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184復興G:2013/11/30(土) 15:38:16 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十二

 「住吉大神宇宙浄化を祈る神想観」 は正(まさ)しく、字の通りであって、住吉大御神が吾が内にあってこの祈りをされて 「ア、オ、ウ、エ、イ」 の鳴り響きを鳴り響き給うているのである。それは絶対なる神の絶対なる行(ぎょう)としてのお姿であって、人間力の努力精進をもとにして考えるべきものではないのである。

 神の天地創造は雄渾(ゆうこん)きわまりなき力強さであるが、それは暗(やみ)を相手に光りをすすめて行くという意味での 「光りあれ」 の相(すがた)ではないのである。神の前には何ものも存在しないのであり、克服すべき何ものもないのである。神の前には暗は無く、その無いという空間もなく、ただただ在るものが在りて在るというご存在が神であり給う故に、「今に至るも働き給う」 というすがたには、「疲れ給う」 ということはどこにも有り得ないのである。

 大聖師はお疲れになってお亡くなりになったのではないのである。「自分」 なるものがあれば疲れ給うかも知れないが、

  「私は無いんだよ」

 ということにおいて、ただただ、疲れ給わず、休み給わない神のみがあり給うそのままであり給うたのである。

  若しと思う者は忽(たちま)ち若返り、
  老いたりと思う者は忽ち老い朽つるも宜(むべ)なるかな。

 と聖経 『甘露の法雨』 にお書きになられた、ご本人が、

  「それでは眠らせて頂きます」

 と現象を超え、自我を超えて、堂々とこ昇天されたところ、説法はこれ何ものが為し給うかを指し示し給い、却ってこちらの永遠久遠なる相(すがた)すなわち

  迷いなし、罪なし、病なし

 のすがたを指し示し祝し給うのを感ずるのである。

 ここに永遠に久遠に疲れを知らない生長の家人類光明化運動の自然な姿を拝させて頂くのである。

  「永遠の構図に於て神と偕(とも)に創造するの喜びを感じてゐます」

 というところには、すでに 「自分」 なるものは微塵(みじん)も無く、神のみ すべてのすべてであるが故に、永遠であるところの、よろこびなるもののみが輝いているのである。「自分が要(い)らない」 ということ、「自分が無い」 ということが、永遠ということ、久遠ということ、無限ということであることを、このお言葉は示しているものと拝察されて来るのである。

 「不完全が存在するならば神はない」 という想いは、神が大聖師の中に起こし給いて、『神を審判(さば)く』 を書かしめ給うたのである。その神が再び、聖経 『甘露の法雨』 の中において、

  “汝は罪を以て完全となすや?”

 というみコトバによって、却って、「不完全があれば神は無い」 ということを童子に言わせようとされ給うているのである。そして、童子みずからに、

  『師よ、罪は完全に非ず』

 とみずからの答えとして、言わしめ給うているのである。そして、「汝の言えるが如し」 とお応(こた)えになってい給うのである。大聖師が生まれ給うてよりこの方のお姿は、すべて神が為し給うていたことを通して、吾々もまた神縁というもの、神なる根本因縁というものを指し示されていることを想うのである。(1998.11.9)


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