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復興G
:2013/06/26(水) 15:08:15 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
榎 本 恵 吾
一
生長の家の根本聖典である『生命の實相』には、あの「人類光明化運動発進の宣言」が載せられていないのは何故であるか、ということは、まことに厳かな意味で一考を要することではなかろうか。
さて、そのことはひと先ず別にするとして、『生命の實相』第一巻、本論の冒頭には、高らかに、
生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります。
とうたい上げられているのである。
生長の家人類光明化運動の根本聖典の冒頭において「神癒」について書かれているということは、生長の家人類光明化運動が神癒の展開として発進していることを意味すると同時に、ここには、その神癒とは何であり、如何にしてそれが起こり得るのか、ということが示されていると拝察させて頂くのである。
神癒(メタフィジカル・ヒーリング)とは、生命の實相の自性円満を自覚した時に起こるところの、よろこばしき、明るきなにものか、であるということである。
さて、神癒祈願部というのは尊師によって純粋宗教部門として出発しているのであるが、純粋とは何であろうか。純乎として純なるものとは、神であり、完全なる實在の相(すがた)であると言わなければならないのである。このことは、神癒の展開としての生長の家人類光明化運動においては、この世界及び人間について、純一に、自性円満なる實相として観じられていなければならないことを意味するのであって、現象処理が大切であるという名のもとに、いくらかでも、實相独在をはなれて、現象を認めた上での人類光明化運動であってはならないことを意味しているのである。
この運動は 「今起て!」 という啓示によって起った光明化運動であるが、その天の声は、
「無いものは無いのだ。知れ! 實相のみがあるのだ!」 という極まった唯神實相の自覚がそこに現成した、そのところが 「今」 であり、そこに出発が成り立ったのであり、いささかも現象への妥協によってではなかったのであることをはっきりと確認しておかなければならないのである。そのことは唯神實相、實相独在、光明一元であり、救われていないものは一人もいないということであればこそ始まったところの運動であることを意味するのである。
ひるがえって想えば、「人類光明化運動発進の宣言」は、現象世界の状況を認めた上での方便的宣言であると言わなければならないのではないか。こちらの方は、世界が不完全であればこそはじまった運動であるというところに方便的要素があると言うことである。これはつまり状況論であると言わなければならないのである。
一方、『生命の實相』 の方は、たとえ、そのような状況が無くなったとしても、それを超えて、神がこの天地を必要性や状況への対処のために創造され給うたのではなく、神はすべてのすべてであり、完全であればこそ、その完全なる相(すがた)の自己展開として天地創造が行われ、神は今に至るも創造され、生長されつづけているという、その創造としての、久遠の創造のすがたとしての人類光明化運動であることがそこに顕われているといわなければならないのである。
それ故、「人類光明化運動発進の宣言」 の方は、苦しみ悲しみがあればこそ起たざるを得なかったという方便的表現であり、『生命の實相』 の方は、うれしいからこそ起たざるを得なかった、ということになっているのである。
このことは、世紀を超え、状況を超えた運動のあり様が謳われているということなのである。そこに 『生命の實相』 が根本聖典であるゆえんがあると拝察されるのである。ここに尊師谷口雅春先生が 『生命の實相』 に、「発進宣言」 を載せられなかったゆえんの一つがあるのではなかろうか、という想いに至らざるを得ないのである。(1998.7.1)
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