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189復興G:2013/12/03(火) 10:18:19 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十七

 「今すべての病人は起つことが出来るのである」 ということと言い、「『生長の家』 を読み真理を知るだけで遠くにいて病気が治る事実を見よ」 と言うことといい、これはすべて神癒についての 「神示」 であることをあらわしているのである。

 「神癒」 とは、神が癒しそのものであるということである。神が癒しそのものであり、甦りそのものなのである。 「吾れは甦りなり」 とのコトバは、神が癒しそのものであることの光明の鳴りひびきなのである。

 「遠隔の地にいて」 と仮に云うといえども、神には遠くも近くもないのである。すべてのすべてが神であり、神には距離はないのである。へだてそのものがないのである。目無堅間(めなしかつま)そのものであり給うからである。

 「神癒」 には、神と人間とのへだてはないのである。 「遠くにいて」 とは、遠くにいても遠くではないことのよろこばしさの表現なのである。「“遠く” そのものが無い事実を見よ」 ということなのである。ただただひとつなるもの、完成なるものの自己展開があるばかりなのである。「既に、吾れ全宇宙を癒し終りたり」 という事実が,久遠の昔より、神そのものとしてあるばかりなのである。

 「神癒」 とは、神が癒しそのものであり、神は渾(すべ)ての渾てなるが故に、天地一切のものはみずから神癒そのものであるということである。いたるところに神が、癒しそのもの、甦りそのものを観じ給うことを、「神が癒し給う」 と仮に言うのである。

 時空超脱の 「今」 には距離はないのである。その意味をもって、「今、起つことが出来る」 というコトバが発せられているのである。「遠くにいて」 ということは既にはじめより無いのである。

 この 「今」 なる 「ひとつ」 なるものの展開こそが、生長の家人類光明化運動の荘厳なのである。荘厳とは、中心帰一、ひとつなること、渾ての渾てなることそのことにほかならないのである。

 中心帰一なるものそのものの展開、運動が光明化運動なのである。

 すべてのもの悉くはみずから癒しそのものであり、甦りそのものであることを祝福し礼拝する一筋なのが、「今」 起った生長の家人類光明化運動なるものなのである。

 「神癒」 とはひとごとではなかったのである。今ここ吾れなる栄光そのものなるすがたであったのである。神癒はここに見よ、彼処(かしこ)に見よ、というようにはないのであった。今ここ吾れにしかないということであった。

 「神癒」 とは神そのものであり、自分はどこにも要らない、全くの零(ゼロ)なのである。この自分が全く要(い)らない、この自分の要らない度合いが奇蹟的である度合いであるのである。

 それ故 「奇蹟」 的なることは、中身が必ず感謝となるのである。自分は無く、「生かされている」 というよろこびの中身があるばかりなのである。感謝の度合いが奇蹟的なるものの度合いである。感謝そのものが奇蹟そのものなのである。

 しかしながら、神のみすべてのすべてであって、自分は全く要らない、ということは天地を貫き満ちている当たり前のことであり、それを奇蹟的なこととして、大さわぎしないのが生長の家なのである。(1998.11.14)


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