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26復興G:2013/07/11(木) 02:24:36 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         二十二

「住吉大神宇宙を浄め終りて天照大神出でましぬ」

 と宣(の)りごとした時、コトバは神であり、渾(すべ)ての渾てであり、成就そのものなのである。決して、未来にそのようになるための何かとしてそこにあるのではないのである。それはハッタリでも、無いものをコトバによって造り出すためのものでもないのである。内なる渾ての渾てなる神、成就そのものである神がみずから鳴り鳴り響いている大實在の大事実なのである。

 無の門関に坐しての、無の無の無。 「無し」 と言葉で言えるすべてを 「無し」 と宣言した時、おのずと内の内より、 「無し」 と言えば言うほど輝き出づる大神。實在みずからがコトバとなって鳴り出ずる消息である。真空妙有であり、無一物中無尽蔵なる妙有實相、入龍宮不可思議なる消息である。

 新しき世紀における人々の発する言葉は斯くの如きものなのである。

 願いの中に成就そのものが實在し、成就が願いとなっているという願い即ちコトバなのである。

 願いは何処より来る――願いは成就より来る、である。成就のない願いは無いのである。成就のないのは願いではなかったのである。何故、“斯くの如き有り得べき”。ただ一つなること、神はコトバにして、コトバは渾ての渾てなり、との “そのままよりぞ” ということである。

 愛行は空しからず、成就即ち中身が先であるからである。あるいは 「ありがとうございます」 と唱え、あるいは 「實相円満完全」 と唱えること、空しからず。 「ありがたい」 中身が先であり、 「實相円満完全」 の中身が先であり、中身がみずから顕れて、唱えたくなったのである。

 先祖供養も大切中の大切であるが、たまには、これまでの自分の歩みを供養し、讃嘆することが尊いことの一つなのである。

 一冊の本を愛行のために持って歩いたその姿の中に無限の中身があったのであり、神が内實してい給うたのであり、久遠不滅の光りがそこにとどまりつづけているのである。

 あるいは受講券を持っておとずれたその家が留守であったとしても、その中身は神であり給い、その光りはその家に永遠久遠にとどまり、その輝きはその家をひき包み、その輝きはいのちであるが故に、その光りは生長しているのであり、何千年後においても観るべき眼のあるものにはそれが拝されるのである。

 神は既にある成就そのものである今そのものである。はじめのはじめから吾れの吾れなるものとしてここに在し給うのである。

「……してから」 ということではないのである。 「感謝してから」 「我を消してから」 「潜在意識を浄めてから」 「教えを実践してから」 あるいは 「実感してから」 「愛行してから」 「徳を積んでから」 「ゆるしてから」 「懺悔をしてから」 「實相を観じてから」 「神の子を自覚してから」 「与えてから」 等々。これを一所懸命やることが生長の家に命をかけていることであると想い、これによって神に近づこうとしていたのではないのであって、 「神」 がこれを為し給うていたのである。 「神」 は常に、はじめのはじめから、こちら側に在し給うているから、一瞬の愛行といえども無限なのである。ここのところをはずせば 「一体、どこまでやれと言うのか<」 という嘆きに終わらないとも限らないのである。

「よろこびの光明化運動」 とは、今よろこんでよい、ということの発見から来ている祝福の言葉であり、目標を達成し、行を達成したよろこびとは別なのである。神が今、今よろこびであるが故に、神の子もまた今よろこびそのものである、というよろこびなのである。感謝せよ、とは、よろこび、よろこべということなのであった。(1998.7.22)


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