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49復興G:2013/07/28(日) 01:04:48 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         三十九

 生長の家は 「ねばならぬのない」 教えであるということは、 「ねばならぬ」 が無いことであって、 「ねばならぬのない」 とはどういう意味であるとか、こういう意味であるとかではなく、 「ねばならぬ」 そのものが非実在であるということなのである。無いということは、あっても大丈夫ということなのである。

  「ねばならぬ」 それ自体が 「私は無いのです」 とみずからの消え切りであり、澄み切りの輝きそのものであることなのである。

 また、 「不思善悪(ふしぜんあく)」 という言葉もあるが、これは、善悪そのものが無いこと、それを思うことも無いことであり、善悪も思いもそれ自体が 「私は無いのです」 とみずからの消え切りの澄み切りのよろこびの輝きそのものであるということである。

  『無量光』 という言葉があり、 「無辺光」 という言葉がある。これは 「量光」 が無いことであり、 「辺光」 が無いことであり、 「量光」 「辺光」 それ自体が 「私は無いのです」 との死に切りの、消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものであることなのである。

  「ねばならぬ」 と自分の願いに固執するのではなく 「み心の如くならせ給え」 と祈ることについては、イエス・キリストの 『ゲッセマネの祈り』 が典型的な祈りとされているのである。即ち、

  「若(も)し得(う)べくばこの杯を吾れより過ぎ去り給え。されど吾が意(こころ)を為さんとにはあらず、み心の如くならせ給え」

 との祈りである。

 イエスは 「吾が意」 には非ずであるけれども 「み心の如くならせ給え」 であったのである。即ち 「み心の如くならせ給え」 とは、

 「神よ、あなたの心と同じ心とならせ給え」

 ということであったのである。 「ねばならぬ」 という私心は、はじめから 「私は無いのです」 と消え切りであり、澄み切りであったのである。ただただみ心、神の心のみかすべてのすべてであったのである。神の子は神そのものであるのである。

  「私は神である」

 ということは、 「私は無い」 のであり、神のみであり、神のみ渾(すべ)ての渾てであり、有るのはただただ神のみであったということなのである。

  「ねばならぬ」 は無いのである。み心のみ、神のみがあるのである。 「ねばならぬ」 はみずからの、消え切りであり、澄み切りのよろこびの輝きそのものなのである。その死に切りの、消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものが、神であり給うのである。

 現象はみずからの消え切りであり、不完全はみずからの消え切りであり、實相もまたみずからの消え切りである。

 不思善悪とは、善すなわち實相と悪すなわち不完全即ち現象とを相対させ、対立させるということ自体が 『私は無いのです」 とみずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものであることを表現しているのである。

 総裁谷口清超先生御著の 『正法眼蔵を読む』 の中で紹介されているが、 「無仏性」 という言葉がある。これが 「不思善悪」 で「不思實相現象」 の意味における、 「無實相」 ということにあたるのである。

  「無仏性」 とは仏性みずから 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものである姿なのである。

 實相現象渾然一体にして 「私は無いのです」 とのみずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものなのである。(1998.8.8)


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