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140復興G:2013/10/08(火) 10:32:28 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百五

 神想観は、上のものを上とし、下のものを下とし、前のものを前とし、後ろのものを後ろにし、左を左とし、右を右とし、真理そのものを自分の姿に体現(たいげん)するのがその姿勢となっているのである。左は男性即ち陽をあらわし、右は女性すなわち陰をあらわし、左足を右足の上にするのである。

 しかし、これは差別の問題ではないのである。大切なことは右も左も自分であることにおいて一つであることである。この自分に立って、右を生かし、左を生かし、陰を生かし、陽を生かし、上を生かし、下を生かし、一切を一切たらしめ、一切を生かし、展開発展せしめる無限創造を生長というのである。その生長を生長たらしめているまことの自分の自分なるものを自分たらしめるのが神想観なのである。

 神想観は真理そのものである、まことの姿をあらわし、中心、神をあらわすのである。中心、神を体現し、それを観じ、味わうものなのである。

 神想観は作法や呼吸法ではないのである。坐り方や呼吸の仕方を組み合わせて作るものではないのである。先ず、神想観なるものが天降(あまくだ)ったのである。

 神想観は、坐法や呼吸法によって、これから救われるための準備のものではなく、既に救われていることを観じ、感謝するすがたなのである。

 既に 「こと終われり」 「こと完成せり」 のところからはじまっているのが神想観なのである。

 それ故、完成(ななつ)の燈台として實在する生長の家人類光明化運動なるものは、神想観なるものそのものなのである。

 生長の家人類光明化運動なるものが神想観をする、と言ってもよいが、生長の家人類光明化運動そのものが神想観そのものであり、神想観そのものが生長の家人類光明化運動そのものであるのである。神想観なるものと生長の家人類光明化運動は離れた存在ではないのである。

 ここには 「祈り」 と 「運動」 との分離はないのである。生長の家人類光明化運動なるものは神であり、神想観なるものも神なのである。それはそのまま渾(すべ)ての渾てなのである。渾ての渾てなるものをよろこびというのである。 「よろこびの神想観」、 「よろこびの光明化運動」 などという言葉はここから出て来ているのである。

 『文化の本源としての神想観』 という総裁谷口清超先生の第一論文の意味する 「文化」 とは、限りもなく崇(たか)く、深く、広く、すべてのすべてなるものと言わざるを得ないのであって、すべてのすべてであるということの意味は、ひとつなるものとしての、本源なるものそのものの展開として、すべてが生み出されるところのものを意味しているのである。限りなき澄み切りの、大調和の、 「ハイ」 なるものの展開として、文化なるものがとらえられているということである。

 神想観は神を想い観ると同時に、神が想い観給う故に、すべてのすべてなのである。

 「招神歌(かみよびうた)」 なるものも、神が生み給い、神が歌わしめ給うのである。まことに 「神こそ渾ての渾て、神は渾てにましまして絶対なるが故に、神の外にあるものなし」 なのである。

 更にまた、 「神は無い」 という人のその言葉さえも、神が言わしめ給うて、神はみずから 「私は無いのである」 との消え切りの、澄み切りの、聖の聖なる、幽の幽なる、すべてのすべてであり給うのである。

 新しき世紀に入るにあたって、ここに総裁谷口清超先生の第一論文 『文化の本源としての神想観』 を拝誦(はいしょう)すべきことを想うのである。

 先ずここに、時空超脱(じくうちょうだつ)の、輝くよろこびの一文字一文字がこの論文となっていることを合掌礼拝させて頂くのである。

 比類のない、みずみずしさと楽しさとを以て流れ出している幸いなるものの流れを拝するのである。(1998.10.13)


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