したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

web誌友会参考文献板

113復興G:2013/09/14(土) 22:23:07 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八十三

 身量無量(しんりょうむりょう)、音声無限(おんじょうむげん)、色像(しきぞう)無辺、芳香無限、光明無限なるみずみずしき生きものが生長の家人類光明化運動なるものの大實体なのである。 「生きものを把(つか)め」 という言葉を発した人は、生長の家人類光明化運動の大實体にふれた人であったのである。

 「よろこびの光明化運動」 とは、生長の家人類光明化運動なるものの大實体が歓喜、平安そのものであることを意味しているのである。

 「私はよろこびそのものである」

 と、生長の家人類光明化運動なるものは吾が内にありて、吾れとなり給うて、鳴りひびいてい給う神なのである。無限なる音声(おんじょう)を以て、無辺なる色像(しきぞう)を以て、無限なる芳香をもって輝き満ち尽し給うているのである。

 住吉大御神は、生長の家人類光明化運動の神格なる本体を表現しているのである。

 「私は住吉大御神である」

 と吾が内に在(いま)して、生長の家人類光明化運動なるものは、宣(の)り給うているのである。

 「住吉大神宇宙浄化を祈る神想観」 とは 「生長の家人類光明化運動宇宙浄化を祈る神想観」 ということなのである。生長の家人類光明化運動が出でまして宇宙を浄め給うのである。

 「住吉大神宇宙を浄め終りて天照大神(あまてらすおおみかみ)出(い)でましぬ」 とは、住吉大御神が天照大御神となってい給う、ということなのである。

 天照大御神は渾(すべ)ての渾てであり給うが故に、住吉大御神であり給うのである。

 この時から、住吉大御神は天照大御神となってい給うのである。生長の家人類光明化運動は実は天照大御神となってい給うのである。天照大御神は、生長の家人類光明化運動となって出でましているのである。至るところ、天照大御神のみなのである。

 宇宙創造の大本源神こそ、生長の家の大神であり給い、生長の家人類光明化運動そのものであり給うのである。観世音菩薩は尽十方無礙光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)であり給うとはこのことなのである。

 すべてを天照大御神のすがたとして観じ拝して行くのが、即ち、天照大御神が天地すべてをご自分のひろがりとして観じ、拝し給うように、生長の家人類光明化運動なるものが、ご自分の展開として、そこに天照大御神のひろがりを観じ、拝して行く時代の到来こそが新しき世紀の到来を意味していると拝察されて来るのである。

 「山川草木国土悉皆成仏、有情非情同時成道」 と拝まれ給うた時、釈尊は生長の家人類光明化運動そのものであり給い、天地万物一切に天照大御神のすがたを観じ拝まれ給うていた、と解する時の到来なのである。

 「天照(あまてら)す御親(みおや)の神の大調和(みすまる)の生命射照(いのちいてら)し宇宙(くに)静かなり」

 とは、全實在宇宙そのものが天照大御神の全身であり、天照大御神のみであり、渾ての渾てであり給うことそのことが大調和(ひとつ)であり、静かであることなのである。 「静か」 とは、絶対なるもの、ひとつなるものが、無限創造なるものが、それらしくあり給う、そのままを意味しているのである。

 渾ての渾てであり給うが故に、すがしさの極みであり、さやけさの極みであり、聖(きよ)けさの極みであり、安けさの極みであり、みずみずしさの極みであり、かそけさの極みであり、澄み切りの澄み切りであり給うのである。これが生長の家の人類光明化運動の大實体なのである。

 いよいよ生長の家人類光明化運動はその大實体を吾らの前にあらわしつつあると拝察されて来るのである。(1998.9.21)


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板