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159神の子さん:2013/10/28(月) 09:58:28 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百十二

 「『生長の家』 は今かの黙示録(もくしろく)の予言した 『完成(ななつ)の燈台』 として人類の前に臨(のぞ)むのである。」

 生長の家が人類の前に臨むと言えども、生長の家と人類とは離れているのではなく、はじめのはじめにおいて、 “ひとつ” なのである。そして、永遠に、久遠に “ひとつ” なのである。

 一つであってそのままに、拝むものと、拝まれるものとの相(すがた)をとって展開しているのである。

 “ひとつ” が “ひとつ” しているのが、生長の家人類光明化運動であり、はじめのはじめがはじめのはじめしているのが、生長の家人類光明化運動なのであり、それがそのまま神想観の動いている相(すがた)なのである。

 神想観は、身(しん)、口(く)、意(い)のすがたをとって、神であることを顕わす、ということである。神であることを顕(あら)わすと言えども、顕われてから完成するのではないのである。神はすべてのすべてにましますのであるから、今、既に “神であること” のみ “完成であること” のみがあるのである。

 “神” と言ったとき “こと終われり” なのである。顕われるということは、神であるよろこびをよろこぶ相(すがた)であって、神であるだけでは足りないので、顕わすということによって完成するという意味ではないのである。

 神は今である。時間をかけてこれから完成する、ということは有り得ないのである。それ故、神の世界を、神が想い、観じ給う神想観は、手段、目標、過程というものとは無関係のすがたなのである。

 それ故、また、生きて動く神想観であるところの生長の家人類光明化運動なるものもまた、手段、目的、過程のための相(すがた)ではないのであって、 “ひとつ” であり、はじめのはじめであり、絶対であるものの相(すがた)そのものの輝きそのものなのである。

 臨むとは、ひとつに還り、はじめに還ることにほかならなかったのである。

 ここにおいても、神想観と生長の家人類光明化運動とはひとつであって、はなれてはいないのである。

 この “ひとつ” であることこそが、調和の極致であり、よろこびの極致なのである。このよろこびを生きるのが 「よろこびの神想観」 であり、 「よろこびの光明化運動」 なのである。

 “ひとつ” であるということは、神であり、 “ひとつ” であると同時に多であることなのである。 “ひとつ” であると同時に無限の多であり、無限の個性ある存在としての展開そのものなのである。

 一即多、多即一なる展開として、すべてはあるのであって、それはひとつなるものの自己展開としてあるのであって、求めるための相(すがた)ではないのである。

 顕れるということは、求める相ではないということなのである。

 それ故、最大の臨み方、臨在(りんざい)とは、ひとつなるものの、満足なるものの、渾(すべ)ての渾てなるものの展開としてあることなのである。

 神は今、渾ての渾てであるから、顕われてからよろこびであるのではない相(すがた)であり給うのである。そして神が生きてい給うのが神想観であり、生長の家人類光明化運動であり、万物のまことの相なのである。

 神が、神の世界を生き給うのが神想観であり、生長の家の人類に臨んでいる相(すがた)なのである。ここに 『完成(ななつ)の燈台』 たる生長の家なるものの相(すがた)があるのであって、『完成の燈台』 とは、すべてにおいて、ひとつなるものを拝み出して、照らし出している燈台ということなのである。

 真理がすべての人類に開顕されるとは、真理みずからの展開がそこにあることなのである。

 生長の家人類光明化運動は地上天国建設運動ともよばれているが、地上天国とは、天国なるものがみずから地上に降臨している相(すがた)を言うのであって、天国は地上に顕われる、顕われない以前に、すでに天国であり、そのままでよいそのままなのである。

 今、ここに、天国と人類と生長の家と光明化運動とは目無堅間(めなしかつま)しているのである。 “ひとつ” であるということである。(1998.10.20)


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