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復興G
:2013/07/12(金) 07:20:08 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
二十三
神はみずからの消えきりであり給うのである。
無の門関において、無の門関であることにおいて、幽斎殿はみずからの消え切りであり、門関それ自体がみずからの消え切りである。
現象はみずからの死に切りである。肉体はみづからの消え切りであり、物質はみずからの消え切りであり、實相はみずからの消え切りであり、神想観はみずからの消え切りであり、祈りはみずからの消え切りであり、コトバはみずからの消え切りである。
五蘊(ごうん)はみずからの消え切りである。そして、“現象無し”がみずからの消え切りであり、“五蘊皆空”がみずからの消え切りであるのであった。
集団神癒祈願の祈りのことばの中に、 「病を消し、罪を消し、迷いを消し、死を消して……」 とあるのは、現象を去った實相世界の中での言葉としてはふさわしくないのではないかとの一抹の想いがあったが、今日の神想観において、 「祈りのコトバ」 全体がみずからの消え切りであった。
すべてみずからの死に切り、消え切りであるとは、すべてのすべてが 「私は無いのである」 とみずから、おのずから、はじめから、澄み切りの聖なる輝きであったということである。
そして更に、その、みずからの消え切りも、みずからの消え切りも、みずから、おのずからの消え切りなのである。
宇宙はみずからの消え切りであり、みずからの脱落であった。時間も空間もみずからの消え切りであり、世紀なるものもまた、みずからの消え切りであった。
イエス・キリストの架かり給うた十字架は、肉体みずからの死に切りであり、イエスみずからの死に切りであったのである。 『新約聖書』 の最初の 「マタイ伝」 の冒頭にあるアブラハムより、イエスの父親に至るまでの系譜はどこまでも父親の生まれる系譜であってイエスとは全く関係ないのである。何故ならば、イエスは処女マリアから生まれたからである。これは、系譜みずからの消え切りであり、因縁みずからの消え切りをあらわしているのである。みずからの消え切りこそ、 「聖」 なるものの輝きなのである。それ故の 『聖書』 なのである。
『維摩経』 の 「是の身は虹の如し、虹は久しく立つ能はず、須叟(しゅゆ)にして消ゆ」 とは、此の身みずからの死に切りであり、消え切りを表現しているのである。
ここに、イエスはマリアの処女より生まれ出でたとあるが、それでは、処女という肉体だけは必要であったのか、という問題が残るのである。しかし、尊師谷口雅春先生が啓示を受けられてお悟りになった時 「私は明治二十六年の十一月二十二日に母の胎内から生まれたのではなかった」 と宣り給うているのである。この時、尊師は処女なるもの、子宮なるもののみずからの死に切りの消え切りの澄み切りをごらんになったのであった。
このことをイエス自身は 「アブラハムの生まれぬ前より吾れは在るなり」 と、アブラハムから父親に至るまでの系譜のみずからの消え切りを拝んでい給うのである。系譜を書き録(しる)したのは、マタイの文学的表現である。
釈尊が 「吾れ実に成仏してよりこのかた百千万億那由他劫(なゆたこう)なり」 と宣(の)り給うた時、 「百千万億那由他劫」 のみずからの消え切りをよろこび給うていたのである。
幽斎殿の幽は、“幽の幽” の “幽” であり、隠り身の “隠る” ことを意味しているのである。
天地(あめつち)の初めの時、高天原に鳴りませる七柱の神は、それぞれ独神(ひとりがみ)〈絶対神〉にして、身(みみ)を隠し給うているのである。
この幽の幽なる神の詰まります高天原そのものが、みずから幽(かく)りそのものであり、消え切りであり澄み切りの輝きそのものであり給うのである。ここに龍宮不可思議の消息があり、知る必要のない澄み切りの真空なる妙有なる領域があるのである。(1998.7.23)
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