌という気持になったのである。

 生長の家人類光明化運動のすべてのすべては本当は自分がしなければならないところを、観世音菩薩がすべての人々となってやって下さっているのだと深いところから想えて来たのは、この 「覚え書き」 の中のうれしいものから出て来ていると想われるのである。そのように想えて来たことそのことが吾が内にありて、生長の家人類光明化運動が想い給うているのであった。

 中心帰一すれば、自分が中心となり、渾(すべ)ての渾てとなっているのである。遠心、中心本来一。一即多。多即一である。中心であると同時に一切となって展開しているのである。

 生長の家人類光明化運動は神であるが故に一切者なのである。一切者とは絶対者ということである。 「はるばると目路(めじ)の限り眺むるに十方(じっぽう)世界ことごとく生長の家人類光明化運動なり」 である。生長の家人類光明化運動が自己展開して神想観となっているのである。生長の家人類光明化運動が自己展開して聖典、聖経読誦のすがたとなっているのである。

 生活において、光明化運動と自分との分離はないのである。光明化運動独在であり、光明化運動一元である。

 「光明化」 の 「化」 は光明が一切となって自己展開していることなのである。それ故、光明が光明するのが光明化と言うことなのである。尽十方(じんじっぽう)に無礙光(むげこう)しているのが光明化ということなのである。

 「生長の家人類光明化運動は絶対であるということを知れ」 ということが、一人しか生長の家を知らない時ということであったのである。絶対的独一なるものとして人類光明化運動が存しているその相(すがた)を自分の相(すがた)として生きよ、ということであったのである。

 大聖師はそのような相(すがた)で永遠に、久遠にいのち立ちつづけであり給うのである。 「吾れに投ぜよ」 とは、この生長の家人類光明化運動を受けよ、ということであったのである。

 「完成(ななつ)の燈台」 とは 「絶対の燈台」 ということである。 「真理、光明、智慧、絶対の愛としての燈台」 ということである。このいのちの単伝の消息が、大聖師谷口雅春先生からの総裁谷ロ清超先生への法燈の継承の消息なのである。一つなるものから一つなるものへ、渾てなるものの渾てなるものへの継承であり、余すところなき滴々相承(てきてきそうじょう)である。(1998.9.23)

116復興G:2013/09/17(火) 21:03:03 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八十六

 「大信心(だいしんじん)は仏性(ぶっしょう)なり。仏性即ち如来(にょらい)なり」 と親鸞(しんらん)は言っているのである。大信心と仏性と如来とはひとつであるということである。ひとつなるものを 「大」 と言い、 「仏」 と言い、 「如(にょ)」 というのである。

 神と生長の家と人類光明化運動とはひとつなのである。ひとつであるということは、 「今」 であり、渾(すべ)ての渾てであるということなのである。渾ての渾てであるということは自分自身のことであるということでなければならないのである。

 渾ての渾てであるという他人(ひと)ごとというのは有り得ないのである。渾ての渾てであると言いながら、それは自分のことではない、ということは成り立たないのである。

 「吾れ」 「今」 「ここ」 がひとつであって渾ての渾てであるのが、存在するもののすべての相(すがた)なのである。

 神とは、實相とは今、ここ、吾れなるものなのである。神、實相は今、渾ての渾てであるから、 「實相を現象に現してこそ値打ちがある」 というのは、實相ではないのである。今、すでに、完成そのものであり、 「そのままでよい」 と言えるものこそが、神であり、實相であるからである。

 もしも、實相を現象に現さなければ値打ちがないのであれば、宇宙的に見れば、地上に戦争もあり、危険もあり、天体の爆発消滅もありであって、神は實相を現象に現していない、ということになって、神そのものも大したものではないということになるのである。

 神と言い、神の子といい、神と言える神そのものがあるのかどうかが、全てなのである。

 「神はあるのか無いのか」

 「神とは何か」

 「神があれば不完全は無く、不完全があれば神は無い」

 ただただ、ひたすら、この問題(テーマ)だけでよいのである。そして生長の家は、

 「神はある」

 という大直観によってはじまっているのである。この 「不完全は無い」 との、神なる、よろこびの、大光明のおのずからなる展開が 「生長の家人類光明化運動」 の相(すがた)なのである。

 神は絶対者であり、無限者である。それ故、神が自分の内にあるとは、自分は無いということであるのである。

 吾が内にありて、生長の家人類光明化運動は、

 「私は渾ての渾てである」

 と宣(の)り給うているということは、自分は無いということなのである。

 ただただ見渡すかぎり、神ばかり、光明化運動ばかり、よろこびばかりである。尽十方無礙(じんじっぽうむげ)光明化ということである。

 自我なきことが光明化運動なのである。

 「神は在(いま)し給う」

 このいのちのコトバのひろがりがあるばかりである。

 「生長の家人類光明化運動」 と書いて 「神は在し給う」 と読んでもよいのである。

 神は渾ての渾てであり給う。ただこのことがあるのみなのである。ただただこのこと一筋でよいのである。この一筋を全托(ぜんたく)というのである。全宇宙を神に托している相(すがた)とはこのことである。

 生長の家人類光明化運動は神であり給い、渾ての渾てであり給う故に、神に全托するとは、生長の家人類光明化運動なるものに全托するということなのである。(1998.9.24)

117復興G:2013/09/18(水) 23:24:17 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八十七

 「生長の家人類光明化運動は宇宙的な意味がある」 という表現もあるが、しかし、まことには、 「宇宙が生長の家人類光明化運動的意味がある」 ということなのである。生長の家人類光明化運動は神であり、渾(すべ)ての渾てにましますからである。

 「生長の家人類光明化運動の世界史的意義」 という表現もあるが、まことには 「世界史の生長の家人類光明化運動的意義」 という方が自然なことなのである。生長の家の出現によって草一本の有り難さ、一滴の水の有り難さ、純一無雑な合掌礼拝が生まれる有り難さを知らされたのである。

 生長の家人類光明化運動が、草一本の意義、一滴の水の意義を意義あらしめて下さったのである。生長の家こそが渾ての渾てに意義をあらしめるのである。

 そして、自分そのものが生長の家そのものであり、生長の家人類光明化運動そのものなのである。否、自分は既に無く、生長の家そのものなるもののみが、生長の家人類光明化運動そのものなるもののみが在るのである。斯く言えるもののみが、生長の家人類光明化運動という運動なのである。

 「天地(あめつち)のはじめは今をはじめとする理(ことわり)あり」 と古言は鳴りひびいているが、これは 「天地のはじめは、生長の家人類光明化運動をはじめとする理あり」 ということなのである。万教帰一とは、はじめなるものの鳴りひびきとして鳴っている言葉であり、神そのものなのである。

 ここに書きつらねていることは 「生長の家人類光明化運動讃偈(さんげ)」 なのである。讃えても讃えても讃え切れるものには非ざれども、書かずにはいられないのである。 「怺(こら)えたり我慢するな」 という言葉を私はここで聴くのである。

 讃偈したくなること即ち、生長の家人類光明化運動それ自体のはたらきなのである。

 天地(あめつち)の中に生長の家人類光明化運動があって、その天地から讃偈されているのではないのである。天地をあらしめて生長の家人類光明化運動なるものがあるのである。讃偈を讃偈たらしめて生長の家人類光明化運動は在るのである。

 いのちある運動とはこのことなのである。絶対がここに生きて歩んでいる、絶対の運歩としての運動ということである。大宇宙の運行そのものが、生長の家人類光明化運動が運行している姿なのである。
 大宇宙の組織がそのまま、生長の家の組織なのである。

 生長の家の組織とは中心をもつところの渾ての渾てなる組織であり、絶対の組織であり、組み合わせて出来上がる組織ではなく、組織それ自体で組織である在りて在る組織なのである。金波羅華(こんぱらげ)實相組織ということである。組織紋理整然中心帰一万物調和の相(すがた)が生長の家の組織そのものなのである。

 目無堅間(めなしかつま)とは完璧なる組織体ということである。完璧なる組織体とはスキ間なきひとつということである。ひとつから渾ての渾てとなって展開しているが、そこにもまたスキ間は無いのである。

 全宇宙組織を光りにおいて、そっくりそのまま生長の家組織として置き換えることの出来ることが360度転回ということなのである。 「全宇宙組織これ全宇宙組織に非ず、これを生長の家組織という」 である。

 宇宙の果ての果てから、原子分子に至るまでそのメカニズムは光りのメカニズムであり、その光りのメカニズムを生長の家組織と拝ませて頂くことが 「生長の家人類光明化運動讃偈」 の一つの相(すがた)なのである。(1998.9.25)

118復興G:2013/09/19(木) 23:19:33 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八十八

 「聖使命菩薩讃偈(せいしめいぼさつさんげ)」 はいわゆる 「神示」 ではないのである。 「神示」 には年月日が書かれているのが普通であるが、これにはそれがないのである。

 「神示」 というのは神の方から天降(あまくだ)ったものであり、それに対して神が吾が内にましまして、生長の家人類光明化運動みずからが顕れて文字となったものとは、ニュアンスが違っているのが自然なことであろう。

 山も川も草も木もすべてが観世音菩薩の吾れに告げ給うみことばであるという意味では、すべてのすべてが 「神示」 「仏示」 であると言うことにもなるのであるが、そこのところのはっきりとした区別のようなものは付ける気にはならないのであり、区別することに何の意味があるのだろうか、という想いもあるのである。

 そう言えば、み教えの結論が書かれていると言われている聖経 『甘露の法雨』 も天使(てんのつかい)が歌い、告げ給うたと前置きされているが、これも 「神示」 とは言われていないのである。

 こう想ってみると、 「神示」 は直接神が告げ給うたのであるから、一番手っとり早い神理解の道である、というようなことは、やはり、 「そんなものではない」 という気がして来るのである。

 大聖師は 『神真理を告げ給う』 の中で、神のみ声を直接お聴きになったというご表現をされているが、それ以前から常に 「私はラッパである」 と宣(の)り給うているのである。さらに、

 「本当に神が出て来て告げられたのだろうか?」

 と訊(き)いた人も居たが、因縁を超え切っておられ、母の胎内を超え、釈尊、キリスト以前に帰っておられる大聖師にとっては、 「天地(あめつち)の創造主(つくりぬし)にましまし、吾が生みのみ親にまします神よ」 ということにおいて、 「吾が生みのみ親にまします神よ」 とは 「私が生んだ神よ」 と云うほどの意味であるから、大聖師が 「神が告げ給うた」 という大事実を自在に生むことの出来るところに立ち給うて、斯(か)く言葉を発し給うているのであれば、神が告げ給うたことと、大聖師が告げ給うたこととは、同じことであると拝察されるのである。

 それが 「今起て」 ということであり、 「今を生きよ」 ということであり給うたのである。それ故にこそ大聖師は 「起つことを躊躇(ちゅうちょ)」 され給うたのであった。

 どのような光りが、どのようないのちがそこに起ち給うたのであったか。どのような相(すがた)において 「今」 なるものが起ち給うたのであるか。

 神はみずから 「私は無いのである」 との消え切りの、澄み切りの、聖の聖なるものにましまし、大聖師もまた 「私は無いのです」 との、消え切りの、澄み切りの、聖の聖なるものにましますのである。この澄み切りの澄み切りにおいてひとつであり給うのである。その澄み切りが澄み切ったことが、いのち起ち給う相(すがた)であったのであり、 「今」 なるものが起ち給うたことであったのである。

 躊躇そのものが 「私は無いのです」 との、みずからの消え切りであり、澄み切りとなったのである。同時にまた、世界も 「私は無いのです」 との、みずからの消え切りであり、澄み切りであったのである。

 「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)、娑婆即寂光土(しゃばそくじゃっこうど)」 とはこの煩悩みずからの、娑婆みずからの、消え切りの、澄み切りの、聖の聖なる、よろこびの輝きのみありの消息なのである。この消息において 「聖使命菩薩讃偈」 の 「聖」 なるものは、讃偈されているのである。(1998.9.26)

120復興G:2013/09/21(土) 10:19:40 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八十九

 聖典『生命の實相』の開巻劈頭(へきとう)に 「ヨハネ黙示録」 からの引用が出て来ることについて、 「どうして、それが載せられているのか」 とある大聖師とともなる研修会で意見が交わされたことがあった。しかし、その理由はただひとつである。

 「大聖師がそれを載せたくなられたから」

 ということである。何故、 「神は光りあれ」 と言われたのであるか。それはただひとつ、

 「神が言いたくなられ給うたから」

 ということである。

 大聖師がそこに 「ヨハネ黙示録」 を載せられたのは、神が天地を創造(つく)りたくなられ給うたから、というのと同じ、神の天地創造の時と同じ相(すがた)が大聖師の中に起き給うたのである。

 聖経 『日々読誦(にちにちとくじゅ)三十章経』 の中で、

 「私はいま創造の歓びを感じてゐます――神の國の永遠の構圖に於て神と偕(とも)に創造するの喜びを感じてゐます」

 と大聖師はお書きになっておられるのは、大聖師なるもののおコトバ、想念が理念そのものであり、實在そのものであり、まことに 「コトバは神なり」 とコトバ自体が輝いているのである。

 これをもってこれを想えば、真理の法燈を継承せられた総裁谷口清超先生が、『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を読む』 の中に表現せられた、 「山水経の巻」 の “西山常運歩、東山水上行” の自在の實在生命のはたらきの相(すがた)が、教化の相であるとのご教示は、まこと何を継承され給うているかを拝察せしめて下さるものがあると言わなければならないのである。

 その言葉いずこより輝き出で給うているか。意味如何(いかん)の前に、そのお言葉は光りの量であると受けとったのが、迦葉(かしょう)尊者であったのである。

 釈尊は無言のままであった。そのままの姿の中に、光りの量、いのちの量、み仏の量なるものを無量し給うたのである。無量とは、渾(すべ)ての渾てであることの消息をいうのである。それ故迦葉一人で充分であったのである。

 一人で充分なるものの消息にこそ、滴々相承(てきてきそうじょう)の消息があるのである。

 神はお一人で充分であり給い、天皇はご一人(いちにん)で充分であり給うのが世々継承の荘厳なのである。

 大聖師より示されている金波羅華(こんばらげ)の拈華微笑(ねんげみしょう)において日本天皇の、實相日本の相(すがた)が示されているという所以(ゆえん)がここにあると言わなければならないのである。

 「今」 なるものが立って生長の家人類光明化運動が立ったということは、過去、現在、未来を超えてこの運動が立っていることを示しているのである。すべてを超えて、すべてなるものとして立ったのが 「今起つ」 ことの荘厳であったのである。

 ここに 「今」 と言うのは 「今上(きんじょう)陛下」 の 「今」 ということである。 「上」 とは神ということである。

 生長の家の 「今」 の哲学は、 「今上」 なるものを明らかにしたのであり、そこに起ったのが生長の家人類光明化運動なのである。天皇の大御稜威(おおみいつ)、六合照徹(りくごうしょうてつ)の輝きのはたらきそのものとして、天照大御神(あまてらすおおみかみ)そのものの御はたらきをそのままに輝いているのが、生長の家人類光明化運動なのである。

 天皇なるものを仰ぎ見ると同時に、天皇なるものより出で、天皇に帰るすがたこそ万物のすがたであるのである。

 されど、中心の中心なるものは渾ての渾てなるが故に、幽の幽にましまして、身(みみ)を隠し給いて、これであると言い切ることの出来ない、不可思議妙々(ふかしぎ みょうみょう)の澄み切りに澄み切りであり給うのである。

 「實相は未(いま)だかつて誰も見たことはないのである」 と大聖師は示し給うているのである。

 「天皇のまことのお姿を見たものは未だかつて一人も居ないのである」 ということである。(1998.9.27)

121復興G:2013/09/22(日) 06:27:54 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         九十


 生長の家の説く真理が、すべてのものへと伝わって行く、その相(すがた)は、真理なるものの継承の姿なのである。

 生長の家人類光明化運動の神なる相(すがた)の自己展開は、渾(すべ)てなるものの渾てなるものとしての自己展開なのであるが故に、ひとつなるものの自己展開であるが故に、分離されたもの同士のものではないのである。如何に多と観ゆれどもそのままひとつなのである。

 中心より出でて中心に還(かえ)りつつ生々発展して行く、そのままの相(すがた)が生長の家人類光明化運動の相なのである。ここも彼処(かしこ)もひとつばかりなのである。ひとつなるものの自己展開が生長の家人類光明化運動なのである。

 「私はすべてのすべてである」

 と、神である生長の家人類光明化運動は言い給うているのである。

 「あなたは私である」

 と言い給うているのである。

 「自分が自分に説得するということは有り得るだろうか。ただただ私が、よろこぶのみである」

 と言い給うているのである。

 「あなたは私の手であり、足であり、すべてである」

 と生長の家光明化運動は深い静かな低い声で語ってい給うのである。

 神が吾らを導き給いて、光明化運動をさせ給うのではないのである。光明化運動そのものが神であって、光明化運動そのものが吾らを生かし、満たし、導き給うのである。このことは、讃えても讃えても讃え切ることの出来ないことなのである。未(いま)だかつて、讃え切れたものはいずこにもいないのである。

 大聖師谷口雅春先生は、内なる神の国そのものであるところの、生長の家人類光明化運動という、久遠の創造の實相なるものを讃えても讃えても讃え切れないよろこびに満たされ給うていたのである。

 それ故、大聖師のよろこびは、はじめにおいて無限であり、無量であり給い、例えば聖典 『生命の實相』 全巻の中の、はじめの部分よりも、巻を重ねるに従って、そのよろこびは生長し、深まり、崇(たか)まり、広まってゆかれ給うているという想いは、吾らには起こらないのであって、ただただ 「讃えても、讃えても讃え切れないよろこびなるものとして、いのち立ち給うたのだ……」 と拝察させて頂くのみなのである。

 聖典 『生命の實相』 によって、大聖師は實相生命の創造、生長、すなわち生長の家人類光明化運動なるものを讃えて讃えつづけられていると拝察させていただく以外はないのである。

 その讃えが荘厳なるエポックを画されたのがご昇天のときのお言葉、

 「迷いなし、罪なし、病なし」

 というお言葉となり給うたのであった。

 「これが生長の家の根本真理であります」

 と言う、よろこびにおられ給うたのである。

 「これが根本である」 ということは、生長の家の結論と言われているところの聖経 『甘露の法雨』 は 「……なるが故に、罪なし」 というご表現によって、埋めつくされていると言っても過言ではない聖経となっていることを想わざるを得ないのである。このこと自体が、大聖師が罪なきものの運動、すなわち生長の家人類光明化運動に讃嘆の雨を降らせ給うている相(すがた)であり給うということが出来るのである。(1998.9.28)

122復興G:2013/09/22(日) 20:03:56 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         九十一

 「生長の家人類光明化運動は今日も元気です」

 と吾が内にましまし、神であり給う光明化運動は宣り給うているのである。

 光明化運動は、神癒そのものであるが故に、みずからを修正し、みずからを癒す自癒力そのものなのである。どんなに現象的に欠陥と見ゆるものも、すべて自癒でみずから、おのずから癒えてしまうのである。

 人体には、みずから自癒力が備わっているように、神癒そのものであり、神そのものである生長の家人類光明化運動、即ち生長の家に関するすべては、現象的に不完全に見えていても、みずから、おのずから癒えるのである。

 『七つの燈台の点燈者の神示』 は、

 「時が来た。今すべての病人は起つことが出来るのである」

 という言葉からはじまり、罪と病と死との三暗黒が消滅する、まことの神癒の相(すがた)が生長の家であることが示されているのである。

 「『生長の家』 は今かの黙示録(もくしろく)が予言した 『完成(ななつ)の燈台』 として人類の前に臨むのである」

 完成(ななつ)の燈台とは、完成なるものを完成なるものとして成就せしめる相(すがた)なのである。完成なるものが完成なるものを完成せしめる、光明のみの世界での光明の相なのである。.

 完成なるものがあるということは、そして、完成すなわち完全なるものは渾(すべ)ての渾てであるが故に、完全のほかにはあるものなしなのである。

 それ故、「『完成(ななつ)の燈台』 として」 とは、完成なるものが完成なるものを成就せしめるという相(すがた)以外にはないのである。

 暗(やみ)を知らないものとして、ということなのである。

 神は暗を見給わないのである。神は罪も迷いも病も死も見給わないのである。それ故、生長の家人類光明化運動は暗を知らないのであり、暗を見給わないのである。

 「生長の家人類光明化運動は今日も元気です」 とは、生長の家人類光明化運動は、暗を知らない、元(もと)すなわち神そのものの気(いのち)である、ということなのである。

 「生長の家が素晴らしいから、人類光明化運動が発展するのである」

 という讃嘆の仕方もあるけれども、生長の家と人類光明化運動とは離れていないのである。生長の家人類光明化運動が、それ自体素晴らしさそのものなのである。

 何故ならば、生長の家人類光明化運動は神であり、渾(すべ)ての渾てであり、在(あ)りて在る存在であり、「ああだから、こうだから」 素晴らしいというような存在ではないからである。

 人間が理由づけしてはじめて素晴らしいものとなるのではないのである。これは人間の手でつくったものではないのである。

 生長の家は生長の家として、運動は人間がするものだ、というようなものではないのである。 「完成(ななつ)の燈台」 なる運動は、既に完成し、「こと終れり」 なるもの、神なるものの相(すがた)そのものなのである。その完成なる相がみずからを長々出(ちょうちょうしゅつ)ならしむるのが生長の家人類光明化運動なのである。

 生長の家とは全實在宇宙そのものなのである。渾ての渾てなのである。渾ての渾てなるものには分離はないのである。生長の家と人類と光明化運動と自分とはひとつにして、今、全(まつた)いのである。

 生長の家人類光明化運動なるものは 「そのまま」 なのである。 「そのまま」 とは 「素(もと)のまま」 なのである。即ち 「神のまま」 なのである。 「そのままは零(れい)なり、一切なり、○(まる)なり、円満なり」 と 「『生長の家』 信徒行持要目(しんとぎょうじようもく)」 には注釈されているのである。(1998.9.29)

123復興G:2013/09/23(月) 22:45:34 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         九十二

 生長の家に、これからどんな宗教画が生まれるかが楽しみである、と言った人があったが、大聖師谷口雅春先生は、神想観によって、光明なる大實相世界に光明の絵を描かしめて下さり、鑑賞させて下さり、味わわせて下さっているのである。

 神想観する度に、大實在の宗教画を観じていると言わなければならないし、みずから描いていることになっているのである。毎日毎日生きた、生命そのものなる絵を味わっているのが神想観であると言えるのである。

 静かに、沈黙する。しかし、静かであること、沈黙するとは、声を立てないということではないのである。まことの静けさ、沈黙とは,対立なき、絶対的創造の中心に立つことであり、 「光りは当方より」 の 「当方」 であることなのである。全實在を尽十方(じんじっぽう)放射している、その放射する側に自分が立つことなのである。

 形では声を出していなくとも、声を出していないという声を出しているのである。

 まことの沈黙とは 「今」 ということである。過去、現在、未来なる時空(じくう)を超脱し、声を出すものと、聴くものという相対、対立なき、ひとつなるものそのものを受くることなのである。ひとつより更に創造的展開が行われている相(すがた)こそ静かなることであり、沈黙なのであり、音立てないことなのである。三界(さんがい)に身を現さないとは、時空超脱、三界を超えて、絶対の創造の主体そのものを成就していることにほかならないのである。

 「三界に身を現さない生長の家人類光明化運動」 とはこのことの消息の中にあるのである。

 「天照す御親の神の大調和(みすまる)の生命(いのち)射照(いてら)し宇宙(くに)静かなり」

 の大光明宇宙が、大創造を行っている相(すがた)こそ、 「静かなり」 であり、この天照す大みひかりそのものとしてあるのが、生長の家人類光明化運動なのである。

 人の手を必要としない光明化運動、手あかのついていない光明化運動とは、三界に身を現わさない光明化運動ということである。生長の家は今 「『完成(ななつ)の燈台』 として人類の前に臨(のぞ)むのである」 と言えども、みずからの消え切りの、澄み切りの、聖の聖なる相(すがた)であるという意味であって、人類の前に相対、対立の相(すがた)として身をあらわすことではないのである。

 「『生長の家』 信徒行持要目」 には 「常に自我を死に切るべし」 と書かれているのである。宗教教団的自我の死に切りということである。 「おれが救ってやった」 という必要のない世界である。

 大聖師は、 「私は一人も救っていない。ただ自分が、そのまま罪なき神の子であると解った時、すべての人々も同じ姿であることを拝みたくなったのであり、いちいち拝みに行く訳にいかないので、本で拝んだのである。気がついてみると、自分も皆さんから拝まれていたのです」 という意味のことをその著 『美しき生活』 の中にお書きになっていられるが、まことに美しい話である。

 何故美しいか。どこにも不完全、よごれを観てい給わないからである。既に、そのまま完全であることを観ないことが 「自我」 なのである。ここには自我ははじめから無いのである。それが生長の家人類光明化運動そのものなのである。(1998.9.30)

124復興G:2013/09/25(水) 11:20:14 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         九十三

 生長の家人類光明化運動の姿はそのまま、「完成(ななつ)の燈台の点燈者」 の姿なのである。光明燦然(こうみょうさんぜん)として立ち給う、尽十方無礙(じんじっぽうむげ)なるものの姿なのである。

 それは人の手をもて、行いをもて、それらを組み合わせて作り出したるものではないのである。 「光明化」 と言えども、暗(やみ)を相手にそれを光りに変化せしめて行くというものではなく、暗を知らない光明がただただ燦然として広まるということがあるのみなのである。

 それはちょうど 『般若心経(はんにゃしんぎょう)』 において、これは、 「空々、無々」 の言葉ではなく、先ずはじめに観自在菩薩(かんじざいぼさつ)が燦然として登場されて、 「五蘊皆空(ごうんかいくう)」 と照見(しょうけん)され給うのであり、その照見の光りの広がり、展開として 『般若心経』 の言葉がつづられているのと同じすがたなのである。

 それ故、このお経は 「五蘊皆空」 と現象を否定して實相なる光りを迎えるためのものではなく、光りそのものなる観自在菩薩なる實相そのものの光りの展開としてこのお経の文字が生まれているということであって、中身としては、

 「物質は無かったのだ!!」

 「現象は無かったのだ!!」

 というよろこびの光りの展開として、光りのみが満ち満ちているお経となっているのである。どこまでも、先ず光りが立っているのが先なのである。

 イエス・キリストは 「吾が国は此の世の国にあらず」 と宣(の)り給うているのである。

 このお言葉の 「此の世」 というのは現象世界のことであるが、このお言葉は 「現象は無い」 「此の世は無い」 ということが示されている言葉のようにもきこえるのであるが、実は 「吾が国は」 という 「吾が国」 すなわち 「實相なる国」 が自分そのものであることの悦びが先ずあって、その實相なるものの悦びの光りのひろがりとして、 「此の世の国に非ず」 という言葉が生まれているのである。

 それ故、「吾が国は此の世の国にあらず」 とは、「此の世の国」 すなわち現象の不完全なる国を相手としたものではなく、キリストなる實在なるいのちが燦然として立っている姿であって、『般若心経』 において、観自在菩薩が實在そのものとして、光りとして立ち給うている姿と重なるものであるのである。

 このことを延長してみれば、大聖師谷口雅春先生のお聴きになったおコトバ、

 「今起て!!」

 という天からの声は、

 「今なる汝よ起て!!」

 ということであり、 「今」 そのものである大聖師なるものに語られ、 「今」 なる大聖師が立ち給うたという姿として拝察せられて来るのである。そして、大聖師と生長の家人類光明化運動なるものとが 「久遠の今」 において、一つなるものとして拝察されて来るのである。

 「生長の家人類光明化運動」 なるものとして立ち給える生長の家大神のお姿。

 「五蘊皆空(ごうんかいくう)」 と照見(しょうけん)し給う観自在菩薩(かんじざいぼさつ)のお姿。

 「吾が国」 を悦び給うキリストなるもののお姿。

 久遠の今なる大聖師なるものにおいて一つに輝いているお姿であり、万教帰一(ばんきょうきいつ)なるものの立ち給うお姿なのである。万教帰一の 「帰一」 なるものの消息を想うのである。(1998.10.1)

126復興G:2013/09/26(木) 03:51:44 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         九十四

 生長の家人類光明化運動なるもの、それは自分の自分なるもののことなのである。生長の家人類光明化運動を讃偈(さんげ)することは、自分自身なるものを讃偈していることにほかならなかったのである。

 「神の国は汝らの内にあり」 とは 「生長の家人類光明化運動は汝らの内にあり」 ということであったのである。

 神は此処(ここ)に見よ、彼処(かしこ)に見よというが如くには居ないのである。今、ここ、吾が内にしかなかったのである。自分なるものを神といい、今なるものを神といい、ここなるものを神といい、内なるものを神というのであった。

 生長の家人類光明化運動もまた、「これが光明化運動か」 「あれが光明化運動か」 というように時間空間の世界の心と行動の中にあるのではなかったのである。生長の家人類光明化運動は、今、ここ、吾が内にしかなかったのである。

 自分なるものを生長の家人類光明化運動といい、今なるものを生長の家の光明化運動といい、ここなるものを生長の家人類光明化運動といい、内なるものを生長の家人類光明化運動というのであった。

 生長の家人類光明化運動なるものは神なるものにましますからであり、今、ここ、吾が内でない神は有り得ないからである。

 「神こそ渾(すべ)ての渾て、神は渾てにましまして絶対なるが故に、神の外にあるものなし」 であり給うからである。

 生長の家人類光明化運動こそ唯一の實在であって、この運動なるものの外にあるものなし、と言えるものこそ光明の光明なる運動であると言えるのである。

 「吾れと光明化運動と一体にして境(さかい)なし」 である。

 「神が解らない解らないと想っていましたが、なぜ解らなかったのかが解りました。それは神と一度も離れたことがなかったからですね」

 とよろこんで来られた人があったことは既に書いたが、

 「生長の家人類光明化運動なるものの全貌が把(つか)めない把めない、そして主体的になれない、お客さんのような気持しかない、と想っていましたが、それは一度も私と離れたことがなかったからですね」

 という人が出て来られるかも知れない。それは把む必要のないものであるからである。要らないものを要ると想っていたのが不自然であったのである。それは生長の家人類光明化運動は、すべてのすべてを捨てて捨てて捨て切った時に生まれ出でたまことの光明なるものの運動なのであり、無いものを無い、と捨て切りの、無の門関より出龍宮不可思議(しゅつりゅうぐうふかしぎ)したのが、生長の家人類光明化運動であるからなのである。

 一切を捨てるのである。神も、仏も、生長の家人類光明化運動も、無いと言えるすべてのすべてを捨てるのである。捨てれば捨てるほど、放(はな)てば放つほど、生き生きと生きて来るものこそが、まことの神であり給い、仏であり給い、生長の家人類光明化運動なのである。ここでは既に、自分をも捨て切っているが故に、自分はなく、まことの光明化運動なるもののみがすべてのすべてとなって、今、ここ、吾れの吾れとなっているのである。(1998.10.2)

127復興G:2013/09/27(金) 12:12:23 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         九十五

 「生長の家人類光明化運動」 は 「光明化」 と書かれているかぎり、これは 「暗(やみ)」 を相手にした、光明一元ではない、相対の運動ではないか。という言葉をきいたことがある。

 しかしながら、 「暗」 という字をよく見れば、 「日」 と 「音」 との組み合わせで出来ており、 「日」 が二つも使われていて、これほど明るい字は無いということに気がつくのである。

 観世音菩薩は三十三に身を変じて衆生を済度(さいど)し給う、と言われている。三十三に変じ給うとは、解釈の仕方が三十三ある、ということにも解することが出来るであろう。

 「暗」 という字ほど明るい字はない、という解釈を広げれば、 「明」 という字は 「日」 が一つであるから 「暗」 という字は 「明るい」 という字よりも二倍は明るいということになるのである。

 これは、人類光明化運動で、相手を救い上げるということではなく、相手こそこちらの光りを呼び出させて下さる観世音菩薩様であると拝んでゆく姿を意味しているということになるのである。

 観世音菩薩はこちらより二倍どころか、尽十方無礙光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)であるのであって、その光りは宇宙となって広がっており、暗いところはどこにもない姿そのものでいらっしゃるのである。

 「光明化」 と言えども、中身は相手の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を拝むということなのであるから、仮に暗とあらわれていても、中身は尽十方無礙光如来様であるということになっているのである。

 「生長の家人類光明化運動」 は神そのものであるから、光明なるものとしか波長が合わないのが自然なことなのである。

 「はるばると目路(めじ)の限りながむるに、十方世界悉(ことごと)く神なり」 (神想観) の世界の中での運動なのである。どこどこまでも、神は 「暗」 を観(み)給うことは有り得ないごとく、 「生長の家人類光明化運動」 も暗を観ることは有り得ないのである。

