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19復興G:2013/07/04(木) 09:32:29 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         十五  (1日1文ずつ謹写掲示。cf.>>4

 講師として講話をする時、誰しも一度は、 「自分が話しているところは、自分の都合のよいところを話しているのではなかろうか……」 という反省の想いにさそわれるのではないだろうか。

 ここに常に、尊師谷口雅春先生の悩みは何であったのか。そして、何によって、どのように道が開け給うたのであるか、ということを心新たに確かめつつ歩ませて頂きたいものとの念願が起こるのである。

 常に常にここに還りつつ、いのちをここより汲みつつ進みたいものである。

 お悟りになった、啓示を受けられたところの最後のところは、 「自分もまた明治26年の11月22日に母の胎内から生まれたのではなかった」 のであり、そして

「今はじめて悟ったのでもなく、久遠の昔より、そして今このまま久遠の仏そのものであった」 というよろこびで結ばれているのである。

 これは父母未生以前の自己の発見であったと拝察するのである。

 一切を超えられたお姿がここにあるのである。自分自身をも超えられたのである。

 神は何ものにも依らない、在りて在り給うそのいのちのよろこびをご自分自身に体現せられたのであった。

 それ故、組織のど真ん中にあっても次の言葉はゆるされる筈である。

「三正行すなわち、聖典を拝読すること、神想観をすること、そして愛行をすることは尊いことの極みではあるが、それをやってから私は生まれて来たのではない。」

 このことは、いつ如何なる時にも発せられることのゆるされている言葉であり、この言葉を発せられることが、よろこびということなのである。これは因縁を超えたる円相的自由ということなのである。このよろこびを以て進められるのが、いわゆる 「よろこびの光明化運動」 というものなのである。宇宙いっぱいの自由、神なる自由ということなのである。

「常に神なら如何にあり給うかを想え」 ということこそ、よろこびのもとなのである。それは決して、神のなし給うことを参考にして生きよ、ということではないのである。何故ならば、神は何ものにも依り給わない存在であり給うからである。それ故、神なら如何にあり給うか、とは何ものも参考として依ることの要らない姿として今ここにあれ、ということなのである。

「吾れ神の内にあり、神吾れの内にあり」 である。神に祈ると言えども、神吾れの内にありである。この上に立っての 「御祖神(みおやがみ)」 である。

「實相を成就せしめ給え」 との祈りは、實相が成り就(な)りひびくことであり、純粋なる實相なるもの、完成なるものの持続を、實相なる神の子が宣(の)りごとしているのである。

 ここには實相は現象に現れなければ何にもならぬ、もしくは、實相は現象に顕れはするが、しかし現象に顕れなければ値打ちがないというような、現象に価値づけして貰わなければならないというものでは決してないのである。
 もしそのようなものであれば、神もまた全宇宙的に實相を完全には顕してはおられないのであるから、神もまた完全全能ではないということになるのである。

 人生の目的は、實相を現象に投影し出すというような、影の創造ではないのであって、實相の成就すなわち、實在が實在し、實相が實相するのであって、尊師谷口雅春先生がお示し下さった 「愛行はむなしからず」 とは、影のための人生ではないことをお示し下さっているのである。諸行は無常ではないのである。諸行は實在にして常恒なのである。(1998.7.15)


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