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復興G
:2013/08/29(木) 07:08:05 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
七十一
神想観において、神の無限の生かす力が光り輝くものとなって吾が内に流れ入り、満ち満つることを観つめ観送(みおく)るように観(かん)ずることが教えられているのである。これは自分は全く要(い)らない、それみずから實在する實相であるから可能なのである。観送(みおく)るとはもはや自分でない自分、観るものなくして観じ、吸うものなくして流れ入るところの自我不要の消息なのである。
人類光明化運動の進展を観ずるのも、これと同じすがたでなければならないということである。観つめ、観送ることの出来る久遠の昔より在りつづけ、進みつづけの實在なる實相なる生長の家人類光明化運動なるものとして観じ得なければならないのである。
それは、呼吸みずからの呼吸である。それは運動みずからの運動である。生きものとしての呼吸であり、生きものとしての運動である。
「今、光明燦然(こうみょうさんぜん)として人類光明化運動の聖旗は輝きながら我等の前を進み行くのである。……」
という大聖師から発せられた言葉は、言葉それ自体が實在の實体を有して、それみずからが進展する生きものであり、神であるのである。
大聖師には厳然として、この人類光明化運動の實在なる進展のすがたが観つめ、観送られ、拝まれているのである。それが神がおはじめになった、神の運動であり、神なる運動の相(すがた)なのである。豊雲野神(とよくもぬのかみ)の相(すがた)として、進展、拡大きわまりなき、豊かなる進展の相として観つめ観送られているのである。それは観送るものなくして観送るところの、運動それみずからの観送られている相(すがた)であるが故に、澄み切りの相、浄まり切りの相なのである。
大聖師は澄み切りの生活を、無色透明の生活と表現され給うことがあるが、この観つめ観送られるところの人類光明化運動とは無色透明の人類光明化運動なのである。
それは真空にして妙有(みょうう)なる運動なのである。真空にして尽十方無礙(じんじっぽうむげ)なる相(すがた)を展開するところの妙々不可思議のはたらきなのである。忽然(こつねん)として生まれ出でるところの展開の相(すがた)なのである。
忽然といえども神にとっては無限時間の余裕のあるすがたなのである。そのような相として神の中に神によって観つめ観送られているのが生長の家の人類光明化運動の姿なのである。
「生命は生を知って死を知らず」 と聖経 『甘露の法雨』 には録(しる)されているのである。生長の家の人類光明化運動なるものは、生長を知って後退を知らないのである。進展伸展あるのみなのである。このことが神によって観つめ観送られているのである。
神想観は、神を想い観ると同時に、神が想い観じ給うのである。生長の家人類光明化運動は生長の家なるものそのものが運動し給うのである。それ故、神とは何か、生長の家とは何かということがすべてのすべてとなって来るのである。
渾(すべ)ての渾てなるものを神と言い、渾ての渾てなるものを生長の家というのである。それ故、生長の家は 「完成の教え」 となっているのである。 「完成の教え」 とは 「完成なる教え」 ということである。完成を教えるのではなく、完成そのもの、渾ての渾てであるのが生長の家なのである。
生長の家人類光明化運動とは、完成なるものの、渾ての渾てなるものの運動であればこそ、澄み切りの澄み切りに明るいのである。(1998.9.9)
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