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復興G
:2013/10/12(土) 10:00:58 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
百六
手を挙げるのも、眼をしばたたくのも、
歯をみがくのも、床(とこ)をたたむのも、
笑うのも、鼻をつまむのも、
ことごとくが芸術である世界、
そのような世界に住んでいて、
そのような生々(なまなま)しい真理のカケラを、
血眼(ちまなこ)になって追いまわしている人々を、
なぜ芸術家と呼ぶのでしょう。
――美しき生活の断章――
〈谷口清超宗教論集3 『愛と祈りを実現するには』 より〉
これは先生の第一論文(「文化の本源としての神想観」)よりも時間的には後に書かれたものであろうが、ここには、時空を超えた、時間空間さえもみずみずしいよろこびのすがたとして拝まれているのである。
しかしながら、これは神想観によって、五官の世界を去ったところから拝めて来る世界なのである。一切を超えて一切がよろこべて来られた風光(ふうこう)なのであると拝察されるのである。このような地点から、総裁谷口清超先生のお言葉は出て来られているのである。
神想観は、「神の世界を、神が想うのである」 とこの第一論文の中で書かれている。
神は渾(すべ)ての渾てにましますのである。神はご自分を観じ給うのである。これは偉大なる自己讃嘆の極致のおすがたである。
「招神歌」 を唱えているのは、最早(もは)や神であり給うのである。それ故、まことには神想観には練習はないのである。練習のない偉大なる本番そのものを神というのである。
人間はどこにもないのである。人間がどこにも無いのを感謝というのである。神想観は感謝の当体なのである。 「神」 と書いて 「感謝」 と読んでもよく、 「神想観」 と書いて 「感謝」 と読んでもよいのである。
「神の世界を、神が想うのである」 から、そこには神以外はなく、寸分のスキ間もないのであるから、神想観は 「ハイ」 そのものなのである。
神は實在であり、實相であり給う故に 「神の世界を、神が想う」 ということは、實相が實相を想うことであり、本番が本番を想うことなのである。
ただただ、實相あるのみ、神一元、實相一元なるところに、 「山これ山に非ず、これを山という」 態(てい)の、 “西山常運歩、東山水上行” なる自在の風光こそ、まことの文化なるもののすがたであることが讃えられて来ているのである。
「此の世、此の世に非ず、これを此の世という」 態の、いわゆる御著 『神は生きている』 の中で讃えられている 現象なる地獄も極楽も超えた まことの光りの国なるものの礼拝がここに有り給うのである。
「文化これ文化に非ず、これを文化という」 態の、 “山川草木国土悉皆成仏、有情非情同時成道” の風光、宗教も哲学も芸術も政治もすべてが 神が生きている風光として拝まれている、天地一切成仏の消息がここにあるのである。
『文化の本源としての神想観』 といえども、神想観はただただ神想観なのである。ただただあるものこそが まことの文化そのものであることが拝まれているのである。
何ものかのために神はあり給わず、ただただあり給うのであり、ただただ神の世界を、ただただ神が想い給うのが神想観であり給うからである。
ただただ神想観である。(1998.10.14)
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