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復興G
:2013/07/30(火) 00:01:19 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書 ―
榎 本 恵 吾
四十一
「畏くも宇宙の大神イザナギの命(みこと)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相の世界にみそぎ祓(はら)いたまう」
と 「伊勢神宮の神前に於ける神想観」 では唱えられているのである。
「光明遍照實相の世界」 においては汚れは無いのであるから、禊(みそ)ぎ祓いは必要ではないのではないか、なぜそれが必要なのか、ということは、ちょうど 「光明一元」 であり 「唯神(ゆいしん)實相」 であり、 「實相独在」 であるのに、そこには暗(やみ)はないはずなのに何故 「人類光明化運動」 が必要なのか、 「人類救済の運動」 は必要ではないはずではないか、というのと基を同じくした疑問であると想われるのである。
ここには、完全・完成なるものは創造してはいけないか、生長してはいけないか、というテーマが出て来るのである。
完全なるもの、完成なるもの、すべてのすべてなるもの、即ち神は生長し、創造そのものであるというのが生長の家の観方なのである。
完全だからこそ生長し創造するのである。その生長は無限の生長であり、永遠久遠の創造そのものなのである。
完全であって、しかも無限の生長、創造が満足されている、まことの妙々なる相(すがた)こそが實相なのである。それ故、生長そのものが教えの名前となっており、聖経 『甘露の法雨』 の天使(てんのつかい)の歌い給う、はじまりが 「創造の神は」 という言葉ではじまっているのである。
『創造の神』 とは、創造し給うた神であり、創造する神であり、久遠に、無限に創造しつづく神であることを意味しているのである。
それ故、宇宙の大神イザナギの命(みこと)が實相の世界において禊ぎ祓い給うとは、完全なる神が、みずから生長し、創造し、自己展開することであり、脱皮を行うことであると拝察せられるのである。
脱皮するというと、皮に当たる部分が不完全なる部分と解せられないこともないであろうが、實相においては不完全はなく、完全のみの純粋なる創造的持続あるのみなのであるから、皮もまた完全であり、光りであるのである。
皮そのものが 「私は無いのです」 とのみずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものなのである。
實在の、實相の世界における生長とは過去を否定することではないのである。あくまでも完成なるもの、完全なるものが生長するのであり、創造するのであるから、マイナスなるものはどこにも認められないのである。
「宇宙の大神イザナギの命」 は未だかつて一度も汚れたることなしと、大神ご自身がご自分をよろこぶことが禊ぎであり、脱皮であり給うのである。
蚕(かいこ)が繭(まゆ)を食い破って羽化登仙(うかとうせん)する、と言えども、蚕も繭も光りそのものなのである。蚕も繭も 「私は無いのです」 との、みずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものなのである。
「宇宙の大神イザナギの命」 も畏くも禊ぎ祓いをされ、脱皮され、生長され給い、 「生長の家人類光明化運動」 もまたみずから、おのずから禊ぎ祓いし、脱皮し、大いなる生長をする荘厳きわまりなき時を迎えているのであり、それを新しき世紀を迎えるという一つの節目が誘(いざな)っているのではないかと拝察されるのである。(1998.8.10)
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