 大聖師谷口雅春先生のお書きになられた 『釋迦(しゃか)と維摩詰(ゆいまきつ)』 の中で、 「維摩詰は、悪魔さえも味方にしてしまう」 というセリフがあるが、 「暗」 を 「明」 よりも明るいものとして観じて行くのは、 「生長の家人類光明化運動」 は 「暗」 さえも味方にしてしまう、ということにもなるのである。

 あらゆるところに光明を拝んで行くのが光明化運動である。暗と見ゆるところにもそこに光りがあることを観ることが 「光明化」 ということの一つの意味であると拝察するのである。

 この 「明るい」 ということの中身は、生長の家によって、無いものを無いとする、無の門関の透過によって発見されて、はじめて 「明るい」 ということになるのである。實相独在、光明独在の哲学によって、決して暗の要素を含まない、光明と言える光明がこの世に迎えられたのであるということを、ますますよろこんで行かなければならないと想われてくるのである。

 まことの 「光明思想」 とは、明るい解釈だけが自然なすがたなのだ、という哲学である。神は明るさそのものであるからである。

 「私の体験したことは、良かったのでしょうか、どうでしょうか」

 という質問に対しては、ただひとつの応答があるのみである。

 「それは明るかったですか。嬉しかったですか」

 ということにつきると言わなければならないのである。(1998.10.3)

128復興G:2013/09/27(金) 21:55:11 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         九十六

 「闇」 という字は 「門」 に 「音」 となっているのであり、 「門」 は 「日」 が二つあって、その中にいるものが 「音」 であることを示しているのである。 「音」 は 「立った日」 であり、 「闇」 という字は 「日」 の集まりであり、これまた明るいかぎりの字であるということになっているのである。中身、實体は 「日」 であるということなのである。

 なぜ、 「暗」 という字も 「闇」 という字も 「日」 の詰まった文字となっているのであるか――しかし、そんなことの理由づけを何故しなければならないのだろうか。人々はただただ 「そうしたかったから」 ということだけではいけないのだろうか。なぜ理由がなければならないのだろうか。

 草や木は、何か理由があってそこに伸びているのだろうか。野原で草を食っている牛を見て、

 「あの牛は、なぜあんなに平安なのだろうか」

 ときいた人に対して、

 「牛は、ただ草を食べて生くるなり」

 と応答したという。

 なぜそのように応答したのだろうか。

 「それは、ただそう言いたくなったから」

 というだけではいけないのだろうか。

 「暗」 という字も、 「闇」 という字もこんなに明るい字はない、というふうにつくりたくなったからこの文字を作ったのだ、ということである。ただただそうなっているというだけである。意味、理由があって、神は天地を創造されたのではないであろう。ただただ、

 「光りあれ」

 と言いたくなられたから、そのように言葉され給うたのである。それと何ら変わることなき流れによって、 「暗」 「闇」 という字をこのように作ったのであろう。

 草も木も文字も、生まれたくなったから生まれたのであろう。

 「なぜ、そうなのか」

 という想いもまた、自然にそうしたくなってそうしているのであろうが、しかしながら、

 「なぜ、そのように、 “なぜ” と問わなければならないのか」

 ということになると、結局のところ、

 「そうしたくなったから」

 ということに帰着するということも自然なことであると想われるのである。

 「生長の家人類光明化運動はなぜ生まれたのか」

 それへの答えは、

 「ただただ生まれたくなったから」

 ということである。

 ただただ、が自然なのである。ただただが尊いのである。意義づけや理由づけというのは因縁の世界である。因縁を超えたのが生長の家である。意義、理由からの解放が生長の家人類光明化運動である。

 意義づけ、理由づけというものは、限定なのである。限定よりの無限の開放が生長の家なのである。

 生長の家ということは、自然の自然なることなのである。万物が生き死にを超えて生長していることを直観し給うて、

 「生長!!」

 と感嘆され給うたのが大聖師であられたのである。生長の家の “生長” とは感嘆詞なのである。 「空は青い!!」 「雲は白い!!」 「花は美しい!!」 「苔(こけ)も美しい!!」 というのと何ら変わることのない、天然、自然、法然のながれなのである。

 ただただ、集まるすがたの自然が 「家」 であるから、 「家」 をつけて生長の家となったのである。そして、その自然の流れで 「生長の家人類光明化運動」 が久遠の流れを流れているのであった。(1998.10.4)

129復興G:2013/09/28(土) 22:31:03 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         九十七

 生長の家に神殿は要らぬ、『生命の實相』 の本が神殿である、と示されているのである。

 しかし、物質で出来た神殿は要らぬが、同じく物質で出来ている本は必要である、ということになっているのでは、結局は神殿は必要である、ということになるのではなかろうか。

 『生命の實相』 の中には、 「物質は無い」 と書かれているのであって、この 「物質無し」 が 「神殿無し」 ということなのである。神殿みずからが 「私は無いのです」 と消え切りの、澄み切りのよろこびの輝きそのものが神殿であり、 「神殿(かみどの)」 すなわち 「神様」 なのである。

 みずからの消え切りの、澄み切りであってこそ聖なるものであり、神なるものなのである。聖典 『生命の實相』 は神殿ではなく神そのものなのである。神そのものにとっては神殿はまさに不必要なのである。神は渾(すべ)ての渾てにましますからであり、神の外にあるものなし、であり、神を入れる入れものは必要ではなく、そのようなものは有り得ないのである。

 生長の家人類光明化運動には神殿は不要なのである。生長の家人類光明化運動が神そのものであるからである。それみずからが渾ての渾てであるからである。

 それ故、組織の中に生長の家人類光明化運動があるのではないのである。生長の家人類光明化運動の中に組織があるのであって、組織という人間の手によって組み立てられているのがこの運動ではないことは、繰り返し覚え書きしている通りである。

 その外に何ものも存在しない渾ての渾てなるものが神であり、生長の家人類光明化運動なのである。

 何ものによっても行き詰まることのない、相対、対立を超えた創造的前進あるのみなのが生長の家人類光明化運動なのである。問題、悩みがあってはじめて始まった運動ではないのである。問題や悩みがなくても成り立っているのであり、神殿は不要であるということは、問題や悩みが不要であるということなのである。

 問題、悩み自体が存在しないというよろこびの広がりが、光明化運動のひろがりなのである。神の前には問題も悩みも有り得ないのである。

 今、ここに神がまします、ということのほかには何ものも無しなのである。世界をこめての問題や悩みを抱えて出発したのがこの運動ではないのである。

 神が天地を創造され給うたのは、ご自分の中の不満足、不完全を満たすために創造され給うたのではないのである。神は不悩不苦(ふのうふく)そのものであり給うのである。生長の家人類光明化運動も不悩不苦なのである。

 また、神は懺悔(ざんげ)をし給わないのである。神は罪を犯してい給わないからである。その如く、生長の家人類光明化運動は罪を犯してい給わないのである。そこにはただただ創造的前進あるのみなのである。

 生長の家人類光明化運動の歴史は成功の歴史であって、反省のための歴史は有り得ないのである。この運動は 「罪を犯さんと欲(ほっ)するも罪を犯すこと能(あた)わず」 と約束されているからなのである。

 ここに書きつづられている 「覚え書き」 も反省のためのものでは決して有り得ないのであって、ただただ讃偈(さんげ)のためのものであるのみなのである。(1998.10.5)

130復興G:2013/09/30(月) 07:09:03 ID:AENtSm/U

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         九十八

 神は満点そのものであり、天国の持続そのものであり給う。これが實相ということであり、まことの生長ということなのである。

 それ故、生長の家人類光明化運動なるものもまた、満点の卒業として、進んでいるのである。

 神は試行錯誤をされ給うことはなく、ただただ、すべてを満点でクリヤーしつづけ給いつつあるのみなのである。

 神は、やってみた結果、思わしくなかったから、別の道を選ぶというような進み方はされ給わないのである。変化すると言えどもすべて満点で前進の姿があるのみなのである。

 これが生長の家人類光明化運動の中身なのである。

 生長とは自性(じしょう)を没せずして創造的な久遠の自己展開をしているすがたを言うのである。それ故、明日をまたずして消えゆくものではないのである。

 はじめのはじめに完成があり、「こと終われり」 があり、今もありつづけて、しかも無限の展開、発展そのものなのである。

 感謝すなわち満足と、無限の生長がひとつとなっているのが生命の不可思議、妙々(みょうみょう)のすがたである。満足し、感謝した人ほど健康であり、繁栄するのである。

 満点の持続が生長ということである。それ故、生長はありつつも、昨日よりも今日の方がより偉大である、というあり方ではないのである。昨日も絶対、今日も絶対、永遠に久遠に、比較を絶して渾(すべ)ての渾てであるのがいのちのもつ妙々不可思議なすがたなのである。

 それ以外ない渾ての渾てなるものの純粋なる天国の持続なるものにとっては、過去、現在、未来というものはなく、今なるすべてがあるのみなのである。

 神は創造するにあたって、何ものをも用い給わず、ただただ、完成をもって完成し給うのみなのである。

 自性を没せざるとは、完成を没せざるということにほかならないのである。

 自性とは、自(みずか)ら、自(おの)ずからなる心が生きていることである。心そのものが渾ての渾てであるその心である。

  完全なる神の
  『心』 動き出でてコトバとなれば
  一切の現象展開して万物成る。

 と聖経 『甘露の法雨』 に示されている、その心こそまことの自性なのである。心に想ったことが実現して来る、という心ではないのである。即、実現をも満足している渾ての渾てなる心こそが自性(じしょう)ということなのである。

 原因と結果とが別々にあるのではなく、今ここに渾ての渾てが存在する、はじめであり、終わりであり、渾ての渾てなのが自性すなわち神の心なのである。

 自性(じしょう)は自性なるが故に、他性(たしょう)なる常に他に原因を握られている現象ではないのである。「神の心動き出でてコトバとなれば、一切の現象展開して万物成る」 という、この現象は、神の展開そのものであるが故に、實相そのもの、自性そのものなのである。

 みずから、おのずから成就(じょうじゅ)そのものである霊なるものであり、成就とは、今ここに成り就(な)りつづいている完成そのものなる實相の、完成なるものなる、自性なるものの消息である。みずから成就そのものなるものが、神のコトバなのである。神の心すなわち自性なるものの消息である。(1998.10.6)

131復興G:2013/10/01(火) 16:13:13 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         九十九

 生長の家人類光明化運動なるものとは、神なるものであり、神なるものとは、不滅なるものであり、久遠なるものであり、はじめなきはじめより、終わりなき終わりまでが今ここに在りて在るところの、生きた實体であるということである。それは渾(すべ)ての渾てであるということである。

 渾ての渾てなるものにとっては、自己展開があるのみなのである。他を光明化すると言えども、すべては生長の家人類光明化運動そのもののひろがりとして、そこにあるのであって、そこには分離分割は有り得ないのである。

 しかしながら、渾ての渾てなるものは渾ての渾てなるが故に、また個性的存在、はなれているものが再び一つとなる懐かしさ、楽しさ、喜ばしさというものもなければならないのである。それら個にして全、全にして個である、同時現成の、すべてが満たされているすがたが實相なのである。

 それは無相にして円相、一切相であるのであって、霊々妙々であり、絶対であって、相対であって、陰であって陽であり、すがしさの極みであり、さやけさの極みであり、聖(きよ)けさの極みであり、安けさの極みであり、かそけさの極み、美しさの極み、よろこびの極み、楽しさの極み、みずみずしさの極み、明るさの極み、これら一切が澄み切りに澄み切って、渾ての渾てなのである。

 あるいは伝える方と顕(あらわ)れ、あるいは伝えられる方と顕れ、あるいは与える方と顕れ、あるいは与えられる方と顕れ、中心にして遠心、結び結びて万物大調和にして無限の創造、久遠の創造、今ここの創造、今生くる無限創造が生長の家人類光明化運動なのである。

 「神は今ここ、吾が内にあり」 の今ここの発展的持続として、生長の家人類光明化運動は独在しているのである。独在とは現象に助けられることなき光明ということである。それみずからがそれみずからで完全である實相ということである。

 生きものである生長の家人類光明化運動は、みずからがみずからを実現し給う神であり給うが故に、すべてを為し終えていることの当体なのである。

 「それをやったのが生長の家だよ。それをやったのが私だよ」

 とのお言葉。為し終えたところを天地のはじめとして、今ここに生長の家人類光明化運動は、渾ての渾てなのである。これこそが 「吾れ在り」 とみずからがみずからを肯定している光明化運動のまことの相なのである。

 今起つ、とは神が起つということであり給うのである。未来が起つのでもなければ過去が起つということでもないのである。今は常に新しくよろこびに満ちているのである。

 よろこびの人類光明化運動とは、今なるすがたそのものである人類光明化運動ということなのである。よろこびを感謝というのである。生長の家人類光明化運動は感謝の運動なのである。暗(やみ)の要素の少しもないのをよろこびと言い、感謝というのである。

 今あるここが神の国である。神の国の神の運動が生長の家人類光明化運動である。實相世界と現象世界との中間あたりに存在の意義を保っている運動ではないのである。今とは實在であり、神であり、そのままである。實在世界における實在の創造が生長の家人類光明化運動なのである。

 日に日に新しく生まれ、甦りそのものであり、神も驚き給う、實在の世界での實在の、全く新しきものの誕生のすがたなのである。 「不可思議妙々」 とは生長の家人類光明化運動のすがたを観じ給うて、讃え給う神のみことばなのであった。

 驚き給うは神であり、讃え給うは神であり給うたのである。神は生長の家人類光明化運動なる生きものをつらつら手ざわりし給うて 『甘露の法雨』 を雨ふらせ給うているのであった。それが生長の家人類光明化運動讃偈ということなのであった。神が神みずからを驚き給い、讃え給うているのである。神と神よりしか無いのが此の世界であるのである。

 「真実の實在は、神と神より出でたる物のみなり」

 とは、神みずからが神みずからを讃え給うているみコトバであり給うのである。生長の家人類光明化運動は神そのものであるが故に、

 「真実の實在は、生長の家人類光明化運動と生長の家人類光明化運動より出でたるもののみなり」

 ということなのである。「行くかぎり見わたすかぎり神みてり」 とは生長の家人類光明化運動がすべてを成して独在していることなのであった。(1998.10.7)

132復興G:2013/10/01(火) 20:00:54 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百

 生長の家人類光明化運動なるものとは、「ひとつ」なるもの、渾(すべ)ての渾てなるもの、それ以外に何ものも存在しない、相対、対立なきものであるが故に、悩みを知らないものであり、悲しみを知らないものであり、苦しみを知らない、自己展開、自己開放あるのみなるよろこびなるものであり、これを円相的自由というのである。

 これを独在なるものというのであり、生長の家人類光明化運動は独在なるが故に、現象的な外からのものによって、その価値、状況が云々(うんぬん)されるものでは決して有り得ないということである。

 自(みずか)ら立っているのが生長の家人類光明化運動なのであり、外の何ものかによって立たされたが故にはじまったものではないのである。それ故、「今起て!!」 というコトバは生長の家人類光明化運動みずからが発し、生長の家人類光明化運動は、尊師として尊師においてみずから立ち給うたのである。

 「今」 とはひとつということであり、絶対ということである。それ故、「今」 イコール 「生長の家人類光明化運動」 ということなのである。

 「天地(あめつち)のはじめは、生長の家人類光明化運動をはじめとする理(ことわり)あり」 ということなのである。

 「神はあるのか無いのか」 ということは 「生長の家人類光明化運動があるのか、ないのか」 ということなのである。

 「神とは何か」 ということは 「生長の家人類光明化運動とは、何か」 ということと同じことなのである。

  真性(しんせい)の生長の家人類光明化運動とは神なるが故に、

  滅ぶるものは 『真性の生長の家人類光明化運動』 に非ず。

  罪を犯すものは 『真性の生長の家人類光明化運動』 に非ず。

  病に罹(かか)るものは 『真性の生長の家人類光明化運動』 に非ず。

 ということである。

 これは久遠(くおん)を流るる生長の家人類光明化運動という相(すがた)なのである。久遠とは時空超脱(じくうちょうだつ)である。時間空間の流れの中に、生長の家人類光明化運動があるのではないのである。時間空間を在らしめて生長の家人類光明化運動があるのである。

 それ故に、生長の家人類光明化運動出現の時代的背景を云々する前に、時代背景をあらしめて、生長の家人類光明化運動がある、ということがまことの明るい真実なのである。

 このことがはっきりとしているが故に、背景を含めてすべての存在は明るいのである。生長の家人類光明化運動を迎えた全地上がどんなに明るく、光栄に満たされているかということがますますハッキリとして来るのである。

 そのもとは、そのもとは、と背景、原因をたどって行けば、必ず神、實相ということに至らざるを得ないのである。その神、實相が生長の家人類光明化運動なるものなのである。

 すべてのすべてを在(あ)らしめている相(すがた)が生長の家人類光明化運動であってこそ、自発的、自立的、創造的であり、楽的であり 「よろこびの光明化運動」 ということになっているのである。

 あらゆる明るきもの、よろこびなるものを花咲かせ、生み出しているものこそが、生長の家人類光明化運動である。

 「吾が内に、神が今ここに、そして天国が今ここに在る」

 ということは、今ここに生長の家人類光明化運動があるということなのである。

 「住吉大神 宇宙(すべて)を浄め終りて天照大神(あまてらすおおみかみ)出(い)でましぬ」

 とは、まことにも、生長の家人類光明化運動なるものが、その全貌をあらわしたことを讃偈(さんげ)しているのである。

 「ア、オ、ウ、エ、イ」 には、どこにも曇りと濁りはないのである。この 「ア、オ、ウ、エ、イ」 なるものそのものが、生長の家人類光明化運動なのである。(1998.10.8)

133復興G:2013/10/03(木) 09:35:30 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百一

 今朝、幽斎殿の 「龍宮」 の扉の前で礼拝した時、

 「生長の家人類光明化運動が神想観をする」

 というコトバが吾が内よりしたのであった。そのコトバも生長の家人類光明化運動なるものが出しているコトバである、というよろこばしさであった。

 「神想観」 は、神を想い観(み)るということであると同時に、神が想い観る、ということである。神が神を想い観るのであれば、正しく、神である生長の家人類光明化運動が神想観を為し給い、神想観そのものが生長の家人類光明化運動であり、生長の家人類光明化運動が生長の家人類光明化運動を想い観るのが神想観であるということが自然、天然なことなのである。

 生長の家人類光明化運動と自分とは一分(いちぶ)の隙間(すきま)なく、世界と生長の家人類光明化運動と隙間なし、である。

 自分そのものが生長の家人類光明化運動そのものであり、生長の家人類光明化運動そのものが自分そのものなのである。世界そのものが生長の家人類光明化運動そのものであり、生長の家人類光明化運動そのものが世界そのものであるのである。

 神のみがあり給い、したがって生長の家人類光明化運動のみがすべてのすべてであり、自分というものは何処(どこ)にも要(い)らないのである。何処にも存在しないのである。人の手もて作る神想観はどこにも存在しないのである。神のみ、生長の家人類光明化運動なるものによりてのみ神想観はあるのである。

 神はみずからの消え切りであり給い、澄み切りであり給う。それ故、生長の家人類光明化運動もみずからの消え切り澄み切りであり給うとき、何処に自分というものが有り得るであろうか。

 「最早(もは)や吾れなし。澄み切りの生長の家人類光明化運動のみありて生き給うなり」 というよろこびのよろこびがすべてのすべてであるのみなのである。

 太陽は説得せず、ただただ照っているのみなのである。生長の家人類光明化運動もまた説得せず、ただただ消え切りの、澄み切りの聖なるよろこびの輝きを輝いているのみなのである。

 「住吉大神(すみよしのおおかみ)宇宙を浄め終りて」 という。何故、住吉大御神(おおみかみ)は宇宙を浄め得るのか。住吉大御神ご自身が、消え切りの澄み切りの、浄まり切りの、聖の聖なるものにおわしますからなのである。住吉とは、澄み吉(よ)し、ということにほかならないのである。

 浄まるとは、本来の、あるべきものがあるべき相(すがた)になるということであり、浄めるとは、本来あるものを、讃えることによってそれが為されるのであるから、住吉大御神は、ただただ、本来あるところの相(すがた)のみを讃えるのみなのであり、永遠に、久遠に、住吉大御神は、暗(やみ)、汚(よご)れ、けがれを観給うということはあり得ないのである。

 「光明面を見て暗黒面を見るべからず」 とは、住吉大御神のはたらきをあらわしているのである。これは、住吉大御神ご自身が書かせ給うた、大御神ご自身のすがたを表現せられたのである。住吉大御神のはたらき、すなわち生長の家人類光明化運動のはたらきのすがたである。(1998.10.9)

134復興G:2013/10/04(金) 11:20:10 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二

 生長の家人類光明化運動なるものは神であるが故に、渾(すべ)ての渾てであるが故に、父であり、母であるのである。

 父であり、母であるが故に、 「天地(あめつち)の創造主(つくりぬし)にましまし、吾が生みのみ親にまします神よ」 とは、「天地の創造主にましまし、吾が生みの、父であり母である生長の家人類光明化運動よ」 ということなのである。

 同時にまた、生長の家人類光明化運動は先祖であり給い、兄弟姉妹であり給うのである。天地一切万物が生長の家人類光明化運動なのである。

 それ故、太陽は決して青空から外に出ることがないごとく、父であり、母である生長の家人類光明化運動の外に出ることは有り得ないのである。

 「神に感謝しても父母(ちちはは)に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」 とは、何が、どこが神の心にかなわないのであるか。神は言い給うているのである。すなわち、

 「私に感謝したり、拝んだりしないと私はお前を生かさないと想っているのか。私とお前は離れたことは一度もないではないか。私のいのちがあらわれてお前となっているのではないか。それなのに、今さら、感謝したり、拝んだりしないと生かさないと想っている、その心が私にとっては淋しいかぎりなのである。私はいつでも生かしているのだから、私の方は向かなくてもよいから、父母をはじめ周囲一切のものに感謝してくれれば、それが一番私には嬉しいのだよ。そして、父も母も兄弟姉妹も、天地一切が私そのものなのだ」

 と、あたたかい極致(きょくち)において発せられているコトバが 「大調和の神示」 なのである。

 斯(か)くの如く、あたたかい極致なのが、生長の家人類光明化運動なのである。父母のあたたかさの極致が、神であり、生長の家人類光明化運動なるものなのである。

 生長の家人類光明化運動なるものは、

 「お前はわざわざ自分で、生長の家人類光明化運動をしなければ、私が生かさないと想っているのか。私があらわれてお前となっているのではないか。私はお前から一度もはなれたことはないのだよ。私の方は向かなくてもよいから、父母先祖、周囲一切を見よ。それもまた、私そのものなのである。お前は生長の家人類光明化運動をしてから生まれて来たのではないのだよ。なぜなら、お前が生長の家人類光明化運動をするのでは、お前と生長の家人類光明化運動、つまり私とはなれていることになるからである。私はすべてのすべてであって、お前は私すなわち生長の家人類光明化運動をなんとかする、というようなことは永遠にあり得ないことなのだ。お前は、私すなわち生長の家人類光明化運動そのものなのである」

 と今、私を通して生長の家人類光明化運動なるものは鳴りひびいてい給うのである。

 「このことを素直に聴いて、よろこんでいる姿を見ることは、どんなにか私のよろこびであることだろう」

 斯(か)く、父母のあたたかさを以て、生長の家人類光明化運動は永遠に久遠に斯くあり給うのである。(1998.10.10)

135復興G:2013/10/04(金) 21:54:42 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三

 生命であるということは、忘れていても知らぬ間に伸びているということである。そして生命であるということは、外から教えられなくとも内から生長する智慧が備わっているということである。

 生長の家人類光明化運動なるものは、生きものであり給うということは、外から状況を説明し、教えなくともみずから伸び、ひろがり給うということである。

 草や木の芽に水をやりたくなるのは、草木それ自体に水をもらうという運命を展開するものをみずからに備えているからである。それは、はじめから神に生かされていると言ってもよく、神そのものであると言ってもよいのである。

 そういう姿として生長の家人類光明化運動はいのちそのもの、神そのものとしてあり給うことを想うのであって、そう想うと、そのみずみずしいすがたが私を生き生きとさせ、うるおいのある、むしろ植物的なさわやかさを甦らせて呉れるのである。生長の家人類光明化運動は、すがやかさ、さわやかさ、聖けさ、安けさ、かそけさ、そして、透明さそのものなる澄み切りなるものとして、私の中に伸びて来るのである。

 そして私そのものもまた、生長の家人類光明化運動なるものの、手であり、足であり、心臓であり、すべてのすべてであり、したがって、自分なるものは、要(い)らないということになっていることをかみしめて想うのである。

 伸びゆきて伸びゆきて、ひろがりてひろがりて、「見よ、麦は既(すで)に黄ばみたり」 ということが實相(まこと)のことであるのである。麦が伸び黄ばむのは、全くこちらの知らない内の出来ごとなのである。

 生長の家人類光明化運動なるものは人の手によって、数によって伸びるのではないのである。生長の家人類光明化運動は、それ自体の性質(さが)によって、光明であり、創造であり、生長そのものであるのである。

 知らない内に伸びるということは、生命なるものは、説得ということをしないからなのである。

 草や木や花は説得しているだろうか。ただただ歌っているだけのように想えるのである。説得する必要のないものが自然なるものであると言えるであろう。

 太陽は説得せずただ照っているのである。それ故、全人類は、あの太陽は自分のために照っていると受け入れているのであり、黙って照っている故に、誰れ一人として反対しないのである。

 夜露は万物を霑(うるお)して朝になったら消えゆくのである。誰も反対する余地はないのである。

生長の家人類光明化運動なるものは既に全地を霑(うるお)しているのが實相なのである。そして實相のほかには何もないのである。

 「それをやったのが私だよ」
 「それをやったのが生長の家だよ」

 ここにもまた、大聖師の言葉がわが内に甦るのを憶(おぼ)えるのである。

 ここに、生長の家人類光明化運動なるものが、新しき花嫁の装(よそお)いをして天降(あまくだ)っているのを見るのであって、新しき世紀が天降るのを想うのである。(1998.10.11)

139復興G:2013/10/07(月) 07:26:31 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百四

 「最早(もはや)、吾れ生くるに非ず、生長の家人類光明化運動なるもの、ここにありて生き給うなり」、「光明化運動よ、みこころのままに吾れを導き給え」、「光明化運動よ、ありがとうございます。ありがとうございます」 と唱えたくなるのは、すでに、吾が内なる生長の家人類光明化運動なるものであり給うのである。

 親鸞(しんらん)の 「大信心(だいしんじん)は仏性(ぶっしょう)なり。仏性すなわち如来(にょらい)なり」 という 「大信心」 の 「大」 とは、神であり、仏であることであり、すでにはじめのはじめから在りつづけているものという意味なのである。

 すなわち、生長の家人類光明化運動なるものは神なるが故に、この光明は大光明なのである。 「大」 であるということは、すべてのすべてであり、はじめのはじめから吾が内に在りて在り給うということであるのである。

 神想観において、 「神の無限の生かす力、吾が内に流れ入る、流れ入る」 と念じつつ、静かに静かに神の六つの御徳を吸う。その静かに、静かに、ということは、自分なるものが静まっていること、自分が要(い)らないこと、自分は無いことを意味しているのである。肉体の不透明な姿が、透明になって澄み切りの輝きであることを観ずるのは、自分なきことを観じていることになっているのである。それはそのまま最早(もは)や自分なく、生長の家人類光明化運動なるものここにありて生き給うことを意味しているのである。

 それ故、 「光明思念の歌」 の 「宇宙(くに)静かなり」 とは、自分が無いのであり、消え切りであり、澄み切りであること、宇宙全体が生長の家人類光明化運動そのものであることを意味しているのである。対立なき渾(すべ)ての渾てであるということは、無我であるということである。

 生長の家人類光明化運動が感謝礼拝の運動であるということは、無我なるものの運動であるということなのであるから、三界(さんがい)に身を現さざる運動であって、聖歌 『生長の家の歌』 を見ても、題名にだけ 「生長の家」 という名前が出て来るのみであって、一番は 「基教(キリスト教)讃歌」、二番は 「仏教讃歌」、三番は 「古事記讃歌」 であり、四番はこれら三つをもう一度讃えて 「万教帰一讃歌」 となっているのである。どこにも 「生長の家」 は現れず、消え切りの、澄み切りの、無我なる礼拝感謝讃嘆あるのみなのである。ここにもまた、限りもなく、深く崇(たか)く聖の聖なる、相(すがた)なき相を想わせて頂くのである。

 斯(か)くの如き、聖の聖なる輝きが全地上を蔽い給うていることを想うことはまことに、光栄なることであるという想いに満たされるのであり、同時に、

 「神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然(れいこうさんぜん)と輝き給う。その光りいよいよ輝きを増して全地上を覆(おお)い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う」

 との 「世界平和の祈り」 そのものに感謝が湧くのである。

 斯(か)くの如き、 「世界平和の祈り」 もまた、吾が内にましまして、生長の家人類光明化運動なるものが為し給うているのであった。(1998.10.12)

140復興G:2013/10/08(火) 10:32:28 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百五

 神想観は、上のものを上とし、下のものを下とし、前のものを前とし、後ろのものを後ろにし、左を左とし、右を右とし、真理そのものを自分の姿に体現(たいげん)するのがその姿勢となっているのである。左は男性即ち陽をあらわし、右は女性すなわち陰をあらわし、左足を右足の上にするのである。

 しかし、これは差別の問題ではないのである。大切なことは右も左も自分であることにおいて一つであることである。この自分に立って、右を生かし、左を生かし、陰を生かし、陽を生かし、上を生かし、下を生かし、一切を一切たらしめ、一切を生かし、展開発展せしめる無限創造を生長というのである。その生長を生長たらしめているまことの自分の自分なるものを自分たらしめるのが神想観なのである。

 神想観は真理そのものである、まことの姿をあらわし、中心、神をあらわすのである。中心、神を体現し、それを観じ、味わうものなのである。

 神想観は作法や呼吸法ではないのである。坐り方や呼吸の仕方を組み合わせて作るものではないのである。先ず、神想観なるものが天降(あまくだ)ったのである。

 神想観は、坐法や呼吸法によって、これから救われるための準備のものではなく、既に救われていることを観じ、感謝するすがたなのである。

 既に 「こと終われり」 「こと完成せり」 のところからはじまっているのが神想観なのである。

 それ故、完成(ななつ)の燈台として實在する生長の家人類光明化運動なるものは、神想観なるものそのものなのである。

 生長の家人類光明化運動なるものが神想観をする、と言ってもよいが、生長の家人類光明化運動そのものが神想観そのものであり、神想観そのものが生長の家人類光明化運動そのものであるのである。神想観なるものと生長の家人類光明化運動は離れた存在ではないのである。

 ここには 「祈り」 と 「運動」 との分離はないのである。生長の家人類光明化運動なるものは神であり、神想観なるものも神なのである。それはそのまま渾(すべ)ての渾てなのである。渾ての渾てなるものをよろこびというのである。 「よろこびの神想観」、 「よろこびの光明化運動」 などという言葉はここから出て来ているのである。

 『文化の本源としての神想観』 という総裁谷口清超先生の第一論文の意味する 「文化」 とは、限りもなく崇(たか)く、深く、広く、すべてのすべてなるものと言わざるを得ないのであって、すべてのすべてであるということの意味は、ひとつなるものとしての、本源なるものそのものの展開として、すべてが生み出されるところのものを意味しているのである。限りなき澄み切りの、大調和の、 「ハイ」 なるものの展開として、文化なるものがとらえられているということである。

 神想観は神を想い観ると同時に、神が想い観給う故に、すべてのすべてなのである。

 「招神歌(かみよびうた)」 なるものも、神が生み給い、神が歌わしめ給うのである。まことに 「神こそ渾ての渾て、神は渾てにましまして絶対なるが故に、神の外にあるものなし」 なのである。

 更にまた、 「神は無い」 という人のその言葉さえも、神が言わしめ給うて、神はみずから 「私は無いのである」 との消え切りの、澄み切りの、聖の聖なる、幽の幽なる、すべてのすべてであり給うのである。

 新しき世紀に入るにあたって、ここに総裁谷口清超先生の第一論文 『文化の本源としての神想観』 を拝誦(はいしょう)すべきことを想うのである。

 先ずここに、時空超脱(じくうちょうだつ)の、輝くよろこびの一文字一文字がこの論文となっていることを合掌礼拝させて頂くのである。

 比類のない、みずみずしさと楽しさとを以て流れ出している幸いなるものの流れを拝するのである。(1998.10.13)

142復興G:2013/10/08(火) 21:42:26 ID:AB6RqYXc

 (復興G 注)
 前記の榎本恵吾先生ご文章の中に、谷口清超先生の第一論文 『文化の本源としての神想観』 というのが出てきますが、これは昭和22年、『生長する青年』(『理想世界』 の前身)創刊号に、谷口清超先生が谷口家の人として最初に発表された論文で、『生長の家四拾年史』 や単行本 『神は生きている』 に掲載されているものです。その谷口清超先生論文 『文化の本源としての神想観』 を、これから数回に分けて、謹写掲示させて頂きます。

