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30復興G:2013/07/14(日) 07:04:39 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         二十五

 入龍宮不可思議とは、入龍宮が不可思議であるということである。不可思議とは、思議そのものが不可すなわち無いことを意味し、これは思議そのもの、心そのものが、みずから 「私は無いのです」 との無我であり、消え切りの澄み切りの法悦そのものであるということなのである。これはいわゆる非思量底を思量する、ということである。非思量とは思量そのものが 「私はないのです」 とみずからの死に切りであり、消え切りであり、澄み切りの法悦であることを意味しているのである。

 私が味わった 「自分が無いということはそんなにも法悦そのものなのか<」 と感動せずにはいられなかったその尊師のお姿の輝きが、今日は、すべてのものに輝いていることを想ったのである。

 天地一切万物の一つ一つが 「私は無いのです」 とのみずからの消え切りの、死に切りの、澄み切りの法悦そのものであるのであった。太陽の如く明るく丸く、満面法悦そのものであるすがたにおいて輝いているのであった。

 山も川も草も木も、全身の細胞の一つ一つも、存在するものすべてが 「私は無いのです」 の法悦そのものであったのである。

「無の門関」 とは門関みずからの消え切りの、死に切りの、澄み切りの法悦そのものであり、 「無の門関」 とは 「法悦の門関」 であることを感じたのである。

 天地一切に感謝し、礼拝するとはこの法悦を拝することにほかならなかったのである。その法悦の輝きに包まれること、浴することが感謝であることを知らされたのである。

 神想観そのものも消えているし、思念も消えているし、気合いも消えているのであった。

「菩薩は来たって来たるところなく、去って去る所なし。過去、現在、未来に非ず」 とは、時間、空間そのものの、みずからの消え切りの法悦の充満の世界であったのである。自分を取り巻くすべてのものが、消え切りの、澄み切りの法悦であることが、自分を取り巻く全てが観世音菩薩のお姿であることなのであった。その法悦の輝きが尽十方にひろがっている様そのものが、そのまま尽十方無礙光如来の姿そのものであったのである。

 神癒祈願の名簿そのものが、斯くの如き観世音菩薩なるものの名簿であったのである。申込者の一人一人が、みずからの消え切りの、澄み切りの法悦そのものの尽十方充満の姿そのものであったのである。

「私は無いのです」 ということが、何故そのような法悦であるのか。それは私には解らないが、神の子人間は限りなく、無我であることに憧れを持たざるを得ないのは、親様である神が無神であり給うからに違いないのである。

「高天原に神詰まり坐(ま)す」 とは、幽の幽なることにおいて、隠り身の消息において、神はみずからの消え切りの澄み切りの法悦であることにおいて、 「高天原に神詰まり坐す」 とは 「高天原に法悦詰まり坐す」 ということであったのであり、生長の家が高天原それ自体であることにおいて生長の家人類光明化運動がみずからの消え切りの、澄み切りの法悦そのものであることなのである。それが 「よろこびの光明化運動」 ということの基礎であること、その基礎が高天原にあるということは、まことにすがすがしくも、さやけくもありけるかなというほかはないのである。 「あなさやけ、おけ」 と歌いつつ、踊りつつ、また新しきよろこびの装いをして生長の家の人類光明化運動が新しき世紀となって天降るのを見るのである。(1998.7.25)


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