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166復興G:2013/10/31(木) 15:18:19 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百十六

  「『迷』 が消える時、『迷』 の産物なる 『罪』 と 『病』 と 『死』 とは消える。」

 聖経 『甘露の法雨』 には、

  最初の夢無ければ
  次の夢なし。

 と書かれているのである。在るものを無いとし、無いものを在る、とする夢が 『迷』 であり、最初の夢なのである。

 生長の家の荘厳さは、在るものを在りとし、無きものを無いとしたところに有るのである。いくら在るように見えていても不完全なものは存在しないのであり、いくら見えなくとも無限、完全なるもののみが存在するということを鮮明にしたのが生長の家なのである。これが最初の夢よりの目覚めなのである。ただただ不完全なるものは實在に非ずというこの真理によって、『罪』 も 『病』 も 『死』 も消えたのである。

  罪は不完全なるが故に實在にあらず、

 と聖経 『甘露の法雨』 には書かれているのである。

 「迷は不完全なるが故に實在に非ず」 「病は不完全なるが故に實在に非ず」 「死は不完全なるが故に實在に非ず」 ということである。

 ただただ 「不完全なるが故に實在に非ず」 なのである。種類や量の多さや、時間的に長くあるからとかによるのではないのである。ただただ 「不完全なるが故に」 ということによって、全宇宙の不完全をひっくくって 「實在に非ず」 すなわち 「無い!!」 と消してしまったのである。

 それはただただ、神が、今、ここに在(ま)します、というただひとつのことによるのである。神なら如何にあり給うか。ただただ神は、見渡すかぎりご自分を見給うのである。神の世界を神が観給うのみの世界なのである。

 實相の世界には 『罪』 『病』 『死』 という観念そのものが存在しないのである。はるばると、弥(いや)ひろびろと神のみの世界が今ここにあるのみなのである。

 神がいませば不完全は實在しない。これは疑いようのない自然なことであり、事実なのである。疑う必要のない、疑いそのものが實在しない世界のみがあるのである。

 疑う必要がないのは、神は解る必要も、さらに信ずる必要もないからである。ただただ、神はいたるところご自分のみであり、神は神ご自身であり給うのみであり、そこには信ずる信じないの余地はないのである。

 また、神の子が神を信ずる前に、神が神の子を信じ、愛し、生かし給うているということがあるのみなのである。

 これが信ずる信じないを超えた、そのままそのものなのである。解る解らない信ずる信じない、は無いのである。ただただそのままがあるのみなのである。この 「そのままを生きよ」 ということが 「疑わずに吾が光を受けよ」 ということなのである。

 また、神はご自分が疑われていることを前提として 「疑わずに」 と言っておられるのではないのである。ただただそのままであれ、天然、自然、法然、法爾(ほうに)であれ、と宣(の)り給うているのみなのである。神示は法爾であり、神爾(かんながら)なのである。(1998.10.24)


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