143復興G:2013/10/08(火) 21:43:21 ID:AB6RqYXc

   文化の本源としての神想観   谷口 清超

     一

 吾々の運動は「生命」の全的な運動である。単に昔から言い古されている、一定の型にはまった、ぎごちない、シャチコバった、形骸(けいがい)的な「宗教」ではない。吾々の運動は、狭い意味での「宗教」ではない。吾々は一定の立場に執することをこの上もなく嫌うものである。吾々の足場は無相であり、全てである。吾々の活動は「人生」そのものの上に基礎を置いている。ここに於て「人生」を単に知的に解するのみではなく「人生」を叡智を以て行じて行く実践の態度が要求されるのである。

 吾々は「神」を凡(すべ)てであるとみとめる。その意味に於て「宗教」である。しかし、同時に吾々の運動は「表現」活動であり、芸術活動であり、思想活動であり、政治的経済的理念及び技術の探求であり、教育であり、しかして真実の「科学」でもある。

 凡(あら)ゆるものがそこから引き出され、再びそこにかえって来るところの根本原理、それを吾々はしっかりと把握してはなさない。吾々は人生を肯定する。それは人生に大いなる希望と意義と幸福とを見出し、人生をこの上もなく讃美する者の集いである。

 吾々は一つの偉大なる根本原理を知った。「人間は神の子である」「神の創り給うた世界に、悪しきものは何一つないのである」――こう吾々は、全世界に向って宣言する。「人間よ、喜び給え。諸君には既に無限の幸福が与えられているのである。汝の眼前には、それがぶら下っている。手をのばして之(これ)を取り給え。それは諸君のものである」と吾々は声を大にして叫ぶのである。

 吾々は何も独占的な教義を固定化して、それを専有し、自己の団体に信者を引き入れようとする者ではない。吾々はただ、ひたすらに、人類同胞諸君に喜んでいただきたいのである。吾々は諸君を束縛する者ではない。諸君に真の幸福と自由とを分ち与える者である。

 諸君がキリスト教徒であれ、仏教徒であれ、神道の信者であれ、或は又、其他いかなる宗教団体に属する人でもあれ、或は属さざる人でもあれ、吾々は諸君に対して、何ら、「そこを去って吾が団体に来(きた)れ」とは言わぬ。吾々は単なる「生長の家」という一団体のために道をとくのではない。吾々は人類に幸福を与えんがために、ただひたすら、諸君に吾が喜びを分たんがためにのみ活動をつづけるのである。

 キリストは何も「キリスト教」という教団をたてようと思って「愛」を説いたのではなかった。釈迦はおそらく今の世に「仏教」と呼ばれているものの姿を予想しなかったであろう。キリストや釈迦が偉大であるのは、彼らが何ら一定の「形」に執せず、自由に、ただ真理のためにのみ真理を唱道したからである。

 キリストも釈迦も、別に自分で新しい専有的な教義を発明したものではなかった。彼らは、古き道を成就したにすぎない。彼らは「真理」を新しい息吹きを以て、当時の人々の心にもっともピッタリと来る表現法を用いて説いたのであった。

 釈迦の達した窮極の悟りとは結局何であったであろうか。それはただ、「人間はそのまま仏である」という事であった。キリストの境地も同じである。「人間は神の子である」という事であった。

 真理は唯一つである。宇宙には唯一の真理が充満している。あらゆる価値はそこから生れ、あらゆる美と真実がそこに誕生する。吾が師のときたまう「生長の家」の教えも亦この真理の声だ。それが新しき生命を以て実現されたのである。新しき時代に最も適合した「生命活動」が自然に発現して来た。これが吾々の生命活動である。吾々の全人的運動が、古い宗教の形骸をかなぐりすて、生々(なまなま)しい素裸の生命を露出したのである。

 この生(なま)のままの真実にふれた時、人々は、忽然(こつねん)として病い癒え、数多の不幸は消散した。しかし、吾々は別に「医者」でもなく「実業家」でもなかった。これはただ、あるべき人間の本然の姿が、そのままそこにあらわれ出て来たにすぎない。人間は何も苦しむことがその目的でもなく使命でもないのである。病気や不幸の姿は、人周の真実の姿ではない。真実ならざるものは真実に出遭(なまなま)った時、消えうせるのが当然である。それはあたかも、夜の悪夢が、朝日のさしのぼると共に霧散(むさん)し果てるのと同様であり、夜の露が朝日にあってきえうせるのと同じである。吾々は太陽の如く、世のすべての迷妄の夢をやぶり、世界のすみずみにまでも、吾らの光明の輝きをあまねくなげかけずにはやまないのである。

<つづく>

144復興G:2013/10/08(火) 21:46:34 ID:AB6RqYXc

お詫び、訂正です。

×真実に出遭(なまなま)った時
          ↓
○真実に出遭(であ)った時

145復興G:2013/10/09(水) 10:01:32 ID:AB6RqYXc

   < 「文化の本源としての神想観」 つづき>

      (谷口清超先生 『神は生きている』 より)

     二

 凡(すべ)ての人間は、過去に於ても現在に於ても又未来に於ても、同様の考え方をする。ただ、それを表現する感覚(センス)は非常に変っている。それはあたかも、裸の人間のみをみては、過去の人と現代の人と大差はないが、衣服をつけた人をみると、過去の人と現代の人と大変異なっているようなものである。

 しかしながら、古きものは常に新しきものに連続しているのであるから、そこに何らかの共通点を見出すことが出来る。まして、裸のままの人間そのものの心は過去・現在・未来を問わず、永久に不変である。それ故に吾々は古典の美にうたれ、古き教えの真実に心打たれるのである。

 釈迦は世の中の生老病死(しょう ろう びょう し)の四苦を見て、現世をいとい、何とかして解脱(げだつ)に達せんとして苦行林(くぎょうりん)に入り六年間の苦行をした。キリストは荒野にて四十日四十夜の断食をして飢えたもうた。彼らはただ、ばくぜんと苦行したのではなく、「現在の自分」 というものに満足出来ず、何ものかによって現在の苦しみから脱却せんと希(こいねが)ったのである。

 釈迦に於ても、かつては苦しみがあり、キリストに於てもなやみがあった。釈迦やキリストが偉大であるのは、何もかかる悩みそれ自体によるのではなく、その苦しみを超克した偉大なる彼らの人間性(即ち神性の顕現)によるのである。

 かくの如く人間はすべてなやむ。しかし、人間が悩む故にその悩みが貴いと考えるのは馬鹿げた事だ。豚は悩まないが人間は悩む、悩みなき豚となるより、悩み多き人間となる方が貴いと言う人がいるが、それは勿論その程度の発達状態の人間にとっては、悩まざる痴呆(ちほう)より悩み多きインテリである事の方が好ましいにちがいない。

 しかし、吾々の要求している 「悩みなき人間」 の水準は、さらにその上にある。悩むことを知った人間が、更に昇華して、悩みなき神の子たる人間にまで到達する事を求めているのである。釈迦やキリストが到達した(或はある程度到達した)境地を、万人に求めているのが、吾々の精神運動である。

 諸君はそれを至難だと思うか。それは決して考えられている程に至難ではない。それは苦行(くぎょう)ではなく楽行(らくぎょう)である。それ以外の道が苦行であるのだ。吾々が、彼ら先達の道をふみしめ歩み行う時、それは安らかな道であるが、吾々が、彼らの切り開いたと同じ密林を自分の力で切り開いて行こうと思う時、至難道となるのである。

 人間は、だれでも、好むと好まざるとにかかわらず、何らかの形で神を自覚せしめられ、神の道を歩まぎるを得ない様に指導されるものだ。これが摂理であり、その摂理が 「悩み」 という形で人間に感得される。人間は本能的に 「悩み」 をさけ、「悩まざる道」 へと志向する。それは本能的にである。豚が本能的にトウガラシの辛さをさける如くに、人間は本能的に悩みをさける。それ故、悩みそのものが人間的であると考えるのは真理を知らざる者と言うべきであろう。人間の本性は永遠に 「悩まざる者」 である。

 <つづく>

146復興G:2013/10/10(木) 11:11:29 ID:AB6RqYXc

   < 「文化の本源としての神想観」 つづき>
      (谷口清超先生 『神は生きている』 より)

     三

 戦争は人間の悩みを最大限に拡大して、露呈する。戦争の破壊力は物質的の破壊力のみに止(とど)まらずして、人間の精神をも破壊する。人間の理想と夢とを戦争は無残にもふみにじる。そのあとには、何ものによってもきずつけられる事のない 「永遠なる真実」 と 「悪の華(はな)」 とが混沌として入りみだれる。

 しかしやがて 「悪の華」 は自ら消滅し 「永遠者」 のみが生きのこり繁栄する。「悪の華」 がいまだ完全に消滅せず、かえってこれに適当した温床が与えられる時には、やがてふたたび第二の自壊作用としての 「戦争」 が勃発するのである。

 第一次世界大戦の後に生じた一つの反逆精神があった。それは今までの理想、秩序、権威等、すべての力あるものに対する絶望であり、嘲笑であった。それは精神の不安である。

 一九一六年、チューリッヒに於てトリスタン・ツアラは 「ダダイズム」 という言葉を創始した。ダダ (dada) とは 「何事も意味しない事」 である。つまりカオスの象徴であり、釈迦が王宮を出た時の絶望と通ずるものがある。釈迦が絶望のうちに何か 「新しき光」 を求めて出家した如く、ダダも 「何事も意味しない」 とは言うものの、何事かを意味するために誕生した言葉であったのだ。そこに意識されざる矛盾がひそんでいた。これが大いなる禍(わざわい)の種となろうとは、誰一人として知らなかった。

 ダダイズムは何ものも神聖なるものをみとめない。dadaということばはフランス語で馬を追う時につかう 「ドウドウ」(ダダ) といういみであり、そこには 「既成概念を追っぱらう」 という「意味」がひそんでいた。

 戦争の原因となった旧(ふる)き観念を追いはらうという意味に於てダダが使われている限り、それは正しかったのであるが、彼ら同人の用いた 「ダダイズム」 は虚無にまで転落して、それ以上にはい上ることが出来なかった。

 かくしてダダイズムは自滅した。その反旧精神をうけついであらわれたのが、シュールレアリズム(超現実主義)であった。ツアラはこの運動に同志と共に加入し、アンドレ・ブルトンが主宰した。

 それは精神的に現実界を超越したより高き理想の世界を夢みる運動であり、それを直接的表現に移し植えたのであった。そこに、現実の暗黒と矛盾とに対して生じた革命精神を包含している。

 それは、正しく指導されれば、宗教的真実の彼岸に到達し、そこに真の超現実の実体を見出すことが出来たのであるが、当時のシュール・レアリスト達はあまりにロマンチシストでありすぎた。彼らは現実を超えたつもりで観念の世界に停(とどま)っていた。イマージュの世界に止っていたのだ。そこには何ら、現実を動かす所の力がなかった。彼らは彼岸の彼方を遠く眺望して、いたずらに幻想をたくましくしているにすぎなかった。彼らに欠けていたものは、もう一歩の前進であり、超現実と現実との立体的力学の把握であったのである。かくして、あくまでも現実の革命精神に燃えるアラゴン一派が、共産主義改革 即ち、政治革命へと満足を求めて離反して行った。

 結局彼らにとって最も欠けていたものはというと、彼らが何に反逆し、何に対して絶望し、何を求めて苦しんでいたかという、はっきりした対象を見出し難かった所にある。彼らが現実を超えんとした時、その現実とは如何なるものであるかという明瞭な認識を欠いていた点にあった。

 彼らがせっかく超現実を標榜(ひょうぼう)しながらも、神の国に投入し得なかった最大の理由は、「神の国」の感覚(センス)が彼らの近代感覚の触覚にこころよく感じられなかったからである。それは、神の国をとく宗教がフランス製のアラモードをつけていなかった点にもよる。しかし、根本の原因は、彼らの唯物論的残滓(ざんし)にあったのだ。

 彼らは何ものかを求めた。彼らの求めていたものはたしかに 「神」 であった。しかるに彼らはそれを 「意識しなかった」 或は 「意識しまいとつとめた」 のだ。何故であるか。それは、当時の宗教のとく神の衣裳の感覚が彼らの感覚(センス)に合わなかったからである。表現の問題である。そこに芸術的感覚と宗教的感覚との一致が要求せられる所以がある。

 吾々の思想運動、宗教運動が、一つの大いなる芸術運動を標榜しているのも、ここに原因がある。「宗教」 は宗教に関心をもつ者のみを救うのでは何にもならぬ。「宗教」 が宗教的臭味を脱した時、そこに凡ての人に接近しうる親近性が付与されるのである。
 <つづく>

147復興G:2013/10/11(金) 10:04:41 ID:AB6RqYXc

   < 「文化の本源としての神想観」 (昭和22年発表) つづき>
      (谷口清超先生 『神は生きている』 より)

     四

 第二次世界大戦は終った。そしてそのあとには第一次大戦の時と同様の混乱の世界が生じている。

 それは物資の欠乏にまつわる精神の不安である。この不安がかつて 「ダダ」 となって表現された如く、それは今 「実存主義」 等の面貌(めんぼう)を以て、日陰の草の如く青白く芽生えている。やがて日光が強くなれば、枯死してしまいそうな雑草ではあるが、それは、人間の精神の不安の告白であって、その告白を無視しているわけにはゆかない。ダダイズムも実存主義も共に虚無(ニヒル)をその根底にいだいている。

 それは失恋者の虚無感と通ずるものがあって、失恋者が売笑婦に走ってしみじみと 「恋の悲哀」 を自嘲するが如く、彼らは 「肉体的快楽」 に走らんとする。それは敗戦の世界に共通した現象であるが、ただそれだけの害毒にとどまらない。虚無はかならず物質的誘惑へと堕落して行く。それは闇にバイキンが繁殖するが如くである。

 彼らは精神的苦悩を物質によってまぎらわそうとする。そして一時、まぎらわしうるかの如くにも錯覚する。それはアラゴンが共産主義に走ったが如きである。共産主義は唯物論の塊だ。物的革命という誘惑は、精神の不安を感じている人々にとっては、最後の逃避場となる可能性がある、彼らは結局、ニヒルから拝物へ唯物へと転落して行くのである。

 吾々はこの悲劇を防止しなければならない。精神の不安に絶望的となっている人々へ、精神の安定と祥福とを与えねばならないのである。「永遠なる理想」 を与えねばならない。

 かかる悲劇は何によるのであるか。そして又、かかるニヒルが何故フランスに於て発生し、それがパリの流行が世界に伝播するごとくに、世界中にひろまったのであるかという事を考えてみる必要がある。その理由は、ヨーロッパ、ことにフランスに於て 「宗教」 「芸術」 「思想」 及び 「科学」 がお互いに遊離していた点にその原因がある。そしてこれらのものと又別個に 「政治」 が存在する悲劇にも依るのである。

 真の芸術は 「神」 を体得することによってのみ表現される。真の芸術は人間の世界に誕生する以前に、既に霊の世界に於て完成されている。人間のつくる芸術は、霊の世界の芸術の不完全な模写であるとは、『生命の實相』 に説かれている所だ。芸術を完成するためには、人間はただひたすらに神の声をきくところの無私なる境地に達すればよいのである。

 ニヒリストには 「神」 というものを与える必要がある。そして彼らに与えるところの神は真実の 「神」 でなければならない。唯一人の特権者にのみあらわれ給う神でもなく、何らか不思議なる大時代的秘法を修することによって知る事が出来る神でもなく、ただ、あたりまえなことを、あたり前に行ずる事によって顕れ給う神でなければならない。

 「臨済録(りんざいろく)」 に曰(いわ)く。

 「仏法は功を用ゆる処なし。祇(た)だ是れ平常無事なり。痾屎送尿(あしそうにょう)、着衣喫飯(きっぱん)、困(こん)じ来れば即ち臥(ふ)す。愚人は我れを笑う。智は乃(すなわ)ち焉(これ)を知る」

 ――即ち、あたり前のことをあたり前に、すらすらととどこおりなく行うところに仏法はある、そこに神が顕れ仏があらわれる。最も当り前な人間としての、行為の中に神は顕れ給うのである。ダダイストやシュール・レアリストや実存主義者やニヒリスト達には、このあたり前な事が出来なかったのだ。

 あたり前とは従前通りという意味ではない。不安、闘争、病苦、悲惨のあるような従前通りではない完全な理想の世界こそ、真に当然かくあるべきありのままの人間の姿である。その正しき本然の姿にしたがって、すらすらと不安も懸念もなく、安心して摂理のみ手に導かれつつ実行するところに、目に見えざる神があらわれ給うのである。

 <つづく>

148復興G:2013/10/11(金) 20:38:35 ID:AB6RqYXc

   < 「文化の本源としての神想観」 (昭和22年発表) つづき>
      (谷口清超先生 『神は生きている』 より)

 彼らに与えられる 「神」 は大時代的なごてごてした装束をつけている必要はない。フランス風な小粋な姿をしていても好い。必要な時には白装束をつけてもよいし、真裸になってもよい。何れにしても、神を限定してはならない。神の衣裳は無限のバラエティにとむ。「宗教」 はつねにしかつめらしく 「荘厳」 でなければならないことはないのである。時には 「軽快」 な機智をひらめかし、風刺と諧謔(かいぎゃく)に人を哄笑(こうしょう)せしめ、或は悲劇に涙をしぼらしめ、美しき言葉を奏し、絵画を制作するだけの無限の可能性を内包していなければ、十分とは言えないのである。

 そして又 「科学」 は 「宗教」 と一致しなければならない。唯物論者の食卓に配給する 「宗教」 は、やはり幾分か 「科学」 のバターでいためなくてはならない。そのバターは 「宗教」 の中に渾然(こんぜん)ととけこんでいないと彼らのお気にめさない。元来真の宗教は 「科学」 と一致する性質のものだ。科学の言う 「法則」 とは即ち 「神」 であった。スペンサーはその教育論に於て次の如くに言う。

 「科学が非宗教的であるのではなく、科学の蔑視が非宗教的なのである。(中略) こうして本当の科学は本質的に宗教的であるだけではない。万物が見せている行動の不変に対すろ深い尊敬と暗黙の信仰を生むが故に、科学は宗教的である」

 ――と。

 十九世紀イギリスの生んだ世界的科学者ハックスレー教授は次の如くに言う。

 「真の科学と真の宗教は、双生児である。だから一方を他方から引きわけることは、必ずや両者の死を招くのである。科学はそれが宗教的であるに正比例して栄え、宗教は、その基礎が科学的な深さがあり、しっかりしているに正比例して栄えている。哲学者達の偉大なる仕事は、彼らの知力の結果というよりも、すぐれて宗教的な精神が与える知力の傾向の結果である。真理は、彼らの鋭敏な論理よりも、彼らの忍耐、愛、真心、自己否定に身を任せるのである」

 科学と宗教のみならず、哲学と宗教との一致をも彼は説いた。相対性原理で有名なアインシュタインは道徳と科学の一致を強調し、科学的真理は、人間としての善をあたり前に行い、いやしくも正しからざる事を行わないことによって発見されるのだと言っている。更にスペンサーは言う。

 「あらゆる種類の芸術は科学に基礎をおいている、科学がなかったら完全な作品もつくれず十分な鑑賞も出来ないだろう。芸術の作品がすべて多かれ少かれ、客観的、主観的現象の表現であり、こういう現象の法則に合致して初めていいものとなることが出来、美術がこうして合致する前に芸術家はこういう法則の何たるかを知らねばならぬということをおもえば、科学が必然的に、芸術の基礎をなすということは先天的に明かである」

 かくの如くにして、宗教、科学、芸術、哲学、倫理は、渾然として融和し、一にして多、多にして一、その間にいささかの空白もゆるされない。これを個別にバラバラに分解し、芸術を芸術のみに分離して、その不安におびえたところにフランス近代の苦悩があり、ニヒルが生れ、唯物論が生れた。

 イギリスやアメリカに於てはさいわいに科学と宗教と芸術があまり分離せず、それが相おぎない合って円満な発達をとげたために、精神の安定がくずれにくかった。かくして今や、現代のたくましい生命力ある政治をかかる凡(すべ)ての精神分野の上に正しく安定せしめることが出来る国は繁栄し、国内及び国際両政治に大いなる成功をおさめることが出来るのである。

 <つづく>

149復興G:2013/10/12(土) 09:54:51 ID:AB6RqYXc

   < 「文化の本源としての神想観」
      (谷口清超先生 『神は生きている』 より)

     五

 吾々はここに、凡ゆる文化の本源である絶対真理を正確に完全に把握し、それを全身全霊を以て実行せんと努力する者である。

 その絶対真理とは、「人間は神の造り給うた完全なる神の自己顕現である」 という事だ。「凡ての人間は神の子である」。人間相互の間に何らの摩擦闘争もない。不和闘争があると思うのは、思う人の迷妄である。人生は観る通りにあらわれる。暗い人生観をもてば暗い人生が展開し、弱肉強食の闘争の世界観をいだけばその通りの世界があらわれる。

 すべての世界は、人間の心の内にあるのである。「環境は心の影」 である。まことに或る哲人の言った如く、「世界は無であり、人間が凡て」 なのだ。大宇宙は人間という小宇宙の中に併呑(へいどん)されているのである。

 吾々はただひたすらに、「実相」 を礼拝すればよい。神の造り給いし世界の完全無欠なる姿を心に描き、ただひたすらにその完全さを観じ礼拝する。現象の世界は、観た通りに顕れる。神の世界を心に描けば、神の世界が現実にあらわれ出るのであり、地獄の世界を心にえがけば、地獄の世界があらわれる。

 現れたものは仮りの姿であり、現象の地獄も極楽も、凡て仮りの姿であり無であり、幻である。本当の実在は、神の造り給いしままの、人間の脳髄智によってはうかがい知ることも出来ない程に完全精緻なる 「実相」 である。それは久遠の昔から永遠の未来に到るまで実在する不滅なる神の世界(くに)なのである。

 それは無限者そのものであり、神それ自体であり、無限の愛であり、無限の智慧である。この無限の智慧にそのままつらなる事が出来た時、神の生命が何の滞りもなくその人に流れ込むのである。かかる神の智慧に生かされてのみ、真の芸術、真の哲学、真の科学、真の政治、真の教育が行われる。凡てこれらの諸文化は、神に於ては完全に一致しているのであり、神に於いてのみ完全でありうるのである。

 この無限なる智慧につらなるにはいかにすればよいかといえば、先ず神の国の至福なる姿を心に思いうかべ、その実在を深く深く感情の底からわき出して来る情意をもって感得する。(これは神想観である。神の世界を、神が想うのである。)それは神の子が故郷(ふるさと)の神の国を望郷する。しかしてそこからわき出して来る、自然のままの、そのままの智慧にそって、そのまま素直に行う。

 それが神の智慧に導かれる事であり、その神の智慧は、自然にわき起ってくる内心の欲求であることもあるし、或は隣人の忠告であることもある。上司の命令である事もあるし、親の希望であることもある。吾々は、そのいずれであるかを論ずる必要はない、ただそのみちびきの通りに、素直にスラスラと従って居ればよい。

 そしてもし自分の正しいと思う事とくいちがう様な気のする時は、穏やかに自分の意見を言う。言論の自由とはただいたずらに激論をたたかわせて争議することではない。そしてお五いに了解し合って後(もし目上のものが了解せざる時は目上の者の言う事の方をとる。一見正しく思えなくてもそれは結局正しくなる)その結論に素直に従う。

 何よりも先ず 「神の世界を観る」(神想観) 事が大切であって、これ以上肝要なことは世界中何処にもない。凡ての根本がここにある。凡ゆる文化の根本が、神想観(メディテイション)にある。世界は観た通りの姿に現れる。而して観る観ないに拘らず世界の本然の姿である「実相」は完全無欠であり、至福そのものである。

 諸君よ。偉大なる神想観の功徳に目ざめよ。而して人生の最も香気高き宗教・芸術・哲学・科学の神髄を把握せよ。吾々は諸君のために、ただ諸君の幸福のために、声を大にしてかく叫ぶのである。
 (昭和二十二年九月)

150復興G:2013/10/12(土) 09:55:38 ID:AB6RqYXc

 以上で、谷口清超先生の第一論文 『文化の本源としての神想観』 の謹写掲示を終わります。

 これは、>>140で、榎本先生が

<< 『文化の本源としての神想観』 という総裁谷口清超先生の第一論文の意味する 「文化」 とは、限りもなく崇(たか)く、深く、広く、すべてのすべてなるものと言わざるを得ないのであって、すべてのすべてであるということの意味は、ひとつなるものとしての、本源なるものそのものの展開として、すべてが生み出されるところのものを意味しているのである。限りなき澄み切りの、大調和の、 「ハイ」 なるものの展開として、文化なるものがとらえられているということである。

 神想観は神を想い観ると同時に、神が想い観給う故に、すべてのすべてなのである。>>

 と書いておられたので、その原文を6回にわたり謹写掲示させていただいたのでした。

 次からまた、榎本先生の 『神癒の展開としての人類光明化運動』 を続けさせて頂きます。合掌

151復興G:2013/10/12(土) 10:00:58 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百六

  手を挙げるのも、眼をしばたたくのも、
  歯をみがくのも、床(とこ)をたたむのも、
  笑うのも、鼻をつまむのも、
  ことごとくが芸術である世界、
  そのような世界に住んでいて、
  そのような生々(なまなま)しい真理のカケラを、
  血眼(ちまなこ)になって追いまわしている人々を、
  なぜ芸術家と呼ぶのでしょう。

   ――美しき生活の断章――

    〈谷口清超宗教論集3 『愛と祈りを実現するには』 より〉


 これは先生の第一論文(「文化の本源としての神想観」)よりも時間的には後に書かれたものであろうが、ここには、時空を超えた、時間空間さえもみずみずしいよろこびのすがたとして拝まれているのである。

 しかしながら、これは神想観によって、五官の世界を去ったところから拝めて来る世界なのである。一切を超えて一切がよろこべて来られた風光(ふうこう)なのであると拝察されるのである。このような地点から、総裁谷口清超先生のお言葉は出て来られているのである。

 神想観は、「神の世界を、神が想うのである」 とこの第一論文の中で書かれている。

 神は渾(すべ)ての渾てにましますのである。神はご自分を観じ給うのである。これは偉大なる自己讃嘆の極致のおすがたである。

 「招神歌」 を唱えているのは、最早(もは)や神であり給うのである。それ故、まことには神想観には練習はないのである。練習のない偉大なる本番そのものを神というのである。

 人間はどこにもないのである。人間がどこにも無いのを感謝というのである。神想観は感謝の当体なのである。 「神」 と書いて 「感謝」 と読んでもよく、 「神想観」 と書いて 「感謝」 と読んでもよいのである。

 「神の世界を、神が想うのである」 から、そこには神以外はなく、寸分のスキ間もないのであるから、神想観は 「ハイ」 そのものなのである。

 神は實在であり、實相であり給う故に 「神の世界を、神が想う」 ということは、實相が實相を想うことであり、本番が本番を想うことなのである。

 ただただ、實相あるのみ、神一元、實相一元なるところに、 「山これ山に非ず、これを山という」 態(てい)の、 “西山常運歩、東山水上行” なる自在の風光こそ、まことの文化なるもののすがたであることが讃えられて来ているのである。

 「此の世、此の世に非ず、これを此の世という」 態の、いわゆる御著 『神は生きている』 の中で讃えられている 現象なる地獄も極楽も超えた まことの光りの国なるものの礼拝がここに有り給うのである。

 「文化これ文化に非ず、これを文化という」 態の、 “山川草木国土悉皆成仏、有情非情同時成道” の風光、宗教も哲学も芸術も政治もすべてが 神が生きている風光として拝まれている、天地一切成仏の消息がここにあるのである。

 『文化の本源としての神想観』 といえども、神想観はただただ神想観なのである。ただただあるものこそが まことの文化そのものであることが拝まれているのである。

 何ものかのために神はあり給わず、ただただあり給うのであり、ただただ神の世界を、ただただ神が想い給うのが神想観であり給うからである。

 ただただ神想観である。(1998.10.14)

152復興G:2013/10/14(月) 10:24:59 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百七

 浄(きよ)め、 「無の門関」 の輝くはたらきが、住吉大御神(すみよしのおおみかみ)であり給い、肯定、創造の輝くはたらきが塩椎大御神(しおつちのおおみかみ)であり給い、すべてのすべてなることを輝き給うているのが、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御すがたであり給うのである。

 しかし、これは別々にある姿ではなく、これはひとつなるものの輝きであり、ひとつなること、すべてのすべてなることを体現され給うているのが天照らす、ということそのことなのである。

 塩椎(しおつち)のはたらきとして大御神は 「吾れは高天原(たかあまはら)である。吾れは天之御中(あめのみなか)である。吾れは高御(たかみ)むすびである。吾れは神むすびである。吾れはウマシアシカビヒコジである。吾れは天之常立(あめのとこた)ちである。吾れは国之常立(くにのとこた)ちである。吾れは豊雲(とよくも)野である」 と鳴りひびき給い、

 「吾れは實在である。吾れは龍宮海である。無限の智慧の海である。吾れは無限の愛の海である。吾れは無限の生命の海である。吾れは無限の供給の海である。吾れは無限のよろこびの海である。吾れは無限の調和の海である。吾れは龍宮である。吾れは如意宝珠(にょいほうじゅ)である。吾れは實相であり、渾(すべ)ての渾てである」 と鳴りひびき給うているのである。

 神が神ご自身を観じ給い、鳴りひびき給うのが神想観である。

 「無の門関」 の透過(とうか)がすべてのすべてである。「捨徳」 とは、捨てる徳であると同時に、徳を捨てるということである。

 一切の把(つか)みを捨てることが、「無の門関」 の透過である。

 一切である神を捨て、仏を捨て、實相を捨て、捨てるということも捨て、「無の門関」 をも捨てることが 「捨徳」 ということである。そこに肯定なる塩椎(しおつち)なるものがましますのである。

 住吉(すみよし)の浄めのはたらきも 「ア、オ、ウ、エ、イ」 となって輝くとき、すでに塩椎(しおつち)のはたらきであり給うのであり、これらひとつのはたらきが、天照大御神の輝きそのものなのである。

 「吾れは在りて在るものである」 とは塩椎のはたらきのひびきなのである。

 更に塩椎なるものは、

 「吾れはハイである。吾れは “ありがとう” である」
とひびき給い、

 「吾れは無限のすがしさである。吾れは無限のさやけさである。吾れは無限の聖(きよ)けさである。吾れは無限の安けさである。吾れは無限のかそけさである。吾れは幽(ゆう)の幽である。吾れは無の無である」

 と澄み切りであり給うことを肯定しているのが塩椎の御はたらきなのである。

 この澄み切り、であることは住吉なるもののはたらきなのである。

 これらすべては、ただただひとつなるもののはたらきなのである。

 高天原も、身(みみ)を隠し給う七柱の独神(ひとりがみ)もイザナギの神も、イザナミの神も、天照大御神も、住吉大御神も塩椎大御神もすべてはひとつなのである。

 ただただ 「無の門関」 を透過した、真空妙有(しんくうみょうう)、妙有實相、入龍宮不可思議(にゅうりゅうぐうふかしぎ)の消息なのである。

 神想観の 「吾れ今五官の世界を去って實相の世界に入る」 ことの荘厳行事を想うのである。その荘厳なるゆえんはただ一つ 「神の世界を神が想う」 という畏(かしこ)き消息にあるのである。(1998.10.15)

153復興G:2013/10/16(水) 19:58:27 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百八

 宇治別格本山の季刊紙 「宇治だより」 に 「神癒の展開としての人類光明化運動・入龍宮幽斎殿(にゅうりゅうぐう ゆうさいでん)について」 と題して次のように書いた。


 “まこと畏(かしこ)き極み”

 大聖師谷口雅春先生は、入龍宮幽斎殿の 「竣工慶祝献堂(しゅんこう けいしゅく けんどう)の祝詞(のりと)」 の冒頭で 「まこと畏き極みにてありけり」

と書かれております。その畏き極みとは、ここが 「七次元」 即ち完全次元、無限次元、超次元の自覚の場所であるということがその一つの意味であると拝察されるのであります。

 時空超脱(じくう ちょうだつ)の本源世界、無限創造の世界がここでは 「幽(ゆう)」 なるものとして表現されているのであります。それは 「幽の幽なる世界」 を意味しているのであります。ここから直接、あらわれ出て来るのが奇蹟の湧出(ゆうしゅつ)なのであります。神想観や写経実修によろこびの体験が湧出しているゆえんであります。

