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web誌友会参考文献板

32復興G:2013/07/15(月) 23:33:13 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         二十七

 「迷い無し、罪無し、病無し」 とは、迷いみずから、罪みずから、病みずからの 「私は無いのです」 との、消えきりであり、澄み切りの、よろこびの輝きそのものであるのである。文字そのものが 「私は無いのです」 と消え切りの、澄み切りの、よろこびそのものなのである。

 「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」 とは、煩悩みずからの 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りのよろこびの輝きそのものなのである。そのよろこびそのものが菩提なのである。

 「娑婆即寂光土(しゃばそくじゃっこうど)」 ということも、娑婆そのものが 「私は無いのです」 との、娑婆みずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものなのである。このよろこびの輝きそのものを寂光というのである。あまりにもよろこびの輝きが強烈すぎるので、親しみやすく、それをやわらげて 「寂光」 という文字を使ったのである。

 かつて、総裁谷口清超先生に質問して、

 「如意宝珠(にょいほうじゅ)観の中で、“欲(ほっ)するもの好ましきもの自(おのず)から集り来たり、欲せざるもの好ましからざるもの自から去る”と唱えますが、實相の世界には、善ばかりで、欲せざるもの、好ましからざるものは無いのではないでしょうか?」 といわれた方があって、自分もそのように想わないではなかったナと、それを聴いていて想ったことであったが、しかし、そのお言葉そのもの、ご文字そのものが

 「あのね。私は無いんですよ」

 とみずからの消え切りであり、澄み切りであり、よろこびの充満そのものであることが解って来たのである。

 「大調和の神示」 においても、 「神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」 とあるにもかかわらず、いざ感謝するところになると、 「皇恩」 即ち天照大御神の生かす力に感謝せよ、ということからはじまっているのである。

 また、神は何故、感謝できるものと出来ないものを差別して生み、差別して生かすのか? というようなこと等々……。

 しかし、この神示そのものが 「私は無いのである」 とみずからの消え切りであり、澄み切りの、よろこびの輝きそのものなのであったのである。

 聖経 『甘露の法雨』 の中で、 「光明」 という字も尊ければ、 「無明」 という字も尊いかぎりなのである。それを差別している人はいないであろう。それは、聖経自体、文字自体が 「私は無いのである」 との、みずからの消え切りであり、澄み切りであり、よろこびの輝きそのものであるからである。

 光明一元であるにもかかわらず、暗との相対関係によって表現がなされているような論理的に矛盾していると一見みゆるものも、方便として自然なことなのであるが、その自然というのは、すべて、説法、文字、矛盾がみずからの消え切りであり、澄み切りであり、よろこびの輝きそのものであるのが、聖典の聖典たる所以であると拝察するのである。

 ここに論理みずからの消え切り、澄み切りのよろこびの輝きを想うのであり、釈尊が 「山川草木国土悉皆成仏、有情非情同時成道」 と宣り給うた時、 「論理の成仏」 ということが既に拝まれていたことを想うのである。

 新しき時代の言葉は 「論理の成仏」 ということを基礎に発せられるにちがいないのである。(1998.7.27)


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