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復興G
:2013/08/20(火) 03:45:04 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
六十二
再び 「畏(かしこ)くも宇宙の大神イザナギの命(みこと)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相の世界にみそぎ祓(はら)いたまう」 ということについて。
實相の世界には禊(みそ)ぎ祓わなければならないような汚(けが)れは無いのではないか、というのは、やはり不完全が實在していると見る習慣にわざわいされているのである。そして、イザナギの命(みこと)ご自身もまた汚れているのではないかとの見方によるのである。
それはちょうど、完全円満な實相には生長というものはないのではないか、ということとも似ている問いであると想われるのである。
完全円満なる實相にも、禊ぎ祓いはあり、生長もあるのである。
無いものを無いとするのが浄めであり、禊(みそ)ぎ祓(はら)いなのである。それ故、 「實相の世界にみそぎ祓いたまう」 とは 「實相も無い」 ということを宣言することなのである。そしてその 「實相は無い、ということも無い」 と、どこまでもどこまでも放(はな)って行くことが禊ぎ祓いなのである。
「實相、實相」 と實相さえも把(つか)んではならないという、最も深く、崇(たか)い放ちをされている故に 「畏(かしこ)き」 ということであり、この禊ぎ祓いは 「畏き禊ぎ祓い」 なのである。
どこまでもどこまでも放ち、捨てて行くことに、 「畏さ」 があり、 「崇さ」 があるのである。
宇宙自体もまた、自分で自分を放ち、捨て、 「私は無いのである」 と、みずからの消え切りの澄み切りであるのであって、それが 「畏き宇宙」 ということなのである。そこにあるのは 「畏き生長」 であり、 「崇き生長」 なのである。
「有るものは皆吹払(ふきはら)え大空の、無きこそ元の住みかなりけれ」
との黒住宗忠の歌がある。そして、
無きこそ元の住家なる、その
「無きものも皆吹き払え大空の無きの無きこそ元の元なれ」 (榎本)
と、どこどこまでも、元に帰る生長というものこそイザナギの命(みこと)の禊ぎ祓いであり、生長であり給うのである。元の元こそ生長の本体なのである。そこに 「そのまま」 があるのである。
「そのまま」 とは 「素のまま」 であり 「もとのまま」 であり 「元のまま」 即ち 「神のまま」 なのである。神は無限創造であり、無限生長であり給うのである。
完全円満なる實相それ自身の展開としての禊ぎ祓いということである。
完全円満なる唯神實相独在の世界に何故、 「光明化運動」 が必要なのであるか。それは光明それ自身の展開としての運動であるのである。この 「化」 というのは 「展開」 ということなのである。實相は無限の創造であり、生長であり、展開なのである。
「光明化運動」 は単なる、實相をこの世に写し出す、影を生み出す運動ではないのである。光明すなわち實在それ自体の自己展開、価値創造として存在するのである。
實在であることは、神であることであり、それ自体で不滅の久遠の自己展開そのものであるということであり、 「光明化運動」 は久遠不滅の自己展開それ自体である “生きもの” であるということなのである。
斯くの如き、生長、創造それ自体であるものを光明というのである。 「光明化運動」 がみずから 「光明化運動」 を実現するのである。自分というものはどこにも要らないのである。(1998.8.31)
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