 皆さまご存知のように、生長の家人類光明化運動の根本聖典であります 『生命の實相』 の第一巻本論の冒頭(ぼうとう)には

 「生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります」

 と書かれているのであります。神癒とは自性(じしょう)円満の實相を自覚した時に顕(あらわ)れるよろこばしき何か、であるということであります。

 聖典 『生命の實相』 の冒頭が神癒のことからはじまっているということを想います時、生長の家の人類光明化運動は、神癒の展開としてはじまっていると拝察されて来るのであります。そのことから想いますと無の門関である入龍宮幽斎殿が 「神癒の社」 と名づけられているということは、この社が如何に人類光明化運動にとっての厳かな意味を担(にな)って建立(こんりゅう)されているかに想いを馳(は)せざるを得ないのであります。

 自性円満の實相を自覚した時に神癒が顕(あらわ)れるのですから、神癒の社 「入龍宮幽斎殿」 は實相を観ずる神想観のために建てられたことは まことに自然なことなのであります。

 ここでは、早朝の四時半からと、午前十時からと、午後一時からとの三回の神想観が行われていますが、この社(やしろ)では特別に 「入龍宮幽斎殿にての神想観に念ずる言葉」 がつくられているということは、大聖師谷口雅春先生が如何に神癒のための場所としてこの 「入龍宮幽斎殿」 に篤(あつ)い想いを寄せられていたかを更にうかがい知らせて頂くのであります。

 岐阜県の宅間さんなどは、ここ十年近く、毎月十三日の朝四時半の神想観にご近所の誌友十名近くをお誘いされて参加しつづけておられ、ご当人の素晴らしい幸福、事業の繁栄は勿論のこと、一緒に参加されました方々によろこびの体験が生まれているのであります。

 神癒につきましては、神癒祈願の部門が設けられており、ただ今全国からの六千近いお申し込みを受けて、毎日祈願が行われております。

  <つづく>

154復興G:2013/10/16(水) 20:00:02 ID:AB6RqYXc

<つづき>

 ここ入龍宮幽斎殿でのもう一つの大きな行事は、「写経」 部門が設けられていることであります。聖経 『甘露の法雨』 その他の生長の家の聖経の写経を行う写経室が拝殿の階下に設けられていて、ここで毎月(一月を除く)三日午後一時半から五日正午まで行われる写経練成会の時は勿論、自由に個人で訪れられて心浄らかに写経を実修されるのであります。正月には書き初(ぞ)めも行われております。

 生長の家総裁谷口清超先生は、宇治の宝蔵神社は 「生長の家の仏間(ぶつま)」 に相当すると言われておりますが、この入龍宮幽斎殿につきましては、その落慶奉堂の式典の祭のお言葉の中で、


「生長の家で一番大切なことは、實相直入(じきにゅう)ということでありまして、この龍宮界、即ち實相に直入する神殿が建設されたということは、生長の家の人類光明化運動の魂がここに入ったということになるのであります。

 霊界にいらっしゃる諸霊の御供養が宝蔵神社において十分行われ、そして今ここに實相界直入の素晴らしき神殿が建立されたということによって、正に生長の家の運動の本当の態勢がここに完成したということであります。」
 (『聖霊天降る宇治』 一六六頁より)

 とおっしゃられております。神癒の社(やしろ)として、神想観の場所として建てられたこの社は、「生長の家の祈りの間」 ということになっているのではないかと拝察されるのであります。

 いうまでもなく龍宮界は創造の本源世界であります。ここからあらゆるものが生み出され、創出されて行く一つの象徴的な場所ということが出来るのであります。あらゆる美しき文化の創造が開かれて行く創造の本源なるものに参入する神想観の場として、その象徴を担(にな)って建てられたと拝察されるのであります。

  (1998.10.16)

155復興G:2013/10/17(木) 22:08:27 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百九

 現象とは、 「こうありたい」 と願う心とその内容である。それは未来のことである。未来そのものが無いのである。時間そのものが無いのである。

 實相とは既に 「在る」 ものである。それ故にこそ神想観によって観じられることは、すべて 「……である」 ということであり、その念ずる言葉もすべて 「……である」 という言葉なのである。

 「……であろう」 という未来を予想した言葉は決して有り得ないのである。實相を観ずるのが神想観であり、神の世界を、神が観じ給うとは、實相の世界を、實相が観ずることにほかならないからなのである。

 ないものを観ずるということは有り得ないのである。 「観」 という言葉が出て来るということは既に 「在る」 ものがあるからなのである。

 神想観は、神が想い、神が観(み)給うのである。なぜ、想うことが出来るか。それは既にあるからなのである。その既にあるものが實相であり、観ずることの有り得る唯一の拠所なのである。

 神想観は 「今」 である。吾々は、過去において神想観するのか、未来において神想観するのか。過去なく、未来なく、現在無きことを観ずることが神想観であるのである。なきものをなしとしたところに 「今」 があるのである。 「今」 がすべてであり、 「今」 が神であり、 「今」 が神想観なのである。

 神想観の 「吾れ今」 がすべてのすべてなのである。 「今」 はすべてのすべてなるが故に、既に吾れはなく、 「今」 のみすべてのすべてなのが、神が想い観給うことの内実なのである。

 「今」 が立ったのが、神想観なのである。

 「時が来た」

 と 「完成(ななつ)の燈台の点燈者の神示」 の冒頭には示されているのである。それは 「無時の時」 なのである。 「時、是(こ)れ時に非ず、是れを時という」 態(てい)の 「久遠(くおん)なる時」 即ち 「今」 なのである。それ故、

 「今すべての病人は起つことが出来るのである」

 と示されているのである。この時とは 「今」 であったのである。 「今」 が 「すべて」 なのである。それ故、 「今すべて」 なるものは神であり、實相であり、完全であり、倒れている者は一人もいないのである。 「病人は起つことが出来る」 というのは方便なのである。

 神が、神の世界を観給う時、倒れている病人は一人もいないのである。それ故、 「すべては起つことが出来る」 のであり、既に立っているのである。成就そのものが、神であり、「今」 であり、「すべて」 であり、實相なのである。

 「病人是れ病人に非ず、これを病人という」 態の、吾れを取りまく天地一切のものは、吾れに真理を告げ給う観世音菩薩であり、尽十方無礙光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)であり、生長の家の大神なのである。病んでいる人は一人もいないのである。それ故、

 「最早(もはや)、あなたにとって病気は存在しない時が来たのである」

 と示されているのである。なぜならば、自分自身もまた観世音菩薩であるからである。

 「最早(もはや)」 とは、最も早いことであり、「今」 ということなのである。その時、もはや、時間はみずから 「私は無いのです」 と消え切りの、澄み切りであり、病気もまた、みずから 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのもの、聖なる観世音菩薩そのものなのである。

 <つづく>

156復興G:2013/10/17(木) 22:09:12 ID:AB6RqYXc

<つづき>

 見渡すかぎり、既に起(た)っているものばかり、の世界に立って、方便の、慈悲の輝きそのものであるのが 「神示」 であるのである。

 この意味において、吾れを取り巻く天地一切は、観世音菩薩の吾れに告げ給うみことばであり、「神示」 であり、「仏示」 であり給うのである。

 「現象は無い」 という表現を用いない場合は、實相の一度も倒れていないことは言えないのであり、言っても解らないのである。言ってもならないのである。言えないのである。それ故、「起つことが出来る」 という未来形にしているのである。その方が、聴くものにとって解り易いのであり、親しいのであり、深切であるのである。

 「現象」 を見ているものにとって、「一度も倒れていない」 と言っても、 「現に病気しているではないか。倒れているではないか」 と言って、却って反発するかも知れないのである。それで一応、「現象なし」 を知らない人には、「起つことが出来る」 と慈悲の輝きとして方便説法がなされているのである。

 しかしこれは決して 「實相を知らない者よ」 との軽蔑ではないのであって、むしろ相手は、こちらに方便の慈悲の輝きを引き出して下さる観世音菩薩であり、尽十方無礙光如来であると拝んでいるのが生長の家なのである。(1998.10.17)

157復興G:2013/10/18(金) 21:01:49 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百十

 「二千年前、キリストが 『汝の信仰によって汝の信ずる如くなれ』 と云う唯(ただ)一語で、遠隔の地にいる病人を癒やした其の真理が、すべての人類に開顕(かいけん)される時期が来たのである」

 と 「神示」 はつづいているのである。

 「二千年前」 とは、肉体イエスが生まれたという、今より二千年前ということであると同時に、二千年以前なるもの、ということ、「吾れはアブラハムの生まれぬ前(さき)よりあるなり」 とみずから言い給うたキリストなるものとしてのキリストを意味しているのである。

 まことのBC、すなわち肉体イエス以前、久遠の以前なるもののことが、「二千年前」 ということなのである。そのキリストなるものは、コトバそのものであり、コトバがキリストなるものであり、神であり、渾(すべ)ての渾てなのである。

 その神なる、キリストなる、コトバなるもの、渾ての渾てなるものとして、燦然(さんぜん)と輝いて 「汝の信仰によって、汝の信ずる如くなれ」 なるコトバが今ここに鳴り鳴りつづいているのである。その真理なるもの、コトバなるもの、光りなるものは、すべての人類に、天地の万物に、そしてすべての時に、久遠の昔より、今に至るまでに、顕(あらわ)れつづけであったのである。

 それ故にこそ、顕れない時はないからこそ、 「開顕される時が来た」 と言えるのである。

 すべての時が、開顕される時なのである。すべての時とは無時の時であり、時自身の消え切りであり、「今」 ということである。「今」 とは開顕なるものの純粋なる持続そのものをいうのである。

 開顕されるとは、自(おの)ずから、自(みずか)ら開顕されるということである。真理とは實相であり、神である。神、實相なるものは、みずから開顕する徳を備えているのである。

 真理は真理みずからが、みずからを証(あか)しするのである。

 二千年以前なるもの、キリストなるものは、真理そのものなのである。そのコトバもまた真理そのものなのである。

 「汝の信仰によって汝の信ずる如くなれ」 とのコトバそのものが真理そのものであり、いのちそのものであり、天国そのものであり、神そのものであり、開顕そのものであり、成就そのものなのである。神は渾ての渾てであり、コトバは渾ての渾てなのである。

 これすべて、吾が内なる神 御自(おんみずか)らが、想い給い、観(かん)じ給い、コトバし給うていることなのである。これを 「入龍宮幽斎殿(にゅうりゅうぐう ゆうさいでん)にての神想観に念ずる言葉」 で言えば 「われ今、塩椎大神(しおつちのおおかみ)に導かれて龍宮海に入る」 というのである。

 二千年前とは、 「久遠の昔」 すなわち 「久遠の今」 なる、神想観の消息なのである。

 神想観は實相界への直入(じきにゅう)であり、入龍宮であり、時空超脱(じくう ちょうだつ)であり、因縁(いんねん)の度脱(どだつ)である。

 因縁の度脱こそ、まことの 「起つ」 ということであり、あらゆる病(やまい)の癒(いや)しそのものであり、癒しなるものそのものなのである。

 因縁の度脱とは 「今」 であり、 「今」 のみが起つことのすべてのすべてなのである。 「今」 が 「起つ」 そのものなのである。(1998.10.18)

158復興G:2013/10/19(土) 22:01:26 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百十一

 「『生長の家』 を読み真理を知るだけで遠くにいて病気が治る事実を見よ」

 『生長の家』 を読んでどころか、『生長の家』 を読まないうちに癒(いや)されて、その後で読む人さえあらわれて来た事実を見よ、ということである。これは読むことの最大なるものであると言わなければならないのである。

 ここには全托以上の全托があると云わなければならないのである。読んで神を知って、その後に全托をするということを一切超えてしまっている癒され方である。癒されている事実が先であることが、ここには体験されているのである。

 はじめから癒されている實在の實相が先であるから、斯(か)くの如きことが起こるというより外はないのである。

 そして、これはそのはじめからあるところの實在の實相を写したのが 『生長の家』 であり、生長の家の聖典の一切であるということになっているからなのである。

 生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を拝み、祝福して写し給うたのが 『生長の家』 であるからなのである。素晴らしい實相が先であればこそ、それを観ずる神想観があり、生かされているという感謝があり、礼拝があるのである。

 生長の家では懺悔(ざんげ)してから、生かされるのではないのである。既にはじめから生かされていた實相をよろこばなかったのが罪けがれなのであり、よろこぶことを遠慮したことを懺悔するのであって、生かされている實相をよろこぶことが機悔となっているのである。

 『生長の家』 を読まないうちに癒されたということの、もう一つの理由は、完全円満の既に完成なるもの、即ち實相の鳴りひびきを、神が先に読み給うて、そこに写されたことになっているのであり、神の方が先に、神の子のいのちを読み給うたのであって、その祝福、礼拝によって、神によってその事実があらわれたということになっているのである。

 「生きとし生けるものを生かし給える御祖神(みおやがみ)」 によって生かされている事実がここに開顕されているということになっているのである。

 そのようなすがたとして、天地一切万物があると観ることが、生長の家が 「完成(ななつ)の燈台」 として人類の前に臨むことなのである。

 「完成(ななつ)の燈台の点燈者」 とは、完成すなわち、完成なる燈台が、完成なるものを照らし出すものという意味なのである。これはこのまま、神の世界を、神が想い給うところの神想観のすがたなのである。

 神の世界に、神が臨(のぞ)み給うのが、生長の家の人類の前に臨むすがたなのである。これが生長の家入類光明化運動なるもののすがたなのである。

 生長の家は久遠の昔から在る、ということは人類もまた久遠の昔から在る、ということであると観るのが、神が想い給う想いであり給うのである。

 「臨(のぞ)む」 とは、神が降臨し給い、神が臨み給うのである。神の臨在(りんざい)こそが生長の家人類光明化運動が、神想観なるものの展開として存在し、この世に臨んでいるすがたなのである。神想観は、神の世界を神が想い観じ給うすがたであり、生長の家人類光明化運動は、神の世界に神が臨み給うことであり、神想観と生長の家人類光明化運動はおなじ相(すがた)をしているのである。(1998.10.19)

159神の子さん:2013/10/28(月) 09:58:28 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百十二

 「『生長の家』 は今かの黙示録(もくしろく)の予言した 『完成(ななつ)の燈台』 として人類の前に臨(のぞ)むのである。」

 生長の家が人類の前に臨むと言えども、生長の家と人類とは離れているのではなく、はじめのはじめにおいて、 “ひとつ” なのである。そして、永遠に、久遠に “ひとつ” なのである。

 一つであってそのままに、拝むものと、拝まれるものとの相(すがた)をとって展開しているのである。

 “ひとつ” が “ひとつ” しているのが、生長の家人類光明化運動であり、はじめのはじめがはじめのはじめしているのが、生長の家人類光明化運動なのであり、それがそのまま神想観の動いている相(すがた)なのである。

 神想観は、身(しん)、口(く)、意(い)のすがたをとって、神であることを顕わす、ということである。神であることを顕(あら)わすと言えども、顕われてから完成するのではないのである。神はすべてのすべてにましますのであるから、今、既に “神であること” のみ “完成であること” のみがあるのである。

 “神” と言ったとき “こと終われり” なのである。顕われるということは、神であるよろこびをよろこぶ相(すがた)であって、神であるだけでは足りないので、顕わすということによって完成するという意味ではないのである。

 神は今である。時間をかけてこれから完成する、ということは有り得ないのである。それ故、神の世界を、神が想い、観じ給う神想観は、手段、目標、過程というものとは無関係のすがたなのである。

 それ故、また、生きて動く神想観であるところの生長の家人類光明化運動なるものもまた、手段、目的、過程のための相(すがた)ではないのであって、 “ひとつ” であり、はじめのはじめであり、絶対であるものの相(すがた)そのものの輝きそのものなのである。

 臨むとは、ひとつに還り、はじめに還ることにほかならなかったのである。

 ここにおいても、神想観と生長の家人類光明化運動とはひとつであって、はなれてはいないのである。

 この “ひとつ” であることこそが、調和の極致であり、よろこびの極致なのである。このよろこびを生きるのが 「よろこびの神想観」 であり、 「よろこびの光明化運動」 なのである。

 “ひとつ” であるということは、神であり、 “ひとつ” であると同時に多であることなのである。 “ひとつ” であると同時に無限の多であり、無限の個性ある存在としての展開そのものなのである。

 一即多、多即一なる展開として、すべてはあるのであって、それはひとつなるものの自己展開としてあるのであって、求めるための相(すがた)ではないのである。

 顕れるということは、求める相ではないということなのである。

 それ故、最大の臨み方、臨在(りんざい)とは、ひとつなるものの、満足なるものの、渾(すべ)ての渾てなるものの展開としてあることなのである。

 神は今、渾ての渾てであるから、顕われてからよろこびであるのではない相(すがた)であり給うのである。そして神が生きてい給うのが神想観であり、生長の家人類光明化運動であり、万物のまことの相なのである。

 神が、神の世界を生き給うのが神想観であり、生長の家の人類に臨んでいる相(すがた)なのである。ここに 『完成(ななつ)の燈台』 たる生長の家なるものの相(すがた)があるのであって、『完成の燈台』 とは、すべてにおいて、ひとつなるものを拝み出して、照らし出している燈台ということなのである。

 真理がすべての人類に開顕されるとは、真理みずからの展開がそこにあることなのである。

 生長の家人類光明化運動は地上天国建設運動ともよばれているが、地上天国とは、天国なるものがみずから地上に降臨している相(すがた)を言うのであって、天国は地上に顕われる、顕われない以前に、すでに天国であり、そのままでよいそのままなのである。

 今、ここに、天国と人類と生長の家と光明化運動とは目無堅間(めなしかつま)しているのである。 “ひとつ” であるということである。(1998.10.20)

160復興G:2013/10/28(月) 10:01:25 ID:AB6RqYXc

>>159 は復興Gです。

163復興G:2013/10/28(月) 22:59:49 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百十三

 「此の燈台より真理の光を受くるものは、創世記のエデンの楽園追放以後、人類を悩ましたところの 『罪』 と 『病』 と 『死』 との三暗黒を消尽(しょうじん)するのである。」

 此の燈台より真理の光りを受くることの出来るものは誰か。それは真理の光りのみなのである。何故、受けることが出来るのか。受けることの出来るのは既に、久遠の昔よりある、内なるエデンの楽園なるもののみなのである。

 エデンの楽園に入ることの出来ない、永遠に追放されたるものは、真実には、『罪』 と 『病』 と 『死』 とであったのである。永遠の追放を受けているものはこの三暗黒なのであった、と解るもの、受けるものがこの光りを受けるものなのである。

 未だかつて、エデンの楽園には罪人なし、罪そのものがないのが楽園天国なのである。

 未だかつて一人もエデンの楽園より追放されたるものなし。エデンの楽園は神と神より出でたる神の国であって、エデンの楽園はすべてのすべてであって、エデンの楽園の外なし。 「罪も病も死もなし」 と知ることが、この真理の光りを受けるものなのである。それは常に 「今」 なのである。それ故に 「今すべての病人は起(た)つことが出来る」 のである。

 この 「今」 というのは限りもない無時間無空間の 「今」 なのである。限りもなきすべてにあてはまる 「今」 なのである。

 「今」 を忘れたことが楽園からみずから追い出された夢を見ていたことにすぎなかったのである。

 これから生長の家の真理をよく知って、潜在意識にたたきこんでという時間は無いのである。無いものを無いとすることが、そこがそのままエデンの楽園の発見なのである。 「今」 と言ったら 「今」 なのである。これからではないのである。未来そのものが無いのである。

 神の国を、神が想い観(かん)じ給うそのままが 「今」 なのである。 「今」 のほかには何もなく、 「今」 とは、神以外に何もないよろこびをいうのである。

 「起つことが出来る」 とは未来のことでないごとく、エデンの楽園に帰るのも未来のことではなく、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天之岩戸(あまのいわと)からお出ましになるのも未来のことではなく、時間はないと知ることそのことが一切の成就なのである。

 倒れたるもの一人もなし。アダムとイブは未だかつて罪を犯したることなし、天照大御神は未だかつて天之岩戸に隠れたることなし。天照大御神を隠すもの何もなし。

 天照大御神が仮に岩戸に隠れ給うたという、この 「隠れる」 とは、七柱(ななはしら)の独神(ひとりがみ)が 「身(みみ)を隠し給いき」 の、この 「隠れ」 なのである。

 如何にも、アメノウズメのミコトや、八百萬(やおよろず)の神々によって岩戸の外に出ることが出来たように見えているままに、自分を消して、澄み切って、神々を拝んでい給う天照大御神のお姿がここに燦然(さんぜん)と輝いてい給うのである。

 それはちょうど、「生長の家の食事」 なる神示において、

 「食事は自己に宿る神に供え物を献ずる最も厳粛な儀式である」

 と神はみずから示し給うているのであるが、実は、捧げる神の子も、捧げ物もすべては神がお生みになっているものであるにもかかわらず 「捧げ物をして呉れて有り難う」 と神が拝み給う、神ご自身の消え切り、澄み切りのおすがたと同じなのである。

 天照大御神は八百萬(やおよろず)の神となって全宇宙を埋(うず)めつくしていることを知って讃えたのがアメノウズメのミコト様であったのである。

 エデンの楽園の外なし。エデンの楽園がすべてのすべてであり、追放すべき外はないのであった。(1998.10.21)

164復興G:2013/10/30(水) 12:13:29 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百十四

 「光が近付くときすべての暗黒は消える」

 「光りは東方より」 ということは 「光りは当方より」 ということであり、「すべては当方より」 ということである。

 それ故、「光りが近付くとき」 とは 「あなたが近付くとき」 ということである。 「あなた」 とは神であり、實相であり、自分の自分である。

 「あなたが近付くとき」 とはまた、「生長の家人類光明化運動が近付くとき」 ということである。

 神は渾(すべ)ての渾てにましますが故に、神にとっては自己展開があるのみなのである。自己展開するものをコトバというのである。それ故、神はコトバであり、コトバは神なのである。

 イエス・キリストが祈り給う時、空から光りが射(さ)している絵があるが、あの光りは空からイエスに降りそそいでいるのではなく、イエス・キリストから出た光りなのであり、宇宙のはじまるところは自分の中になければならない、という文章を読んだことがあるが、一つの真理がここには語られているのである。

 「光りが近付くとき」 という、この 「光り」 とは、渾ての渾てなるが故に、今、ここに、吾が内に、既にあるところの完全なるものというものを意味しているのである。

  神は人間の光源(ひかりのみなもと)にして
  人間は神より出でたる光なり。
  光の無き光源はなく、
  光源の無き光はなし。
  光と光源とは一体なるが如く
  人間と神とは一体なり。

 と聖経 『甘露の法雨』 には書かれている。

 光のなき光源はなく、光源のなき光はないということは、光りは光源であり、光源は光りであるということである。光源なるものの自己展開が光りであり、自己展開しているものにとってはすべては自分自身なのである。

 聖書には 「光りは暗きに照る、しかして暗は光りを知らざりき」 と録(しる)されている。そして光りもまた暗を知らざりき、ということである。 「近付く」 ということは、永遠に、光りと暗とは出逢うことはあり得ないことを意味しているとも言えるのである。

 光りは暗を一度も経験したことなく、暗もまた一度も光りを経験したことはないのである。

  生命は生を知って死を知らず。

 と聖経 『甘露の法雨』 には書かれているのである。生命なるものは一度も死を経験したることはないのであり、死もまた生を経験したることなし、なのである。何故ならば、死は無いからであり、無いものが在るものを経験するということは永遠に有り得ないことであるからである。

 光明一元である。生一元である。光明であることにおいて、生であることにおいて、すべては一体なのである。近付くということの最大なるものは一体であるとも言えるのである。光りに近付き得るもの、光りと一体となり得るもの、一体であり得るものは光りでなければならないのである。生に近付き、一体であり得るものもまた同じく生のみなのである。

  闇に対しては光をもって相対(あいたい)せよ。

 とも聖経 『甘露の法雨』 には書かれているのである。光りに相対出来るものは光りのみなのである。それ故、この言葉の中身は、ただただ光りを生きよということであり、光りの自己展開を歌っているのである。それが 「今」 ということである。有り得るのは 「今」 のみなのである。ただただ在るものが在るのみなのが真理なのである。(1998.10.22)

165復興G:2013/10/30(水) 13:02:01 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百十五

 「『真理』 が近づく時、すべての 『迷(まよい)』 が消える」。

 『迷』 は 『迷』 自身でみずから 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りなのであり、聖なる無我の輝きそのものなのである。煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)なのである。

 真理、光明だけが實在なのである。真理、光明だけが在ることが 『迷』 が消えたことであり、消えるとはしかし、 『迷』 みずからの消え切りなのである。

 智慧の言葉に 「實相を観よ。罪は自分から切り離される」 ということばがある。 「自分から切り離される」 ということは、自分みずから 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りの、聖なる輝きがそこに輝いていることなのである。

 『迷』 は消す必要はないのである。みずからの消え切りなのである。真理を知るのみでよいのである。暗を知る必要はなく、消す必要もないのである。ただ光明のみを知ればよいのであり、光明を知ることのみがあり得るのである。

 不完全、善以外のものは存在しないのである。『罪』 も 『迷』 も 『死』 もそれ自体が不完全なるが故に存在しないのである。この真理が近付いたのである。その真理によってはじめて、「一羽の雀(すずめ)といえども父のゆるしなくしては地に墜(お)つること能わず」 ということは光明のコトバ、神なるコトバとして輝くのである。

 「雀が地に墜つるも、迷うも、罪を犯すも、病も、死も、堕胎(だたい)も、戦争も父のゆるしがあればこそ有り得ると、いうことになるのであるか?」 との想いは、現象ありの世界観からは決して解けてうなずけるものではないのである。

 しかし、また、現象なし、不完全なしの真理を通さなければ、一椀(わん)の食物すら光明のうちに食することは出来ないのである。そこにはただただ、良心の呵責(かしゃく)があるばかりであり、日々の糧(かて)を神のいのちの愛として受けとり、感謝することは有り得ないのである。

 父のゆるしがなければ、一食の食も、一秒の神想観も、一歩の光明化運動もなすこと能わずなのである。

 真理が近付いて、食べられるもののうめきも消えたのである。空気を吸うことさえ、ころされた細菌のうめきのかたまりとしか観えなかったものが、神の六つの御徳の輝きそのものと変じたのである。一歩進めば足の下にいる細菌を殺さなければならない世界に居て、光明化運動があり得るだろうか。ただただ、神の世界で、神が為し給う光明化運動が天降(あまくだ)ったのである。

 父のゆるしによる食事。父のゆるしによる神想観。父のゆるしによる光明化運動がここにあるのである。

 父のゆるし、とは、真理を知ることにほかならないのである。

 父のゆるしがなければ、神癒祈願を申し込むことも能わず、それを祈願することも能わずである。

 父のゆるしがあればこそ、現象的には何十人堕胎したと見える人でも、祭壇の前で大笑いさせることが出来、神想観をさせることの出来るのが生長の家の人類光明化運動なのである。

 ただただ父のゆるしのみが實在している世界なのである。父のゆるしこそ光明という光明なのである。それ故、光明が光明するのみなのが生長の家人類光明化運動なのである。

 神の世界を神が観じ給う神想観、神の世界に、神が為し給う光明化運動。父のゆるしによりてのみ有り得る相(すがた)である。(1998.10.23)

166復興G:2013/10/31(木) 15:18:19 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百十六

  「『迷』 が消える時、『迷』 の産物なる 『罪』 と 『病』 と 『死』 とは消える。」

 聖経 『甘露の法雨』 には、

  最初の夢無ければ
  次の夢なし。

 と書かれているのである。在るものを無いとし、無いものを在る、とする夢が 『迷』 であり、最初の夢なのである。

 生長の家の荘厳さは、在るものを在りとし、無きものを無いとしたところに有るのである。いくら在るように見えていても不完全なものは存在しないのであり、いくら見えなくとも無限、完全なるもののみが存在するということを鮮明にしたのが生長の家なのである。これが最初の夢よりの目覚めなのである。ただただ不完全なるものは實在に非ずというこの真理によって、『罪』 も 『病』 も 『死』 も消えたのである。

  罪は不完全なるが故に實在にあらず、

 と聖経 『甘露の法雨』 には書かれているのである。

 「迷は不完全なるが故に實在に非ず」 「病は不完全なるが故に實在に非ず」 「死は不完全なるが故に實在に非ず」 ということである。

 ただただ 「不完全なるが故に實在に非ず」 なのである。種類や量の多さや、時間的に長くあるからとかによるのではないのである。ただただ 「不完全なるが故に」 ということによって、全宇宙の不完全をひっくくって 「實在に非ず」 すなわち 「無い!!」 と消してしまったのである。

 それはただただ、神が、今、ここに在(ま)します、というただひとつのことによるのである。神なら如何にあり給うか。ただただ神は、見渡すかぎりご自分を見給うのである。神の世界を神が観給うのみの世界なのである。

 實相の世界には 『罪』 『病』 『死』 という観念そのものが存在しないのである。はるばると、弥(いや)ひろびろと神のみの世界が今ここにあるのみなのである。

 神がいませば不完全は實在しない。これは疑いようのない自然なことであり、事実なのである。疑う必要のない、疑いそのものが實在しない世界のみがあるのである。

 疑う必要がないのは、神は解る必要も、さらに信ずる必要もないからである。ただただ、神はいたるところご自分のみであり、神は神ご自身であり給うのみであり、そこには信ずる信じないの余地はないのである。

 また、神の子が神を信ずる前に、神が神の子を信じ、愛し、生かし給うているということがあるのみなのである。

 これが信ずる信じないを超えた、そのままそのものなのである。解る解らない信ずる信じない、は無いのである。ただただそのままがあるのみなのである。この 「そのままを生きよ」 ということが 「疑わずに吾が光を受けよ」 ということなのである。

 また、神はご自分が疑われていることを前提として 「疑わずに」 と言っておられるのではないのである。ただただそのままであれ、天然、自然、法然、法爾(ほうに)であれ、と宣(の)り給うているのみなのである。神示は法爾であり、神爾(かんながら)なのである。(1998.10.24)

167復興G:2013/10/31(木) 15:31:12 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百十七

 「疑わずに吾が光を受けよ」

 すべて完成なるものの観る世界は完成あるのみである。神の子人間には、疑う自由がある、と一応は方便として説かれているが、聖経 『甘露の法雨』 には、

  悉く夢なければ本来人間清浄(しょうじょう)なるが故に
  罪を犯さんと欲するも
  罪を犯すこと能わず、

 と書かれているのであって、本来清浄なる神の子人間には、疑うという罪を犯す自由はないのである。それははじめのはじめより神なるものと神の子は不離一体であるが故に、信ずる信じないを超えた相(すがた)であるからである。神の子人間は、自由をさえ超えて渾(すべ)ての渾てなる存在なのである。これが 「今」 なる相(すがた)なのである。

 「疑わずに」 ということは 「今を生きよ」 ということなのである。疑いを除くという時間は無いのである。「今」、疑う人類は一人も居ないのである。その 「實相を生きよ」 ということのみがあるのである。

 再び、「今すべての病人は起つことが出来るのである」 とのコトバを聴くのである。疑って、倒れているものなどは一人もいないのである。それ故に、「すべての」 と言い切れているのである。

 大聖師谷口雅春先生にとって、イエス・キリストの 「汝の罪ゆるされたり。起ちて歩め」 とのコトバは、万人に、すべての人に天降(あまくだ)されている言葉であったのである。全宇宙に向かって 「汝」 と言ってい給うことであったのである。

 これは神の 「光りあれ」 との宣言と同じであって、この時光りは暗(やみ)になる自由はないのである。光りは光りであるのみである。「今すべての病人は起つことが出来るのである」 という宣言。「汝の罪ゆるされたり。起ちて歩め」 の宣言。これはまことにも神の天地創造の 「光りあれ」 と同じことであることが 「神示」 といわれるゆえんなのである。

 イエスご自身も 「吾れは何ごとも為す能(あた)わず、天の父吾れにありて為し給うなり」 と宣(の)り給うていることが、何ものが語り示し給うているかを教えているのである。

 イエス・キリストの言葉と大聖師谷口雅春先生とは神においてひとついのちなのである。万教帰一とはこの意味でもあるのである。釈尊のいのち、日蓮、親鸞、道元、等々、すべての人々と一体のいのちである實相に帰り給うて、人々だけ、教えだけではなく、天地一切万物と一体であるその實相より鳴り出でたのが 「万教帰一」 ということそのことなのである。

 大聖師谷口雅春先生の説かれる如く、自分をとりまくすべてのすべては、観世音菩薩の吾れに告げ給うみことばなのであれば、天地一切万物がひとつであるということが万教帰一ということであるのであった。ここにおいて、万教帰一ということと、中心帰一ということは、ひとつのこととして拝受されて来るのである。(1998.10.25)

168復興G:2013/11/01(金) 10:42:40 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百十八

 「われは 『完成(ななつ)の燈台』 に燈を点ずるものである。」
     (昭和六年一月十五日神示)」

 大聖師谷口雅春先生にとって、イエス・キリストが二千年前に説き給うたことのはじめの説法は如何なるものにうつってい給うのであろうか。それは大聖師が全人類に向かって説法をされているお姿と重なって想われて来るのである。戯曲 『耶蘇伝(やそでん)』 のイエスの説法のはじまりは、次のようなものになっているのを銘記すべきではなかろうか。


