[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
web誌友会参考文献板
94
:
復興G
:2013/09/07(土) 06:12:03 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
八十一
「行(ぎょう)ありて願(がん)なきは仏の魔事(まじ)なり」 という仏典の “願” という言葉は、 “願い” という目的とその手段に引きすえられた生活とは違うのである。
それは自我なき、神なる 「今」 なる “願い” なのである。今ここに完成そのものであるという “願い” なのである。
“願い” は神であり、神が “願い” なのである。 “願い” は神であればこそ、 “願い” なきことは神なきことであり、魔事どころではなく全くの無なのである。
「今」 を生きず、未来を生きようとすることが魔事なのである。神を生きず、自分を生きようとすることが魔事なのである。過去、現在、未来という無いものの上に立って生きようとすることが魔事なのである。神を生きること、 「今」 なるものを生きることが魔事でないことなのである。
生長の家人類光明化運動が魔事でなく聖なる相(すがた)であるのは、生長の家人類光明化運動が神そのものであり、成仏そのものであるからなのである。
神、仏の発したコトバが “願” なのである。天国、極楽なるものが発しているのが “願” なのである。神になりたい、仏になりたいと願うことそのことが既に神が、仏が為し給うているのである。
まことの “願” とは、 「今」 神であること、仏であることであり、 「今」 .天国であることであり、極楽であることなのである。
「吾れもと一切衆生をして吾れと等しくせんとの願を発せり。その願既に満足せり」 との釈尊の “願” なるものは、時空超脱の自分と同じくあらしめる願いであるから、釈尊の前には時間空間はないのである。それ故、願いを発してから、ある時間の経過の後に満足したという、願いと実現との間の時間はないのである。願いそのものが神であり仏であり、満足そのものであり、願いと成就との同時現成なのであり、これこそがまことの “願” なのである。
吾れと彼、願いと成就との分離相対を超えてあることが釈尊が釈尊であることなのである。 「山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)、有情非情同時成道(うじょうひじょうどうじじょうどう)」 と拝み給うた時が、 “願” なるものの成仏を拝んだ時であり、まことの “願” なるものの成就であったのである。神(仏)=願=成就なのである。成就とは成り就(な)り輝くことであり、願いの成就とは願い即ち神(仏)の鳴り鳴り輝くことにほかならないのである。
斯(か)くのごときまことの “願(がん)” なき行(ぎょう)はまことに魔事(まじ)であり、釈尊の観じられた 「諸行無常(しょぎょうむじょう)」 の行なのである。どこまでも実りはなく、 「いったいどこまでやれと言うのか!!」 とのなげきに終わるのである。
これを超えたところから出発しているのが、生長の家人類光明化運動なのである。ただひとつ 「吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神(みおや)の生命(いのち)」 ということであるのである。
自分ではないということである。自分は要(い)らないということである。既に完成している世界であるということである。
まことにも 「完成(ななつ)の燈台」 とは自分の要らない燈台ということなのである。(1998.9.19)
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板