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復興G
:2013/07/10(水) 06:04:06 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
二十一
「光りは東方より」 ということは、 「光りは当方より」 ということである。
全存在の発するところは吾が内にましますのである。自分は無いのである。当方のみが渾(すべ)ての渾てなのである。すべては内より出でて内に還るのである。
時間も空間も、したがって二十一世紀も 「当方より」 ということなのである。いのちなるものは、二十一世紀という時間の流れの枠組みの中に規制されて生くるのではないのである。また、組織という空間的枠組みの中に部分として組み込まれているのでもないのである。時間空間と心とを組み合わせ、それを織りなしている創造的主体者として生かされているのである。組織人とは当方より組織を発しているいのちのことなのである。
神癒の社・入龍宮幽斎殿に於ける神想観の中で、
「われ今、此処、龍宮界の龍宮城に坐して住吉大神より龍宮無量寿のいのちにて全身全霊浄めらる……」
と念ずる。この 「全身」 とは 「全ての全てなる身」 ということであり、 「全霊」 とは 「全ての全てなる霊身」 ということである。吾れ今此処ということにおいて、自己のいのちが 「全身」 であり、 「全霊」 である。住吉之大神の祝福によりその本来の相に還ることが、“浄めらる” ということなのである。それが 「わが全身如意宝珠なり」 という言葉となって行くのである。
即ち、全存在なる 「当方」 に帰ることが 「全身全霊浄めらる」 ということなのである。宇宙の中の部分である自分一人が浄めらるということは有り得ないことである。全宇宙と一つでないことが浄まっていないことであり、現象界の妄想即ち汚れなのである。一つなるもの、全ての全てなるものに還っていることのほかには浄まっている相(すがた)はないのである。全宇宙と偕(とも)に一つとなって浄まっていると言ってもよいかも知れない。一つが一つすることが浄まっていることなのである。
「吾ら現象界の妄想悉く浄められて本来の如意自在の實相顕わる、わが全身如意宝珠なり、一切の宝、吾が掌中にあり……」
と唱えるのである。 「本来の如意自在の實相」 とは、渾ての渾てであることに他ならず、 「わが全身如意宝珠なり」 とは全ての全てなる身即ち如意宝珠即ち全宇宙にほかならず、 「一切の宝、吾が掌中にあり」 とは全ての全てにほかならず、吾れそのものがそれであることが浄まっている相(すがた)、本来の相なのである。それが荘厳の極みなる自己の自己なるものであり、内そのものであり、当方そのものなのである。
吾が内の展開としての天地であり、組織であるのである。内が神であり、神が内である。 「神よ」 と呼ぶ時、それはすべてであるのである。神に祈りの成就を求める必要はないのである。渾(すべ)ての渾てであり、神は成就そのものであり給うのである。世界の平和を祈る時、 「神」 と言った時、成就そのものを呼んでいるのである。神が為し給うとは、成就そのものが為し給うているのである。
「神よ、二十一世紀を御心のままに」 と祈る時、御心は成就そのものなのである。祈りそのもの、願いそのものが、内なる神、内なる渾ての渾て、内なる成就そのもの、成就が展開して祈りとなっているのである。すべてが当方であり、当方が渾ての渾てなのである。これが如(にょ)であり、如意自在であり、今であり、天国浄土そのものなのである。願いとその成就が分裂していないのである。それが實在の實相なのである。ただただこのことの成り就りひびきがあるのみなのである。(1998.7.21)
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