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175復興G:2013/11/08(金) 20:49:55 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十四

   かつて神の国は近づいたと洗礼のヨハネは言ったが、神の国は すでにここにある とわたしは言うのだ。


 ひろびろとはるばると光り一元である。

 光りなるものには練習も準備もないのである。準備とは未来のための過程または手段の生活が意味されているのであって、「今」 なるものにのみ、手段、準備でない生活というもの、創造というものが在り得るのである。

 ここに不足の反対、すなわち感謝の生活があるのである。感謝は未来に神にあらわれていただくための準備のためにあるのではないのである。 「今」 ここに、既に、このまますべてのすべてであるところに自我が消え、感謝に満たされるのであって、神に来ていただく準備の生活には神はなく、我(が)があるのみとなっているのである。

 洗礼のヨハネは、すべてなるもの、神の国なるもの、神のための準備を生きているが故に、神ではないもの即ち自分、自我がどこかに残らざるを得ないのである。満たされたるもの、感謝なるもの、すなわち自我の要らない 「神の国は汝らの内にあり」 と言ったイエス・キリストの言葉こそが、生長の家の、光明一元、實相一元のすがたであるのである。イエスは感謝に満たされていたのである。

 準備の生活には天国は有り得ないのである。現象を超えている實相なるものにこそ、完成なるものの純粋なる持続のすがたがあり、これが天国ということ、神の国と言えるものなのである。準備の生活からの脱却こそ、神の国における神の子のすがたなのであり、感謝のすがたなのである。

 生長の家人類光明化運動は準備の生活ではないのである。地上天国建設運動と仮に言うといえども、地上は無いのであり、地上天国も無いのであって、あるのはただただ實相なる天上のみなのである。

 天国という天国、神という神は 「今」 であり、 「ここ」 であり、 「そのまま」 であるのであって、天国なるもの、神なるもの、實在なるものの純粋なる持続があるのみなのである。

 生長の家人類光明化運動は神そのものであるから、 「今」 すべてのすべてなのである。地上天国建設運動もまた神であるから 「今」 すべてのすべてであって、地上超脱の 「今」 があるのみである。

 天上と地上と相対しているのではないのである。相対そのものが無いのである。地上に対する天上もなければ、天上に対する地上も無いのである。それらはすべてみずからの消え切りなのである。

 不完全はなく、あるものはただただ聖なる、完成なる實相のみである。無相にして一切相なる澄み切りの聖なるよろこびの輝きそのものが神の国、實相の国、天国そのものなのである。

 ただあるのは天上のみ、神のみ、「今」 のみなのである。不完全を消すための運動はどこにも無いのである。不完全そのものが無いのである。

 イエス・キリストは 「み心の天に成るが如く地にも成らせ給え」 と祈ることを教え給うたが、み心の成る天のみが實在であり、實相であり、すべてのすべてなのである。ここに満ちたりの感謝の湧出(ゆうしゅつ)があり、「こと終われり」 なのである。

 「地にも成らせ給え」 とは、その満ち足りの上に立ってのよろこびの溢(あふ)れ出(い)での言葉なのであって、これは現象、地なるものに實在性を認めた祈りではないのである。(1998.11.1)


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