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復興G
:2013/08/30(金) 07:33:00 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
七十二
練成会では、神想観練習というのがある。しかし、練習と本番との境はどこにあるのであろうか。祈りには一体練習というものがあるのであろうか。
生命から見れば、練習というものはないのである。そこには厳粛きわまりなき、神なるいのちが輝き、持続しているばかりである。
練習で咲いている花はあるだろうか。練習で動いている心臓はあるであろうか。神は天地創造をするにあたってリハーサルをされたとはどうしても想えないのであって、いのちの宣べる 「命宣(いのり)」 には練習はないと言わざるを得ないであろう。
さて、それでは、練習と本番(実修)とはどう違うのであるか。それはやはりコトバによる宣言にあるということになるであろう。
司会が出て来て、
「只今から神想観の練習をします」
と宣言すれば、それは練習なのであり、
「只今から、神想観の實修をいたします」
と宣言すればそれは實修(本番)なのである。
すべて、自分ではないということである。實修は書かれた字の通り、實修の實は實相ということであり、神ということなのである。即ち神・實相はまことであり、本番そのものであり.完成そのものなのである。
神によって生かされているということは、本番が生きているということなのである。
「實修します」
という言葉が天降った時、はじめての人だろうが、練習中の人だろうが、その時知っていること、出来ることが、そのまま本番なのである。はじめての人が他のやっていることを見よう見まねをしようが、それ以上知りすぎても、出来すぎてもいけないのであって、本番とは神によってあるということであって、自分で選んで、自分で行っているのではないのである。
すべて自分ではないのである。練成でも、 「こんなに素晴らしいのだったら、もっと早く来ればよかった」 と言ってよろこんで下さる方が居るということは有り難いことであるが、しかし、自分で選んで来たのではないのである。一秒早くても、一秒遅くてもいけないのであって、神なる本番に生かされて、本番が来られたのである。
また、集まりにおいても、司会が、
「ただ今から、はじめます」
と宣言したならば、その時点において、一人多くても、一人少なくてもいけないのであって、人間が選んだものではない、そこに本番そのものが天降っているということなのである。ただただ、神、渾(すべ)ての渾て、本番がそこにあるのであって、未来への手段、過程としての姿ではないということなのである。ここに生長の家の集まりが今、明るいもの、感謝に満ちているすがたがあるのである。
「新しい世紀は祈りの世紀」 という言葉を神想観中に聴いたような気がしたが、ここまで書いて来たことは、結局 「祈ってもよいのだ」 「神想観してもよいのだ」 「聖典をよんでもよいのだ」 「愛行(あいぎょう)してもよいのだ」 ということであったのではないか。今、ここにすべてのすべてがある、ということである。本番そのものである、ということである。
自分は要らないのである。神のみなのである。神はすべてのすべてであって、分裂はないのである。神想観していても、聖典読誦していても、愛行していても、部分をやっているのではないということである。それは決して、他を後にして自分が先に渡ろうとしている姿ではないということである。
「吾が内に神が今ここに、そして天国が今ここにある」 (『日々読誦(にちにちとくじゅ)三十章経』)
ととなえるのが最大最高の祈りであるとされているゆえんである。(1998.9.10)
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