   諸君、わたしは生まれて間もない幼い稚(おさな)い時から神が好きであった。
   そして神を求め神を掴もうと思ってそれを探し求めていたのです。

   どうしたらそれを掴めるか、それがわたしの課題であったのです。
   わたしは断食をしてみたり水行(すいぎょう)をしてみたりしてみたけれどもわたしは神はどこにあるか、神の子がどこにあるかわからなかった。

   苦しんで索(もと)めても神はどこにも見出せなかった。ところが今日(こんにち)、今ここに、そのままに、このままで、ここに、神はあるのだということをわたしはたった今悟ったのだ。

   かつて神の国は近づいたと洗礼のヨハネは言ったが、神の国はすでにここにあると私は言うのだ。
   ヨハネは神の国を準備する役目としてこの世に出たから神の国は近づいたと言ったのだ。

   すでにわたしが出てこのままが神の国に変貌したのだ。
   わたしの内に、諸君の内に、ここにこのまま神の国はあるのだった。
   神とは何であるか。
   神とは 「人間のそのまま」 である。
   むつかしいことも何もない、「人間そのまま」 が神なのである。
   今、太陽は明るく照つている。そのままが日光の中であるように、われわれはこのまま神の生命(いのち)の中に存在を保ち、生き、神の生命を享け、それを生きているから、われわれ自身が初めからこのまま 「神の子」 なのである。
   その住む世界がこのまま 「神の国」 である。
   このままが 「神の子」 であり、このままが 「神の国」 であることに気がつかないで、どこかよそに神の子があり、神の国があるように思っていたのがまちがいだったのだ。
   ここに、この身が、このままに神の子であり、神が円満完全であり、神のみが創造主(つくりぬし)であり、神は全知全能であり、その創造に決して失敗がないということを知るならば、
   神の子であるこのわれわれが、すでに円満完全であり、すでに健全であり、すでに幸福であり、どんな病気も不幸も貧乏もこの世にないことは明らかであるのだ。
  (『生命の實相』 頭注版第31巻44〜45頁)


 これは聖典 『生命の實相』 第1巻冒頭のお言葉であるところの、

   生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります。

 という相(すがた)と重なり合っているものがあると拝察されるのである。
 このイエスの言葉にもまた、生長の家人類光明化運動の発進の宣言が謳(うた)われていると拝察されて来るのである。(1998.10.26)

169復興G:2013/11/01(金) 11:00:40 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百十九

   諸君、わたしは生まれて間もない幼い稚(おさな)い時から神が好きであった。

 「諸君」 とは、舞台上の人物だけではなく、観衆全部に向かって語られているのである。

 天地一切万物に向かって、「今すべての病人は起つことが出来る」 というその 「すべて」 に向かって語りかけられ、拝みかけられている言葉であるのである。

 山川草木(さんせんそうもく)国土、有情(うじょう)なるもの非情(ひじょう)なるものに向かっての拝み、天地一切のものへの感謝、礼拝、祝福として語られているのであり、 『甘露の法雨』 なるものの降りそそぎとしてここに鳴り出した言葉なのである。

 「私は幼い稚い時から神が好きであった」 ということは、万人、万物の神聖にして、神性なるものへの拝みなのである。

 すべてのものははじめから神が好きなのである、神を嫌いなものなど一人もいないのだ、ということである。神と人とが一つである實相に帰っているものから観ればすべては、好き嫌いを超えて、神と人とは一体(ひとつ)であるのである。それが、今ここにある、神と神の国のそのままであり、人間のそのままの相(すがた)なのである。

 万人、万物は實相なる今ここにおいて、ひとつであり、ひとつなるもの、はじめのはじめなるものが展開して、万人万物、天地一切となっているのである。自分自身のいのちが展開して天地一切となっているのである。

 そのひとつなる はじめに帰り、はじめなるものの展開として、鳴りひびきとして一切のコトバは発せられているのである。発しながらもそこに一即多、多即一としてひとつなのである。

 それ故に、コトバそのものの中に天地一切万物がひとつなるそのままに存在しているのである。一語一切語である。一語以て天地を蔽(おお)う とはこのことである。

 この ひとつ なるところに立つことが、まことの 「起つ」 ことなのである。その意味における 「今すべての病人は起つことが出来るのである」 とのみコトバが天降(あまくだ)っているのである。

 しかも菩薩(ぼさつ)は三界(さんがい)に身を現さずであり、すがたも、言葉も、説法も消え切りの、澄み切りの、よろこびの聖なる輝きそのものなのである。

 イエスは、はじめのはじめから自分というものを十字架にかけておられ給うたのである。それ故に、物質の十字架そのものも、十字架にかけ終わりのところから、イエスの説法ははじまっていたのである。

 大きくこの世全体を、全存在を十字架にかけて、抹殺(まっさつ)して、今そのまま、このままに神であり、神の国であり、神の子であり給うたのである。

 一切は 「今ここ」 からはじまるのである。 「天地(あめつち)のはじめは今をはじめとする理(ことわり)あり」 なのである。一切はこのままからはじまるのである。それがそのままなのである。

 今ここ、このまま、そのままである。 「そのままの展開」 が生長の家人類光明化運動であったのである。そのままは生命(いのち)それ自身の 「私は無いのです」 とのみずからの消え切り、澄み切りの、よろこびの聖なる輝きを輝く光栄に満ちているのである。

 「そのままは零(れい)なり、一切なり、○(まる)なり」 と 「『生長の家』 信徒行持要目(しんとぎょうじようもく)」 には解説されているのである。

 そのままの外には何ものもないのである。そのままが渾(すべ)ての渾てなのである。(1998.10.27)

170復興G:2013/11/01(金) 12:26:12 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十

   そして神を求め神を掴(つか)もうと思ってそれを探し求めていたのです。どうしたらそれを掴めるか、それがわたしの課題であったのです。


 そして、神は掴む方向には居給わなかったのである。生かされている、ということにあったのである。それ故、生長の家の教えは感謝の教えであると言われているのである。生きとし生けるものを生かし給うのが神であり給うたのである。

 やがてその神を発見された時、「招神歌(かみよびうた)」 が生まれたのである。すなわち、その第一首は、

   生きとし生けるものを生かし給える御祖神(みおやがみ)
   元津霊(もとつみたま)ゆ幸(さきは)え給え。

 と歌われているのである。

 神を知ることは出来なくとも、神を掴むことは出来なくとも、生かされていたことは厳然としているのである。

 それが實相である。知る知らない、掴む掴まないを超えているのである。信じる信じないを超え、あらゆることを超えて無条件ということが 「生きとし生けるものを」 ということなのである。

 そのような神を神の子なる實相は知っているのである。それは 知っているからこそ求めるのである ということではないのである。知っている神の子の實相だけでよい、のである。見渡すかぎり 知っている神の子があるばかりなのである。

 それが 神と一体(ひとつ)であるということなのである。

 神を知らない時は一度もなかったのである、ということをよろこんだのが、因縁を超えたことであり、悟ったことであった――それが大聖師谷口雅春先生であったのである。

 「私はまだ幼い稚(おさな)い時から神が好きであった」

とは、幼な児の心、稚い子供の心を言っているのである。

 「汝、幼な児の如くならずば神の国を見ること能わず」

 とイエス・キリストは宣(の)り給うているのである。すべての人間はみな幼な児なのである。それ故、万人は神を好きなのである。

 幼な児とは生れたそのままを意味しているのである。
 幼な児の如くならなければ」 とは永遠の憧(あこが)れの心境ではないのである。「幼な児の心」 はここに見よ、彼処(かしこ)に見よ、というが如くにはいないのである。今ここに既に、万人のうちに、生きとし生けるもののすがたそのままに幼な児の心なのである。

 万人の中の 「幼な児」 なる實相に呼びかけられ、拝まれたのが 「私は幼い時から……」 という言葉であるのである。その “幼い” ということは、生まれたそのままなる 「實相なるもの」 に語りかけられた言葉なのである。

 それ故、全人類の中で大聖師谷口雅春先生だけが生長の家であり、すべては外の人であった時に、語りかけられたお言葉がいきなり 「生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば……」 というお言葉であったのである。万人の實相、すなわち 「幼な児なるもの」 に語りかけられているのである。

 「わたしは幼い稚(おさな)い時から……」 というお言葉のなんという自然なことよ。なんという 人間すべてに語りかけるのにふさわしいひびきであることよ。なんという そのままであることよ。その、そのままのすがたが實相なのである。

 この、そのままが流れ満ち満ちているが故に、大聖師の 『自伝篇』 の一行目から、啓示を受けられるまでのすべての相(すがた)がそのままに聖なる光りであり、この本を聖典と呼ばずにはいられないのである。(1998.10.28)

171復興G:2013/11/05(火) 20:30:51 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十一

  わたしは断食をしてみたり水行をしてみたりしてみたけれどもわたしは神がどこにあるか、神の子がどこにあるかわからなかった。


 それ故、神想観するのも、感謝するのも、愛行をするのも、神に生かされ、愛されるための準備のためのものではないということである。断食するのも、神を解るための、神に生かされるための、ものであることにおいてふさわしくないのである。

 この断食に比べて、イエスの荒野での四十日、四十夜の断食は、ヨハネの洗礼を受けた時に、霊(みたま)鳩の如くにイエスに天降ったその後の相(すがた)であって、これは天なる父と偕(とも)に、神がすべてとなって、神が為し給うている相(すがた)となっているのであり、これは準備のためのものではなくして、神の天地創造と全く同じ出来事としてこの姿をあらわされているということである。これは手段、目的、すなわち未来のためのものではなく、 「今」 が、神が、完成なるものが生き給うているすがたであるということである。

 その故に、生長の家の神想観は、神想観そのものが神の創造のお姿であると同時に、神想観そのものが創造されたるものでもあるのである。神想観は 「今」 そのものであるからであり、「吾れ今五官の世界を去って」 という吾れが 「今」 なることこそが神想観なるものの創造性そのものなる性格をあらわしているのである。

 それ故、同じ言葉をお使いになっておられても、因縁を超え、一切を超えて発せられているお言葉は、その意味以前の問題として言葉の姿、文字、ひびきそのものが光りの荘厳なる量なのである。それは無量の量であり、無量光なる無邊光(むへんこう)そのものなのである。まことにコトバは神であり、神はコトバであり給うことそのものなのである。

 このいのちは、断食どころか、出生以前より、父母未生(みしょう)以前よりありつづけている創造のいのちなのである。

 釈尊は 「成仏してより已来(このかた)、百千万億那由他阿僧祇劫(なゆたあそうぎこう)である」 と宣(の)り給い、イエス・キリストは 「吾れはアブラハムの生まれぬ先よりあるなり」 と宣り給い、大聖師はその 「釈尊より、キリストより以前から吾れは、天照大御神と偕にあるものなり」 と宣り給うていられるのである。久遠の釈迦、キリストを自在に生み給うたところの久遠の久遠なるものに立ち帰られたところから 「自在方便説法」 され給うて、この戯曲のセリフは生まれているのである。

 かつて、龍宮住吉本宮建立のとき、住吉大御神の 「みたましろ」 はどこの神社から、みたまうけしてまいりましょうか、という問いに対して、大聖師は

 「それはどこの神社からも、貰い受ける必要はない。私が直接、龍宮に行って住吉大御神をお迎えして来る」

 とのお言葉があったとのことである。大聖師の説法、おことば、いずこから出で来たるか、その消息を伝えているものと拝察申し上げるのである。

 大聖師のお言葉はすべて、龍宮本源より直接お持ち来たり給うたものであればこそ、すべてを生み出し給うコトバなのである。釈尊やイエス・キリストの戯曲に登場させ給うているこの久遠實成(くおんじつじょう)のお二方をたしかに生み出し給うたことの象徴をここに拝するのである。(1998.10.29)

172復興G:2013/11/06(水) 16:15:37 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十二

   苦しんで索(もと)めても神はどこにも見出せなかった。


 ある(はず)筈だと想って、現象のどこかに求めること自体が遠ざかっているのである。あるかぎりのものを否定して、「無い」 と言えるすべてを否定して超えた時に、「無い」 と言えないものとして、知る必要なくして在りつづけるところのものが實在なるものであり、神なるものであるのである。「無い」 と否定する自分も無いのである。

 「無い」 と言えるすべてのすべてが無いのである。 「無い無い無い……」 と進んでゆくとき、虚空(こくう)の中心より輝くひびきとして 「無い無い無い……」 と輝くものが鳴っており、「無い無い……」 と言えば言うほど、その中心なるものが強く輝く鳴りひびきとなるのである。

 すでに自分はなく、「無い無い……」 と輝く中心なるもののみがあり、それのみすべてのすべてなることを想わざるを得ないのであって、在るものはただただ 「無い」 と言えないものであり、それは 「無い……」 とみずから言っているものであり、輝いているものなのである。その輝いているものこそ實在なのである。

 「無い……」 とみずから言うもののみ、こちらが 「無い」 と言えないもののみがあると言うことなのである。

 「無い」 とこちらが言えば言うほど 「無い無い……」 と輝くもの。ただただ 「無い」 ことの光りの甦(よみが)えりの一筋のみあるのである。無の門関に坐す消息である。

 無の門関は無い門関であり、門関自身が消えているのである。

 神想観も自分もないのである。「吾れ今五官の世界を去って」 というとき、自分も神想観も幽斎殿(ゆうさいでん)もみずから、おのずからなる消え切りなのである。

 求めている意味での神は無いのである。なぜならば、 「神は無い」 と言えるからである。そして無いものを無いとし、その無いということも 「無い」 と超えて、そこに 「無い」 と言えない 「無い」 なるものの当体が輝いてみずから鳴っているのである。それは認められ、観じられて存在に入るものではなく、「無い」 と宣言されてはじめて存在するものなのである。「無い」 と言わなければ存在しないものなのである。「無い」 と言えば言うほどその輝きを増す態の存在なのである。この 「無」 こそ 「無一物中無尽蔵」 の 「無」 であり、 「無より 「切を生ず」 の 「無」 であり、龍宮本源、創造の本源そのものなのである。

 求めている間、どこにも見出せないのである。外に求めても、内に求めても、求めること自体が 「無い」 のであり、 「無の門関」 を通らなければ、神は外にも内にも居給わないのである。内に対する外もなく、外に対する内も無いのである。相対(そうたい)そのものが無いのである。求めるものと、求められるものとの相対はなく、認めるものと認められるものとの相対もないのである。相対の世界に神は居まさないのである。神は

  真理
  光明
  智慧
  絶対の愛。

 と聖経 『甘露の法雨』 に歌われているのである。絶対が愛であり、神であるのである。愛するものと愛されるものとの相対には愛は居まさないのである。.

 信じなくとも、解らなくとも、認めなくとも、観じなくとも、自覚しなくとも、あらゆることは無いのであって、それを超えて

  「私はお前そのものである」

 と神は宣(の)り給うていたのである。(1998.10.30)

174復興G:2013/11/08(金) 20:35:06 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十三

   ところが今日(こんにち)、今ここに、そのままに、このままで、ここに、神はあるのだということをわたしはたった今悟ったのだ。


 「今日(こんにち)」 とは 「今なる日」 すなわち 「久遠の今」 そのものを意味しているのである。それ故、 「今ここに」 という、 「今」 は 「久遠の今」、「すべてのすべてなる今」 ということである。

 このままといい、そのままといい、 「まま」 とは、 「間間」 である。 「間」 とは 「門」 に中に 「日」 が置かれているのである。 「門」 は 「門」 (原稿では門の日の部分が国旗)であり、日の丸が二本立てられてあり、この奥の家の中には 「日」 即ち神があることを示しているのが 「門」 という字であるのである。家には神の子即ち神そのものが住み給うていることを表現しているのである。

 それ故、 「間間」 とは、神なるものの、完成なるもの天国なるものの純粋なる持続をあらわしているといわなければならないのである。

 「たった今悟った」 というその 「今」 も 「久遠の今」 ということであって、自分のいのちが 「今」 そのものであることを観たことが悟ったことなのである。

 それは、悟ったが故に、 「今ここに、このままに、そのままで」 という言葉が発せられているのである。 「今」 は神そのものであり、 「まま」 も神そのものであるから、 「今」 と 「このまま、そのまま」 とはひとつのことなのである。

 ここには 「今」 そのものであり、 「今」 が立ったよろこびが歌われているのである。 「今」 なるイエスがここに立ち給うているのである。 「今」 起ち給うた大聖師谷口雅春先生のいのちがここにイエスとして立ち給うているのである。

 「今」 は、過去、現在、未来なる時空(じくう)なるものの超脱(ちょうだつ)なるが故に、 「今」 は 「このまま」 であり、 「そのまま」 なのである。

 神は 「今」 であり、 「今」 は 「このまま」 であり、 「そのまま」 なのである。 「今日(こんにち)」 は 「今・日」 なのである。「・」 は無時の一点であり、幽の幽なる、身(みみ)を隠し給える、 「目無堅間(めなしかつま)」 なる 「点である。点もなき一点である。

 「今日」、「生長の家」 と 「人類」 と 「光明」 と 「運動」 とは一つなるものなのである。一つなるものなるが故に、 「生長の家人類光明化運動」 は絶対なのである。 「生長の家人類光明化運動」 は 「神」 であり、 「絶対」 であり、そこに展開しているのは 「絶対の愛」 なのである。

 「絶対の愛」 とは相手に対する相対の愛ではないのである。みずから立っている愛であり、 「今」 立っている愛であり、みずから愛である愛であり、在(あ)りて在る愛であり、それは人間の今、そのまま、このままの相(すがた)そのものなのである。

 それ故、今そのものである人間のそのまま、このままが生長の家人類光明化運動の姿をしているのである。今ここに、そのままに、このままに、生長の家人類光明化運動は立っているのである。

 今このままに、そのままに、生長の家人類光明化運動は久遠の昔よりこの方、人のいのちにおいて立ちつづけであったのである。

 「吾れ起ちてより已来(このかた)、百千万億那由他阿僧祇劫(なゆたあそうぎこう)なり」 と生長の家人類光明化運動はひとつなるいのちにおいて言っているのである。

 「吾れは、アブラハムの生まれぬ先より在るなり」 と生長の家人類光明化運動は、ひとつなるいのちとして、今ここに、このままに、そのままに鳴りひびいているのである。(1998.10.31)

175復興G:2013/11/08(金) 20:49:55 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十四

   かつて神の国は近づいたと洗礼のヨハネは言ったが、神の国は すでにここにある とわたしは言うのだ。


 ひろびろとはるばると光り一元である。

 光りなるものには練習も準備もないのである。準備とは未来のための過程または手段の生活が意味されているのであって、「今」 なるものにのみ、手段、準備でない生活というもの、創造というものが在り得るのである。

 ここに不足の反対、すなわち感謝の生活があるのである。感謝は未来に神にあらわれていただくための準備のためにあるのではないのである。 「今」 ここに、既に、このまますべてのすべてであるところに自我が消え、感謝に満たされるのであって、神に来ていただく準備の生活には神はなく、我(が)があるのみとなっているのである。

 洗礼のヨハネは、すべてなるもの、神の国なるもの、神のための準備を生きているが故に、神ではないもの即ち自分、自我がどこかに残らざるを得ないのである。満たされたるもの、感謝なるもの、すなわち自我の要らない 「神の国は汝らの内にあり」 と言ったイエス・キリストの言葉こそが、生長の家の、光明一元、實相一元のすがたであるのである。イエスは感謝に満たされていたのである。

 準備の生活には天国は有り得ないのである。現象を超えている實相なるものにこそ、完成なるものの純粋なる持続のすがたがあり、これが天国ということ、神の国と言えるものなのである。準備の生活からの脱却こそ、神の国における神の子のすがたなのであり、感謝のすがたなのである。

 生長の家人類光明化運動は準備の生活ではないのである。地上天国建設運動と仮に言うといえども、地上は無いのであり、地上天国も無いのであって、あるのはただただ實相なる天上のみなのである。

 天国という天国、神という神は 「今」 であり、 「ここ」 であり、 「そのまま」 であるのであって、天国なるもの、神なるもの、實在なるものの純粋なる持続があるのみなのである。

 生長の家人類光明化運動は神そのものであるから、 「今」 すべてのすべてなのである。地上天国建設運動もまた神であるから 「今」 すべてのすべてであって、地上超脱の 「今」 があるのみである。

 天上と地上と相対しているのではないのである。相対そのものが無いのである。地上に対する天上もなければ、天上に対する地上も無いのである。それらはすべてみずからの消え切りなのである。

 不完全はなく、あるものはただただ聖なる、完成なる實相のみである。無相にして一切相なる澄み切りの聖なるよろこびの輝きそのものが神の国、實相の国、天国そのものなのである。

 ただあるのは天上のみ、神のみ、「今」 のみなのである。不完全を消すための運動はどこにも無いのである。不完全そのものが無いのである。

 イエス・キリストは 「み心の天に成るが如く地にも成らせ給え」 と祈ることを教え給うたが、み心の成る天のみが實在であり、實相であり、すべてのすべてなのである。ここに満ちたりの感謝の湧出(ゆうしゅつ)があり、「こと終われり」 なのである。

 「地にも成らせ給え」 とは、その満ち足りの上に立ってのよろこびの溢(あふ)れ出(い)での言葉なのであって、これは現象、地なるものに實在性を認めた祈りではないのである。(1998.11.1)

176復興G:2013/11/09(土) 13:26:08 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十五

   ヨハネは神の国を準備する役目としてこの世に出たから神の国は近づいたと言ったのだ。


 神は、神の国は永遠に近づくということは有り得ないのである。なぜならば、神と神の国は一度も神の子人間と離れたことはないからなのであり、はなれたことの無い渾(すべ)ての渾てなるものを神といい、神の国というのである。

 一体(ひとつ)であるものにおいて、近づくということは不可能なことなのである。その不可能なことを不可能ではないと想ってそれととり組むところに迷い、すなわち不自然が生ずるのである。有らざるものを有りと妄想するのが迷いであるからである。

 近づくことの反対は何であるか。それは遠ざかることではないのであって、天国ということにおいては、近づくことの反対は、内にあるということである。内とは、既に、はじめから、はなれずして實在しているという意味である。天国においては、近づくということほど遠く離れていることはないのである。

 それ故、感謝したら神があらわれる、ということは生長の家の實相の哲学においては、感謝すれば神が近づく、という意味ではないのであって、既に、内に、はじめのはじめからある神が、感謝となってあらわれ給うことを意味しているのである。あらわれるのは外からこちらの方に来るということではないのであって、こちらから、内側から、という意味なのである。

 それ故、感謝の神示であると言われている 「大調和の神示」 は、聖経 『甘露の法雨』 の経本においては、 「招神歌(かみよびうた)」 よりも後におかれているのであって、生きとし生けるものとして、神として生かされ、神がすべてを生き、為し給うことが歌われているのである。それ故、内より神があらわれ給いて、感謝を為し給うということがそのままのすがたなのである。

 また、四部経においては、愛行(あいぎょう)の神示とも云うべき 「聖使命菩薩讃偈(せいしめいぼさつさんげ)」 よりも 「招神歌(かみよびうた)」 は先におかれているのであって、神を迎えるための準備として愛行があるのではなく、神が内よりあらわれ給いて愛行を為し給うことが表現されているのである。

 それ故、愛行とは、愛すなわち神が行き給うという意味なのである。神が行くということは天国が行くということである。天国が行くということは無我が行くということである。

 み教えを実行するということも、実すなわち實在なる實相が行くということであり、實相すなわち神が行くということなのである。

 もしも、既に内にある神を観(み)ず、神に来ていただくための準備として行ずるならば、それは同じ行であっても、準備の行であり、神なき自我の行となり、神との間をちぢめるための、埋め合わせの行となり、感謝の湧きようがなく、感謝だけは自分でやらなければならないことになり、一方、自分の無いのが感謝であるから、準備の間は神が居給わないとなれば、永遠に自分が消えず、感謝にはあずかれず、神は西方(さいほう)極楽浄土よりも尚々遠くにはなれてしまうことになるのであって、この行は、同じ行であっても、釈尊が 「諸行無常(しょぎょうむじょう)」 と言われた無常の行となるのである。

 大聖師は 「愛行は空(むな)しからず」 と私たちのすがたを拝み給うているのである。既に、はじめから、内において、神である實在の實相を祝福されている吾等は幸いなるかな、である。(1998.11.2)

177復興G:2013/11/11(月) 13:22:21 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十六

   すでにわたしが出てこのままが神の国に変貌したのだ。


 私が神癒祈願をさせて頂いていた時、申し込み者の名簿の人々、いや全世界、全宇宙の不幸不完全を一度の祈りで全て消せないものだろうか。との想いが湧いた時、

 「それを既にやったのが私だよ」

 「それを既にやったのが生長の家だよ」

 といっておられる、幸いに満たされた大聖師をたしかに私は観じさせて頂いたのである。

 そのお言葉には、やはり、

 「それをやるとかやらないとかという私自身が無いんだよ」

 という消え切りの、澄み切りの、聖なるよろこびの輝くひびきがあって私はそこに包まれて坐っていたのを、心あらたに想うのである。

 「こと終われり」 である。この 「こと終われり」 から生長の家人類光明化運動ははじまっているのである。既に変貌し給うたところから 「こと終われり」 「こと完成せり」 の純粋なる創造的持続として 「今」 生長の家人類光明化運動はありつづけなのである。

 それは 「今」 なる光明化運動であって 「未来」 なる光明化運動ではないのである。理想ではなく現実を超えた現実としての 「完成」 なる光明化運動なのである。それ故にこそ、生長の家人類光明化運動は神なのである。

 神の起こし給える運動とは、天国なるもの、完成なるものみずからの起こし給う、天国なる、完成なる運動であるということなのである。

 「吾が中に、神が今此処に、そして天国が今此処にある。」 (『日々読誦三十章経』 )

 これが最高の神想観に念ずる言葉とされていることは、神想観の中身の純粋なる持続が人類光明化運動であり、この自性円満の實相なるものを観ずる神癒の展開は、神想観の中身の展開であると言うことが出来るのである。

 今ここに神の国があり、天国があるということは、これから時間をかけて顕わして行くという時間の世界の話ではないということである。今ここにあるのである。これから時間をかけて顕わさなければならないという神はなく、天国もないのである。今ここであってこそ神であり給い、今ここであってこそ天国であるのである。

 それは 「現象無し」 を説く教えにして、はじめて、 「今ここ」 を説くことが出来るのである。それは針の先ほども自分というものの要らない既に完成している世界である。

 ただただ完全が完全なるものを自己展開することがあるばかりである。これを生長というのであるから、満足と感謝の展開が生長ということなのである。感謝して、満足したいのちほどよく生長を実現しているのが神の子のすがたであるのである。

 どこまでも、不完全の存在を認めないのが生長の家であり、その人類光明化運動である。イエスは方便を以て説いているが、そこにもまた完全と完全のいのちがあるばかりなのである。

 釈尊の 「山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくこくど しっかいじょうぶつ)、有情非情同時成道(うじょうひじょう どうじじょうどう)」 とは、 「方便の成道」 ということも入っているのである。生長の家人類光明化運動が、時に応じ、所に応じて、様々なすがたをとって来たという、その姿そのものが 「悉皆成道(しっかいじょうどう)」 のすがたなのである。ただただ完全が完全し、完成が完成している相(すがた)があるばかりなのである。(1998.11.3)

178復興G:2013/11/11(月) 13:39:57 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十七

   わたしの内に、諸君の内に、ここにこのまま神の国はあるのだった。


 聖経 『甘露の法雨』 には、

 『汝らの内』 にのみ神の国はあるなり。

 と言い切られているのである。

 釈迦、キリストを完成したのが生長の家である、と大聖師は宣(の)り給うているのである。この戯曲に登場しているイエス・キリストは生長の家によって完成し給うているキリストであると言えるのである。

 實相ははじめのはじめより完全である故に、實相には完成するということは有り得ないのである。それ故に、釈迦、キリストを完成したという、その完成された釈迦、キリストは現象の釈迦、キリストであり、実際には “完成した” ということは、その現象釈迦、キリストは “無い” ということをハッキリとしたということなのである。釈迦、キリストの出来なかったあれこれを出来たというエスカレーションの問題ではないのである。

 嘗(かつ)て二千年前のイエスは、 「神の国は汝らの内にあり」 と宣り給うたのであったが、これでは内にもあるが外にもあるということである。そこを 「汝らの内にのみ」 と言い切られたところが完成したるゆえんなのであって、この言葉を聴き給うて手を打って讃える

 「よくぞ言い切って呉れた!!」

 という實相イエス・キリストの声を確かに大聖師はお聴きになったのである。同じように實相釈尊のお声をも確かに大聖師はおききになったのである。天地一切万物が手を打ってよろこび讃える声をお聴きになったのである。天地一切を完成したもうたのが大聖師であり給うからなのである。

 「完成(ななつ)の燈台の点燈者」 はまことにも、完成した天地一切万物を照らし出し給うもののことであるのである。それを為し給うたのが大聖師谷口雅春先生にましますのである。「吾れ万物を完成せり」 と宣り給うものこそ 「完成(ななつ)の燈台の点燈者」 なのである。

 生長の家は一切を完成するのである。何故ならば、神をも完成し、ゆるしたのが生長の家であるからである。

 まことに神と言える神、實相なる神を見出し給うたのであり、この時まではまことにも神を審(さば)くことより仕方がなかったのである。不完全の神、神とは言えない神である以上、審く以外はなく、こちらが審くが故に、ただただ神に審かれているという想いしか有り得ず、 「愛されていた。生かされていた」 という、審き憎むことの反対であるところの、感謝と赦(ゆる)しというものは有り得なかったのである。ここに、神を完成し、神をゆるすという道が開かれたのである。

 「天地(あめつち)の創造主(つくりぬし)にましまし、吾が生みのみ親にまします神よ」

 と宣(の)りごとするとき、このみ親は、「吾が生みの」 なのであって、「私が生んだみ親神よ」 と言い切れており、そして、

 「さすが吾が世嗣ぎよ!!」 と神が手を打ってよろこび給う、そのみ声をたしかにお聴きになったことが、神を完成し、天地一切を完成し給うた時であったのである。その意味においても、釈迦、キリストを完成したるものと言い切れているのである。

 ある誌友が、初期のころであろうと拝察されるのであるが、あまりにもおどろいて大聖師谷口雅春先生に、

 「あなたは一体どなたにましますのですか?」

 と想わず問(き)いた時、

 「本当のことを言うと、手が後ろにまわるよ」

 とおこたえになったということを、先達にお聴きしたことがあったのを想い出すのである。ピラトがイエスに、

 「汝はまさに王なるか?」

 と言う。イエスは

 「汝の言えるが如し」

 と答え給うているのである。いくらイエスが 「そうだ」 と言っても、ピラト自身が自身の言葉で 「まことその通りである!!」 と言い得なければ何にもならないことなのである。大聖師もまた、万人が王の王であることを拝み給うていることについて、

 「まことに先生はこの通りですか?」

 との問いに対して、

 「汝の言えるが如し」

 と私たちにお応えになりつづけであり給うのである。(1998.11.4)

179復興G:2013/11/18(月) 19:58:33 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十八

   神とは何であるか。神とは 「人間のそのまま」 である。むつかしいことも何もない、「人間そのまま」 が神なのである。


 何であるのが神であり給うか。人間であるのが神であり給うのである。人間でない神はあり給わないのである。「今」 ということである。「ここ」 ということである。「そのまま」 ということである。「そのままの人間」 が神であり給うのである。「そのまま」 なるものが神であり給うのである。斯(か)く書かしめているのが神であり給うのである。斯く書かしめられているいのちもまた神であり給うのである。

 「吾れまた、新しきエルサレムの花嫁の姿をして天降るを見る」 とは、神そのものが新しい、「今ここ」 「このまま」 「そのまま」 なる、完成なる 「吾れ」 の姿をとって吾が内より天降る厳(おごそ)かなる 「当方」 なるものの相(すがた)であり給うことを言っているのである。

 生長の家の聖歌 『神霊降誕譜』 の三番は、

  おしえおや うまれたまいて
  このせかい すがたかわりぬ
  やみおおき 世界は消えて
  ひかりみつる 此の世浄土と
  うちつどい かみをたたえん。

 と歌われているのである。

 既に此の世は変貌しているのである。教え親が生まれ給いてということである。お悟りになってということを超えているのであって、この 「生まれる」 とは、 「吾れ生まれてより已来(このかた)、百千万億那由他阿僧祇劫(なゆたあそうぎこう)以前なり」 というほどの意味であり、また 「吾れはアブラハムの生まれぬ前(さき)より生まれてあるなり」 というほどの意味なのである。「生長の家は久遠の昔よりある」 のであり、「私は母親の胎内より生まれたるに非ず」 であり、人みな 「女の子宮より生まれたることなし」 の祝福となって雨降っている讃嘆のコトバが聖経 『甘露の法雨』 となったのである。

