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186復興G:2013/12/03(火) 09:26:39 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十四

 「神の世界を、神が想い給う」 (総裁谷口清超先生の第一論文 『文化の本源としての神想観』)、そこには全く自分というものは無いのであり、ただただよろこびと感謝だけがあるのである。天地一切が神であり、感謝そのものなのである。これを観ずることを、天地一切感謝といい、天地一切礼拝というのである。

 「天地一切」 という字は 「天地の一(ひ)ト切れ」 と書かれているとも言えるのであって、これは、一即多、多即一の相(すがた)を表現しているのであって、「一ト切れ」 とみえているままに 「天地」 すなわち、すべてのすべてであることを意味しているのであり、 「天地である一ト切れ」 ということであり、一人すなわち 「一ト切れ」 としての個性的存在でありながら、そのままにすべてのすべてである、大調和の相(すがた)を表現したものであるということになるのである。

 更に、「一切」 とは 「一つに切る」 ということでもあるのであって、現象と實相の二つに切るのではなくて、切った結果が一つであるのであって、現象は無いのであって、切った結果、残っているのは實相一つであるということである。實相の独在ということなのである。

 更に 「一切」 とは 「一つが切る」 ということであり、一つなるもの、即ち絶対なるものが切る、ということであって、ただただ實在なる一つなるすべてのすべてなるものが、光りの自己展開の相(すがた)として 「無い」 と輝いているのである。「般若心経(はんにゃしんぎょう)」 の 「観自在菩薩(かんじざいぼさつ)行深般若波羅密多時(ぎょう じんはんにゃはらみったじ)照見五蘊皆空(しょうけん ごうんかいくう)」 という時の、観自在菩薩が光明燦然として照り輝いている、その輝きの、よろこびの展開として 「現象は無い」 すなわち 「五蘊皆空」 と照らし観てい給う相(すがた)であり、ただただ光りのみの充満展開があるのみなのである。

 またイエス・キリストの 「吾が国は此の世の国に非ず」 とのおコトバにおいて、先ずはじめに 「吾が国」 という、吾れと国との光明燦然たる神の国と吾れとが厳然としてあり、その神と神の国そのものであるよろこびが 「此の世の国に非ず」 すなわち 「此の世(現象)は無い」 との輝きのひろがりとなっているのである。

 「五蘊皆空」 にしても、 「吾が国は此の世の国に非ず」 にしても、ただ常に、「無い」 というだけではなく、先ずはじめに、光明燦然たる實在、實有なるものがあり、その自己展開としての光りのコトバとして発せられているいのちのコトバであるということである。それが 「一切」 ということの一つの意味であると言えるのである。

 また、仏教に 「一切衆生悉有佛性(いっさいしゅじょう しつうぶっしょう)」 という語があり、一切の衆生は悉く仏性を有(も)つ、という風に解せられていたのを道元禅師は 「一切衆生悉有は佛性である」 と解されたのであったが、生長の家では、「衆生悉有佛性」 を一切してしまったのである。衆生だとか、悉有だとか、それを一つなるものがすべて 「無い」 と切りすててしまったのである。切りすててしまって、「一」 だけが残って、すべてのすべてなるもの、實相独在を實相独在としての成就、すなわち、成り就(な)りせしめたのである。それ故に、ここにまことの 「一切」 の意味、すべてのすべてなるものが露呈して来たのである。

 これらのことを述べた時、大聖師谷口雅春先生は、 「君の直観的解釈は素晴らしい」 と言って下さったあと、そこに居た一同のために實相独在の話しをして下さったことであった。

 昭和三十九年の秋のことだった。(1998.11.11)


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