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11復興G:2013/06/26(水) 15:37:03 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七

 『聖使命菩薩讃偈』 には 「己れ未だ度(わた)らざる前(さき)に、一切衆生を度さん」 とするものが最上、最尊、甚深微妙(じんじんみみょう)不可思議と讃えられているのである。

 しかしながら 『生命の實相』 の中には、自分が先ず救われなければ、救われたという状態はどのような状態であるかが解らないから他を渡しようがなく、救いようがないのであるということを、「自分に深切であれ」 という教えの言葉が引用されて説かれているのである。

 また別のところで、あるキリスト教の牧師が “神様と約束した人数を集めることが出来なかったので、神様に申し訳ない” と言って神経衰弱にかかっているのを尊師がお聞きになって、こういう人は、数という外のものによって傷つけられるところのものが自分であると想っているからであり、外が崩れると自分も崩れてしまうような気持になるのであって、その点キリストは、右の頬を打つ者があったら左をも打たせよ、と言われ、十里の公役を強(し)いられたならば二十里を行け、と言われて外の形によって決して傷つくことのない實相の自分というものの自覚があったために、イエスは悩み給わなかったのである。というふうにお説きになっているのである。

 このように、自分が救われることが先であるとし、数は外であり、形であり、すなわち現象であるから、それは無いのであるという観方は現在ゆるされるのであろうか、ということである。

 即ち、神想観で 「吾れ今五官の世界を去って……」 と言った時、『自分も他人も、光明化運動も去って……』 ということであるとしてよいかどうか、ということである。

 五官の世界の説明において 「五官の世界は現象と言って、不完全もあれば完全に近いものもあり、貧乏もあれば金持ちもある。病人もあれば健康な人もある。戦争もあれば平和もある。そして、人類光明化運動の進んでいるところもあれば、遅れているところもある………」 と言ってしまってよいかどうかということである。

 『生命の實相』 の全読運動をおしすすめるということは、このように書かれていることを見逃さず、全面的に拝読せよ、ということになっているのだ、ということを銘記すべきである、と想うのである。

 また、かつて終戦直後、尊師谷口雅春先生は愛媛県の宇和島にご進講になられた時の話であるが、外を歩いている時、雨が降って来そうだったのでお伴をしていた河野初喜(こうのはつき)さんというご婦人に傘を、家まで取りに行ってもらった。少しして引っ返して来たそのご婦人は傘を持っていないのである。事情をきいてみると、「主人は雨はふらんよ、と言いましたので持って来ませんでした」 ということであった。

 そのことについて 「無病常楽の神示講義」 の中で、これでこそ本当の妻の生き方であり、主人に向かってこのご婦人がもしも 「あなたより偉い谷口先生がおっしゃっているのだから持っていく」 ということになると 「お前、どこの奥さんじゃ?」 ということになってしまってそれは生長の家ではない、と言われ、本当に愛していたらその人のいうようにしてあげたくなるのであると話されて、ご講習会に奥さんが行こうとしている時、主人は映画を見に行く、と言われたら一緒に行ってあげたくなるのが愛であって、 「あなたは映画に行きなさい。私はご講習会に行きます」 では、生長の家ではないことになるというお話である。尊師谷口雅春先生のご講義を聴きなさいということは、このようなお示しを素直に聴き入れなさい、ということなのである。(1998.7.7)


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