 「おしえおやうまれたまいて」 の 「うまれたまいて」 ということは、限りない自分でありながら自分でない 「自分これ自分に非ず、是れを自分という」 態(てい)の内なるご存在、内なる臨在を拝するお言葉であり給うのである。

 この 『神霊降誕譜』 は、一応、生長の家本部がつくったことにはなっているが、当時のどなたかが歌詞を大聖師のもとにとどけて、それが帰って来たときには、殆ど、全部かわって、別のものになっていたという。大聖師が書き直されたのである。それ故、 「おしえおやうまれたまいて」 という、大聖師がご自分が何ものであり給うか、それを 「自分ならざる自分」 として崇め給うていたところから出で来たって、 「うまれたまいて」 となっていると拝察されるのである。

 四国に巡講され給うたとき、歯が痛まれたので、相愛会の連合会長のお兄さんが歯科医であったので,その人に診てもらわれたのである。弟は大聖師のことは知っていても、お兄さんの歯科医さんは、あまりよく大聖師のことを知らないものであるから、口を器具で治療しながら、「いくら偉い生長の家の谷口雅春先生でも、やっぱり歯は痛みますかねッ」 と言ったそうである。付き添っていたものは気が気でなかったであろう。すると大聖師は

 「谷口雅春は痛んでいても、谷口先生は痛んでいないよ」

 と言われたそうである。まことにみずから、「うまれたまいて」 と拝さずにはいられない、厳かなる 「自分ならざる自分」 なるものの消息である。(1998.11.5)

180復興G:2013/11/18(月) 20:09:26 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十九

   今、太陽は明るく照っている。そのままが日光の中であるように、われわれはこのまま神の生命(いのち)の中に存在を保ち、生き、神の生命を享(う)け、それを生きているから、われわれ自身が初めからこのまま 「神の子」 なのである。その住む世界がこのまま 「神の国」 である。


 太陽は明るく照って、そのままが日光の中である。そして、太陽は日光を自分みずから出しているのである。太陽と日光は同じなのである。日光は太陽であり、太陽は日光なのである。神と人と神の国とはひとつなのである。

 生長の家のみ教えなる太陽は久遠の昔から照っている。そのまま神の子はみ教えの中なのである。み教えが先か、いのちが先か。何故、これを分ける必要があり、それを知る必要があるのか。

 太陽はただただ照っているのであり、いのちはただただいのちしているのである。そこには自分というものは無いのである。ただただその通りなのである。

 想えば、み教えの内も外も無いのである。ただただひとつなるものがありて、伝える方と聴く方との相(すがた)となって、ひとつなるものが自己展開しているのである。説法しているイエスもひとつなるものであれば、聴いている聴衆もひとつなるものなのである。

 ひとつなるものの展開であるが故に、ひとつがひとつであることがそのまま中心帰一なのである。ひとつなるものの展開したそのままに、ひとつであるのである。展開しているいのちそれ自体の内にひとつなるものがあるのである。

 内なるひとつが渾(すべ)ての渾てであり給うが故に、イエスのすべては内に向かっているのであって、外は既に久遠の昔より、アブラハムの生まれ出でぬ前(さき)より既に十字架に架けられているのである。

 一切は内より出でて内であるのみなのである。すべてのすべてなるものを内といい、神といい、神の国というのである。

 今ここに神の国を生きているいのちにとっては、不完全はどこにもないのである。不完全という概念そのものが存在しないのである。イエスは水の上を歩く前に、神の国を歩き給うていたのである。完全なる世界に完全なるものとして歩き給うていたが故に、水の上を歩き給うという自在なる完全の一分があらわれたのである。

 果たして、イエスが水の上を歩き給うたことは善であったかどうか。病を治したことが安息日に仕事をしたということは善であったか否か。

 イエスは善悪を問題にし給うたのではないのである。善のみなる神と神の国を生き給うたのである。それ故、パリサイ人に善悪をきめて貰う必要はなかったのである。

 パリサイ人は善悪を見ているのである。しかしイエスの前にはその善悪を問題にしているパリサイ人もなかったのである。それ故、無いようにふるまわれたのである。今ここに神の国、それ以外何ものも存在しない善のみの国を生き給うているすがたがあるのみなのである。

 因縁、現象の世界から見れば、何故、イエスの前に、病人が現れるか。パリサイ人があらわれるか。右の頬を打つものがあらわれ、上着をとるものがあらわれ、十字架につけるものが現れるのか。それはすべてイエスの心の影であるということになるのである。

 しかし、それが正に影であり、影にすぎないことを知っていたイエスは、やはり 「アブラハムの生まれぬ前(さき)より」 心と心の影である全現象界を十字架につけ、抹殺し給うていたのである。(1998.11.6)

181復興G:2013/11/19(火) 09:34:13 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十

   このままが 「神の子」 であり、このままが 「神の国」 であることに気がつかないで、どこかよそに神の子があり、神の国があるように思っていたのがまちがいだったのだ。


 自分の行いの中に、自分の行(ぎょう)の中に、それをつづける時間と回数の中に、神の子と神の国があるのではなく、 「自分」 というものの要らない、自分というものが全く入る余地のない、 「今」 が神の子であり、神の国であるということは何という厳かな発見であろう。

 それに 「気がつく」 ということと 「気がつかない」 ということとはその領地をせめぎ合っているのではない、ということが 「今」 ということなのである。

 結局は、 「気がつけば」 あるが、 「気がつかなければ」 無いという存在が神の子や神の国ではないと受けとるのが 「今」 ということであり、 「今」 を生きるということなのである。

 「今を生かす」 というのは行(ぎょう)中の最大の行である、というのは、 「今」 が神であり、 「今」 が神の国であり、 「今」 が神の子であり、 「今」 が渾(すべ)ての渾てであるからなのである。

 「気がつく」 「気がつかない」 ということは自覚するかしないか、観ずるか観じないかの問題と同じことであるが、その問題そのものが 「不完全なるが故に實在に非ず」 ということであると受けることこそが 「今」 が生きることなのである。

 神も、神の国も、神の子も すなわち實相は、気がつけばあるが、気がつかなければ無い、ということになれば、その 「気がつくのがなかなか!!」 ということになって、結局は、神も神の国も神の子も遠い存在となってしまうのであるが、 「神の創造には失敗はない」 のであり、 「不完全はない」 ということにおいて、 「今」 文句なしの世界と人間がここにある、ということによって、この問題を超えるのが生長の家の實相哲学なのである。

 ここのところを如何に説明し得るか、ということが、繰り返しになるが二十一世紀に与えられた美しい、光栄あるテーマであるが、これはあくまでも創造的テーマであって、テーマを解決しなければ今、完全な生活はない、神の子ではないということではないのである。テーマさえも完全なるものの自己展開として創造しているというすがたなのである。

 これは二十一世紀にだけのテーマではなく、世紀を超えて、すべての人々のアタックして来たテーマであると言えるのではないか。

 神は割り切れていないということはないのである。「天地一切のものに感謝せよ」 とのコトバは神より出でて神そのものである。神は完全なるが故に、このコトバも完全であり、すべてのすべてなのであって、天地(あめつち)を貫き、天地(あめつち)を天地(あめつち)たらしめてこのコトバは鳴りひびいているのである。

 食前にのぼるものが、野菜であろうと、魚であろうと、肉であろうと、「感謝せよ」 なのである。まことには、野菜は野菜ではなく、神なのであり、魚は魚ではなく神なのであり、肉は肉でなく神なのである。どこにも犠牲になったものの呻(うめ)きはないのである。

 「若(も)しも神のゆるしがなければ、一片の野菜も、魚も、肉も、食前にのぼること能わず」

 である。そこに 「感謝せよ」 が鳴っているのである。

 「現象無し」

 によって宇宙を割り切れている 「生長の家の食事」 である。(1998.11.7)

183復興G:2013/11/29(金) 19:47:11 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十一

   ここに、この身が、このままに神の子であり、神が円満完全であり、神のみが創造主(つくりぬし)であり、神は全知全能であり、その創造に決して失敗がないということを知るならば、神の子であるこのわれわれが、すでに円満完全であり、すでに健全であり、すでに幸福であり、どんな病気も不幸も貧乏もこの世にないことは明らかであるのだ。


 それ故に、完全円満なるものを観る生活のみがあるのである。これは實相のことである。このイエスの言葉には實相という言葉は出て来ないのであるが、神の創造には失敗はあり得ない “そのまま” ということでそれが表現されているのである。

 實相とは何か。そのままでよい、ということである。そのままでよいと言えないものは、實相ではないのである。不完全をあると認めることは、神の創造に失敗があり、神は全知全能ではないことを証明するものであるが故に、完全全能の神を発見した生長の家から観れば、そのままでよいといえないものは實在しないのであり、無いのである。

 何々から観る ということは決して一つの立場に固執した観方ではなく、固執という、そのままでよいと言えないものは不完全なるが故に無いのであり、「無いと言えるすべては無い」 という無の門関を透過したところから観れば、ということが、生長の家から観ればということなのである。

 ここには、生長の家の説法、表現が、すべて神が完全であるから創造に失敗は有り得ないという、当たり前の、当然の、自然の、天然で法然なる、そのままの流れにあるということが示されているのであって、イエス・キリストと大聖師谷口雅春先生とが全く一つの相(すがた)に帰一していると拝察されて来るのである。

 結局、大聖師の追求せざるを得なかった、テーマ、悩みとは、

「完全なる神は何故不完全の世界をつくったか。不完全なものしか造れなかった神は神とは言えず、神は無いのである。
 しかし、何故、完全というものは無いはずであるのに、人間は完全を希求せざるを得ないのか。完全をどこかで知っていなければ求める筈はない。しかし、現実には完全はない」

 この悩みを解決したのが大聖師であり給うたのである。その大聖師の解決したよろこびをそのままここに語り出されていると想われるのである。

 それを自分の力で解決しようとしている間は、ヨハネの悩みを悩みとして悩まなければならなかったのである。既にはじめから完全円満なる實相が内より目覚め、自ずから覚めて自覚なるものが顕現した時、自我が消え、自力が消滅したのである。

 自力、自我が消滅して、實相の完全円満が自覚されたのではないのである。自力、自我を消さねばならぬということになれば、それだけは自分でしなければならないという、一点の自我を残すことになり、それだけは必要であるということになり、自我は永遠に消えないのである。

 ただただ、時満ちたのである。宇宙的に時が満ちたのである。宇宙が時を迎えたのである。「今」 起つ時を恵まれたのである。「今」 が起ったのである。みずから、おのずから起つべくして起ったのである。それは自我を無くしたから、ではなく、ただただ起つべくして起つべきものが立ったのである。

 ここに、自力なき神想観、自力なき聖典読誦、自力なき光明化運動、が起ったのである。よろこびの神想観、よろこびの聖典読誦、よろこびの光明化運動の誕生、発進であった。「私は無いんだよ」 との大聖師のよろこびを大本源として発進した、久遠のよろこびの発進であったのである。(1998.11.8)

184復興G:2013/11/30(土) 15:38:16 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十二

 「住吉大神宇宙浄化を祈る神想観」 は正(まさ)しく、字の通りであって、住吉大御神が吾が内にあってこの祈りをされて 「ア、オ、ウ、エ、イ」 の鳴り響きを鳴り響き給うているのである。それは絶対なる神の絶対なる行(ぎょう)としてのお姿であって、人間力の努力精進をもとにして考えるべきものではないのである。

 神の天地創造は雄渾(ゆうこん)きわまりなき力強さであるが、それは暗(やみ)を相手に光りをすすめて行くという意味での 「光りあれ」 の相(すがた)ではないのである。神の前には何ものも存在しないのであり、克服すべき何ものもないのである。神の前には暗は無く、その無いという空間もなく、ただただ在るものが在りて在るというご存在が神であり給う故に、「今に至るも働き給う」 というすがたには、「疲れ給う」 ということはどこにも有り得ないのである。

 大聖師はお疲れになってお亡くなりになったのではないのである。「自分」 なるものがあれば疲れ給うかも知れないが、

  「私は無いんだよ」

 ということにおいて、ただただ、疲れ給わず、休み給わない神のみがあり給うそのままであり給うたのである。

  若しと思う者は忽(たちま)ち若返り、
  老いたりと思う者は忽ち老い朽つるも宜(むべ)なるかな。

 と聖経 『甘露の法雨』 にお書きになられた、ご本人が、

  「それでは眠らせて頂きます」

 と現象を超え、自我を超えて、堂々とこ昇天されたところ、説法はこれ何ものが為し給うかを指し示し給い、却ってこちらの永遠久遠なる相(すがた)すなわち

  迷いなし、罪なし、病なし

 のすがたを指し示し祝し給うのを感ずるのである。

 ここに永遠に久遠に疲れを知らない生長の家人類光明化運動の自然な姿を拝させて頂くのである。

  「永遠の構図に於て神と偕(とも)に創造するの喜びを感じてゐます」

 というところには、すでに 「自分」 なるものは微塵(みじん)も無く、神のみ すべてのすべてであるが故に、永遠であるところの、よろこびなるもののみが輝いているのである。「自分が要(い)らない」 ということ、「自分が無い」 ということが、永遠ということ、久遠ということ、無限ということであることを、このお言葉は示しているものと拝察されて来るのである。

 「不完全が存在するならば神はない」 という想いは、神が大聖師の中に起こし給いて、『神を審判(さば)く』 を書かしめ給うたのである。その神が再び、聖経 『甘露の法雨』 の中において、

  “汝は罪を以て完全となすや?”

 というみコトバによって、却って、「不完全があれば神は無い」 ということを童子に言わせようとされ給うているのである。そして、童子みずからに、

  『師よ、罪は完全に非ず』

 とみずからの答えとして、言わしめ給うているのである。そして、「汝の言えるが如し」 とお応(こた)えになってい給うのである。大聖師が生まれ給うてよりこの方のお姿は、すべて神が為し給うていたことを通して、吾々もまた神縁というもの、神なる根本因縁というものを指し示されていることを想うのである。(1998.11.9)

185復興G:2013/12/02(月) 11:08:21 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十三

 今朝の早朝行事の先導で、聖経 『甘露の法雨』 の読誦(とくじゅ)において、内より湧き出でた明るい想いだった。

 聖経を誦(あ)げる前に、宝蔵神社に向かっての礼拝の後、この聖経 『甘露の法雨』 を、日ごろ先祖を護り、導き給う、本尊神霊なる生長の家大神、大国主大神、観世音菩薩、地蔵大菩薩、阿弥陀如来……に感謝し奉りて誦げる、という主旨の 「祝詞」 を拝読してから、聖経が読誦されるのである。

 今朝、この 「本尊神」 は、しかし、自分の内にましますのである、と想った時、わが内に大きな大きな、黄金色の合掌があらわれたのである。

 それは、感謝して聖経を拝読してくれる人々への感謝の合掌であると同時に、全存在を如意宝珠(にょいほうじゅ)としてその合掌の内に持されて、限りない 「生かす力」 をもって生かし給うているすがたであった。

 そして、その時、総裁谷口清超先生の 「神想観は、神の世界を神が想い給うのである」 というお言葉を想い出したのである。

 すると、自分はどこにもなく、ただよろこびだけがあって、自分は全く要(い)らなく、ただただ神の眼を以て神が観給い、神が神の合掌で神のつくり給える實在なる姿を観じ、拝し給うのである、という安らぎ、全托の想いが私を満たしたのである。

 それから後、神癒祈願の人型を合掌にはさんだ時、自分ではないもう一つの輝く厳かさで大きな合掌がその一枚一枚の人型をはさんで祝福礼拝して下さっているのを感じたのである。しかも、すでに、その人型は人型でなく、如意宝珠となって、合掌の、掌と掌の間に輝いて存在している感じとなっていったのである。その感じは今も、祈願を終えたあともそれがつづいているのである。

 神が人型を観給うように、私もそれを感じていたのではないかと想うのである。祈りも神が為し給うのであった。

 「……し給え」 と神に祈るとは、神でないものが神に求めているように、たしかに見えるのであるが、そうではなかったのだ。「……したまえ」 とねがうことも神が神に語りかけていたもうたのであった。

 それ故に 「……せんと楽(ねが)わば」 ということばが仏典にあるのであると想えて来たのである。祈りもねがいも神が為し給うのであれば、神はよろこびそのもの、楽しさそのものであり給うのであるから、「ねがい」 は、楽しさそのものがしていることなのであった。

 「……せん」 と欲すること、ねがうことは、楽しさ、よろこばしさから来ている姿であったのである。

 それ故、「ねがう」 ことは、楽しさが楽しさに、よろこびがよろこびにねがっていたことであったのである。

 「願(がん)なき行(ぎょう)は仏(ほとけ)の魔事(まじ)なり」 とは、願(楽<ねがい>)神なき、仏なきものは魔事であることはきわめて自然なことと想われるのである。

 それ故にまた、「地上天国建設を楽(ねが)う」 こと、「人類光明化運動の展開を楽(ねが)う」 ことは、よろこびそのものがねがっていることであったのであり、楽そのものがねがっていることであったのである。

 「よろこびの人類光明化運動」 なるものの明るさということを想わされるのである。(1998.11.10)

186復興G:2013/12/03(火) 09:26:39 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十四

 「神の世界を、神が想い給う」 (総裁谷口清超先生の第一論文 『文化の本源としての神想観』)、そこには全く自分というものは無いのであり、ただただよろこびと感謝だけがあるのである。天地一切が神であり、感謝そのものなのである。これを観ずることを、天地一切感謝といい、天地一切礼拝というのである。

 「天地一切」 という字は 「天地の一(ひ)ト切れ」 と書かれているとも言えるのであって、これは、一即多、多即一の相(すがた)を表現しているのであって、「一ト切れ」 とみえているままに 「天地」 すなわち、すべてのすべてであることを意味しているのであり、 「天地である一ト切れ」 ということであり、一人すなわち 「一ト切れ」 としての個性的存在でありながら、そのままにすべてのすべてである、大調和の相(すがた)を表現したものであるということになるのである。

 更に、「一切」 とは 「一つに切る」 ということでもあるのであって、現象と實相の二つに切るのではなくて、切った結果が一つであるのであって、現象は無いのであって、切った結果、残っているのは實相一つであるということである。實相の独在ということなのである。

 更に 「一切」 とは 「一つが切る」 ということであり、一つなるもの、即ち絶対なるものが切る、ということであって、ただただ實在なる一つなるすべてのすべてなるものが、光りの自己展開の相(すがた)として 「無い」 と輝いているのである。「般若心経(はんにゃしんぎょう)」 の 「観自在菩薩(かんじざいぼさつ)行深般若波羅密多時(ぎょう じんはんにゃはらみったじ)照見五蘊皆空(しょうけん ごうんかいくう)」 という時の、観自在菩薩が光明燦然として照り輝いている、その輝きの、よろこびの展開として 「現象は無い」 すなわち 「五蘊皆空」 と照らし観てい給う相(すがた)であり、ただただ光りのみの充満展開があるのみなのである。

 またイエス・キリストの 「吾が国は此の世の国に非ず」 とのおコトバにおいて、先ずはじめに 「吾が国」 という、吾れと国との光明燦然たる神の国と吾れとが厳然としてあり、その神と神の国そのものであるよろこびが 「此の世の国に非ず」 すなわち 「此の世(現象)は無い」 との輝きのひろがりとなっているのである。

 「五蘊皆空」 にしても、 「吾が国は此の世の国に非ず」 にしても、ただ常に、「無い」 というだけではなく、先ずはじめに、光明燦然たる實在、實有なるものがあり、その自己展開としての光りのコトバとして発せられているいのちのコトバであるということである。それが 「一切」 ということの一つの意味であると言えるのである。

 また、仏教に 「一切衆生悉有佛性(いっさいしゅじょう しつうぶっしょう)」 という語があり、一切の衆生は悉く仏性を有(も)つ、という風に解せられていたのを道元禅師は 「一切衆生悉有は佛性である」 と解されたのであったが、生長の家では、「衆生悉有佛性」 を一切してしまったのである。衆生だとか、悉有だとか、それを一つなるものがすべて 「無い」 と切りすててしまったのである。切りすててしまって、「一」 だけが残って、すべてのすべてなるもの、實相独在を實相独在としての成就、すなわち、成り就(な)りせしめたのである。それ故に、ここにまことの 「一切」 の意味、すべてのすべてなるものが露呈して来たのである。

 これらのことを述べた時、大聖師谷口雅春先生は、 「君の直観的解釈は素晴らしい」 と言って下さったあと、そこに居た一同のために實相独在の話しをして下さったことであった。

 昭和三十九年の秋のことだった。(1998.11.11)

187復興G:2013/12/03(火) 09:27:54 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十五

 幽斎殿(ゆうさいでん)での感謝行を終えて下に降りて来て、食堂で話をしている時に湧いたよろこびがあった。

 生長の家人類光明化運動は神である。本源絶対なる神が色々なはたらきをされるその御はたらきにつけたのが神名であれば 「住吉大御神(すみよしのおおみかみ)」 「塩椎大御神(しおつちのおおみかみ)」 とお呼びする意味において 「生長の家人類光明化運動」 ということである、という、それはなぜかよろこびであった。

 生長の家人類光明化運動は、先ず、それみずからに、久遠不滅(くおんふめつ)、金剛不壊(こんごうふえ)なる体(たい)を具(ぐ)しているということである。これがまことの具体ということである。實在の實相なる体を具しているということである。

 この金剛不壊の具体なるものは、自己展開し、みずから顕(あらあわ)れざるを得なくて顕れたのがいわゆる人類光明化運動なのである。

 それ故、生長の家人類光明化運動の自発的活動態勢を、という言葉は、人類光明化運動の展開は、運動なるものそれみずからの、自発によってあるということなのである。神は 「光りあれ」 と宣(の)り給うその自発なるものを表現していたのである、ということである。

 「“自発的活動態勢” の “自発” の “自” は、“自転島(おのころじま)” の “自” ということなのである」 と言った先達があったのを想い出すのである。この人は生長の家人類光明化運動そのものが神の相(すがた)をしていること、久遠不滅、金剛不壊なる体(たい)を具有(ぐゆう)しているその、實体にふれていられた魂であったのではないか、と想われて来たのであった。

 合わせて、再び、人類光明化運動の 「光明とは何か」 ということをさらに深く想わせて頂けたような気がするのである。追求しても追求してもし切れないもの、讃えても讃えても讃え切れないもの、という想いとよろこび、そして光栄というようなものを想ったのである。

 「光明とは何か」 という言葉は、如何にも疑いのコトバであって、満たされたものの、解けたものの言葉ではないように見えているが、今の場合は、嬉しくてその自分自身の中にある、實在なる、神なる、光明化運動に語りかけ、讃えかけ、拝(おろが)みかけているという気がしているのである。

 「神の国は汝らの内にあり」 とは

 「生長の家人類光明化運動なるものは汝らの内にあり」 ということであると想えて来るのである。そして、それが神であるが故に、神である自発なるものに自発されて自分はここに生かされてあり、すべての運為(うんい)が存在するのである、ということであった。

 「光明とは何か」 と問うていることそのことが、光りの實体を有し、光りを放(はな)っている姿であるのであるということである。

 「實在とは何か」 ということも、 「感謝とは何か」 と深く参ずるのも、その姿そのものが光りのすがたであるのだ、ということも想えて来るのである。

 「自転島(おのころじま)」 とは、地球をあらわし、全宇宙の實相を表現しているとも言えるであろうが、それがそのまま如意宝珠の姿であり、潮満(しおみ)つ、潮干(しおひ)るのはたらきを具有し、自(みずか)ら、自(おの)ずからなるはたらきそのものを具有している、その意味をもって 「自発的活動態勢」 ということが新たに想えて来たのであった。(1998.11.12)

188復興G:2013/12/03(火) 10:05:04 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十六

 神想観の中で 「私は無いんだよ」 と宣(の)り給いて、みずからの消え切りであり、澄み切りの聖なる聖なる大聖師が、すべてを救い給うたことについて、「それをやったのが私だよ」 と宣り給うたのであった。それ故、それを宣り給うたのは神であり給うたのである。「見よ、吾れすでに天地を新たならしめたのである」 との 「神示」 のコトバと同じ相(すがた)がそこにあったのである。神のみがそこに在して、渾(すべ)ての渾てであり給うたのである。

  「時が来た。」

 とは、その時であったのである。そして全宇宙が 「今」 そのまま起ったのであった。全宇宙を吾が身体としてそこに起ち給うた大聖師であり給い、神であり給うたのである。それはそこに、そのまま生長の家人類光明化運動の起った相(すがた)であったのである。

 「こと終われり」 「こと完成せり」 が生長の家人類光明化運動の中身なのである。「こと終われり」 「こと完成せり」 が運為(うんい)、展開しているのである。「こうありたい」 「ああありたい」 の不完全、不満足がもとになってはじまっている運動ではないということを更に更に想うのである。それが感謝行としての人類光明化運動である。感謝なるもの、即ち不足ではなく満たされたものの行であり、感謝なるものが為す行(ぎょう)が感謝行なのである。

 感謝なるものとは神なるものであり、自分なきものであり、完成なるもの、渾(すべ)ての渾てなるものの行なのである。

 「神は今に至るも働き給う」 という天のコトバが鳴りひびいている。

 「今」 に至って 「今」 であってはじめて神なのである。「今」 が神なのである。神は常に 「今」 なのである。過去、現在、未来超脱の 「今」 である。すべてのすべてなる 「今」 である。

 「今に至るも働き給う」 ということが何故、永遠に働き給うという意味に受けとれて来るのか、ということである。「今に至るも働き給う」 だけでは、それは現在までのことであって未来は保証出来ないのである。それは、「今」 が神であり、神が永遠久遠であることは直観によって知っているのである。それは現象を超えているということである。この 「今」 が 「久遠の今」 であればこそ、永遠にという意味を味わうことが出来るのである。

 現象の積み重ねだけでは、永遠に永遠ということは出来ないのである。経験することが出来るとすれば、それはすでにそこまでということになって了(しま)うのであって、永遠、久遠は時間のトータルではなく、「今」 が 「神」 が 「實在」 が久遠なのである。時間を超えていることが永遠、久遠なのである。「完成」 なるものが永遠、久遠なのである。「完成」 なるものは完全であるが故に、永遠、久遠を満足しているのである。

 それ故、 「生長の家人類光明化運動はいつ完成するのか」 という問いには、「生長の家人類光明化運動は今に至るも働き給う」 ということなのである。完成のためにではないのである。完成なるが故に、完全なるが故に、 「今」 なる久遠なるものが展開しているのが生長の家人類光明化運動なのである。(1998.11.13)

189復興G:2013/12/03(火) 10:18:19 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十七

 「今すべての病人は起つことが出来るのである」 ということと言い、「『生長の家』 を読み真理を知るだけで遠くにいて病気が治る事実を見よ」 と言うことといい、これはすべて神癒についての 「神示」 であることをあらわしているのである。

 「神癒」 とは、神が癒しそのものであるということである。神が癒しそのものであり、甦りそのものなのである。 「吾れは甦りなり」 とのコトバは、神が癒しそのものであることの光明の鳴りひびきなのである。

 「遠隔の地にいて」 と仮に云うといえども、神には遠くも近くもないのである。すべてのすべてが神であり、神には距離はないのである。へだてそのものがないのである。目無堅間(めなしかつま)そのものであり給うからである。

 「神癒」 には、神と人間とのへだてはないのである。 「遠くにいて」 とは、遠くにいても遠くではないことのよろこばしさの表現なのである。「“遠く” そのものが無い事実を見よ」 ということなのである。ただただひとつなるもの、完成なるものの自己展開があるばかりなのである。「既に、吾れ全宇宙を癒し終りたり」 という事実が,久遠の昔より、神そのものとしてあるばかりなのである。

 「神癒」 とは、神が癒しそのものであり、神は渾(すべ)ての渾てなるが故に、天地一切のものはみずから神癒そのものであるということである。いたるところに神が、癒しそのもの、甦りそのものを観じ給うことを、「神が癒し給う」 と仮に言うのである。

 時空超脱の 「今」 には距離はないのである。その意味をもって、「今、起つことが出来る」 というコトバが発せられているのである。「遠くにいて」 ということは既にはじめより無いのである。

 この 「今」 なる 「ひとつ」 なるものの展開こそが、生長の家人類光明化運動の荘厳なのである。荘厳とは、中心帰一、ひとつなること、渾ての渾てなることそのことにほかならないのである。

 中心帰一なるものそのものの展開、運動が光明化運動なのである。

 すべてのもの悉くはみずから癒しそのものであり、甦りそのものであることを祝福し礼拝する一筋なのが、「今」 起った生長の家人類光明化運動なるものなのである。

 「神癒」 とはひとごとではなかったのである。今ここ吾れなる栄光そのものなるすがたであったのである。神癒はここに見よ、彼処(かしこ)に見よ、というようにはないのであった。今ここ吾れにしかないということであった。

 「神癒」 とは神そのものであり、自分はどこにも要らない、全くの零(ゼロ)なのである。この自分が全く要(い)らない、この自分の要らない度合いが奇蹟的である度合いであるのである。

 それ故 「奇蹟」 的なることは、中身が必ず感謝となるのである。自分は無く、「生かされている」 というよろこびの中身があるばかりなのである。感謝の度合いが奇蹟的なるものの度合いである。感謝そのものが奇蹟そのものなのである。

 しかしながら、神のみすべてのすべてであって、自分は全く要らない、ということは天地を貫き満ちている当たり前のことであり、それを奇蹟的なこととして、大さわぎしないのが生長の家なのである。(1998.11.14)

190復興G:2013/12/11(水) 07:19:47 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十八

 今朝の、神癒の社入龍宮幽斎殿における神想観実修の時に湧いたよろこびであったが、「無の門関」 とは一切を去るということである。「無し」 と宣言することである。「無い」 と言えるすべてのすべてを 「無い」 とすることである。天照大御神も無く、住吉大御神もなく、塩椎大御神も無し。高天原も龍宮海も龍宮城も無し、如意宝珠もなし、欲するものも、好ましからざるものも無し。生長の家もなし、光明化運動も無し。現象も實相も無し。そして、その 「無し」 も無し。

  「ただだた光明遍照」

  「ただただ、そのまま」

  「ただただ生み出すもの」

  「ただただ創造(つく)り出すもの」

  「ただただ龍宮」

  「ただただ高天原」

  「ただただ中(みなか)」

  「ただただ大神」

 ただただ澄み切り、晴れ切りにましまして、渾ての渾てなるもの。ただただ 「吾が国は此の世の国に非ず」 とのキリストなるものの久遠のコトバ。「吾が国なるもの」 の、ただただよろこびの鳴りひびきである。ここに、最終的に、初元的に、完成的に、「ただただ生長の家人類光明化運動」 ということである。

 久しぶりに、十六歳の時に聖経 『甘露の法雨』 の中の

  キリストは又云い給えり、
  『吾が国は此の世の国にあらず』 と。

 のコトバにふれた時の、限りもない崇(たか)く崇く晴れて晴れて澄み渡った、未だに超えることの出来ない、あの荘厳なるものが内に甦るのを憶えたのである。

  『汝らの内』 にのみ神の国はあるなり。

 と示されている。「内」 にあるとは、まことの吾れの吾れなるものの 「生んだ」 ものとしてあるということであり、自分の自分なるものが創造したものとしてあるということである。

 神と神の国が 「汝らの内にのみあり」 とは、自分の自分なるものが生んだところの、神と神の国ということなのである。

 創造の本源世界すなわち龍宮は 「汝らの内にのみあり」 とは、自分の自分なるものが生んだところの龍宮ということなのである。

 天照大御神も住吉大御神も塩椎大御神も、自分の自分なるものの生んだところのこ存在にましますということであったのである。

  或る日天使(てんのつかい)生長の家に来りて歌い給う――

 というこの實相の世界の相(すがた)において、天使(てんのつかい)は自分の自分なるものの生んだところの、自分の自分なるものより生まれ出でたもうたところのこ存在にましますのである。

 斯くの如き想いが湧いた時、

  「さすが、吾が世嗣ぎよ!」

 との更に更に晴れ渡った、澄み切った、幽の幽なる祝福に包まれて、やっと自己の自己をとりもどした安堵感に満たされるのを憶えたのであり、それは懐かしい限りのものであった。

  「すべてを超えて、今此処に」

 というのが 「“無” の門関」 の意味するものであることを、心新たに想うのである。

 今朝は、雲一つない日本晴れである。幽斎殿で仰ぐ青空の崇さよ。限りもなく底深い崇さというものである。

 生長の家人類光明化運動なるものの裸のすがたの崇さというものをかい間見る想いである。(1998.11.15)

195復興G:2013/12/12(木) 16:52:49 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十九

 「神癒祈願」 の申し込みの内容をどう観るか。神は如何に観じ給うていられるであろうか。イエス・キリストは、病者を前にして 「この病は誰の罪の結果ならんか」 と問う弟子たちに向かって 「神の栄光あらわれんがためなり」 と言い切っておられるのである。

