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12復興G:2013/06/27(木) 06:02:13 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八

 「實相顕現」という言葉は、實相は円満完全であるから、みずから顕現する力をもっている、その實相がみずから顕現して来ることを意味しているのである。

 實相のほかに、それをあやつり、それを顕現させる別の何ものかが必要であるというのでは、實相は自性(そのままで)円満ではないということになるのである。顕れて来る力がみずからの内に円満されていないということになるのである。

 實相は完全であり、神であり、すべてのすべてであるから、實相とはなれたところで、それを観じたり、自覚したり、しなかったりというようなはなれたもののはたらきは要らないのである。

 それ故、五官によって、本を読むことによって、話を聴くことによって、心の中にイメージされたところから予想されるところのものはいくら尊げなものであっても、それは實相ではないのである。五官がなければ成り立たないもの、五官という外のものによって認められなければ存在しないもの、何ものかによって、観じられ、自覚せられ、みとめられなければならないものは決して實相ではないのである。それは實相ではなく、現象であり、無いものなのである。

 實相は観じられなければ、自覚されなければ無い、というようなものではなく、観る観ない、自覚するしないを超えてみずから在りて在るところのものなのである。

 實相は観る必要のないもの、自覚する必要のないもの、知る必要のないもの、みずから存在するものである。そのようなものとしてよろこぶことが、そしてそれが自分そのものであって、はなれていない、従って今ここに既にはじめのはじめから“それでよい”ところのものとして、よろこぶことが、尊師谷口雅春先生が 『生命の實相』 の中でお示し下さっている、「観ること」 であり、「自覚すること」 なのである。

 自覚するとは、自(みずか)ら覚めるという意味を表現した言葉なのである。

 自ら覚めるのであって、他から、五官を通して外から入って来たものによって覚めさせられるのは自覚ではなく他覚であると言わなければならないのである。

 實相なるもの、自性円満であるものが先ずあって、それが自(おの)ずから覚めて顕れ出て来て、本を読む姿となったり、話を聴く姿となって顕れて、自己展開しているのが 「自覚」 ということなのである。

 これが出龍宮顕斎殿(しゅつりゅうぐうけんさいでん)の建立が象徴しているものなのである。その建立の主旨として、「最早や人間の力では及ばない、神に直接お出まし願う」 ということが尊師谷口雅春先生のお言葉としてあるのであるが、即ち、神=實相には直接自分で顕現する力が備わっていると観じられているのである。

 人間の側の心によっていわゆる自覚や観ずることによって實相を引き出し、顕し出すということによってではなく、實相には自分で顕現し、展開する力が備わっているのであり、天照大御神は、天之岩戸(あまのいわと)を外の力によって開かれるというのではなく、外に居る神々も岩戸も高天原(たかあまはら)もすべては天照大御神が生み給い、生かし給うているのであるから、天之岩戸の内も外もすべては天照大御神そのものであるということであり、天照大御神はご自分の力で出(い)でまされたのであり、また、渾(すべ)ての渾てであり給う天照大御神は一度も隠れ給わず、露(ろ)堂々として全宇宙となって輝き出でましつづけであることを認めることが、あるべきものがあるべき姿にあること、浄まっていることなのである、と観じ、そして、はじめから 「天照大神出でましぬ」 となっていることを観じる時代(世紀)を迎えていることを象徴しているのが、出龍宮顕斎殿の建立なのであると拝察申し上げるのである。(1998.7.8)


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