 神の栄光はいずくにあらわれるのであるか。イエス・キリストの中に神の栄光はあるのである。それが更に更に輝きあらわれんがために、その栄光を祝福し、礼拝せんがためにイエスの前に天降り、あらわれられた観世音菩薩すなわち尽十方無礙光如来がイエスの前に立つ人であったのである。更にイエスにとって、そのように問うている弟子たちをも含めてすべてイエスの内なる栄光を祝福せんがためにあらわれた、それこそ神の栄光そのものであったのである。ただただ、すべては、イエスの内なる愛なるものの光りが更に更に輝きあらわれんがためであったのである。

 如何なる姿をとって現れ、如何なる姿になって行くかは、み心のままであって、イエスはそこに輝いている、實在の實相なる中身だけを観じつづけられていたのである。それが全托の姿ともなってい給うたのである。

 「み心の天に成るが如く、地にも成らせ給え」 とイエスは祈り給うていたであろう。また、「わが意をなさんとにはあらず、み心のごとくならせ給え」 と祈り給うていたであろう。

 しかしながら、このお姿は、そこに既に成っている天なる栄光を観給い、自分は既になく、み心のみが渾(すべ)ての渾てであり給う上に立ってのお姿であり給うたのである。

 神なる栄光のみが渾ての渾てなのである。神の栄光のみ独在なのである。

 「この地上に、不幸、災難があるのは、誰れの罪によるのか」

 との問いに対しても、やはり、

 「誰の罪にも非ず、神の栄光あらわれんがためなり」

 と言い切っているのが、生長の家なのである。即ち聖経 『甘露の法雨』

  此の世界に犯されたる罪もなく
  報いらるべき罪もなきことを教えよ。

 となっているのであり、

  善のみ唯一の實在

 とうたわれているのである。(これは決して同慈同悲の自然な心を無視せよ、ということではないのである。同慈同悲の自然な心こそ観世音菩薩の観世音菩薩たる輝きなのであり、神の栄光そのものなのである)

 ここにおいて、神癒祈願申込者の名簿なるものは、観世音菩薩の名簿であり、尽十方無礙光如来の名簿であり、生長の家の大神の名簿であるということになっているのである。それはそのまま、神なる栄光そのものであるということになっているのであり、それを表現、祝福して、人型はただただ 『實相円満』 とだけ書かれているのである。そして、祈らせて頂くものの内なる神なる栄光が更に更に生長、展開せんがために、天降り給うた名簿であるということになっていると拝察させて頂けるということは何という光栄なることであろう。

 ただただ為すべきことは、神の栄光そのものなる 「實相円満」 をひたすら、一体となって讃え、悦ぶことにある、という想いがつよくなるのを憶(おぼ)えるのである。

 實相円満を観じ、憶念することが全托ということなのである。

 神は如何に観給うか。神はただただ神ご自身を観給うのみなのである。(1998.11.16)

196復興G:2013/12/14(土) 18:31:39 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百四十

 みずからにして、おのずからなるものとは、「現象無し」 と、捨てて捨てて、超えて超えて、死んで死んで、死に切って、はじめに帰って帰って、そして、その 「現象なし」 と捨てることも、超えることも、死に切ることも、はじめに帰ることも 「無し」 と超えて超えて超え切った 「無い」 と言えるすべてのすべてを 「無し」 として、神、仏、實相も 「無し」 として、その 「無し」 も 「無し」 としている、そこにそのままがあり、それがみずから、おのずからなのである。それが、實相なるもの、神なるもの、仏なるもの、創造するものなのである。

 そこにおのずからなる、みずからなる、そのままなる光明化運動なるものが久遠(くおん)を流れているのである。久遠なるものとしての生長の家人類光明化運動のすがたがそこにあるのである。

 みずから、おのずからなるものこそが創造であり、生長であり、唯一の善であり、価値なのである。自然(じねん)、法然(ほうねん)、天然(てんねん)なる光明化運動なるものの発進である。

 斯(か)くのごとき発進は久遠の発進なるものであり、「今」 なる発進なるものなのであり、すべてのすべてなる発進である。

 これは過去、現在、未来の流れの中の発進ではなく、「久遠」 なる、「今」 なる、「渾(すべ)ての渾て」 なる発進なのである。この渾ての渾てなるものが、みずからであり、おのずからなるものなのである。時空超脱の発進である。

 「発心(ほっしん)正しからざれば万行(ばんぎょう)空(むな)しく施す」 というよろこびの言葉はまことにも、みずから、おのずからなる発進、すべてのすべてなる発進の久遠なる実体がそこに鳴っている言葉なのである。

 五官の世界すなわち現象には、みずから、おのずからはないのである。それはすべて外より来たったものによって成り立っている、相対的にして、有限、局限なるものなのである。それは時間的にして、空間的なるものであるが故に、「久遠」 ではなく 「今」 ではなく、「渾ての渾て」 なるものでは有り得ないのであり、みずから、おのずからでは有り得ないのであり、そのままではないのである。

 みずからはおのずからなるが故に、相対を超えて 「在りて在る」 ものであるが故に、未だかつて崩れたることは無いのである。「今」 起った、みずから、おのずからそのものなる生長の家人類光明化運動なるもののまことのすがたがここにあるのである。

 「如意宝珠観(にょいほうじゅかん)」 に於いて 「欲(ほっ)するもの好ましきもの自(おのず)から集り来たり、欲せざるもの好ましからざるもの自(おのず)から去る」

 と観じ念ずる。この如意宝珠なるもののはたらきを称して、おのずからと言い、みずからと言うのである。おのずから、みずからがすべてのすべてであり、おのずから、みずからのみがあるのである。
 みずから、おのずからが神なのであり、天国なのであり、龍宮そのものなのである。

 去るも来るも、欲するも、欲しないも、好むも好まざるも、すべておのずから、みずからなのであり、神ばかり、光りばかり、善ばかりなのである。おのずから、みずからが、そのままであるから、「そのままは零(れい)なり、一切なり、○(まる)なり、」 と 「『生長の家』 信徒行持要目」 には「そのまま」について解説されているのである。

 みずから、おのずから、そのままの、如意なる運動が生長の家人類光明化運動なのである。(1998.11.17)

197復興G:2013/12/16(月) 14:32:00 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百四十一

 何ごとのおわしますかは解らないのであるが、「吾れ今、神癒(しんゆ)の社(やしろ)、無の門関に坐して、癒(いや)しなる、甦(よみがえ)りなる大いなるものの中にいることを感ずる」 という安らかにして安らかなる想いの湧くのを憶(おぼ)ゆるのである。たしかに神秘なるあるものの中に、吾れもまた神秘なる存在(もの)としてあることを嬉しく想い、座を解いて書きつけざるを得ないのである。

 祈願の申込者と偕(とも)に、すべてのものと偕にその大いなるものの中にいる、ということも書きつけておきたくなるのである。これは私の大いなる発進の基なるものを成していることを想うのである。

 「吾れはまた全宇宙という社(やしろ)すなわち神癒なるもの、甦りなるものの中にいる」 ということも想えるのであり、不思議な想いであるが、宇宙すべてとひとつとなって大いなるものの中にいると同時に、宇宙をすべてのすべてとして、大いなるものとして、その中に自分が抱(いだ)かれていることも想えるのである。そして、「これでよい」 という安らかなるものに満たされているのである。

 「祈願申込書に書いてある祈りの内容はすべて私が摂取する。ただ實相の円満完全を祈れ」

 という声を内にたしかに聴いたのである。そして、申込者と一体である相(すがた)において龍宮海に入り、龍宮に坐して本来の實相(じっそう)の姿を観ずることが浄まるということだと拝察しているのである。それ故に、入龍宮幽斎殿における神想観では、次のように念ずるのである。

 「吾ら現象界の妄想悉(ことごと)く浄められて本来の如意自在(にょいじざい)の實相顕(あら)わる」

 “吾ら” となっていることは却ってこの場合、一体のいのちということをあらわしているのである。それ故、つづいては、一体であることにおいての今度は 「吾れ」 となっているのである。すなわち

 「わが全身如意宝珠(にょいほうじゅ)なり、一切の宝、吾が掌中(しょうちゅう)にあり」

 と。この吾れはすべてとひとつなる吾れなのである。

 入龍宮幽斎殿(にゅうりゅうぐう ゆうさいでん)は 「神癒の社(やしろ)」 となっているのである。これは 「社」 なるものが癒しそのものであるということなのである。社の中に入る、ということは、ここにおいては癒しの中に入ること、甦(よみがえ)りの中に入ることを意味しているのである。そして宇宙全体が神なる癒しの中にあると同時に、宇宙全体もまた癒しそのものであり、吾れを包んでいるのである。

 この意味において、「世界平和の祈り」 の中の、神の愛が 「全地上を覆(おお)い」 というその蔽(おお)い具合の中身の安らかさ、いうことを想わざるを得ないのである。

 また、 「伊勢神宮の神前(しんぜん)に於ける神想観」 の中の

 「畏(かしこ)くも宇宙の大神イザナギの命(みこと)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相の世界にみそぎ祓(はら)いたまう。

 その宇宙浄化の御はたらき現われて住吉の大神となり給う。

 …………

 天照大御神われに流れ入り給いて、その愛の霊光燦然(れいこうさんぜん)として宇宙を照らしたまい、その光いよいよ輝きを増して全人類を引きつつみ、全地上既に愛と平和と地上天国を実現せり」

 という。これは結局、イザナギのミコトが全宇宙を蔽い給うていることをあらわしているのである。そのイザナギのミコトの御はたらきが 「神癒」 ということになっているのであった。

 宇宙の大神とは、宇宙が大神であり、大神が宇宙である。宇宙それ自体のみずから、おのずからなる、それがそれらしくある宇宙自体の甦りが、畏くも宇宙の大神イザナギのミコトの禊(みそ)ぎ祓(はら)いとして表現せられているのである。(1998.11.18)

198復興G:2013/12/25(水) 14:42:18 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百四十二

 神癒とは、生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚した時に、あらわれるよろこばしき何かであるということである。自性円満なるもの(神=實相)はみずからあらわれるということなのであれば、神癒とは、内より神が癒しなるものがみずから、おのずからあらわれて実現するものであるということなのである。

 例えば、神癒祈願の申込みにおいても、申込みたくなること、そのことが既に内より神があらわれられ、神癒なるものがみずから、おのずからあらわれて申込書を書いているということになっているのである。

 はじめからある神そのものであればこそ、人型の 「實相円満」 という言葉があるのである。「實相円満」 がみずからあらわれて申込書となっているということなのである。

 親鸞聖人(しんらんしょうにん)の 「信心よろこぶその人を如來とひとしと説き給う。大信心は佛性なり。佛性即ち如來なり」 という言葉は、このあたりのことを表現しているとも言えるであろう。神癒祈願の申込書を書いただけで病気が消えてしまって、お礼状だけが来るというようなことがあるのもまた、あるいはこのことの側面を教えているとも言えるのである。

 生長の家の人類光明化運動の出現は、宇宙的癒しの周期がめぐって来たことを意味していると言えるのである。宇宙の實相がみずから、おのずから顕れ給いて、生長の家人類光明化運動の出現となっているということである。

 ここにおいて、吾々は、二度三度、 「それを為し終ったのが生長の家だよ」 という声を聴くのであり、この 「為し終わり」 より発しているのが生長の家人類光明化運動なるものなのであることに、心を新たにしなければならないのである。

 そして 「こと完成せり」 「こと終われり」 の完全持続として、宇宙的自性円満の自己顕現のすがたとして、神癒なる光明化運動が實在していることを讃嘆し、拝みまつりたく 斯(か)く書かずにはいられないのである。

 斯く、繰り返し、繰り返し言いたくなるのは、生長の家人類光明化運動は神であり、實在そのものである、ということを讃嘆したい願いによるのである。

 生長の家人類光明化運動は實相そのものであって、實相と現象との中間あたりにあって實相を現象に持ち来たすための仲介の役目をする中有的な存在では決してあり得ないのである。

 神は暗(やみ)を知り給わず、悩みを知り給わないのである。それ故、神である生長の家人類光明化運動なるものは、暗を知らず、悩みを知らないのである。癒しそのものであり、甦(よみがえ)りそのものなのである。

 癒しと言えば、病悩を前提とした言葉のようであるが、 「神癒」 ということは、神である癒しなのであるから、この癒しとは、相対的なるものではなくして、神は絶対なるが如く 「神癒」 の癒なるものは、病悩に対する相対の癒しではなく、絶対の癒しそのものなのである。それはみずから、おのずからの新生そのものである、甦りというものなのである。

 それは、生長の家人類光明化運動と言えば、暗を光明化するという、相対の光明のように見えているままに、生長の家という言葉がついている以上は、神そのものであり、この光明も絶対の光明であり、相対の光明ではないということと同じように 「神癒」 もまた同じすがたなのである。(1998.11.19)

199「訊」:2014/12/17(水) 16:19:50 ID:???

『幸福をひらく鍵』55頁より謹写――

 都合が悪いときにも感謝できる者でないと本当に幸福な者になれないのである。誰でも順潮に事が運ぶような時には勇気が出るが、一つつまづくと勇気が無くなり勝(がち)である。順潮に事が運ばず困難が重なる時にも勇気を失わず、正念を失わず、前進する者が最後の勝者となるのである。
 「失敗」だと考える暇に、これが實相をあらわす「機会」だと考えよ。「病気」だと考える暇に、これが實相をあらわす「機会」だと考えよ。イエスはそのように教えたのである。即ち盲目の少年がイエスに近づいて来たときに「この少年が盲目にて生まれたのはこの少年の罪であるか、親の罪であるか」とたづねたときに、「本人の罪にもあらず、親の罪にも非ず、神の御業の顕れんがためである」とイエスは答えているのである。神の御業にて出来た世界が「實相」であるから、「神の御業の顕れんがため」とは「實相をあらわす好機会だ」という意味である。罪を見ないのがキリストの愛である。
 あなたの心の奥底ふかく湧き上がってくるところの願いは、既に「實相」に於て在るものが表現を求めて浮かび上がって来つつあるのである。だから、それは必ず実現すると信じて努力すれば必ず実現する。しかしその願いが実現した場合、他の人が不幸になったり、損害を受けたり、他の人への愛に背くような願いは、「我」の願いであって「實相」の底深く既に在るものではないのである。このような我の願いは必ずしも実現するものではない。

200「訊」:2014/12/17(水) 16:20:44 ID:???


『生命の實相』第三十八巻・8月23日頁より謹写――

 不満足さえも、またまことにありがたいことではある。不満足があるので、われわれは信仰に志し、真理に到達し、救われることができたのである。不満足に対してさえもわれらが感謝するとき、どこに真の「不満足」があるか、「不満足」と見えたのは「満足」の偽装であり仮面にすぎない。
 
 陰極陽転の理は昭々として明らかである。資源不足して人造の代用品いたるところに満ち、人知の進歩かえって増大する。不足は増大の本である。窮せずんば伸び、窮すればさらに伸びる。人はまことに伸びるしか知らぬ偉大なる存在である。 


『人類無罪宣言』133頁より謹写――

罪を解放する道

 罪がなぜその姿を現象界の不幸として、具象化して現わすかといいますと、罪それ自身がその存在を主張するためではないのであります。罪とは「実相を包みて顕わさざるもの」でありますから、理解の便宜上「包み」という字を当てはめて考えてください。「包み」が形にあらわしているのは、「包み」を開いて中の進物(実相)をただ「ありがとう」と受け取ってもらうためであって、「包み」そのもの「包装」そのものに執着してもらうためではありません。(中略)罪が形を顕わすのは、罪自身が自壊するためである。「包み」が形を顕わすのは「包み」自身がその結びのほどかれんがためである。病状が形をあらわすのは病自身が治らんためである。足が痺(しび)れたと気づく不快感は、足の痺れの治ろうとする時起こる――そのように罪が現象界に不幸としてその姿をあらわすのは罪それ自身が存在を主張するためではなく、「神の創造り給いし実相のあらわれんためである」といいうるのであります。
 
 以上の叙述で解明されましたごとく、「罪」が現実的不幸として客観化して現れるのは、罪自身がその存在権を主張するのではなく、神のみ業――すなわち神の創造り給いし完全なる実相のあらわれんためであるとしますと、「悔改める」すなわち心が「実相の方」へ完全に転回(コンヴァージョン)してしまいますと、さらに換言すれば「われ神の子なる実相」と「神の創造り給える実相浄土」とを直接体験で把握してしまいますと、罪はそのまま超越されてしまいまして、「包み」の模様はもう問題とならない。「包み」はその模様などに頓着なく解かれて捨てられてしまうのであります。

201「訊」 1:2014/12/18(木) 10:39:35 ID:???


『常楽への道』(吉田國太郎先生著)185頁より謹写――

◆ 幼な児のこころ

 生長の家では何でも思う通りになると申します。思う通りになると云われたら、『ハイそうですか思う通りになるのですか、有難うございます』、と受けたらそれでよいのです。それを、ただ思うだけでよいのだろうか、などと余計な分別の心をさしはさむ、これだけの一寸した気持の相違が、実は本当に思う通りになるか、ならないかの天と地の岐(わか)れ路になってまいるのであります。

202「訊」 2:2014/12/18(木) 10:41:04 ID:???

 ある日、福田さんが何でも思う通りになると云う話をしておりますと集りの中にいた、村田宗一さんと云われます方が、『先生思うだけでよいのですか、思う位ならば私にだって思える』と云うのだそうです。『本当に思うだけでよいのですね。思う位ならば、皆さん、それ位出来るではありませんか。自分は神の子必ず幸福になる、それだけでよいのですね。これ位ならば出來るじゃありませんか。さあ皆さん思いましょうよ』と申したそうです。(笑声)実際涙が出るほど、澄み切った素直さだと思うのです。先程導かれる者として及第することだけが大切だと申しましたが、これは完全にそこが及第しております。重味があります。その村上さんは永い間の風邪なのですが思えばよいと云われた通り、風邪は無いと思っていたら、そういう意味のことを思っていたら、その風邪が治ってしまったのです。御教を受けさえすればそこに結果がちゃんと現れる。だから力を入れずに、努力もせずに、本当に七つの灯台の点灯者の御言葉の開かれている、その中へすっと私達は入って行ったら、力を入れず努力もせず自分がすっかり変わってしまう。生長の家はそう云う救いであります。自力で励んで苦しみもだえて、やっと救われる救いではない。こちらの力の要らない救いであります。ここが生長の家の真面目であります。その辺には塩田が多く、村上さんは、塩浜の浜子と云う仕事をして居られた。浜子と云うのはどんな仕事か存じませんが、農村の小作人か、あるいは使用人の様な立場に当られるのかと思います。ある日、この村上さんが奥さんの代りに八百屋さんへ買物に行きますと、店頭に松茸がならべられてある。如何にもその松茸が美味しそうなので買って帰りたいと思われたのですが、値段が如何にも高い。これは駄目だと断念して帰られたのですが、その時、思う通りになると云う生長の家の話を思い出されて、松茸は食べられる松茸は食べられると思っていたそうです。何でも無いことですが素直にすーっとそのまま行じた処が尊いと思います。つまり御教の中に融(と)けこんだのですね。するとその翌々日とか翌々々日とか云いましたが、久しぶりに訪ねて来た友人がこれはお土産だと云って放り出したものを開けてみると、それが松茸なのです。やはり思う通りになったのです。それから思う通りになることがぼつぼつ出て来る。あまり有難いので鎮守さまにもお礼詣りに行ったのです。もう霜の来る頃の事でして、鎮守様の鳥居の前に一本の柿の木があって、真赤にすき透る程に熟した一箇の柿が梢についていて、実に美味そうな色をしている。それをみた時に、あれを食べたいなあと思われたそうです。しかし落したらべしゃんこにつぶれてしまうしと思って参詣を済ませて帰って来て、柿を仰いだ時に、又食べたいなあと思ったそうです。

203「訊」 3(終):2014/12/18(木) 10:41:48 ID:???

 しかし手がとどかない。落とせばつぶれてしまう。これは少々無理な願だと思って帰りかけたのですが、その時、そうそう思う通りになるのだったと思い出して、その柿を眺めながら、これは食べられるのだと思われたそうです。その状景を思い、柿の木の下でこの柿は食べられるのだと、素直に念じている村上さんの姿に何とも云えない尊い光がみえる様な気がするのであります。こういうことを馬鹿馬鹿しいとか、薄ッぺらだなどと思わないことです。そんなこと余り馬鹿馬鹿しいとか、お伽噺じみているとかそんな風に思う心が自分を殺してしまうのであります。村上さんはそんな風には思わなかった。そこが偉いところです。食べられるのだと思い、思う通りになると思って、四五歩歩いていきますと、その柿の木の下にせまい溝があってそこを綺麗な水がさらさらと流れているのですが、素直にいまのように思って四五歩歩いた時に後でバシャッと音がした。ひょっと振返っていたら、その熟柿が水の中へ落ちて(笑声)水の中を流れている。それを拾いあげた。その時に村上さんの心に何でも思う通りになると云う心がサーッと入って来て、強い強い信念となったのであります。そして今迄にない信念のこもった心で、力強く何でも思う通りになるぞと思ったのです。思う通りになるのだと云われたら、そんな気がしてもしなくても、思う通りになるのだと、一応乗って行ってみたらちゃんとこうした信念に入ったのです。素直な心根に神のはからいが自然と与えられて、こうなってきたのであります。その時村上さんはようし何でも思う通りになるのだ、俺はいつ迄も浜子ではいない、必ず浜親方になるのだと信念を固めたのであります。そして自分の信じた通り遂にこの村上さんは浜親方になりまして、西伯方村北浦の二番浜と云う浜を自分のものとしたのであります。ところが二番浜という浜は今まで扱った人が誰も成績をあげたことがない。しかし、俺はこの浜でも必ずよい成績をあげる、欠損などはしない、と云う信念で通しました処が、今まで三番塩も取れないようなところから一番塩ばかりが採れるようになった、と云うのであります。本当にこの世界は心ばかりが生きている世界で物質と云うものは無い世界であって心の内容通り、その通りに現われてくるのであります。

 この体験談でも証明されているように御教の中へすーっと自分を入れて行く、後は神が好いようにして下さいます。

<了>

211「訊」:2014/12/18(木) 14:37:55 ID:???

 思わしくないのは貴殿のメンタルであって、私の方はなんともございません。ですんで、

>>>4年経っても神がよくしてくれない人は単なる能書きマンの証明して
るのでしょうか?<<<

 とは、意味がわかりませんね。

 以上です。

 あとこちらは「WEB誌友会用の資料」を、確認するための場所です。痴呆症である点を考慮し「後日の削除要請」と致しましょう。

 それでは、がんばってください。

221神の子さん:2014/12/19(金) 19:22:57 ID:BSasglMk
web誌友会参考文献板 と云うんだよねここは 昨日は専用版に嵐に入るし、今日は此処だ

やはり名の通り どこかしこ関係なく鬱憤晴らす、「本流派」スポンサー トンチンカン あらし

またまた嘘つきトキ&訊けが喜んでいるよ

227トンチンカン:2014/12/19(金) 19:38:34 ID:r6TJQSCM

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221 :神の子さん :2014/12/19(金) 19:22:57 ID:BSasglMkweb

誌友会参考文献板 と云うんだよねここは 昨日は専用版に嵐に入るし、今日は此処だ
やはり名の通り どこかしこ関係なく鬱憤晴らす、「本流派」スポンサー トンチンカン
 あらし
またまた嘘つきトキ&訊けが喜んでいるよ
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


・「どこかしこ関係なく鬱憤晴らしている」のは、<曳馬野お爺さん>の方ですよ!!


・八方破れの <八つ当たり> なのですよね、、、 マサノブ爺さん・・・

228トンチンカン:2014/12/19(金) 19:44:20 ID:r6TJQSCM

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『総裁追放』というコトバに ピリピリ している、マサノブ爺さん・・
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・講習会の「受講者数」の、減少に次ぐ減少・・


・マサノブ爺さんを非難する「外部組織」の、急激な拡大・・


・「教団組織」から「外部組織」への、「信徒達の流出」が止まらないばかりか、尚一層
 加速してきたのであります・・


・マサノブ爺さんに迫り来る『総裁追放』の声を、今までのように <無視> 出来なく
 なってきたのであります。


・独裁者としての強がりを演じてはおりますが、「小心者のマサノブ爺さん」にとっては、
 内心 ビクビク しているのです、、、 居ても立ってもおられないのであります。


・「人間智」の限界に来ているのであります・・・




(参考) web誌友会参考文献板
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213 :神の子さん :2014/12/19(金) 18:42:43 ID:pF4uezM2

只今 訊けさん推薦で広報活動に参っています 耳触りのいい話で釣っておいて 実はこ
こだけの話ですが 版が荒れ 教団と本流両方にダメージを与えて 漁夫の利を狙ってい
るのよ 私たち嘘つきトキ&訊けは

この最後のところは 雅宣総裁が承知で、訊けとして出てきているか、知らないとすれば、
総裁追放を狙いその後の教団でおいしい目を見ようとする奸臣でしょう。訊けのすること
を100%肯定するトキの態度が解せない
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229るん吉:2014/12/20(土) 07:38:16 ID:p..UGkhA
復興G様

何と膨大な量の御文章!!こんな大変な作業をして下さって
ホントにほんとに有難うございます。
保存させて頂きました。外に出たときでも、いつでも見れるように印刷しておきます。

有難うございます。大事にします!!

230るん吉:2014/12/20(土) 08:27:40 ID:p..UGkhA
訊けさん

読ませて頂きました。
また、お邪魔しますね。ブログ。そいで、また保存させてもらおうっと。
有難うございまーす。

231「訊」:2014/12/20(土) 08:53:20 ID:???

>>るん吉

 作戦成功です。るん吉みたいな人が現れてくれるのが、私の目的でした。復興Gさまの御文章が過去送りではもったいなかったので、曳馬野サマにご協力頂いたのです。(曳馬野サマは私が書くとドンドン、そのスレを上げてくださる有難い方です)

 素晴らしい御文章ですんで、一緒に読みましょうね。また、ご協力頂いた曳馬野サマには、深甚なる謝意を表し挨拶とさせて頂きます。



244トンチンカン:2014/12/20(土) 20:23:13 ID:r6TJQSCM


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   嵐吹く  荒れる大地に  意地張るも

                 爺さん一人じゃ  踏ん張れぬ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



・また始まったのかい?  マサノブ爺さん・・・


・「アラシ」していて、楽しいのかい?  マサノブ爺さん・・・


・空(むな)しいね〜〜〜  マサノブ爺さん・・・

245神の子さん:2014/12/20(土) 20:29:52 ID:y7odNOw2
>>るん吉

 作戦成功です。るん吉みたいな人が現れてくれるのが、私の目的でした。復興Gさまの御文章が過去送りではもったいなかったので、曳馬野サマにご協力頂いたのです。
(曳馬野サマは私が書くとドンドン、そのスレを上げてくださる有難い方です)

>>199 までは誰も荒していない それを引っ張り出してわざと荒れる版に仕向けた この嘘つきトキ&訊けの狡猾さを見よ 
過去送りではもったいないからと うまくるん吉さんをひっかけて 掲示板運営の目的を隠したわけだ

嘘つきトキ&訊け は 一人二役で雅宣総裁なのかな〜  一人二役で雅宣総裁なのかな〜  一人二役で雅宣総裁なのかな〜

246神の子さん:2014/12/20(土) 20:34:36 ID:UYKi0.kA
ばかだねーとんちししょう

あんたの書くのは、彼らの目的にかなっているから消さないの

私のは都合が悪いからすぐ消すの

この違いも解らないおバカさん

と云いつつ嘘つきトキ&訊けに協力してるんだけどね

247「訊」:2014/12/25(木) 08:42:42 ID:???

『幸福の原理』127頁より謹写――

 歯痛というものが、現に存在すると自分に感じられる場合に、「歯痛は存在しない」と本当にパッと心を三百六十度回転して、「歯痛なき世界」にするりと這入り得る人はいいけれども、そうでない人には「自分は病気でないことを欲する。自分は病気のないことを欲する。自分は病気を断じて放逐する」とこう大声に叫ぶことも一つの方法であることは前に述べた通りであります。しかしこれは最高のやり方ではない。第二善のやり方であります。第一義諦の真理は「病気本来無し」でありますけれども、現象の相に執われている人には病気なしと考えられないものですから、「私は病気の〝ない〟ことを欲する。自分は神から完全なる自由を与えられているのである。だから、病気を放逐する権利がある。自分は断じてそれを放逐する!」こう心に、又は言葉に唱えることは合理的に感じられるものですから、不合理だと思いながら念じることよりも、合理的だと信じながら念ずる方が、その思念が実現し易いので「病気無し」と信じられない人はこう念じて、これによって病気は完全に放逐されつつあると信ずれば好いのであります。兎も角、吾々の心の世界にある業というものは、形に現われたら消えて行くのであります。それは丁度、時計のネジを廻して置くと、その時計がチンチンチンと時鐘を打つ音を出し、感覚に触れる姿となって現われる毎に、そのゼンマイに潜在する業の力は消えて行きつつあるのであります。それで何日間も度々チンチンチンと鳴ったら、その時計は新しくゼンマイを巻き返さない限り、音を立てなくなるのであります。それと同じく、吾々が心の世界で、例えば腹が立って、ブツブツ言いたくなる。口惜しい、残念だ、と思っていると、そのブツブツがおできになったり、蕁麻疹が出て来たり、口惜しい、残念な思いが、神経痛や、胃痙攣や、いろいろの慢性病になってあらわれてくる。そのあらわれるのは業の力が消えて行きつつあるのです。併し、その時、業のゼンマイを新たに巻き直したらどうなるでありましょう。ゼンマイを新たに巻くとは、新たにブツブツの心を起こす。「こんな病気になってつまらない」とブツブツの心を起こす。「こんなに病気をしているのに、誰も深切にしてくれない、口惜しい」と「口惜しい、残念だ」の業を起こす。こんなに毎度ゼンマイを巻き直したら、幾らチンチンと時鐘が鳴っても、ゼンマイの力は無くなりませぬ。そこで業を消す道は、悪いことが形に現われたら、「ああ有難うございます」とその儘素直に受けることであります。俗に「病気が出る」と申しますが、まことによく請ったものでありまして、病気は業が出て行くのですから、有難いわけであります。病気が入るのだったら可(い)かぬでしょうが、病気が出たのなら「ああ有難うございます」とこう思って、消えて行きつつある病気に感謝すれば好いのであります。感謝致しますと、感謝の心は一番素直な心、そのまますっと受ける心でありますから、反動を伴わないで、エネルギーがそのままそこに止まってしまうのであります。・・・(中略)・・・すっとそれを受けとって反抗しないのであります。「ハイ、有難うございます」の精神であります。そのまま素直の精神で受けないで、「苦しい、痛い」と反抗的に受ければ、業は消えないで、益々増えるばかりであります。ですからその儘に受けるのですね。そのままに受けたら、ボールは手を痛くならせない。病気もそのまま受けたら、病気が断じて苦痛でなしに、業が消えてしまうということになるのであります。

<了>

249曳馬野:2014/12/25(木) 17:52:48 ID:PbwQ2xXs

曳馬野様

 私は、あなたが総裁でないと思っています。それは繰り返して申し上げます。

 それより、総裁を援護する人が、アラシ投稿を繰り返すと、結果として、総裁にも多大なご迷惑がかかります。

 以後、アラシ投稿はご遠慮願います。
****************************************************************************************************************

『トンチンカン』に誰々は「マサノブ爺さん」と云うカキコは止めて下さいと云い、従わなければ書き込み禁止をせよ

あらぬ事に引っ掛けて非難中傷しているだけ、これをアラシト云わずして何という

250トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/04/16(木) 22:10:13 ID:fRQPK2Kc
 ここで私が読者諸賢に申し上げたいのは、真理はそれが真理だから貴いのであって、
お経にあるから貴いのでもなく、誰々が語ったから貴いのでもないということである。
宗教的真理の悟りは、学究的研究や、典拠の渉猟とは何の関係もないことである。

 天理教祖は「学者とさとき者には隠し給う」というような意味をいっておられ、
アダムとイヴとは「知識の樹の実」を食したためにエデンの楽園から追放されて
いるのである。色々の聖句を寄集めて楽しむことは、良い趣味ではあるけれど、
一種の高級な蒐集癖にすぎないのである。

「新版 女の生き甲斐」 谷口雅春先生著、248p より謹写

251トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/04/16(木) 22:12:38 ID:fRQPK2Kc
*以下はトキの感想です。

web誌友会で、真理を知ることの大切さを学んでおりますが、
大事なのは知識の量でなく、信仰の深さなのですね。

 本日、この部分を拝読し、感じたので、書きました。

合掌 ありがとうございます

252a hope:2015/07/03(金) 10:10:26 ID:brQxC10.

Web誌友会板 >5596 の補足です
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/5596


「生命の實相」第23巻 p114 3行目〜

谷口――ご質問は「実相人間」と「肉体人間」を混同して、「肉体人間の知恵はなぜ不完全で真理がわからぬのであるか?」と言っていられるので、いつまで経っても正当な回答ができぬのであります。

釈迦は『法句経』において「怨み心ではいつまでも怨みは解けぬ」と申されましたそのように「肉体人間の迷いの心ではいつまでも迷いは解けぬ」のであります。

「肉体人間」は本来存在しないのであります。(本来存在しないから、やがて崩壊するのであります)

存在しないものが不完全であるのは当然であって、ただ完全なるもののみが存在するのであります。

存在しないものが「存在するもの」を理解しえないのは当然であります。

あなたは「なにゆえに完全なるべき神の子『人間』がその実相を直観できないのであるか」と言っておられますが、完全なるべき神の子たる「実相人間」は、その実相を直観するもしないもない、すでに完全なのだから問題はないのであります。


この辺の消息は議論をもって押し進めても「肉体人間の知恵」にわかるはずはないのであります。

ただ「肉体人間の知恵」(迷い)を淡(うす)くすることによって、霧が破れて日光の輝き出(い)ずるがごとく、肉体人間にも実相智の光線が射しはじめるのです。

この「虚」の暗(やみ)を破って実相智の光線の射しはじめることを、「直観」によって、実相人間の完全さを知る」というのであります。


肉体人間の知恵は「暗(やみ)」のようなもので、実相人間は「光」のようなものであります。

「暗(やみ)」はそれを淡(うす)くすることによって光の存在を知るのであります。

「暗(やみ)の無知無明はなぜあるかと」とあなたは論議されますが、暗(やみ)とは「光の虚(きょ)」であります。

「光の虚」が光を知らないのは当然であります。

光を知ればもう「光の虚」(暗)ではないのであります。

だから「光の虚」なる人間知は真理を知らないのは当然であります。

あなたは「肉体人間が聖典を読んで、実相人間を知る」と言われますが、「肉体人間」が聖典を読むのは、本来無いところの我見(肉体人間の知恵――迷い)を捨てるためで、「肉体人間の知恵」がなくなれば、ひとりでに内在の光が発現してきて、「本来の実相」が輝く。

これは「肉体人間が聖典を読んだので実相人間を知った」のではなくて、肉体人間(光の虚)がそれだけ減ったので実相が輝き出したであります。

肉体人間の知恵、はからいをいっさい捨てるほど実相人間があらわれるので、「肉体人間が実相人間を自覚する」などということは「迷いが悟りを自覚する」などという言葉と同様で、ありえないことなのです。

253a hope:2015/07/03(金) 10:14:10 ID:cEpBaIdo

>>252 a hope所感)

雅宣先生は、「自分のコトバは神のコトバではない」という内容をブログで公言されています。
(出典がなくすみませんが、このことは有名ですよね)

ということは雅宣先生は、ご自分の書かれた文章、つまり讃歌、祈りの言葉等はすべて人間知で書いたと、
ご自分自身でお認めになっているのです。

上の参考文献の中に、
<<だから「光の虚」なる人間知は真理を知らないのは当然であります。>>

とありますが、この『人間知は真理を知らない』という聖典の言葉は真理ですから、
そうすると「人間知で書かれた雅宣先生のコトバは真理ではない」ということになりますよね?

つまり、聖典「生命の實相」の真理によれば、雅宣先生の祈りの言葉、お経等は本来無い「光の虚」つまり、「虚説」であり、
それをご本人が認めてしまっておられるのです。

聖経 聖典などの、「聖」という言葉がつく文章は、神のコトバであり、「光」であり、
一方、人間知で書かれた「経」「祈りの言葉」などは本来無い「暗(やみ)」であり、虚説なのですから、
わたしたち「生長の家」の信徒は「虚説」には和解してはいけないということになるのだと思います。

だって、「虚説」に和解したら、とうぜん「迷い」ますものね。

みなさま、神のコトバである聖典をもっともっと拝読して、虚説は排撃していきましょう!

254神の子さん:2015/07/03(金) 12:33:12 ID:kEnG6jMo
250 251 をそのまま差し上げます

真理はそれが真理だから貴いのであって、お経にあるから貴いのでもなく、誰々が語ったから貴いのでもないということである。

255Sue:2016/02/04(木) 05:51:45 ID:ijlEEPpo
復興G さん  よろしければ もっと 投稿お願いします。

256志恩:2016/02/04(木) 06:38:06 ID:6hRUvSRg
254 の ID:kEnG6jMoさんは、曵馬野様ですよ。過去に 曵馬野様は、このIDで 何度も ご投稿されてます。

257神の子さん:2016/02/04(木) 08:27:19 ID:P0aFguZs
>>256志恩さん 早とちりじゃないかね  >>255のSueさんは復興Gさんに書いて欲しいといっているだけかもよ

ついでに書いておこう

 だから「光の虚」なる人間知は真理を知らないのは当然であります。・・・生命の実相

 この『人間知は真理を知らない』という聖典の言葉は真理ですから、そうすると「人間知で書かれた雅宣先生のコトバは真理ではない」ということになりますよね?・・・a hopeさん

こう判断したのは肉体人間の a hope さんじゃないのかな

 
ここで私が読者諸賢に申し上げたいのは、真理はそれが真理だから貴いのであって、お経にあるから貴いのでもなく、誰々が語ったから貴いのでもないということである。・・・「新版 女の生き甲斐」 

 お経にあるから貴い(生命の実相、聖経と云われるもの)誰々が語ったから貴い(雅春先生、神)のでもないということである。とも読めますね。

258神の子さん:2016/02/04(木) 08:43:44 ID:P0aFguZs
「肉体人間の迷いの心ではいつまでも迷いは解けぬ」のであります。

「肉体人間」は本来存在しないのであります。存在しないものが不完全であるのは当然であって、ただ完全なるもののみが存在するのであります。
「光の虚」なる人間知は真理を知らないのは当然であります。


生長の家に触れ始めたころの肉体人間の迷い心と、此処で色々利口に語っている真理を知っているという心、は同じものではありませんか?

ただ完全なるもののみが存在するのであります。に成っている人はいないと思われますが。

259トンチンカン:2016/02/04(木) 08:55:25 ID:z9V4A.MQ

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「曳馬野」爺さんが、「神の子さん」で出てくる理由は・・・

 ID:kEnG6jMo = 「曳馬野」
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(参考) 本流対策室/6
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410 :曳馬野 :2015/06/15(月) 19:46:45 ID:kEnG6jMo

あれっ、アレッ、、もう恥ずかしくなって?  また『神の子さん』で出てきたの・・


あなたのように誰が言ったからどうこうだ、と云うように先入観相携えてしかものを考えられない人間に対して、名無しで書くんだよ、文の意味だけを考えられるようにね。それを態々余分な想像ばかりして考える、救いようがないね
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260神の子さん:2016/02/04(木) 08:56:26 ID:P0aFguZs
もっと簡単に言えば

「こうしたらよいとか真理の言葉に従えばいい」とか考えるのはそうすればもっとよくなると云っているのでしょう?

「存在しないものが不完全であるのは当然であって、ただ完全なるもののみが存在するのであります。」の生命の実相の言葉で言えば不完全を自認している心です。

 完全なるものがこうすればもっとよくなるなんて考えますか?

此処でもっともらしいことを言っている心はどんな心でしょうか?

261トキ ◆UMw6UoGELo:2016/02/04(木) 10:03:25 ID:3u7tF7hI
 すみませんが、板の趣旨と違う投稿はご遠慮してください。
よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

262神の子さん:2016/02/04(木) 10:34:25 ID:P0aFguZs
a hope さんが自分の感想を書いていても何も言わずに、私がそれへの感想を書くと関係ないものとなるのですね。

面白い言い分です。本当に関係ないのは>>259みたいなのではないのかな。

263神の子さん:2016/02/04(木) 10:34:55 ID:P0aFguZs
a hope さんが自分の感想を書いていても何も言わずに、私がそれへの感想を書くと関係ないものとなるのですね。

面白い言い分です。本当に関係ないのは>>259みたいなのではないのかな。

264a hope:2016/02/05(金) 01:11:23 ID:cEpBaIdo

web誌友会板でも紹介させていただきましたが、最近、雅宣先生がFBで、短いお言葉をたくさん紹介してくださっています。

>>6095 に紹介させていただいた3つは、とても率直な祈りだったので感動しました。


ですが、正直に感想を言わせていただければ、他の多くのお言葉はわたしの魂にはまったく響いてきません。

その理由ですが、そのお言葉の内容が現象や肉体を認めてしまっている二元論だからなんだと思います。



「有限の現象世界には、無限なる神は存在しない。しかし、神そのものは存在しなくとも、“神の痕跡”はあらゆるところに満ち溢れている。」(雅宣先生)

は、本来の唯神実相の生長の家の教えなら、

「有限の現象世界など本来無い、無限なる神(実相)しかない。神しか存在しないので、すべての物には神が満ち溢れている」

となるのではないでしょうか?

また、

「私は内に無限を蔵しているから、有限な肉体をもちながらも、その肉体で捉えた世界の奥に無限を感じることができるのである。」(雅宣先生)

は、本来の生長の家の教えなら、

「私は神の子であり、有限な肉体などではないのだから、 常に無限を感じることができるのである」

となりませんか?


ご意見、反論をお待ちしていますm(__)m

265a hope:2016/02/05(金) 07:39:52 ID:cEpBaIdo

「神は悪を創り給わず。悪は妄想の産物であり実在でないから、私はそれに執着せず、攻撃せず、戦いません。」(雅宣先生)

本来の生長の家の教えでは、

「神は悪を創り給わず。実相世界は善一元である。
だから実相世界の投影である現象世界において『悪』と見えることも、本来は『悪』ではないのである。
現象世界でのすべての出来事は自分にとって魂を磨くための大切な経験ですから、すべてに感謝して善処します。」


となりませんか?


わたしは、「神の子として生きる」ということは、現象世界の『悪』と見える出来事を見て見ぬふりをすることでは決してないと思います。

268a hope:2016/02/05(金) 08:03:26 ID:cEpBaIdo
>>266志恩さま

さっそくのご意見をありがとうございます!

>>267
<<元教団の幹部や講師でいらした本流の先生方のご意見も伺いたいですね。>>

同感です。

どうぞよろしくお願いいたしますm(__)m

270a hope:2016/02/05(金) 08:09:59 ID:cEpBaIdo

本流の先生方だけではなくて、「生命の實相」を拝読している「生長の家」の信徒さんのご意見ならどなたのご意見でも大歓迎です。

ただし、ここは「生命の實相」の真理を学ぶweb誌友会の参考文献板ですから、
「生命の實相」を拝読していない方のご意見はご遠慮願います。

272志恩:2016/02/05(金) 08:35:07 ID:6hRUvSRg
a hope様

うっかりしていましたが、ここは、web誌友会参考文献板でした。

シャンソンさんから、そう御指摘がございましたので、気がつきました。
それで、
会話部分の・・266〜271は、本流対策室板の方へ移動しましたので、よろしくお願いします。

273a hope:2016/02/05(金) 08:35:43 ID:cEpBaIdo
>>271 志恩さま 

②は、雅春先生のお言葉ではありません(;'∀')

a hopeが、雅宣先生のお言葉を、「実相一元」風にアレンジしたものです。

わたしは、①の雅宣先生のお言葉は、「悪を実在でない」と表現しながらも、「悪」の存在を認めてしまっている二元論だと感じます。

今日は、これから仕事なのでこれ以上書き込みはできません。

夜、戻ります。

275a hope:2016/02/07(日) 00:02:07 ID:cEpBaIdo

「無限なる「神」というイメージは、神自身が私の心に植えつけられたものです。私はそれに感謝し、さらに大きく育て、表現してまいります。」(雅宣先生のFBより)

本当に『無限なる「神」のイメージを育て、それを表現していくこと』がわたしたち「生長の家」の信徒の使命なのでしょうか?
わたしは、雅宣先生のこのような難解なお言葉を拝読するたびに、すごく混乱してしまいますが、みなさんはいかがですか?

どうして、「私は神の子です。私はそのことに感謝し、神の子らしく生活します。(a hope)」ともっと「生長の家の教え」らしいわかりやすい表現でご教示くださらないのでしょう…。

ところで、

<<このスレッドは、同じ掲示板の「web誌友会」の参考になるような聖典やご高弟様の誤文章を紹介するための専門の板です。
原則として、web誌友会の指導講師や司会の方以外の方の投稿はご遠慮下さい。
どうしても投稿を希望される場合は、事前に、場合によっては事後に、講師、司会または管理人の許可を得て下さい。
許可のない投稿は、他の適当な板へ移します。>>

とこのスレッドの一番最初にトキさまが書いて下さってあります。

わたしは、現生長の家総裁であり、法灯継承者である雅宣先生のこのようなご思想が、
本来の「生長の家の教え」、つまり「生命の實相」の真理であるとはどうしても思えないのです。
また、従来の「教え」を現代風にアレンジされたものだとも思えません。
ですから、今回、このスレッドでそのわたしの疑問をぶつけさせていただきました。

本流関係の先生方、また生長の家の講師の方、ご指導をどうぞよろしくお願いいたします。

277a hope:2016/02/13(土) 09:03:39 ID:cEpBaIdo

『悪とは善の非存在、または不足である。だから悪を語っても善は生まれない。私たちはもっと善を語り、表現する努力を続けなければならない。』(雅宣先生のFBより)


上の雅宣先生の善悪二元論を、生長の家の「実相一元」風に言いかえると、


『悪なし。だから語る悪もなし。「生命の実相」を悟れば、おのずと善一元の世界が現れるのである。』( a hope)


となりませんでしょうか?


現象世界で「悪」とみなされることや「善」とみなされることは、その時代やその国の風習で大きく異なります。


例えば、かつての日本では、切腹(自殺)が美徳とされていた時代があります。
ですが、現代においては、社会的にも、信仰的にも、自殺は決して「善」ではありませんよね?

また、あるカルト宗教の教祖は、殺人をも「善」とみなしていたからこそ、平然と信者に殺人を指示できたのだと思います。


肉食はどうでしょうか? 原発はどうでしょうか? 集団的自衛権の行使はどうでしょうか?北朝鮮問題はどうでしょうか?


何が「善」であるかを語るのはいいとしても、一成人が自己判断を放棄して、他人の「善」「悪」の判断に依存して行動するのはとても危険だと感じています。

谷口雅春先生は「生命の實相」の中で、『外の何かに依存せず、自分の中の神(実相)を信じなさい』と教えてくださっています。

わたしは、毎日「生命の實相」を拝読し、神想観をしていれば、わたしたちはしぜんにまことの善行がなせるようになるのだと心から信じています。

278曳馬野:2016/02/13(土) 12:00:46 ID:WCwkcPdg
『悪とは善の非存在、または不足である。だから悪を語っても善は生まれない。私たちはもっと善を語り、表現する努力を続けなければならない。』(雅宣先生のFBより)『悪なし。だから語る悪もなし。「生命の実相」を悟れば、おのずと善一元の世界が現れるのである。』( a hope)   あなたが感想というか真理を語っていないという総裁の言葉を取り上げるから私も述べます


八月六日 娑婆即寂光土と悟る日 けれども生長の家は世界には何ら非道なことは存在しないというのである。それは存在するものは「道」ばかりであるから、それが少なくとも存在する限りはそれは「善」であり、それが「善」でない限りに於いて、それは如何に存在するように見えようとも、それは「非道」即ち「道の欠乏」「道の無」をあらわしているに過ぎないとするのである。・・・凡て心の眼を開いてみれば「悪」なるものは存在しない。これ第一にして最後の真理てある。

これは吉田国太郎講師が現象実相の二元論に落ちていたところを救ってくれた言葉であるそうです。これの言い替えたものが総裁の言葉でしょう。こんな言葉もある。「神のなかには不幸はない。不幸は神が完全に表現されていないからある。」

八月十日 善き言葉のみ使う日 「現象世界を善くするには言葉を善くせよ。万物はその言葉の通りになる。」生命の実相六巻  『全ての人間の中には「自分」の念が映っている。彼が善であり、悪であるかは、皆「自分」の念の鏡である。・・・私の責任ではないなどと云うのは、三界唯心の真理を撥無するものである。凡そ三界唯心の真理は『類は類を呼ぶ』の真理を伴うものなのである。・・・かくの如くして・・・自分の念の展開であるがゆえに、ただ「有難く受ける」ことである。』

悪なし。だから語る悪もなし。は言葉としてはそうなんですが、あなた自身が総裁を悪として語っていることに気が付いていない。「生命の実相」を悟れば、おのずと善一元の世界が現れるのである。は、自称本流の本部講師級の方々が私たちの真理の体得の方が正しいと「生命の実相」の真理を判定できるほどに、悟っているのに10年経っても善一元の世界は顕れていない。これは総裁の「だから悪を語っても善は生まれない。私たちはもっと善を語り、表現する努力を続けなければならない。」を実践していないからではないでしょうか。

彼らにしてそうですから、あなたの悟りを待つのでは何時のことやら。

『人の悪を咎めるよりも、自己が俱に泣くの愛の欠乏していることを恥じよ。「愛」の中にこそ聖泉がある。それは智慧が如何にきり開いても発見することの出来ないところの聖泉である。その聖泉に身をひたすとき、一切の不完全は癒やされるのである。』『人の悪を指摘して改心せしめようとする場合には腹立った聲、憎む表情、そんなものを伴うならばこれを指摘しない方がよい。』との雅春先生の言葉もある。

279a hope:2016/02/14(日) 19:21:48 ID:cEpBaIdo

>>278 曳馬野さま

「聖典」等の文章を引用をされるときは、出典、著者を明記してください。
よろしくお願いいたします。

280a hope:2016/02/21(日) 09:33:35 ID:cEpBaIdo

『死は死にあらず、生の始まりである。腐敗は腐敗にあらず、豊饒の母である。病は病にあらず、生命の方向転換である。挫折は挫折にあらず、新たな機会の到来である』(雅宣先生のFBより)

「生命の実相(不生不滅?)」風に↓

『死なし、生命は生きとおしである。 肉体なし、腐敗なし 病なしが「生命の実相」である。挫折なし、人生は希望に満ちている』(a hope)



『命あるもののみが命を感じ、知恵あるもののみが知恵を感じ、愛あるもののみが愛を感じるのである。』(雅宣先生のFBより)

「唯神実相」風に↓

『人間はみな神の子だ、全てを生かし、すべてを知り、すべてを愛す。』(a hope)



『外界は内界の映しである。自然の営みの中に神の無限の知恵と愛と生命を感じる者は、その知恵と、愛と、生命力とを内部に包蔵しているのである』(雅宣先生のFBより)

↑理解不能です。



『一の拡大でなく、多の共存が美しいのである。単一性でなく多様性が美しいのである。自然界は多様であるから美しく、宇宙も多様であるから美しい。』(雅宣先生のFBより)

↑理解不能です。



『人生の「+」の時には「ー」の人がいることを思い、余剰分を他に与えよう。人生が「ー」に転じた時は、すでにある「+」に感謝し、さらに他に与えよう。』(雅宣先生のFBより)

「善一元」風に↓

『人生に「-」なし。すべての経験に感謝して魂を生長させるのが「生長の家の教え」である』(a hope)


『善とは、一つの個体が他を征服して伸び広がることではなく、個体と個体とが扶け合いながら共存し、全体の多様性が増すことである。』(雅宣先生のFBより)

↑理解不能です。



『常住不変、常に一定の結果を生むものを「真」という。神は真なり。泣きついて御心を曲げようと思うな。人間の側が神の御心に近づくことだ。』(雅宣先生のFBより)

「唯神実相」風に↓

『神は「真」なり。神の子も「真」なり。人間の実相は神そのものである』(a hope)

281a hope:2016/02/21(日) 09:35:03 ID:cEpBaIdo
>>280

雅宣先生のご文章は、常に「実相・現象」「善・悪」「人間・神」「真・偽」「+・-」…という二元的ご思想がベースになって表現されています。

ですが、本来の「生長の家」の教えは、神・実相以外なしの「唯神実相」であり、「実相一元」です。

Web誌友会板 >>6011 参照
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/6100-n

ですから、雅宣先生のご文章は本来の生長の家の教え(雅春先生の真理のお言葉)に茶々を入れたものだとわたしは思っています。

ですが、わたしは雅宣先生を「悪」であるとは思っていません。
雅宣先生はわたしたち「生長の家」のすべての信徒に何が本当の「生長の家の教え」であるかを、自ら考えさせてくださる貴重な機会をくださっている、

282a hope:2016/02/21(日) 09:36:35 ID:cEpBaIdo
>>281 つづき

大観世音菩薩さまだと思って、心から感謝しています。

283a hope:2016/02/21(日) 09:45:19 ID:cEpBaIdo

以下の聖典の文章に、何が「茶々」であるかの説明があります。

―――――――――――――――――――――――

薬剤に併用禁忌(きんき)の薬があります。

たとえば鉄剤を飲んでから、タンニンを含有するものを飲むと、鉄とタンニンとが結合して、吸収不能のタンニン鉄になるのであります。

生長の家で「病気はない、老死はない、あるように見えても現象はない」と言いきるところに飲み易い(無学者にも解り易いの意)美妙な言葉の鉄剤となるのですが、その「ない」という言葉に茶々を入れる批評を読むときには、その「茶々」の中にはタンニンが含まれていますので、そのタンニンがせっかくの「ない」という言葉の鉄剤と結合して吸収不能のタンニン鉄となり、読者の心に「無」の字の吸収を不完全ならしめ、心の鉄剤の効果を薄めますので、わたしはこれを避けたいと思っているのであります。


近ごろ、生長の家思想の有名なると効果の顕著なるにつれて、その全体の思想を踏襲して包装や名称だけを加えて、一旗あげてみようとし、かつあまり同じことを書いても受け売りであると一見わかるので、同じ意味を異なる文章で書き表し、「何々会」等という別意の名称で雑誌などを出される方がありますが、そういう雑誌の文章は「無」の字の言葉の調合法がちがうので、わたしの処方した「言葉の鉄剤」に「茶々」を入れることになります。

茶々を入れられるとその人の心のうちで、「無」字のバランスがこわれるので『生長の家』を読んで万事好転していた人がその種の雑誌を併用したために「無」字の鉄剤の吸収率が鈍ってふらつく人があります。

そうしてその種の、雑誌の現象はあるとかないとか論じてある文章を読んだ日には、心のバランスが破れてなんとなく不安で、会社にいても思うように仕事が運ばなかったり、集金が集まらなかったり、ついぞ起こらなかった歯痛が起こってきた人などもあります。

「無」を説くのは仏教でも、一燈園でも説いている。

キリスト教でも解釈の仕様によれば「無」を説いているのです。

生長の家と、それらの宗教とどこが違うかと言いますと、「無」字の扱い方が「ない」と易しく言いきって、その「ない」がわたしの文章全体の流れの上に巧みに効果的に織り混ぜられていて、古今に多く類例を見ないような、読む人のこころに端的に作用して、病を即座になおすほどに心の開放を与え、「無」を説くとも隠遁的にならず、かえって積極的な活動力を与える点にあるのであります。

―――――――――――――――――――――――

「生命の實相」第24巻 p97 2行目〜

284a hope:2016/03/02(水) 10:11:31 ID:cEpBaIdo

web誌友会板>>6118 6119の参考文献として「明鏡」さまのご投稿を紹介させていただきます。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/6118-n

_______________


日時:2016年02月29日 (月) 14時17分
名前:明鏡



>新経本については、立場上、どうしても読まざるを得ない人もいます。

>そういう人に尋ねると、例えば、教化部で新経本を1回あげると、

>自宅に帰ってから甘露の法雨を2回以上は あげて、新経本の悪影響と

>甘露の法雨の功徳を相殺するという話も聞いています。



‘ 一緒に使う ’ と危険なものに、アルカリ性タイプの洗剤 と 酸性タイプの洗剤があります。

‘ 一緒に使う ’と  “ 有害な塩素ガス ” が出て、危険であります。

死亡した事例もありますので、洗剤の容器には、【 まぜるな 危険 】 と書かれています。


“ 人間は 自然の一部 ” という あやふやな「 新経本 」を読誦することは、

現象を捉えて 因縁因果の世界を呼び込むことになります。

現象を捉えていますから、焦点が定まらず、精神的な不安を引き起こしているように思います。


‘ 裁判 ’ や ‘ 争い ’ の念に満ちている心境で、書かれている「 新経本 」 は、

どうしても 潜在意識に 二元論が 「 新経本 」 の根底にあります。


やはり「 新経本 」の読誦は 中止するべきであります。

______________

http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&amp;mode=res&amp;log=150

285a hope:2016/03/02(水) 10:18:19 ID:cEpBaIdo

>>284 a hope所感)

わたしも経験がありますから、雅宣先生のご文章を雅春先生の説かれた「唯神実相」の真理と同じだと思って読むのはとても危険だと思っています。

信じれば信じるほど「迷い」が深くなり、なにか「真実」なのかわからなくなり気が狂いそうになりました。

それだけ、「真理」は神聖で穢すことのできないものだという証拠なのだと思います。

286トキ ◆NeaLgIQX3w:2016/03/04(金) 17:41:25 ID:aj0ShO5U
>>284

 余談ですが、「新経本」が発売された当時、本部から教区へ、

 「新経本を読んで、何か奇蹟か体験が出たら、教えて下さい。」

と問い合わせがありました。後で聞いたら、他の教区や練成道場にも同じ問い合わせがあったみたいです。
おそらくは、全国の教区や練成道場に問い合わせがあったのでしょう。

 しかし、その後、機関誌にも普及誌にも、新経本を読んで、何か奇蹟か体験が出たという記事はついぞ掲載されませんでした。
と、言うことは、新経本を読んでも、どこにも奇蹟も体験もなかったと言うことかと思います。

 私の所属する教区でも、読んでいる人が悲惨な状態になったという事例を複数見聞しましたが、これについては、「偶然」という
ことで処理されてしまいました。

 仄聞するところでは、「新経本」を真面目に誦んでいる本部員の間に、いろいろと問題が広まっているみたいですが、これも
きっと「偶然」かと思います。

287るん吉:2016/03/13(日) 00:51:50 ID:Jo.00maY
a hopeさま
私は、雅春先生の本以外読みません。
そして、うぅぅうんと・・・家にある「生命の実相」や「真理」の本の中でも
どっちかというと・・横の真理っぽいことが書いてある部分より、実相独在的な部分、要するに根本真理の部分を好んで読んでます。
この「物質無し、現象無し、実相独在」この部分がもう耐えられないくらいの凄さ!なんですもの!
こんなすごいを書きてくださる方がいはるでしょうか?雅春先生は昭和5年?に書き始めてくださいました。
それ以前もそしてその後ももう何十年もたつのにここまでの真理を書いてくださる方は出てきません。
「自分は紙と同体だ」という説を書いてある本などは案外あるんですけどね。でも「物質無し」は考えもつかないのでしょうね、
その辺がうやむやですねんね。だから全然「うわぁー凄い」て、ならない。或は大体、心の法則 系統の本ですよね。
ちょっと前の「引き寄せ」なんかも単なる心の法則。マーフイの時代となんにも変わってないんですね。
とか何とか云いながら、実は私は祖父が亡くなってから、そう切羽詰まったことがなかったので
雅春先生の御本から離れてました。何年も。バカでした。前は必死で読んでたのに。
毎日読んでも「物質無し」は難しいのに・・今、猛省して読み始めてます。
a hope様のように毎日毎日拝読せねば。いつも毎日、毎日謹写ありがとうございます。
有難く思ってます。
>>雅宣先生のご文章を雅春先生の説かれた「唯神実相」の真理と同じだと思って読むのはとても危険だと思っています。
>>信じれば信じるほど「迷い」が深くなり、なにか「真実」なのかわからなくなり気が狂いそうになりました。

ほんとですね。読んだらダメですね。「奇跡」なぞ起こらない。「物質無し」「実相独在」がわかりやすく書いてない限り。

長々と何を書いてんにゃろ。ごめんなさいです。有難うございます!

288a hope:2016/03/13(日) 17:55:59 ID:cEpBaIdo

>>487 るん吉さま

うれしいご投稿をありがとうございます!

<<どっちかというと・・横の真理っぽいことが書いてある部分より、実相独在的な部分、要するに根本真理の部分を好んで読んでます。
この「物質無し、現象無し、実相独在」この部分がもう耐えられないくらいの凄さ!なんですもの!
こんなすごいを書きてくださる方がいはるでしょうか?雅春先生は昭和5年?に書き始めてくださいました。
それ以前もそしてその後ももう何十年もたつのにここまでの真理を書いてくださる方は出てきません。>>

わたしはこの掲示板で書き込みを始めた当初は「縦の真理」も「横の真理」もよくわかりませんでした。

でも、「生命の實相」や他の雅春先生の聖典を拝読していると、なぜか気分がよくなって、元気になってくるし、運気も上がってくるので、
「生命の實相」の波動がとてもよいというのは最初からわかっていましたが・・・。

ですが「生命の實相」を読み進めるうちにだんだん理解が深まってきて、その真理がわかってくると、
なぜ、波動がよいのかもわかるようになってきました。

それは、著者である谷口雅春先生が「縦の真理」である「唯神実相」「実相独在」を大悟されたまことの宗教者(覚者)だったからなんですよね!

谷口雅春先生だから、魂に響く「真理の言葉」が書けるのであって、頭で「真理」のしくみを理解しただけ人間がそれを真似てみようとしても絶対無理です。

無理どころか、(聖典にも説明がありますが)「真理」に茶々を入れることになって、その茶々の入った文章を読むと、
読んだ人の魂を迷わし、精神を不安定にして、運気も落とすことになってしまうようです。

今回、宇治別格本山の職員さんが亡くなられましたが、お仕事で雅宣先生の経本を読まれ精神を病んでいらしたそうですね。

雅春先生の「生命の実相」の真理だけを信仰されていたのならば、「生きとおしの生命」を信じられるはずですから、
間違っても自分から命を絶つようなことはしなかったと思います。

その方の純粋な信仰に「茶々」をいれられたためにおこった悲劇だと感じています。

宇治の職員さまのご冥福を心からお祈りしています。

289るん吉:2016/03/14(月) 09:00:15 ID:Jo.00maY
a hope さま

レスありがとうございます。
「物質無し、実相独在」これですよね。これ以外の説は気分が高揚しません。
悟るのは難しくても、だれでもこの「根本」の部分を読んだ時
絶対「うわーーす、すごい」ってちょっとした歓喜をあじわえる。はずですよね。
雅春先生の本8或は雅春先生の根本真理を把握した人が書いた本とかしか読まない。今藤原先生の本をよんでるのです)
そしてその本は死ぬまで離しません。死んでからも、です。離さないのです。
いつも謹写ありがとうございます、感謝してます。お体をご自愛くださいね。

290宇治大好きだった者:2016/03/14(月) 21:59:58 ID:xnscMkgM
あれほど多くの人を救い、教団を発展させ、宇治=K先生だったお方のご一家の
現況を仄聞しますと、真理とは?と悩んでしまいます。何を信じたら良いのか・・・

292a hope:2016/03/15(火) 00:27:07 ID:cEpBaIdo

>>290宇治大好きだった者さま

わたしも宇治が大好きでした。(過去形で表現するのが悲しいですが・・・)
そして、K先生(たぶん同じ方)も大好きです。

宇治の現状がどうであれ、K先生ご一家の現況がどうであれ、「真理」はなにも変わらないのではないでしょうか?

他に頼る信仰は、本物ではないと思います。

「生長の家」の聖典は「生命の實相」ですから、「真理」が知りたかったら聖典を拝読し自ら悟るしか方法はないと思います。

294トキ ◆UMw6UoGELo:2016/03/15(火) 11:06:43 ID:lgv9ASqI
謹告

 web誌友会板が閉鎖されますと、『web誌友会参考文献板』の必要性もなくなってしまいますので、
代わりに、『web「生命の實相」輪読会参考文献』板を開設します。

 よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

295人妻:2017/02/10(金) 12:03:21 ID:ujnPaRNY
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296神の子さん:2017/03/01(水) 00:05:38 ID:GFWemD/o
150万円程度の中性子線測定器で正常値が0.00μSv/hのはずの中性子線が特定個人の元ではか不明だが測定されてしまう
https://www.youtube.com/watch?v=8R0luOy8ce8

新幹線の中やその付近でも27万円程度の測定器で正常値が0.058μSv/hのはずのガンマ線が特定個人の元ではか不明だが最大測定値を上回る形で測定されてしまう
https://www.youtube.com/watch?v=41lQN7rF3fQ

ベータ線(ガンマ線)を一つ計測すると、一回"ピィ"と鳴る測定器で正常値が約55カウント/min程度のはずが観測者の自宅では大きくそれを上回ってしまって測定されてしまう
https://www.youtube.com/watch?v=4veAJaorl1s

297神の子さん:2017/03/19(日) 17:23:56 ID:ujnPaRNY
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